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2017年02月10日
光化学スモッグ(二月七日)
昨日の分では、本来、チェコのスモッグから、かつて日本で大問題になっていた光化学スモッグに話を移して、光瀬龍のSF小説に話をつなげる予定だったのだけど、話が全くつながらなかったので、分割することにした。チェコの現在のスモッグは、どうも光化学スモッグではなくて、ただのスモッグのようだし。その区別がどうたらこうたらということはよくわからないのだけどね。
80年代には、当時読んでいた科学雑誌のおかげでいっぱしの環境論者のつもりでいた人間にとって、スモッグといえば光化学スモッグで、太陽の光が当たることによって反応が起こり人間に有害な物質が生成されるというのは、ある意味常識だった。ただ、九州の田舎では、光化学スモッグがどんなものなのか実体験する機会はなかったし、東京に出てからも公害対策が進んでいたこともあって、光化学スモッグにさらされるということはなかったと思う。
東京の空気は汚いと思いはしても慣れてしまうものだし、せいぜい、東京湾や鎌倉の海辺に出かけたときに、東京出身の人たちが潮の香とか言っている悪臭に吐き気を押さえるのが大変だったぐらいである。九州の海で育った人間には、東京近辺の悪臭を放つ海に入るのは無理だった。あんな海で泳いだら病気になると思うんだけど、気にならないのかなあ。
大気汚染のせいかもしれないと思ったのは、毎年苦しめられていた花粉症の症状がひどくなったことである。東京に出るころには春の杉の花粉症が一番つらかったが、80年代の半ばに、最初に症状が出たときは、春ではなくて秋の花粉症だった。近くの河川敷などの生えていたブタクサの花粉が原因だったようで、それが外来植物であることを知ったあたりから、この手の環境問題に興味を持ちだしたはずである。
そして、ドイツなどのヨーロッパでは、酸性雨といういわば硫酸の雨が降ることで森林破壊が進み、河川や湖などの酸性化が進み、魚の住める環境ではなくなっているなんて話を読んだのだった。「NOX」とか、わけの分からないままに使っていたのもこの頃である。ただ、こんなことに興味を持っていながら、カーソンの画期的作品である『沈黙の春』の存在は知らなかったのだから、田舎で手に入る情報というのは、限定的で偏っているのである。それも大学は東京に行くぞと決意した理由の一つだった。
東京に出てよかったと思うことの一つに、本が探しやすくなったというのがある。新刊本屋でも、古書店でも品ぞろえが桁違いで、田舎に住んでいたら存在すら知らないままに、もしくは存在は知っていても入手するすべもないままに終わったであろう本を大量に手に入れることができた。東京に出ていなかったら、ここまで活字中毒者にはなっていなかっただろうと考えると、どっちがよかったのかねと思わなくもないのだが、自分にとって素晴らしい作品に出合えたときの感動は何事にも代えがたいものがある。
作品名は思い出せないのだが、光瀬龍のジュブナイルで学校全体で乾布摩擦をする場面が出てきて、主人公がこんなことをしても光化学スモッグに負けない体になれるとは思えないなんて述懐するシーンがあったのを思い出す。次々に同級生が光化学スモッグのせいで病気になって学校に出てこなくなる中で、肺を鍛えるためと称して学校で乾布摩擦をしているという文脈だっただろうか。
九州の田舎の学校でも乾布摩擦をさせられたことはある。あれは健康のためという話ではあったけれども、乾布摩擦が健康とどうつながるのかいまいちわからないままにやっていた。光化学スモッグ対策だったとは、光瀬龍の作品を読むまでは思いもしなかった。
他にも大気汚染で普通に呼吸することができなくなったために、酸素が配給制になっている社会というのも出てきた。ドーム都市なんてのも、ドームの内部だけは空気を清浄に維持するためだっただろうか。いやこの辺は宇宙に進出した人類の姿だったかもしれない。光瀬龍の小説は濃密なイメージが作品から切り離されて記憶に残っているため、どの作品のどの場面にどんな文脈で登場してきたのか思い出せないことがままある。
近年、中国で排出された有害物質が偏西風に乗って日本に到達し、光化学スモッグが発生することがあるらしい。迷惑この上ない国である。日本は東の果てにあるおかげで他国に迷惑をかけずに済んだだけと言えばその通りなのだけど。
さて、この話で光瀬龍に無理やりつなげてしまったのには理由がある。一昨日記念すべきコメント第一号を頂き、それが半年ほど前に光瀬龍について書いた記事へのコメントだったのだ。管理ページでコメントがあるという表示は、これまでもなくはなかったのだが、英語の意味不明のものだったり、宣伝のために自動で記入されるようなものだったりで、承認などせずに抹消してしまっていた。
初めてのちゃんとしたコメントは、当然承認して、返事をしようと思ったのだけど、管理ページからどうやってやればいいのか全くわからない。ブログの記事の下のコメント蘭から書くしかないのだろうか。よくわからないので、光瀬龍の記事にいただいたコメントへのお礼の意味もこめて、光瀬龍についても書いてみたけどちょっと強引過ぎたか。ま、何事も修行の一つということで。
