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2017年11月30日

シグマ・オロモウツ(十一月廿七日)



 久しぶりのサッカーの話題は、国内リーグについてである。リーグ戦開始当初は、スラビアが昨シーズンから続けていた不敗記録をどこまで伸ばすのかが注目されていた。昨年の秋から続いていたスラビアの不敗記録は、今シーズンの第11節にリベレツに負けたことで、36試合で終了した。昨シーズンの九月に就任したシルハビー監督は、その後一試合も負けることなく、スラビアを久しぶりの優勝に導いたのである。
 大量に補強をした今シーズンは、選手のローテーションが激しすぎるせいか、いまいち調子が上がらず引き分けてしまうことも多く、チャンピオンズリーグには出場できず、ヨーロッパリーグのグループステージでも勝ち抜けを決められないでいる。HETリーガでも、15節終了時点で8勝5分2敗で勝ち点29で、3位に甘んじている。この順位は上ができすぎという話もあるのだけど、去年だったら勝てていた試合が引き分けに終わるようなことも多い。

 次に、スラビアの不敗記録が止まる前から話題には上っていたけれども、騒がれたのが、プルゼニュの開幕からの連勝記録である。ブルバ監督が復帰し、トルコでも戦力外にされてチェコに戻っていたコラーシュを復帰させたプルゼニュは、チャンピオンズリーグの予選や、ヨーロッパリーグの試合でこそ、負けたり引き分けたりすることがあったが、リーグ戦では初戦から負けしらずを続け、14節まで全勝を誇ったのだ。
 コラーシュをはじめ、ペトルジェラやリンベルスキーなど、ベテランのもう引退も近いとみなされていた選手たちが、ブルバの元で復活をとげ、伸び悩みの印象の強かったコピツやフロショフスキーなどもこれまで以上に活躍するようになっている。スパルタやスラビアが外国の選手を集めたのに対して、プルゼニュはチェコの、それもベテラン選手をうまく使って、強いチームを再建することに成功した。

 ブルバ退任後もチェコリーグでの成績だけを見れば、そんなに悪くなかったのだけど、ヨーロッパの舞台で全く勝てなくなってしまっていたのだ。その弱体化したプルゼニュの名残は、チャンピオンズリーグの予選にも見られ、苦手のブルガリアチームのFCSB(ステアウア・ブカレスト)に敗れて本戦出場できなかったのである。かつての勝負強いブルバのチームであればブルガリアでの初戦で引き分けた時点で、勝ち抜けはほぼ決まりだったのだけど……。FCSBとはヨーロッパリーグのグループステージでも同組になったが、第5節、合計4試合目でやっと勝利を手にしている。同時にグループ勝ち抜けも決めているから、ヨーロッパでも強いプルゼニュの復活である。
 そのプルゼニュも、チェコリーグの第15節で、テプリツェと引き分けに終わり、開幕からの連勝記録が途切れてしまった。まだ負けたわけではないので、前代未聞の全勝での優勝は無理になったが、無敗での優勝は期待できる。たしか一度スパルタが無敗で優勝したはずだけど、あのときは引き分けが半分ぐらいあったんじゃなかったかな。プルゼニュはちょうど半分の試合が終わった15節終了時点で、14勝1分、勝ち点43、これは事実上は優勝決定と言ってもいいぐらいの勝ち点である。単純に倍とは行かないだろうけど、これまでの最大勝ち点70ちょっとを更新しそうな勢いである。

 そして次に注目すべき好調なチームが、二部から昇格したばかりのわれらがオロモウツである。前回昇格したときには、中途半端にベテランを補強してチーム混乱に陥っていたが、今回は、昨シーズンの二部でプレーした選手たちがほとんどそのまま残っていて、財政的な問題からほとんど補強しなかったのがよかったのだろう。二部で見せた見せた魅力的なサッカーを一部にもそのまま持ち込み、これまでにないぐらいの成績を残している。
 一時期調子を落として、負けてもおかしくないような試合もあったけれども、そんな試合でもきっちり引き分けられるのが今のオロモウツである。スラビア戦はハンドくさいプレーからのゴールで何とか同点に追いつき、ボヘミアンズ戦、オストラバ戦は、先制はしたものの相手に押し込まれて同点に追いつかれたあと何とか守りきったという試合だった。
 負けたのは連勝を続けていたプルゼニュとの試合だけ。それも、多くのチームが完敗する中、オロモウツは結構互角に近い試合をしていた印象がある。15節では不調とはいえそれなりに勝ち点を積み上げてきているスパルタとの試合に、1-0だったけれども、内容的には完勝し、現在9勝5分1敗の勝ち点32で、なんと2位につけているのである。

 今回は簡単には降格しないだろうと思っていたけれども、ここまでの結果を出すとは、選手たちや監督も期待さえしていなかったのではないだろうか。たしか勝ち点が29になった時点で、これで残留が決まったぞとインタビューで答えていた選手がいた記憶がある。チェコのリーグは全30節で行なわれ、勝ち点30前後が残留と降格の境目となることが多いのである。
 もし、今年最後の16節で負けなければ、オロモウツは2位で長い冬休みを迎えることになる。二部から昇格したばかりのチームが2位で秋を終えるというのは、これまでなかったことだというので、ここは頑張って秋の2位を目指してほしい。15節で勝ち点32なら、30節で64、この数字はシーズンによっては優勝を狙えなくもないのだけど、今シーズンは1位のプルゼニュが完全に独走に入っているから、ここから優勝というのは無理だろう。それでも久しぶりにサッカーでオロモウツの活躍が見られるというのは嬉しいものである。

 今はまだそれほど数は出ていないし、出場機会も少ないけれども、今後オロモウツの選手、オロモウツ出身の選手が代表に呼ばれる機会も増えていくはずである。そうなるとチェコ代表を応援するモチベーションも上がるので、今の好調ができるだけ長く続いてほしいものである。トブルディークがボスやってるスラビアの選手ばかりだとね、監督も元スラビアのヤロリームだしさ。

 ということで、久しぶりのオロモウツに関する、サッカーだけど、記事であった。
2017年11月28日25時。








2017年11月29日

森雅裕『あした、カルメン通りで』(十一月廿六日)



 本書は奥付によれば、1989年5月5日に講談社から刊行されているが、この頃、毎年4月5日付けで一冊ずつ刊行していることを考えると、本書も本来は4月5日の刊行で計画が進んでいたのではないかと考えられる。その上、KKベストセラーズから刊行された『推理小説常習犯』巻末の著作リストには、6月の刊行と記されているから、実際の刊行は奥付の日付よりもさらに遅れた可能性もある。
 この辺のずるずる遅れたようにみえる刊行日を考えると、『歩くと星がこわれる』で描かれたデビュー作の刊行の遅れは、『画狂人ラプソディ』でも『モーツァルトは子守唄を歌わない』でもなく、この『あした、カルメン通りで』の刊行の経緯を描いたものではないかとも思われてくる。たしか、ゴールデンウィークが挟まって、担当の編集者が休みを取ったせいで、刊行がさらに遅れたという描写があったはずである。あとがきの日付が4月5日になっているところに、著者の無念を感じるのは間違っているだろうか。

 それは、『椿姫を見ませんか』では江口寿史が表紙絵を担当していたのに、同シーリーズでありながら、くぼた尚子に変わっているというところにも伺える。一冊目は何とかうまくいったけど、二冊目は喧嘩別れに終わって別の漫画家にお願いしたということだろうか。シリーズ三冊目の『蝶々夫人に赤い靴』でも、版元が代わったにもかかわらず、表紙絵はくぼた尚子が担当している。
 またあとがきに、何人もの協力者に謝礼を述べているのだが、その中に、「様々な調べものでは中央公論社の新名新さんに協力を仰いだ」というのがある。すでに中公から本を出すようになっていたとはいえ、講談社から出した本のあとがきに同業他社の編集者への謝辞を入れるというのも、普通のことではない。講談社の編集部との関係はますます拗れていたといってもよさそうである。

