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泣かなかった母


 父が亡くなってから、しばらくなる。

肝硬変から肝臓ガンになり、しばらく闘病生活を送っていたが、

看病の甲斐も無く、亡くなってしまった。

母が喪主を務め、最後のあいさつを私が泣きながらした。

普段だったら、からかってくる上司も、

何も言わず、黙って私の顔を見ていた。



 葬儀が終わり、遺骨を持って家に帰った時、

「それにしても、よく泣いたね」

と、お茶を入れながら母は私に行った。

それは当然だろう、父親が死んだんだ。

「やっぱり、あんたにとっては父親だからね」

と呟いた。



 祖母が亡くなった時、兄弟が亡くなった時、

確かに母は泣いていたが、

父が亡くなった時は、母は泣かなかった。

肉親が亡くなるのと、亭主が亡くなるのとは違うのだろう。

私は独り者なので、その感覚は分からない。

数十年もの間、他人と連れ添ったからこそ、

泣く事も無く、見送れたのかもしれない。



 日曜の夜、久しぶりに母から電話があった。

「電話の一本もないから、また風邪でも引いたのかと思った」

と電話口から母の声が聞こえた。

「風邪は引いていないよ、元気だよ」と答えると、

「この前、救急車に乗ったよ、もう疲れた〜」



 何事かと思い、聞いてみると、

町内で寄り合いがあって、年寄り連中が集まっていたら、

その中の一人が、突然気分が悪くなったみたいで倒れたらしい。

ちゃんと言葉も話せるし、脳梗塞ではないだろうと思ったらしいが、

誰かが救急車を呼んだらしく、

周りの目も、早く連れて行ってくれと、目で訴えていたとのことで、

仕方なく、母が付き添いで救急車に乗ったらしい。

そこでも色々あったみたいだが、

面倒くさいので、聞くのを止めた。





母に捧げるバラード

魚釣りはスポーツでは無い


 昔、近所のガキ大将が釣りに行きたい、

釣りに行かないといけない、釣りに行くぞ〜、と言いだし、

そのガキ大将は、釣り竿等を買い、

海釣りに出かけたところ、思った以上に釣れたため、

私たち子分は釣りに行く羽目になり、

それぞれが釣り道具を買って来るように言い渡された。



 で、仕方なく家に帰って親に、

釣りに行きたいから釣り道具を買って、とねだると、

以外にも釣り道具を買ってくれた。

しかし、投げ釣り用の本格的な奴で、

子供が扱うのは少々無理があるやつだったが、

それでも休みの日に、そのガキ大将と海に行き、

堤防で魚釣りを始めたが、



釣れない。



 それで、私の釣り人生は終わったのだが、

その釣り道具がもったいないと、親父が釣りを始めたところ、

見事に、はまった。



 休みの前の日から狙いの魚の仕掛けを作り始め、

休みの日には、一日釣り三昧になり、

最後には、仕事があろうとなかろうと、夜釣りに行き、

朝帰ってくると、それから仕事に行き、

家に帰ると仮眠を取ったと思う間もなく、また夜釣り。

おかげで我が家は魚を買う事が無くなったのは良いが、

同じ魚を手を変え品を変え、

刺身、焼き魚、煮魚、天ぷら、等々、

魚尽くしの日々が始まった。



 我が家の飼い猫はそのおかげで、舌が肥えたのか、

新鮮な刺身しか食べなくなり、

一日たった刺身には目もくれず、

新鮮な刺身が食べたいと、母親の足に身体を擦りつけるように、

おねだりするようになった。



 母親は、毎日釣ってくる魚に手を焼き、

隣近所に配っていたが、それが毎日だと、

さすがに、ご近所様も迷惑がかかると思ったのか、

魚を配るのを数日控えたが、

冷蔵庫は魚ですぐに一杯になり、

またもや、隣近所に魚を配る日が復活した。



「いいですね〜、お宅は。

ご主人が毎日新鮮な魚を釣ってきて」

とよく言われたらしいが、

「釣りの餌代が大変なんですよ〜」

と言い返すも、

ご近所様は、餌代がそんなに大変だと思っていないので、

「でも新鮮な魚が食べられて羨ましいわ。

それに引き換え、うちの主人は無趣味で・・・」

と言われると、

母親は、父親が無趣味な方がどれだけ良かったか、

と言いたくなるのを必死で我慢したらしい。



 父親は船に酔うので、船釣りには行かなかったのが、

せめてもの幸いである。

もし船釣りにも行っていようものなら、

魚の数も、釣りにかかる費用も、

