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2018年07月21日
オロモウツのサマースクールに来る人へ3(七月廿日)
サマースクールで大学の寮を宿舎にする人は、自炊というわけにも行かないだろうから、大半は外食ということになるだろう。以前とは違ってサマースクール事務局の食券があって指定されたレストランでしか使えないということはないようだし、すでに紹介したレストランに加えていくつか会場のコンビクトから近く昼食をとりに行きやすそうなレストランを紹介しておこう。
以前、「オロモウツレストランめぐり」「同2」とか題して紹介したのは、すでに二年以上前の話になるが、あのときから変わったといえば、ビラ・プリマベシのレストランが再開したのにまた閉店したことと、聖バーツラフ・ビール醸造所の高級路線のレストランが閉店してベトナム料理店になったことぐらいだろうか。メニューには大量の料理が載っていて出てくるのがかなり早いから、注文をとってから料理しているのではなく、冷凍食品を使っているのではないかとは、実際に食べに行った人の話。美味しかったかどうかは聞いていない。
それからミニビール醸造所だったリーグロフカが、ビールはそのままにステーキハウスとか言い出して、熟成肉とか和牛とかアンガス牛とかを売り物にし始めたというのもあった。ここでステーキを食べたことはないけれども、知り合いの話では、そこまで美味しいものではないらしい。むしろ、宿舎からマサリク通りに出て駅に向かってモラバ川をわたったところにあるM3とか、旧市街を越えてテレジア門の脇にあるプランBのほうが値段相応でいいと言っていた。
さて最初に追加するのは、コンビクトを出て、神学部の建物を左に見ながら左前方の通りに入ってすぐのところにあるホテル・アリゴネのレストランである。ホテルの入っている建物の中庭に屋根をつけてレストラン用のスペースにしている。以前はここでサマースクール開始の夕食会が行われていたのだけど、今年はどうなるのかな。面倒くさいから出ないと思うけど。
レストラン再開なんて文字も躍っているから、改修かなんかで一時閉鎖中だったのかもしれない。そういえばこのホテルの建物の一つで改修工事をしているのを見た記憶もある。メニューはステーキを中心に良くも悪くも普通という感じで、スマジェニー・シールがあるのが特徴といえば特徴かなあ。最近この料理が食べられるレストランはそれほど多くないような気がする。もう一つの特徴は月曜日が定休日になっていること。これはチェコでは異常に珍しい。
アリゴネの前を過ぎてすぐのところを左に曲がると聖ミハル教会の前のジェロティン広場に出る。その細長くいびつな形の広場の一番奥にはウ・バカラージェという飲み屋があって、たまにジェザネーがきれいに二つに分かれて出てくることがあったのだけど、この前久しぶりに通ったらすでに閉店していて、喫茶店らしきお店になっていた。そこで左に曲がって二つ目の角を右に曲がると、ペンションもやっているウ・アンデラがある。こちらに来たばかりの十数年前は、オロモウツでも評判のいいレストランの一つだった。奥まったところにあるせいでなかなかいく機会もなかったけれどもさ。
ウ・アンデラの前の通りを突き当りまで行って右に曲がる。カプチーン通りに出て右手前方にあるのが、サイド・ストリートというグリルとハンバーガーを中心にしたお店。ここはオロモウツ郊外ホモウトフ地区のビール、ホモウトが、運がよければ飲めるはず。それ以外にこの店に行く理由はない。以前行ったときは、コンサートが始まってあまりのうるささに食事が終わって早々に帰ってきたのだった。ホモウトのビールは二種類メニューに載っていたけど、一種類しか飲めなかったのかな。ホモウトも最近一時期ほど目に付かなくなっているなあ。コンビクトの中のレストランでも飲めたのだけど閉鎖されたし、オロモウツ市内では飲めないなんてことはないと思いたい。
坂を下ってドルニー広場に出ると、すぐ左手にお寿司のチェーン店もあるけど、わざわざ行かなければならないほどの店ではないらしい。この広場のレストランで紹介していないところの中では、名前をチェコ語の説明のところで使ったポッド・リンポウを挙げておこう。ここ禁煙になる前は、地下室にもうもうと煙が立ち込めていて、食事をするにはどうかというところだったので、広場に出されていたザフラートカ、いわゆるナッド・リンポウに席をとることの方が多かった。オロモウツでベルナルトが飲める数少ないみせの一つだったのだが、いつの間にかピルスナー・ウルクエルに鞍替えしていた。ベルナルトを飲むならプランBだったかな。
ドルニー広場からホルニーに出て右に曲がった広場の角の部分には、昔はウ・ケイクリージェというチェコ料理のお店があって、それが中華料理屋に変わっていたのだけど、それも閉店して現在改装工事中。改装が終わったらチェコ第二のビール会社スタロプラメン直営チェーンのポトレフェナー・フサというお店が開店するらしい。どんなお店か知りたければプラハの中央駅の駅舎に入っているからオロモウツに来る前に試してもいいかもしれない。このチェーン店で飲めたスタロプラメンの工場で西欧向けに生産しているアサヒ・スーパードライは、アサヒビールがピルスナー・ウルクエル買収という挙に出た後でも飲めるのだろうか。自分では絶対に飲む気はないけれども、話の種にという人も居るかもしれないしさ。
以前そのポトレフェナー・フサがあった場所、ホルニー広場から聖モジツ教会に向かう途中にあるのがウ・モジツェである。スタロプラメンではなく、ピルスナー・ウルクエルのお店になっている。ドラーパルと経営が同じなのかな。ドラーパルにいた店員がこちらで働いていたなんてことがあったし、メニューのデザインにも共通性が高かった。この前、行ったときにはスビーチコバーを食べたんだったかな。ベプショ・ゼロ・クネドロだったかな。
また長くなってきたので分割。
2018年7月20日23時43分。
2018年07月20日
裏口入学(七月十九日)
文部省のお偉いさんが、私立の医科大学に便宜を図る代わりに、息子を入試で合格させるという取引をしたという容疑で逮捕されたらしい。相変わらず文部省の役人はと、あきれたのは当然ながら、これ、どうやって立証するのだろうかと不思議に思った。文書で契約書を残したりメールでやり取りするような間抜けなまねをしていないとは、文部省の役人のやることだから言い切れないけど、普通は口約束で済ませるだろうから、この役人が捕まったのは、大学側のリークがあったからかもしれない。
