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2015年09月28日
2015年09月27日のつぶやき
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2015年09月27日
なにが幸せか不幸かは、自分の脳のくせが全てを決めている!
「どうして私だけこんなに不幸な毎日なんだろう」
こんな風に想っている人間が世の中にどれだけいることか。
表面には思いを出さないだけで潜在的にそう言う想いに
悩まされながら日々の生活を強いられている人たちは多いのかも
しれません。
そういうときは、どうすれば良いか?
それは人それぞれであろうと思いますが、まず、
「なにがそんなに不幸だと想うのか?」
それを把握する必要はあると思います。
そして、その逆もそうです。
「どういう状態になれば自分は幸せなのか?」
たいてい、こういう話をすると、
「不幸な話」はよりリアルで現実的な話。
「幸せな話」はより妄想的で現実離れした話になります。
ACで悩まされている人の一つは、自分の幸せラインの
ハードルの高さでもあります。
「お金の苦労がなくて、自分のことを理解してくれるパートナーがいて、物わかりの良いできた子どもがいたらしあわせなのに」
子どもを持つ親ならそんな妄想を考えるかもしれません。
独身時代は、自分の生活、自分の食べるもの、自分の支払う物
だけを管理していれば事足りていた生活が、結婚して子どもが出来ると
決して自分の思い通りにと言うわけには現実的にいきません。
・旦那(嫁)は良き理解者になってくれない。
・子どもは言うことを聞いてくれない。
・親は自分の考えを押しつける。
・家計のやりくりに必死で頭がパンクしそう。
そこで自分の逃げ場になるのが妄想でもあるわけです。
非現実的なことで現実逃避して脳を休めるしかないんですよね。
そのぐらい世の中の専業主婦の人は頭を酷使しているのだと思います。
こんな状態ですと、幸せそうな人をみるとねたみやうらやましいという
気持ちが沸々と湧いてくることになります。
悩みの根源は人と比較をすること。比較などしなけりゃ悩まなくて済む
わけですが、そうは自分の脳みそは簡単にいかないのですよね。
なにもしない完璧主義者と言われるACは、妄想はいうけど、
それをするために、具体的になにをしようかまでは実行しません。
理想という名の妄想が目標点になっているから、いつになっても
幸せな気持ちなんか湧いてくるはずもないのです。
「お金に苦労しないって…」、とはいえ、あればあるで苦労はするんです。
もちろんないから苦労するわけですが、毎日食べ物がなくて
栄養失調で死んでしまうような生活をしている人の方がすくないわけで。
ぜいたくはしたいけど、なにもしないでそれを得たいといっているようなもの。
こういう気持ちの人が多いため、不労所得で数百万円!とかそう言う情報商材が
人気になってしまうのです。
本当は、毎日食事できているということも十分幸せ要素なのです。
「理解してくれるパートナーが…」
自分の全てを分かってくれるパートナーなど世界中探してもどこにもいません。
100%以上の理解を求めつづけているため、切りがありません。
離婚して、再スタートしても幸せの理想をここにおいていると、同じ失敗をします。
ハードルが高いんです。自分の50%分かってくれる人ぐらいが目標でないと。
よく考えてみて下さい。自分は相手のことを100%近く分かっているつもりだという
人っていますか?親でもパートナーでも、子どもでも、親戚でも、同僚でも良いです。
中々見つからないのではないでしょうか。もし全て分かっていると思うなら、それが
自分自身の驕りであることが分かっていないのでしょう。
そのぐらい人が考えることってそれぞれで異なるのです。
「できの良い子どもなら…」
子どものできが良かったら幸せなのでしょうか?言うことを聞くと幸せなのでしょうか?
子ども本人が幸せだとおもっているなら良いですが、
これはあくまで親のエゴです。できが良い子どもを持った親という
周りからの視線だけがポイントになってます。
あんな立派な子に育てた親はさぞ素晴らしいだろうという自分へ向けられる
周りからの評価を気にしているからそんなことを切望してしまうのです。
子どもも1人の人間であると言うことが理解できないと、
勝手に一心同体的な考えて、自分の価値感を押しつけることになります。
結果的に、自分がどう考えて、どう思っているかが幸せか不幸かを決めています。
幸せを目指して行くには、他人でなくまず自分自身が問題であるという事に気づくことでしょう。
企業サイトや人気サイトの運用実績多数!月額1,000円(税抜)〜の高スペックレンタルサーバーヘテムル
こんな風に想っている人間が世の中にどれだけいることか。
表面には思いを出さないだけで潜在的にそう言う想いに
悩まされながら日々の生活を強いられている人たちは多いのかも
しれません。
そういうときは、どうすれば良いか?
