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2017年05月11日
ソボトカ内閣倒れず?(五月八日)
五月二日火曜日に、ソボトカ首相が内閣総辞職をすることを発表した時点で、プラハ城の大統領府に出向いて辞表を提出するものだとおそらく誰もが思っていた。だから、四日の木曜日にソボトカ首相がプラハ城を訪れたとき、首相が辞表を提出するときの儀式の準備がなされていたのだという。しかし、ゼマン大統領が、辞任前提のこれまでの首相の仕事に感謝をするようなコメントを述べた後、ソボトカ首相の口から出てきたのは、全く予想外の言葉だった。
最初に謝罪の言葉を口にして、辞表の提出ではなく、これからのことについて相談しに来ただけだとソボトカ首相は言った。ゼマン大統領はそれを聞いて、昨日の夜首相の秘書官から辞表の提出に来ると連絡があったんだぞと強調した上で、辞表の提出ではなく相談なんだったら記者たちの前にいる必要はねえやと、ソボトカ首相がまだしゃべろうとしているのを無視して、儀式の会場を後にしたのだった。
ソボトカ首相が、ゼマン大統領に相談しようとしたのは、辞表を提出した場合に政府全体の辞表として捉えるのか、首相個人の辞表として捉えるのかを確認したかったからだという。首相が内閣総辞職の計画を発表したときに、ANOの閣僚達は辞任する理由がないから辞表を提出する気はないと言っていたけれども、チェコも議院内閣制を取っている以上は、首相が辞任したら、首相が指名した閣僚もみな自動的に辞任扱いになるんじゃないのか。少なくとも市民民主党のネチャス首相が政権を放り出したときには、ゼマン大統領も内閣総辞職として対応していたはずである。
何だ、この茶番は? とすでにこの時点で思っていたのだが、翌五日の金曜日にはさらなる茶番が待っていた。ソボトカ首相が辞表の提出を撤回したのである。理由としては、ゼマン大統領が、「ブレスク」という日本の「夕刊フジ」みたいなのと組んでやっているインタビュー番組(見たことはないけれども多分ネット中継)で、首相が辞表を提出した場合には、首相個人の辞任として受け取り、他の閣僚は留任させると発表したことを挙げた。
それで、火曜日の時点では、バビシュ財相に同情が集まる恐れがあるという理由で否定していたバビシュ財相の解任を大統領に提案することを明かした。チェコの法律上閣僚の任命権は大統領にあるため、首相が解任すると決めただけでは解任できないのである。ただ、大統領にあるのは任命の権利だけなので、首相の決定を大統領がひっくり返すことはないはずである。少なくとも今まではなかった。
ソボトカ首相は、事態をできるだけ早く収拾するために、五月九日までに解任の手続きをするようにという日付入りで解任を求める書類を作成して大統領府に送付したらしい。それに対して、大統領側は、解任の決定をするのは大統領の権利であって、首相が手続きの締め切りを設定するのは間違っていると言い、その点についても検討が必要なので、決定は早くとも二週間後になると言い出した。今週末はリベレツ地方を訪問し、来週の半ばからは中国を訪問するため時間がないらしい。
首相側は、次のように反論している。2014年のソボトカ内閣成立以来、これまで数度にわたって大臣の交代を行ってきたが、その際大統領に解任を求めて提出した書類には、この日までにという日付が入っていたが、問題にされたことは一度もない。それなのに、今回だけ問題にするのはおかしいのではないかと。
大統領は、今度は、これまでは、解任要請の際に後任候補が決まっていたけれども、今回は後任の名前が挙がっていないから、バビシュ財相を解任した後、財相不在になる可能性がある。それが問題なのだとかなんとか言い出した。
その結果、首相は、バビシュ財相の公認を推薦するようにANOに申し入れたようである。その際、経済の専門家であることとか、バビシュ財相の経営していたアグロフェルトに関係のない人物であることとか、細かな条件をつけていたようだ。マスコミの報道では、候補として現在事務次官を務めている女性の名前が挙がっているが、現時点では未確認情報の域を出ていない。
今回の首相と大統領の確執は、どちらかと言うと、ゼマン大統領の分が悪いかなという感じではあるけれども、バビシュ財相も含めて、目くそ鼻くそを笑うレベルの争いという印象を与えることは否めない。ソボトカ首相が、バビシュ財相が財相であることが許せないと言うのなら、最初から解任の手続きを取っておけば、ここまで問題がこじれることはなかったのだ。選挙のことを考えで墓穴を掘ったわけだ。社会民主党もANOも、どちらもポピュリスト的であるという点では大差ないという所以である。
だからといって、野党の市民民主党や、TOP09、共産党なんかが支持に値するかというとそんなこともない。これ以上を泥仕合を長引かせないように、下院の解散総選挙を求めてはいるものの、その時期をめぐって、それぞれに好き勝手なことを言って妥協点を見つける努力すらしているようには見えない。これで責任ある野党とか言われても笑うしなかない。
七月八月の学校が夏休みに入る時期に選挙を行うのは無理だとかいう意味不明な理由で、共産党が六月末、市民民主党が九月初めの選挙を主張しているけれども、間を取って七月末の選挙で野党の間で合意を達成して、決して一枚岩ではない社会民主党の中から賛同者をつのって、与党の解散はしないという決定をひっくり返すぐらいのことはやってみせてほしいものだ。少なくとも合意を目指す姿勢だけでも見せてくれればと思うのだが、現実は自分たちの主張を声高に叫ぶだけで、既存政党への失望からバビシュ党であるANO支持に走った人々の支持を取り戻せるようには見えない。
さて、大統領と首相の泥仕合は、すぐには終わりそうにない。それはチェコにとっては幸せなことではあるまい。外国人にとっても、最初のうちは笑ってみていられたが、すでにうんざりである。思い返せば、ゼマン大統領が始めて大統領選挙に出馬した2003年、国会で行なわれた投票の第一回投票で、社会民主党の一部の議員の裏切りがあったために、決選投票にも進めないという惨敗を喫して恥をさらしたのだった。ソボトカ首相も、当時反ゼマングループに属していたのだろうか。そうするとゼマン大統領にとっては、今回の嫌がらせは、復讐の意味も持っているのかもしれない。