ただ、この問題は、役人と大学を批判してお仕舞いにすればいいというものでもない。この事件は文部省の大学に関する行政のゆがみを反映したものであって、私立大学が文部省によってがんじがらめにされており、官僚の要求に理不尽であっても従わざるをえなくなっている現状も批判されるべきである。何せ、文部省が推進している大学改革とやらは、たかが一完了の息子の入試合格と引き換えに変更できる程度のものでしかないことが明らかになったわけだし。
いわゆる裏口入学に関しては、国立大学であれば絶対に許されることではないだろうけれども、私立大学だとどうなのだろうか。わけのわからない推薦入試なんてものもあって、どう見ても推薦に値するとは思えないようなのが推薦されていた現実を考えると、一般入試とは別枠で寄付金入試なんてのがあっても、名称以外は悪くないような気もする。少なくとも今回の文部官僚の賢とは違って、ちゃんと自腹を切って対価を払っているわけだから。
今は知らず、かつては私立大学で附属高校の学生の中で推薦に値しないレベルの学生を優先入試と称して、入試の点数に下駄を履かせるなんてことをやっていたわけだが、あれも考えてみれば、高三までにつぎ込んだ学費および寄付金、大学入学後の寄付金(優先入試を使った場合は義務だったと言っていた)で合格を買い取ったようなものである。
それに、日本の大学が批判されていたのは、入学するのにエネルギーを使いすぎるあまり、入学後に勉強しなくなるということなのだから、入り口が表だろうが裏だろうが、大学でちゃんと勉強していさえすれば特に問題はない。むしろ、勉強しない必要な知識を身につけていない学生に対しては単位を与えず、場合によっては退学放校にするという厳しさが必要なはずである。それをアホ文部省が、単位の取得割合が低いとか、留年製が多いとかいって、その内容も意味も考えることなく大学の評価を下げる理由にしてしまうから、卒論を書く能力のない学生を、卒論が書けるように指導するのではなく、変わりに指導の先生が卒論を書いてしまうなんて大学が出てくるのである。
件の医科大学では、裏口入学者のリストを作ったとかいう話もあって、魔女狩りのように裏口から入学した学生たちを大学から追放したがっているようにも見える。不真面目な勉強しない学生なら追放もやむなしだけど、真摯に勉強している学生から学ぶ機会を奪ってはなるまい。三十年ほど前のことだが、とある私立の医学部では中学校レベルの英語の授業についてこられない学生が居るなんて話がまことしやかに流れていたから、裏から入った学生の多くは出るほうも裏から卒業できることを期待していたようである。
私立大学の裏口入学が本気で犯罪だというのなら、この文部官僚と医科大学を摘発して終わりにせずに、徹底的に捜査をして片っ端から摘発するべきであろう。そして、ことは大学への裏口入学に留まらず、企業へのコネ入社も問題にされるべきではないか。広告代理店やらテレビ局やらでは、政治家や財界の大物の子弟が能力にかかわらず一定数採用されるという話もあって、例の電通の過労死事件も、コネ入社の無能な仕事をしない社員の分まで他の社員が働かされていたのも原因のひとつだといわれているぐらいである。対価を払っていない分、金での裏口入学よりもたちが悪いと考えるのは間違っているだろうか。これが私企業の判断だからという理由で許容されるのであれば、私立大学がコネやら金やらで合格させるのも許容範囲ということになりはしまいか。
畢竟大学というところは、どのように入学したかよりも、入学して何を学んだかのほうがはるかに大切だと思うのだけど、違うのか。裏口入学で集めた資金も、私的に使うのではなく、恵まれない優秀な学生を支援するための資金として使用すれば、裏口で入った学生が真面目だった場合には、一石二鳥である。だから、今のすべてがあいまいでうやむやになってしまう裏口入学はやめて、金銭枠での入試制度を導入するのがいいのでないだろうか。文部省は許可出さないだろうけど。
最初の予定とはぜんぜん違うところに着地してしまった。うーん。この文章、自腹を切らずに息子を入学させた文部官僚を擁護するつもりはまったくない。むしろ日本の大学教育をめちゃくちゃにしてしまった文部省に対する批判のつもりなのだけど……。
2018年7月19日23時59分。
2018年07月19日
オロモウツのサマースクールに来る人へ2(七月十八日)
承前
美術館の対面にある聖母なんとかマリア教会の前を通って左手の登って行く通りに入る。その前に歩行者の安全のために建物に穿たれた小さなトンネルを抜けてもいい。ここはスプレー「芸術家」に開放されているのか、誰かが依頼しているのかは知らないが、しばしば壁に描かれた「作品」が変わっている。以前街中にピアノを置いて自由に弾かせるのが流行ったときにピアノが置かれたのも風雨を避けられるこのトンネル内だった。このトンネルのある建物は博物館の施設の一つで、「石の物語」と名付けられた展示が行われているようである。石碑やら考古学的な発掘物やらが展示されているのかな。
とまれこのウニベルジトニー通りを登って行って左側に最初に現れる入り口がサマースクールの会場のコンビクトの入り口である。コンビクトは、もともとフスは戦争の後のチェコの再カトリック化の主力となったイエズス会の建物で、パラツキー大学の前身となったイエズス会の学寮があったところである。いわば大学発祥の地なので、大学としても威信をかけて建物の修復、設備の近代化を行い、師匠があれに金かけ過ぎているから他に回ってこないんだなんてぼやいていた。
受け付けはこの建物の110という二階の部屋である。入り口を入って真っ直ぐ進むと中庭に出てしまう。右に行くか左に行くかだが、二階なのでどちらの入り口から入っても目的の部屋にはたどり着ける。近いのは左の入り口から入るほうである。ちょっと重いドアを引いて中に入ると廊下がずっと奥まで伸びていて突き当りまで行くと普段は入れない、サマースクールの卒業式が行われるらしい礼拝堂がある。その前の階段を登ってすぐ左手にある部屋が110である。昨日行って確認してきたから間違いない。
受付とかクラス分けのテストを終えて、コンビクトから宿舎になっている大学の寮に行くには、入り口を出て左に曲がる。共和国広場に戻ってトラムに乗ってジシカ広場で下りるという手もあるけれども、それでは面白くないので歩くほうを説明する。
コンビクトを出て左に曲がって、右手前方に見える水色っぽい色の建物がモラビアにキリスト教をもたらしたツィリルとメトデイの兄弟の名前を冠した神学部の建物である。ビザンチン帝国のキリスト教を伝えた兄弟の名が使われているということは、カトリックのイエズス会との関係は、すでに切れているということだろうか。よくわからない。いや、そもそも国立大学で宗教教育ってのは政教分離の原則に反しないのか。ヨーロッパレベルの政教分離で問題ないのであれば、昭和天皇の大葬の礼も、今上陛下の大嘗祭も、地鎮祭も政教分離の原則には反していないことになる。