それは人それぞれであろうと思いますが、まず、
「なにがそんなに不幸だと想うのか?」
それを把握する必要はあると思います。
そして、その逆もそうです。
「どういう状態になれば自分は幸せなのか?」
たいてい、こういう話をすると、
「不幸な話」はよりリアルで現実的な話。
「幸せな話」はより妄想的で現実離れした話になります。
ACで悩まされている人の一つは、自分の幸せラインの
ハードルの高さでもあります。
「お金の苦労がなくて、自分のことを理解してくれるパートナーがいて、物わかりの良いできた子どもがいたらしあわせなのに」
子どもを持つ親ならそんな妄想を考えるかもしれません。
独身時代は、自分の生活、自分の食べるもの、自分の支払う物
だけを管理していれば事足りていた生活が、結婚して子どもが出来ると
決して自分の思い通りにと言うわけには現実的にいきません。
・旦那(嫁)は良き理解者になってくれない。
・子どもは言うことを聞いてくれない。
・親は自分の考えを押しつける。
・家計のやりくりに必死で頭がパンクしそう。
そこで自分の逃げ場になるのが妄想でもあるわけです。
非現実的なことで現実逃避して脳を休めるしかないんですよね。
そのぐらい世の中の専業主婦の人は頭を酷使しているのだと思います。
こんな状態ですと、幸せそうな人をみるとねたみやうらやましいという
気持ちが沸々と湧いてくることになります。
悩みの根源は人と比較をすること。比較などしなけりゃ悩まなくて済む
わけですが、そうは自分の脳みそは簡単にいかないのですよね。
なにもしない完璧主義者と言われるACは、妄想はいうけど、
それをするために、具体的になにをしようかまでは実行しません。
理想という名の妄想が目標点になっているから、いつになっても
幸せな気持ちなんか湧いてくるはずもないのです。
「お金に苦労しないって…」、とはいえ、あればあるで苦労はするんです。
もちろんないから苦労するわけですが、毎日食べ物がなくて
栄養失調で死んでしまうような生活をしている人の方がすくないわけで。
ぜいたくはしたいけど、なにもしないでそれを得たいといっているようなもの。
こういう気持ちの人が多いため、不労所得で数百万円!とかそう言う情報商材が
人気になってしまうのです。
本当は、毎日食事できているということも十分幸せ要素なのです。
「理解してくれるパートナーが…」
自分の全てを分かってくれるパートナーなど世界中探してもどこにもいません。
100%以上の理解を求めつづけているため、切りがありません。
離婚して、再スタートしても幸せの理想をここにおいていると、同じ失敗をします。
ハードルが高いんです。自分の50%分かってくれる人ぐらいが目標でないと。
よく考えてみて下さい。自分は相手のことを100%近く分かっているつもりだという
人っていますか?親でもパートナーでも、子どもでも、親戚でも、同僚でも良いです。
中々見つからないのではないでしょうか。もし全て分かっていると思うなら、それが
自分自身の驕りであることが分かっていないのでしょう。
そのぐらい人が考えることってそれぞれで異なるのです。
「できの良い子どもなら…」
子どものできが良かったら幸せなのでしょうか?言うことを聞くと幸せなのでしょうか?
子ども本人が幸せだとおもっているなら良いですが、
これはあくまで親のエゴです。できが良い子どもを持った親という
周りからの視線だけがポイントになってます。
あんな立派な子に育てた親はさぞ素晴らしいだろうという自分へ向けられる
周りからの評価を気にしているからそんなことを切望してしまうのです。
子どもも1人の人間であると言うことが理解できないと、
勝手に一心同体的な考えて、自分の価値感を押しつけることになります。
結果的に、自分がどう考えて、どう思っているかが幸せか不幸かを決めています。
幸せを目指して行くには、他人でなくまず自分自身が問題であるという事に気づくことでしょう。
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2015年09月26日
愛を知らない親が、愛を求めて、我が子に条件付きの愛を押しつける。
「愛情」とはいったいなんなのだろう。
愛があるから結婚して、子孫を残す。
そして、子孫にも愛を育み命を伝承していく。
私の母親は、小さい頃そんなことを言っていたような気がします。
とても熱く語っており、しかしどことなく
悲しい目つきで…
自分の子どもには本当の愛情というものをみつけなさい!