相当な物になっていただろう。



 雨が降ろうと、風が吹こうと、いついかなる時も、

釣りに行っていたが、

釣り仲間によると、釣りは相当うまかったようで、

みんなが釣れなくても、

父親だけは釣れていた事が多かったらしい。



 普段、釣ってきた魚は母親がさばき、

父親は手袋をしていないと魚に触れなかった。

魚臭いのが手に移るのを嫌い、魚に触るのも拒んでいた。

魚を食べるのも、そんなに好きではなかったし、

ただ、釣るのが好きだったのだ。



 おかげで私たち家族は、父親を除いてだが、

魚を食べるのがうまくなった。

骨についた肉をきれいに食べるので、

よく、魚をきれいに食べるねと、褒められたものだ。



 たまにテレビで釣り番組を見る事がある。

その際、気になるのがキャッチアンドリリースというやつだ。

釣った魚を食べずに、それをまた逃がしている。

特にルアー釣りで、ブラックバスを釣る番組を見ていると、

腹立たしく思ってしまう。

釣ったら食え、と。



 釣りはスポーツだ、と言っている奴は、

バカじゃないかと思っている。

生きている物を扱っておいて、スポーツだと言い張るのは、

おかしいだろう。



 ブラックバスは外来種で、

釣りを楽しみたいがためだけのために、

ブラックバスを池や川に放流したのだ。

誰が放流したのか、今はもう分からないが、

琵琶湖では、ブラックバスが増えてきたため、

琵琶湖の本来の生態系が破壊されてきているのだという。



 釣ったら持ちかえらせるようにできないものかと思うのだが、

それをしないのは、行政の責任ではないのだろうか。



ちなみに私はあれ以来、釣りには行っていない。






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恋と買い物は早い者勝ち


 あれはいつの頃だっただろう、

と言いながら、何時だっかははっきり覚えているのだが、

色々と差しさわりがあるので、あの頃だという事にしておこう。



 すっごい美人さんがいた。

その美人さんは、ミス何とかだったのだが、

男同士4人で映画を見に行った時に知り合った。



 映画の後、お茶を飲んでいた時に、

隣で同じ映画のパンフレットを持っていたので、

私が声をかけ、6人でお茶を飲みながら映画の話をし、

私は結構頑張って話を盛り上げ、

最後に電話番号を交換して別れたのだが、

感触は十分である。



 私には当時付き合っている子がいたのだが、

しかし一応、私も礼儀正しい紳士であるからして、

電話をするのにやぶさかではない。

翌日電話をしようとしたら、

一緒に映画を見に行った奴が、

「次の日にすぐ電話をしたら、がっついているみたいで

止めた方が良い。余裕を持って1週間後が良い。俺もそうするから」

と、友人が言うので、私たちはその友人を信じて

1週間待って電話はかけてみたが、

どうも遅すぎたようだ。

1週間後にしたら、と言った私の友人と付き合うようになったらしい。

そして今は、子供もいるようである。



先日、友人と服を買いに行った時の事だ。

服のセンスのいい友人と行った方が時間を有効に使える。



 店に入ると、良いジャケットが2着見つかり、

どちらにしようか迷っていた。

欲しい方がちょっと高く、お金が足りない。

友人から借りれば払えるかもしれないが、借りるのは嫌だ。

悩んでいたら、別の客にすぐさま買われた。



恋と買い物は早い者勝ちである。




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2012年のまとめ(防備録)


明けましてお芽出度う御座以ま寸

本年も宜しくお願い申し上げます


ということで、それでは2012年をまとめてみようか。


1月:

オウム真理教平田信容疑者が出頭

野田改造内閣発足

全豪オープン男子シングルス錦織圭選手がベスト8進出

1月7日二谷英明死去



2月:

半導体メモリー世界3位のエルピーダメモリが会社更生法申請

オリンパス粉飾決算事件で菊川剛・前会長ら旧経営陣3人逮捕

AIJ投資顧問の年金資産消失

光市母子殺害事件で元少年の死刑確定

2月9日大平シロー死去

2月11日 ホイットニー・ヒューストン死去

2月22日北公次死去



3月:

ドナルド・キーン氏が日本国籍を取得

格安航空会社(LCC)、ピーチ・アビエーション就航

3月11日ブログを始める

3月7日山口美江死去



4月:

ダルビッシュ・大リーグのテキサス・レンジャーズに移籍

4月8日安岡力也死去



5月;

香川真司、マンチェスターUへ移籍

東京スカイツリーが開業

日本各地で金環日食

5月17日ドナ・サマー死去

5月31日尾崎紀世彦死去



6月:

オウム真理教菊地直子・高橋克也容疑者が逮捕

6月6日「ひげの殿下」三笠宮家寛仁さま、ご逝去

6月6日レイ・ブラッドベリ死去

6月28日小野ヤスシ死去

6月29日地井武男死去



7月:

ロンドンオリンピック開幕、7月27日から8月12日

牛レバーの生食禁止

オスプレイが米軍岩国基地に搬入

7月8日アーネスト・ボーグナイン死去



8月:

韓国の李明博大統領が竹島を訪問

8月8日山本美香死去、シリアでの取材中政府軍の銃撃により殺害



9月:

尖閣諸島を国有化

65歳以上が初の3000万人超え

9月25日アンディ・ウィリアムス死去



10月:

京都大学の山中伸弥教授がノーベル医学生理学賞を受賞

尼崎連続変死事件

10月2日大滝秀治死去

10月3日馬渕晴子死去

10月13日丸谷才一死去

10月17日若松孝二死去

10月17日シルビア・クリステル死去

10月26日桑名正博死去

10月30日藤本義一死去



11月:

アメリカ合衆国大統領選

11月10日森光子死去

11月10日桜井センリ死去

11月19日宮史郎死去



12月:

衆院選で自民圧勝し政権交代

今年の漢字は「金」

松井秀喜引退

12月5日中村勘三郎死去

12月10日小沢昭一死去

12月18日米長邦雄死去








猫が飛んで父が叫んだ日


ちょっと長いが、忘れるのが嫌なのでここに書いておく。



 私がまだ実家に住んでいた頃の話なので、

もうずいぶん昔の話になる。

今は亡き父が、まだ元気な頃だ。



 今は改修して、私が住んでいた頃の家とは

全く違うものになっているが、

まだ猫を飼っていた時の話になる。

古い2階建ての木造の家だ。



 丁度お盆前に、父がお尻が痛いと言いだした。

肝臓が悪かった父は、いつもいく病院には

行きたくないようで、家で我慢していた。

今思えば、痔ろうだったんだと思う。

肛門の横が化膿して穴が開いていたらしい。



 確かに行きつけの病院で、いつも軽口を

看護婦に言っていた父が、その看護婦の前で、

お尻を、しかも痔ではないかと思っていたので、

肛門を見せることに対して、嫌悪感というか、

抵抗していたのは、もっともな話だ。



しかし痛みはだんだんとひどくなっていき、

最後は動くのもやっと、というくらいになってきて

さすがに父もこれはやばいと思ったようで、

病院に行く気になったようだ。



 しかし、その時はすでに遅く、

病院はどこも盆休みになっていた。

何故その時救急病院に行かなかったのかは分からないが、

父は家の中で待機することになった。



 しかし、淋しがり屋の父は、

自室である2階で待機しているのは淋しかったみたいで、

1階にある居間で寝る事を選んだ。

しかし、2階建てとはいえ、狭い家である。

家族全員、居間でテレビを見て、居間で食事をして、

居間で猫と遊ぶのだ。



そんな雑踏の中で、しかし父は頑なに動こうとしなかった。

いや、既に動けなくなっていた。



お盆休みは始まったばかりである。



 その頃買っていた猫は、黒猫で、

なかなかに可愛い猫だった。

情に厚く、涙もろく、優しい猫だった。



ただ、舌はグルメでな猫で、

できたての刺身しか食べなかった。

これは父親の釣り好きの影響だ。

魚臭くなると言って、魚を触るのも嫌がった父だったが、

唯一の趣味が釣りだった。



お盆休みの3日間、父は我慢強く唸っていた。

居間の隅っこで。



 私たち家族は、その3日間、テレビの音量を下げ、

猫が走り回るのを阻止するために、猫を抱き、

食事は手短に済ませた。



 その3日間は、父の唸り声を聞きながら過ごしたものだ。

ちょっと油断して、テレビの音量を大きくすると、

「うるさい」と、どなる。

食事は、寝たまま取る。

トイレの時は一大事業で、母親がひ〜こら言いながら、

トイレまで連れて行った。



そして情に厚い猫は、私たちに恩返ししようと、

ネズミを捕まえようと家中を走り回る。



 そんな、鬱屈したお昼だった。

今日でお盆休みが終わり、明日は待望の病院行きだ、

と皆油断している中、我が家の猫だけは、

いつも魚を釣ってきてくれる父に、

恩返しをする時をねらっていたらしい。



その時猫は、家の隅っこで、

黒い物が動いているのを発見したらしい。

いや、発見したのだ。



 お尻を高く上げ、今にも飛びかからんとする姿勢は、

なかなかカッコいいものがあるが、

私たち家族全員、猫を止めようとしたが、

間に合わなかった。



猫が飛んだ。



 黒い物体は、縦横無尽に走り回り、

猫はそれを追いかけ、居間中を駆け回り、

私たちは新聞紙を持って、あたりをキョロキョロし、

普段は静かなおばあちゃんまで立ちあがっていた。



 父は、動こうにも動けず、

ウ〜ウ〜唸ってばかりいたが、

その父の上を猫は走った。

猫に飛び乗られた父は、きっと痛かったのだろう。

「うるさい、走るな、静かにしろ!」

と、猫に叫ぶと、同時に

黒い物体は気配を消した。

猫は走り回るのを止めた。



 私たちは静かに新聞紙を持ったまま、

辺りを警戒しながら座った。

妹は猫を抱き抱えた。

おばあちゃんは、静かにお茶を飲み始めた。

母は台所へ逃げた。



父の唸り声はちょっと大きくなった。



 翌日、私の運転で車で病院へ行った。

道路のちょっとしたデコボコにも

ウ〜ウ〜唸り、

できるだけお尻に響かないように、

両腕で全体重を支えながら車に乗り込んだ父。



 それからすぐに入院し、手術をして、

無事に退院してきたが、

それ以来、トイレに行った後は、

必ずシャワーを浴びるようになった。



その当時はまだウォシュレットが

あったのかどうだったのか定かではない。



 父が亡くなるまで、この話は

我が家の鉄板ネタで、父の機嫌が悪い時でも

この話をすると、いつも笑っていた。



しかし今では、この話は笑い話のはずなのに、

涙が出てくる。








若い頃のアルバイト経験は役に立つのか


 学生の頃から私はあまりアルバイトをしたことがない。

全く無い訳ではないが、それでも、今の学生に比べると

少ない方だろうと思う。



 数えてみると、

肉屋、酒屋、解体屋、ガーデナー(庭師)、造園。

たった五つしかない。

まぁ、酒屋以外は短期のバイトなので、

数には入らないのかもしれないが。



 一番長くしたのは酒屋のバイトで、学校が休みの時は、

いつもお世話になっていた。



配達が主な仕事で、近場の配達は自転車か、

宅配が使っているような、台車を使って配達する。

自転車の後ろの荷台に、ビールケースを載せ、

落としたら弁償だ〜、と思いながらペダルをこいだ。