コンビクトの建物沿いに登っていくと左手に見えてくるのが、ジャーマン・セセッションの傑作ビラ・プリマベシである。この中に入っていたレストランは現在何回目かの閉鎖中だが、ドアが開いていれば中に入って玄関の装飾ぐらいは見られるかもしれない。場所はいいところなので、なかなか定着しないのがちょっとふしぎである。意外と言えばコンビクトに入っていたレストランも閉鎖されていたなあ。昼食をとるレストランの候補が二つ減ってしまった。
ビラ・プリマベシを越えて突き当たるのが聖ミハル教会である。かつてこの教会のある丘の上で古代ローマ帝国の遺跡が発掘されたというのだけど、それを示すようなものは現時点では見かけない。ここで左に曲がって階段を下りる。ここから城下の公園に降りられるようになっているのである。城壁につけられた監視塔とでも言いたくなるような建物の中の階段は、以前は薄汚れていて変な臭いがして入るのをためらうようなこともあったのだが、改修を受けてからはそんなこともなく、定期的に清掃が入っているようである。以前は完全に放置されていた。
階段を下りて振り返ると、ビラ・プリマベシやコンビクトを裏側から見上げることになる。こういう裏側から見るオロモウツというのもなかなか見物なのだけど、普通の短時間のオロモウツ観光ではこんなところまでは来ないはずである。去年ガイドをした時には街の中心よりも、こういう建物の由来や建築様式なんか知らなくても見ただけで、おおすごいと思えるようなところを案内したのだった。オロモウツは教会の多い街で教会を中心に観光することも多いのだけど、信心のかけらもない日本人には、城塞都市の城壁の上に建つ建物を見上げる方が感動的である。
話を戻そう。ムリーンスキー川のほうに向かうと右手前方に橋が見えるが、これは植物園へ入るための橋なので渡ってはいけない。ここからは右に曲がっても左に曲がっても宿舎にはたどり着ける。橋を渡って大通りに出て理学部の建物の脇を抜ければ、パラツキー大学の寮が見えてくる。
とりあえず、左に曲がって川の上流に向かうと、ギリシャ神殿みたいなのが建っているのが見えてくる。これがかつては旧ユーゴスラビアの租借地になっていた第一次世界大戦で亡くなったユーゴスラビア出身の兵士の遺骨を納めた廟である。昨年改修工事が行われたのだが、下の納骨堂の部分だけが改修されて、上の神殿っぽい建物はスプレー芸術も含めて放置されていた。それが今日通ったら上の部分の改修工事の準備が始まっていた。
反対に右に曲がると、城壁に一つ赤煉瓦の塔みたいなものが見えてくる。中に階段がありそうに見えるのだが、ここは宗教施設である聖ミハル教会の裏庭につながっているからか、一般には開放されていない。その手前の城壁の下に、灰色の直方体のコンクリート製と思しき物体が横たわっているが、現在は「芸術家」の手で側面にチェコの国旗とマサリク大統領の顔が描かれているかな、これが冷戦時代に建設された民間防衛組織の指揮所としても計画された防空壕(の入り口)らしい。建設された時代を考えるといわゆる核シェルターとしての機能も持っていたのかもしれない。
共産党政権は核戦争の脅威をわりとまじめにとらえていたようで、学校でも毎年訓練が行われていて、キノコ雲を見たらそちらに足を向けて横になるように指導されたり、ガスマスクをつける訓練をしたりしていたらしい。身体測定の一つに顔や鼻の長さを測定するというのもあって、それはガスマスクのサイズを確認するためだったという話も聞いたことがある。
左に曲がった場合は一本目の橋を渡ればいいが、右に行くと一本目の橋は植物園への入り口、二本目は通行不能なので、三本目の橋を渡ることになる。右手にはテニスコートか何かが見え、左手にはレンガ造りの土塁というか城壁みたいなものが見えるはずである。この城壁で囲まれている部分が、ペブヌーストカと呼ばれる城塞都市オロモウツの堀の外に突き出した出丸のような部分である。砲台なんかも設置されていたのかな。中に入ると最近オープンした科学体験施設(こんな言い方あるかな)がある。植物園も一部この出丸の敷地を利用しているので、植物に興味はなくても入ってみる価値はあるかもしれない。
ミニゴルフを含むスポーツ施設と城壁の間の道を道なりに進むと大通りに出る。これが11月17日通りで、ビロード革命以後につけられた名前なのかそれ以前からの名前なのか判然としない。11月17日はビロード革命の発端となったデモの起こった日であるけれども、第二次世界大戦中にヒトラーがチェコの大学を閉鎖し学生を弾圧した日で、それが原因で国際学生の日になった日でもある。共産党政権下でこの日がどんな扱いをされていたのかが問題である。サマースクールで質問してみようか。
通りに出て正面奥に見える建物が、パラツキー大学の法学部である。左手前方に見える横長の建物は理学部。昔はここには何の建物もなくただの野原で、ビールフェスティバルの会場になっていたのだが、いつの間にかこんな建物が建てられて、ビールフェスティバルの会場はどこかに移転してしまった。初年度は入場も無料だったし行ってみたけど、あの手のイベントはあれこれ制限が多すぎて嫌いなのでどこで行われるのかの確認すらしなくなった。
11月17日通りを渡って理学部のほうに向かい一つ目の角を右に曲がる。その後左に曲がって右手前方に見える建物がサマースクールの宿舎である。寮の入り口と手続きをする事務所は二つの棟に挟まれた真ん中の部分にある。以前は、宿舎の管理人が英語が使えなくて、強制的にチェコ語の練習になったのだけど、今はどうかなあ。当時は寮を出るときには鍵を預けることになっていたから、初心者も含めてみんな必死で部屋番号をチェコ語で言えるように頑張っていたのである。当時も参加者が宿舎に入る日だけは英語が使える人が控えていたような気もする。
ここの寮はモラバ川沿いにあって、気分転換に川沿いを散歩したりなんてこともできるはずなのだけど、残念ながら現在は河岸工事、ようは1997年に起こった洪水が再発しないように堤防もどきを建設中のため寮から上流も下流も川沿いの道は全面的に通行止めになっている。だから、おそらくモラバ川クルージング(ちょっと誇張)も、コースが変わっているようである。
宿舎からコンビクトに向かうのは、上に書いたルートを反対にたどってもいいし、サマースクールの事務局から届いた地図に黄色い線が引かれているのをたどってもいい。そっちのルートを使った場合でも、橋を渡った後は、川沿いを下ってプリマベシの先の階段を登るほうがいいとは思うけど。黄色のルートの階段を登った先の通りで建物の改修工事をやっていて工事車両なんかが邪魔で歩きにくいのである。まあオロモウツは小さな町だし、特に遅刻しそうとかいうことでもなければ、あちこち歩いて迷いながらコンビクトを目指すというのもオロモウツ滞在の楽みの一つになるはずである。
Vítejte v Olomouci!