そんな風に押しつけられているような感じでした。
そんな母親も本当の愛情という物が分からなかったのだろうと、
そして今でも分かっていないのだろうと思います。
私たちが無意識に子どものためと思っていることは、
本当に愛しているという気持ちもあるとは思いますが、
ほとんどが「条件付きの愛」です。
「私がこんなにあなたのことを想っているのだから、その気持ちを返すべきだ」
「私が自分を犠牲にして子育てをしたのだから、子どもとして老後の面倒はみるべきだ」
「私があなたに今まで尽くしてきたのだから、尽くした分気持ちを返せ!」
「なに不自由ない生活をさせてあげたのだから、私の意見も聞くべきだ!」
こんな風に想うのがいけないといことではないとおもいます。
むしろ、そう思って苦しんだり、親子間、夫婦間でトラブルになったり
している人の方が多いでしょうから。
ただ、そう思ってしまうのはどうしてなのでしょう。
何か見返りが欲しいからやったのでしょうか?
おそらく、その瞬間は見返りよりも使命感や責任感で
乗り越えてきている人が多いのだと想います。
しかし、自分がやりたいからやったかというとそうではないのです。
「仕方なくやった。」
「どうしようもないからやった。」
「見るに見かねてやった」
「他にやる人がいないからやった」
決して、「わたしがやりたいからやった」という気持ちがないのです。
自分が好きでやったのであれば、実は結果がどうであれあまり
人から見返りをもらいたい気持ちは湧いてこないのです。
見返りなんて想っていないけど、自分がしたくないことを、
相手のために自分を犠牲にして、と考えて行動することが、
不幸の始まりなのかもしれません。
もう、無理して自分がしたくないことをしなくていいんです。
パートナーのため?子どものため?本当にためになっているかを
判断するのは自分ではないからです。これは相手が決めることなのです。
こちらがどんなに粉骨砕身の思いで自己犠牲をしても、
相手が当たり前のことと想えば、それは当たり前のことなのです。
幼い頃から、考え方を抑制されて育ったACは、自分のパートナーや
自分自身、そして自分の子どもまで、相手の脳みそで考えることまでも
自分の想ったとおりにコントロールしたいと考えてしまうのです。
無意識の自動思考がそうさせるので、自分が悪いわけではないのです。
だから、自分を犠牲にして、相手から思いをもらおうとし続けると
心が痛んできます。家族だから連帯感を持って仲むつまじくありたい。
だから、自分が少し我慢をすればいい。それは間違いなのです。
何歳になってからでも、その時その時のやりたいことと言うのは
あると思います。世間的に見て良いか悪いかで判断しているACは、
自分がやりたいかどうかよりも、それをやったら自分が周りからどう見られるか
それが自動思考で始めに思いついて行動力を抑制されてしまいます。
しかし自己犠牲をしていると、そんな気持ちにすら
ふたをして鍵を掛けてしまっています。
少しずつ自分の時間、自分のやりたいことを解放していき自分を
自分で愛してあげることが、最初の愛なのかもしれません。
愛があるから結婚して、子孫を残す。
そして、子孫にも愛を育み命を伝承していく。
私の母親は、小さい頃そんなことを言っていたような気がします。
とても熱く語っており、しかしどことなく
悲しい目つきで…
自分の子どもには本当の愛情というものをみつけなさい!
そんな風に押しつけられているような感じでした。
そんな母親も本当の愛情という物が分からなかったのだろうと、
そして今でも分かっていないのだろうと思います。
私たちが無意識に子どものためと思っていることは、
本当に愛しているという気持ちもあるとは思いますが、
ほとんどが「条件付きの愛」です。
「私がこんなにあなたのことを想っているのだから、その気持ちを返すべきだ」
「私が自分を犠牲にして子育てをしたのだから、子どもとして老後の面倒はみるべきだ」
「私があなたに今まで尽くしてきたのだから、尽くした分気持ちを返せ!」
「なに不自由ない生活をさせてあげたのだから、私の意見も聞くべきだ!」
こんな風に想うのがいけないといことではないとおもいます。
むしろ、そう思って苦しんだり、親子間、夫婦間でトラブルになったり
している人の方が多いでしょうから。
ただ、そう思ってしまうのはどうしてなのでしょう。
何か見返りが欲しいからやったのでしょうか?
