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2016年08月20日

天元五年三月三月の実資〈下〉(八月十七日)



承前
 十四日は立后から少し離れて、石清水神社の毎年行われる臨時祭。祭使発遣の儀式の際に、天皇の御座を最初に掃部寮が準備した南の第三間から第五間に移しているのは、誤りだったのだろうか。割注に冬の祭は第三間を用いると書いてあるから、実資あたりの指摘で改めたということか。この年は天候も不順なのか、雨が降り始めて酒宴が途中で終わっている。そのせいかどうか大納言藤原為光が祭使に宣命を渡すのを忘れるという失態を犯している。この人、いろいろやらかしてくれる楽しい人だったはずなので、頻繁に登場してくれることを願おう。
 東宮、皇太子がこの儀式をひそかに見物していたというのが末尾にあるのだけど、非難なのだろうか。よくわかららん。
 十五日はまた中宮関係のあれこれの決定をするのだが、よくわからない官名のようなものが出て来て、「屎遠侍者」とか読めんし。藤原氏の氏寺である奈良の興福寺からお祝いの僧たちが、褒美の禄をもらいにやってきている。

 十六日は東宮に管弦の遊びに招待されたみたいだけど、調子が悪いと言って断っている。夜になって参内しするときにも「相扶」なんて言葉を使っているから、体調が悪いのは仮病ではなかったようだ。
 十七日は特記することはなく、十八日には今年初めて、清水寺への参拝が実現している。灯明を来られなかった月の分も奉っていて、割注に「五个月」とあるのは、今月分を入れて五か月分なのか、今月分を入れずに五か月分なのか気になる。天元四年の冬の『小右記』が現存しないのが困りものである。未の時に沐浴をしているのは、参拝前の禊ということだろうか。

 十九日には、延引していた春の季の御読経の日時や参加する僧について左大臣が奏上している。そのついでなのか、天皇の口から、近年、賀茂祭使の供奉の者たちが、禁制を破って豪奢な衣装を身にまとうことがままあるのは検非違使が怠慢だからだ。怠慢な検非違使はやめさせろと、左大臣に指示が出ている。殿上人でも禁制を破るものがいたら出仕させないなんてことも言っているので、よほど目に余る状況だったのか、四月に行われる賀茂の祭を前に、釘を刺しておく必要があったものと見える。
 廿日から廿二日は、記事が短く、廿一日に仁寿殿での不動明王を本尊とした修法が始まる以外は、特別なことはない。廿二日なんて、天皇に呼ばれたのに「病を称して参らず」って、仮病だったのだろうか。

 廿三日には、中宮職の仕事が始まっている。最初は印鑑の話。この頃から役所は判子がないと始まらなかったということか。いつものように行われた酒宴に中宮大夫の藤原済時は出てこず、「便所において」実資と相談していろいろ細かなことを決めたらしいのだが、この「便所」がどこだったのかが非常に気になる。廿四日にも中宮が内裏に戻ることに関して細かいことを決めている。

 廿五日に季の御読経が始まる。そのついでなのか内供奉の僧についてと、阿闍梨の任命についての話が出てくる。興味深いのは、かつて中国大陸から日本にやってきた人たち、時期から言うと宋の人たちが困窮して餓死したものもいるので、希望する者は本国に帰らせようという話にっていることである。金を与えたいけれども陸奥の国が献上してこないから与えられないというあたり、律令体制のゆるみとみていいのだろうか。この辺のことは天皇の命令で太政大臣の頼忠が決めることになる。

 翌廿六日には、頼忠のところに出かけて、内供奉の僧の件や、宋の人たちの帰国などについて頼忠が意見を出している。宋の人たちが日本に来て三年になると言っているので、天元二年に日本に来たということになるのか。確認できる資料を探してみよう。金を送ってこない陸奥国には督促の使を派遣することになるようだ。
 この日の夜は、「洞院西大道西辺」火事が起こって、実資は内裏の物忌にこもっていたのに、二三人連れ合って見物に出かけている。意外と物見高いというべきなのか、火事の被害を確認に出かけたのか。「密々」なんて書いているから、こっそり抜け出したのだろう。
 この日の冒頭には「室町に詣づ」とあるのだが、なぜ「参る」ではなく、「詣づ」が使われているのだろうか。

 廿七日は季の御読経の一環として論議が行われている。一番から五番目までの問う役と答える役が記録されているのだが、二番だけ欠けている。書き落としなのか、出仕しない僧がいて行われなかったのか。先日からの阿闍梨と内供奉の僧について決定が出ている。
 廿八日は実資個人の物忌である。自宅の門を閉じてどこにも行かなかったようだ。季の御読経の終わりについては伝聞の形で記している。この日の記事では、百足が耳に入ってしばらくして取り出したというのが、重要かもしれない。長さが一寸ほどってことは、三センチぐらい。「人多く奇と為す」というほど大きくはない。耳に入ったのが、「人多く奇と為す」なのかな。ちなみに『小右記』のどこかの記事で百足が耳に入るのは吉兆だから、無理に引っ張り出したりするもんじゃないとかいう記述があったような気がする。
 廿九日は大したことは起こっておらず、阿闍梨と内供奉の僧について天皇の命令が下されたことを頼忠に報告しているぐらいである。

8月17日23時。


 『御堂』は外つ国にいて、自力で復習しようとは思えないよなあ。『小右記』でよかった。8月19日追記。

御堂関白記全註釈(寛弘5年) [ 山中裕 ]


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