2月8日13時。
2017年02月03日
雪の高尾山(正月卅一日)
九州の田舎を出てから、十年以上東京、及び東京近郊に住んでいたのだが、東京の名所めぐりをした記憶はあまりない。東京に出た当初は、せっかくだからとあちこち先輩の案内などで出かけ、新宿新都心のビルに登ったり、東京タワーの下まで行ったり、浅草の辺りをぶらついたりしたが、大学が始まると、いつでも行けるだろうというので、積極的に出歩かなくなり、行ってみたいと思いつつ行き残したところは非常に多い。
大藪春彦の小説で存在を知り、東京の世田谷なんてところにもそんなものがあるんだと感動した等々力渓谷には出かけた。これは、研究会の集まりで世田谷区の史跡めぐりをしたときに、ついでに地元の人に案内してもらったんだったか、近くの美術館に出かけたときに、ついでだからと足を伸ばしたんだったか、明確には覚えていないのだけど、これで渓谷と呼んでいいのかと微妙な気分になったのは覚えている。谷にはなっていたし、川も流れていたし、木も生えていたんだけど……、当時は川の水が臭ったような記憶がある。まあ、九州の山奥の渓谷と比べちゃいけないということなのだろう。とまれ、渓谷に階段で降りていくというのは、なかなかに衝撃的であった。
東京の自然の名所では、奥多摩の鍾乳洞に行こうという計画もあった。ただし、直前に、当日の朝だったかもしれないが、ディズニーランドに行き先を変更されて地団太踏んだのだけど。あのときも、雪で寒いからとか、帰ってこられるかどうかわからないからという理由だったかなあ。誰に連れられていったんだろう? ディズニーランドなんて自分から行きたがるはずはないから、誰か逆らえない人に連れられていったはずである。そして、こんなところ二度と来るまいと、既にして中に入る前に決意したのだった。
実際に出かけた、もう一つの自然名所は、高尾山である。ここに出かけたのは、大学時代にお世話になった先輩が、仕事を辞めて田舎に帰ることになったとき、まだ行ったことがないから行ってみたいと言い出したせいである。一人で行くのは嫌だと仰るので、お世話になったお礼もかねて、後輩三人でお供したのだった。
最悪だったのは、決行日前の天気で、二三日前に大雪が降った。当日には、平地では雪は完全に姿を消し、電車の運行もダイヤどおりだったのだが、高尾山に近づくにつれて、線路の周囲に残っている雪の量が増えていき、山登りなんて、ハイキングレベルでも何年もやっていなかったので、大丈夫かと不安になってしまった。
高尾山口の駅について、周りを見渡すと、本格的なトレッキングというか山登りというかの格好をしている人たちが多かったのも、不安を増幅した。いっそのこと、ケーブルカーで登ろうよと提案したのだけど、若さと健脚を誇りたがっていた先輩に却下され、自分の足で登ることになってしまった。同行した同輩と一緒にため息をつくしかなかった。
行きは、コンクリートで舗装された普通なら一番楽な道を登って行ったのだが、この日は普通ではなかったので、なかなか前に進めなかった。降り積もった雪が、昼間一度融け、夜間の気温の低下で凍結してコンクリートの路面を覆い隠していたのだ。履いていたのは冬用の滑りにくい靴でも、登山用の靴でもなく、足を滑らせながらゆっくりと時間をかけて、体力を消耗して、翌日の筋肉痛を確信しながら登って行くしかなかった。
帰りは、行きとは違う道がいいと言い出した先輩の鶴の一声で、西日の当たる尾根伝いの道を降りていくことになった。登りと同じ道で下るのはすべるのが怖いというのもあったから、悪い選択ではないと思ったのだけどね。今度は雪が融けてその下の地面がどろどろになっていて、ところどころ滑りやすくなっていた。行きがつるつるなら、帰りはずるずるで滑りやすさの質は違ったのだけど、危険であることには変わりなかった。
予想通りというか何というか、まず先輩が足を滑らせて尻餅をついて、滑り降りていった。崖から落ちるなんてことはなかったが、ズボンも靴も背中にしょっていたリュックも、上着の袖も、泥まみれになってしまった。これを皮ぎりに、みんなでこけたり、こけかけたりを繰り返し、ふもとに降り立ったときには、目も当てられないぐらい上から下まで汚れていた。
これで、バスに乗ったりお店に入ったりしたら、営業妨害だよなということで、見つけた水場で洗える限りの場所を洗って、できる限り泥を落としたのだった。水の冷たさに、冷たい水に濡れたズボンや上着の袖の不快さに、雪なんざいらねえと叫んでしまった。
八王子に向かうために乗り込んだバスの運転手さんにも、時間調整のために入った喫茶店の人にも、迷惑そうな顔をされてしまった。最後に入った飲み屋だけは、外がすでに暗くなっていたのと、地下で店自体が薄暗かったのとで、特にとがめるような視線で見られることはなかったが、ある程度酔っ払うまではお店の人に対して申し訳なく思う気持ちは消えなかったのだった。
件の先輩が帰郷するまでには、さらに二、三回会う機会はあったが、今生の別れと一番密接に結びついているのは、この日の雪に覆われた高尾山なのである。やはり、雪なんてものは、ろくでもないものなのだ。そんな雪嫌いが、チェコなんて国に来て、雪に降られて泣き言をこぼしているのは、どういういうことなのだろう。これもまた、わが人生を、道を踏み外し続けていると形容する所以である。