おそらく、その瞬間は見返りよりも使命感や責任感で
乗り越えてきている人が多いのだと想います。
しかし、自分がやりたいからやったかというとそうではないのです。
「仕方なくやった。」
「どうしようもないからやった。」
「見るに見かねてやった」
「他にやる人がいないからやった」
決して、「わたしがやりたいからやった」という気持ちがないのです。
自分が好きでやったのであれば、実は結果がどうであれあまり
人から見返りをもらいたい気持ちは湧いてこないのです。
見返りなんて想っていないけど、自分がしたくないことを、
相手のために自分を犠牲にして、と考えて行動することが、
不幸の始まりなのかもしれません。
もう、無理して自分がしたくないことをしなくていいんです。
パートナーのため?子どものため?本当にためになっているかを
判断するのは自分ではないからです。これは相手が決めることなのです。
こちらがどんなに粉骨砕身の思いで自己犠牲をしても、
相手が当たり前のことと想えば、それは当たり前のことなのです。
幼い頃から、考え方を抑制されて育ったACは、自分のパートナーや
自分自身、そして自分の子どもまで、相手の脳みそで考えることまでも
自分の想ったとおりにコントロールしたいと考えてしまうのです。
無意識の自動思考がそうさせるので、自分が悪いわけではないのです。
だから、自分を犠牲にして、相手から思いをもらおうとし続けると
心が痛んできます。家族だから連帯感を持って仲むつまじくありたい。
だから、自分が少し我慢をすればいい。それは間違いなのです。
何歳になってからでも、その時その時のやりたいことと言うのは
あると思います。世間的に見て良いか悪いかで判断しているACは、
自分がやりたいかどうかよりも、それをやったら自分が周りからどう見られるか
それが自動思考で始めに思いついて行動力を抑制されてしまいます。
しかし自己犠牲をしていると、そんな気持ちにすら
ふたをして鍵を掛けてしまっています。
少しずつ自分の時間、自分のやりたいことを解放していき自分を
自分で愛してあげることが、最初の愛なのかもしれません。
2015年09月25日
アスペ息子に動いてもらいたいときに最近効果的な「さて、問題です!」は魔法の言葉!?
毎日元気に学校へ通うアスペ息子。
学校では特に呼び出されることもなく、
普通学級で頑張っています。
1学期が終わって気になる点はいくつかありますが
想定内のことばかりです。
・鉛筆を1本だけ執着して使ったり、
・ランドセルを必ずと言って良いほど開けっ放し。
・名札をむねにつけようとして自分の胸を刺す。
・帽子を1週間でなくす。
・上履きが1学期しか使っていないのにボロボロ。
・消しゴムは現在9個目をつかってます。
あげればきりがないですが、ADHD系の
注意力欠陥がよくでているかんじ。
それでも授業中座ってられるのが不思議で仕方がない。
まあ、学校が楽しいと思っている時期なのだろうと。
家にいると、しょっちゅうアスペ嫁と喧嘩をしてます。
小学1年生とやりあうアスペ嫁もアスペ嫁ですが、
レベルが同等もしくは、アスペ嫁がややしたか^^
「あれやったの?」
「これやったの?」
「なんでやらないの?」
「なんどもいったでしょ?」
「ふざけてるの?」
「どうしてできないの?」
そんなことを何万回注意したり言ったところで
悪影響しかないなにも関わらず、アスペ嫁は自分のことを棚に上げて、
マシンガンのようにアスペ息子の出来てないことを指摘します。
はたからみて、同じ感覚のもの同士でも
相手の気持ちが分からない同士は、やっぱりわからないんだと。
そんなアスペ息子は、マイペースでなかなか周りのして欲しいことに
きづきません。小学1年生ですからそれが一般的だと思うんですけどね。
子どもって命令されてイヤイヤやったとしてもなにも身につかないんですよね。
それがどんなにいいことでも。