バビシュ財相に関しては、今年の二月まで所有していた新聞社のムラダー・フロンタの記者と会って、社会民主党の閣僚のスキャンダルを記事にする時期について話し合っている様子を録音したものが公表されるという新たな展開があった。誰が録音し誰が公開したのかも含めて、今後どうなるのかが見ものである。
5月8日23時30分。
2017年05月10日
プラハマラソン(五月七日)
チャースラフスカー以前に、日本で一番有名だったチェコ人、陸上の長距離の絶対王者だったザートペックが低迷するチェコの長距離界を活性化するために設立に尽力したというプラハマラソンが、プラハの旧市街広場をスタートとゴールにして本日七日に開催された。四月にハーフマラソンが行なわれたから、プラハの街は二ヶ月連続でマラソンのために機能不全に陥ったわけである。
日本から招待選手として出場した川内選手も、賞金などをもらわない公務員ランナーなのに優勝候補の一人になっていることで注目を集めていた。中継中には、他のマラソン選手ではありえない回数のマラソンに出場していることも紹介され、完璧な情報ではなかったが、中継のアナウンサーがかなり準備していることをうかがわせた。
チェコのマラソンでは、招待選手のゼッケンには、番号ではなく名前が記入されることが多い。今回のプラハマラソンでは、姓ではなく名が使われていて、川内選手のゼッケンには「YUKI」と書かれていた。中継では姓を使うので、画面に見えるゼッケンに書かれている名前と、中継のアナウンサーの声で聞こえてくる名前が違うので、テレビで見る人には不親切なやり方だったようにも思える。
不親切と言えば、日本の過剰なまでに親切なマラソン中継になれた目には、チェコのマラソン中継は不満だらけで見ていられない。だから、今回もところどころしか見ていないのだけど、まず画面上部に表示されるのがスタートからの時間だけで、距離の表示がない。日本ではすでに80年代には導入されていたはずだから、技術的に不可能ということはないはずだが、日本人とチェコ人視聴者のマラソンへの興味のあり方の違いを反映しているのだろう。日本人はついついタイムと距離を比較してゴールのタイムを想定しながらマラソンを見てしまうものである。
5キロ、10キロと、5キロごとに固定のカメラがあって、各選手の差を、タイム差だけでなく距離の差も見せるのが日本の中継なら、チェコの中継はいつの間にか通過していた5キロごとのタイムと選手間のタイム差が画面に表示されアナウンサーが読み上げるだけである。おかげで、画面に頻繁に映る先頭集団以外のレース展開はほとんど把握できない。その結果、ただでさえつまらなくなった最近のマラソンが、さらにつまらなくなってしまう。
無駄に関係者のインタビューが入って、画面から頻繁にレースの様子が消えるのも問題である。ペースメーカーがいるせいで特に前半は動きのないつまらないレースになることが多いのが原因だと言えば言えるけれども、マラソン中継の主役はあくまでも走り続ける選手たちなのだから、レース中のインタビューは最低限にしてほしいものだ。スポンサーへのインタビューなんか、不要だろうと考えるのは、過度に商業化する前の古きよきマラソンへのノスタルジーだろうか。
それから、中継のカメラが必要以上に切り替わるのも、問題を超えて不快だった。今回も男子のレースが40キロを過ぎて上位二人の優勝争いが佳境に入ったところで、ペースメーカーの後を独走する女子のトップの選手に画面が切り替わったり、突然上空からのカメラに切り替わったりしていた。
日本のマラソン中継も無駄に細かくて不要な情報にあふれていたり、中継車や解説者が多すぎたり、注目選手ばかりうつして肝心な上位争いが見られなかったりと問題がないわけではない。チェコと日本に中継を足して二で割るぐらいがちょうどいい。かつてのマラソンファンとしては、画面上部の時間の下の距離表示だけは実現してほしいものだと思う。
ところで、肝心のレースのほうは、2時間6分台を狙うペースメーカーの設定だったらしいが、選手たちのスピードが上がらず優勝タイムは8分台の半ばだった。上位三人は皆エチオピアの選手で、4位にはケニアの選手が入った。名前は、耳で聞く名前と目で見る名前が一致しなかったせいもあってまったく覚えられなかった。
川内選手は、30キロ過ぎまでペースの上がらない先頭集団のペースメーカーのすぐ後を走るなど快調に走っていたのだが、勝負どころに入る前に、旧市街の石畳に足を取られて転倒してしまって、先頭集団から大きく遅れ、結局6位に終わった。タイムは2時間10分ちょっとだったかな。転倒していなかったら優勝争いに絡んだはずだと評価されていた。
日本だとアフリカの選手たちに勝てないことで評価が低くなることが多いけど、日本のトップ選手は外国では日本国内以上に評価されている。チェコ人はトップの選手でさえ、2時間21分台でのゴールだったから、年に何度も2時間10分前後でマラソンを走りきる川内選手のすごさを強く感じるのかもしれない。
女子のほうは、ゴール近くまでペースメーカーに引っ張ってもらったアフリカの選手が、2時間21分台で優勝して大会記録を更新していた。途中までは2時間17分台が出そうな快調なペースで飛ばしていたが、途中で失速したようだ。こっちの優勝者は国籍も覚えていないし、2位以下の選手との差も覚えていないほど印象に残らないレースだった。
マラソンをつまらなくしたペースメーカーなんか禁止してしまえ。市民ランナーが自己記録を更新するためのペースメーカーは、あっても悪くないとおもうけどさ。
5月7日23時。
2017年05月09日
チェコ‐ウクライナ(五月六日)
久しぶりのハンドボールネタである。東モラビアの中心都市、バテャの企業城下町として発展したズリーンで、ウクライナとの試合が行なわれた。これは確か来年行なわれるヨーロッパ選手権の予選で、チェコ代表は、ウクライナ、マケドニア、アイスランドと同じグループに入っている。上位二チームが予選突破になるのか、二位はプレーオフに回るんだったか。とにかく二位以内に入る必要があるはずである。
昨年秋の試合では、アイスランドでの試合で、一点差か二点差で惜敗。典型的な北欧の正統派のハンドボールなので、チェコ代表とはかみ合いやすく、チェコの調子がよければ善戦は期待できても、勝ちきるのは、ホームでの試合であっても想像しづらい。バルカンの汚いハンドボールの典型のマケドニアには、秋のホームの試合では圧勝したけれども、マケドニアでの試合で勝てるとは思えない。それどころか、審判も敵に回るので、チェコで勝利した際の点差よりも大きな点差で負けるに決まっている。