 今となってははっきりとは思い出せないのだが、たしか80年代末に大学への進学で東京に出て、神保町の東京堂書店か書泉で森雅裕のコーナーを発見して森雅裕を再発見したのである。そこに並んでいただろう『椿姫を見ませんか』『あした、カルメン通りで』『マン島物語』など数冊の森雅裕の本のうち、どれを最初に購入したのだったか。森雅裕は推理作家だという思い込みから、バイク小説の『マン島物語』は後回しにしたのは確かなのだが……。90年になってからだったかなあ。
 とにかく『あした、カルメン通りで』が、大学に入って読んだ森雅裕作品の最初の一冊目か二冊目であることは確実である。カバーは白い半透明の紙に書名と著者名しか書かれておらず、表紙絵は単行本本体の表紙に描かれて、透けて見えるというこり過ぎた装丁のこの本、表紙の紙がパリパリで持ち歩いているうちにぼろぼろになって、思わず二冊目を購入してしまったんじゃなかったか。それとも二冊目を買ったのは、なくなる前に確保するためだっただろうか。保存用なんてことにはしないで二冊とも普通に読んでいたし、必要があれば貸し出しもしていたけど。

 『椿姫を見ませんか』で一部に熱狂的なファンを生み出した鮎村尋深と森泉音彦のコンビの再登場である。舞台は東京の私立の芸術大から、北海道大学に移る。これはマリア・カラスの来日の際の謎に迫るという内容からの要請であろう。カラスの生涯最後の公演の舞台が札幌の厚生年金会館だったというし。
 物語は大学院を出て北大で日本画の講師をしている音彦のもとに、欧米でオペラ歌手として活躍をし始めた鮎村尋深が現れるところから始まる。出会うばしょは北大ではなく、厚生年金会館の近くの路上で、鮎村尋深には故障したアルファロメオというお供がついていたけれども。この話にも、森雅裕お得意の音楽、絵画、そして今回はバイクではなく外車が登場する。

 多分、推理小説として考えると、人は死なないし、謎がいまいちよくわからないし、解決されたのかされないのかよくわからないまま放り出されるところがあって、それほど出来のいい作品ではないのかもしれない。その分は、件の二人はもちろん、鮎村尋深の師匠の老齢の音楽家ミルクールや、音彦の教え子の女子大生など、一癖も二癖もある登場人物たちの掛け合いが楽しませてくれる。
 恐らく、推理小説を書かせたい出版社と、殺人事件にしたくない著者との間に葛藤があり、その妥協の産物が有名オペラ歌手の死の謎ということだったのだろう。著者もあとがきで書いているが実在の偉大なオペラ歌手マリア・カラスを直接題材にしたために、歯切れが悪くなった部分もあるようだ。

 しかし、推理小説として読まなければ、謎を解ききれないまま、はっきりとこうだったのだという結論が出ないまま物語が終わるのは、余情があって悪くない。人の人生だってはっきりと結論の出ることは多くないし、なんてことをこの本を読んで考えたのだったかな。森雅裕の作品には、ジャンルわけが難しい作品が多いけれども、これもそうかなあ。一応推理小説の枠なんだろうけど、枠の外に出たがっているような印象を受けてしまう。

 文庫化もされていて、絶対に持っていたはずなのだけど、現在手元にない。解説が結構面白かったような記憶があるので、読み返したいのだけど。今更買うわけにもいかんしなあ。
2017年11月27日25時。







posted by olomoučan at 08:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 森雅裕

2017年11月28日

森雅裕『ベートーベンな憂鬱症』(十一月廿五日)



 ブログのページ別アクセスで、先月今月と意外に多いのが森雅裕について書いた二つ目の記事だった。気になってヤフーで「森雅裕」で検索をかけてみたら、上から四つ目に並んでいる。そういえば森雅裕のすべての本について文章を書こうというのも、途中で中断している。ということで、久しぶりに森雅裕の作品について書く。久しぶりすぎてこの『ベートーベンな憂鬱症』については、すでに書いてしまったと勘違いするほどだった。

 とまれ、講談社から1988年に刊行された本書は、森雅裕がまだ売れっ子作家予備軍だったころの作品であることを象徴するように、雑誌掲載されたものをまとめた中篇小説集である。確か最初にこのシリーズの存在を知ったのは、大学入学早々に図書館で講談社の雑誌「小説現代」に、収録された作品の一篇が載っているのに気づいたときだった。郊外のキャンパスの図書館は、学生以外の一般市民も登録さえすれば使えるようになっていたので、一般受けのする小説誌なんかも置かれていたのである。
 当時はまだ気になる作家の一人にすぎなかったので、バックナンバーを探したり単行本を探し回ったりということはしなかったし、時間がなかったこともあって雑誌掲載作品を読みもしなかった。今思えば残念なことである。森雅裕の作品で雑誌に掲載されてから単行本にまとめられた可能性のある小説は、他には中央公論社刊行の『さよならは2Bの鉛筆』ぐらいか。こちらは雑誌では見かけたことはないけど、『推理小説常習犯』で、中央公論社の小説誌に誤植を連発されたとぼやいているのは、この作品のこととしか思えない。

 さて、『ベートーベンな憂鬱症』で特に目を引くのは漫画『パタリロ』の作者魔夜峰央が装丁を担当していることで、気になるのは、装丁の一部として描かれている四コマ漫画のねたを考えたのが、小説家か、漫画家かというところである。つい笑ってしまったし。推理小説の、ことに80年代後半の推理小説の装丁としては、少女漫画家を使い四コマ漫画まで載せるというのはかなり異色だったんじゃなかろうか。って、そう言い切れるほど、当時の推理小説の単行本の装丁を覚えているわけではないのだけど。
 その後も、新潮社から出た『マンハッタン英雄未満』でも魔夜峰央が装丁を担当したり、『パタリロ』の文庫版の解説森雅裕が書いていたりする。その解説を読むためにだけ、『パタリロ』のその巻を買ったさ。手元にないから何巻だかは覚えていないんだけどさ。これが森雅裕のファンになってしまった人間のたどる道なのだよ。平凡社から出た『鐵のある風景』の初出が、広報誌の「月刊百科」だと知ったときにもバックナンバーを取り寄せようかとも思ったし。

 本書では、『モーツァルトは子守唄を歌わない』のベートーベンとチェルーのコンビが再登場する。このあたりは、乱歩賞受賞作品の続編をという出版社の断りがたい要請だったのだろう。あとがきに「本書の刊行に消極的だった僕が勤労意欲を起こしたのは、ただただ装幀を引き受けてくださった魔夜峰央さんのおかげである」と書かれているのが、そのあたりの事情を物語っている。ここにもすでに講談社との関係が悪化しつつある徴候を読み取ることもできそうだ。
 収録されている四編のうち、前半の二編は、ベートーベンに関わる個人的な事件だが、後半の二編は、国際情勢をめぐる陰謀にベートーベンが巻き込まれていくという話になっている。最初の「ピアニストを台所に入れるな」では、探偵ベートーベンの助手を務めるチェルニーが、半ば押しかけるように弟子になる様子が描かれ、二編目の「マリアの涙は何故、苦い」は、初編でチェルニーとともに登場した貴族の娘、ベートーベンの弟子で恋人でもあったジュリエッタの結婚にかかわる事件である。三編目「にぎわいの季節へ」では、ナポレオンが没落したあとのウィーン会議を背景に起こる騒動が、四編目「わが子に愛の夢を」では、その九年後のベートーベンの隠し子騒動が描かれる。

