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2019年09月20日

マラソン(九月十八日)



 日本で久しぶりに面白いマラソンが見られたらしい。1980年代にまだ田舎にいたころテレビで見ていたマラソンは面白かったというと、懐古趣味、懐旧趣味になってしまうのかもしれないが、チェコに来てから見るマラソンは、ペースメーカーに引っ張られる見どころのないレースばかりで、ペースメーカーのいないオリンピックなんかのマラソンは、日本選手に期待しながら見ていても(マラソンに関してはチェコ選手には期待できない)、いつの間にか先頭集団から姿を消しているということが多くて、終盤の優勝争い以外はつまらないとしか言いようがない。
 それが面白い見ごたえのあるレースになったらしいのは、日本人選手だけの出場で、ペースメーカがいなかったのと、勝負優先のオリンピックの予選だったのとで、有力選手たちが自分で最初から最後までレースを組み立てなければならなかったからだろう。このマラソンに関する記事を読むたびに、見たかったなあと思ってしまう。日本時間の午前9時のスタートで、こちらでは午前2時ということになるから、さすがに起きていられなかった。ネットで中継されるかどうかも不明だったし。
 来年のオリンピックでは、スタート時間がさらに早くなるし、チェコテレビでも放送するだろうから、見ようと思えば見られる。見られるのだけど、またチェコと日本を応援しながら見るにはつまらないレースになりそうだからなあ。チェコの選手で、ザートペクみたいな選手が出てくると、また話は違うのだけど、現在チェコの陸上界がヨーロッパ、世界の舞台である程度戦えるのは中距離まででしかない。

 とまれ、今回のMGCだったけ? マラソンが実現したのは、東京オリンピックのための特例ということらしい。実にもったいない話である。せっかくこんな先例ができたのだから、毎年、今年のレースと同じ条件で開催して、オリンピックだけでなく、世界選手権なんかの代表を選ぶのに使えばいいのに。マラソンの日本選手権とでも名付けて、賞金も準備して、他の大会はこのレースの出場権を獲得するためのものとして位置付ければ、そのうちオリンピックに次ぐ格式の大会にならないだろうか。
 冬場のペースメーカーのついたマラソンで、記録を狙い、出した記録をもとに、「日本選手権」への出場権を得て、日本選手権ではタイムよりも勝負を競うというサイクルが出来上がれば、長期的な強化にもつながると思うのだけど。絶対的な走力を図るには、記録が大事になるし、大きな大会で勝負するためには、最初から最後まで自力でレースを組み立てる能力が必要になってくるはずだ。

 現役時代、早稲田、SBで陸連から過剰なまでの優遇を受け続けてきた瀬古氏には、是非とも実現させてもらいたいものである。東京オリンピックのための特別レースを一回実現しただけで、ここまで称賛されるのは、80年代の九州に育ったマラソンファンとしては納得がいかない。宮崎の旭化成を筆頭に、福岡の九電工、安川電機、準九州の山口のカネボウなど、地道に強化を続けて成果を挙げていたチームや選手たちの活躍をよそに、瀬古氏を筆頭に東京のチームや選手が優遇されていた(素人のファンにはそう見えた)恨みは深いのである。
 それに昔は、レースによっては、最初から独走したり、割と早い時点でスパートかけたりする選手がいたのに、最近はほとんど皆、ペースメーカーの後ろの有力選手について行くだけというレース運びをするのは、勝ってなおセコいと言われていた瀬古式の走り方の影響じゃないのか。イカンガーの後ろに最後までへばりついて、ゴール前の直線でスパートかけて勝つのが陸連によって過度に評価されたのがよくなかったんじゃないのかなんてことを考えてしまう。

 例の駅伝のせいでマラソンの強化が進まないというのも、残念ながら廃止されてしまった九州一周駅伝を活用して選手を育てていた九州、山口のチームのやり方を根拠もなく批判しているようでむかついた。そんなこんな陸連の九州に対する不当な扱いの象徴が瀬古氏なのだから、多少のことで見直す気にはなれない。褒めているマスコミも同じ穴のムジナだしさ。
 マスコミといえば、日本の報道にはマラソン選手に対する敬意が欠けている。その意味で言えば瀬古氏も犠牲者といえなくもないのだろうけどね。今回のMGCの盛り上がりを、マスコミを利用してあおるだけあおって、この大会の継続につなげるぐらいの芸は見せてほしいところである。

 チェコでは、チェコのマラソンの復権を目指して、ザートペクも支援して90年代半ばからプラハでマラソンが行なわれるようになったが、チェコスロバキアで一番古いマラソンというと、1924年に始まったコシツェのマラソンである。昔コシツェに行ったときに、優勝者の一覧の中に、日本の宗兄弟のどちらかの名前を発見して驚くとともに嬉しくなったことがある。たしか1970年代の後半のことだと思うのだが、昔の日本選手も意外と国外のマラソンに出場していたのである。
 残念なのは、プラハのマラソンもコシツェのも、チェコ、スロバキアのマラソンの強化にはつながっていないことである。日本選手とチェコ、スロバキアの選手が優勝争いとかなるとオリンピックのマラソンを見る気も高まるのだけどねえ。
2019年9月18日24時。









2019年09月19日

中華金龍(九月十七日)



 ゼマン大統領など政治家の主導で中国との関係を深めているチェコだが、それが何らかのいい影響をもたらしているかというと、どうなのだろう。肯定的に評価できる点がゼロだとは言わないが、むしろ悪い影響のほうが多いような気がしてならない。中国からの投資はゼマン大統領が主張していたほどには増えなかったし、チェコに押し寄せる洪水のような中国人たちは、態度があまりよろしくないこともあって、チェコ人たちの中に反外国人感情を呼び起こしている嫌いがなくもない。

 比較的マシなのはスポーツ分野においてだけど、チェコ第二のサッカーチームであるスラビア・プラハが中国資本の手に落ちたことに納得できていない人もいそうである。それに現時点では、余計な口は出さずに金だけ出しているから、オーナー企業としてある程度評価できるけれども、今後かつてのイングランドのオーナー企業がそうだったように、金は出さないくせに選手は引き抜いて行くなんてことにならないという保証はない。今のチームの状態で中国からの資金が停まったら、2010年ごろからの低迷期よりもひどいことになるのは目に見えている。
 これが、経営が不安定な中堅チームを買収して、経営を安定させ、必要以上の資金は投じずに少しずつ成績も上げていこうというのであれば、ほとんど皆もろ手を挙げて賛成するのだろうけど、派手好きの中国と、こちらも派手好きな代理人のトブルディークがそんな堅実なやり方に満足するとは思えない。