2018年7月18日22時31分。
2018年07月18日
オロモウツのサマースクールに来る人へ1(七月十七日)
本当はもう少し早く書くつもりだったのだが、ずるずると引き延ばしてしまった。とまれ現在のトラムの運行状況も含めて、サマースクールのためにオロモウツに来る人に、そんな人が読んでいるかどうかは知らないけれども、読んでもらっているつもりで案内をしてみよう。本当はせっかくデジカメを復活させたのだから写真もつければよかったのだろうけど、持ってくるのを忘れてしまったので写真はなし。
プラハからオロモウツへの移動については、チェコ鉄道、レギオジェット、レオエキスプレスのどれを使っても問題ないという話はすでに書いた。あれから私鉄が一つ増えたけれども、スロバキアのニトラのほうに行くならともかく、オロモウツまでの区間に使用するメリットは少ない。とにかくどの鉄道会社を使っても到着する駅は同じオロモウツ・フラブニー・ナードラジーである。ホームも同じになる場合もあるかな。
駅についたら、荷物が多くてトラムで移動するだろうという前提のもとに説明をすると、まず中央のホールに向かう。別の出口から出てもいけれども、トラムのチケットを買うには中央ホールにでるのが一番手っ取り早い。エスカレーターでホールに上がって正面の出口に向かう途中で、右のほうに向かうと窓口がいくつか並んでいるののうち一番奥にある二つがオロモウツ市の交通局のものなので、開いていればここで何枚か買っておくといいだろう。普通は一枚14コルナである。荷物が大きい場合には追加料金が必要になるなんて言う話もなくはないのだけど、払ったことはない。心配な場合には窓口で質問をすればいい。ただし、英語が通じるかどうかは保証の限りではない。
時間が悪くて窓口が閉まっていたら、反対側一番左側の出入り口の脇に自動券売機がある。注意するのはお金を入れる前に、チケットのボタンを押さなければならないことで、一枚なら一回、二枚なら二回と必要な数だけボタンを押して、表示される金額に合わせて小銭を入れる。時々入れてもそのまま出てくることがあるが、そんなときには、券売機の前面の銀色のざらざらした部分に硬化の側面をこすりつけてやると、認識されやすくなるらしい。
小銭がない場合には、ホール内の一番ホームに向かう出口の脇にあるキオスクみたいな売店で買えるはずである。そこも閉まっていたら反対側のトイレに向かう途中にある小さなスーパーみたいなお店で、ちょっとした買い物をして小銭を作るしかないかな。最後の手段としては、携帯をつかってSMS乗車券を買うというのがあるのだけど、自分では使ったことがないし、使いたいとも思わないのでよくわからない。気になる人はこちらをご覧いただきたい。届いてから乗らなければいけないとか、トラムに乗ってからではなく、買った時間から50分有効だから事前に買っておけないとか、値段がちょっと高いとかあるようである。一応トラムの運転手から直接買うことも可能だけれども、これも小銭がないと難しいので、小銭があれば駅から乗る場合には自動券売機で買ったほうがマシである。
チケットを買ったら、駅舎を出る。駅前にはバスの停留所もいくつかあって、バスの乗るときにはどこから乗るのか結構厄介なのだが、トラムに乗る場合には駅舎を出たらすぐに左に曲がってそこにある停留所からトラムに乗る。線路を渡って反対側の停留所から乗ると、場合によっては駅の裏側に連れていかれるので注意が必要である。
問題は何番に乗るかである。最初に宿舎に向かうのであれば何番でもよく、二つ目の停留所で降りることになるのだが、話の都合上事務局に向かう。その場合、2番、3番か、X1/4番のpřes centrumと表示されているのに乗らなければならない。駅前の停留所をでてすぐに左折してそのまままっすぐ大通りを進んでいくやつである。歩く場合にもこのトラム沿いを歩いて行けば、目的地に到着する。大通りの名前はマサリク通り。一つ目の停留所はウ・ビストシチキでモラバ川の支流のビストシチカ川から名前が取られている。駅を出て二つ目の大きな川がモラバ川で、この川にかかる橋の上から上流、進行方向を向いて右側を見ると、遠くにナポレオンも滞在したクラーシュテルニー・フラディスコが見える。
橋を渡った先の交差点でマサリク通りは終わり、交差点を越えるとヤン・ジシカを記念したジシカ広場(ジシコボ・ナームニェスティー)になる。ここに二つ目の停留所がある。左がわの奥にある灰色の建物が元駐屯ソ連軍の本部だった建物で現在はパラツキー大学の教育学部になっている。教育学部の建物前が広場のようになっているのだが、そこにそびえているのがチェコスロバキア共和国の建国の父にして初代大統領のマサリク大統領の像である。ジシカ広場にマサリク大統領というのも不思議な気がしたけれども、マサリク通りの続きと考えればいいのかな。今年の宿舎に向かうにはこの停留所が一番近いはず。
ジシカ広場を出るとまた川を越える。この小さな川はムリーンスキー・ポトクと呼ばれ、城塞都市オロモウツの堀の役割を果たした川で、これを越えると旧市街である。ゆるやかに左に曲がりながら坂を登って行くのだが、途中のホテル・パラーツの前の三差路はつい最近まで改修工事が行われていた。その際に、街に入るための城門の遺構が発見されて記念碑を作るとかなんだとか言っていたのだけど、今日通ってみたらなんだかちゃちなのが立っていた。期待外れもいいところである。
三つ目の停留所がウ・ドーム。ドームというのは、聖バーツラフ教会(大聖堂でも可)のことで、バーツラフ広場、バーツラフ教会に向かう場合にはこの停留所が一番近い。バーツラフ教会に向かう道とは反対側に曲がると、大司教宮殿とマリアテレジアの武器庫がある。以前はこの奥の建物がサマースクールの会場だったのだけどね。
四つ目の停留所が共和国広場(ナームニェスティー・レプブリキ)で、スバトバーツラフスキー・ピボバルに飲みに行くときの集合場所でもある。サマースクールの事務局があるコンビクトという建物の最寄りの停留所はここである。トラムを降りて進行方向に向かって右側の大きな教会のできそこないのような建物が博物館、その次のカフェが入っている白っぽい建物が美術館である。劇場も入っているのかな。この建物の最近の見どころは外観で、見上げると銅色の人形がぶら下がっているのが見えるだろう。この人形、時間が来ると左右に移動し、チェコ語で罵詈雑言を吐くのである。何でもこの美術館に忍び込もうとして、うまくいかない泥棒という設定らしい。
たしか二年ぐらい前に設置されたこの作品、「芸術」ということなのだけど……。見世物としては面白いし悪くないとは思う。現代芸術というものが作者本人にしか理解のできない、時に悪ふざけと大差のないものに堕している現状で、チェコってのは現代芸術家には優しい国である。EUの議長国になったときにも、現代芸術科の加盟各国をステレオタイプ化してプラモデルの部品にした作品を飾って、一部の国を揶揄するような所があったので批判にさらされていたけれども、日本だったらありそうな国費をこんなくだらないものにつぎ込むのはどうかという批判はなかったような気がする。
無駄なことばかり書いていたらコンビクトまでたどり着けなかった。以下次号。
2018年7月17日23時39分。
2018年07月17日
サマースクールに向けて(七月十六日)