 唯一の楽しみは、仕事終わりにちょっと変わった

お酒を、先輩が飲ましてくれることだった。

聞いたことも無いブランデーやウィスキー、

ワインを、お店の人に隠れて飲んでいた。

初めて、富貴ワインを飲んだのもこの時だ。

味は全く覚えていないが。



 ガーデナーと造園は、アメリカにいた時にしたバイトだ。

私は学生ビザだったので、働く事が出来なかったが、

知り合いが、ガーデナー(庭師)をしていたので、

お手伝いすることができた。

自給いくらだったのかは、覚えていないが、

多分安かっただろう。

単純なおこずかい稼ぎでしかなかった。



 アメリカでは、今でも多いのか分からないが、

ガーデナーをしている人が、その当時は多くいた。

特に日本人でガーデナーをしている人が多く、

多分、盆栽をしている人が日本人に多く、

海外でも、盆栽の人気が高かったためと、

日本人の几帳面さ、勤勉さを

高く評価されていたためだろうと思う。

盆栽をしているくらいだから、きっと

ガーデナーとしても有能だろうと、

アメリカ人は単純に思ったのかもしれない。








芝刈り機 

ブリッティシュモアー
57,750円



 使っていた芝刈り機は、ガソリンを使い、後ろには

刈り取った芝を入れる袋が付いていたので、

ゴミとして、それはトラックに積んで持ち帰った。



 私の知り合いは、芝生を刈るだけでなく、

庭に生えている木や、花の世話もしていた。

私は芝刈り専門だ。

それ以外はさせてくれなかった。

それでも、芝を刈った事が今まで無かった私にとって、

芝を刈るというのは、映画のワンシーンのようで、

ちょっと楽しみな、心が躍る出来事だった。



 アメリカ映画を見ていると、休日に芝を刈るシーンを

見たことがあると思う。

芝生の整備をちゃんとしない家は、

それなりの人が住んでいるとみなされるので

無理をしてでも、芝を刈る。

だからこそ、ガーデナーという職が

アメリカでは成り立っているのだ。



 私はその芝刈り機で、庭に置いてあるホースをズタズタにしたり、

庭に飾ってあった花瓶を壊したり、

それはもう、情けない話である。



 学校が忙しくなって、辞めざるを得なくなり、

仕方なく辞めてしまったが、

芝を刈った後の匂いをたまに思い出す。



それは、ちょっとむせかえる様な、ムッとした、

私にとってのアメリカの匂いでもある。





 しかし、社会人になって、つらつらと思い起こせば、

アルバイトで得た経験は、非常に役に立っている、

又は全然役に立っていない、と両極端に

分かれるだろう。

アメリカでしたガーデナーのアルバイトは、

日本に帰ってきてから、腕をふるう機会も無く、

私にとっては、宝の持ち腐れである。



すごくうまく芝を刈ることができるので、

ご希望の方は、お問い合わせください(笑)

時間はスローモーションのように流れて消える


 人は死ぬ時、走馬灯のように、

今まで過ごしてきた過去の事が見えるらしい。



 そんな経験は今までしたことが無いので

断言はできないが、

まるでスローモーションのように、

時間が流れていくことは経験したことがある。



高速道路でスピンした時。



 前なんだか後ろなんだか、それとも横なんだか、

自分がただ回っているだけなんだが、

あ〜、終わったな、

ビデオ(その当時)をまだ返してなかったなぁ。

冷凍庫のアイスどうしよう、

と、考えていた。



 しかし、何事も無く車は回る事を止め、

左前部分をガードレールに擦っただけで、

左ライトは駄目になったが、自分自身は無傷。

その後、足が震えてきて、

ハザードランプをつけるの一苦労した。

死ぬかと思った。



 スキーに行って、やっとパラレルが出来るようになった頃、

直滑降で滑っていて、どうする事も出来ず、

こけた。



 あ〜、よし怪我は無いみたいだ、手足も痛くないし、

と思って立ち上がろうとした時、

左耳のあたりで、「ザクッ」とすごい音がしたので見てみると、

スキー板が刺さっていた。



あと10cmずれていたら、と思ったら、

ちょっと、漏らした。



 ちょっとコジャレたカクテルバーに女の子と行った時、

そこのマスターが、今一杯なので

席を作るから、ちょっと外で待っていて欲しい、

と言われたので、外で待っていたら、

男3人組が出てきた。



 ありがとうございます。と言ったら、

「笑いながら言うな」、と

突然、蹴りを入れてきた。

マジですか。



 そこへマスターが現れ、その場をとりなしてくれたが、

こちらは女性と一緒なので、逃げられない状況。

逃げたら、この女性とも終わってしまうし、

よく来てくれた!マスター様。



店に入って話を聞くと、たまに顔を出す、

ヤ○ザ関係の人で、普段は優しい方ですよ、との事。

(((p(>o<)q))) いやぁぁぁ



 あの時、マスター様が現れてくれなかったら、

ここで、ブログを書いている事は、

永久に来なかったかもしれない。



やはり、日頃の行いが良い所為かも知れない。











風船ではだめ!あくまでもコンドーさんである


 ん〜、悩んでいる。

下ネタを書くつもりは無いのだが、

話がそちら方面に行くと、アクセスが増えるのだ。



私としては、そのつもりが無くても、

下ネタ大好き人間の私としては、

近い将来、とんでもない恥ずかしい話を

ブログでうpしてしまわないかと、恐れている。



冷静に分析してみると、

みんな下ネタが好きなのだ。

(何を分析したんだ、という話は置いといて)