 あとがきによれば、『モーツァルトは子守唄を歌わない』以上にフィクションだと割り切って書いたらしいので、史実よりも物語性の方が優先されている。歴史をヒントに書く小説というのはそんなもののはずなのだが、ベートーベンやモーツァルトのような音楽家をネタにした「時代小説」は、それまでほとんど存在しなかったせいか、あれこれ史実と違うとクレームをつけてくる人が絶えなかったようである。
 日本を舞台にした時代小説であれば、史実にフィクションをどう混ぜていくかという部分が評価の対象になるのだけれども、史実と違う部分を違うとわかってたのしむものなのだが……。史実に基づいて書かれたものをいう歴史小説にだって、多少のフィクションはつき物なのだし、そんな重箱の隅をつつくようなことは言わなくてもよかろうに。ただ、作者の側もそんな批判に真面目に付き合うこともあるまいにとも思う。
 真の森雅裕のファンであれば、いや普通の小説の読者でも、そんな細かいことは気にしないものである。二編目「マリアの涙は何故、苦い」の舞台となる教会が「ドゥカティ教会」というのを見れば、自分の好きなバイクメーカーの名前をつけたんだなと想像できるはずである。音楽好きでこの本を手に取った人には、ドゥカティ=イタリアのバイクメーカーというのは難しいのだろうか。

 収録された作品の中で一番好みなのは、やはり最初の「ピアニストを台所に入れるな」だろう。冒頭の「ピアノの試合といっても、楽器を投げ合うわけではない」という人を食ったような文から、せんだんは双葉より青しを地でいくようなチェルニーの人を食った性格まで、さすが森雅裕と言いたくなる。『モーツァルトは子守唄を歌わない』を読んで、気に入ったら次に読むべき一冊である。
2017年11月26日25時。





posted by olomoučan at 07:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 森雅裕

2017年11月27日

永観三年正月の実資〈下〉(十一月廿四日)



 十九日は内裏から帰宅した後、自宅の渡殿の料理用の炉である地火炉を作り始めている。このあとしばらく地火炉に関する供応が繰り返される。

 廿日は伊予介源遠古が饗応用の食事を準備して持ってくる。当然酒宴となり、源遠古は酔っ払って着ていた服を同席していた近衛府の官人に与えている。両三の人とあるので、源遠古だけでなく他にも何人か同じようなことをした人がいたようである。
 午後からは左大臣のところで行なわれる新年の宴会である大饗に出席し、夜になって主客である尊者が現れるがこの日の尊者が誰だったのかは書かれない。実資は最後まで残らずに退席している。午前中からお酒を飲んでいたせいであろうか。

 廿一日は頼忠のところと内裏を行ったり来たりしている。伝聞の形で、前日の左大臣の大饗で刃傷沙汰が起こったことが記される。藤原惟成の言葉として、六日に大江匡衡に怪我をさせた犯人を捕まえるようにという太政官符が諸国に送られ、犯人を捕まえたものには賞をあたえることになったことが記される。
 実資の自宅では、七日間の不動の調伏法が始まり、源遠資がやってきたので、地火爐次、恐らくは饗応を与えている。この日今年最初の外記政が行われているが、最後の付け足しのように書かれている。

 廿二日は、昨日に続いて源遠資を饗応して、内裏に参っている。内裏では音楽やら饗宴やらでいつものとおりである。餘慶僧都が不動の調伏法を納めている。頼忠は娘の藤原ィ子が居住していた承香殿に泊まっている。
 前日の廿一日に左大臣の源雅信が天皇に文書を奏上し直裁を受ける儀式である官奏に候じている。「已に秉燭に及ぶ」とあるが、始めたのが夕方だったということか、官奏が夕方まで続いたということなのか。
 最後に「宅印を始む」とあるのは、実資が自家印を使い始めたということだろうか。

 廿三日は外記の高丘相如の話として、右大臣藤原兼家が廿五日に右大臣の大饗を行なうから、その日は早く仕事を終わらせるように公卿たちに伝えてまわらせるようにという指示を受け、左大臣の源雅信からの同じようなことをいわれたので、召使たちに実際伝えに行かせたという。こんなことはこれまでなかったんだけどねえというのは高丘相如の感想だろうか。

 廿四日は、雨の中、上皇のところに出かけ、その後内裏に向かう。夕方帰宅するまで特筆することはなかったようである。

 廿五日の最初の記事は、今年から卵を食べるのをやめたというものである。ということは、去年までは卵を食べていたということになる。平安時代に卵を食べていたというのもちょっと以外である。その卵を止めたということを僧の勝祚に恐らく実資の邸宅内にあった仏堂の本尊に伝えさせている。
 内裏に呼ばれて参内したら、天皇の使いとして朱雀印に住む円融上皇の元に手紙を届ける使者として出向くことになる。内容は一日に上皇のほうから奏上した件についてである。院の判官代を受領職につけるという話。「三品足下」というのは三品の親王のことか、三位中将の藤原義懐のことか。
 この日右大臣藤原兼家邸での大饗と、除目の際の役職を仰せ付ける除目の召仰が行なわれている。右大臣の大饗のほうは出席していないのか伝聞である。政敵だから仕方がないのだろう。

 廿六日は除目のための議論が行われる。ただし除目のことについて、百官の長である太政大臣頼忠に連絡がなかったというのを実資は疑問視している。頼忠は関白でもあるわけだが、花山天皇との関係はあまりよくないのである。
 円融上皇からは、天皇に前日の手紙に対する返事が返ってきている。また廿五日に左大臣が上皇に馬二頭を献上したらしい。

 廿七日の記事には、この日と次の廿八日が物忌であることが記される。ただし除目という重要な儀式のためなので、外出して参内している。ちょっとお疲れ気味なのか、「聊か所労有り」などと記している。正月は儀式が多いから。

 廿八日も物忌ではあるが参内する。除目のことは今日終わらせるというのが天皇の意向のようである。しかし、京官の除目が弾正忠しかなされていないと実資は指摘している。春の除目は県召などと言われるように地方官の任命が中心ではあるが、京官の任命も行われるのが普通だったのである。
 また天皇から公卿たちの権利である地方官の任官を推薦する権利である年給をしばらく停止するようにという指示が左大臣源雅信に対して出されている。実資は夜中過ぎの丑の刻の終わりに退出しているが、議論は寅の刻まで続いたという。それで左大将の藤原朝光が出席した公卿のために、入内した娘の藤原姚子が居住する麗景殿で湯漬けを出している。前日にも藤原為家が娘の藤原忯子の居所である弘徽殿で湯漬を提供しており、一日ならいいけど二日続けて湯漬というのはどうかねと実資は疑問を呈している。湯漬だからというよりは、女御の父親が公卿に対して供応をするのが問題なのであろう。

 廿九日は、小雪の中、円融上皇の元に向かう。花山天皇から、円融天皇に乳母の加賀という人物についてのことは一日に奏上すれば、望みどおりになるだろうという言葉があったのに対して、実資が使者として内裏に出向いてお礼を奏上している。

 卅日は左大臣の源雅信に呼び出されて、円融上皇の子の日の遊びについての計画を立てている。左大臣との話し合いで院の庁の役人に準備させることになったものについては、実資が院に出向いて話をしている。この日は円融上皇の御前で一日中蹴鞠が行なわれているが、実資は実は蹴鞠の名手だったらしい。
2017年11月25日20時。








