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2020年08月11日

チェコの君主たち9(八月八日)



 一月ぶりにチェコの王様の話。今回はバーツラフ1世の次に王位についた息子のプシェミスル・オタカル2世である。偉大なる祖父と同じで、もともとの名前はプシェミスルで、後にオタカルという名乗りを追加したようだ。祖父のプシェミスルは神聖ローマ帝国皇帝のオットー4世からオタカルという名前を与えられたという伝説があるが、プシェミスル2世の場合には、どういう事情でオタカルを名乗るようになったのかは判然としない。祖父の偉業の後を継ぎたいという思いから同じ名乗りを選んだのかもしれない。そしてその願いは、ハプスブルク家のルドルフ1世によって阻まれるまでは、実現に向かっていた。

 とまれ、父バーツラフ1世によってモラビアの支配を任されていたプシェミスルは、諸侯の一部にとって「mladší král」という皇太子のような地位に選ばれ、父に対して反乱を起こして鎮圧されている。恩赦を受けてモラビア辺境伯の地位にもどるが、バーベンベルク家のオーストリア公フリードリヒ1世の死後、オーストリアの貴族によって公爵の地位に据えられ、フリードリヒ1世娘のマルガレーテ(チェコ語ではマルケータ)と結婚した。婚姻によって継承権をえたわけである。これが、父バーツラフの生前、チェコの君主の地位につく前の1251年のことである。一説によると、このときからオタカルという名前を試用するようになったのだともいう。
 ただ、この結婚は、政治的には大きなものをもたらしたが、二人の関係は理想的な夫婦からは程遠く、さまざまなスキャンダルの果てに、1260年には離婚することになる。その一方で、愛人との間に私生児を三人設けており、そのうちの一人のミクラーシュにシレジアのオパバにおかれた公爵領を与えている。実はこのオパバのプシェミスル家は。本家がバーツラフ3世の暗殺で断絶した後も、存続していたらしい。

 父の死後、チェコの君主の地位についたのは1253年のことで、1260年にはハンガリーとの戦争を起している。これはシュタイアーマルク領をめぐるもので、ハンガリー王のベーラ4世の軍勢をクレッセンブルンの戦いで破り、プシェミスルはシュタイアーマルクだけではなく、ハンガリー王の孫娘クンフタをも妻として獲得した。子供向けの本には、最初の妻のマルガレーテについては、年上であまり魅力的ではないと書かれているのに、このクンフタについては美しいという形容詞がつけられている。

 プシェミスル・オタカル2世の全盛期には、ボヘミア、モラビアを中心とするチェコ領に、オーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン、カルニオラなどを合わせ、アドリア海に面した地域まで領有していた。北方でもプロシアに対する十字軍を支援し、バルト海沿岸にまで影響力を行使していた。そんなプシェミスルは神聖ローマ帝国内での権威を高め、ボヘミア王を選帝侯の一つにすることに成功すると共に、皇帝の地位を狙っていたとも言われる。
 しかし、軍事だけでなく政治的にも有能で、野心を隠さないプシェミスルを警戒したドイツの貴族たちが対抗馬に担ぎ上げたのが、ハプスブルク家のルドルフ1世だった。選帝侯の一人だったはずのプシェミスルを除外した形で皇帝に選ばれたルドルフ1世との権力争いは、プシェミスルに不利に展開し、オーストリアとヘプ地方の領地の召し上げと、臣従してボヘミアとモラビアに封じられるという形式を取ることを認めさせられる。

 その一方で、ルドルフと対立してプシェミスル側につく諸侯もおり、結局、両勢力の間で最終決戦が行われた。それがチェコ語ではモラビアにはないのに、もラフスケー・ポレ(モラビアの畑)と呼ばれる場所での戦いである(日本でなんと呼ばれているかは知らん)。王権が強化されることを嫌ったチェコ貴族の多くがが参戦しなかったこともあって、プシェミスルは戦いに負けただけでなく、命まで落としてしまった。時に1278年8月、四十台半ばでの死であった。残されたクンフタとの間に生まれた息子のバーツラフはまだ7歳でしかなかった。

 プシェミスル家の君主H
  28代 プシェミスル・オタカル(Přemysl Otakar)2世 1253〜1278年。

 プシェミスル・オタカル1世以来三代続けて有能な君主が登場して、プシェミスル王朝のチェコは全盛期を迎えたと言ってもいい。それがプシェミスル・オタカル2世がハプスブルク家のルドルフ1世との権力争いに負けて亡くなったことで、衰退へと向かうことになる。後にチェコの領域がハプスブルク家の支配下に組み込まれてしまったことを考えると、プシェミスル・オタカル2世が負けた相手がハプスブルク家のルドルフ1世であったのは、なかなか象徴的である。
2020年8月9日22時。









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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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