十年以上ぶりに参加するサマースクールが来週の月曜日から始まるのだが、今のままでは出た甲斐のあるサマースクールにするのは難しい。何せ午前8時45分という時間から一コマ目の授業が始まるのである。不断の自堕落な生活を改善した上で、サマースクールに臨まなければ、完全に目が覚めて頭が動き始めるころには、授業が終わっているということになりかねない。
ということで、今週は生活のリズムを変える過渡期として使用することにした。普段も六時半ぐらいには起床しているわけだし、普段よりもめちゃくちゃ早く起きるわけではない。問題は8時にはうちを出る必要があるということだ。現状では朝起きてからしばらく、というには長いかもしれないけれども、ぼんやりしてからでないと動き始められない人間にはちとつらい。
それに、ここ数年重要な仕事はできるだけ午後に固めて、午前中は例外を除くとその日のウォーミングアップ的なことしかしていないので、たまに朝早くから重要な仕事が入ると疲れが倍増する。午前中から体も頭もしっかり活動できるように慣らしておかないと、疲労困憊で授業どころではなくなるかもしれない。その一環として七月に入ってから早寝早起きを目指しているのだが、宵っ張りの朝寝坊人間には、早起きはできても、早寝がなかなかできない。早寝ができないと、早起きしてもそのまま活動的な状態にはなれないのである。
仕方がないので、無理やり朝早くから仕事に出て、普段はあれこれ読んでいる時間にこの記事を書いている。読むという受動的な作業は寝ぼけた頭で何とかなっても、書くという能動的な作業は寝ぼけた頭ではなかなか進まないから、その日の分を午前中に書き終えることができるようになれば、頭が順応したということだと考えられる(かもしれない)。午前中いっぱい使って記事一本しな書けないのは情けないことではあるけれども、さらに情けないことに、この記事は午前中に書きあがらなかった。うーん。サマースクールの授業は午後1時までだから、今日の分は何とかそれまでに書き上げよう。いやちょっと足が出るかも。
午前中から動き回ったことで疲れが出れば、早寝できるかもしれない。今日一日では無理でも、一週間続ければなんとかなるかな。目標は11時に寝て6時前に起きる生活である。これが定着すれば、勤勉立ったチェコ語を勉強していたころの自分に戻れるかもしれない。あの頃はほぼ毎日8時から授業だったんだよな。師匠の時間が空いているのがそこだったから、というか娘さんを学校に送り出してからとなると、その時間が一番よかったのであってこちらが希望したわけではない。
思い返してみれば、毎晩飲み歩いてお酒の残った頭で、授業を受けることも多かったから、毎日すっきりさっぱりした頭で勉強していたとも言いにくいのか。日本でも週一で通っていた語学学校では、一日の祖事が終わった後の疲れ果てた頭で勉強していたわけだし、かつてのサマースクールでも時差ボケだったり、前日飲みに行ったりで頭の回転が悪いことが多かった。チェコ語の勉強ってそんな条件の悪い中で積み重ねてきたのか。だから、英語と違って、酔っぱらってもある程度はチェコ語で話せるようになったのかな。
その一方で、だから、語彙は増えたけれども、文法的な正確さが置き去りにされたという面もあるわけで、今回のサマースクールの目標が論文を書くためのチェコ語(主催者の側にはそんな意図は全くないだろうが、こちらの目的意識がはっきりしていれば、どんな授業の内容であってもこちらの目的に活用できるはず)である以上は、文法的な正確さを追及するのは当然のことである。ならば、それができるように体調を調整しておくのは当然というものである。
リハビリ初日の文章がぐだぐだになるのは予定通りとはいえ、明日はもう少しまともな文章が、もう少し早く書き上げられることを願って、今日は筆を擱く。
2018年7月16日13時15分。
2018年07月16日
寛和三年三月の実資〈後〉(七月十五日)
十六日は、まず参内してから円融上皇のもとに向かい夕方内裏に戻る。その後、清涼殿で天皇が右馬寮の斑馬をご覧になる際に、実資が馬から下りるようにという支持を出す役を務めている。僧都に任命された真喜が内裏に参入して脩明門の外で任命に対するお礼を申し上げた。実資は暗くなった後で帰宅。
最後に藤原安親の話として、上賀茂神社で発見された銭について、右大臣為光が天皇の仰せで占いを行わせたことが記される。銭を改鋳することの吉兆についても占わせ、先例を調べて勘文を提出させることにしたようである。
十七日は参内して退出。
十八日は、毎月恒例の清水寺参拝。すぐに戻っている。伝聞で午の日に行なわれる石清水臨時祭の舞楽の予行演習が行われたことが記される。穆算僧都がやってきて、実資の兄の懐平の病について質問したというのだが、どちらがどちらに聞いたのか不明。二日分の休暇を申請。
十九日は記事なし。
廿日は参内して候宿。石清水臨時祭が行われその儀式のさまはいつもと同じだったという。ただし、舞人の装束の色が違っていたとか。祭使の源正清が休暇の申請を出したけれども、祭使の役を免じられることはなかったという。
廿一日は、早朝内裏を退出。申の時だから夜に入って二条第に向かい、陰陽師の安倍晴明に邪気を払うために反閉をさせている。引越しの準備である。
廿二日は、三日の休暇を申請。
廿三日は、ときどき小雨の降る中、円融上皇のもとに向かい、しばらくして退出。この日は、内裏で春の季御読経が始まったという。石清水臨時祭の祭使を務めた源正清の話では、祭祀が代理に戻ったのが、仁明天皇忌日に当たっていたので、天皇の御前に召されることがなかったという。
廿四日は、蔵人所の下級職員である小舎人が使者としてやってきて物忌に籠るようにといわれているが、病気で休んでいてまだその病気が治っていないということを、小舎人を通じて申し上げている。
廿五日は記事なし。
廿六日は、内裏の春の季御読経の結願である。実資は頭中将藤原誠信の行いに間違いが多々あったと批判する。父為光と同様、実資からの評価は低かったようである。実資は刻限に参内した後、しばらくして退出、摂政兼家のもとに向かう。兼家は廿九日に奈良の春日大社に参ることになっていて、そのための舞楽の予行演習が行なわれたのである。この日の饗宴については右大臣の為光が準備したもので、夕方になって為光以下数人の公卿が参入している。実資自身は舞楽の練習が始まる前に退出している。伝聞で、雨が降ったために兼家の邸宅の東対の唐庇の間で舞が行なわれたということが記される。
廿七日は記事なし。
廿八日は、摂政兼家が春日社参詣に出発するので、実資も何度も命じられて参拝することにしている。ただ出発のところには出向かなかったようで、伝聞の形でそのときの儀式が春日祭使の出発の際のようだったということが記される。
この日は雨が激しく風も強かったようで、実資は騎馬で先に奈良に向かい、兼家一行とは同行していない。実資は内蔵寮の所領である梨原庄に宿をとっているが、これは同行した兄の高遠が内蔵頭を務めているからであろうか。摂政兼家は暁方に佐保殿に到着したという。佐保殿は藤原北家の別邸で氏長者が春日大社に参詣する際の宿所として使われたところである。到着が遅くなったのは途中の宇治で饗応を受けたたからだとも言う。また、兼家は息子の中納言道兼を内裏に伺候させたという。不在中に問題が発生したさいに対応するための留守番ということだろうか。
