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2016年08月19日
天元五年三月三月の実資〈上〉(八月十六日)
一日には日食が起こっている。旧暦であることを考えると日食が新月の一日に起こるのは暦どおりなのだろう。遵子立后の準備は順調に進んでいるようである。「室町」というのは、室町通に面していたらしい小野宮のことかと思っていたのだが、史料編纂所の小記録データベースで検索をかけると、小野宮と書かれている部分が頻出するので、室町とは別物のようである。「室町」に注として「実資姉」との記述がある部分があったことを考えると、実資の姉に当たる人が、実の姉なのか、養父実頼の娘なのかはわからないが、住んでいたようである。
二日は頼忠の邸宅で新造された寝殿で仏事が行なわれている。ただ、この邸宅がどこなのかが問題である。事典などに頼忠の邸宅として上げられることの多い三条第だが、実は五月一日の記事に、「三条家」を「御領」とするという記述があるので、それ以前は、頼忠のものではなかったようだ。どこに住んでいたのだろう。遵子の里邸となっている四条の邸宅とは別に、天元四年に内裏が火災にあった後に天皇の滞在した頼忠の邸宅が四条第と呼ばれているようだが、これだろうか。
遵子立后の件では良峰美子を通じて人に知られないようにひそかに準備しろというような天皇の意向が漏らされる。大ぴっらでにできないのは頼忠もやりにくかっただろうとは思う。ただ九条流の右大臣兼家との争いもあって、慎重な対応が必要だったということか。この時期、左大臣は頻出するけど、右大臣はほとんど出てこない。
三月三日は本来ならば御灯とよばれる北斗七星に灯火を捧げる儀式が行われるのだが、世間に穢れが満ち溢れているので中止。その代りに禊が行われている。立后の件について天皇と直接話しているが、内容は良峰美子から伝えられたことと大差はない。
また御願寺である円融寺への行幸について、天皇が積極的に決めさせようとしているのが注目に値する。円融天皇は天元五年の翌々年、永観二年に譲位して花山天皇に位を譲っているが、このころから準備に入っていると考えてもいいのかもしれない。
季の御読経や仁王会など仏事や、祭りなどの神事の計画を進めているのは、世間に平穏を取り戻すためのようだ。もちろん天皇は発案をするだけで、実務は関白太政大臣の頼忠に任せてしまうのだけど。
四日にちらっと話の出た直物は五日に左大臣の主導で行われている。ここに上げられている任官のうちどこまでが直物で、どこからがついでの任官なのかはっきりしないが、さまざまな人たちが任官している。国司として遠国に赴く人たちが、京官で兼任してもいいものと、してはいけないものがあったり、前例があるから認めようなんて判断があったりして、こういうのを集めて分析したら面白い結果が出るかもしれない。自分ではやりたくないけど。天皇からお前が決めろと言われた頼忠が、判断が難しいものに関しては、「勅定有るべし」と天皇の決定に従う様子を見せているのも、天皇と関白の関係を考える上では興味深い。よくわからないところも多いのだけど。
五日から三日間の予定で始まった仁王経を読む儀式は、三日に出てきた仁王会のことだろうか。五月に臨時の仁王会が行われているので、この三月五日の儀式は、定例の仁王会で、三日に出てきたのは五月の臨時の仁王会のことかもしれない。
この日は、頼忠の邸宅での御読経が終わっている。そして、ついに遵子の立后に関して、日時を決めようという話になり、実資が行ったり来たりして、感謝の言葉を頼忠が漏らすなどした挙句に、今月十一日行われることが決まる。日時を天皇と頼忠たちの都合で決めるのではなく、陰陽師の加茂光栄に勘申させるのが平安時代である。
六日から十日までは、立后の準備である。これまでも準備してきたのだろうが、ひそかにやっていたのでそれほど進まなかったのだろう。この期間、記事が短いのも、忙しくて日記を書いている暇がなかったのか。それとも決定した細かいことを日記に書き写す気になれなかったのか。
また、中宮遵子の里邸となるのが、頼忠の所有する四条殿で、その掃除なんかも事前準備として行われている。頼忠が時々物忌なんかで出かけていたけれども、あまり使われていなかったのかもしれない。十一日に内裏で立后の儀式があるというのに、前日十日の夜中に遵子が内裏を退出して四条殿に向かうのも儀式の意味を考えると面白い。立后の後、遵子が再び内裏に戻ってくるのは、ほぼ二か月後の五月七日のことである。
十一日の立后の儀式の内容は、細かに書いても仕方がないのだけど、注目は儀式の合間に行われた中宮職の官人の決め方である。いわゆる四等官のうち、下の二つ大進、少進、大属、少属は頼忠が独断で決めて、実資が書類に書き込んでいるが、上の二つ大夫と亮に関しては、決定はせず、大夫は天皇に決めてくれるよう奏上し、亮は実資を任じることを推薦している。天皇からは大夫もお前が決めろという返事があって、頼忠はそれに対して、藤原済時と源保光の二人を推薦して、天皇に決めてくれるよう再度奏上する。もう一度、お前が決めろ、陛下が決めてくださいのやり取りがあって、天皇が藤原済時を大夫に任じることを最終的に決定する。このお互いに相手に決めさせようとする決定の進めかたが、この時期の頼忠と天皇の間では普通であるようだ。
宮中での儀式が終わった後、実資をはじめとする官人は、中宮のもとに向かう。中宮に使える女官が決定されるが、遵子の姉つまり頼忠の娘や、頼忠の甥の藤原佐理の妻という小野宮関係の二人が並んでいる。
立后の当日十一日も、官人たちがお祝いを言うために中宮遵子のもとに集まっていたが、翌十二日は勧学院の学生が来ている。お祝いに訪れた官人や女官、学生達にまで褒美としての禄を与えなければならないし、十三日にもいろいろな下級の官人たちに禄を与えているし、なまなかな家では娘を立后させるなんてことはできなかったのだなあ。小野宮流というとそんなに金持ちのイメージがわかないのだが、資産家ではあるのだ。
8月17日17時。
最近サボっているので、前田家本の影印版。こんなものが出版されるなんていい時代になったものである。8月18日追記。