2月1日22時。
最近、スポーツネタと、回想ねたが多いのは、ネタ切れゆえである。2月2日追記。
2017年01月28日
雪といえば2(正月廿五日)
東京に出た高校時代の先輩が言っていた。東京に出て初めて雪が降るのに出会ったときには、歩道橋の上に立って、行き交う車のヘッドライトに照らされながら落ちていく雪が幻想的で、いつまでも見続けていたんだと。「雪国」の人にとっては、飽き飽きするような光景でも、南国育ちにとっては、未知のものに対する憧憬をかき立てるのだ。件の先輩は、夜中に雪を長時間見続けた結果、風邪を引いて寝込んだという落ちがつく。
雪がそんなにいいものではないという現実に気づいたのは、二回目の冬だっただろうか。朝起きたら雪がちらつき見たこともないほどの雪が積もっていた。とはいっても、せいぜい数センチだとは思うけど、寒さに震えながらも、その瞬間は喜んでしまったのだ。そして大学に行こうと外に出て現実を知った。
冬靴なんてものの存在も知らなかったし、足首まで覆うような靴も持っていなかったので、普通の靴を履いて出たら、雪が靴の中に入ってきて不快だった。雪の上を歩かなければいいのだろうと、雪の薄い部分を歩こうとすると滑りそうで歩きにくい。黒いアスファルトが見えているから雪がないだろうと、足を踏み入れたら、雪が融けてできた水溜りで、靴と靴下はもちろんズボンの裾まで冷たい水に濡れてしまうことになった。
一度戻って着替える余裕などなく、濡れた靴で大学に向かったのだが、雪のせいで鉄道のダイヤに大きな乱れが出ており、これなら一度帰っておけばよかったと後悔した。たしかこのときである。東北地方出身の同級生が、「へえ、この程度の雪で電車止まるんだ」とさもバカにしたような口調でもらしたのは。それを聞いて、むやみに腹が立って、夏の大雨で「へえこの程度の雨で洪水になるんだ」とか、いつか言ってやる馬鹿なことまで考えてしまった。
しかし、チェコに来て春の雪解けの水でも洪水が起こりうることを知って、東北で洪水が起こるような雨なら九州でも起こる程度には、洪水対策がされているはずだということにも気付いてしまった。余計なことを口にしなくてよかった。
翌日だったか、翌々日だったかには、一度融けた雪が朝の寒さで凍結して、つるつる滑ってまともに歩けなかった。いや、珍しく朝一の授業を入れていた日で、遅刻しそうになって駅まで走っていたら、ものの見事に転倒してしまった。幸い交通量の少ない細い道で、車に惹かれたりはしなかったのだけど、ちょうど幼稚園のまん前で、親に連れられて幼稚園に着いたところの子供たちに、指を指されて笑われてしまったのだった。
これで、雪というものの厄介さを十分以上に思い知らされ、雪は見るべきもので、触れるべきものではないと言うのが雪に対する態度となる。つまり、ただでさえ寒い冬に、さらにくそ寒いところに出かけて、雪の上を転がりまわるなんて正気の人間のすることではないということである。だから、チェコに来てからも、スキーなんてしたことないし、しようとも思わない。
それから数年後、九十年代の後半に入っていただろうか、東京が何十年ぶりかの大雪に襲われたときには、昼の仕事と夜の仕事を掛け持ちしていた。都心での昼の仕事を五時ごろに終らせて、郊外の夜の仕事に向かったときには、まだ雪は降っていなかったと記憶する。地下鉄を降りて郊外に向かう私鉄に乗り換えた頃に、雪がちらつき始め、さらにJRに乗り換えて降りた時には、雪が激しくなり積もり始めていた。
十時過ぎに仕事を終らせて帰ろうとしたときには、歩道は完全に雪に覆われ、車道も雪が残って車の進行を妨げていた。JRはすでに運行の復旧を諦め自宅に帰れなくなった人のために、駅に止めた電車の中で夜を過ごせるように、明かりと暖房を付けたままにしてあるという情報が入っていた。公営のバスは動いていたが、自宅の方に向かうものはなく、タクシーは呼んでも来てくれないというので、結局二駅分歩いてうちまで帰ったのだった。途中でタクシーを見かけて止めようとしても止まってくれなかったのは、タクシーの運転手も雪の中走りたくなかったということなのだろう。
傘をさしても意味のない大雪の中、足元に気をつけながら一時間以上の時間をかけて家までたどり着いたときには、疲れてへたり込みそうだった。何とか風呂を沸かして入り人心地つくと、近くの踏み切りの遮断機の音が止まらなくなっているのに気づいた。駅までたどり着けなかった電車を、踏み切りのところに停車させていたらしい。うるさくて眠れないかなと思ったのに、あっさりと眠ってしまったのは、疲れすぎていたからに違いない。
この日のことが印象に強すぎて、翌日以降のことが全く思い出せない。あれだけの大雪だったので、公共交通機関が翌日の朝から通常の運行に戻ったとも思えないのだが、ちゃんと朝から仕事に行けたのか、もしくは休日だったのか、そのあたりの記憶は完全に抜け落ちてしまっている。ただ、遅延は出したとはいえ、京王線だけが雪の中運行を続けていたという話は覚えている。山手線から西に出る私鉄の中で、東急、小田急に比べると、常に下に見られていた京王線だけが運行を続けていたというのは意外だったし、このことで京王の評価が高まったのではなかったか。
