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2020年09月20日

ユリウス・フチーク(九月十七日)



 共産党関係者なら知らなければもぐりといってもいいぐらい世界中で有名だった作家で、その作品は全部で90もの言葉に翻訳されたという。これは、翻訳がなされたのがビロード革命以前だったということを考えれば、驚異的な数字である。チェコスロバキアでも基礎学校の必読書で、チェコ文学の授業でも熱心に取り上げられていたようだ。
 作品とはいっても特筆されるべきは、第二次世界大戦中にゲシュタポに逮捕され収監された刑務所の中で書いたとされる『Reportáž psaná na oprátce』(1945)ぐらいで、日本語への翻訳もこの作品が中心となる。『Reportáž psaná na oprátce』を翻訳しているのは以下の三人。


@栗栖継訳『嵐は樹をつくる : 死の前の言葉』(学芸社、1952)
 題名は違うが、内容を確認すると「絞首台からのレポート」に、さまざまなフチークの文章を合わせて一冊としている。訳者の栗栖継が読者の便宜を考えて、理解しやすくなるように独自に編集したのだろう。書名も収録作品から取ったものではなく独自のもの。そのため、別の作品の翻訳だと思われる恐れもありそうである。著者名が「フーチク」になっているのは、エスペラントからの翻訳であるからか。
 この作品は1962年に、筑摩書房が刊行していた『世界ノンフィクション全集』の第25巻に「絞首台からのレポート」として収録される。その際に、他の雑多な文章も収録されたのか割愛されたのかは不明。この巻にはナチス・ドイツに対する抵抗を描いた作品が収められているようである。こちらの著者名は「フゥチーク」。気持ちはわからなくはないけれども、「フゥ」なんて日本語の表記体系にはない。
 その後1977年には、『絞首台からのレポート』と題して岩波文庫に収められた。作者名の表記がようやく「フチーク」に落ち着いた。この岩波文庫版は現在でも手に入らなくはないようだ。岩波は再販制を利用せずに、買いきりで書店に卸すから、版元に商品がなくても、品揃えのいい書店ならかなり掘り出し物が手に入る。この本が掘り出し物になるかどうかはともかく、古い岩波文庫を手に入れるためには、古本屋だけではなく新刊本屋も回らなければならない。性格の悪い出版社である。


A木葉蓮子訳『絞首台からの報告』(須田書店、1953)
 栗栖訳の翌年に刊行されたこの本については詳しいことはわからない。作者名は最初の栗栖訳と同様「フーチク」。訳者の木葉蓮子は、翌年もひとつフチークの作品を翻訳出版するがそれについては後述。


B秋山正夫訳『愛の証言 : 絞首台からのレポート』(青木書店、1957)
 国会図書館で確認できる最古の秋山訳がこれ。「愛の証言」というのが本題で「絞首台からのレポート」は副題扱いになっているようにも読める。作者名はこれも「フーチク」。1964年には同じ出版社から『絞首台からのレポート』と題して文庫化されている。出版社の青木書店は、マルクス主義を標榜する左翼系の出版社で、学生運動の華やかなりし頃には文庫も手がけていたらしい。
 さて、前回紹介した浦井康夫氏の「日本でのチェコ文学翻訳の歴史」(入手はこちらから)には、英語からの翻訳である秋山訳はすでに1949年に刊行されているようなことが書かれている。国会図書館では発見できなかったので、「CiNii 」を使って大学図書館の蔵書を検索してみた。
 フチークの作品は発見できなかったが、秋山正夫の著作として、『絞首台からの叫び : 革命家フーチクの生涯』(正旗社、1949)というのが出てきた。題名からフチークの作品の翻訳であることは間違いなさそうだが、それに伝記をつけたことで、全体としては秋山の著作ということにされてのだろうか。これが、フチークの初訳で、第二次世界大戦後初めて日本で出版されたチェコ文学の翻訳単行本ということになる。


 フチークは、1930年代にジャーナリストとして活動していた時代にソ連を訪問してレポート記事を書いている。それをまとめたのが、『V zemi, kde zítra již znamená včera』(1932)で、木葉蓮子訳が存在する。

・木葉蓮子訳『わが明日、昨日となれる国』(須田書店、1954)
 これも詳細は不明で、作者名は「フーチク」。


 ビロード革命後、フチークの評価は、共産党のシンボル作家だったという過去から、ある意味地に落ちた。ドルダが晩年に「プラハの春」を弾圧したソ連軍に反抗したことで失脚したのとは違い、すでになくなっていたフチークは、反抗のしようもなく、最後まで共産党の象徴であり続けた。その反動で、実はゲシュタポと組んでいたんだとか、真偽の定かでないことを言われていたらしい。ただ最近は再評価が進んでいるようである。

 『絞首台からのレポート』は栗栖訳の岩波文庫版を買って読んだはずだけれども、正直あまり印象が残っていない。同じレポートならムニャチコの『遅れたレポート』のほうが、個人的には評価が高い。
2020年9月18日24時。









2020年09月19日

ヤン・ドルダ(九月十六日)



 先月も、月半ばのこの日に、チェコ文学の翻訳について文章を書いているので、今月も継続してみよう。ネタが切れるまでは毎月一回なんてことになると、何について書くのか考えるのが多少楽になる。昨日か一昨日も先月同様、貴族家について書こうかと思ったのだけど、準備に時間がかけられなくて断念してしまった。

 とまれ、戦前に日本語に翻訳された作家については、国会図書館のオンライン目録で確認できるものはほぼすべて紹介した。チャペク兄弟、ハシェクは予想通りにしても、オルブラフトなんて作家が翻訳されているのは意外だった。残るは調査し残しているコメンスキーなのだけど、この人の場合、ラテン語での著作も多いし、文学と呼ぶべきなのか悩むところもあるので、機会があればコメンスキー紹介の歴史についても、先学の著作を参考に紹介しよう。
 第二次世界大戦直後は、出版活動自体も下火で、東側に入ったチェコスロバキアの作家を紹介する余裕などなかったのか、新たなチェコの作家の作品が翻訳されるのは、1950年代に入ってからのことだった。それが、チェコスロバキア共産党員の作家であるヤン・ドルダの作品で、共産党員の訳で、1952年の刊行というのは、前年にサンフランシスコ講和条約でアメリカ軍による日本占領が終結したのと関係があるだろうか。いや、こじつけに過ぎるか。