そう考えると、ウクライナに二勝することは、二位以内に入るために絶対に必要だということになる。それなのに、大黒柱のイーハを欠いた代表は、五月三日の水曜日に行なわれたウクライナでの試合で負けてしまったのである。スポンサーが多いサッカー、ホッケーとは違って、大きな大会の予選のハンドボールの場合にはホームでの試合しか放送されないので、詳しくはわからないが、常に先行されて追いかける展開で、最終的には三点差で負けてしまった。最大で六点差を付けられたというから、最後に何とか点差をつめて帳尻を合わせたというところか。
ズリーンでの試合も、前半はウクライナでの試合と似たような経過をたどった。前半三十分を通じて、先行されて追いかける展開が続いた。途中二度ほどチェコが逆転したのだが、ミスを連発してすぐに再逆転されていた。特にポストのペトロフスキーが交代で引っ込むと、代わりのポストプレーヤーが、ウクライナの大きな選手たちとの位置取りに負けて、攻撃のコンビネーションが崩れることが多かったのが気になった。
ウクライナ側も結構ミスをしていたので、前半終了間際に逆転に成功し、前半は一点リードで終わった。前半終了の時点で試合が決まるような差をつけていてもおかしくない試合だったのに、そうならなかった原因の一つは、試合開始から十五分ぐらいまではウクライナの得点を一人でたたき出していたザドビ選手を止めることができなかったことだ。それから、ペナルティスローを二回失敗したのも痛かった。三つ目の原因は、退場者を出したときにキーパー抜きのプレーを選択したことだ。不用意なプレーでボールを失うことを繰り返し、一度など相手のキーパーにゴールを決められてしまった。これだけで三点失ったんじゃなかったかな。
後半開始当初も前半と同じように接戦が続いたのだが、流れを変えたプレーが二つあった。一つは前半から大活躍をしていたザドビ選手が三度目の退場を食らって試合から追放されたことだ。三度目の退場にするにはちょっと厳しい判定だったけれども、一度イエローカードをもらって、二回退場処分を受けた後にしては、軽率なプレーだったと言うしかない。ウクライナの得点源が一つ減ったことで守備がかなり楽になった。
二つ目は、チェコのキーパーがガリアからムルクバに代わったことだ。ガリアもそれほど悪かったわけではないが、ウクライナのペナルティスローを止められずにいた。それをペナルティ限定で登場したムルクバが止めたことで、そのままキーパーが交代した。シュトフル、ガリアに次ぐ三人目のキーパーで、これまで活躍の機会があまりなかったムルクバだが、この日は大当たりだった。ペナルティを止めたことで、ディフェンスとキーパーの連携もよくなり、チェコが一気にトルハークに入った。最大で十点差つけたのだが、最終的には七点差で勝利した。これはウクライナとチェコの健闘で予選グループが混戦に陥っていることを考えると大きな点差になるかもしれない。
この勝利の最大の貢献者は、キーパーのムルクバ、もう一人上げるとすれば、サイドのヤクプ・フルストカだろう。ムルクバからのぎりぎりのロングパスを受けてフルストカが決めた二本の速攻は見事としか言いようがなかった。相手のキーパーも首を振るしかできていなかったし。
気になったのは、イーハに次ぐ攻撃に柱であるはずのホラークがほとんど守備専門でしか出場していなかったことだ。最近怪我がちで欠場することも多かったから、出場してくれるだけでもありがたい存在なのだが、イーハとホラークがいないと、チェコの攻撃は高さと遠目からの迫力に欠けることになってしまう。期待のカサルはいつまでたっても期待のままだからなあ。
この試合の勝利で、あと二試合勝って本戦出場の可能性が残った。絶対に勝てるとは思わないけれども、応援し続けられるだけの希望が残ったことをよしとしよう。イーハの最後の雄姿をヨーロッパ選手権で見たいものである。
5月7日16時。
2017年05月08日
チェコスポーツ界の汚職(五月五日)
これも五月三日から始まったのだが、警察がチェコサッカー協会、チェコスポーツ協会、教育省、ヤブロネツのサッカークラブで家宅捜索を行い、サッカー協会会長のミロスラフ・ペルタ、スポーツ協会会長のミロスラフ・ヤンスタなど十人ほどが、事情聴取などのために警察に連行された。この時点では、ほとんど情報がなく、教育省がスポーツ界に対して出している補助金に関して不正があったのではないかと言われていた。
教育省は、毎年多額の補助金を、特に子供たちのスポーツにつぎ込んでいるわけだが、最も多くの補助金を得ているスポーツがサッカーである。ペルタがかつてオーナーを務めていたヤブロネツのチームが捜索の対象となっていることを考えると、ヤブロネツへ補助金が出るようにペルタが圧力をかけたということだろうか。
その後、スポーツ協会のヤンスタは逮捕には至らず、事情聴取を受けただけで解放されたが、ペルタは逮捕拘留されることが決まった。サッカー界では一番の権力者なので、関係者に圧力をかけて自分に都合のいい証言をさせる恐れがあると見られたようである。
他にも、教育省の事務次官の女性と、元スポーツ局長も逮捕されている。また法人としてのチェコサッカー協会も捜査の対象になっているようである。それに対して、サッカー協会側では、補助金に関する監査は行っているが問題は存在しないと反論している。
よくわからないのは、教育省の補助金がどのように分配されるかで、まずスポーツ単位で分配され、各スポーツの協会が協会内でどのプロジェクトに補助金を出すかを決めているのか、教育省で直接どのスポーツに出すのか決めているのか、前者の可能性が高いとは思うが判然としない。
前者であるならペルタと教育省の高官の容疑は、サッカーに対する補助金を増やすように働きかけたということになるのだろう。どのスポーツでも、補助金の獲得のためにあれこれ働きかけはしているだろうから、逮捕にまで至ったということはよほどのことだったのだろうと推測はできるが、詳細は明らかになっていない。
新たなサッカー協会の会長を決めるための総会が行われる一月前というこの時期に、家宅捜索逮捕が行われたことに対して、ペルタを陥れようとする勢力が警察検察に働きかけたのではないかという見方もあって、わけがわからない。ソボトカ政権が辞任するとかしないとかいう問題と関係した政治的な捜査だと考えている人もいるようだし。