廿九日は、藤原在国の話として、摂政兼家が佐保殿について車を降りた後、すぐに神社を拝したという。降りたその場で遥拝したということだろうか。それが前例だというのだが、実資は聞いたことがないと記している。実資も午後になって佐保殿に向かい雨が激しく降る中行なわれた饗宴に出席。申の時に神社に向かい参拝の儀式が行なわれているが、終わった後、それまでの雨に加えて霙が降り、風雨もさらに強まった。その様子は物の怪の仕業に似ていたと実資は記している。兼家への批判というわけでもないのだろうが、吉兆とはとても言えそうにない。
卅日は奈良から平安京への帰還である。朝早く卯の時に春日大社を車で出発して馬場に到着。その馬場での饗宴も含めて手配をしてくれたのは興福寺である。この日も雨が降り続いており、舞も雨の中行われている。実資は一度宿所にしていた内蔵寮の所領である梨原庄に戻ってから平安京に戻る。木幡川を下ったのか、木幡まで川を下ろうとしたのかよくわからないが、水が多すぎたため別の道を通って帰京。到着は午後になってからである。伝聞で源重信の宇治の別邸でもてなしを受けたことが書かれるが、これは兼家たちの一行で、実資は同行していなかったということだろう。
2018年7月15日23時44分。
2018年07月15日
寛和三年三月の実資〈前〉(七月十四日)
寛和三年は広本系の九条本が底本になっているのだが、実資が忙しいからか、蔵人頭を外れているからか、比較的記事は短い。この三月はその上、何日分かの記事が欠けている。おそらくは最初から書かれなかったものであろう。
一日は、二月末日に候宿した内裏から退出。毎月恒例の一日の賀茂社への奉幣は、穢れの疑いがあるため中止している。
二日はまず六日の休暇を請う。一日の穢れの疑いが原因かとも考えられるが、その後蓮台寺に出向いていることを考えると違うか。蓮台寺へは兄の高遠とともに向かうのだが、他にも多くの官人が同行しており、「然が宋から持ち帰った仏像などの文物が貴族たちの関心を集めている様子がよくわかる。帰った時間に関しては「衡黒」という見かけない表現が使われている。暗くなってからということであろうか。この日はもう一人の兄懐平が実資宅に宿泊している。
三日は記事がなく、四日は暇を見つけて二条第に向かった後、夕方参内して候宿。二日に申請した六日分の休暇は許可されなかったのだろうか。
五日は内裏から円融上皇の元に向かってしばらくして退出。伝聞で受領の位階を上げる加階が行われたことが記される。ただし誰が加階されたかは書かれていない。
六日は、まず二日分の休暇を請う。呼び出されて太政大臣頼忠のもとへ向かう。頼忠が円融上皇に法華八講のための砂金百両を献上するので、その取次ぎをしたのである。円融上皇の言葉を頼忠に伝えた後深夜になって退出。
最後に伝聞で、四日の夜に天変が起こったため朝廷が重く慎まなければいけないという卦が出たため、八日に予定されていた一条天皇の円融寺への行幸が中止になったことが記される。
七日は記事なし。
八日は、参内して候宿。平惟仲が昇殿を許されたことを聞いている。この日は、天皇が左右の馬寮の馬、それぞれ十匹を見る儀式が行なわれている。実資は御剣を持つ役を務めているがこれは恐らく近衛府の官人としての職務である。儀式に際して、出居の座が設けられたことを批判している。これは公卿が儀式に参加したときだけ設けるものだというから、この日は公卿の出仕はなかったものか。その様子を見ていた蔵人も訂正しなかったことを、「知らざるか」と批判している。
この日、右近衛府の官人たちが、紫宸殿の前の庭に橘の木を植えている。これは紫宸殿の中央にあった南庭に下りる階段の西側に植えられたもので、儀式に際してこの橘の木を目印に右近衛府の官人が並び立ったことから右近の橘と称される。
九日は、早朝内裏を退出。
十日は、刻限に参内してすぐに退出。
十一日は、刻限に参内して候宿。摂政が内裏の直蘆で僧官を任命し、下級官司の所の別当を定めている。ただ僧に関しては辞退者が三人出たため、代わりに別の三人を僧都に任命している。また律師を二人任じ、宋に渡って帰国した「然に法橋(律師に相当)の地位を与えている。
十二日は、一条天皇の物忌に候じている。
十三日は、早朝内裏を退出。
十四日は、二日分の休暇を申請。円融上皇のもとに向かう。この日は、左大臣源雅信、右近衛大将藤原済時も参入して臨時で行なうことになった御読経に参加する僧十五人について決めている。夜に入って退出。
左大臣から聞いた話として、八日に上賀茂神社の中鳥居内の堀のところから三種の銭が発見されたことが記される。神功開宝、和同開珎、万年通宝の三種らしい。銭というからには銅銭であろう。
十五日は摂政兼家宅での御読経の開始に参入。公卿たちがたくさん来ていたこともあって、実資は退出。二条第に向かって邸内のあちこちを見回っている。そのあと聖天を祭る儀式を行なう。これは富貴を求めてのものである。
2018年7月14日23時21分。
2018年07月14日
ワールドカップ雑感2(七月十三日)
日本代表が、グループステージ最終戦のポーランド戦で終盤0−1で負けている状態で、時間稼ぎに入ったことに対して、フェアプレーの精神に反していると世界中から批判されていた。見ていられないようなつまらない試合にしてしまったのは事実だけれども、そこまで批判されるべきことにも思えなかったし、ましてやフェアプレーではないという言い方には違和感を感じてしまった。
それは、サッカーの試合と、ラグビーやハンドボールの試合を見比べたときに、サッカーにフェアプレーなんて言葉は存在しないと感じるからである。相手と当たってもいないのにファールされたふりをしたり、逆にファールしていないふりをするのは日常茶飯事である。ブラジルのネイマルのあれは極端だから、ひどく批判されているだけであって、やっていること自体は他の選手たちも大差ない。
ディフェンスの裏にボールが出ると、オフサイドを取れと言わんばかりに手を挙げるのもみっともないし、ボールが外に出たときに、自分たちのボールだと、明らかに違っていても主張するのも見苦しい。スローインや、コーナーキックの判定が間違っていたときに、自分が最後に触ったと申し出る選手は、それが取り立ててフェアプレーだと賞賛されなければならないほどに少ない。ハンドボールでは、審判が間違うこと自体が少ないけれども、間違っていた場合、そして間違いだと確信がある場合には申し出るのが普通である。
サッカーでは、下手な演技を見せた後自分の望むような判定が出なかったら審判に詰め寄っていちゃもんを付ける。本来キャプテンにしか許されていないはずなのに、数人の選手で審判を取り囲むさまは、借金の取り立てでもしているのかと言いたくなる。審判も審判で、そんなの片っ端からカードを出して退場にしてしまえばいいのだろうけど、試合を壊したと批判されるのを恐れて、カードは出さないことが多い。ルールに基づいて笛を吹いたら袋叩きに遭うのだから、サッカーの審判というのも大変である。こんなスポーツにフェアプレーなんて概念を持ち込む意味はあるのか。
考えてみれば、サッカーほど審判に敬意を払わないスポーツは珍しい。ハンドボールだと判定に不満があっても、審判に抗議することはほとんどなく、抗議をすると大抵はカードが出され、時には監督やコーチが抗議をして、ベンチから退席処分を受けることさえある。まあいわゆるバルカンの笛とか、中東の笛なんかにさらされない限り、相手ホームの試合で、ちょっと相手よりかなという判定はあっても、それは飲み込んでプレーするのがハンドボールなのである。接触プレーに関してはどちらの反則と取ってもおかしくないような場面が多いし、大抵は守備側のファウル扱いに終わるんだけど。