 その点、うまくやっているのが、テプリツェのオーナー企業である日系のAGC(旭硝子)である。ここはすでにいい意味で現地化が進んでいて、外資のイメージすらなくなっているのだが、長期的な維持できないような過度の投資はせずに、安定した経営を続け、成績も最近ちょっと下がり目だけど、安定して上位を維持していた。社会貢献の一環としてチームの支援を決めたのか、オーナーとしてチームの運営に文句をつけることもないようだし、チームが経営危機に陥ったという話も聞いたことがないから、必要な資金は出しているようである。
 そのおかげか、最近テプリツェの選手たちのことを、テレビ中継の際に「ガラス職人」と呼ぶことが増えている。バテャがあったことで靴の街になったズリーンの選手たちが「靴職人」と呼ばれるのと同じで、ガラス会社がオーナーになっていることからの呼称だろうけど、これはチェコのサッカー界に日本のAGCが、いやAGCの現地法人が完全に受け入れられてその伝統の一部となったことを示しているのだろう。バテャがズリーンから消えてなお「靴職人」の呼称が使われ続けているように、将来AGCがテプリツェのチームを手放したとしても、「ガラス職人」の呼称は残るはずである。

 話を戻そう。スポーツ界では、もう一つ、現時点ではどんな結果をもたらすかは予想もつかないけれども、興味深い中国とチェコ共同のプロジェクトが進行している。チェコのアイスホッケーリーグで、中国チームのチャイナ・ゴールデン・ドラゴンがプレーしているのである。中国のレベルから考えると、一番上のエクストラリーガはもちろん、その下の二部リーグもレベルが高すぎるということで、3部リーグへの参戦である。
 これは2022年の北京冬季オリンピックに向けたチーム強化の一環で、中国チームは若手選手を中心にした編成で、3人のチェコ人選手がチームに加わっているらしい。監督やコーチなどは当然チェコ人で、将来性のある才能を見込まれた選手たちにチェコのホッケーを学ばせるだけでなく、経験を積ませようという目的もあるようだ。ヤーグルが北京オリンピックのアイスホッケーの顔になったとはいえ、それだけではチームの強化にはならないわけだし。

 中国チームは夏からチェコに入って、ヤーグルのおひざ元であるクラドノで練習を積んでいたようだが、エクストラリーガのチームのあるクラドノは本拠地にできない。最初はプラハの西、クラドノの南にあるベロウンが候補に挙がっていた。それが、ふたを開けてみたらクラドノを挟んでベロウンの反対側、プラハの北西にあるスラニーという町が選ばれていた。3部リーグは3地区に分けて行われていて、中国チームが入っているの中地区。あとの二つが北地区と東地区というのは、何か微妙である。

 九月十二日にスラニーで行われた最初の試合は、ターボルを相手に0−7で大敗。代表選手、もしくは将来の代表候補を集めたチームだろうから、もうちょっとやると期待していたのだけど……。まあ、結果よりも80人ちょっとという観客数のほうが驚きだったけど。縁もゆかりもない中国チームを応援に行く地元の人もいないだろうから、80人のうちの多くはターボルからやってきた応援団だったのかもしれない。
 コリーンで行なわれた第2節も、0−10で大敗。チームの活動期間の関係で先に行なわれた第39節も1−11と、初得点は挙げたもののプシーブラムに破れ、三試合終わった時点で0勝3敗、得点1失点28という惨状で、どこまで教科になっているのかはわからないけど、来年の世界選手権で中国チームが強くなっていたら、来シーズンもチェコリーグに中国チームが参戦するかもしれない。経費は中国側が出すことになっているらしいから、踏み倒されでもしない限りは、チェコのホッケー協会も受け入れに反対はしないだろうし。

 北京オリンピックの中国チームについては、エクストラリーガの外国人選手が、俺は中国代表になって北京オリンピックに出るという捨て台詞と共に中国チームに移籍したなんて話も耳にしたことがある。中国のアイスホッケーの強化は、チェコだけで行われているわけではなさそうだ。
2019年9月18日23時25分。











2019年09月18日

プラハと中国の愚行(九月十六日)



 姉妹都市の協定を結んだプラハと北京がもめている。いや正確に言うと、プラハと中国政府というのが正しいか。チェコ側も政府が口を出していないわけではないが、主体はプラハ市で、三年前に結んだばかりの協定を破棄することを考えているようである。

 話はANOを主体とする連立政権がプラハ市政を握っていたころにさかのぼる。中国の経済力に媚を売りたい勢力が与野党を問わず存在しているのは当時も同じで、どちらから申し出たのかは知らないが、プラハが北京と姉妹都市の協定を結ぶこと自体に反対の声は上がらなかった。中国側も最初からすべての条件を提示していたわけではないようだし。
 ちょっと話がおかしくなったのは、中国側の出してきた条件が明らかになったあとのことだ。その中には、例の悪名高き「一つの中国」条項が含まれていた。中国は世界に一つしかなく、台湾が中国の領土の一部であることを認めることを求めたものだが、政治ではなく文化交流のための姉妹都市協定に、こんな政治的な条項を入れるというのは正気の沙汰だとは思えないのだが、こういうのをごり押しするのが中国の文化交流、経済支援というやつである。

 本来国政とはかかわりのないはずの自治体同士の交流協定に、本来政府レベルで云々されるべき「一つの中国」条項が入ったことで、協定の締結に反対したプラハの市会議員もいた。ただ、ANOをはじめ、当時国政の政権与党だった社会民主党、市民民主党などは、「一つの中国」というのはチェコの政府でも認めていることだから構わないとして、賛成に回った。
 その結果、市議会で可決されて協定が締結されたのだが、それに収まりがつかなかったのが、すでに首都台北がプラハと姉妹都市協定を結んでいた台湾で、プラハ市に対して激しい抗議をするとともに、姉妹都市の協定の見直しをするなんてことも言っていた記憶がある。中国側も台北との協定を破棄するような要求を出したなんて話も聞いたけれども、結局どうなったのかはわからない。

 とまれ、このプラハと北京の姉妹都市協定の締結も一つの理由となって、チェコから、プラハから多くの文化団体が中国に出かけて公演をするようになった。特に演奏技術に定評のあるわりに安価に呼べるらしいチェコのオーケストラに人気があったようである。
 プラハと北京の「(中国にとって)良好な」関係に影が差したのが、昨年の地方選挙でANOがプラハを失い、海賊党などを中心とした市政府が誕生してからのことである。新しく市長になった海賊党のフジープ氏は、文化交流協定に極めて政治的な条項が入っていることを問題にし、北京側に協定の内容の見直し、具体的には「一つの中国」条項の排除を求めた。北京が、いや中国政府が、そんな要求をすんなりのむわけがなく、プラハ市側では、中国側の譲歩がなければ協定は破棄すると発言している。