 さて、ドルダは、1915年生まれというから、少年時代をチェコスロバキア第一共和国の全盛期に過ごした作家だと言ってよさそうである。新聞記者として働きながら作家活動をつづけたのはチャペクなどと同じでチェコの文学的伝統と言えようか。チェコ語版のウィキペディアによれば、入党は1945年になってからだが、第二次世界大戦以前から共産党に近い作家だったようだ。戦後は共産党党員作家の中心の一人として活動していたが、1968年のプラハの春の際には、ソ連軍の侵攻と占領に反対する立場を取った。1970年に自動車の運転中に心臓発作で亡くなったという。享年55歳。
 映画関係の仕事もしていたようで、原作、もしくは脚本に関わった映画のリストを見ていたら、見たことのある映画が二つ。一つは1956年制作の「Hrátky s čertem(悪魔との喧嘩)」で、もう一つは、没後かなりたった1984年の「O princezně Jasněnce a létajícím ševci(ヤスニェンカ姫と空飛ぶ靴屋)」である。どちらも子供向けの童話映画。特に後者は、内容はともかく、オロモウツの近くのボウゾフ城が舞台になっていることもあって、お気に入りの童話映画の一つ。


ヤン・ドルダ/栗栖継訳『声なきバリケード』(青銅社、1952)
 チェコ語の原題は『Němá barikáda』で終戦直後の1946年に刊行された短編集である。第二次世界大戦中の抵抗運動をテーマにした11篇の短編が納められている。時機から考えるとエスペラント訳からの重訳だろうか。後に三篇が抽出されて『ダイナマイトの番人・高遠なる徳義・蜜蜂を飼う人』(1958)という題で麦書房から文庫版で刊行される。この麦書房版は1984年にも新版として刊行されているようだ。二つの出版社の関係は不明。

 単行本としては、この『声なきバリケード』が最初だが、前年の1951年に栗栖継訳の「われわれの希望の星」という文章が「新日本文学」の11月号に掲載されている。原典も不明で、短編小説なのか、エッセイなのかも判然としない。この号では「文学にあられた十月革命」という特集でロシア革命の記事が並んでいるから、特集には含まれていないがドルダの文章もロシア革命に関係するのかもしれない。となるとスターリンの少年時代を描いたという伝記かなあ。当時はソ連だけでなく、日本の共産党にとっても「希望の星」だったのだろうし。いや憶測に憶測を重ねるのはやめておこう。

 ところで、訳者の栗栖継は同号に「チエコ訳された 「蟹工船」」という文章も寄せている。これは、浦井康男氏の「日本でのチェコ文学翻訳の歴史」(入手はこちらから)に紹介されていた『蟹工船』のチェコ語訳とスロバキア語訳の違いについてのエピソードのネタ元の文章だろうか。
 今、確認のために「日本でのチェコ文学翻訳の歴史」をチェックしたら、すでに1949年にフチークの翻訳が出ているという。再度確認しても、国会図書館の目録には存在しないから、どこかよその図書館に入っていないか確認してみよう。ということで、次回はいろいろと問題のある作家フチークについてである。
2020年9月17日16時。











2020年09月18日

中国報復開始(九月十五日)



 日本のマスコミの一部でも、取り上げられたチェコのビストルチル上院議長率いる代表団の台湾訪問だが、中にはチェコという小国が巨人中国に対して反旗を翻したというような報道もあって、単に知らないだけなのか、意図的に事実を省いているのか判断に悩むところである。繰り返しになるが、チェコ政府は大統領を筆頭に依然として中国べったりで、今回の上院議長の台湾訪問は、特に大統領と政権与党の社会民主党によって激しく非難されている。ANOとバビシュ首相も批判はしているがそこまで熱心でないのは、近づく地方議会選挙に向けて反中国派の票も狙っているからだろうか。

 そのビストルチル氏に対して、顔をつぶされた形になったゼマン大統領が報復に出た。上院議長は、三権のうちの立法権の長の一人ということで、大統領、首相、下院議長と共に定期的に、国家の安全保障に関する会合を行っているらしい。その四者会合に、今後はビストルチル氏を呼ばないことを決定したのである。理由としては前回の会合で台湾訪問の話題になったときに、安全保障の観点から中止にしたほうがいいということになったのにそれを無視したというものを挙げている。
 ただし、ビストルチル氏は、前回の会合の際は、武漢風邪の大流行が始まったときで、それ以外の話題は出なかったし、自身、まだ同僚故クベラ氏の遺志を継いで台湾に行くことを決めていなかったから、話題にしようもなかったと反論している。これは恐らくビストルチル氏の発言のほうが正しかろう。就任当初は、まだそこまで考えられる状態にないとか言っていた記憶もあるし。

 ちょっと理解に苦しむのが、与党を支持する野党の共産党で、左翼特有の口を極めた強い批判を繰り返している。マルクスレーニン主義の本場ソ連共産党の直系にあたるチェコの共産党が、ソ連と袂を分かった中国共産党を支持するのはおかしくないか? 冷戦終結で共産党同士の対立、抗争も解消されたのだろうか。

 中国からの報復は、日本でもちょっと報道されているようだが、まずピアノ制作会社のペトロフに対して行われた。中国から注文を受けて制作に入っているピアノが全部キャンセルになって、数百万コルナの損失になりそうだという。規模の小さな会社にとっては大損害だが、モノがモノで大量に生産販売するものではないので、絶対的な損失額としてはそれほど大きくはない。最終的にはどこぞの大金持ちが中国に納品される予定だったピアノをすべて購入してくれることになったらしい。それが台湾の人だったらきれいに落ちが付くのだが、チェコの人だったと思う。
 これはまだ、実行はされていないようだが、中国に工場をいくつか持つチェコの自動車部分会社の経営者が、中国の取引先から、取り引きの停止をほのめかされたと語っていた。中国ならやりかねないし、実行されたら会社にとっては大きな打撃になるはずである。この会社、確かオロモウツに日系企業と合弁で工場を持っているから、経営の悪化なんてことにはなってほしくないのだけどなあ。