後日、冬場に高尾山に出かける機会があり、これが京王線が雪に強い理由だったのかと思ったのだが、このときの話はまた別稿で。いやここ二日、回想シリーズ、しかも説明不足ということで、読んで面白いのかねという疑念もないわけではないが、書いてしまったので載せてしまう。
1月27日14時。
2017年01月27日
雪といえば1(正月廿四日)
一応南国である九州の、海岸沿いの平野部の人間にとって、雪というものは理解できないものである。年に一回、二年に一回ぐらいは、白い冷たいものが空から舞い落ちてくることはあったけれども、積もることは滅多になく、雪というものは手のひらの上で融けてしまうはかないものであった。だから、「雪やこんこん、あられやこんこん」という子どものころに歌わされた歌は、何のことだか理解できないままに歌っていた。
それに、川端康成の名文の誉れ高い『雪国』の「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」という書き出しも、正直な話、「雪国」でどんな情景を思い浮かべればいいのか、何を暗示しているのか、理解できなかったし、多分、今でも理解できない。これが、「国境のトンネルを抜けると、暴風の真っ只中だった」とかだったら、よくわかるのだけど、文学にはならんわな。
実際に体験できないから、雪そのもの、もしくは雪を使って何かをしたり、作ったりするのにはあこがれた。雪だるまとか雪合戦とか。雪合戦なんて、雪だまの中に石を入れる反則技も含めてやって見たいと思ったもんなあ。さすがに雪だるまは無理だったけど、雪合戦に関しては、代用品を見つけ出した。
霜では投げられる形にできないので、霜柱を使おうと言い出した奴がいた。子供の発想というのは、何と言うか、かんと言うか。集団登校のための集合場所だった近所の公園で、気温が氷点下まで下がった寒さの厳しい朝、手が痛いのを我慢しながら土交じりの霜柱を掘り起こして、投げつけあったのだ。結果はご想像の通り、痛い冷たい汚いで、学校に行く前に泥まみれになってしまうという惨憺たる結末を迎えた。着替えに一度うちに戻って親におこられたんだったか、泥まみれで学校に向かって先生に怒られたんだったか、いずれにしても二度と手を出すまいと思った。
近所の幼稚園で九州山地の山の中からトラックで雪を運んできて近所の子供たちにも遊ばせたことがあった。その雪は雪というよりは既にシャーベット条になっていて、雪だるまは丸い形に雪を固めることができず、雪合戦は雪球がほとんど氷玉になって、当たるとめちゃくちゃ痛くて泣き出すこともまで出てしまった。そして雪合戦もどきは禁止されてしまった。
九州に住んでいた十八年間で、雪が積もったのを明確に覚えているのは二回だけである。一回目はまだ幼稚園に通っていたころのことで、朝起きたら庭の芝生に白いものが転々と残っていたのを覚えている。思い返すと積雪というにはささやか過ぎて、雪だるまにも雪合戦にも使えないような代物だったが、長らく唯一の雪の思い出となった。
二回目は大学受験のときである。昭和天皇が崩御され、元号が平成に変わった年の正月の下旬に行われた最後の共通一次試験は、高校のあった町から試験会場の大学までかなり離れていたので、受験する学生はみんな一緒に前日にバスで大学近くの町のホテルに入った。ホテルの周囲はまだ白くなっていなかったが、ちょっと内陸の高台の上にあった会場に近づくにつれて、地面が白くなっている部分が増え、大学の周囲は一面の白色だった。と言いたいところだが、出入りする車のわだちや、行き来する人の足跡で、茶色と白の入り混じったような景色になっていた。
せいぜい、一センチか二センチしか積もっていなかったのだろうが、南国人の目には大雪に見えた。受験の当日に目の前に積もった雪があるからと言って、雪だるまを作ったり、雪合戦を始めたりする余裕のあるものはおらず、みなバスを降りて、慣れない寒さと冷たさの中試験会場まで歩いたのだった。
試験の当日に南国にはまれな大雪もどきが降ったのは何かを暗示していたのに違いない。バスを降りて会場に向かうときには、会場の大学の真っ白く雪に覆われたグラウンドのまぶしさが、希望を示しているように見えたし、初日の試験を終えてバスに戻るときには、建設途中で舗装の終わっていなかった駐車場の雪が融け始めてどろどろになった地面に現実に引きもどされるような思いがした。ようは試験に失敗して、思ったほどの成績ではなかったということなのだけどね。
初日にあったのを覚えているのは理科の試験で、文系のクラスだったので受験したのはみんな生物だった。その生物の試験が異常に難しく、ホテルに戻るバスの中の雰囲気は最悪だった。後で理系の連中に話を聞くと物理も同様だったらしい。反対に化学がやさしすぎ、平均点で二倍以上三倍近い差がついてしまったために、最終的には救済措置として「かさ上げ」なるものが行なわれたのだが、この時点では予想もつかず、女の子の中には泣いている連中もいた。