ペルタという人物は、生まれながらのスパルタファンだと公言しながらヤブロネツのオーナーを務め、最近まではヤブロネツのオーナーを務めながら、サッカー協会の会長を務めていたというちょっと胡散臭い人物である。日本でもプレーしたイバン・ハシェクが、協会正常化の切り札として協会長に就任しておきながら、任期途中で投げ出すように辞任した後を受けて、ペルタが会長に就任したのだが、ハシェクの辞任の理由が協会の改革がある程度進んだからだったのか、不可能だとあきらめてしまったからなのか、これもよくわからない。
プシーブラムのオーナーのスタルカと並んで毀誉褒貶の激しい人物であるが、ペルタ会長の下で、さまざまなプロジェクトが行われスポンサーも増えたことで、チェコサッカーは経済的な面では改善されている。その結果、子供たちがサッカーをするための環境も改善が進むなどの目に見えにくい部分での結果も出ているのでサッカー協会の会長としては悪くないという印象は持っている。教育大臣を解任された確か社会民主党の政治家を、わざわざ新しいポストを作って協会に迎え入れるなど、怪しいこともたくさんやっているのだけどね。
個人的には、このペルタよりも、以前よくあったらしい例えば交通関係の法律の改正案の中に、自分の地元のサッカーチームへの補助金についての条文を挟み込んで可決させるなんてことをしていた国会議員のほうを逮捕してほしいと思う。さすがに最近はそんなことをする輩はいなくなったと思いたいけれども。
とにかく、現時点では断片的な、しかも不確かな情報しか入ってきてないので、今後サッカー協会と、その会長がどうなるのか見守っていくしかない。今回の警察の手入れがチェコサッカーの弱体化につながらないことを祈っておこう。チェコ代表の出ないワールドカップや、チェコのチームが出場しないチャンピオンズリーグやヨーロッパリーグの試合は見る気になれないし。
今回の件に直接関係はないけれども、忘れないうちに書いておくと、われらがシグマ・オロモウツは、二部リーグで圧倒的な成績を残しており、五月三日のズノイモとの試合に勝利したことで、来期の一部への復帰を決めた。昇格する二チーム目は、実質的にはバニーク・オストラバとオパバのシレジアの二チームに絞られている。一部から降格しそうなのはプシーブラムとフラデツ・クラーロベーなので、来期はボヘミアのチームが減って、モラビアのチームが増えることになりそうである。
5月5日23時。
2017年05月07日
スポーツの五月三日(五月四日)
五月三日は、東京オリンピックで活躍して、当時オリンピックを見た日本人の心を引き付けてやまない今は亡きビェラ・チャースラフスカーの誕生日である。ということで、チェコテレビでドキュメント番組が放送された。孫と思しき子供たちにメダルを見せるシーンで大きな箱にメダルを無造作に放り込んだものを二つ引きずって現れたのも、衝撃だったけれども、日本との関係が東京オリンピック以前から始まっていたことを知れたのは、新たな発見だった。
母親が、新聞などを切り抜いて作ってくれたというスクラップブックをめくりながら、記事に書かれた大会のことを回想していく中で、プラハで行われた体操の世界選手権の遠藤選手の記事が出てきた。チャースラフスカーは、あの時、遠藤選手が大会の主役だったと回想し、日本の選手たちの演技を見て、自分もあのような演技がしたいと思ったのだと言う。日本選手の演技のことを「猫のような」という言葉で形容していた。
その後の東京オリンピックであれだけの活躍ができたのは、日本的な演技を学んだおかげなのだという。そして、だからこそ、自分の演技が日本の観衆にあれだけ熱狂的に受け入れられたのではないかと回想していた。東京オリンピックのときは、まるで七人目の日本チームの選手であるかのように感じていたらしい。
日本選手の演技を参考に、段違い平行棒で他の選手にはまねのできない手放し技を開発して、東京オリンピックでも披露したのだけど、チェコスロバキアチームの同僚の選手が、緊張に耐えかねて声をあげてしまったことで、上側の棒から手を放して回転するところで落下してしまった。そのとき、客席にいた日本の観客たちが、手放し技を見たいと願っているのを強く感じたために、そこで演技を止めずに、もう一度鉄棒に登って手放し技を披露したのだという。
当時のビデオには、チャースラフスカーの演技が終わって着地した瞬間に、かたずをのんで見守っていた観客席から万雷の拍手が送られる様子が残されている。落ちた瞬間にメダルの夢は消えたと言っていたので、おそらく種目別の平行棒の演技でのことだろうとは思うけれども、こんな話があったなんて知らなかった。
チャースラフスカーと日本の関係は、よくある日本側からの一方的な思い込みではなく、相互にお互いを尊重し合う、ある意味理想的な関係になっている。プラハの春の後の正常化の時代、ビロード革命の後の家族の問題を抱えていた時代を乗り越えてなお、その東京オリンピック以前から続く関係が途切れずに続いてきたことを、チェコに住む日本人としては、心の底からうれしく思う。
普段、プラハで行われる日本関係のイベントには、出席することはほとんどないのだが、そのため生前にお目にかかる機会を失したのかと思うと、斬鬼の念に堪えない。遠くからでもお姿を拝見できればそれで満足だったのだけど、さすがにオロモウツからは無理だからなあ。ほぼオロモウツから離れず、引きこもり状態であるのを誇りに思っている人間が、それを後悔してしまうほどに、チャースラフスカーの存在は、大きい。
やはり、体操選手としても、日本とチェコをつなぐ自分としても、本当の意味で不世出で不滅の存在なのである。文学や政治などには持ちえないスポーツとものの力を最高の形で体現したのがチャースラフスカーなのだろう。前回と同じく敬称は省略させていただいた。時間が経てば意識も変わるのかもしれないけれども、今はまだ無理である。
5月5日15時。
本当は、この後、五月三日に起こったスポーツ関係の出来事についても書くつもりだったのだけど、この記事に関しては蛇足になりそうなので、稿を分けることにする。題名は当初の考えを残すためにそのままにした。5月5日追記。
2017年05月06日
憲法記念日(五月三日)