2017年11月26日

永観三年正月の実資〈中〉(十一月廿三日)



承前
 九日は、まず内裏に出かけて、元日の節会で幕が落ちてしまった責任を問われた藤原信理を許すように奏上している。天皇が殿上人の控えの間である侍所に出御して、管弦の遊びが、つまりは歌舞音曲付きの宴会が行われ、藤原中清が龍王の舞を披露している。
 また左近衛府の荒手結が行われている。この正月儀式の荒手結、真手結、賭弓、射礼などの弓関係のいくつかの儀式の相互の関係がいまいちはっきりしない。辞書なんかでの説明と、日記に現れるものとが違うことがままある。時代によって儀式そのもの、言葉の使い方の変遷があるのだろう。
 この日は、誰を左近衛府の射手とするのかで問題が生じている。要は手結に出せるような射手の数が足りないということのようである。だから去年の起請に書かれたこととは違う形にしてもいいかどうかで話し合いが行われている。結局は数が足りないほうが問題だから、数をそろえるということになったのかな。

 十日に実資が参内すると、花山天皇は寵愛する女御藤原忯子のもとにいて、小弓を使った遊びが行われている。前後二つのグループに分かれて弓を射てその結果を競ったようである。藤原中清が龍王の舞を披露しているのは前日の管弦の遊びの際と同じである。
 その後、後涼殿の庭に雪山を作って、漢詩を作る会が行われる。花山天皇の側近の藤原惟成が献じた題は「賀春雪」と「春雪呈瑞」で、そのうちの「春雪呈瑞」が採用されている。踏むべき韻は「新」で作るのは七言律詩である。漢詩を作った人々の名前は記されていないが、読み上げる役は出題者の藤原惟成が務め、実資はその補助役をしている。
 この日のことを実資は、「奇に思ふ」と批判しているが、それは正月八日から行われる御斎会の最中にこんな漢詩を作る会なんてするべきではないということと、一日の間にいろいろな行事、特に音楽を伴う遊びが多すぎるということである。弓の勝負の賞品にも文句をつけている。龍王を舞った藤原中清を含め布袴をはいて奉仕していたことが記されるが、これは正しくないからであろうか。
 雪が五寸ばかりというから、十五センチほど積もったようである。末尾に皇太子に対して正月の初卯の日の儀式である卯杖の献上が行われている。

 十一日は、歌人としても知られる藤原実方の訪問を受けている。その後夕方頼忠のもとに出向いているが、実方の訪問との関連があるのかな。「聊か触るる所有り」なんて言っているし。

 十二日は、内裏に行ってしばらくして戻ってきただけ。

 十三日は円融上皇による、御願寺の円融寺への行幸である。多くの公卿が参列しているが、按察大納言の源重信は、上皇より前に寺について準備をしている。御諷誦が行われているが最後の部分の後夜が行われる前に上皇は宿泊のための宿坊に移り、女房たちは堀川院に戻っている。

 十四日も最初は前日の円融寺行幸の続きである。まず円融寺の創建に当たって重要な役割を果たした寛朝のために御馳走をだして、公卿たちを上皇の御前に召して酒宴である。もちろん音楽も供される。すべてが終わって堀川院に戻るのは、午の刻なのでお昼頃である。
 その後、実資が参内すると御斎会の最終日の内論議の儀式である。儀式自体は問題なかったようだが、律師に与えた褒美が前例とは違うと実資は批判する。また藤原惟成の言葉として天皇の決定が語られる。sの内の覚忍が律師に任じられたことに関しては、花山天皇が皇太子だったときに奉仕していたからだという。最後に花山天皇が藤原頼忠の娘藤原ィ子を呼び寄せたことが書かれる。

 十五日は、朝早く内裏を退出しているが、夕方にはまた内裏に戻る。これは庚申の日の儀式に参加するためである。この儀式は翌十六日の踏歌の節会のために一晩中行われることはなかった。その間に擲采の興というサイコロを投げる遊びが行われているが、これが庚申の儀式に関わるのかどうかは不明である。
 重要なのは、本来行われるはずだった兵部省の手結が、公卿が一人も、呼び出しを受けたにもかかわらず出席せず、弓を射るべき人も来なかったことで中止になったことである。これはとんでもない話で、実資も「公事の陵遅は万事此くの如し」と嘆息している。
 この日は夕方から雨が降り始めて一晩中降り続いたようである。また花山天皇側近の藤原義懐が、馬を献上している。花山天皇は馬好きだから。

 十六日は踏歌の節会である。本来は男踏歌と女踏歌の二つが行われていたが、男踏歌はすでに廃絶しているので、この日も女踏歌である。儀式自体は問題なく行われている。担当の内弁が藤原為光というあたりが少々不安ではあるけれども。この日の儀式には皇太后の昌子内親王と中宮の藤原遵子の二人は、舞妓を献上していないが、これは内裏内の殿舎に住んでいないからのようである。この中宮がよそに住んでいるときに、舞妓を献上するべきかどうかについては、中宮の父藤原頼忠から問い合わせがあり、実資がそれについて前例を調べて報告している。
 また左近衛府で皇太子の護衛である帯刀が弓を射る手結が行われている。

 十七日は実資はどこにも出資せず、自宅におそらくは勧学院で勉強している藤原氏の子弟を二、三人呼んで漢詩を作らせている。学生ではない菅原資忠もやってきて漢詩を作っているのは、実資が呼んできてもらったのかどうかはわからない。

 十八日は、左近衛府と右近衛府の弓の勝負である賭弓が行われている。それなのに大将は二人ともお休みを取っている。右大将の藤原朝光は穢れのため、右大将の藤原済時は病気のための欠席である。出てくるようにという使者が出されたが、それでも出てこなかった。賭弓には近衛府だけでなく左右の兵衛府も参加する。
 実資の意見でというか、当然というか、大将の代わりに次将、つまり中将に代役をさせることになる。賭弓が始まる前の部分の手続きが詳しく書かれているが、四つの府の奏上を、二つずつに分けるべきところを、まとめて一本の文杖に挿したのが間違っているぐらいで他は問題なかったようである。
 雪が降り始めたあと夕方から賭弓が始まり、近衛府の結果は七回勝負が行われて二勝二敗三分けの引き分け、細かく見ると左側が一本分勝ったということなのかな。その後の兵衛府の賭弓は一回目が終わったところで天皇の仰せで終了になったようである。「的の論」が行われたのは近衛府の賭弓だろうか。検分役が派遣されている。その役を辞退して許された人と許されなかった人がいるようだが、すべては担当の公卿である上卿の決定である。
2017年11月24日24時。







2017年11月25日

永観三年正月の実資〈上〉(十一月廿二日)



 いろいろあって放置していた実資の記事を再開。訓読の方も再開、というよりは、投稿し忘れていた分をまとめて投稿してしまった。
 年が明けて永観三年の正月である。花山天皇が即位して最初の正月だというのはともかく、正月は行事が多く実資のような実務官人は仕事が多くて大変である。