衝撃を受けたのは生物の先生も同じだったらしく、ホテルでの夕食の席にも姿を見せなかった。次の日の朝食に現れた先生は、明らかに寝不足の表情で、髪の毛が真っ白になっていた。小説なんかで、恐怖のあまり一夜のうちに白髪になってしまうなんて話は読んだことがあったので、生物の試験が難しすぎて我々の点数が悪かった責任を感じてショックのあまり白髪になってしまったのかと罪悪感を感じてしまった。
そもそも、この先生は新種の植物をいくつも発見するなど、生物学者としても優秀な人でうちの高校で教えているのが間違いのような先生だったのだ。そんな先生を、受験戦争に巻き込んで白髪にしてしまった現実に思わず憤ってしまったのだけど……。
実は、先生、一晩で白髪になったのではなくて、自棄酒飲んで二日酔いになって、白髪染めを使う気力がなかったのだという。つまり先生はもともと白髪だったのだ。試験の自己採点のために登校したときに、そう打ち明けられて、感動を、じゃないか、俺の怒りを返せと思ってしまった。まあ、先生の白髪の衝撃で、前日のできの悪さを二日目まで引きずらなかったと考えられなくもないのかな。
九州のど田舎に住んでいた十八年間の雪にまつわる思い出は、これだけなのである。東京に出てからのお話は、また明日、っていうか今日今から書くんだけど、昨日の分で。
1月26日22時。
なんかよたってるなあ。まあえせだから。1月26日追記。
2017年01月26日
悪夢(正月廿三日)
最近、夢見がよくない。しょっちゅう見るわけではないけど、見るときには、いや夢を覚えているときにはろくでもない夢であることが多い。いわば悪夢なのだが、悪夢という言葉から想像される生理的な恐怖を感じさせる夢ではなく、言葉を飾れば生活に密着した悪夢、率直に言えば情けない夢、具体的には寝過ごして遅刻する夢を見るのである。ひどいときには、寝過ごして所用に間に合わない夢を見る夢を見てしまう。
つい二、三日前にも、午前中に予定されていた仕事に、どうやっても間に合わないような時間に目が覚めた夢を見た。やばいと思って目が覚めればいいのだけど、この時には、夢の中で気がついたら午後になっていて、遅刻したことを忘れていて、午前中にすっぽかした相手に、どうしてくれるんだと責められてしまう夢だった。
先月だったかに、朝七時の電車でブルノに行かなければならなかったときには、夢の中でちゃんと時間通りに起きたのに、なぜかテレビをつけてしまい、テレビに見入っていたら、七時を過ぎてしまっていて、うぎゃ、どうしようと思った瞬間に目が覚めた。最悪だったのが、目が覚めてもまだ夢の中だったことで、オロモウツの駅について電車が出るはずのホームに向かうのだが、いくら歩いてもホームにたどり着かないのである。電車に乗れないことが確定した時点で今度は目が覚め、飛び起きて時計を見たら、まだ五時前だった。本当はもう少し寝たかったのだが、この夢の後ではさすがに、もう一度寝る気にはなれなかった。
昔のマンガだと、夢の中で小便をする夢を見て、朝起きたらおねしょをしていたなんてのがよく出てきたけれども、トイレ、もしくは小便できる場所を探してあちこち動き回る夢も見ることがある。やっと見つけた夢の中のトイレで小便をしてしまうこともあるが、それでおねしょをしてしまうほど若くはない。多分、この手の夢は、寝ているときにトイレに行きたくなったときに、寝ていることも無意識にわかっているから、小便をしてはいけないという意識が働いた結果、見てしまうのだろう。
そうすると、寝過ごしたり、遅刻したりする夢はどうして見てしまうのだろうか。寝過ごしてはいけないという意識が強すぎるのかもしれない。そして、寝過ごしてはいけないという意識が強すぎる原因を考えてみると、実生活の中で寝過ごしてえらい目にあったことがあるからではないかと考えられそうである。
高校時代までは親と同居していたから、早起きが必要なときは、大抵は親にたたき起こされていたから、寝過ごすということはほとんどなかったはずである。せいぜい、オリンピックやサッカーのワールドカップを見るために早起きしようとして失敗したとかそのぐらいだろう。この手の勝もない理由で親に起こしてもらうのは申し訳なくて、自力でおきようとしたはずだし。
となると、大学に入って一人暮らしを始めてからである。ちょっと思い返したら、すぐに答えに突き当たってしまった。忘れもしない大学一年の一番最初の前期の試験の日に、とはいっても授業時試験で、六月の最後の授業でのテストだったが、大寝坊をしてしまって、一限目はもちろん、二限目のテストも始まっている時間に目を覚ましたのだった。
第二外国語のドイツ語の試験はどうでもよかったけど、真面目に取り組んでいた「漢文概説」のテストが受けられなかったのは痛恨の極みであった。ショックのあまり、茫然自失である。幸いにも通年の科目だったので、後期の試験で挽回して、最終的にはBをもらえたが、前期の試験を受けていたらAがもらえたかもしれないと思うと、喜びも半分だった。前期のテストを受けていないのに合格して喜びも一入だなんていうようなタマではないのである。
この科目の試験は、B4一枚分、漢文が白文で印刷されていて、それに返り点、送り仮名などの訓点を施していくというものだった。採点方法は満点の百点からの減点法で、訓点の間違い一ヶ所につき一点ずつ引いていって、零点になった時点で採点をやめるというものだった。「みんな、三行ぐらいで零点になるんだよ、もっと勉強しなさい」なんて前期のテストの結果を受けて、後期の最初の授業で先生が言ってたっけ。合格者が確か、五十人中八人で、前期の試験をすっぽかしたのに何でお前が合格するんだと、同級生に責められた。まあ、こんなのは合格したものが勝ちなのである。