 中国側は、このプラハ市の態度を外交問題にしたがっているようで、外務省に抗議を入れたという話もある。それで、外務大臣が中国のチェコ大使と会談するとかしないとかいう話もあったのだが、どうなったのだろう。中国側が譲歩するはずはないし、外務大臣がプラハを指導するというのも変な話だから、会談が行われたとしても何ももたらさなかったに違いない。
 それで、今回、夏前から問題になっているのが、中国側の報復である。オーケストラや劇団などが本拠地を離れて、海外などで客演するのは、シーズンオフの夏休みの時期が多い。今年もプラハからいくつかのオーストラやアンサンブルが中国側の招きを受けて、コンサートツアーを行うことが決まっていた。その公演が、中国側のプロモーターに対して必要な許可が下りなかったという理由で、軒並み中止になっているのである。

 現時点では、英名にプラハがついている団体だけのようだが、それでも三つ、四つの団体の公演がキャンセルされ、外交問題になりつつある。ようやく後任が決まった文化大臣と外務大臣が、中国大使館に喚問したところ、公演が中止になったのは中国側が許可を出さなかったからではなく、チェコの団体側の都合だと聞いていると主張したらしい。チェコ側では当然行くつもりで、夏の予定を立てていたわけだから、明らかな嘘である。その自分たちでも信じていない嘘をつき続けるのもまた中国の交渉のやり方である。公演が中止になった団体の代表に、「一つの中国」を認めるという書類にサインすれば許可を出すと交渉を持ちかけたなんて話もあったなあ。
 笑えるのが、プラジャーク・カルテットという演奏団体の中国公演も中止になったことで、チェコ語の「プラジャーク」には、プラハ人という意味もあるけれども、この団体の場合には、「プラハジャーク」は創設者の名字でプラハの町とは何の関係もないのである。団体の人は、あいつら「プラ」と付いている時点で、プラハだと思って禁止したんだろと笑っていた。そして、自分たちは団体の名前に誇りを持っており、その名前が理由で禁止されるなら、中国なんて行かなくていいなんてことを付け加えていた。

 チェコ国内の大勢は、プラハ市と公演の中止をくらった音楽団体を支持しているようだが、ゼマン大統領だけは違った。状況を理解していないフジープ市長のスタンドプレーだとしてプラハ市のやり方を批判したのである。ネドビェットやヤーグルなどチェコの誇る大物スポーツ選手や、モグラのクルテクなんかを中国に売り渡した商売人大統領の面目躍如である。フジープ市長のやり口にはあれこれ問題がないとは言わないけど、これまでの市長たちに比べればはるかにましだし、中国とは比べてはいけないレベルの違いがあると思うけどね。
 バビシュ首相は、社会民主党の文化大臣と外務大臣の管轄だとして、われ関せず的な態度をとっている。この政府、政府ANO部門と政府社会民主党部門に分かれていて、協力関係ができていないどころか、責任の押し付け合いをしている印象である。

 今回の件は、友好とか、経済協力の美名のもとに中国に譲歩しているとこんな困ったことになるという事例とも言えそうだ。その意味ではトランプ大統領には、頑張って中国との対決を続けてほしいものである。
2019年9月16日22時。












2019年09月17日

永延元年五月の実資〈下〉(九月十五日)



承前
 十二日は早朝内裏を退出して、摂政兼家の許に。この日は、十日に始まった法華八講の三日目で五巻の日に当たるのである。右大臣以下六位以上の官人が献上の品を持って参列し、本尊に対して「三匝」と呼ばれる礼拝を行っている。

 十三日もまた摂政兼家のところに、「法を聴かんが為」に向かう。これが法華八講のことであれば、この日が四日目で結願するはずなのだが、結願は翌十四日の記事に書かれている。

 十四日もまた摂政兼家のところに向かう。右大臣為光も参入しているが、これは十日に始まった法華八講の結願のためである。朝の「講」が終わって退出したというが、この時点で第八巻までの講が終わったということだろうか。そうすると法華八講に開経、閉経を合わせて講ずる法華十講で、実資は閉経は利かなかったということかもしれない。夜は参内して天皇の物忌に候じている。

 十五日は引き続き内裏で物忌。未の時だから、午後の早い時間帯に「暴雨雷鳴」。しばらくしてやんだというけれども、この時点ではまだ旱の兆しは見えない。

 十六日は、早朝内裏の物忌から退出し、夕方になって円融上皇のところに参上。候宿はせずにしばらくして退出している。
 伝聞の形で、摂政兼家のところで「御御黷身」という儀式が行われ、公卿が十人参列したというのだが、この儀式の詳細は不明。実資はこれに行かなかったのは、上皇の許に行かなければならなかったからだと言い訳めいたことを記している。

 十七日は、久しぶりに太政大臣頼忠の許に寄ってから参内。内裏では摂政の兼家のところに出向いて退出。歌人としても有名な藤原実方がやってきて、十六日の夜に儀式の後の酒宴のついでに和歌を詠んだということを報告している。実方は、早くに父親を亡くして叔父済時の養子となっていた。済時の小一条流は、師輔流より小野宮に近かった印象がある。

 十八日は、僧厳康に「斎食」をさせているがこれは養父実頼の忌日にあたるからである。同様の理由で、実頼の創建した東北院のある法性寺で諷誦を行っている。その後、清水寺に向かったのは、実頼の命日によるのか、観音の縁日によるのか判断しづらい。

 十九日は、特に何もなく、夜になってから参内して天皇の物忌に候じただけ。

 廿日は、お昼ぐらいから時々小雨が降る。天皇の物忌が続いていて、侍臣たちがそれぞれ「荒巻」を携えて候じている。ただしこの「荒巻」がよくわからない。ぱっと思いつくのは荒巻鮭だけど、物忌に生臭物は持ち込まないだろうし。とまれ実資はこの日でお役御免で夕方退出。

 廿日は、参内して候宿。右大臣藤原為光が、右中将道綱・左少将道長という賀茂祭で為光の下人に投石された二人に、右少将道頼という兼家の子供たちをお供にして賀茂社に参詣。為光は三人それぞれに対して剣を一本送っているが、実資は賀茂祭のときの事件にかかわるのかと推測している。
 伝聞の形で右中弁菅原資忠の死が記される。この二、三日、瘧と呼ばれるマラリアのような病気に苦しんでいて、亡くなってしまったのだという。「忽ち亡逝す」というから、急死だったのだろう。ただし、この人の没年には異説が存在するようだ。
 最後に、大和の丹生川上神社と山城の貴布祢神社という祈雨、止雨に霊験あらたかだとされる二つの神社に雨乞いの使節が送られている。今月に入ってからも平安京ではしばしば激しい雨が降っているが、他所では日照りに苦しんでいたのだろうか。