しかし、ここは心を鬼にして、誘惑を振り切り、

少し恥ずかしいが、私の心温まる、

健全な青春時代の話をしよう。



おいべっさんに行った時の話だが、



 「おいべっさん」とは何か、

分からない人はいないと思っていたら、

なんだか方言だったらしく、

恵比寿祭り、十日恵比寿のお祭りの事を言うが、

東京では通じなかったので、悔しい思いをした。

いずれにしても、恵比寿神社であるお祭りの事を

総称して、「おいべっさん」と呼んでいた。



 おいべっさんの説明はともかくとして、

高校2年の夏だったか、

学校で、コンドーさんに水を入れて、

人にぶつける遊びが流行った事がある。



風船ではだめで、あくまでもコンドーさんなのである。



風船でやると、

「お前は男じゃない」

「勇気が無い」

「意気地なし」

と散々な言われようである。



そこで仕方なしに、薬局まで言って、

コンドーさんを買う訳であるが、

いたいけな、まだ親離れのできていない、

少年である私たちにとって、

コンドーさんを買うには、少しばかりの勇気と、

少しどころではない、大金が必要だった。

なんせ、10個、20個と大量に仕入れるのだから。



 誰でも一度は経験があると思う。

学校にコンドーさんを持ってきて、見せびらかす奴。

そして、どれだけ強度があるのか試そうと、

水を入れて遊んだ事。



それで昼休みの時間になると、

我先にと、みんなコンドーさんを持って

水道の場所まで走るのである。



その時には、お弁当を食べる暇は無く、

(お弁当は母が作っていたが、甘い卵焼きが美味しいのだ)

放課後、皆で集まってお弁当を食べて帰ったものだ。



だから、昼休みが終わる頃には、全員びしょ濡れ。



途中からすぐに、多大の出費に耐えかねて風船に変わったが、

今もって、何が面白かったのかわからない。



 多分若い時特有の熱に浮かされた状態だったのだろう。

途中、巻き込まれた女子生徒のブラが、

透けて見えた時の興奮。

申し訳ないという気持ちと、もう一回ぶつけたい、

と思う気持ちの葛藤。



そんな遊びも、先生たちの知るところとなり、

5日程で、禁止令が出て、終息を迎えた。



いや、この話をするつもりはなかったのだ。

おいべっさんの時の話をするつもりだったのだ。



えっ、長い?



すみません。

それでは次回に、ということで。














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クラゲに刺されて夏の終わりを感じる


 福岡という街は、魚がおいしい。

海が近くにあるというだけで、その恩恵を受けているが、

ゴマ鯖や、飛び魚の刺身など、食べるたびに

やっぱり福岡は良いなとおもってしまう。



 ラーメンもうまいし、もつ鍋もおいしい。

東京で行列を作っているような店でも、

福岡に来れば、並か、それ以下に

なるのではないかと思っている。

それぐらいうまい店が多い。



 しかしこれも多分ひいき目で見ているので、

他の地域に住んでいる人も、同じように

思っているだろう。

いずれにしても、故郷バンザイである。



 朝の通勤途中、いつも橋を渡って駅に向かう。

何という川なのかは知らないが、

たまに魚が3〜4匹(匹で良かったのか?)の

グループで泳いでいるのを見かけていたが、

今日初めてクラゲが10個ほど浮いていた。

丸いクラゲで、すでに死んでいたのかもしれないが、

10個とは結構な数ではないかと、思っている。



確かに海と繋がっているので、

クラゲが浮いていても不思議じゃないと言えば、

取り立てて不思議ではない。



電車に乗り遅れるので、写真等は取れなかったが、

帰りには、もういないだろうと思うと、

少し残念な気がする。



 クラゲには毎夏、刺された。

私たちは、刺すクラゲのことを、「イラ」と呼んでいたが、

多分、地域だけに伝わる言葉なんだろうけれど、

お盆が過ぎると、確実に現れて、

確実に私を刺して去って行った。



 夏の朝、ボートで沖に出ると、「イラ」の大群が、

浜辺に向かって泳いでいるのを見る事が出来る。

形は四角錐で、全長は3cmぐらいか?