ゴールデンウイークというものの恩恵を受けられなくなって久しい。日本にいたときにゴールデンウイークだから何をしたかにをしたということがあるわけではないのだけど、祝日というものはそれだけでありがたいものだった。最近は生活のリズムが狂うので鬱陶しい思うこともあるけど。とまれ久しぶりに五月三日が憲法記念日だということを意識したのは、安倍首相の発言によってだった。
2020年までに憲法を改正して、自衛隊の存在を憲法に反映させたいのだという。自衛隊が憲法で規定されるべきものなのかどうかはともかく、予想通り大きな反響を巻き起こし賛否両論が飛び交っているようである。
外国に長く暮らしていると、日本で盛んな憲法第九条を巡って、自衛隊は軍隊なのかどうかという議論がいかに無意味なものなのかが実感できる。いや、日本にいても気づこうと思えば気づけたのに、目に入ってこなかったというか、無視していたというか、とにかく軍隊というものは、どこの国でも自国を守るためのものとして規定されているのだ。軍関係の役所はたいてい防衛省とか国防省となっているわけだし。
チェコでも日本の自衛隊に関して紹介する際に、自衛隊を直訳したような言葉よりも、軍を意味する言葉が使われることの方が多い。チェコの軍隊だって、基本的には国家を守るための戦力なのだから、日本の自衛隊もチェコ人にとっては明らかに軍隊なのである。専守防衛だから軍隊ではないなどという詭弁は通用しない。チェコ軍も、NATOの活動の枠内でしばしば国外に支援に出ることはあるけれども、それは決して国外で戦争をするためではないのである。
だから、議論されるべきは、自衛隊を取るか、いや自衛隊の有する戦力を取るか、現行憲法を取るかである。自衛隊は軍隊ではないのだから憲法を変える必要はないというのでは、話にならない。首相がどれだけの覚悟を持って発言したのかは知らないが、仮にも一国の首相がこれだけ思い切った発言をしたのだから、反対派もただ反対するだけでなく、問題の根本の部分に立ち返って表層的な部分ではなく、本質的な部分に関して議論する必要があろう。
改憲賛成派の議論は明確である。憲法を改正して自衛隊を国を護るための戦力として規定しなおそうというのだろうから。反対派が、憲法第九条を守れと言うときに、自衛隊の廃止、つまり日本の非武装化まで覚悟の上の発言なのかどうか、心もとない。自衛隊を廃止して日本の防衛を米軍に丸投げするという考えでも、軍隊のない未来の世界の構築に向けて日本が先鞭をつけて非武装化するというのでも、その実現性はともかく、この問題を本質的な部分で捉えているという意味で、自衛隊は軍隊ではないから憲法は改正しなくてもいいという詭弁に比べればはるかにマシだし、議論の対象にできるのだけど。
そもそも国際化、国際化とうるさい連中が、この問題になると、どうして日本独自の解釈にこだわるのだろうか。昨今流行のグローバルスタンダードなんてものを、完全に無視して、日本独自の路線に突き進むというのなら、自衛隊を軍隊ではないと言いぬける日本的な、あまりに日本的な解決方法を支持してもいいと思うけれども、残念ながら現実は全く逆である。
外国に住んで長いので、自分自身が改憲に賛成なのか反対なのかを声高に叫ぶつもりはない。日本で議論を尽くして結論を出してくれれば、それに粛々と従うのみである。どんな結論が出ようと、ある意味国を捨てた人間には反対する権利はないと思っている。問題は、議論がかみ合わないままに感情的な議論に終始して、議論を尽くして出した結論なんてことにはなりそうもないところにある。
ところで、現在の国民国家の軍隊が、国防以外の名目で戦争をするということは可能なのだろうか。フランス革命時だって、フランスの国民軍はもともと外国からの干渉を跳ね除けるために戦っていたわけだし。結局ナポレオンが出てきて国を護るために外国に攻め込むという論理の飛躍が起こってしまったけれども。逆にチェコスロバキアの軍隊は、第二次世界大戦前のミュンヘン協定の際にも、1968年のプラハの春の際にも、政治的な決定の前に、国を護るために戦うことさえ許されなかった。
文民統制の原則から言って政治家が軍隊が戦うか否かを決定するのは正しいのだろう。そう考えると、自衛隊が軍隊であると規定することが、そのまま外国への侵略につながるとは思えない。だから、自衛隊が軍隊であると規定されるかどうかよりも、法律で論理の飛躍が起きないような網をかけておく方がはるかに重要な気がする。
ロシアという脅威が陸続きに存在しているチェコに住んでいると、軍隊が、国防のための軍隊が存在することは、心強いと感じる。テロの脅威が高まっていることも考え合わせると、非武装国家なんてことは考えようもない。だからこそ、ウクライナに余計な手を出して必要以上にロシアを刺激したり、アラブの春を中途半端に支援して中東から北アフリカに至る地域を混乱に陥れたEUの想像力が欠如しているとしか思えない外交政策に腹を立てるのである。
とまれ、東京オリンピックの時に、自衛隊が日本の軍隊として警備を担当することになるのか、未来を体現した非武装国家日本でオリンピックが行われるという事態になるのか、結局何も変わらず今の自衛隊の存在をあいまいにしたままの状態が続くんだろうなあ。
この五月三日は、東京オリンピックのアイドル、ビェラ・チャースラフスカーの誕生日だったので、こっちについて書いたほうがよかったかもしれない。明日スポーツ界のあれこれでまとめて書くかもしれない。
5月4日23時。
2017年05月05日
ソボトカ内閣倒れる?(五月二日)
今日は何について書こうかと考えて、最近激しくなっているソボトカ首相とバビシュ財相の対立についてでも書こうかと思いながらうちに帰ってきたら、テレビのニュースで、ソボトカ首相が内閣総辞職を決意したと言っていた。四年前のネチャス首相の辞任も唐突で無責任な政権の投げ出し方だったけれども、今回のも突然で、選挙が半年以内に行なわれることを考えると、何とも無意味な総辞職で、下院の解散総選挙を行なったほうがましである。ただ、今の時点で総選挙が行なわれるとバビシュ財相のANOが圧勝することが予想されているから、踏み切れなかったということか。
2012年の夏にネチャス内閣が倒れ、ゼマン大統領が指名した暫定内閣も下院の承認を受けることができなかったことで、秋に行なわれた総選挙の後、2014年に成立したソボトカ内閣は、社会民主党、ANO、キリスト教民主同盟の三党からなる連立政権だった。これまでも、警察の組織再編、ダライラマとの面会問題、反バビシュ法制定などなど、連立与党内部での対立が、連立解消につながりかねない事態は何度か起こってきたが、何とか話し合いで合意に達したのか達していないのかよくわからないまま、連立は維持されてきた。