 廿二日は内裏を退出する前に摂政兼家の宿所に向かって、しばらく雑多な話をして退出。夕方には円融上皇の許へ。候宿はせずに退出。

 廿三日はまず四日分の休暇届を提出。博通という人物を、廿一日に亡くなったことが記される菅原資忠の夫人のところに弔問の使者として派遣。
 左大臣源雅信の子である時通が、昨夜比叡山に登って出家したという話を聞いて、左大臣の許に出向いて事情を聞いている。
 実資の母の異母兄に当たる中宮亮藤原永頼が実資を訪れているが用件は不明。

 廿四日には大極殿で百人の僧による読経が行なわれているが、「炎旱熾盛」というから日照りの激しく長く続いていることから雨乞いのために行なわれたものであろうという。また神泉苑でも内供奉僧の元真に雨乞いのための読経をさせている。実資は休暇中のため以上の話は、来訪した前大弐菅原輔正から聞いたようである。

 廿五日は、円融上皇の許に向かうが、物忌のために上皇の御前には出ていない。物忌は今回の休暇の理由であろうか。外出しているから軽い物忌だったのだろう。この日は、円融上皇の父である村上天皇の国忌に当たるから上皇の許でも儀式が行なわれたか。

 廿六日は記事なし。この日が先日提出した「仮文」の最終日に当たる。

 廿七日は、参内して退出。伝聞で、日照りの災の軽減を祈念して、東西の獄舎に入っている軽罪の者に恩赦を与えたことが記される。

 廿八日は参内して候宿。その前に摂政兼家の許に出向いて、中納言道兼の病を見舞っている。

 廿九日は、早朝に内裏を退出。今日明日は物忌である。
 最近、下痢の病に悩まされているが、この日が特にひどかったことが記される。下痢の回数は十回。医者は白痢だというが、実資は赤い血が混じることもあるので赤痢でもあるかと記す。

 卅日は恐らく病気のために休暇届を出しているが、日数の部分がかけていて不明。ひどかった前日よりも多く回数は十二回だったという。病気で苦しむ中でも細かく数えているあたりが実資である。
2019年9月15日23時。





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2019年09月16日

永延元年五月の実資〈上〉(九月十四日)



 久しぶりに『小右記』である。年末に訓読のデータが飛んでその復元をしていたのだけど、やる気がでずになかなか進まなかった。今後はネタのないときに穴埋めできる程度には、進めて行きたいものである。この時期、記事があまり詳しくなくてよくわからないことも多いのだけど。

 一日は、毎月賀茂社に奉幣をするのだが、今月は穢れの疑いがあって中止。参内して、その後院の法要に出席しているから、あくまで疑いで物忌するほどのものではなかったのだろう。
 円融上皇の許での法要は、四月晦日に始まった上皇の生母、藤原安子を供養するための法華八講である。上皇の兄弟である冷泉上皇、資子内親だけでなく、皇太后の藤原詮子も料を出しているようである。前日の仰せで、日が暮れた後の諷誦は停止されたようである。実資は夜になって退出しているが、資子内親王が参入している。

 二日は、法華八講の三日目で、この日は五巻目を講義するので最も盛大に行われる。実資も参内した後上皇の許に向かうが、摂政兼家、左大臣雅信、右大臣為光以下の諸官が献上の品を持ち寄っており、「其の数巨多なり」ということでここには書かずに別紙に記すと書かれている。この手の別紙が発見されると面白いと思うのだが、難しいだろう。
 その後中宮遵子と摂政の献上したと思われる布の数が記されるのだが、別紙に記すとしたものとは違うのだろうか。その後の諷誦に奉仕した僧名も法華八講の五巻の日の割には数が少なく、中途半端な印象を否めない。

 三日から実資は、前年に亡くなったと思われる室、源惟正の女の一周忌の法要の準備を始める。命日は五月八日である。比叡山に登って、藤原氏出身の親戚かもしれない慶円のところに宿泊している。
 円融上皇主催の法華八講は、この日が最終日のはずだが、公卿たちに供される饗に関しては、事前に定めたとおりにやらせたという。
 この日は、「時々暴雨雷鳴」と激しい雨が降っているので、月末に問題になる日照りはまだ始まっていないと考えていいのだろうか。左近衛府の荒手結が行われているが、珍しく予定通りである。

 四日にはすでに亡き室の一周忌の法要が始まる。東塔の常行堂で行われた修法について、奉仕した層の名前などを含めて詳しく記されている。「未の時許り」だから午後早めの次官に儀式が終わって、実資は比叡山を降り、自宅には戻らず方違えのために藤原陳泰の邸宅に向かう。
 今回の法要には、実資本人だけでなく、兄の高遠など親戚縁者も援助していたようである。また伝聞で比叡山延暦寺の鐘が、移動の際に南谷に転がり落ちて引き上げられないこととが記される。ただどの堂宇の鐘なのかははっきりしない。

 五日は、予定通り左近衛府の騎射の儀式である真手結がおこなわれているが、実資が参加したかどうかは不明。
 雲林院で講演が行われ、「請転法輪講を号」したらしい。「五巻の日」という表現が出てくることから法華八講とのかかわりも考えられるが詳細不明。

 六日は、円融上皇の物忌に参上して退出。右近衛府の荒手結が行われているが、本来は四日に行われるもので、六日には真手結が行われることになっていた。雲林院での講演に捧物として墨五十廷を送っている。

 七日は、まず「少選して罷り出づ」とあるのだが、どこから退出したのかが判然としない。雲林院に行ったとは思えないので、前日の上皇の物忌に参った後の「罷り出づ」が誤りで、上皇の物忌からの退出だったのかもしれない。この日の子の刻に再び「暴雨雷鳴」とあるが、夕立ちのような短い時間に激しく降る雨だろうか。
 前丹波守の藤原為頼がやってきて右近衛府の真手結が延引したことを語っているが、その事情が分からず「奇しむべき事」とコメントしている。ただ、この後、真手結が行われたという記述はなく、この年右近衛府の真手結がいつ行われたのかは不明である。ちなみに藤原為頼は務田崎式部の伯父にあたる人物である。

 八日は、恐らく前年に亡くなった実資室、源惟正の女の命日にあたり、法要が天安寺で行われている。前年の寛和二年五月の記事が残っていれば詳しい事情も分かったのだろうが、残念ながら残っていない。天安寺は天安年間に清原夏野の別荘のあったところに双丘寺として創建された寺。実資との関係はよくわからないが、以後何度か源惟正の女の法要が行われているから、源惟正と関係のあった寺かもしれない。

