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2019年09月17日

永延元年五月の実資〈下〉(九月十五日)



承前
 十二日は早朝内裏を退出して、摂政兼家の許に。この日は、十日に始まった法華八講の三日目で五巻の日に当たるのである。右大臣以下六位以上の官人が献上の品を持って参列し、本尊に対して「三匝」と呼ばれる礼拝を行っている。

 十三日もまた摂政兼家のところに、「法を聴かんが為」に向かう。これが法華八講のことであれば、この日が四日目で結願するはずなのだが、結願は翌十四日の記事に書かれている。

 十四日もまた摂政兼家のところに向かう。右大臣為光も参入しているが、これは十日に始まった法華八講の結願のためである。朝の「講」が終わって退出したというが、この時点で第八巻までの講が終わったということだろうか。そうすると法華八講に開経、閉経を合わせて講ずる法華十講で、実資は閉経は利かなかったということかもしれない。夜は参内して天皇の物忌に候じている。

 十五日は引き続き内裏で物忌。未の時だから、午後の早い時間帯に「暴雨雷鳴」。しばらくしてやんだというけれども、この時点ではまだ旱の兆しは見えない。

 十六日は、早朝内裏の物忌から退出し、夕方になって円融上皇のところに参上。候宿はせずにしばらくして退出している。
 伝聞の形で、摂政兼家のところで「御御黷身」という儀式が行われ、公卿が十人参列したというのだが、この儀式の詳細は不明。実資はこれに行かなかったのは、上皇の許に行かなければならなかったからだと言い訳めいたことを記している。

 十七日は、久しぶりに太政大臣頼忠の許に寄ってから参内。内裏では摂政の兼家のところに出向いて退出。歌人としても有名な藤原実方がやってきて、十六日の夜に儀式の後の酒宴のついでに和歌を詠んだということを報告している。実方は、早くに父親を亡くして叔父済時の養子となっていた。済時の小一条流は、師輔流より小野宮に近かった印象がある。

 十八日は、僧厳康に「斎食」をさせているがこれは養父実頼の忌日にあたるからである。同様の理由で、実頼の創建した東北院のある法性寺で諷誦を行っている。その後、清水寺に向かったのは、実頼の命日によるのか、観音の縁日によるのか判断しづらい。

 十九日は、特に何もなく、夜になってから参内して天皇の物忌に候じただけ。

 廿日は、お昼ぐらいから時々小雨が降る。天皇の物忌が続いていて、侍臣たちがそれぞれ「荒巻」を携えて候じている。ただしこの「荒巻」がよくわからない。ぱっと思いつくのは荒巻鮭だけど、物忌に生臭物は持ち込まないだろうし。とまれ実資はこの日でお役御免で夕方退出。

 廿日は、参内して候宿。右大臣藤原為光が、右中将道綱・左少将道長という賀茂祭で為光の下人に投石された二人に、右少将道頼という兼家の子供たちをお供にして賀茂社に参詣。為光は三人それぞれに対して剣を一本送っているが、実資は賀茂祭のときの事件にかかわるのかと推測している。
 伝聞の形で右中弁菅原資忠の死が記される。この二、三日、瘧と呼ばれるマラリアのような病気に苦しんでいて、亡くなってしまったのだという。「忽ち亡逝す」というから、急死だったのだろう。ただし、この人の没年には異説が存在するようだ。
 最後に、大和の丹生川上神社と山城の貴布祢神社という祈雨、止雨に霊験あらたかだとされる二つの神社に雨乞いの使節が送られている。今月に入ってからも平安京ではしばしば激しい雨が降っているが、他所では日照りに苦しんでいたのだろうか。

 廿二日は内裏を退出する前に摂政兼家の宿所に向かって、しばらく雑多な話をして退出。夕方には円融上皇の許へ。候宿はせずに退出。

 廿三日はまず四日分の休暇届を提出。博通という人物を、廿一日に亡くなったことが記される菅原資忠の夫人のところに弔問の使者として派遣。
 左大臣源雅信の子である時通が、昨夜比叡山に登って出家したという話を聞いて、左大臣の許に出向いて事情を聞いている。
 実資の母の異母兄に当たる中宮亮藤原永頼が実資を訪れているが用件は不明。

 廿四日には大極殿で百人の僧による読経が行なわれているが、「炎旱熾盛」というから日照りの激しく長く続いていることから雨乞いのために行なわれたものであろうという。また神泉苑でも内供奉僧の元真に雨乞いのための読経をさせている。実資は休暇中のため以上の話は、来訪した前大弐菅原輔正から聞いたようである。

 廿五日は、円融上皇の許に向かうが、物忌のために上皇の御前には出ていない。物忌は今回の休暇の理由であろうか。外出しているから軽い物忌だったのだろう。この日は、円融上皇の父である村上天皇の国忌に当たるから上皇の許でも儀式が行なわれたか。

 廿六日は記事なし。この日が先日提出した「仮文」の最終日に当たる。

 廿七日は、参内して退出。伝聞で、日照りの災の軽減を祈念して、東西の獄舎に入っている軽罪の者に恩赦を与えたことが記される。

 廿八日は参内して候宿。その前に摂政兼家の許に出向いて、中納言道兼の病を見舞っている。

 廿九日は、早朝に内裏を退出。今日明日は物忌である。
 最近、下痢の病に悩まされているが、この日が特にひどかったことが記される。下痢の回数は十回。医者は白痢だというが、実資は赤い血が混じることもあるので赤痢でもあるかと記す。

 卅日は恐らく病気のために休暇届を出しているが、日数の部分がかけていて不明。ひどかった前日よりも多く回数は十二回だったという。病気で苦しむ中でも細かく数えているあたりが実資である。
2019年9月15日23時。





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