今回、何が問題になっているかというと、またまたバビシュ財相の経済活動である。政界に進出する前の確か2011年、アグロフェルト社が、社債を発行しそれをバビシュ氏が購入した。自分が所有する企業の社債を購入するのがいいのかどうかはともかく、その社債の購入額は15億コルナという膨大な額であったらしい。
ここから先は、何が問題になっているのか、経済に関する知識のない人間には、いまいちよくわからないので推測ばかりになってしまうのだが、最初にこの件で問題になっていたのは、この社債の購入に際して脱税があったのではないかということだった。もしくは、社債の発行、購入によって納める税金を減らしたのではないかということだった。
これに対して、バビシュ氏はすべては社債に関する法律に基づいて処理しており、税制上何の問題もないと反論していた。しかも、最近国会でこの社債の件に関して議論が行われたときには、法律を改正しようという意見は出てこなかったのだとかいうようなことも言っていた。そのときには全く問題にしなかったのに、今になって脱税だとか言うのはおかしいと言うわけだ。
その後、もしかしたらその前からくすぶっていたかもしれないが、バビシュ氏の資産形成に怪しいところがあるという話が出てきた。納税の際に提出した収入の額では、購入できないような額の社債を購入できたということは、所得を隠して脱税していたということではないかと疑われているようだ。バビシュ氏は、自分の納税証明書を公開すると同時に、首相ら辞任を求める人たちに、自分たちも公表しろと迫ったのだった。
正直な話、額の多寡はともかく、この手の法律上は問題ないけれども倫理的にはどうかと言われそうな半不正に手を染めていない政治家などいるまいと思う。ソボトカ首相自身が、以前雑誌のインタビューで、国会議員に与えられる歳費を節約して家を買ったとか何とか答えていたのを覚えている。これだって、法律上は問題ないのかもしれないが、ほめられた行為ではなかろう。
社会民主党のグロシュ首相が辞任したのも、今回のバビシュ氏と同じように、出所の怪しいお金で購入したマンションを所有していることが明らかになり、その出所を説明しきれなくなったのが原因だった。あれも無責任なやめ方だったけれども、今回のバビシュ氏の問題と比べると微々たる額だった。そうか、社会民主党にとっては、グロシュ氏の辞任の記憶も、バビシュ氏を必至になって追い詰めようとする理由の一つになっているのかもしれない。
ソボトカ首相は、脱税の容疑で調査されているバビシュ氏が、調査の主体である財務省の大臣であるというのは許しがたいと、バビシュ氏に辞任を求めたが、拒否されたために内閣総辞職を選んだと言う。総理大臣権限で財務大臣を解任してしまうと、バビシュ氏に有権者の同情が集まってしまう可能性がある。それを避けるためには、解任はできないと言うのである。
結局、この騒動は、すでに秋の総選挙後の主導権をめぐる争いが始まっていることを示しているのである。バビシュ氏を巡ってさまざまな金銭的なスキャンダルもどきが発覚しながらも、世論調査によるとANOへの支持率が圧倒的に高く、社会民主党は大差の二位に甘んじ続けている。このまま行けばANOが第一党になり党首のバビシュ氏が総理大臣になる可能性が高い。そんな状況を変えるために、選挙まで半年を切って、社会民主党が、いや誰にも相談せずに決めたと言っていたから、ソボトカ首相が、大きなかけに打って出たということかもしれない。
ただ、以前も書いたが、この手のバビシュ氏を狙い撃ちにしたような法律の制定や、法律の適用は、ソボトカ氏自身が言うように、バビシュ氏への同情を集めてしまって、逆効果に終わっているように見受けられる。既成政党が既得権益を守ろうとして新参者のバビシュ氏を排斥しようとしているように見えるのだ。
ソボトカ氏がやるべきは、バビシュ氏と同じように会社を経営していて自社の社債を購入するなんてことをした社会民主党の議員を見つけて(いなければ同じ穴の狢の市民民主党の議員でもいい)、その人物を脱税の調査の対象にして、議員辞職を迫ることである。議員が辞職すれば、バビシュ氏の往生際の悪さが浮き彫りになるし、その上でバビシュ氏に対峙すればバビシュいじめの印象を消すこともできる。
いや、どうせ次々にぼろを出すのだから放置でもいい。そしてバビシュ氏が出したぼろに対して、同じようなことをしている身内を処罰することで、多少はバビシュ氏を追い詰めて、有権者の支持を取り戻せるのではないかと思う。実際にやったら、身内から裏切り者扱いされて、党内クーデターが起こるだろうけれども、それぐらいのことをしないと、バビシュANOの優位をひっくり返すのは難しそうだ。
今回の決断は、ソボトカ政権の最大の長所だった安定性(閣内の対立はままあったものの、三年半近く政権を維持してきたという事実は評価されていい)が失われたということを考えると、最悪の決断だった。これで、秋の総選挙でANOが圧倒的に勝利し、単独与党で政権を獲得しバビシュ首相が誕生する可能性が高まった。そして来年は大統領選挙でANOの支持も得たミロシュ・ゼマン大統領が当選するというシナリオが現実味を帯びてきた。
誰か、ゼマン大統領に勝てそうな候補者はいないのか。知名度が高いほうがいいから、スポーツ選手なんかどうだろうか。誰か立候補してくれないかな。
5月3日23時。
2017年05月04日
プラハ駅観光2(五月一日)
プラハ中央駅の一番ホームの片隅に、右手で男の子を抱え、左手を脇に立つ女の子の肩に置いた眼鏡をかけた男性の像が置かれているのに気づいた人もいるかもしれない。右側には、大きなトランクのようなものが置かれているから、プラハ駅から鉄道で出発しようとしている姿をかたどったものであろうことは、推測できるだろう。この男性こそ、本日のテーマであるニコラス・ウィントン氏である。
ウィントン氏は、第二次世界大戦前夜、ボヘミア・モラビア保護領成立直後のプラハから、ユダヤ人の子供たちをイギリスに送り出したことで知られている。3月から8月にかけて合わせて669人のユダヤ人の子供たちが、ウィントン氏の準備した列車に乗ってイギリスに出発することで命を救われたのである。ただ、9月1日に出発が予定されていた子供たち250人を乗せた列車は、この日に第二次世界大戦が勃発したことによってロンドンに向けて出発することはなかったという。プラハ駅の像は、ウィントン氏がちょうど100歳を迎えた2009年のこの日、9月1日に除幕されている。