 九日は二日分の休暇を申請して、摂政兼家の許に。兼家が一条天皇の御前で間違えたことについて指摘をしたようだが、「事は頗る恩言に似る」というのがよくわからない。

 十日には、上皇に続いて摂政兼家の邸宅でも法華八講が始まる。兼家は、この法華八講のために新たに、両部曼陀羅を描き、銀の阿弥陀仏と腋侍の二体を鋳造したらしい。法華経も金泥で五部書写したというが、自分自身で書写したのだろうか。両親と亡くなった正室、それに娘の冷泉天皇女御の超子のために書写したものだという。故人四人と、自分、もしくは今回の法華八講のためのものと合わせて五部ということか。この日の儀式には左大臣源雅信以下の公卿が参入している。
 また内裏や円融上皇の許でも読経が行われているが、左大臣雅信に関しては「左府の誦経已に拠所無し」という世評が記されており、特に理由もなく読経を行ったことを批判されているようである。
 最後にこの日の儀式に奉仕した僧たちの役割と名前が記されるが、あまり知られていない僧の名前も多い。

 十一日は、参内して候宿。その際に修理権大夫藤原安近の言葉で、四月の賀茂祭のときの事件に関して加害者側の右大臣藤原為光が「名を召す」とあるのだが、次の「参対の宣旨」も含めて、実際に何をしたのかはよくわからない。
以下次号
2019年9月14日22時40分。




公卿補任図解総覧―大宝元年(701)~明治元年(1868)












タグ:法華八講

2019年09月15日

コソボ問題(九月十三日)



 最近、バビシュ首相の起訴不起訴、コーネフ像の移転なんかの、結論が出るまで放置しておけと言いたくなるようなものが、毎日のように繰り返されるので、うんざりして7時からのニュースを見ないことが多いのだが、最近おとなしくしているように見えたゼマン大統領がまたまたやらかしてくれた。見ないと思っていたら外遊中で、セルビアに出かけていたのだ。
 セルビア側との会談の中で、ゼマン首相は、チェコがコソボの独立を承認したのは間違いだったのではないかと述べ、今後チェコでは承認の取り消しの議論が行われるべきだと主張したらしい。セルビア側を喜ばせるための発言という面はあるにしても、大統領が政府の外交上の決定に反対するような発言をするのは大きな問題があるはずである。

 隣国のスロバキアは依然としてコソボの独立を承認していないから、この件ではEUも一体化しているわけではないようだが、それは2008年という独立宣言の時期には、まだEUの硬直化、中央集権化が進んでいなかったということだろうか。現在はEUによって、チェコ国家の独立性、唯一性が侵害されていると主張しているゼマン大統領のことだから、承認取り消しを主張することで、EUにゆさぶりをかけているのかもしれない。
 ロシアに対する経済制裁で、経済的に打撃を受けている旧東側のEU加盟国では、コソボの承認のときのように、各国で制裁に参加するかどうかを決められるのが望ましかったはずだ。それがEU全体での経済制裁となったのに、ドイツはしれっとロシアと組んで新しいパイプラインの建設にお金を出して、ロシアから天然ガスだか石油だかを輸入すると言っているのだから、不満も高まる。そんな不満を代弁しているのがゼマン大統領だと考えることもできなくはないのだが、現実はどうだろう。

 外務大臣はチェコ政府にはコソボの承認を取り消すような考えは現時点ではないと言いながら、ゼマン大統領が帰国したら直接話し合いを持ちたいというようなことを言っていた。問題は、この外務大臣が社会民主党出身であることで、この一件もゼマン大統領による社会民主党潰しの一環にも見えなくはない。大統領と外務大臣が対立しても、バビシュ首相は大統領側に立って仲介役なんてしないだろうから、今後、外務大臣の座を巡ってこの前の文化大臣のような事態が起こらないとも限らない。
 今回のゼマン大統領の発言を歴史的に解釈すると、啓蒙主義、もしくは民族覚醒の時代から続く、チェコ民族の将来をめぐる対立の表れの一つと見ることもできる。旧ユーゴスラビア内戦の中心となりEUでは戦犯国家扱いされているセルビアは当然ロシアの支援を求めた。それに対してコソボがEUの支援を求めたのも当然である。言い換えれば、セルビアとコソボの対立は、東のロシアと西のEU、特に中東欧に大きな影響力を持つドイツの対立でもあるのだ。

 第一次世界大戦以前の、チェコスロバキアがまだ独立国家として成立していなかったころ、チェコの政界に於いては、二つの相反する主張が存在した。一つは帝政ロシアを中心にスラブ民族を糾合した国の一部となることを目指す汎スラブ主義と呼ばれるもので、もう一つは、ハプスブルク帝国、かつての神聖ローマ帝国領域との結びつきを重視して、ドイツ国家の中でチェコ人国家の独立を確保するという考え方だった。ただしどちらも国家の樹立までは考えていなかったらしい。
 この二派の対立を解消したのが、マサリク大統領の登場で、第一次世界大戦とその後のロシア革命を上手く利用して、チェコ民族単独ではなかったとはいえ、チェコスロバキアという形で独立を達成したのである。その後、第二次世界大戦では実質的に西のドイツに併合され、戦後はまた西にも東にも属さない、東西の懸け橋になろうとしたものの、東のソ連に取り込まれてしまった。ソ連崩壊後は、西に、ドイツに近づいて、EUに加盟したというわけである。
 チェコ民族のドイツとロシアの間で揺れてきた歴史を考えると、ゼマン大統領は過去の遺物と見られていた汎スラブ主義を、チェコ国内に呼び起こそうとしているのである。なんていうとほめ過ぎになるかな。

 最後に付け加えておくとすれば、先日コソボで行われたサッカーの試合に際して、チェコのファンが、ドローンにセルビアの旗と「コソボはセルビアだ」と書かれた垂れ幕を付けて所持していたのをとがめられて警察に逮捕されるという事件が起こった。チェコから出かけたのか、セルビア、もしくはコソボ在住のチェコ人なのかはわからないようだが、ゼマン大統領の主張に賛同するチェコ人もいないわけではないのだ。それが考えなしの迷惑サッカーファンだとしても。
 これにゼマン大統領の発言が重なったわけだから、今度チェコで行われるコソボとの試合は、なかなか荒れたものになりそうである。スポーツに政治を、政治にスポーツを持ち込もうとする点でも、朝鮮半島と並んで、バルカンは厄介なのだけど、それをチェコ人がまねしてどうする。こういうのは、容赦なく厳罰に処すに越したことはない。
2019年9月13日23時45分。





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2019年09月14日

プリマベシ邸(九月十二日)