最近、息子がなぞなぞの本を借りてきて毎日のように興味深く読んでいます。
文字もあまり読めないのに。
そこで、やってもらいたいことを全て問題形式に
することにしてみました。
「さて問題です。忘れ物をしないためには今なにをすればいいでしょうか?」
そんな問題形式で問いかけると、うれしいようで、
「はい!はい!はい!明日の用意をします!」
なんて、手を上げてやるんです。
それで自分も気づいてやってくれる。
なかなか、良いです。いつまで魔法が続くか分かりませんが^^
学校では特に呼び出されることもなく、
普通学級で頑張っています。
1学期が終わって気になる点はいくつかありますが
想定内のことばかりです。
・鉛筆を1本だけ執着して使ったり、
・ランドセルを必ずと言って良いほど開けっ放し。
・名札をむねにつけようとして自分の胸を刺す。
・帽子を1週間でなくす。
・上履きが1学期しか使っていないのにボロボロ。
・消しゴムは現在9個目をつかってます。
あげればきりがないですが、ADHD系の
注意力欠陥がよくでているかんじ。
それでも授業中座ってられるのが不思議で仕方がない。
まあ、学校が楽しいと思っている時期なのだろうと。
家にいると、しょっちゅうアスペ嫁と喧嘩をしてます。
小学1年生とやりあうアスペ嫁もアスペ嫁ですが、
レベルが同等もしくは、アスペ嫁がややしたか^^
「あれやったの?」
「これやったの?」
「なんでやらないの?」
「なんどもいったでしょ?」
「ふざけてるの?」
「どうしてできないの?」
そんなことを何万回注意したり言ったところで
悪影響しかないなにも関わらず、アスペ嫁は自分のことを棚に上げて、
マシンガンのようにアスペ息子の出来てないことを指摘します。
はたからみて、同じ感覚のもの同士でも
相手の気持ちが分からない同士は、やっぱりわからないんだと。
そんなアスペ息子は、マイペースでなかなか周りのして欲しいことに
きづきません。小学1年生ですからそれが一般的だと思うんですけどね。
子どもって命令されてイヤイヤやったとしてもなにも身につかないんですよね。
それがどんなにいいことでも。
最近、息子がなぞなぞの本を借りてきて毎日のように興味深く読んでいます。
文字もあまり読めないのに。
そこで、やってもらいたいことを全て問題形式に
することにしてみました。
「さて問題です。忘れ物をしないためには今なにをすればいいでしょうか?」
そんな問題形式で問いかけると、うれしいようで、
「はい!はい!はい!明日の用意をします!」
なんて、手を上げてやるんです。
それで自分も気づいてやってくれる。
なかなか、良いです。いつまで魔法が続くか分かりませんが^^
2015年09月24日
「お金」「気持ち」「時間」に余裕がなくなると不幸感がアップする!?
子育てを手伝っていると、自分の子ども達に対して
「自分の価値感の押しつけることが多いことか!」
と、自分で自分が嫌になってしまうときがあります。
親の思うような行動をして欲しい!がだんだん、
言うこと聞かないなら、飯抜きだー!なんて虐待まがいの
脅しでしか我が子を動かすことが出来ないジレンマ。
たいていは、自分の心に余裕がないときにおきますけどね^^
世間の専業主婦で、アスペ夫をもったカサンドラ気味の
奥様方は、「アスペ夫」と「アスペ息子」の間に挟まれて
よく窒息しないで生活していると本当に感心してしまいます。
もしかしたら窒息寸前の人も多いかもですが…
「お金」「気持ち」「時間」この3つに余裕がないと、
幸せ感が逃げていくと言われています。
さらに、私のようなACの場合は、
これらの基準をもの凄く高い理想という妄想を抱いていることがおおく、
お金がないと騒いでも自分への無駄遣いはする。
節約的な事を行動するわけではない。
お金は生活には大切です。子どもが生まれるとなおさら。
しかし、お金があればしあわせかというとそうでしょうか?