 一日は、年頭のあいさつということで頼忠のもとに向かう。その後、上皇、中宮への挨拶を経て内裏に向かっている。未の時に天皇へ御薬、つまりお屠蘇のようなものが供されている。天皇が飲める分以上の量が供されるので後取という役が必要になるのだろう。残して捨てるなんてのは以ての外なのである。
 その後申の刻から紫宸殿で正月の元日節会が行われている。さまざまな奏のうちこの日の記事に登場するのは、七陽暦を中務省が献上する御暦奏と、氷室の氷の様子を宮内省が奏上する氷様奏の二つ。氷様のほうは、進行が遅れていたのか、急がされているようである。儀式が終わって清涼殿に戻ったのは子の刻になってからのことで、実資が退出したのはその後である。
 この日、本来行われるべき儀式の小朝拝が行われなかったのに、天皇からはそれについて何の言葉もなかったことを批判している。小朝拝というのは、元日に公卿、殿上人たちが清涼殿の東庭で天皇に拝賀した儀式である。先例を知らない無知な天皇の側近があれこれ吹き込んだんだろうという憶測も記される。
 最後に太政大臣藤原頼忠が参内して、何かを奏上しているが、欠字があるため何だったのかわからない。小朝拝が行われなかったことについてだろうか。

 二日は元日とは順番が代わって、まず内裏、その後、太政大臣の頼忠のところに向かう。頼忠は公卿が来ても会わないと言っているが、実資が上皇の許に出かけて戻ってきた後の末尾にも、公卿たちが来たけれども会わなかったということが伝聞の形で記されている。ただ、最初の発言の後に、細殿で公卿や殿上人のためにお酒のことがあったとあるのがよくわからない。頼忠不在で、客の公卿たちだけでお酒を飲ませたということだろうか。
 実資が夕方になって上皇の許に出かけると、大臣以下の公卿も参上して酒宴が行われる。管弦のこととあるから音楽も演奏されているが、左大臣源雅信以下の公卿も演奏に参加している。驚きは藤原為光が笛を吹いていること。ただの無能ではなかったようだ。
 元日に献上されるべき腹赤が二日になって到着している。この腹赤については、すでにどこかに書いたような気もするが、かつてイモリのことだと勘違いしていたことを告白しておこう。諸説あるようだが、魚である点では一致している。

 三日は呼び出しを受けて頼忠のところに向かう。昨年末に問題になった(詳細はわからんけど)詔書について処理している。しばらくして帰宅した後は、自宅での酒宴である。蔵人所の官人が年頭のあいさつに来たのに、酒や食事を提供している。下級の官人たちにもお酒を勧めて、酔っぱらいすぎて内裏に行けなかったというのは、言いわけなのか、現実なのか。蔵人所の連中が帰ったら、今度は近衛府の官人である。酔っ払って着ている服を脱いで部下の官人に与えてしまう。官人の名前が書かれていないのは、覚えていなかったのか、こういう場合には意図的に書かないものなのか。酔った挙句に服を脱いで与えてしまったのが実資だけでないあたり、平安朝の貴族もストレスに苦しんでいたのだろうか。

 四日は、頼忠のところに寄って、昨日飲み過ぎて行けなかった内裏に向かう。伝聞の形で、花山天皇が寵愛する女御の藤原忯子のいる弘徽殿で宴が行われたことが記される。その際、天皇が自分の着ていた服を源致方に与えた話に、理由がないと批判を加えている。実資が自分でやるのと、天皇がやるのとでは意味の重さが違うのである。
 公卿が数人参上してまた宴会である。昨日の宴会に関して、女御の藤原忯子以下に褒美が出ているが、これも実資のお気に召さない。この日は天皇の祖母である藤原穏子の忌日で法要が行われているのだが、宴会なんかやっていていいのかね。参議が出席せず、呼び出そうとした公卿も来なかったから、なかなか寂しい法要に終わったようである。
 左少弁の藤原道兼から、天台座主の良源が亡くなったことを知らされている。道兼は右大臣兼家の息子で、後に花山天皇の出家、退位を演出した人物である。このときはまだ実資のほうが官位は上だが、道兼は七日とはいえ関白の地位に就いてから亡くなる。

 五日は、円融上皇の兄の冷泉上皇の親王たち、つまり花山天皇の弟たちが、姉の宗子内親王を飛香舎に訪問している。天皇も弟たちに贈物を贈ったようである。
 年末から問題になっている詔書について、太政大臣の頼忠が自身を不快にさせることが書いてあるということを奏上したら、天皇は知らんぞと無責任な答えを返している。まだ中務省に下す前だったので、詔書の中から不都合な文を除くように、近臣の藤原惟成を遣わして命じているけれども、書いたの惟成じゃないのか。それとも左大臣が出した封事なのかな。実資がその事情を頼忠に伝えに行くと、すぐに後宮の承香殿に住まう頼忠の娘の女御藤原ィ子に伝えているから、藤原ィ子に関することが書かれていたのかもしれない。伝えに行ったのは実資かな。
 東宮、つまり皇太子が主催する大饗が行われているが、実資は出席していないのか伝聞の型式でしか書かれていない。このときの東宮は、円融天皇の第一皇子の懐仁親王で、花山天皇退位後即位して一条天皇となる。その結果、外祖父である藤原兼家が頼忠に代わって実権を握ることになる。

 六日は、内裏に行ってから頼忠のもとに向かう。夕方になって、小野宮家の関係者が住んでいると思しき室町に出かけている。弾正台の役人である大江匡衡が襲撃されて怪我をしたという情報を聞いている。この時代、平安というには結構物騒な時代だったのである。

 正月七日は白馬の節会である。白馬と書いて「あをうま」と読ませる。馬が出てくる前に、兵部省から弓と矢を献上する儀式である御弓の奏が行われる。本来は元日に行われる腹赤の奏も一緒にやろうとしたところ、腹赤をすでに内膳司に渡してしまったというので、腹赤の奏は行われなかった。
 白馬の節会の儀式自体にはあまり問題はなかったようだが、馬好きの天皇が紫宸殿を離れて馬を見に行ってしまっている。元日の節会の際には仕切りの幕が落ちてしまったようだし、御膳を犬が汚したというから、内裏に入り込んだ犬が誰も見張っていなかった食事を食べ散らかしたのだろうか、とにかく天皇即位直後の正月の重要な儀式にしては縁起がよくなさそうなことが起こっている。公卿たちのサボり癖も相変わらずで、元日の節会に公卿たちが退出してしまったことを天皇が批判している。
 ただ、末尾に藤原為輔が天皇の出御の後、つまりは遅れてやってきて、そのことを報告させたのに、何も言われなかったので、そのまま帰ってしまったとあるから、参内した公卿たちが帰ってしまうのも、公卿たちだけの責任というわけでもないのかもしれない。

 八日は、昼前ぐらいから体調不良で一晩中苦しんでいる。働き過ぎなのか、飲み過ぎなのか。
 
以下次回

2017年11月23日24時。




2017年11月24日

理解できないことども(十一月廿一日)



 どうして、民主主義、民主主義、うるさい連中は、民主主義の基礎であるはずの選挙の結果を否定したがるのだろうか。それに、自分たちが、自分たちの支持する党が勝ったときだけは、選挙の結果を全面的に肯定するから、理解不能の度合いはさらに高まる。自分たちが勝てば民主主義の勝利で、負けたら民主主義の危機ってのは、冗談としか思えない。
 チェコでも日本でも、得票率と議席の獲得率には、100パーセントの整合性がないのだから、選挙の結果が民意を完全に反映しているとは言えない(まともな言葉に言い直すとこうなる)とか何とか主張している人たちがいたが、ならば何故、選挙の前に制度の改正を訴えなかったのだろうか。得票率と議席数が完全に対応するような制度などありはしないのだし、特に日本の場合には、アメリカ式の二大政党を目指すとか分けのわからない理由で、小選挙区制を導入した結果なのだから、今更そんなことを言い出すのは妄言としか言いようがない。