ラグビーの審判への敬意のはらいかたについては、今更言うまでもないほどサッカーの場合とは対照的である。審判と会話してもいいのはキャプテンだけだというルールは厳格に守られているし、審判も判定に関してキャプテンを通して反則を犯した選手に説明するというシステムが見事に機能している。ビデオが導入されたもの早かったけど、ビデオ云々以前に審判に向けられる敬意、審判に対する信頼度の高さが違うのだ。審判の判定は何を言ってもひっくり返らないという意識が身についているから、無駄な抗議に時間やエネルギーを割くぐらいだったら頭を冷やして次のプレーに切り替えたほうがましだと考えるのだろう。
それに対してサッカーの選手たちは、審判を信用しないばかりか、自分のいいように操ろうとしているようにさえ見える。だから、サッカーは、などと批判するつもりはない。それもこれも含めてサッカーであって、何もすべてのスポーツがラグビーになる必要はないのだ。やりすぎなのは鼻につくけれども、審判と選手の駆け引きみたいなものもサッカーの醍醐味の一つだと言ってもいいかもしれない。それこそ、アイスホッケーで選手同士の乱闘が、エンターテイメントの一部になっているのと同じように。
繰り返しになるが、サッカーというスポーツを批判するつもりは毛頭ない。批判したいのは、このスポーツに対して安易にフェアプレーなどという本質からかけ離れた言葉を持ち出して、選手やチームを批判することである。今回の日本代表の件にしても、ネイマルの件にしても、多少極端ではあっても、サッカーの本質から外れるものではないのだから、フェアプレーに反するとか耳ざわりのいい言葉で批判するのはやめて、馬鹿なことをと笑いものにするのが正しい。
日本代表が警告数の少なさでグループステージを勝ち抜けたのも、そういうルールにしたのも批判はしない。批判するのは、それをフェアプレーポイントとかいう名付けてしまう無神経さである。だから警告が少ないのがフェアプレーとは限らないという批判が出てくるのだ。そんなことなどせずに、警告退場数に基づいて決めるとだけルール化しておけば、フェアであろうがなかろうが数字が絶対だということになる。
こんなことを、先日のイングランドとコロンビアの試合、イングランドとクロアチアの試合を見ながら考えてしまった。ラグビーのように審判にマイクを付けて、選手たちが何をわめいているか会場で聞き取れるようにすると、楽しいことになるかもしれない。
2018年7月13日23時5分。
2018年07月13日
ツール・ド・フランス(七月十二日)
これまたサッカーのワールドカップの陰で、ツールが始まった。初日などサッカーの試合が一試合午後四時からの予定だったので、それ以前にゴールするようなスケジュールが設定されていたぐらいである。サッカーファンとロードレースファンって重なるのかねえ。どちらも無理してまで見ようとは考えない中途半端なファンにとっては、二つのイベントの中継が重なっても、両方チェコテレビが中継してくれていれば、あんまり気にならなかったと思う。
さて、今年のツールにはチェコ人選手の姿はない。出場回数が最も多く総合でも一けたを何度か達成しているクロイツィグルと、ステージ優勝経験のあるシュティバルはジロに出場したことでツールはパス。ポーランドのチームからアスタナに移籍したヒルトもジロに出ていたのかな。ツールでの活躍がチームスカイ移籍につながったケーニックは、おそらくスカイ時代に負った怪我から完全に復帰できない状態が続いている。クイックステップの若手バコチは、数か月前にトレーニング中にトラックに轢かれて選手生命にもかかわるような大怪我を負い現在リハビリ中。もう一人のツール経験者バールタは、ボラからチェコのアルトゥルチームに戻ってきているので、そもそも出られない。
チェコ選手がいなければということで、スロバキアの選手はというと、ペテル・サガンの印象が強すぎて他の選手が出場しているのかどうか判然としない。以前はベリツ兄弟とか、名前だけは知っている選手がいたんだけど、最近はサガン兄弟以外は知らない。兄のユライの存在を知っているのも、弟とセットで登場するからだし、現在のスロバキアのロードレース=サガンなのである。
じゃあ、サガンを応援するのかと聞かれると、微妙である。心情的には応援したいし応援する気持ちはあるのだけど、あのスーパースターというよりは、トリックスターと言いたくなるような言動を見ていると、大きな声で応援しているとは言いたくないという気持ちにもなるのだ。うちのは、ステージ優勝後のサガンの英語でのインタビューが聞くに堪えないと言っているし。まあ、でも今年は失格になるなんてことがなく、何度目かの緑のジャージを獲得することをこっそり期待しておこう。八月にオロモウツ近辺で行われるチェック・サイクリング・トゥールには、ボラは来るのかな?
今年のツールで気になるというか、気に入らないのは、チームスカイのフルームの出場が最終的に許可されたことだ。去年のブエルタで喘息薬を許容量を超えて摂取したことが判明した後のフルームへの扱い、WADAやらUCIやらの下した判断は厳しく批判されるべきであろうに、タブーなのかなんなのかほとんど放置されている。禁止された薬物が発見されたわけでも、何らかの数値が基準値を超えていたわけでもないクロイツィグルに対していじめとも思えるような執拗な攻撃を仕掛けてきた連中が、禁止薬物ではないとはいえ使用に制限のある薬物に関して許容量をはるかに超えた数値が検出されたフルームに対しては、ブエルタの結果をはく奪もしなければ、その後の暫定的な出場停止処分も課さなかったのだから、ふざけるなとしか言いようがない。
この手の、悪い言い方をすれば喘息薬ドーピングが問題になっているのは、自転車のロードレースだけではない。あまり話題にならなかったけど、どこかのテニス選手が問題提起のための批判をしていたはずだ。何年か前には、スキーのノルディックのツール・ド・スキーで優勝した選手だったか、優勝目前だった選手が検査で基準値を大きく超えたことがある。このときも、あまり話題にはならないまま、こっそり結果が削除されて終わりだったかな。出場停止があったかどうかは覚えていないが、腫物に触るような、まるで何もなかったことにするかのような対応に、普段なら大騒ぎをするところなのにと不思議だった。
恐らく、この喘息薬というのはいろいろとデリケートな問題があるだろう。それでも基準値を超えた数値が出たのであれば、原則として処分されるべきだし、かりにお咎めなしになるにしても、最終的な判決が下るまでは出場停止にするのが、他のドーピングで疑われ、最終的にお咎めなしになった選手たちとの兼ね合いからも妥当というものである。それなのに、金満チームのスカイに対してだけは、こんな対応をするから、WADAとかUCIという組織は信用しきれないのである。