もちろん、ただ単に、ユダヤ人の子供たちをイギリスに連れ出すといっても、当時の保護領の役所、ひいてはナチスの許可が下りるはずがないので、ウィントン氏はイギリスで、子供たちを養子として受け入れてくれる家庭を探し、ナチス側からクレームが付けられないように書類をしっかりと整えプラハに送っていたようである。列車の運行に必要なお金を集めるために、あちこちで寄付をつのる活動もしていたらしい。
このウィントン氏の業績は、昔からよく知られていたというわけではないようだ。ニュースなどにしばしば登場するようになったのは、ここ10年ぐらいだろうか。すでに1998年にハベル大統領が、T.G.マサリク勲章を授与したらしいが、当時はまだチェコにいなかったので詳しいことは知らない。ウィントン氏が105歳を迎えた2014年には、ゼマン大統領がチェコでは最上位の勲章、白獅子勲章を授与した。この授賞式はテレビで見た覚えがあるのだけど、わざわざプラハ城まで来てくれて車椅子に乗って出席して勲章を受け取っていた。同時に同じ勲章を受章したのは、死後の受賞ではあるけれども、第二次世界大戦当時のイギリスのチャーチル首相で、こちらは本人に代わって孫が出席して受け取っていたのかな。
一時は、チェコの大学生たちが中心になって、ウィントン氏にノーベル平和賞をという署名活動が行われ、ノミネートされたこともあるようであるが、残念ながら受賞を待つことなく、2015年に亡くなった。享年106歳。本人はものすごく控えめな人で、プラハからユダヤ人の子供たちを救い出したことを、自ら語ることもなかったようだし、ノーベル賞なんぞもらわなくとも、チェコの人々、ユダヤの人々に知られていればそれでいいような気もする。特に最近のノーベル平和賞は、政治的になりすぎて、ウィントンのような人にはそぐわない。
ナチスの行なったユダヤ人虐殺、いわゆるホロコーストに対して、ユダヤ人を救うために活動した人物として、日本でもよく知られているのはアメリカ映画にもなったオスカー・シンドラーと、リトアニアの日本領事館で多くのユダヤ人を含む戦災難民にビザを発給したという日本の外交官杉原千畝の二人だろうか。
この二人、実はチェコに縁があって、シンドラーは現在のチェコのスビタビの出身だし、杉原千畝はドイツの保護領時代のプラハの日本大使館に勤務したことがあると聞いている。ただ、この二人が救ったのはチェコのユダヤ人ではなかったからか、チェコでの知名度はそれほど高くない。
ちなみに、ウィントン像の近くにある駅舎の入り口の両脇に掲げられている記念碑は、1939年から1945年にかけてのナチス占領時代における犠牲者に捧げられたものである。
5月2日23時。
2017年05月03日
メンチンスキ神父の謎(四月卅日)
ちょっと気になったのでメンチンスキ神父について調べてみることにした。最初は日本二十六聖人の絵葉書と一緒に持って帰ってきたから、その二十六人の中に入っているのだろうと考えて、日本二十六聖人の記念館のホームページを覗いてみた。しかし、二十六人の聖人の中にメンチンスキの名前は見当たらない。二十六聖人が長崎の西坂で死んだのは、江戸時代が始まる前、豊臣秀吉が政権を握っていた時代の1597年のことのようだから、メンチンスキ神父の生まれる前の出来事だということになる。
それで、あれこれ探したら、「西坂で殉教したキリシタン一覧」という名簿が出てきて、その一番末尾に、他の四人の神父とともに「アルベルト・メチンスキ」という名前が出てきた。ポーランド語で、Mの後ろに来ている文字は、eの下に毛が生えているような文字で、「エン」に近い発音をするようだが、英語表記ではただのeになってしまうので、メチンスキとカタカナで表記されたのだと推測できる。
この名簿は次代順に並んでおり、メンチンスキ神父らの死が末尾にあるということは、西坂における最後のキリシタンの死であったということなのだろう。イエズス会の所属であったことは記されるが、出身国は書かれていないため、このページからはポーランド人であることはわからない。特に注記がないので、福者にも聖人にも列されてはいないようである。
考えてみれば、メンチンスキ神父が日本に不法に潜入した1642年というのは、キリスト教への信仰をよりどころにして1637年末から翌年にかけて起こった島原の乱の余韻も冷めないころである。乱の後にはポルトガル人の追放、来航禁止も行われており、日本に行けばこういう結末を迎えることは明白だったろうに……。幕府としても、この時代、他にやりようはなかったのだろうし。
とまれ、このメチンスキ/メンチンスキ神父がどのぐらい日本で知られているのだろうかと調べてみることにした。
まず、長崎の日本二十六聖人記念館の表記である「メチンスキ」で検索をかけてみると、記念館以外には、カトリック関係、イエズス会関係のページで使われているが、数が非常に少なかった。姓がメチンスキとなっている場合には、名前はアルベルトが使われていた。
特に記事の本文は読めなかったが、見出し項目だけ見ることができた研究社の『新カトリック大辞典』で「メチンスキ」で立項され、「Meczinski, Albert」と名前まで記されていたのは注目に値する。
また、日本のイエズス会が作成したと思しき「西坂で殉教したイエズス会員」の名簿にも、「アルベルト・メチンスキ神父」と表記されている。
一方、「メンチンスキ」で検索をしてみたら、『世界大百科事典』第二版に項目が立てられていた。百科事典に載るぐらいだから日本でもある程度は一般の人の中にも知られているのだろうと思いながら記事を読みはじめたら、まず、名前が違った。「Albert」ではなく、「Wojciech」になっている。生没年も、没年は1643年で同じだが、生年が1598年になっている。
名字の同じ別人のことかと読み進めると、「ポーランドのイエズス会神父。長崎で殉教した」と始まる。同じ名字のポーランド人が、同じ長崎で同じ年に殉教したなどという偶然が起こっていれば、もっと話題になってよさそうである。