 それから、代表者が、ビストルチル氏と共に台湾に向かった企業については、中国での活動が禁止された。こちらはすでに正式に決定されチェコ政府にも通達があったようだ。中国に臣従するゼマン大統領をいただくチェコ政府は、台湾訪問当時の中国政府の脅迫的な宣言にはさすがに抗議をしたが、こちらの決定には特に異を唱えていなかったと思う。
 台湾訪問に同行した企業にしてみれば、ゼマン大統領の中国訪問でも期待したほどのチェコへの投資も、チェコ企業への市場開放も進まなかった結果、別の可能性を求めて台湾に向かい、ある程度の成果を上げて帰ってきたのだから、今更中国との関係は求めないだろう。

 経済と政治は別物といいながら、経済的な関係を深め、経済的な結びつきが強くなると、政治的な理由で経済関係を人質にして脅迫する中国のやり口は、詐欺としか言いようがない。経済的な面ですら約束を守ろうとしない嘘つき国家は信用するに当たらないし、まともな外交関係も結べないと思うんだけどねえ。そんな国の元首を国賓として招待して機嫌を取ったところで何ももたらさない。
 安易なゼマン批判というのはあまり好きではないのだけど、この点に関してだけは、ゼマン大統領を批判している人たちにもろ手を挙げて賛成する。
2020年9月16日14時30分。











2020年09月17日

チエツコスロバキア考続続(九月十四日)



 さて、前回、日本という国が、第一次世界大戦後のベルサイユ会議を経て、新たに独立した国家の日本語における正式名称を「チェッコスロヴァキア」(カタカナの大小は無視する)と定め、以後公文書では、この名称を使うようになったのではないかと推測したのだが、この手の決定を遵守するのは公官庁である。ということで、官庁の出版物における表記の変遷(というほどは変わらないだろうが)を見ておこう。当時の外務省などの文書で地名につけられている「」は便宜上省略する。

 チェコスロバキアが、確認できる範囲で最初に官庁の印刷物に登場するのは、1918年09月17日付の「官報」においてである。そこには「チェック、スローヴァック民族ニ對スル帝國ノ態度宣明」と題して、「チェック、スローヴァック国民委員会理事長」の「エドワード、べネス」氏から、イギリスの日本大使に送られた、日本政府(時代がら帝国政府と書かれているけど)に対する要望を記した書簡と、それに対して日本政府が大使を通して返信した公式回答の訳文が掲載されている。ベネシュの書簡は、8月11日付けで、回答は9月9日付けである。
 二つ目の例は、外務省の内部文書の可能性もあるが、『独墺革命事情摘要』という外務省臨時調査部が作成した文書である。表紙に11月25日調査とあることから、それ以後の発行だろうと思われる。この中に「チェック、スロバック族」という章がたてられている。

 1919年になると、文部省が編集していた『時局に関する教育資料』にチェコスロバキアが現れる。最初は1月7日発行の『シベリヤの土地と住民』と題された巻で、「チェック=スロヴァック民族の歷史」という章がある。「=」でつながれていることから、チェコとスロバキアを一体のものとして認識していると考えてもよかろう。それにしても文部省の「=」好きは戦前からのものだったのだなあ。
 二つ目は3月25日発行の第22輯なのだが、「チエク・スロワク民族に就きて」「チエク・スロワク軍」と、珍しく促音が省略された表記が採用されている。この『時局に関する教育資料』は、第一次世界大戦後に大きく変わった、特にヨーロッパの情勢に教育現場で対応できるように、まとめられたものだろうか。地理など国境が戦前と比べると大きく変わり、新しい国も生まれているから対応が急がれたのもわからなくはない。

 この年の「官報」では、2月22日付けに「米國ノチェック、スローヴァック支配地域トノ通商及通信許可(外務省)」、4月25日付けに「チェックスロヴァック國代理公使承認」」、11月13日付けに「チエックスロヴァック國公使館附陸軍武官新設」と、1918年10月28日に独立を果たしたチェコスロバキアについても、この時点では「チェックスロヴァック」と表記されていたことが確認できる。
 外務省の文書でも、政務局が編集発行した「外事彙報」の9月刊の号に、「チェック、スローバック國近況」という6月15日付けの調査結果が掲載されている。
 それが変わるのは、外務省が11月(表紙による)に出版した『同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約並議定書概要』で、この中に初めて、「チェッコ、スロヴァキア國」という表記が登場するのは以前も紹介した通り。

 1920年になると「官報」でも、「チエッコ、スロヴァキア國ハ工業所有權保護ニ關スル巴里同盟條約ニ加入ノ旨申込ミ效力ヲ生シタル旨瑞西聯邦政府ヨリ通知」(1月20日)と、「チェッコ、スロヴァキア國」が使われ始め、次の例外を除いてすべて「チェッコ、スロヴァキア國」となっている。

 例外は、「チェックスロヴァック國公使館員異動」(4月8日)、「チェックスロヴァック國公使離任」(6月3日)、「チェックスロヴァック國公使歸任」(6月18日)の3例で、すべて公使館に関係している。これは、前年に「チェックスロヴァック國公使」として受け入れられたことが原因として考えられそうだ。
 国名が「チエッコスロヴァキア」に定められたのちも、公使の肩書としては、受け入れたときの「チェックスロヴァック國公使」が正式名称として使用され続けたのではないか。そして、新しい公使が赴任する際に、「チエッコスロヴァキア」公使として受け入れることで、以後は公使館関係についても「チエッコスロヴァキア」を使用し始めるという手続きを必要としたのではないかと考えるのである。新しい公使の赴任のニュースは、1921年以降だろうから、現時点では未調査である。気が向いたら、調べてまた報告する。

 また、この年には、外務省臨時調査部が美濃部達吉訳『チェッコ,スロヴアキア共和国憲法』を出している。訳者の名前に驚く人もいるだろうが、美濃部は「国家学会雑誌」の11月号にも「チェコスロヴァク國憲法」という文章(憲法の翻訳かもしれんけど)を寄せていて、両者の前後関係ははっきりしないのだが、どうして国名表記が違うのだろうという疑問が浮かぶ。珍しい組み合わせだし。