このとき以来、どうしても朝早く起きなければならない用事があるときには、目覚まし時計を三つセットして、枕元においておくと無意識に止めて寝続けてしまうので、布団から出ないと停められない場所に置くようになった。ステレオのだんだん音が大きくなるという目覚まし機能は重宝したなあ。ラベルの「ボレロ」なんか入れておくと効果は倍増だった。
それからもう一つ。大学の二年生だったか、三年生だったか、先輩に誘われてどこかの美術館で行なわれた『源氏物語』関係の展示を見に行くことになった。そんなに朝早くから出かけたわけでもないのに、時間通りに起きることができず、目覚まし三つセットしていたはずなのに、目が覚めたら無情にも、先輩が留守番電話にメッセージを吹き込み終わろうとしていた。慌てて受話器をとったものの間に合わず、慌てて着替えてそのまま待ち合わせ場所に向かったのだった。
あのころは、携帯電話なんて、自動車電話はあったから存在はしただろうけれども、一般の人間が手にできるようなものではなかったから、公衆電話を使うしかなかったのだ。それでも、電話を引いていただけましだったのだ。あれで電話がなかったら、待たせてしまった一時間ではなく、二時間以上待たせて、吹っかけられた無理難題もはるかに大きくなっていたに違いないのだから。
これが、しょうもない悪夢と、悪夢を見てしまうしょうもない理由である。もう少しひねって、きれいない落ちを付けたかったのだけど、時間もないのでこれでおしまい。
1月24日23時。
2017年01月15日
痛い(正月十二日)
数日前には、「寒い」という題で文章を書いたが、今日は「痛い」である。なにせ、ここ数日あれこれ痛くて、集中できずにここに書く文章も、どことなく間がぬけたというか、しまりがないというか、焦点がぼやけているというか、とにかくいつもにもまして出来が悪い気がするので、言い訳のひとつもして置きたくなろうというものだ。
朝起きた時点から頭が痛いのは、風邪が抜け切っていないから仕方がないと諦めもつくのだが、風邪のせいで、日課だった毎日のコーヒーが飲めないのが痛い。いや、飲もうと思えば、飲めなくはないのだが、飲んでも美味しく感じられないのだ。美味しくないコーヒーは、まずいお酒と同じで無理して飲みたいとも思えない。
まずく感じる原因も、風邪だけれども、咳とくしゃみに痛めつけられた喉を癒すために、それから咳止めのために延々舐め続けているのど飴のせいで舌が荒れているという理由もある。寝ているときに咳をしないようにのど飴をしたの上に乗せて、口蓋の上部に押し付ける形で保持して寝ると、少しずつ溶けてきて、喉には優しく咳も出ないのが、溶けて部分的にとがってしまった飴が、したや口蓋に傷をつけることがある。日本だと、何とかトローチなんてのがあったかあ。あれは舌に傷をつけなかったような気がする。あんまり美味しくなかったけど。
最悪寝ている間にちょっと血が出ることもあるのだが、今回はそこまでは行かなかった。行かなかったけど、痛みに堪えかねて飴が舐められなくなってしまった。そのため、咳の回数が増え、なぜかくしゃみも増えて鼻をかむ回数が増え、鼻の周り、口の周りがティッシュでこすられて痛み始めた。もうちょっとで前回というところまできているとは思うのだけど、最後のもうちょっとが、時間がかかってしまっている。
手足の筋肉がかすかに痛むのも、風邪のせいかと思っていたのだが、違った。寒さのせいだった。いや今回は雪のせいと言ったほうがいいだろうか。雪が降り積もって足元が安定しない中を歩くのは、普段使わない手足の筋肉を使うようで、職場までの行きと帰り、合わせて一時間ほど、歩くだけで筋肉痛になってしまったのだ。特にふとももの裏側と、ふくらはぎ上部の筋肉が痛む。右の上腕部が痛むのは、この前こけたときにうったせいかな。
寒さで筋肉痛になったのは、十年ほど前の最悪の冬のことだった。あの年の一番寒かった時期は、それほど雪が降らず、歩道は完全に除雪されていたので、足を滑らせることもなかったと記憶する。その上、徒歩ではなくトラムで職場に通っていたので、歩いていたのは行き帰り合わせて、三十分未満だっただろうか。それなのに、気温がマイナス二十度に近づいた次の日、朝起きたら典型的な筋肉痛になっていた。
昔、何かで酷寒の中で運動するとカロリー消費量が、普段の何倍にもなるなんて話を読んだことがある。本当かどうかは知らないけど、カロリーをたくさん消費するということは、負荷も大きいということになるのだろう。大して運動したわけでもないのに、筋肉痛になってしまったのは、そういうことだったのだと納得しておくことにした。
チェコに来るまでは、九州と東京近辺でしか生活をしたことがなかったので、寒さがいたいものでもあることを知ったのはオロモウツにきてからである。日本でも経験のあったマイナス五度ぐらいまでは大丈夫なのだが、十度を超えると空気の質が変わるような気がする。顔何かの覆われていない部分が空気の冷たさで痛みを感じ、呼吸する際に口の中や喉にも衝撃を感じる。帽子がないと耳も痛いし、ひどいときには頭も痛む。