喘息という持病を持っている人でも、ハードなスポーツができるという意味で、喘息薬が使用されるのは悪いことではないのだろう。しかし、考えてみると、許容量を超えるような薬物を投与しなければ出場できない状態でレースに出場するのは、選手の肉体にとっていいことだとは言えまい。ドーピングの禁止が選手の身体を守ることを建前としている以上は、この手の過度な摂取は禁止されるべきではないか。スポーツ選手が風邪で発熱したような場合でもドーピング検査の陽性を恐れて風邪薬も飲めないなんて話を聞くと、本末転倒じゃないかと言いたくなる。
今回の問題で、フルームが本当に治療のためだけに薬物を服用したのか、運動能力を上げるために使用したのかは、正直どうでもいい。喘息の症状が出てそれを押さえるというだけでも、その時点での能力を向上させていることになるわけだし、そういうあいまいな部分があるがゆえに超えてはいけない基準値が設定されているはずである。問題は、他のケースでは強硬に処罰を主張するWADAやUCIが、このフルームの件に関しては中途半端な対応に終始していることで、基準値を超えてもいなかったクロイツィグルの例を考えれば、対応が恣意的すぎるとしか言いようがない。でも、それを批判する声はほとんど聞こえてこない。これも健康的な状態ではない。
チーム・スカイでは、イメージ向上を狙ってか、プラスチックの使用が何たらかんたらのキャンペーンをやっていて、チームジャージにはその象徴として背中に鯨が描かれているのだそうだ。偽善でも何もやらないよりはましだという考え方には賛成するけど、これって偽善にすらなっていないような気がする。給水のためのボトルは原則使い捨てで、不要になったら沿道に投げ捨てるのが自転車のロードレースである。エネルギー補給飲料などのパッケージも、ためらいもなく放り捨てる。こんなことをやっているチームがプラスチックが何たらかんたら言ってもなあ。使用済みのボトルやパッケージをアシスト役の選手が回収してチームが集団の後ろを走らせている自動車まで運ぶなんてことをして初めて、偽善と呼ばれるレベルに到達する。
ということで、チーム・スカイを嫌う理由がまたいくつか増えてしまった。だからと言って、どこのチームを応援しているというわけでもないのだけど、チェコの選手、チェコの選手がいるチームは、ひいき目に見る傾向がある。チェコ選手のいない今年はUCIのワールドツアーに入っていないチームの選手が活躍するとうれしいかな。
2018年7月12日23時40分。
2018年07月12日
クビトバー事件犯人逮捕(七月十一日)
テニスのウィンブルドンが始まって、今年こそクビトバーの三回目の優勝が見られるのではないかと期待したのだけれども、あっさり敗退してしまった。クビトバーの優勝を予感させるような出来事が続いていただけに残念である。
クビトバーが2016年の12月にプロスチェヨフの自宅で強盗に襲われ、ナイフで利き手の左手を切られたという話は、事件が起こってすぐ書いたはずである。その後、治療とリハビリを経て復帰したのが、事件から半年ほど後、去年のフレンチオープンでのことだった。それでこれまで二回優勝と相性のいいウィンブルドンで優勝したら出来過ぎの物語が完成すると期待も高まったのだけど、復帰したばかりで普段以上に調子が安定せず、あっさり敗退したのだった。
負傷から一年以上を経過した今年、いわゆるグランドスラムの大会では早期敗退が続いていたけれども、ウィンブルドンの前哨戦となる芝のコートでの大会では負け知らずのまま、ウィンブルドン本戦を迎えたことで、去年以上に期待は高まった。ランキングも再び上げて来て、トップ10に復帰した後、プリーシュコバーを抜いてチェコで一番ランキングが高い選手にも返り咲いたのである。
しかも、ウィンブルドンが始まる前に、クビトバーを負傷させた強盗犯が逮捕されたというニュースも流れたのである。これはもう大団円としての優勝しかないと、流れはクビトバーの優勝に向かっていると思ったのだけど、こういうところであっさり負けてしまう安定感のなさがクビトバーなんだよなあ。調子がいいときには、それこそ最強と言っても過言ではないぐらいの強さを発揮するのだけど……。だからこそ、見ている側としては応援したくなるというのもあるのかなあ。次にウィンブルドンで優勝するまで、クビトバーの復活の物語は続いていくことになる。
ところで、捕まった犯人については、ウィンブルドンの前にクビトバーが警察に出向いて、確認をさせられたという報道もあって、やっと捕まったというのと、犯人を再び目にしなければならなかったのとどちらがクビトバーの精神状態に影響を与えたのか気になるところである。犯人を逮捕した後の拘留期間の関係もあったのだろうが、ウィンブルドンの後に回していたらと思わなくもない。
これまでの報道で把握している情報によれば、犯人は家宅侵入、窃盗の常習犯で、特にクビトバーを狙っての犯行ではなかったらしい。この手の言わば行き当たりばったりの強盗は、犯人が捕まりにくく警察もいつまでもかかわっていられないので、二三ヶ月で犯人を逮捕できないままに捜査を中止してしまう。犯人が判明するのは別件で現行犯で逮捕された場合に余罪を追及した結果というのが多いようである。だから、去年事件から半年後にクビトバーが復帰したときに捕まっていなかった時点で、この事件の犯人は捕まらず、数年後に偶然逮捕された人物が実はクビトバーの事件の犯人だったということになるのが落ちだろうと予想した。
しかし、この事件に関しては警察はあきらめることなく、事件未解決のまま捜査を中止することなく、犯人逮捕に至った。捜査の主体をになったであろうプロスチェヨフの警察署としても、市内在住の人々の中でも最重要と言えるクビトバーが選手生命の危機にさらされるような怪我をさせられた事件を解決できないというのは、警察の威信にかけても許せることではなかったのだろう。以前日本から旅行に来ていた知り合いがスリに遭ったときには、被害届は受理してもらえたもののろくに、すぐに犯人を逮捕できないままに捜査中止の扱いになったのを思い出すとなかなか複雑なものがあるけれども、クビトバーの事件の犯人が捕まったこと自体は喜ぶべきことである。これが、クビトバーのウィンブルドン優勝を暗示していると思ったんだけどねえ。
ちなみに、クビトバーはチェコでの拠点はプロスチェヨフにおいているのだが、住民登録をしているのは、実はモナコらしい。これはスポーツ選手がよくやる節税策である。チェコに限らず無駄に高いと言いたくなる所得税を避けたくなる気持ちはよくわかる。これに噛み付いたのがゼマン大統領で、母国に税金を払うことを嫌って他の国に住所を移すような人間はチェコから出ていけだったか、チェコ人扱いする必要はないだったか、とにかくそんな発言をしたことがある。確かその直後にクビトバーがウィンブルドンで二度目の優勝を遂げて赤っ恥をかくことになったんだったかな。
テニス好きで、デビスカップやフェドカップのチェコでの試合には必ずと言っていいほど顔を出していたクラウス大統領とは違って、ゼマン大統領はテニスはあまり好きではないようである。その結果、フェドカップの中継で、観客席にいる政治家の中で一番目立っていたのがオカムラ氏だったなんてこともあったなあ。あの人目立つの好きだから、どこにでも顔を出すのである。
今日はバビシュ内閣の信任投票が行われているのだが、投票前の演説が長引いてここまで書いた時点で投票すら始まっていない。テレビ中継されると、とにかく目立つために長々と関係ない話をしたり、同じ話を繰り返したりする政治家ばかりなのは、チェコも日本も同じなのである。
2018年7月11日23時56分。