 とまれ、暫定的に使われていた「チェックスロヴァック」が、1919年の終わり以降、公文書では「チエッコスロヴァキア」に取って代わられたというのは、間違いなさそうである。ならば次の問題は、「チェックスロヴァック」がいつごろまで使い続けられたのかということと、促音を廃した「チェコスロヴァキア」がいつごろから使われ始め、一般的な表記として定着したのかということである(バとヴァの差異については問題にしない)。
2020年9月15日14時。




「官報」の中身を確認したら、「チェックスロヴァック國公使離任」は、公使の任を離れたということではなく、おそらくチェコ軍団帰国の件で日本を離れてウラジオストックに出かけたことで、「チェックスロヴァック國公使歸任」は日本にもどってきたことだった。仮説は成り立たないかな。











posted by olomoučan at 07:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2020年09月16日

チエツコスロバキア考続(九月十三日)



承前
 チェコ軍団、もしくはチェコスロバキア軍団が、活字となって現れるのは、シベリア出兵が開始された1918年8月以降のことである。執筆編集にかかる時間、名目上の発行日と実際の発行日の差違などを考えると、シベリア出兵に合わせて企画がたてられ、始まるよりも少し前に店頭に並ぶように計画されたと考えてもいいかもしれない。

 正確な発行日のわからない八月刊行の雑誌では、まず「實業之日本」(第21巻16号)が慶応大学教授林毅陸の「出兵の動機となつたチエックの興亡」という文章を載せている。林は政治学が専門で、外交史の研究家としても知られている。この文章は題名からチェコ民族の歴史について書かれたもののようにも思われるが、館内限定公開で読めないのが残念である。
 「實業之日本」では翌9月刊の第21巻18号でも、「浦鹽に於けるチエツク軍」と、「チエツク」という表記を採用しているが、1920年4月刊の第23巻7号では、「西比利に於けるチエツコ、スロバツク軍の近狀」という表記に変わっている。この「チエツコ」と「スロバツク」という表記の組み合わせについては、別の雑誌のところで検討する。

 同月刊行の、後に政治家となる中野正剛が主筆を務めていた「東方時論」(第3巻8号)は、シベリア出兵と、それに関する外交交渉に対して強く批判しているのだが、その中にチェコ軍団に関する記事が三篇ある。そのうち二篇は、記名がないので編集部の記事だろうが、「チエック・スラヴアックは米國の傭兵=米兵六萬七千、日本兵七千」「憐れなるチエック・スラヴアック=佛國と米國の意嚮は相反す」と、チェコだけではなく「スロバキア」にあたる言葉が登場する点で注目に値する。それが「スラヴアック」になっているのは、目次だけの誤植、もしくは目録の誤植の可能性もある。ちなみに、三篇目は、松原木公という人の書いた「チエック軍の活躍」だが、「軍」のつかない前の二篇も含めて、すべてチェコ軍団について書かれたものと考えてよさそうである。「チエック・スラヴアック」が一つのものと認識されていたのか、単なる並列なのかは不明。

 8月15日付けで発行された「外交時報」(通巻331号)にも興味深い表記が見られる。「佛國政府とチェッコ・スロヴァク民族」という無記名の記事で、初めて「チェッコ」という今日の「チェコ」に直接つながる表記が登場する。ただし、同号には泉哲「チェック軍救援の眞意義」という記事も掲載されている。
 同誌は、10月1日刊の334号に、「チェック、スロヴァック軍隊に關する承認」「米國のチエック民族承認」「帝國政府のチェック・スロヴァック承認宣言」、11月15日刊の337号に「チェック・スロヴァック族獨立宣言」と「トーマス・ジー・マサリツク」の書いたものとして「チェック・スロヴァック民族」を掲載していることから、この時点では、雑誌の方針としては、「チェック、スロヴァック」という表記を使用していたと言えそうである。では、「チェッコ・スロヴァク」はというと、ここでは、「佛國政府とチェッコ・スロヴァク民族」というフランス政府と関係のある記事において使用されていることを指摘するにとどめておく。

 192018年8月以降、軍関係の雑誌(「戦友」99号、「有終」66号など)や、医学関係の雑誌(「醫海時報」1261号)などにチェコ軍団に関係する記事が散見されるのだが、その多くは、1920年になっても「チエツク(軍)」という表記を採用している(21年以後は未調査)。中には独立後のチェコスロバキアを「チェック共和国」と記している例まである。初例は191218年12月刊の「英語青年」の「外報 英國の政界 チェック共和國成る」だが、後に研究社が刊行を引き継いだ英語学習、英語研究のための雑誌だし、イギリスでこんな言い方がなされていたことを反映しているのだろうか。

 一方「チエツクスロバツク」という表記が増えていくのは、上記の「外交時報」もそうだったが、10月刊行のものからで、これは第一次世界大戦の講和会議に関する情報が増えていく中、チェコとスロバキアを一つのものとする考えが、日本にも広まりつつあったからだと考えてよさそうだ。それらの中で、雑誌と著者の知名度から注目に値するのが、大正デモクラシーの中心人物の一人とされる吉野作蔵が「中央公論」の10月号(通巻362号)に発表した「チエツク・スローヴアツクの承認」である。どんなことが書かれているのか、題名からは想像もつかないが、ちょっと読んでみたい気はする。

 11月刊行のものでは、「極東時報」(第78号)に掲載された「チェツコ・スロヷック軍司令長官ジァナン將軍」が注目に値する。「ヷ」はともかくとして、この「チエツコ」と「スロバツク」という組み合わせは、原則としてフランスと関係のある文脈でしか登場しないのである。「外交時報」の記事はフランス政府の動向を記したものだったし、この「極東時報」は、フランス外務省の支援で日本で日仏両文で刊行されていた雑誌で、後に「仏蘭西時報」と改題される。その「仏蘭西時報」にも、1919年10刊行の第96号に「チエツコ・スローワ゛ツク共和國の對外政策」という文章が掲載される。
 フランス語は知らないし、用例が少ないからあれなんだけど、この表記はフランス語の発音から来ているのではないかなんてことを考えてしまう。チェコスロバキアの独立運動の中心地だったフランスでは、第一次世界大戦の講和会議で、独立するチェコスロバキアの正式な国名が認定される少し前から、チェコスロバキアにあたる言葉が使われていたのではないだろうか。フランス語の「Tchécoslovaquie」の発音は知らないんだけどさ。