 それに、一票の格差がどうこううるさいせいで、毎回のように選挙区の区割りが変わっているのもいいことではあるまい。選挙区で選出される議員にはその県、県内のその地方の代表という意味もあるのだから、一票の格差というものを杓子定規的に当てはめるのは間違っている。日本において、少なくとも建前上は、各都道府県は同様に重要ではないのか。九州の田舎者としては、一票の格差というものを錦の御旗にして、田舎の議員定数を減らして都会に持っていこうとする主張には怒りを感じずにはいられない。
 もし、本気で一票の格差をなくさなければならないと考えているのなら、小選挙区制を止めてしまえばいいのである。県単位の大選挙区制にして、定数も有権者数でなく、選挙における無効票も白票も含む投票者数に基づいて数を割り振ればいい。どうしても小選挙区制にこだわるのなら、小選挙区ではある程度の一方の格差は許容した上で、比例ブロックの定数を投票数によって分配すればいい。個人個人の一票の格差だけではなく、各都道府県の議決権の差が大きくなりすぎないように配慮するのも必要なことであろう。

 日本の選挙について、どこかの大学の教授だったかなが、テレビや新聞が選挙前に公表する世論調査の結果、自民党が圧勝しそうだというのを見て、選挙に行くのを止めた潜在的な野党支持者がいた可能性があるから、世論調査の結果の発表には慎重になった方がいいなどと言っていたらしい。こんなんで大学の先生とかやれるらしいし、日本の政治学者というのは気楽な商売だねえ。
 以前、世論調査の発表に関しては、自民党が圧倒的に勝ちそうだという報道があったために、自分は選挙にいかなくてもいいと考えた自民党支持者が多数いたという報道を見た記憶がある。今回の選挙も、台風に襲われたことを考えると、自民党支持者で勝てそうだから行かなくてもいいと考えた人のほうが多そうである。

 どちらが正しいのかはともかく、選挙の直前まで世論調査の結果を発表し続けるのが、有権者の投票行動に影響を与える恐れがあるのは確かなことである。だから世論調査の結果の発表はチェコでは選挙の週の月曜日までに制限されているのである。自民党が勝ったからでも、野党が勝ったからでもなく、選挙結果に影響を与えるから、世論調査の結果の発表に制限をかけようというのなら、正しくその通りというところだけれども、理由が自分の支持しない正当が圧勝したからというのでは、全く説得力がない。
 選挙前の世論調査もそうだが、選挙直後の速報で開票もされないうちから当選確実とか興ざめなことをやるのも禁止してしまえと思う。投票所で出口調査なんて無駄で有権者の投票の邪魔にしかならないことなど止めて、選管の出す結果を元に報道していればいいのだ。たかが、何分、何時間か早く結果を出すことに何の意味があるのだろうか。

 チェコでは、下院に議席を獲得した既存政党のうち、真ん中から右よりの市民民主党、キリスト教民主同盟、TOP09、市長無所属連合が、民主主義クラブとかいう名前の合同会派を結成して国会でANOと対峙すると言い出した。この四つの党を合わせてもANOの議席数には全く届かないというのはおくにしても、TOP09なんてキリスト教民主同盟から分裂して、議席を失わせ一時は解党の危機にまで追い込んだ連中なんだよ。市長無所属連合にしても、前回の選挙まで組んでいたTOP09を捨てて、キリスト教民主同盟と手を組もうとした挙句に裏切って単独で選挙に出た党だよ。理念がどうこうではなくただの数合わせの、数を獲得するための野合としか言いようがない。
 そもそも比例代表制で政党に対して投票されたはずなのに、その政党の枠を外して他の党と合同するというのは、民主主義的に許されることなのか。政党が合併するのではなく、統一会派だからまだ許容範囲ではあるのだろうけど、これも本来であれば、選挙前に統一会派を作るということで合意し、統一の名簿で選挙に出るべきだったのではなかろうか。

 統一会派を作ることで、ANOとの対立姿勢を強調し、ANOとオカムラ党、共産党の協力関係を浮き彫りにしてANOの支持層を取り崩そうというのだろうけどうまくいくだろうか。ANOとオカムラ党の組み合わせは、極右に近いものだと考えられているようだが実態は違う。ANOの支持層は中道を中心に右から左まで幅広いし、オカムラ党は極右だけでなく極左にも支持を伸ばしている。つまり、この二つの党で、思想的には極右から極左までの全体をカバーしてしまうのである。
 ANO側と民主主義クラブ側の対峙は、右、左という思想的なものではなく、疑惑まみれの過去をもつ既存政党と、怪しいところもあるけれども政界に汚染されていない新しい政党の対立ということになる。左よりの社会民主党が反ANOの姿勢をとり続けていることと、海賊党が何でもかんでも反ANOではなく、政策によってはANOを支持することもあると主張していることを考えると、その新旧の対立はより明確になる。
 有権者に愛想をつかされつつある既存の政党が、主義主張を脇において数の力を得るために協力し始めたところで、かつての勢力を取り戻せるものだろうか。望みはそれほどないと思うんだけどねえ。ANOのバビシュ氏のしゃれにならない不祥事が発覚するか、ゼマン大統領とバビシュ氏が喧嘩別れするかしない限り、現在の既存政党の凋落という流れはとまらない気がする。

 うーん、一番理解できないのは、どうしてこんな内容になったのかということだな。アメリカとロシアの話を書くつもりで始めたのに。
2017年11月23日24時。








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2017年11月23日

ヤナ・ノボトナーを悼む(十一月廿日)



 仕事が終わってうちに帰ったら、うちのに、「ノボトナーが亡くなったらしいけど、知ってる?」と聞かれてびっくりした。
「それって、ヤナ・ノボトナー?」
「うん。テニス選手の」
「ウィンブルドンで優勝したんだっけ?」
 1998年のウィンブルドンの女子シングルスで優勝したヤナ・ノボトナーが19日の日曜日に亡くなった。享年49歳。癌で長きにわたって闘病を続けていたらしい。今年のウィンブルドンのころに、テレビに出ていたときには、そんなそぶりは全く見せていなかったのだけど……。

 テレビ番組では、キャリアを振り返って、ウィンブルドンでのシングルス優勝に匹敵するものとして、1997年のWTAツアーの最終戦で優勝したことを挙げていた。特に女子では唯一の5セットマッチに勝っての優勝だっただけに喜びもひとしおだったようだ。
 他にも同じチェコ人のヘレナ・スコバーと組んだダブルスでは、シングルス以上の成績を収め、ブランドスラムで12回もの優勝を遂げたのに加えて、ビロード革命前のソウルオリンピックと、革命後のアトランタオリンピックで銀メダルを獲得している。アトランタではシングルスでも銅メダルだったかな。

 世界ランキングの最上位はシングルスで2位、ダブルスでは当然1位である。このシングルスでもダブルスでも世界ランキングの上位に入っていたノボトナーは、最近シングルスで上位にいる選手がダブルスに出場しないのを残念だと語っていたが、チェコにはルツィエ・シャファージョバーがいる。クビトバーとプリーシュコバーが、シングルスのランキングが上がるとともにダブルスはフェドカップぐらいしか出場しなくなったのに対して、シャファージョバーは一昨年シングルスで1けたの順位に入った後もダブルスでの出場を続けている。そして、シングルスは不調で順位を大きく落としてしまったけど、ダブルスでランキング1位の座に就いたのだった。
 ノボトナー自身もチェコスロバキアチームのメンバーとしてフェドカップで優勝した経験があるが、チェコの、このチーム戦での強さというのは、シングルスだけでなく、ダブルスにも力を入れるトップ選手の存在にあるのだろう。今年はダメだったけど、来年はまたチェコのチームがフェドカップで優勝してくれることを願おう。

