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2019年01月31日

チェッコスロヴァキア(正月廿九日)



 1990年代まで外務省が使用していたチェコの公式表記が、チェコではなく、「チェッコ」であることを知っている人は少なくないだろう。現在では外務省でも、チェコの日本大使館でもほぼ完全に「チェコ」を使用しているようだが、2000年代の初めまでは、要所要所で「チェッコ」を見かけたような記憶がある。
 もちろんこの「チェッコ」という表記は、かつての「チェッコスロヴァキア」の前半部分が単独で使われるようになったものだが、「チェッコスロヴァキア」の表記の起源は、第一次世界大戦後に所謂ベルサイユ体制が確立し、チェコスロバキア第一共和国が独立した時期にさかのぼる。オーストリア・ハンガリーから独立したチェコスロバキアと日本の国交が樹立された1920年に定められた表記が「チェッコスロヴァキア」だったのである。当時は漢字表記あったらしいけど、どんな漢字だったか忘れてしまった。今の中国語の漢字表記とはまったく違うということしか言えない。
 今日の話は、以上のチェコスロバキアの国名表記に関する知識を前提に始まる。

 さて久しぶりにジャパンナレッジのページを見ていたら、「日国友の会」というのの存在に気づいた。「今すぐ用例探しの旅に出よう!」なんてことが書いてあるから、『日本国語大辞典』に収録されている用例についてあれこれ書かれた記事があるのかと思ったら、一般の辞書好き(多分)の人が、『日国』に挙げられているのよりも古い用例を探し出した場合に報告するというページだった。用例がないものについてはできるだけ古いものを報告するのかな。
 その報告された用例で最近公開されたものの中に「チェコスロバキア」があったので、つい覗いてしまった。それがこのページ。1921年2月18日付けの「法律新聞」の記事に「チェックスロバック公使館」という用例があって、これが形は違うけれどもチェコスロバキアの初出例ではないかというのだが、これは怪しい。絶対にもっと古い例があるはずである。

 昔、まだ東京で仕事をしていた頃に、神田の古本市で古いマサリク大統領の伝記を発見したことがある。著者はマサリク大統領が、チェコスロバキア軍団の帰国に際して日本を経由できるように交渉に赴いた際に、警備を担当した警察官だったかな。とにかくマサリク訪日の際に近く接した日本人がその気高さにほだされて、本というよりは小冊子だったけど、伝記を書いてしまったということが序文に書かれていた。
 その伝記は、第一次世界大戦が終わってチェコスロバキアが独立したからこそ上梓されたものであろうから、今手元にないので出版年は確認できないのだけど、恐らく独立後すぐの1919年か、日本との国交が樹立された1920年だったのではないかと推測できる。そして当然、伝記中には「チェッコスロバキア」であるにしろ、「チェックスロバック」であるにしろ、何らかのチェコスロバキアという国を示す言葉が使用されているはずである。

 ということで、国会図書館のデジタルコレクションでマサリク大統領の古い伝記を探してみた。「マサリク」で検索しても伝記だけでなく、1921年より古いものも出てこなかった。昔はカタカナ表記に際して無駄に「ツ」を入れていたことを思い出して、今度は「マサリック」で検索したら、伝記そのものは出てこなかったが、『ヴェルサイユ講和会議列国代表の各名士』という本が引っかかった。
 題名からわかるように、ベルサイユ会議(パリ講和会議)で重要な役割を果たした人物についての本なのだが、チェコスロバキア代表として取り上げられているのが、マサリク大統領なのである。153ページから「チエツクスロヴアク・マサリツク博士」と題されたマサリク大統領の略伝が掲載されている。この「チエツクスロヴアク」が独立したチェコスロバキアを指しているのは言うまでもない。この本は橋口西彦氏の編集で、一橋閣から1919年4月25日に刊行されている。

 では「チェッコスロバキア」の方はと言うと、同じ1919年の11月に外務省が発行したベルサイユ条約の翻訳と、条約の概要をまとめたものの中に出てきた。「同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約並議定書 : 附・波蘭国ニ関スル条約」と「同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約並議定書概要」の二つなのだが、前者の82ページに「「チェッコ、スロヴァキア」國」という表記が見える。この本では固有の地名に鍵カッコを付けるというルールを用いているようで、国名も鍵カッコに入っているのである。これが、間に読点が入っているとはいえ、日本の外務省で「チェッコスロヴァキア」、後に「チェッコ」という表記を使っていた起源ということになるだろうか。
 もちろん、シベリア出兵の口実となったチェコスロバキア軍団の存在を考えれば、1918年の時点で外務省内で「チェッコスロヴァキア」という表記がなされていた可能性はあるが、その場合国を指すと考えていいのか微妙である。とりあえずの結論としては「チェッコスロヴァキア」という表記は第一次世界大戦の講和会議を経て1919年にチェコスロバキアの国名表記として決定されたということにしておく。

 問題は、この用例の報告をするかどうかなのだけど、このためだけに「日国友の会」の会員になるのもなあ。ということで、誰か代わりにやらない? 自分の名前でやっちゃっていいよ。
2019年1月29日23時35分。





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posted by olomoučan at 07:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語
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