 その後、講和会議で条約が結ばれる段階になって、初めて英語名の「Czechoslovakia」が決定され、参加諸国に正式な国名として認定されたことで、以後日本政府も、それをカタカナ表記にした「チエツコ・スロヴァキア」を公式の表記として使うようになったのではないかと想像する。「チエツコ・スロヴァキア」の初例がすでに記事にした1919年11月刊のいわゆるベルサイユ条約の概要を紹介した外務省の刊行物であること、それ以前は英語の形容詞を二つ並べたかのような、チェコもスロバキアも「ク」で終わる表記が一般的であることも、それを裏付ける。「チエツク・スロヴアツク」は新国家の正式名称が決まるまでの便宜的な呼称だったのではないかと考えるのである。

 正式名称が決まったからといって、以後常に「チエツコ・スロヴァキア」が使用されるわけでもないのが、頭の痛いところだけれども、言葉なんてのはそんなものである。
2020年9月14日16時30分。









posted by olomoučan at 06:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2020年09月15日

チエツコスロバキア考(九月十二日)



 以前、ジャパンナレッジの「日国友の会」に投稿されていた、「チェコスロバキア」につながる最古の用例について怪しいと書き、すでに1919年4月の時点で、「チエツクスロヴアツク」という表記が見られ、11月には外務省の発行したベルサイユ条約関係の書物に「チェッコ、スロヴァキア」という表記が見られるということは紹介した。同時に、チェコスロバキア軍団の存在から、それ以前にも使われている可能性は高いと記したのだが、その後調べもせずに放置してあった。(参照はここから)

 久しぶりにこのことを思い出して、再び国会図書館のオンライン目録で、検索をかけてみた。書名と目次に使われていない用例は発見できないが、ある程度の傾向は見えてくるはずである。検索するのは、「チエツク」「チエツコ」「チエコ」「チエク」の四つ。拗音も促音も、直音に置き換えて、表記が違っても読みが同じなら、検索結果として表示されるは、ありがたくもあり、面倒でもある。
 ありがたいのは、「エ」と「ツ」の大きさを変えて、すべてのバリエーションを試す必要がないことで、面倒なのは漢字表記でも、同じ読みの部分があればリストに表示されることである。「チエコ」で検索すると確実に「智恵子」なんかも引っかかるし、「チエツク」の場合には、検査するという意味の「チェック」も引っかかる。今回は1920年以前のものを調べたので、数が少なかったのが幸いである。

 調査の結果、最も古い、今日のチェコの地域をさすと思われる用例は、「チエツク」で、1905年のものだった。東京大学法学部の機関誌のようなものである「法学協会雑誌」の10月号(第23巻10号)に「雜報 プラーグのチエツク大學に於ける新設備」という記事が載せられている。国会図書館では雑誌に関しては、古いものでデジタル化されていても、館内閲覧に限定していてネット上では見られないようになっているので、記事の内容は不明。
 この「チエツク大學」が、プラハにあった唯一の大学であるカレル大学を指すのは間違いない。ただ、当時は、ドイツ系とチェコ系の二つに分裂していたため、単にカレル大学という名称が使えなかったのであろう。また、ボヘミア、もしくは当時よく使われていたボヘミヤという表記にしなかったのは、地域的な区別ではなく、民族的な言語的な区別だったため、モラビアなどを含まないボヘミアのしようも避けたと考えるのがいいか。いや、英語での大学の名称(略称かも)をそのまま使ったと考えるほうが自然か。

 とまれ、国会図書館に収蔵されている書物の題名、および目次から確認できる限りでは、今日のチェコ共和国の領域を一語で示した言葉の使用は、直接地域名としては使われていないとはいえ、1905年の「チエツク」にまでさかのぼるのである。ここにスロバキアに相当する言葉が欠けているのは、当時はまだチェコスロバキアという概念が存在しなかったはずなので当然である。

 二つ目の用例は、第一次世界大戦勃発後の1915年のものである。外交関係を論じる記事を中心とする雑誌を刊行していた外交時報社から発行された『国際関係地図』第四に「チェック族の國」という章がたてられ、巻末に収められた地図の説明として、使用者の割合から「独逸語地方」と「チェック語地方」に属する地名が、ドイツ語使用者の割合が多い順番に羅列されている。ちなみにオロモウツは、全部で144の町のうち、順番で65番目、チェコ語使用者率が78パーセントほどで、「チェック語地方」に入っている。オーストリア=ハンガリー時代の調査だろうから最低でもこの程度だったと考えてよさそうだ。
 巻末の地図の方を見ると、基となった地図がフランスのもののようで、フランス語っぽい(本当かどうかは知らん)表記が残っている。いや、地図の題名が「チェック族の國」になっている以外は、すべて原図のままという手抜き?ぶりである。興味深いのは、「チェック族の國」と言いながら、チェコだけではなく、スロバキアの大部分の地図も含まれていることである。この事実は、1915年の段階で、フランスなどの西欧に、チェコとスロバキアを結びつけるというマサリクの考えがある程度知られていたということを示すのかもしれない。たしかこの年にスイスを経て、フランス、イギリスなどに向かっているはずである。

 『国際関係地図』は著作権の処理が済んでいて、雑誌でもないからインターネット上で閲覧できる状態で公開されている。興味のある方はこちらから。この本では、地名は原則としてチェコ語で表記されており、こんな早い時期に、日本語の書物でチェコ語のハーチェク、チャールカが使われていたとは、想像もしなかった。

 とまれ、シベリア出兵の口実となったチェコ軍団の存在が日本の書物に登場する以前に、使われた現在のチェコを指す言葉は、二例しか確認できなかったけど「チエツク」「チェック」だった。どちらも実際には「チェック」と読まれていたのだろうけどさ。
 ということで、チェコ軍団についての記述が増える1918年以降については、回を改める。
2020年9月13日14時。








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2020年09月14日

老眼鏡続(九月十一日)



 シャントフカの一階にある店内には、こちらの目論見どおり客は一人もいなかったが、目論見どおりに行ったのはここまでだった。店員らしき人は4人いて、全員若い女性でマスクも含めて黒ずくめの格好をしていた。若い女性と話すのが嫌というわけではないけど、おっさんの店員の方が、こちらの無茶な要望も聞いてくれるような気がしておっさんがいることを期待していたのだ。