チェコに来たばかりのころは、寒い冬が多く、毎年必ず一日中気温がマイナスという時期があって、マイナス十度を超えることも少なくなかった。チェコ語の師匠に脅されて、寒さに耐えるために毛糸の帽子を購入し、ジーパン一枚では耐え切れずにスボン下というか、股引というかをはくようになり、日本ではわずらわしくて使ったことのなかったマフラーまで首に巻くようになってしまった。今でもマフラーの巻き方がよくわからなくて困るのだけど、使わないよりはマシである。もこもこに厚着をして、冬用の暖かい靴を履いていても、最悪の冬は隙間から入ってくる冷たい空気が痛かった。
そういえば、冬の寒い時期にプールに行って、ドライヤーで髪を入念に乾かしたつもりでも、外に出ると残っていた水気が凍結して髪がシャリシャリいうのがいやだと言っていた人もいた。冬にプールなんて行かなきゃいいのにと思ったのだが、シャリシャリいう髪の毛のせいで頭が痛んだりするのかどうかは、実際に体験していないからわからない。
以前は、冬になると、寒い外から暖かいお店の中に入って急な気温の変化で汗をかいてしまって、その後外に出て汗が冷えてしまって風邪を引くことが多かったのだけど、最近は特に汗を書くこともなくなったような気がする。適度な服装を選べるようになったということなのか、チェコの冬に体が順応し始めたということなのか、後者だったら悔しいので、過剰な厚着をしなくなったおかげだということにしておこう。
1月12日23時30分。
2017年01月09日
寒い2(正月六日)
今年の冬は、十一月十一日の聖マルティンの日に、チェコ全土ではなかったけれども、雪が降ったせいか、去年より寒く、雪が多いような気がする。いや、過去最高に寒かった冬よりはましだが、ここ数年では一番寒いんじゃなかろうか。
すでにクリスマス前に雪が積もり、雪が多そうな予感はあった。幸いその後気温が上がって、うちのの実家に出かけるころには、オロモウツ市内からは雪は消え、道路も完全に除雪されて特に走行に問題のある状態ではなくなっていた。ただ、オロモウツを出てプシェロフに向かう途中の道路では、道端の木が凍りついて、いや木の表面に氷がついて真っ白い枝を伸ばしていたのが幻想的だった。樹氷というやつなのかな? と南国育ちの人間には判別がつかず、?をつけてしまう。
なぜか、南にいくほど融け残った雪の量が多く、南モラビアにあるうちのの実家の辺りでは、周囲の畑は真っ白く雪に覆われていた。その雪も雨が降ったおかげで完全に融けてしまい、今年の冬の雪はこれで店じまいかもと期待したのだが、はかない期待だった。
年末には、チェコに来てその存在を知ったチェコ語でインベルゼという気象現象が起こり、オロモウツのような平地の方が、山の上よりも気温が低くなるという現象が起こった。この現象が起こる年って寒かったような気がする。インベルゼが起こると平地では空気が動かなくなるため、排気ガスなどが拡散することなく滞留してしまう。その結果、町がスモッグに覆われることになる。風邪がなかなかよくならないのもこの時期に汚い空気を吸い込んでしまったせいかも知れない。換気のために窓を開けると部屋が臭くなるってのは、やめてほしい。
インベルゼが終わると危惧していたとおり、さらに気温が下がって雪までちらつくようになってしまった。風邪が治りきらないまま復活したところにこの仕打ちはないだろうと思うのだけど、天に物申してみても詮無きことである。かくて本日は雪の舞い散る中、仕事に向かうことになってしまった。昨日までは、降っても積もってもいなかったのだけど。
傘を差しても仕方がないので、時々上着に降りかかった雪を叩き落としながら歩いていく。不快なのは、マフラーの口の周囲が濡れてしまって冷たく感じられることだ。呼気に含まれる水蒸気が、急速に冷却されることでマフラーで結露するということか。そのまま凍りついてマフラーがシャリシャリにならないだけましだと思ってしまうのは、チェコの冬になれてしまった証拠だろうか。
実のことをいえば、降り積もった白い雪の上をシャリシャリ踏み込みながら歩くのは嫌いではない。ただし距離が短ければというのと、石畳の上でなければという条件がつく。市内の石畳の道を雪の中歩くのは、なかなか慣れない。それで歩道を歩くことも多いのだけど、歩道も石畳だったりするのが厄介である。
今日は歩道を歩いていたら足を滑らせてこけてしまった。体調もよくないのでゆっくり歩いていたから、気を抜いていたのがいけなかったのかもしれない。ついた足がつうっと前に滑っていくのを立て直せずに、体の右側を下にして地面に落ちてしまった。以前知り合いが同じような状況で倒れないように踏ん張った結果、倒れただけでなく足を傷めて立ち上がれなくなり通行人に救急車を呼ばれたことがあると言っていたが、素直に倒れたおかげか、特に怪我などはなかった。親切な通行人に、「大丈夫? 立てる」と聞かれて、立ち上がりながら「何の問題も在りません。ありがとうございます」と言えるぐらいだった。