 ジャパンナレッジに収録されている『日本大百科全書』は、絶えず新項目の追加や、既存の記事の改定が行われていて、定期的に更新情報が掲載される。いつも見るわけではないのだけど、今月たまたま八月の更新分を知らせるページを開いてみたら、画像追加のところにクリムトが上がっていて、追加された画像のキャプションに、「メーダ・プリマベージの肖像」と作品名が書かれていた。

 森雅裕の影響でクリムトに興味を持って以来、展覧会に出かけたり画集を買ったり、果てはウィーンの分離派会館に出かけたりしてきたが、絵は見てもその題名までは、特に人物画の場合には誰が描かれているのかまでは、あまり意識していなかった。この少女の絵も見たことはあると思うのだが、それが、「プリマベージ」の名を持っているとは思いもしなかった。
 オロモウツの観光名所の一つ、ジャーマン・セセッション様式の傑作プリマベシ邸を建てたプリマベシの人たちが、ウィーン分離派のクリムトと親交があって、邸内にクリムトのデザインしたものがあったなんて話は聞いていたけれども、絵を依頼したなんて話も聞いていたかもしれないけど、こんな有名な作品にプリマベシが出てくるとは思いもしなかった。クリムトファンであり、オロモウツの観光地としてはプリマベシ邸を一番推しているのに、不覚もいいところである。

 これまで、あちこちでプリマベシ邸のことには触れてきたけれども、断片的であまり詳しく書いていないので、ここらで一つまとめておこうと思う。参考になるようなプリマベシ邸のHPも公開されているし。以前は中に入っていたレストランのページしかなくて、建物そのものについての情報はあまりなかったのだけど、邸宅の歴史や、プリマベシ一族の歴史なんかについてもかなり詳しく知ることができるようになっている。ありがたいことである。
 最初に自分が誤解していたことを告白しなければならないのだが、プリマベシ家はイタリアからモラビアに移ってきた医者だと思い込んでいた。実際には、プリマベシ家はイタリアでは洗濯業を営んでおり、オロモウツに移ってきてからはさまざまな産業に手を出したようだが、中心となるのは製糖業と銀行業で、医者を稼業にしていたのは、第一次世界大戦後にオロモウツを離れてウィーンに移ることを決めたプリマベシ家が邸宅を手放した後に、買い取ったチェコ人たちだった。その結果、1926年から1992年までの66年間にわたって病院、サナトリウムとして使用されることになる。

 プリマベシ邸の歴史は1905年にまでさかのぼる。この年にオットー・プリマベシが、現在邸宅の建っているところにあった二軒のルネサンス様式の家を買い取り、新しい邸宅の建設を始めたのである。オットーはモラビアに拠点を移してから5代目の当主で、ウィーンにも事業と生活の拠点を有していたようで、ウィーンの女優だったオイゲニアを妻として迎えている。このオイゲニア・プリマベシもクリムトの絵のモデルになっている。芸名としてはメーダという名前を使っていたというから、二枚の絵はどちらともメーダ・プリマベシを描いたと言ってもいい。
 ちなみにオイゲニア・プリマベシを描いた作品は日本の豊田市美術館に収蔵されているようだ。おまけに現在クリムト展開催中というのは偶然というか何と言うか。チェコの近代建築の父でもあるオットー・ワーグネルの作品、家具もあるというから目の付け所が、さすがチェコに工場を建てたトヨタである。ってのは誤解かな。
 クリムトを初めとするウィーンの芸術家達のパトロンでもあったオットーの邸宅は、設計も内装もウィーンの芸術家たちの手になるもので、完成したのは翌年の1906年である。以後第一次世界大戦が終わりオーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊する1918年まで、プリマベシ家のオロモウツにおける本邸となる。建築から10年ちょっとしかプリマベシ家の人々はこの邸宅を利用できなかったのである。

 2000年ごろは、病院時代の名残だったのか、空気が汚くて汚れていただけなのかは知らないが、建物の外壁は黒く、すでに国有化される前の持ち主であるポスピーシル家の手に返還されて改修が始まっていると聞いていたから、それが本来の色だったのだと思っていた。あるとき、久しぶりに前を通って、聖ミハル教会の近くの奥まったところにあるので、要がなければ通らないのだが、色が明るいクリーム色に変わっていてびっくりした。そのときはこれから黒く塗るのだろうと考えたのだが、いつまでたってもそのまま。実はこちらの色が本来の色だったのだ。
 個人的には黒も、怪しい魔法使いかなんかが住んでいるような感じもして結構気に入っていた。世紀末ウィーンの退廃を感じさせる分離派とつながりのあったプリマベシだしさ。でも、プリマベシ家が銀行業をも営むようなモラビアの経済界の大物だったことを考えると、さわやかに明るい今の色のほうがいいのかなあ。

 以前入っていたレストランが閉店した後、新しいレストランはまだ入っていないので、敷地の中にも入りにくくなったが、オロモウツの市庁舎に入っているインフォメーションセンターによって、毎週月曜日と火曜日の午後に二回ずつ、プリマベシ邸の案内つき見学が始まっているようである。以前EU全体でやっている文化財の日か何かに特別に中に入ることができて、一階の部分は見せてもらったことがあるのだけど、もう一度見てみたいと思っていたのだ。問題はいつ時間が取れるかである。
2019年9月12日24時。





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2019年09月13日

Gre〈私的チェコ語辞典〉(九月十一日)



 チェコ語の外国の地名の中には、日本語でカタカナ表記するものと大きく違っていて、覚えるのに苦労するものが、ドイツ、オーストリアの地名を中心にたくさんある。国名の場合には、現地の国名が基になっているのか、ある程度日本語の国名との関連性が感じられるものが多い。例外は、またドイツとオーストリアで、それぞれニェメツコとラコウスコになるのだけど、国名がチェコ語に翻訳された「黒い山(Černá hora)」=モンテネグロと、「象牙海岸(Pobřeží slonoviny)」=コートジボワールも、最初に聞いたときには国名であることが理解できなかった。
 もう一つよくわからないのが、ギリシャである、チェコ語ではなぜか「Řecko」となっていて、最後の「cko」が国名や地域名に頻出する語尾であることを考えると、意味のある部分は「ře」のはずなのだが、「ře」がどこから来たのかがわからない。さらによくわからないのが、子音「ř」を持たないスロバキア語では、「r」で代用されることが多いのに、「Řecko」だけは「Grécko」になることである。ということは、チェコ語の外国の地名の語頭に現れる「ře」は、「gre」と対応しているということだろうか。

