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2017年11月25日
永観三年正月の実資〈上〉(十一月廿二日)
いろいろあって放置していた実資の記事を再開。訓読の方も再開、というよりは、投稿し忘れていた分をまとめて投稿してしまった。
年が明けて永観三年の正月である。花山天皇が即位して最初の正月だというのはともかく、正月は行事が多く実資のような実務官人は仕事が多くて大変である。
一日は、年頭のあいさつということで頼忠のもとに向かう。その後、上皇、中宮への挨拶を経て内裏に向かっている。未の時に天皇へ御薬、つまりお屠蘇のようなものが供されている。天皇が飲める分以上の量が供されるので後取という役が必要になるのだろう。残して捨てるなんてのは以ての外なのである。
その後申の刻から紫宸殿で正月の元日節会が行われている。さまざまな奏のうちこの日の記事に登場するのは、七陽暦を中務省が献上する御暦奏と、氷室の氷の様子を宮内省が奏上する氷様奏の二つ。氷様のほうは、進行が遅れていたのか、急がされているようである。儀式が終わって清涼殿に戻ったのは子の刻になってからのことで、実資が退出したのはその後である。
この日、本来行われるべき儀式の小朝拝が行われなかったのに、天皇からはそれについて何の言葉もなかったことを批判している。小朝拝というのは、元日に公卿、殿上人たちが清涼殿の東庭で天皇に拝賀した儀式である。先例を知らない無知な天皇の側近があれこれ吹き込んだんだろうという憶測も記される。
最後に太政大臣藤原頼忠が参内して、何かを奏上しているが、欠字があるため何だったのかわからない。小朝拝が行われなかったことについてだろうか。
二日は元日とは順番が代わって、まず内裏、その後、太政大臣の頼忠のところに向かう。頼忠は公卿が来ても会わないと言っているが、実資が上皇の許に出かけて戻ってきた後の末尾にも、公卿たちが来たけれども会わなかったということが伝聞の形で記されている。ただ、最初の発言の後に、細殿で公卿や殿上人のためにお酒のことがあったとあるのがよくわからない。頼忠不在で、客の公卿たちだけでお酒を飲ませたということだろうか。
実資が夕方になって上皇の許に出かけると、大臣以下の公卿も参上して酒宴が行われる。管弦のこととあるから音楽も演奏されているが、左大臣源雅信以下の公卿も演奏に参加している。驚きは藤原為光が笛を吹いていること。ただの無能ではなかったようだ。
元日に献上されるべき腹赤が二日になって到着している。この腹赤については、すでにどこかに書いたような気もするが、かつてイモリのことだと勘違いしていたことを告白しておこう。諸説あるようだが、魚である点では一致している。
三日は呼び出しを受けて頼忠のところに向かう。昨年末に問題になった(詳細はわからんけど)詔書について処理している。しばらくして帰宅した後は、自宅での酒宴である。蔵人所の官人が年頭のあいさつに来たのに、酒や食事を提供している。下級の官人たちにもお酒を勧めて、酔っぱらいすぎて内裏に行けなかったというのは、言いわけなのか、現実なのか。蔵人所の連中が帰ったら、今度は近衛府の官人である。酔っ払って着ている服を脱いで部下の官人に与えてしまう。官人の名前が書かれていないのは、覚えていなかったのか、こういう場合には意図的に書かないものなのか。酔った挙句に服を脱いで与えてしまったのが実資だけでないあたり、平安朝の貴族もストレスに苦しんでいたのだろうか。
四日は、頼忠のところに寄って、昨日飲み過ぎて行けなかった内裏に向かう。伝聞の形で、花山天皇が寵愛する女御の藤原忯子のいる弘徽殿で宴が行われたことが記される。その際、天皇が自分の着ていた服を源致方に与えた話に、理由がないと批判を加えている。実資が自分でやるのと、天皇がやるのとでは意味の重さが違うのである。
公卿が数人参上してまた宴会である。昨日の宴会に関して、女御の藤原忯子以下に褒美が出ているが、これも実資のお気に召さない。この日は天皇の祖母である藤原穏子の忌日で法要が行われているのだが、宴会なんかやっていていいのかね。参議が出席せず、呼び出そうとした公卿も来なかったから、なかなか寂しい法要に終わったようである。
左少弁の藤原道兼から、天台座主の良源が亡くなったことを知らされている。道兼は右大臣兼家の息子で、後に花山天皇の出家、退位を演出した人物である。このときはまだ実資のほうが官位は上だが、道兼は七日とはいえ関白の地位に就いてから亡くなる。
五日は、円融上皇の兄の冷泉上皇の親王たち、つまり花山天皇の弟たちが、姉の宗子内親王を飛香舎に訪問している。天皇も弟たちに贈物を贈ったようである。
年末から問題になっている詔書について、太政大臣の頼忠が自身を不快にさせることが書いてあるということを奏上したら、天皇は知らんぞと無責任な答えを返している。まだ中務省に下す前だったので、詔書の中から不都合な文を除くように、近臣の藤原惟成を遣わして命じているけれども、書いたの惟成じゃないのか。それとも左大臣が出した封事なのかな。実資がその事情を頼忠に伝えに行くと、すぐに後宮の承香殿に住まう頼忠の娘の女御藤原ィ子に伝えているから、藤原ィ子に関することが書かれていたのかもしれない。伝えに行ったのは実資かな。
東宮、つまり皇太子が主催する大饗が行われているが、実資は出席していないのか伝聞の型式でしか書かれていない。このときの東宮は、円融天皇の第一皇子の懐仁親王で、花山天皇退位後即位して一条天皇となる。その結果、外祖父である藤原兼家が頼忠に代わって実権を握ることになる。
六日は、内裏に行ってから頼忠のもとに向かう。夕方になって、小野宮家の関係者が住んでいると思しき室町に出かけている。弾正台の役人である大江匡衡が襲撃されて怪我をしたという情報を聞いている。この時代、平安というには結構物騒な時代だったのである。
正月七日は白馬の節会である。白馬と書いて「あをうま」と読ませる。馬が出てくる前に、兵部省から弓と矢を献上する儀式である御弓の奏が行われる。本来は元日に行われる腹赤の奏も一緒にやろうとしたところ、腹赤をすでに内膳司に渡してしまったというので、腹赤の奏は行われなかった。
白馬の節会の儀式自体にはあまり問題はなかったようだが、馬好きの天皇が紫宸殿を離れて馬を見に行ってしまっている。元日の節会の際には仕切りの幕が落ちてしまったようだし、御膳を犬が汚したというから、内裏に入り込んだ犬が誰も見張っていなかった食事を食べ散らかしたのだろうか、とにかく天皇即位直後の正月の重要な儀式にしては縁起がよくなさそうなことが起こっている。公卿たちのサボり癖も相変わらずで、元日の節会に公卿たちが退出してしまったことを天皇が批判している。
ただ、末尾に藤原為輔が天皇の出御の後、つまりは遅れてやってきて、そのことを報告させたのに、何も言われなかったので、そのまま帰ってしまったとあるから、参内した公卿たちが帰ってしまうのも、公卿たちだけの責任というわけでもないのかもしれない。
八日は、昼前ぐらいから体調不良で一晩中苦しんでいる。働き過ぎなのか、飲み過ぎなのか。
以下次回
2017年11月23日24時。