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2016年08月31日

天皇譲位問題(八月廿八日)



 今上陛下が、退位の希望をにおわせる発言をしたというニュースは、チェコでもかなり大々的に取り上げられていて、チェコテレビの、取り上げるニュースの数は少ない代わりに、専門家を呼んで深く掘り下げるタイプのニュース番組にも、自称専門家が出てきてあれこれ解説していたけれども、質問役のチェコテレビのアナウンサーの頓珍漢な質問とあいまって、おいおいおいといいたくなるような説明連発で正直聞いていられなかった。まあ、日本でも結構いい加減な言説が見られることを考えると、外国でここまでやれたというのはすごいことなのかもしれないけど。チェコの大統領選挙なんかを正確に伝えられる日本人はほとんどいないだろうし。

 それはともかく、今年の夏ひたすら『小右記』の訓読の見直しをしていて頭の中が部分的に平安時代になりかけていると、当時は上皇が存在するのは普通のことなので、状況が許せば譲位して上皇になるのもかまわないと思ってしまう。法律については特に詳しいわけでもないけれども、明治以後も大正天皇の摂政を皇太子だった昭和天皇が務めるなど、江戸時代以前の制度が復活した事例はあるわけだし、上皇、天皇、皇太子(皇太弟になるのかな)と三つの役職に人がいたほうが、個々の負担も減るだろう。
 現在復習中の永観二年には、円融天皇が退位して花山天皇が即位するわけだけれども、残念ながら『小右記』はこの年の前半の部分が欠けているため、円融天皇の退位の事情などはよくわからない。しかし、天元五年あたりから、御願寺として円融寺を創建したり、退位後のことを考えてなのか、後院の別当を定めたりはしている。そのようにして、朝廷内の代替わりへの意識を醸成していたと言ってもいいのかもしれない。

 永観二年に即位した花山天皇は、その二年後に藤原兼家の陰謀で退位させられたという話で有名である。ただ、いくら寵愛していた女御が亡くなったからと言って、在位中に後先考えずに出家の希望を漏らしてしまうあたり軽率さは否定できない。天元五年の『小右記』には、宮中での儀式の様子を、皇太子時代の花山天皇が隠れてのぞき見していたという記事が出てくるが、そんな奇矯な振る舞いをする人物として見られていたのだろう。後に実資の正妻となる婉子女王は、女御にはなったけれども入内しなかったという話もあり、貴族社会で忌避されていた面もあったのかもしれない。もちろんそこには有力な外戚がいなかったという事情もあるのだろうけど。
 かわいそうなのは、花山天皇に引き上げられて、地位はそれほど高くないながら当時の政局を主導していた藤原義懐と藤原惟成で、結局天皇の出家に合わせて出家してしまう。しかも出家による退位のせいで混乱を巻き起こしたというのに、仏道に専心するわけではなく、退位の十年後には、通っていた女性を巡って、時の内大臣藤原伊周と争いになり、伊周、道隆が流罪になり中関白家が没落する一因を引き起こしている。出家したんだから寺で念仏唱えていろよぐらいのことは考えても罰は当たらないだろう。

 もう一人、勝手に退位してしまった天皇としては江戸時代初期の後水尾天皇がいる。鎌倉時代以降天皇の退位、即位に関しては武家政権の意向が決定的だった時代に、江戸幕府による制約の強さに嫌気がさしたのか、抗議の意味を込めたのか、内密に譲位の儀式を行なってしまったらしい。その結果公家側も幕府側も大きな混乱に巻き込まれたらしい。いろいろ事情はあったのだろうけれども、周囲の人々にとっていい迷惑であったという点では花山天皇の例と大差ない。
 結局、譲位した相手が徳川家の血を引く明正天皇だったおかげか、長い交渉の末、幕府が譲位を無効にするという事態にはならなかったのだけど、奈良時代以来の女性天皇という前例を残すことになった。明正天皇が、確か、まだ十歳にもなっていなかったのに、突然、内親王の地位を与えてそのまま皇位に就かせたので、「俄の譲位」とか言われているのではなかったか。

 このときに比べれば、今は皇太子も存在するし、政府の側からの強要でもなければ、天皇の恣意での譲位でもないのだから、生前の退位があっても大きな混乱は起こらないだろう。大正時代のように皇太子を摂政にしたとしても、摂政として天皇の義務をこなす傍らで、皇太子としての義務もこなさなければならず、負担は大きくなる。その場合に皇太子の義務を弟宮に肩代わりさせるのであれば、最初から譲位を行なったほうがましであろう。

 法律関係がどうなるのかは、政府に任せて、今上陛下が上皇になられた場合には、ぜひ現在の京都御所を後院として滞在していただきたいと思う。そして、京都御所で、百官は無理にしても、律令時代の官職をある程度任命して、平安時代の儀式を再現するというプロジェクトは実施できないものだろうか。上皇に天皇の役で出御してもらってもいいし、出御のない略儀で儀式を行なってもいいのだから、平安時代の儀式書や、歴史学者の研究成果をもとに、年にいくつかずつ儀式を、実際に摂政、左大臣などを任命して再現(再演のほうがいいかな)していくというのは無理だろうか。
 実現したら、蔵人役はちょっと地位が高すぎるので、史なんかの四等官の下の下級官人の役に立候補しようかななどとしょうもないことを考えてしまう。実現はしないだろうけれども、自称平安至上主義者としてはそんな夢を見たくなるのである。
8月30日21時。


posted by olomoučan at 06:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 戯言
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