 お店に入るとすぐに声をかけられて、新しい眼鏡を買いたいという要望を伝えた。ついでに今欠けているのと同じようなフレームで、ちょっとだけどの強いレンズでお願いしたいんだけどと付け加えた。そうしたら、フレームはいくつも見繕ってくれて試せたのだけど、レンズに関しては、適切な度数を計測したほうがいいよと、できれば避けたかったことを勧めてきた。
 時間がかかるでしょうとか、あれこれいいわけを並べながら、フレームを選ぼうとするのだけど、かけて鏡を見ても、度が入っていないからちょっとぼやけてどんな感じかいまいち確認できない。サイズさえあえばどれでもいいやと、かけ心地のいいものを選んでかけかえていたら、お店の人がみんなで感想を言ってくれたので、参考にさせてもらった。この時点では値段なんて気にもしなかった。クーポンだから高くてもいいのである。

 チェコに来て最初に眼鏡を買ったときは、あまり高くないフレームにしようと考えて、失敗した。最初はかけ心地もそれほどわるくはなかったのだが、安いだけあってその状態が長持ちせず、比較的すぐに新しい眼鏡を買うはめになってしまった。今の眼鏡は、選ぶときには値段を気にせず、お金を払う段になってそんなに高かったんだと驚いたのだが、その甲斐あって快適に、十年以上かけ続けている。レンズの交換も一度はしたような気もするが、さすがに塗装のはげも目立つようになってきたので、レンズを新しくするならフレームもお役ごめんである。

 フレームを選び終わったところで、再び計測した方がいいよという説得が始まって、こちらもそれが正しいことはわかっていたので、拒否し続けることはできなかった。幸い、ちょうど担当者がいて部屋が空いていたこともあって、その場で計測されることになった。昔日本でも眼鏡を作るときに使った機械で、遠くに赤い屋根の建物を見ることで何かを測定した後、ダミーのフレームにレンズを入れたり抜いたり重ねたりしながら最適なレンズを決めていく。
 壁に照射された視力測定用の文字が、裸眼では完全ににじんで、文字があるのかさえ判然としないのにショックを受けてしまった。日本でお店の人に、近視が進みましたねえと言われたときは、まだ何かがあるのは見て取れたと思うのだけど、日々コンピューターで目を酷使しているのがいけないのかなあ。

 コンピューターの画面が見づらくなるときがあるとか、本を読むときには眼鏡を外して読むとか言う話をしていたら、いくつかの大きさで同じ文が印刷された紙を渡され、一番小さい文字まで読めるか、不快感は感じないかなんて質問をされた。最後に、遠くを見るのから、コンピュータの使用、本を読むときにまで使える度数が滑らかに変わっていくレンズにしませんかと言われた。
 そうなのだ。だから、計測なんかしたくなかったんだ。ようは遠近両用の眼鏡、つまりは老眼鏡が必要だということである。何年か前に知人に老眼鏡が必要になっちゃってと愚痴られたときに、近視だけの眼鏡で十分だよと強がったのに、自分も必要になるとは。いや、近視用の眼鏡をかけると本を読むのが辛くなって久しいのだから、うすうすとわかってはいたのだ。それでも年老いたことを実感させられる現実なんて知りたくなかった。

 そんな葛藤を胸に、ええでもとか、抵抗したのだが、それなら読書用とコンピューター用の眼鏡も必要になるとか言われて抵抗をあきらめた。普通の近視用のレンズと値段に大した違いはないともいわれたし、高くてもどうせクーポンだからいいや。値段よりも老眼鏡ってのが嫌だなあ。人にどう思われるかってのはどうでもいいのだけど、老眼鏡をかける自分というのが想像もしたくない。

 その後は、店頭に戻ってレンズをどうするかの相談。基本的な機能以外に、圧縮するとか、青い光を遮断する機能をつけるとか、いくつかオプションがあって、付けるたびに値段が上がっていくのだが、毒を食らわば皿までで、どうせクーポンだし、一番高いバージョンのレンズでお願いした。フレームと合わせて、1万2千コルナ超。想定の二割五分ましだった。注文の際に保証金が必要だというので、超の部分だけカードで支払う。保証金にはクーポンは使えないらしい。
 受け取りは九月末。そのときに額面百コルナのクーポンを120枚持っていくことになる。それだけ使ってなお、今年の年末に有効期限が切れるクーポンが数十枚残る。うちのと二人でとはいえ使いきれるだろうか。それに加えて来年の年末までのもあるし、年末にはまたもらえるしで、今回注文した眼鏡だったら毎年買ってもお釣りがきてしまう。

 とまれかくまれ、これからは正真正銘の老人の仲間入りである。「もうジジイだから」とか、今までは半分冗談にできたのだけど……。時の流れってのは残酷である。自分のことでこんなことを考えるなんて、年は取りたくないものだ。
2020年9月12日18時。











2020年09月13日

老眼鏡1(九月十日)



 人間年を取ると、体のあちこちにがたが出るもので、病気がちになるのも当然である。だから、同時に自分の死を身近に感じるようになるのだろう。なんてことを、メンツルの死に寄せたスビェラークの言葉を読みながら考えた。人が原則として年齢の順番に死んでいく社会というのは健全な社会である。子供や若者が老字よりも先に死んでいくのは正常な状態とはいえまい。その意味では、世界を震撼させている武漢風邪は、戦争とは違って、健全な社会を崩壊させるようなものではないとも言えそうだ。
 畢竟、人間というものは、いや、生きるものはすべて必ず死ぬものである。長生きする人もいれば、早めに亡くなる人もいる。そう考えるとスビェラークが言っていた順番というのもわかる気がする。60歳を越えたら、50でもいいけど、そろそろ順番が来るかもなんて考えておくのも悪くない。亡くなった人に対しても、事故死や殺人でもない限り、50、60を越えていたら、惜しい人を亡くしたと惜しむのは当然としても、天寿を全うしたと寿ぐ気持ちがあってしかるべきではないか。

