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2018年07月07日

『済時記』を読む三(七月七日)



 十一月は一日の記事から残っている。

原文
十一月一日丁巳、酉刻太政大臣藤原公薨、


書下し
十一月一日丁巳、酉刻太政大臣藤原公薨ず、


 特に説明は不要であろうが、摂政を辞任した伊尹がこの日の酉時というから夜になってから亡くなったのである。


 前の十一月一日の記事から大きく間が開いて月末の廿七日の記事である。

原文
廿七日癸未、伝聞、今日以権中納言兼道朝臣任内大臣、以播磨守々義朝臣為参議、冊命之儀、一同任大臣儀、云検見天応以来公卿任例、未有不経大納言及内臣昇進此職之者、誠雖人主暗前鑑、殊亦右府不諍之所致也、上下人庶莫不驚奇矣、


書下し
廿七日癸未、伝へ聞く、今日権中納言兼道朝臣を以て内大臣に任ず、播磨守々義朝臣を以て参議と為す、冊命の儀、一へに任大臣の儀に同じ、天応以来の公卿の任例を検見するに、未だ大納言を経ずして内臣に及び此の職に昇進するの者有らず、誠に人主の前鑑に暗きと雖も、殊に亦た右府の諍はざるの致す所なり、上下の人庶驚奇せざる莫きか、


 この日も出仕しなかったのか伝聞で、権中納言藤原兼通が内大臣に任じられたことが記される。もう一人参議の補任も記されるが、これは付け足しのようなもの。平安時代において兼通の前に内大臣に任じられたのは、昌泰三年(900)藤原高藤だけある。高藤は就任から一ヶ月ほどで没しているから、なくなることを見越しての任官だったのかもしれない。こう見ると、兼通が内大臣になったのは、中納言から大納言を飛ばしての任官だったということだけでなく、内大臣に任じられたこと自体が異例だったのである。次に「一同任大臣儀」とあるのは、そんな異例な内大臣への任官が左大臣、右大臣への任官と同じだったということであろうか。
 済時は、天応、つまり奈良時代末からの公卿の任官の例を確認した上で、大納言を経ずして内大臣に就任したものはいないと記している。「内臣」とあるのは、内大臣の前身といわれる官職で、藤原氏の祖である鎌足が死の直前に任じられた官職でもある。

 ここでも十月廿三日と同じ「誠雖人主暗前鑑」という句が使われている。元服を済ませたとはいえ、未だ十四歳だった円融天皇、前例に暗いのは仕方がないと見るか、頼りない点のだと見るかは微妙なところだが、済時によれば、この件に関して一番悪いのは右大臣の藤原頼忠だという。頼忠が争いを避けたからこんなこと(中納言兼通が内大臣に就任したこと)になったんだと済時は考えているようである。身分の上下を問わず多くの人々が驚愕したらしい。
 それにしても、済時の日記の批判は強烈である。日記で権力者を批判したことで有名なのは実資だけれども、『済時記』の権力者批判は、『小右記』の道長批判に劣らない。残念なのはここに訓読した六日分の記事しか現存していないらしいことで、この六日分しか書かなかったということはありえないから、日記が完全に残っていたら、もしくはこの天禄三年の分だけでも残っていたら、平安時代の歴史は書き換えられていたかもしれない。

 摂政伊尹没後の弟達、兼通、兼家兄弟の摂関の地位を巡る争いは、『大鏡』の劇的な叙述が印象的なせいか、当時の日記で現存する『済時記』にも『親信卿記』にも記録されていないのに、兼通が中納言から関白になったと考える人も多いようである。『済時記』は欠が多いので、現存する部分に書かれていないからそんなことはなかったとは言い切れないのだけど、現存していれば……。
 考えてみると済時と実資って立場が似ているといえば言えるのである。性格も似ていたのだろうか。中宮職で上司部下の関係にあったときには、うまく協力して仕事ができていたようなので、済時も実資同様に有能な官人で政治家だったのだろう。
 以上原文の引用は宮内庁の「書陵部紀要」第23号からである。
2018年7月7日23時








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