 チェコテレビで放送されたドラマの「チェトニツケー・フモレスキ」の主人公アラジムの妻になるルドミラ・ホルカーには、父か母の違う兄がいて、この人物の名字がジェホシュ、チェコ語で書くと「Řehoř」である。世界恐慌で経済の悪化したチェコスロバキアを出て、アメリカにわたり実業家として成功してチェコスロバキアに戻ってきたという設定なのだが、「Řehoř」では覚えてもらえないどころか、発音さえしてもらえないということで、英語風の名字を使っている。それがマックグレゴルで、最初の「マック」はともかく、グレゴルは「Gregor」と書くだろうから、ここにも「ře」と「gre」の対応が見られるのである。
 このグレゴルは、ラテン語の形だとグレゴリウスになり、ローマ教皇のグレゴリウスも、チェコではジェホシュと呼ばれている。一番有名なのはグレゴリオ暦に名前を残しているグレゴリウス13世だろうか。そのグレゴリオ暦は「gregoriánský kalendář」ということになって、ジェホシュのジェの字も出てこないのだけどさ。

 ここで思いついたのが、アイスホッケー界のヤーグルを越える英雄であるグレツキーのことである。綴りを見ると「Gretzky」になっているから、チェコ系ではないにしてもスラブ系の移民の子孫であることは明らかである。ツを「tz」と二文字で表記しているからポーランド語ぽいとは思うのだが、この人がチェコ系だった、「ジェツキー」という名字だったかもしれない。いや、ポーランド語でも、名字の意味は「ギリシャの」という形容詞だったのかもしれない。
 そして「ře」で始まる外国の地名といえば、「Řezno」である。これがドイツのレーゲンスブルクだというのには、チェコ語を勉強し始めのころに、見ただけ、聞いただけではどこのことか理解できない地名として教えられたかもしれない。でも、この地名が本来グレーゲンスブルクだったとしたら、「ře」と「gre」の対応を考えると、ちょっと覚えやすくなるような気がしないでもない。まあ、レーゲンスブルクがグレーゲンスブルクだったなんて話は、どこにも存在しないので、単なる妄想の類なんだけどね。

 大学書林で出している『チェコ語日本語辞典』には「gre」で始まる言葉は一つも立項されていない。これも外国語の語頭の「gre」が「ře」に対応することを裏付けるなんて、えらそうなことを書こうとして、「grep」の存在を思い出した。グレプと読むこの言葉、日本のグレープとは似て異なるものである。グレープジュース、つまりブドウのジュースは、チェコ語では「hroznový džus」になる。形容詞のもとになった「hrozen」がブドウだけをさすのかどうかは難しいところだが、ワインを意味する「víno」でブドウを表わすこともある。
 チェコ語のグレプは、グレープはグレープでもグレープフルーツをさす言葉である。「grepový džus」とあるのを見てグレープだと思って注文すると、予想とは違ったものが出てきて困惑することになる。お店で買うなら液体の色やパッケージでブドウではないことが理解できると思うけどね。グレープフルーツの「gre」が「ře」になって、「řep」にはならなかったのは、チェコで手に入るようになったが遅かったからだろうか。それなら素直に「grépfruit」と書いて、「グレープフルイト」と読んでもよさそうだけど、長くて省略されたかな。

 うーん、Gではなくて、Řの話になってしまった。
2019年9月11日24時30分。










タグ:人名 地名 外国

2019年09月12日

チェコ代表一勝一敗(九月十日)



 先週の金曜日に行われたヨーロッパ選手権の予選で、チェコ代表がコソボ代表に負けたことはすでにちらっとふれた。今日はバルカン連戦でモンテネグロでの試合だった。チェコでの試合はオロモウツで行われ、チェコが3−0で完勝しているのだが、この試合で勝てないようだと、代表の監督として信頼を獲得しつつあったシルハビーへの風当たりが強くなって、解任なんて騒ぎになりかねない。なんてことを考えながら見ていたら、前半は苦戦したものの、きっちりまた3−0で勝って、一安心である。

 今回の予選の初戦でイングランドに0−5と手も足も出ない感じで惨敗した後、六月のブルガリアとモンテネグロとの試合に連勝して、評価を挙げたシルハビーの率いる代表だが、コソボでの出来は最低だった。気温の高さとか、グラウンドの芝の状態とか、久しぶりの代表選とか言い訳になりそうなことはいくつかあるけど、浮足立ったというか、気が抜けたというか、見ていてイライラするようなシーンが多かった。失点の場面が一番ひどかったけど。
 選ばれたメンバーで、6月の時点と比べて大きく違うのは、ダリダが怪我から復帰したことぐらい。キーパーのバツリークも欠場していたかな。ソウチェクやクラールなどスラビアの選手を軸に据えてのチーム作りを考えているのか、サイドハーフのマソプストと、サイドバックのボジルも先発で出場していた。出場選手などはこちらから。

 前半は開始直後からチェコが攻め込む展開だったのだけど、あんまり点が取れそうな雰囲気はなかった。それなのに、15分ぐらいにボジルとヤンクトのサイドから攻め込んで、最後は真ん中のシクがディフェンスの足の間を抜くようなシュートをゴールポストぎりぎりに決めて先制。これで嫌な予感は、予感に終わると思ったのだけど、甘かった。
 チェコの得点の3分後ぐらいに、相手陣内に攻め込んでいたところからパスミスでボールを失ってカウンターを食らって同点に追いつかれた。パスをミスしたチェルーストカのボールを持った選手へのディフェンスも、得点を決めた選手をマークしていたスヒーのディフェンスも、アリバイ的について行っているだけで、チェコ代表の問題が攻撃よりも守備にあることを改めて見せつけていた。ブリュックネルの時代も、どちらかというと守備が問題だったけど、ここまで軽い守備はしていなかったと思う。
 失点してからは、やることなすことうまくいかなくなって、ボールは保持して相手陣内に攻め込んではいるけど、攻撃は手詰まりという印象だった。実況のボサーク師匠も指摘していたけど、最悪だったのはセットプレーで、フリーキックもコーナーキックも、何の脅威にもなっていなかったからコソボとしては楽だっただろう。

 後半に入って、またカウンターから攻め込まれて、コーナーキックを与えたら、チェコ側が守備位置の確認をしているすきをついて、ボールが蹴られ、マークする選手から目を離していたヤンクトが気づいたときにはもう遅く、守備が間に合わずに失点。キーパーの前にいた二人が止められていてもおかしくはないシュートだったのだが、絶妙な位置に飛んで触れず、バツリークも視界を遮られて反応が遅れていた。チェコの出来も悪かったけど、運もなかったのである。
 監督のシルハビーの選手交代も遅く、ブリュックネルだったら、前半からまったく機能していなかったマソプストは前半のうちに交代させられていただろうなんてことを考えてしまった。前半から出来が悪かったのはマソプストだけじゃないけどね。とまれ交替出てきたクルメンチークもドレジャルもフシュバウエルも、決定的な仕事はできず、あっさりと負けてしまった。その負けっぷりが、現在世界選手権で大健闘中のバスケットのチェコ代表と比較するとあまりにも情けないというので、強烈な批判が飛んでいた。