それは、お金持ちになったことがないからわからないはずなのです。
もちろん、わたしもわかりませんが^^
ただ、一般的に所得が増えれば、当然税金も増えますし、
家や土地を持っていれば、固定資産税も毎年かかります。
所得がありすぎて国や自治体の給付金も受けられないなんて
こともあるでしょうし、相続税をどうするかなども考えなく
てはいけませんので大変です。
あればあるで、あるなりの悩みというものもあります。
自分を分かってもらう前に自分のことが自分でよくわかっていない^^
だから、周りの評価だけでしか自分を客観視できない超客観主義者でもあります。
24時間皆平等なのが時間です。お金やポテンシャルは人それぞれ
ですが、時間だけは金持ちも貧乏もおなじ。
AC夫は今までこの1日24時間をほとんど自分のためと言うより
周りの人の為に使ってきたと行っても過言ではありません。
人のために使うということから、本来自分のために使う
という方向にシフトしていく必要があるのです。
だって、自分の人生なのですから。
そんなことが、誰も聞いてもいないのに
あたまの自動思考さんが、妄想を働かせます。
これは自分の親の責任です。
もうすでに、頑張っているのに自分が自分にOKサインを
だしてくれない。認めてくれない。そんな気持ちを抑圧される
幼少期だったのです。
しかし、どんなに親に問い詰めたからとしても自分は治りません。
自分を回復できるのは、他人ではなく自分だから。
そう言う意味では、同じような辛い環境の人同士が
話せるような空間は大切だと思います。
「自分の価値感の押しつけることが多いことか!」
と、自分で自分が嫌になってしまうときがあります。
親の思うような行動をして欲しい!がだんだん、
言うこと聞かないなら、飯抜きだー!なんて虐待まがいの
脅しでしか我が子を動かすことが出来ないジレンマ。
たいていは、自分の心に余裕がないときにおきますけどね^^
世間の専業主婦で、アスペ夫をもったカサンドラ気味の
奥様方は、「アスペ夫」と「アスペ息子」の間に挟まれて
よく窒息しないで生活していると本当に感心してしまいます。
もしかしたら窒息寸前の人も多いかもですが…
「お金」「気持ち」「時間」この3つに余裕がないと、
幸せ感が逃げていくと言われています。
さらに、私のようなACの場合は、
これらの基準をもの凄く高い理想という妄想を抱いていることがおおく、
「お金」なら、
「億万長者ならこんなに苦労しないのに」
「億万長者なら悩みなんて起きないのに」
「お金さえあれば、幸せな気持ちになれるのに」
お金がないと騒いでも自分への無駄遣いはする。
節約的な事を行動するわけではない。
お金は生活には大切です。子どもが生まれるとなおさら。
しかし、お金があればしあわせかというとそうでしょうか?
それは、お金持ちになったことがないからわからないはずなのです。
もちろん、わたしもわかりませんが^^
ただ、一般的に所得が増えれば、当然税金も増えますし、
家や土地を持っていれば、固定資産税も毎年かかります。
所得がありすぎて国や自治体の給付金も受けられないなんて
こともあるでしょうし、相続税をどうするかなども考えなく
てはいけませんので大変です。
あればあるで、あるなりの悩みというものもあります。
「気持ち」なら、
「もっと自分を分かってくれる人がいないかな」
「何で私ばかり不幸なことが起きるの!」
自分を分かってもらう前に自分のことが自分でよくわかっていない^^
だから、周りの評価だけでしか自分を客観視できない超客観主義者でもあります。
「時間」なら、
「1日48時間ぐらいあれば楽なんだけどな」
「忙しすぎてなにもできない!」
24時間皆平等なのが時間です。お金やポテンシャルは人それぞれ
ですが、時間だけは金持ちも貧乏もおなじ。
AC夫は今までこの1日24時間をほとんど自分のためと言うより
周りの人の為に使ってきたと行っても過言ではありません。
人のために使うということから、本来自分のために使う
という方向にシフトしていく必要があるのです。
だって、自分の人生なのですから。
そんなことが、誰も聞いてもいないのに
あたまの自動思考さんが、妄想を働かせます。
これは自分の親の責任です。
もうすでに、頑張っているのに自分が自分にOKサインを
だしてくれない。認めてくれない。そんな気持ちを抑圧される
幼少期だったのです。
しかし、どんなに親に問い詰めたからとしても自分は治りません。
自分を回復できるのは、他人ではなく自分だから。
そう言う意味では、同じような辛い環境の人同士が
話せるような空間は大切だと思います。
2015年09月23日
親があまり色んなところへ連れて行かないと子どもは不幸になるのか?
シルバーウイークは、皆さん楽しく過ごしたでしょうか。
私はというと、色々計画を立ててアスペ嫁にぶちこわされる
のがもう飽きてしまったので、一生懸命家の掃除をしていました。
家族でシルバーウイーク掃除って^^一般的にはないでしょうが、
うちはうちのスタイルとしてもう割り切っています。
子どもからすると、もちろん
「どっか行きたい」
「みんな色んなところへつれていってくれるのに」
「うちだけ連れて行ってくれない」
という気持ちはあるでしょう。
私の母親というか、昔の人ほどそう強く思う傾向に
あるのかもしれませんが、どっかに連れていってあげないと、
親として役割を果たしていないとか、かわいそうとか。
家族サービスだとか。色々いいます。
こどもってもちろんどっかに一緒にいけば嬉しいものです。
ただ、親の思うような満足感って得られるのでしょうか?