 自分もすでに若いとはいえない年齢になって久しく、くたばったときに、「まだ若いのに」とか、「これからがあったのに」とか、言われたくもないし、言われてはいけないような年齢になってしまった。そんな気のめいりそうなことを考えたのは、眼鏡屋がいけない。いや、眼鏡屋に行ってお店の人の説得に負けてしまった自分がいけないのである。
 日本にいたころは、川崎のとある駅前の商店街の中にある眼鏡屋に通い、そこで見つけたジョン・レノン風の丸眼鏡を愛用していたのだが、こちらに来てから二十年近くの間に何度か新しい眼鏡を作った。最後に作った、今かけている眼鏡が妙に気に入っていて(似合うかどうかは知らない)、もう何年もそろそろ新しいのを作ったほうがいいかなと思いながら、面倒くさいと後回しにしてきた。視力も以前より落ちて、眼鏡をかけても視力は1.0以下になっていたし。

 ところで、チェコという国は、国営企業の民営化の際にもクーポン式民営化が行われたことからもわかるように、クーポン券が大好きである。企業の節税兼、従業員の福利厚生としても食券をはじめとするさまざまなクーポン券がばら撒かれる。我が職場でも例に漏れず、毎年かなりの額面のクーポンがもらえる。もらえるのだけど、種類によって使えるジャンルが決まっていて、期限までに使い切れずに紙切れにしてしまうことが多かった。
 最近は本屋でも使えるというので、年末になると本屋に出かけて特に必要でもない本を買ったり、うちのの実家に持っていって使ってもらったりしている。眼鏡屋で使えるということは知っていたのだけど、毎年新しいの買うようなものではないし、面倒くさいしで買う決断をつけられなかったのである。

 それが、今年の前半の分のクーポンをもらったときに、ふと、今年はこれで眼鏡を買おうと思ったのだった。それは、最近特にPCで仕事していると、疲れからか画面がよく見えなくなったり、文字が小さすぎて眼鏡を外して顔を近づけて見なければならなくなったりすることが増えていて、さすがに我慢も限界に近づきつつあったからである。クーポンの額が増えていてこれならクーポンだけで眼鏡が買えそうだと思ったのも理由だけど。
 思い立ったのは6月の末か、7月のはじめ。今年の夏の目標の一つは眼鏡を買うことだと決めたのに、実際に眼鏡屋に足を運んだのは夏も終わった9月も半ばになってからだった。我ながら、優柔不断というか、面倒くさがりというか、嫌になる。眼鏡屋が、全国的なチェーン店から、個人営業の小さなものまでたくさんあって、どこで買うのがいいのかきめかねたというのもあるし、どの店でクーポンが使えるかどうか確認する必要もあった。

 最終的には、シャントフカの中に入っている全国チェーンのお店を選んだ。このお店、数年前には、年齢によって決まるという割引キャンペーンをやっていたのだが、すでに終了しているようで残念。ネット上で確認したところ、今かけているのと似たフレームもいくつか見かけたし、値段は多少高くても(高くないかもしれないけど)クーポンで買うから関係ない。
 ということで、自宅以外の屋内でのマスクの着用が再度義務化されたのをきっかけとして、マスクを付けるのを面倒くさがる人が、買い物に行くのを控えて眼鏡屋も客が少ないのではないかと期待しつつ、昼食時を狙って眼鏡屋に足を向けた。このときは1万コルナもあれば足りるだろうと思っていたのだけど……。
 長くなったので以下次号。
2020年9月11日22時。












2020年09月12日

イジー・メンツル終(九月九日)



 ビロード革命後は作品の数はそれほど多くない。チェコスロバキアが分離した直後の1994年には、なぜかロシア人作家の原作をもとにスビェラークが脚本を書き、ロシア人俳優を主役に据えた映画を作成している。チェコでも公開されたようだが、もともとはロシア語の映画で、チェコ語版は吹き替えだったという話もある。チェコとロシアだけではなく、イギリス、フランス、イタリアも制作に関わっている。
 題名は「Život a neobyčejná dobrodružství vojáka Ivana Čonkina(兵士イバン・チョンキンの人生と尋常ならざる冒険)」というもので、どことなく「シュベイク」を思わせる。シュベイクが第一次世界大戦なら、こちらは第二次世界大戦を舞台にした話で、ソ連万歳の戦争映画に対するパロディだという。テレビで放送されたのを見たことがないので、何とも言えないのだけど、第二次世界大戦中のロシアの村を舞台にしたソ連映画のパロディというのは、個人的にはあまり興味をひかれない。

 その後、十年以上のときを経て、フラバル原作の「英国王給仕人に乾杯!」が2006年に制作される。待望のメンツルの新作、しかもフラバル原作ということで、前評判も高く、公開後の専門家の評価も高かった。チェコ版のアカデミー賞である「チェスキー・レフ」映画賞でも、同年の最優秀映画として表彰を受けている。
 これでフラバル原作のメンツル作品は、短編を除けば五編ということになる。個人的には、最初の二作「厳重に監視された列車」と「つながれたヒバリ」の評価が一番高い。フラバル、メンツル、ネツカーシュの組み合わせは最高である。ただ、放送回数が多くて、放送されているとついつい見てしまうと言う意味では「剃髪式」が一番とも言える。饒舌な上に大声のペピンがうるさすぎてわけがわからなくなるのだけど、ペピンが静かになったらこの映画の魅力が減ってしまいそうなのが困りモノ。

 メンツル最後の作品は2013年に制作された「ドンシャイニ」という作品。今回調べるまで存在すら知らなかった。当時ニュースや宣伝で見た可能性はあるけれども、記憶に残るほどのインパクトは残らなかったということだろう。