 ところで、ヤナ・ノボトナーというと、チェコでは、ウィンブルドンで優勝したときのことよりも、初めて決勝に進出して負けてしまった1993年のほうが語り草になっている。あのときは第三セットで、あと少しで勝てるところまで、優勝候補のグラフを追い詰めたのだけど、優勝を意識したせいか突然プレーが崩れて逆転負けを喫した。そして、表彰式で英国王室の女性に声をかけられると、縋りつくように泣き崩れてしまったのだ。
 このとき、「大丈夫、いつか勝てるはず」とかなんとか、励ましの言葉をかけられて、それまで必死にこらえていたのが、こらえきれなくなったらしい。このとき励まされた通りに三回目の決勝で優勝を遂げ、翌年には引退してしまうのだから、ノボトナーの選手としてのキャリアは劇的である。その中でも、一番のドラマが1993年のウィンブルドンで、今見返しても感動のシーンである。

 チェコ、チェコスロバキアの女子テニスの歴史的に言うと、70年代はアメリカに亡命してしまったマルティナ・ナブラーティロバーの時代である。ナブラーティロバーが亡命してアメリカの選手として無敵を誇った80年代は、チェコスロバキアはマンドリーコバーの時代だったと言える。そのマンドリーコバーも80年代の後半に入ってオーストラリアに亡命してしまうのだが(レンドルもそうだけど、80年代末のビロード革命の直前に国を出た選手たちが亡命扱いになっているのかどうかいまいちよくわからない)、その後を継ぐように台頭してきたのがノボトナーだったのである。ビロード革命後マンドリーコバーは、ノボトナーのコーチになっているし。
 90年代のノボトナーの時代の後、2000年代の低迷の時期を経て、2010年ごろからは黄金期と言ってもいい時代に入っている。2011年にペトラ・クビトバーが、ノボトナー以来10年ちょっとのときを経て、ウィンブルドンに優勝し、2017年にはノボトナーも届かなかった世界ランキング1位に、カロリーナ・プリーシュコバーが就いた。クビトバーは2014年にもウィンブルドンに勝っているし、シャファージョバーなどグランドスラムのダブルスの優勝者も何人か誕生している。ノボトナーが最近指導し始めていたという若手の選手にも期待したいんだけどね……。

 このニュースの前日には、長らくチェコの男子テニスを支えてきたラデク・シュテパーネクが引退を発表した。理由はハンドボールのイーハと同じで、怪我とリハビリの繰り返しに耐えられなくなったというものだった。シュテパーネクは、時に過剰なまでのサービス精神を発揮し批判も受けたデビスカップでの活躍が特に記憶に残る。
 ノボトナーといい、シュテパーネクといい寂しいことである。クビトバーやプリーシュコバー、ベルディフたちが、一日でも長く現役を続け一つでも多く試合を見せてくれることを祈って、収拾がつかなくなったこの稿をお仕舞にする。
2017年11月21日24時。









2017年11月22日

お金に関する俗語(十一月十九日)



 昨日格変化をしない名詞として取り上げた「デカ」だが、本来は「デカグラム」で、それを略して「デカ」と言うようになったらしい。「デカ」を「a」で終わることから中性名詞の複数ととって、10グラムのことを「1デコ」なんて言い方をする人もいないわけではないと言う。その場合でも1格から7格まで変化しないという点は同じである。

 この手の略語は無変化かというとそんなことはなく、男性名詞のキログラムを略した「キロ」は中性名詞の硬変化として普通に格変化させる。日本語だとキロメートルもキロと略すけれども、チェコ語ではキロはキログラムの略で、キロメートルの略は、男性名詞の「キラーク」になる。あんまり略されていないかな。もちろんどちらも話し言葉的な表現であることは言うを俟たない。メートルは、「メトラーク」、センチメートルは、「ツェンテャーク」というはずなので、長さを表す単位は、「アーク」をつける傾向があると言ってもいいかもしれない。ただ。ミリメートルはミリメートルのままだけどさ。
 話し言葉の「キロ」にはもう一つ意味があって、ある金額を表す。1キログラムは1000グラムとなるように、キロは規準となる単位の1000倍を表すから、お金の場合も1000コルナになるのではないかと考えるのが普通であろう。しかし、何故だかわからないけれども、100コルナを指すのである。100Kč = 1 kilo。

 1000コルナにも別の言い方があって、こちらは「リットル」である。1000ミリリットルが1リットルになるからだろうか。この手の俗語に論理や理由を求めても仕方がないのだろうけれども、こういうところに漏れ出てくるチェコの人たちの言葉に対する意識を知ることは、チェコ語を身につける上では重要なんじゃないかとも思う。他のスラブ語でも同じなのかというのも気になるけどね。1000Kč = 1 litr。

 お金に関する奇妙な俗語は他にもたくさんあって、わかりやすいところからいくと、100万コルナは「メロウン」と呼ばれる。チェコ語のメロウンは、日本のメロンだけでなく、スイカも指す言葉だけれども、メロウンがメロンかスイカかという部分には何の関係もない。チェコ語の100万を表す「ミリオン」と音が似ているから、借用されたに過ぎない。漢字の六書で言うところの仮借的な手法だからわかりやすい。自分では使わんけど。1000000Kč = 1 meloun。

 次は最初に聞いたときには思わず、「Děláš srandu(冗談だろ)」と言ってしまった「ピェトカ」。この言葉は「5」を数詞としてではなく、名詞として使うときの形である。例えば5番のトラムやバス、背番号5をつけた選手、ラグビーの5点取れるトライなどがこの言葉で表される。通知表の5も「ピェトカ」である。ただしチェコでは、一番いいのが1、つまり「イェドニチカ」で、5は一番悪い成績だけど。
 そんな「ピェトカ」が指すのは、なぜか10コルナである。それには歴史的な起源があり、1892年にそれまで使われていた通貨単位の「ズラトカ」に代わって、「コルナ」が導入された。そのとき、1対1ではなく、1ズラトカが2コルナになるという交換レートが適用された。新しい通貨に慣れない人々は、コルナの貨幣をズラトカに換算した金額で呼ぶようになったということらしい。つまり10コルナは5ズラトカだということで、「ピェトカ」と呼ばれるようになり、それが現在のチェコ語にまで生き残っているのである。当時は他にもいくつかのこの手の呼称があったらしいけれども、現在まで残っているのは「ピェトカ」だけである。ということで、「Dej mi pětku」と言われたら、5コルナではなく、10コルナあげなければならないのである。10Kč = Pětka(5)。

 では、5コルナは何と言うかというと、「ブーラ」である。ブーラと聞いて思い浮かぶのは、「ブラーク(ピーナツ)」とか「ブラーコベー・マースロ(ピーナツバター)」なので、サッカーの試合なんかで、「5点取ったら、ビールが1杯ブーラで飲める」というニュースを見て、なんでピーナツでビールが飲めるんだろうと不思議に思ったものだが、実際には5コルナだったのである。サッカーの試合で、5−0とか、0−5のスコアもブーラと言っていたような気もする。語源的なことを言うと、ドイツ語から入った言葉らしい。5Kč = bůra。

 ドイツ語から入った言葉と言えば、最近ジャガイモ、チェコ語で「ブランボリ」の語源を聞いてびっくりした。ドイツのブランデンブルクが語源になっているというのである。ブランデンブルクは、チェコ語で「ブラニボルスコ」となり、ブラニボルがブランボリになって、複数で「ブランボリ」と言われるようになったということのようだ。ブランボリの単数1格が、「ブランボル」なのか、「ブランボラ」なのかも、学習者にとっては悩みの種なのだけど、語源を考えると「ブランボル」の方が正しそうだ。歴史的には、ジャガイモがブランデンブルクからチェコに入ったという経緯があるのだろうか。日本語のジャガイモもジャカルタだしね。