親としては、連休中に例えば3箇所も行ったとします。
もう十分に家族サービスしたと自負しているのに、
子どもは、物足りない気持ちがつねにあります。
次はどこに連れて行ってくれるの?と
要求はエスカレートするばかり。
親としては、子どもに対してかわいそうといっていたのに、
あまりにも子どもがしつこい場合、
「もう、何度もつれていったじゃないか!」
「いい加減にしなさい!」と怒るのです。
一緒に色んなところへ親と行くのは社会経験上大切な
ことでしょう。でも、親が楽しくない顔をしてイヤイヤ
とどこかへ連れて行ってあげているという感覚での外出は、
子どもにとっては深層心理の中で、面白いとは思っていないでしょう。
遠出を出来る人はそれも良し、旅行できる人はそれも良し。
近所の公園しか行けない人もそれでよし。家でDVDしかみれなくてもそれで良し。
うちのように家の掃除でおわるのも良しなのです。
「要は、私たちも子どもと一緒に心の底から楽しんでいるかどうか」
その気持ちが大切なのです。
「家族サービスしといてあげよう」
「このぐらい親としておけば子どもは満足だろ」
的な親の上から目線ですと、やってあげている精神が強く、
「やってあげているのに文句を言うな!」という言葉が出てきそうです。
あまり、親としての義務感で自分を追い詰めてしまわないように
したいものですね。
子どもを楽しませてあげるより、自分が何をしたら楽しいかを
考えることが出来る余裕が家族を一層と明るくするでしょう。
だって、家族の雰囲気の善し悪しをつくっているのはACである自分ですから^^
私はというと、色々計画を立ててアスペ嫁にぶちこわされる
のがもう飽きてしまったので、一生懸命家の掃除をしていました。
家族でシルバーウイーク掃除って^^一般的にはないでしょうが、
うちはうちのスタイルとしてもう割り切っています。
子どもからすると、もちろん
「どっか行きたい」
「みんな色んなところへつれていってくれるのに」
「うちだけ連れて行ってくれない」
という気持ちはあるでしょう。
私の母親というか、昔の人ほどそう強く思う傾向に
あるのかもしれませんが、どっかに連れていってあげないと、
親として役割を果たしていないとか、かわいそうとか。
家族サービスだとか。色々いいます。
こどもってもちろんどっかに一緒にいけば嬉しいものです。
ただ、親の思うような満足感って得られるのでしょうか?
親としては、連休中に例えば3箇所も行ったとします。
もう十分に家族サービスしたと自負しているのに、
子どもは、物足りない気持ちがつねにあります。
次はどこに連れて行ってくれるの?と
要求はエスカレートするばかり。
親としては、子どもに対してかわいそうといっていたのに、
あまりにも子どもがしつこい場合、
「もう、何度もつれていったじゃないか!」
「いい加減にしなさい!」と怒るのです。
一緒に色んなところへ親と行くのは社会経験上大切な
ことでしょう。でも、親が楽しくない顔をしてイヤイヤ
とどこかへ連れて行ってあげているという感覚での外出は、
子どもにとっては深層心理の中で、面白いとは思っていないでしょう。
遠出を出来る人はそれも良し、旅行できる人はそれも良し。
近所の公園しか行けない人もそれでよし。家でDVDしかみれなくてもそれで良し。
うちのように家の掃除でおわるのも良しなのです。
「要は、私たちも子どもと一緒に心の底から楽しんでいるかどうか」
その気持ちが大切なのです。
「家族サービスしといてあげよう」
「このぐらい親としておけば子どもは満足だろ」
的な親の上から目線ですと、やってあげている精神が強く、
「やってあげているのに文句を言うな!」という言葉が出てきそうです。
あまり、親としての義務感で自分を追い詰めてしまわないように
したいものですね。
子どもを楽しませてあげるより、自分が何をしたら楽しいかを
考えることが出来る余裕が家族を一層と明るくするでしょう。
だって、家族の雰囲気の善し悪しをつくっているのはACである自分ですから^^