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2019年09月16日

永延元年五月の実資〈上〉(九月十四日)



 久しぶりに『小右記』である。年末に訓読のデータが飛んでその復元をしていたのだけど、やる気がでずになかなか進まなかった。今後はネタのないときに穴埋めできる程度には、進めて行きたいものである。この時期、記事があまり詳しくなくてよくわからないことも多いのだけど。

 一日は、毎月賀茂社に奉幣をするのだが、今月は穢れの疑いがあって中止。参内して、その後院の法要に出席しているから、あくまで疑いで物忌するほどのものではなかったのだろう。
 円融上皇の許での法要は、四月晦日に始まった上皇の生母、藤原安子を供養するための法華八講である。上皇の兄弟である冷泉上皇、資子内親だけでなく、皇太后の藤原詮子も料を出しているようである。前日の仰せで、日が暮れた後の諷誦は停止されたようである。実資は夜になって退出しているが、資子内親王が参入している。

 二日は、法華八講の三日目で、この日は五巻目を講義するので最も盛大に行われる。実資も参内した後上皇の許に向かうが、摂政兼家、左大臣雅信、右大臣為光以下の諸官が献上の品を持ち寄っており、「其の数巨多なり」ということでここには書かずに別紙に記すと書かれている。この手の別紙が発見されると面白いと思うのだが、難しいだろう。
 その後中宮遵子と摂政の献上したと思われる布の数が記されるのだが、別紙に記すとしたものとは違うのだろうか。その後の諷誦に奉仕した僧名も法華八講の五巻の日の割には数が少なく、中途半端な印象を否めない。

 三日から実資は、前年に亡くなったと思われる室、源惟正の女の一周忌の法要の準備を始める。命日は五月八日である。比叡山に登って、藤原氏出身の親戚かもしれない慶円のところに宿泊している。
 円融上皇主催の法華八講は、この日が最終日のはずだが、公卿たちに供される饗に関しては、事前に定めたとおりにやらせたという。
 この日は、「時々暴雨雷鳴」と激しい雨が降っているので、月末に問題になる日照りはまだ始まっていないと考えていいのだろうか。左近衛府の荒手結が行われているが、珍しく予定通りである。

 四日にはすでに亡き室の一周忌の法要が始まる。東塔の常行堂で行われた修法について、奉仕した層の名前などを含めて詳しく記されている。「未の時許り」だから午後早めの次官に儀式が終わって、実資は比叡山を降り、自宅には戻らず方違えのために藤原陳泰の邸宅に向かう。
 今回の法要には、実資本人だけでなく、兄の高遠など親戚縁者も援助していたようである。また伝聞で比叡山延暦寺の鐘が、移動の際に南谷に転がり落ちて引き上げられないこととが記される。ただどの堂宇の鐘なのかははっきりしない。

 五日は、予定通り左近衛府の騎射の儀式である真手結がおこなわれているが、実資が参加したかどうかは不明。
 雲林院で講演が行われ、「請転法輪講を号」したらしい。「五巻の日」という表現が出てくることから法華八講とのかかわりも考えられるが詳細不明。

 六日は、円融上皇の物忌に参上して退出。右近衛府の荒手結が行われているが、本来は四日に行われるもので、六日には真手結が行われることになっていた。雲林院での講演に捧物として墨五十廷を送っている。

 七日は、まず「少選して罷り出づ」とあるのだが、どこから退出したのかが判然としない。雲林院に行ったとは思えないので、前日の上皇の物忌に参った後の「罷り出づ」が誤りで、上皇の物忌からの退出だったのかもしれない。この日の子の刻に再び「暴雨雷鳴」とあるが、夕立ちのような短い時間に激しく降る雨だろうか。
 前丹波守の藤原為頼がやってきて右近衛府の真手結が延引したことを語っているが、その事情が分からず「奇しむべき事」とコメントしている。ただ、この後、真手結が行われたという記述はなく、この年右近衛府の真手結がいつ行われたのかは不明である。ちなみに藤原為頼は務田崎式部の伯父にあたる人物である。

 八日は、恐らく前年に亡くなった実資室、源惟正の女の命日にあたり、法要が天安寺で行われている。前年の寛和二年五月の記事が残っていれば詳しい事情も分かったのだろうが、残念ながら残っていない。天安寺は天安年間に清原夏野の別荘のあったところに双丘寺として創建された寺。実資との関係はよくわからないが、以後何度か源惟正の女の法要が行われているから、源惟正と関係のあった寺かもしれない。

 九日は二日分の休暇を申請して、摂政兼家の許に。兼家が一条天皇の御前で間違えたことについて指摘をしたようだが、「事は頗る恩言に似る」というのがよくわからない。

 十日には、上皇に続いて摂政兼家の邸宅でも法華八講が始まる。兼家は、この法華八講のために新たに、両部曼陀羅を描き、銀の阿弥陀仏と腋侍の二体を鋳造したらしい。法華経も金泥で五部書写したというが、自分自身で書写したのだろうか。両親と亡くなった正室、それに娘の冷泉天皇女御の超子のために書写したものだという。故人四人と、自分、もしくは今回の法華八講のためのものと合わせて五部ということか。この日の儀式には左大臣源雅信以下の公卿が参入している。
 また内裏や円融上皇の許でも読経が行われているが、左大臣雅信に関しては「左府の誦経已に拠所無し」という世評が記されており、特に理由もなく読経を行ったことを批判されているようである。
 最後にこの日の儀式に奉仕した僧たちの役割と名前が記されるが、あまり知られていない僧の名前も多い。

 十一日は、参内して候宿。その際に修理権大夫藤原安近の言葉で、四月の賀茂祭のときの事件に関して加害者側の右大臣藤原為光が「名を召す」とあるのだが、次の「参対の宣旨」も含めて、実際に何をしたのかはよくわからない。
以下次号
2019年9月14日22時40分。




公卿補任図解総覧―大宝元年(701)~明治元年(1868)












タグ:法華八講
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