末尾には、「7ヵ月の拷問ののち、43年3月25日絶命」とあり、どう読んでもうちのがクラクフで手に入れてきたパンフレットに登場する「アルベルト・メチンスキ」と同じ人物の業績が書かれているとしか思えない。
他にもポーランド大使館や、ポーランドの歴史を紹介するページなどで、日本との関係を示す際に必ずのように、最初に日本にやってきたポーランド人として、「ヴォイチェフ(ボイチェフ)・メンチンスキ」の名前が挙がっている。
どちらも貴族出身とされているし、貴族の場合には、名前が三つも四つも付けられている人がいるから、カトリックの世界で使用される名前と、歴史学で使用される名前が違うということも考えられる。いやボイチェフが世俗の貴族としての名前で、アルベルトというのは、イエズス会士としての洗礼名だという可能性もあるのか。
名前の問題はそれで解決できるにしても、生年に三年のずれがあるのが解決できない。あれこれ調べたら、「西坂で殉教したポーランド人/メンチンスキ神父」と題されたパンフレットは、日本二十六聖人記念館が、1981年にポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ二世が来日した際に、作成したものだという情報が出てきた。それを「34年ぶりにリプリントした」というから、2015年のことか。1601年が生年だという記念館の記述が間違いである可能性もなくはないのか。
いずれにしても、おそらく同じ人物なのだから、百科事典や歴史関係のページのほうに、アルベルトの名でも知られるという注記を付けておいてほしかった。そうすれば、こんなことで頭を悩ませる必要もなかったのに。ポーランドとの国境近く出身の知り合いならポーランド語ができるはずだから、ちょっと調べてみてもらおうかな。
5月1日14時。
2017年05月02日
初めて日本にやって来たポーランド人(四月廿九日)
二泊三日でポーランドのクラクフに出かけていたうちのが、お土産に日本語の書かれたものを持って帰ってきた。
一つは、日本の絵葉書で、長崎の日本二十六聖人記念碑の写真が使われていた。九州の人間なので、小中学校の修学旅行で長崎には行ったのだが、この記念碑にまで足を伸ばしたかどうかは覚えていない。
もう一つは、英語とポーランド語の記述もある一枚の紙を三つ折にしたパンフレットみたいなもので、「西坂で殉教したポーランド人/メンチンスキ神父」と題されていた。裏面に「クラクフから西坂へ/日本に初めてやってきたポーランド人」というメンチンスキ神父の簡単な伝記が載せられている。
それによれば、アルベルト・メンチンスキ神父は、江戸時代に入ってキリスト教が禁止されてから、日本に潜入して捕らえられ、長崎の西坂で刑死した人物のようである。
生まれたのは1601年で、貴族階級の出身だった。ルブリンのイエズス会の学校で日本に関する報告書と出会い日本行きを夢見るようになったという。クラクフの大学で学んだ後、1621年にローマでイエズス会に入会し、貴族家の後継者として引き継いだ膨大な資産はクラクフにイエズス会の学校を設立するために提供したらしい。
その後、メンチンスキ神父は、紆余曲折を経て1642年にマニラから日本に赴いた。上陸地は九州南端の薩摩国の甑島だったが、すぐに捕らえられて長崎に送られた。7ヶ月にわたる牢獄生活の果てに、1643年3月25日に長崎の西坂の地で、42年の生涯を終えたという。パンフレットの表紙の上部には、「昔から望んでいた殉教が叶えられそうです」という本人の言葉が印刷されているので、この人物が日本に渡ったのは、ある意味死ぬためだったのである。
日本人でもキリスト教徒なら、この人の物語に感動するのかもしれないが、当時の江戸幕府側からしてみれば、薩摩の島津氏にしてみても、いい迷惑だとしか思えなかったに違いない。キリスト教徒だって、イスラム教徒に負けず劣らず狂信的だったのだ。この手の話を美談にしてしまったのでは、宗教というもの持つ狂気まで肯定することになり、それはイスラム国の肯定につながってしまう。
どこで読んだ話だったか忘れてしまったが、キリスト教の禁令が出た後で日本にやってきた宣教師の中には、幕府が穏健な対応で国外追放で済ませようとしたら、拷問されることを求め、ほとんど自ら強制するように拷問死を遂げた人物もいるという。殉教者を列聖することが好きなバチカンも、さすがにこの人物に関しては列聖しなかったらしいが、頼まれもしないのによその国に押しかけて、その国の文化にそぐわない宗教を押し付けた挙句に、獲得した信者を道連れに死んだはた迷惑な人間を安易に列聖するから、死ぬために日本へなんて狂信者を生んでしまうのである。キリスト教に改宗して、それを理由に投獄され獄死した日本人信者にはあわれみを感じるけれども。
それで、どうしてクラクフでこんなものが手に入ったのかというと、イエズス会の大学が存在しているのだと言う。ポーランドはクラクフのイエズス会が、イエズス会士として日本で死んだポーランド人のアルベルト・メンチンスキ神父の業績を顕彰しようとするのは当然なのかもしれない。それに伝記にあるメンチンスキ神父が設立のために資産を提供したという学校の後身がその大学なのかもしれない。
コメンスキーがモラビアを離れることを余儀なくされたとき、ポーランドのレシュノに滞在できたことが示すように、ポーランドも一時は宗教改革の影響でプロテスタントが優勢になっていたはずである。それが、現在の強固なカトリックの国になったのは、イエズス会の活動によって再カトリック化が進んだからに他ならない。そう考えると、イエズス会の持った影響力は、モラビアの比ではなかったのだろう。
オロモウツも、かつてはモラビアのイエズス会の活動の中心地で、オロモウツにあるパラツキー大学ももともとはイエズス会の学寮から発展したものだと言われている。しかし、現在でもイエズス会が大々的に活動しているという話は聞いたことがない。パラツキー大学の神学部も、イエズス会との関係を感じさせない、スラブ人にキリスト教をもたらしたツィリルとメトデイの兄弟の名前を冠しているし。それとも、名前だけでイエズス会と関係があるのだろうか。
余計なことを書いていたら、本題にまでたどり着けなかった。今日の分で、強調しておきたいのは、パンフレットによればメンチンスキ神父の名前がアルベルトであることと、生年が1601年であることである。没したのが1643年3月25日だというのも重要になるかもしれない。
4月30日23時。