 話を戻そう。最後の一つは、コルナの言い換えである。恐らく通貨記号のKčから、「kačka(カチカ)」という表現を使う。カチカは、本来鳥の鴨の類を表す言葉で、「kachna(カフナ)」とも言う。ただし、カフナをコルナの意味で使うことはない。現金がもらえるキャンペーンなんかのテレビコマーシャルで鴨や鴨のおもちゃが出てくるのにはそんな理由があったのである。1Kč = 1kačka。

 この手の俗語というものは自分では使わないのだけれども、知っておいて損はない。飲み屋かなんかで俺知ってるよというと喜んでもらえるかもしれないしさ。とうことで、長々と書き継いだ名詞の格変化の話はこれでお仕舞。
2017年11月20日23時。







2017年11月21日

名詞格変化落穂ひろい(十一月十八日)



 前回取り上げた「-um」で終わる中性名詞の「datum(日付)」であるが、この言葉自体は意味も格変化も問題ないのだけど、複数1格の「data」と同じつづりで、「データ」という意味で使われる言葉が存在する。英語のデータがチェコ語読みされて「ダタ」になってしまったわけである。データベースなんか「ダタバーゼ」と読まれてしまうし。
 このチェコ語では同じ「data」となる日付とデータを自分で使うときに混乱してしまうのである。何よりも悩むのが、データという意味の「data」がどのタイプの名詞になるのかで、一見、女性名詞の硬変化なのだけど、中性名詞の複数という可能性もある。その場合単数1格は「dato」「datum」のどちらなのだろう。どちらでも複数の格変化は変わらないからいいか。女性名詞として使って間違いを指摘されたことが何度もあるような記憶があるから、中性名詞で複数でしか使わない名詞なのだろうということにしておく。データを女性名詞として使ってしまうために、日付も女性名詞のように使ってしまうという間違いをやらかしたこともあったような……。

 では、前回予告した女性名詞の外来語で母音+「a」で終わる名詞の格変化である。例としては「idea(理想)」が使われることが多いのだが、この手の名詞で日本人が使う機会が多そうなものとして、国名だけど「Korea(朝鮮)」を使おう。複数形がないんじゃないのなんて言うなかれ、北朝鮮と韓国を合わせて言うときに、「二つの朝鮮」というから複数で使う可能性もあるのだ。
 チェコ語では、北朝鮮(Severní Korea)は、正式名称の朝鮮民主主義人民共和国(Korejská lidově demokratická republika)から作られる略称KLDRが使われることも多いけれども、韓国は南朝鮮(Jižní Korea)としか呼ばれない。大韓民国なんて訳しにくいしね。だから二つ合わせて両方の「Korea」となるのだけど、その格変化が単数も含めて微妙で覚えにくいのである。

 先ず単数から。
 
  1格Kore-a
  2格Kore-y/Kore-je
  3格Kore-ji
  4格Kore-u
  5格Kore-o
  6格Kore-ji
  7格Kore-ou/Kore-jí

 御覧の通り「a」で終わる硬変化と、「je」で終わる軟変化が入り混じっていて、2格と7格などどちらでもいいといういい加減さである。「j」が出てくるのは発音上の要請なのだろうと思う。複数になると、2格を除いてすべてどちらでもいいことになっている。使うときにはどちらでもいいのだから気は楽なのだけど、厳密に覚えさせられた他の名詞に何だか申し訳ない気持ちである。

  1格Kore-y/Koreje
  2格Kore-í
  3格Kore-ám/Kore-jím
  4格Kore-y/Koreje
  5格Kore-y/Koreje
  6格Kore-ách/Kore-jích
  7格Kore-ami/Kore-jemi



 この手の些細な違いを特例として挙げていくときりがないので、名詞の変化についてはこれぐらいにしておく。それで、名詞の最後を飾るものとして、当初の予定には反するけれども、変化しない名詞を取り上げておく。チェコ語の名詞には性の区別があって、格変化するのが常識なのだが、非常識にも全く変化しない名詞が少しだけ存在しているのだ。

 一つ目は、「deka」である。女性名詞に「毛布」という意味の「deka」が存在するが、これは普通に格変化する。変化しないのは「10g」という意味の「deka」で、中性名詞の扱いになるのかな。スーパーの肉売り場でハムを注文するときに、日本風にグラムを使ってもいいのだけど、チェコの人たちはほとんどみんなこの「デカ」を使う。
 この言葉を初めて聞いて師匠に質問したときに、意味だけしか聞かなかったのが間違いで、「毛布」のデカと同じように格変化させたら、怪訝な顔をされた。お店の人は、それまでグラムで注文していた外国人が、デカを使ったのも不思議だったのだろうけど、「10 dek」なんて言われて、こいつは本当にわかっているのかと不安になったのだろう。「100グラムでいいの?」とグラムを使って確認されてしまった。
 次の日に師匠に聞いたら、これは特別な名詞で変化しないんだという。なんで昨日教えてくれなかったんだよと言うと、言ったけど聞いてなかっただけだろと言われてしまった。意味を知ることができて舞い上がってしまって、性と変化の仕方を聞き飛ばしてしまったのだ。中性だろうとは思うけど、未だに確信はないし、単数扱いなのか複数扱いなのかも知らんなあ。いやはや怠け者になったものである。

 二つ目は「angažmá」という言葉で、意味は「契約」。ただし「契約を結ぶ」と言うときには使わず、プロのスポーツ選手が、今のチームを離れて新しいチームとの「契約を探す」、今のチームとの「契約が残っている」なんてことを表現するときに使われる。スポーツ選手以外でも、特定の劇場と長期的な契約を結んで仕事をする俳優や音楽家たちの場合にも使われる。
 この言葉、「á」で終わるので、形容詞の女性形と同じように変化するもんだと思っていたら、無変化だった。フランス語か何かから入った外来語なのかな。同じように「á」で終わる無変化の名詞が他にもあったような気がするのだが思い出せない。

 最後は名字であるが、名詞の複数2格が名字になっているものがある。日本でも知られているものとすれば、スメタナ、ドボジャーク、ヤナーチェクに次ぐ第四のチェコの作曲家マルティヌーがいる。この人の名字は、男性の名前であるマルティンの複数二格からできているのである。ほかにもヤンからできたヤヌー、ヤネクからできたヤンクーなんて名字を見かけたことがある。
 この手の名字の人は、チェコでは例外的に男性と女性の名字が同じ形である。そして、複数2格がもとになっているので、これ以上格変化させられないということなのか、男性でも女性でも、単数も複数も1格から7格までまったく変化しないのである。もちろん前につく名前は書く変化をするので、フルネームで書かれている場合には問題ないのだが、突然「Martinů」なんてのが出てくると、マルティンの複数2格なのか、名字のマルティヌーなのか判断が付かないことがある。

 男性と女性が同じ形になる名字としては、形容詞の軟変化型の名字、たとえば「Krejčí」がある。ただし、この名字格変化はするので、2格以降は男性と女性、単数と複数で違った格変化をする。女性は変化しないけど、やっぱりこっちの方が落ち着くなあ。チェコ語の名詞は格変化をするものであって、名詞が各変化をしないとチェコ語ではないような気がしてしまう。いや、ありとあらゆる言語において、名詞は須く格変化すべき、もしくは助詞をとるべきものなのである。日本人としては、てにをはで済んでくれるのが一番いいんだけどね。
2017年11月19日12時。





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