 今日の試合は何人か先発メンバーを変えてくるのではないかと予想されたのだが、コソボでの試合からの変更はカデジャーベクに代わって、ツォウファルがサイドバックに入っただけ。試合前のシルハビーの話では、前のマソプストとスラビア選手立て並びで、オートマチックなコンビネーションに期待しているのだとか。これ前半は完全に期待はずれだった。試合の情報はこちらから。

 試合のほうは、前半はコソボ戦に続いて低調。守備はしっかり相手選手に当たって反則を取られても止めるという意識が見えたような気がしたけど、攻撃があまりうまく行っていなかった。ただ、セットプレーのヤンクトとダリダが送り出すボールが大幅に改善されていて、惜しいチャンスをいくつか作り出せていた。中でもソウチェクがコーナーキックから二度、フリーでヘディングに持ち込んだのは、何で外すかと頭を抱えてしまった。ほかにもいくつか惜しいシーンはあって、いずれも詰めが甘くて得点にはいたらなかった。相手にチャンスを作られてバツリークのおかげで失点しなかったというシーンもあったので互角だったといっていいのかな。
 後半も、怪我のスヒーに代わってブラベツが出場した以外は、前半と同じメンバーで開始。50分過ぎにヤンクトのフリーキックから、ソウチェクが三度目の正直で頭でゴールを決め、その少し後には同じくヤンクトのコーナーキックからマソプストがボレーシュートを決めて2−0。これでチェコの選手たちのプレーが一気に落ち着いて、危なげなく試合をコントロールできるようになった。最後にボールを持ってペナルティエリアに入ったクラールが倒されてPKを獲得したのはおまけのようなもの。ダリダが確実に決めて、オロモウツでの試合と同様3−0で勝った。

 この試合で最悪だったのは、オフサイドラインぎりぎりでヤンクトがボールをもらった際に、審判以外の笛が吹かれて、プレーを止めるというシーンが二度も発生したことだ。一回目は何事もなかったかのように試合を進めた審判も、二回目には試合をとめてアシスタントがモンテネグロのベンチで笛を持っている人がいないか確認していた。こういうのが起こるのもやっぱバルカンの国なのだよ。チェコのチームが対戦を避けたがる理由はこんなところにもある。

 とまれ、コソボがイングランドで打ち合いの末に3−5で負けたおかげで、チェコは勝ち点9でグループ2位に復帰した。3位のコソボとの差は1しかないけど、ホームでのコソボ戦に負けなければ本選出場はほぼ確定である。ただ、この予選でのコソボは、妙にツキがあるように見えるから油断は大敵だろうけど。
2019年9月10日24時。











2019年09月11日

F〈私的チェコ語辞典〉(九月九日)



 新暦とは言え重陽の節句に何を書こうと考えて、特に思いつくものがなかった。八月の終わりに夏野フローラ、園芸の即売展示会が行なわれたけど、菊なんてなかっただろうし。書かなければならないネタもないし立ち上げたまま、何本か記事を書いて放置してある企画(ってほどじゃないけど)の新しい記事を積み重ねていこう。ということで、チェコ語の話である。

 以前「E」で始まる言葉であれこれ書けそうなものを探したときにも少ないと思ったのだが、「F」で始まる言葉もそれほど多くない。しかも外来語が多いせいで、妙に長くて覚えにくい単語が多い印象がある。地名にも少ないと言う印象があるからか、今年の夏にフルネクに行こうと思って、接続を検索した時に、「Fulnek」というつづりを間違えてしまったことがある。フリーデクとかフリンシュタートなんかは間違えないのだけど……。
 そもそも、文字としての「F」を表すときに使う口語表現の「エフコ」自体が、「Fko」と書くのか「efko」と書くのかわからない。ワードの校正機能ではどちらも赤字がついているから間違いなのだろうか。「F」だけで「エフコ」と読んでも間違いではなさそうだけど。まあ使うのが試験に合格できなかったときぐらいだからなあ。そんな機会はないほうがありがたいし、つづりなんかどうでもいいか。

 Fで始まる単語でぱっと思いつくのが、ファンを意味する「fanoušek(ファノウシェク)」である。チェコ人の苗字の「Hanousek(ハノウセク)」と混同して、最後が「sek」か「šek」か悩むことも多い。女性形は「fanynka(ファニンカ)」で、最初に聞いたときには、男性のファノウシェクとの関連が見えずに理解できなかった。それから口語的な表現で「fanda(ファンダ)」というのもあって、以前はテレビ局ノバのチャンネルの一つがファンダだったのだが、最近ノバ・アクションに改名して、つまらなくなった。

 ファニンカで思い出したのが、犬の女性形である。猫ならコチカ(雌)、コツォウル(雄)である程度似ているのだが、犬の場合は雄の「pes(ペス)」とメスの「fena(フェナ)」で、まったく違う。そのため何度教えられても、なかなか覚えられなかった。性別を気にせずに使う場合には猫が女性形のコチカを使うのに対して、犬は男性形のペスを使うから、覚えなくてもいいと言えばいいのだけど。猫の男性形のコツォウルを覚えているのは、『長靴を履いた猫』のチェコ語訳で登場するからに過ぎないのだし。
 犬の女性形のフェナで注意が必要なのは、男性名詞の「fén(フェーン)」を混同してしまうことで、特に複数二格の「fen」は間違えやすい。長母音と短母音の違いがあるとは言っても、耳で聞くと、とっさには判断がつかないこともある。ちなみにフェーンはドライヤーという意味なので、ペットサロンなんかで犬の体を洗ってドライヤーで乾燥させるなんて状況を考えると、同じ文脈の中に両方の名詞が登場しても全くおかしくはない。

 昔、大学でチェコ語を勉強していたときによく間違えたのが、カタカナで書くと「ファクルタ」と「ファクトゥラ」である。前者は「fakulta」と書いて、大学の学部を意味し、後者は「faktura」で請求書を意味する。耳のいいチェコ人には問題なくても、「L」と「R」、「U」のあるなしの区別がつかない日本人には混同しやすいのだ。
 確か、師匠に大学でお金払うから請求書をもらって来いとか何とか言われたときに、学部もらってくるの? と首をひねっていたら、大笑いされた。それで、請求書じゃなくて領収書もらってくれば、お金渡すよということになったのだが、この領収書がまた覚えにくい言葉で……。パラゴンだったかな。ウーチテンカでもよさそうだけど。

 ということで今日の文章、どう考えても自己評価はFである。頭がいたい中書いたし、掲載も遅れてしまったし、うまく落ちてないし。
2019年9月9日24時30分。









タグ:名詞 失敗
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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