足が何本なのか知らないが、ある。



 そのボートに乗って「イラ」を見ていた時、

いとこのお兄ちゃんにボートを揺らされて

「イラ」の大群の中に落ちそうになり、

「もう、お兄ちゃん好かん」

と、泣きながら帰った記憶がある。



 「イラ」に刺されると、刺された部分だけ

電気の刺激を受けたように、ビビッとくる。



 何故クラゲは透明なのか、海の中では見えにくく、

もしクラゲの色が赤色だったら刺されないのにと、

子供の頃は思っていた。

まぁ、赤いクラゲがいても、刺されただろうが。



刺されてしまうと、その部分は赤く、

スジ状に腫れてしまう。

足に毒を持っているのでスジ状になるのだろう。



 アンモニアを塗って終わり、

という、非常に簡単な処置で治療は終わってしまう。

病院に行く訳でもなく、母親が塗るだけだ。



 「イラ」が出てくると、夏の終わりを実感する。

刺されてから実感するのも、間抜けな話だが、

それでも、夕日はオレンジ色がだんだんと強くなり、

海で泳ぐ人もめっきりと減り、

夜になると、線香花火が物悲しい。







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小学校の時の埋もれた記憶


 小学校の低学年の頃、私は太っていて、

いつも半ズボンの股の部分が破れてしまい、

母親に修繕してもらい、穿いていた。

走るのが遅く、運動神経は自分にはないものと思っていた。

しかも喘息になったものだから、なおさらだ。

だから、運動会がとても嫌いで、特にかけっこ。

人の後ろ姿を見ながら、いつも走っていた気がする。

どうせ負けるんだからと、中途半端に走っていた。

いつも髪の毛は寝癖が付いたまま学校に行っていたし、

本当に目立たない、おとなしい、中途半端な子だった。



そんな私も小学校の高学年になると、

ぜんそくも治り、野球を始めたせいか、

みるみると痩せ始めた。



そして、ある体育の授業の時、

50mのタイムを計る事になり、

私はその時、7秒丁度の記録をだした。

私はいつの間にか、走るのが早くなったらしい。



それから、運動会ではリレーの選手になった。

学級委員にもなった。

単に少し痩せて、走るのが少し早くなっただけなのに。

いつの間にか、私の第一期モテキが始まった(笑)



 そんな時、一人の女の子が転校してきた。

仮にA子としよう。

おかっぱ頭で、少し声が高く、でもきれいで正義感の強い子だった。



一つ異分子がクラスに混ざるだけで、

クラスはバラバラになった。



 そのA子は、クラスの暴れん坊のイジメの対象にされた。

ガタイがでかくて、運動ができると、何故いじめっ子になるのだろう。

いつも名前を呼ばれず、ウ〇子と呼ばれ始めた。

A子とは口をきくな、と命令された。

A子がそばにいると、いつも臭い、臭い、と騒いでいた。

(小学生はウ〇コが異常に好きな生き物だが・・・)



クラスの人たちは静観していた。

私もその中の一人。

あえて、いじめっ子に逆らう訳にもいかず、

かといって、言いなりになるのも悔しい。

だから、話しかけられたら、答えるというスタンス。

我ながら情けない話である。



そうこうしている間に、対立はいつの間にか、

いじめっ子対A子だったものが、

男子対女子の構図になり、

いつの間にか冷戦が停戦となり、終戦となった。

女性同士のイジメは陰湿だと聞いたことがあるが、

逆にその団結力にも、怖いものがあったのだろう。



 ちょっと前に、小学校の同窓会があった。

その時A子は着ていたが、いじめっ子の方は来ていなかった。

挨拶をして、あの時の事を話したが、

A子は笑って、ねぇ、と一言言っただけだった。



小学校の時、初めてイジメとわかる状況に

遭遇した時の話だ。





それから、中学、高校となってくると、

私はイジメにあったことも、したこともない。



いじめられた側と、いじめた側とでは、

その思い出の差に唖然としてしまうことがある。

いじめた側の記憶は薄っぺらで曖昧で、しかし、

いじめられた側は、鮮烈な記憶を持ち続けている



 私はイジメにあったことも、したこともないはずなのだが、

そうではなかったらしい、と思い至ったのは、

中学の同級生と話をしていた時だ。

まったくもって思い出せないのだが、

同級生から聞いた話は、また次の機会に。



イジメはやめましょう、

といっても、止めない人もいるかと思うが

イジメで受けた傷は、治りが遅いのは確かだ。









バナナはお菓子ではありません!

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