 メンツルは、自作の映画に役者としてしばしば登場することでも知られているが、それとは別に、俳優としてもさまざまな映画に出演している。早くは、1964年の伝説的なミュージカル映画「Kdyby tisíc klarinetů(千のクラリネットがあったら)」に出ているようだ。この映画は、劇団信号のイジー・スヒーとイジー・シュリトルが書いた舞台ミュージカルを映画化したものらしい。今見ると出演者が、カレル・ゴット、バルデマル・マトゥシュカという二大歌手を筆頭に、ハナ・へゲロバー、エバ・ピラトバーなんかも出ていて驚きである。昔見たときにはモノクロの荒れた画面で、ゴット以外はよくわからなかったけどさ。メンツルがいたのにも気づかなかった。
 多くはこの作品のように端役での出演だが、主役を演じた作品もある。一つはビェラ・ヒティロバーの1976年の作品「Hra o jablko(林檎ゲーム)」で、もう一つは、ユライ・ヘルツが、ヨゼフ・ネスバドバのSF短編「吸血鬼株式会社」を映画化した「フェラトゥの吸血鬼」という1981年の作品。どちらも「ノバー・ブルナ」に属する監督で、監督仲間から役者としても高く評価されていたことを示していると考えていいのだろうか。

 監督としての作品の減った90年代も、役者としてはさまざまな作品に出演しているが、チェコ初の民放であるノバが制作した二作目のテレビドラマ「Hospoda(飲み屋)」に出ているのを見たときには、役者としても活躍していることを知らなかっただけに驚いた。この番組、最初に放送されたのは1996年から97年にかけてで、まだこちらには来ていなかったが、チェコのテレビ局は過去の作品を頻繁に再放送するので、目にする機会は結構ある。ノバ制作のコメディ・ドラマは集中して見たことはないけど。

 ズデニェク・スビェラークは、メンツルの最晩年について、(恐らく闘病で)辛そうな様子が見ていられなかったと語り、死は苦しみからの解放という意味では一種の救いだったようにも思えると付け加えた。メンツルよりも二歳年上の自分についてはそろそろ順番が回ってくるんじゃないかと思うとスビェラークらしいことも言っていた。残酷な時間の流れの前には、人間というものはあまりにも無力であるなんてことを、訃報を聞くたびに考えてしまう。
2020年9月10日23時。





イジー・メンツェル DVD-BOX













2020年09月11日

イジー・メンツル2(九月八日)



 「つながれたヒバリ」以後、数年の沈黙を余儀なくされたメンツルは、1976年にスビェラーク、スモリャクのツィムルマン劇団と組んで「Na samotě u lesa(森のそばの一軒家)」を制作する。この映画がきっかけになったのか、メンツルは1977年から79年にかけて、ツィムルマン劇団の一員として活動している。ただし、映画の撮影の仕事が忙しくて出演できないことが多かったらしい。確か、この映画も出演したヤン・トシースカがアメリカに亡命したためテレビで放映できなかったという話を聞いたことがある。

 77年には、ハベル大統領を中心とするグループが発表した「憲章77」に対抗して、共産党政権が準備したいわゆる「アンチ憲章」に署名を強要されている。当時、当局ににらまれながら仕事をしていた芸能関係者の大半が、強要に応じて署名したと言われる。多くはその事実については触らないようにしているようだが、メンツルは、自分は恥じることはない、恥じるべきは強制した奴らだとか語っていたという。ただ、後に母校のFAMUで教えていたときに、学生たちからボイコットを食らったという話の原因がこれだったのかもしれない。
 この問題は、出世のために共産党に入党したと称するビロード革命後の政治家たちと、仕事を続けるために「アンチ憲章」に署名した芸術家たちと、どちらが非難されるべきかという話にもつながる。結局「憲章77」に署名もせず、活動の支援もしなかった人たちに「アンチ憲章」に強制的に署名させられた人たちを批判する権利はないということになるか。トシースカなど「アンチ憲章」に署名しながら、裏では「憲章77」関係者を支援していたともいう。同年のうちに亡命してしまうわけだが。

 1980年には、再びフラバル原作の「剃髪式」を制作。メンツル追悼の第一作としてチェコテレビが亡くなったニュースが流れた日に放送したのが、このビール工場を舞台にした作品だった。フルシンスキーも登場するが、誰よりも強い印象を残すのは、イジー・シュミツル演じる主人公の、兄役(弟かも)のハンズリークで、なぜか「ペピン伯父さん」と呼ばれている。これは映画の最後で生まれることが予言された赤ちゃんが原作者のフラバルで、フラバルの伯父さんがペピンだということで、伯父さんと呼ばれると解釈していいのかな。映画の舞台となったニンブルクのビール工場ではこの作品にちなんだビールを生産していたとはずである。


剃髪式 (フラバル・コレクション)





 83年にもフラバル原作の「Slavnosti sněženek(福寿草の祝祭)」。「剃髪式」から引き続いて、フルシンスキー、シュミツル、ハンズリークの三人が主要な役を演じる。ウィキペディアによると、原作者のフラバルもちょい役で出ているらしいのだが、どの役で出ていたのか思い出せない、というか気づけなかった。スビェラークとブルックネルというツィムルマン関係者は、ちょい役だけど確かにいたのを思い出せる。

 そして、85年には第三の代表作である「スイート・スイート・ビレッジ」が公開される。脚本はスビェラーク。この映画について語られるときには、主人公のオティークを演じたハンガリー人の俳優と、オティークとコンビを組むトラック運転手役のスロバキア人のラブダが取り上げられることが多いのだけど、しょっちゅう車をぶつけたり故障させたりしているお医者さんを演じたフルシンスキーも忘れてはいけない。あの村の雰囲気は、この医者の存在なしには考えられない。ちなみに同名の長男も出演しているが父親ほどの存在感はない。


スイート・スイート・ビレッジ イジー・メンツェル監督 [Blu-ray]






 ビロード革命の直前の1989年に公開されたのが、「Konec starých časů(古き時代の終わり)」で、バンチュラの原作を映画化したもの。第一次世界大戦後のチェコスロバキア独立後に、かつての貴族の邸宅を手に入れたなりあがり一家を描いたものだったと記憶する。一回目か二回目かのサマースクールで担当者が自分の一番好きな映画だと言って見せてくれたのだが、正直、こちらのチェコ語のせいもあって、話がいまいち理解できなかった。
 最初に見たときには、気づかなかったと言うよりは、チェコの俳優のことを知らずに気づけなかったのだが、ルドルフ・フルシンスキーが、次男のヤンと親子の役で出演していた。長男のルドルフ若よりも、こちらのヤンのほうが役者としては成功している印象である。政治的な発言が多すぎるのはどうかと思うけど。
 この話もう少し続く。
2020年9月9日22時






タグ:映画
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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