寒い寒いと思っていたら、本当にこの冬一番の、いや久しぶりの大寒波だったようで、六日の夜には、正確には七日の未明と言ったほうがいいのかもしれないが、雲が途切れ放射冷却現象が起こったために、シュマバの山の中を中心に何箇所かでマイナス三十度を超える寒さを記録したらしい。オロモウツでもマイナス二十度近くまで下がったようである。
うげっ、これは過去最高の冬に近いではないか。あのときはオロモウツでもマイナス二十度を超えたから、今年よりも寒かったのは確かだけど。これ以上、寒さが厳しくならないことを、天に祈って本稿を終わることにする。
1月7日22時。
カテゴリーももう少し増やして整理したほうがいいなあ。1月8日追記。
2016年11月26日
酒はしづかに(十一月廿三日)
十月の後半から、よその町に住んでいる知り合いがオロモウツにやってくることが重なり、そうなると当然飲みに行くので、ここ一ヶ月ほどで五回という近年ではありえないペースでお酒を飲んでいる。昔は、チェコ語を勉強していたころは毎日のように飲み歩いていたし、酒量も多かったのだけど、医者に高血圧だと言われて薬を飲むようになって以来、回数も量も一気に減ってしまった。
最近は知人がオロモウツに出てきたときぐらいしか飲みに行かないので、飲みに行く回数が少ないのは、友人知人が少ないということか。いや、オロモウツに来る友人が少ないということにしておこう。だからこそせっかく来てくれた場合には、一緒に飲みたいという気になるのだから。
そういうお酒は、非常に楽しく、気の合う人と一緒に飲むお酒ほど美味しいものはないという話を思い知らせてくれる。「古詩十九首」あたりに、「楽しきは知己と共に飲むより楽しきはなし」とかなかったかな。ごろが悪いから、無理かなあ。(調べたら「楚辞」に「悲しきは生ながら別離するより悲しきはなく、楽しきは新たに相知るより楽しきはなし」とあった。となると酒好きの李白あたりが似たようなことを言っていないかな)
それはともかく、楽しきお酒を飲んでいるとついつい二杯目に手が伸びてしまって、現時点では限界の三杯目を飲んでしまうことになる。普段は翌日に響くからと、一杯でやめるようにしているのだけど、楽しく大きな声で話していると喉が渇くのか、お酒が進んでしまう。今の楽しさと、次の日の苦しさを天秤にかけて、その瞬間の楽しさを選ぶのだ。ささいなことではあるけれども、大げさに言えば、その瞬間だけは刹那主義に生きているということになる。
そんな中、ふとこれでいいのかと懐疑の念が頭をよぎることがある。何かを忘れているような、何か大切なことを忘れているような気がしてふと立ち止まる。
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ
人口に膾炙した牧水の短歌であるが、末尾の句が「べかりけり」となっていることが多いかもしれない。
昔、まだ馬鹿みたいにお酒を飲んでいたころ、この短歌が似合うような爺さんになりたいと思っていた。それで、自宅で一人静かにお酒を飲んだりしていたのだけど、日に日に酒量が増えていくことに気づいて、このままではだめだと、自宅で飲むのはやめたのだった。それがもう二十年以上前の話である。
チェコに来てからチェコ語の勉強をしていたころには、一人で飲み屋に出かけてビールを飲むことは多かったけれども、それは勉強のためであって、一人静かにお酒を味わうというイメージではなかった。チェコ語の勉強をやめてからは、一人で飲みに出かける機会なんか減ってしまったし、もう十年以上一人で飲み屋に入っていないのか。時間がたつのは早いものだ。
そして、今では、いや今でも大勢でわいわい楽しく飲む酒はおいしいと思ってしまうので、牧水の境地にはほど遠い。そもそもチェコの主食である「液体のパン」、つまりビール自体がこの歌には似合わない。辛口の日本酒とか、牧水の故郷の九州のお酒、焼酎あたりでないと、この歌を受け止めきれないような気がする。
さて、今日も日本の方がオロモウツに来たので、チェコ人を何人か引き連れて飲み屋に出かけた。そこでビール片手に、日本人二人でチェコのビールは美味しいけど、日本のビールはまずいと言っていたら、一緒に飲んだチェコ人に、チェコでチェコの料理と一緒に飲む場合には、日本のビールはまずいかもしれないけど、日本で和食を食べるならチェコのビールより日本のビールのほうがおいしいはずだと反論されてしまった。なるほど、そう来たか。
ビールそのもののおいしさしか考えずに、食事との組み合わせを無視していたというわけだ。我々、日本人二人、深く反省してしまった。日本のビールがおいしいと思える料理はぱっと思いつかなかったけれども、探す努力すらしていなかったのだから。
ということは、チェコでは牧水の境地になれないなんて嘆かないで、牧水の歌をもとにチェコにふさわしい酒の歌を作ってしまえばいいのだ。なんてことを思いついてしまった。
冒頭の「白玉の」は、一般には「歯」にかかる枕詞的な理解のされ方をしているようだが、この歌を何度も読んでいると、「秋の夜」にも、「酒」にもかかっているような、すべてにつながっているような印象を持ってしまう。
くそ暑い夏が終わった秋の夜の涼しさを、「白玉のように歯にしみとほる」と理解するのであれば、夏があまり暑くなく、秋というものに存在感のないチェコの場合には、「白玉のように歯にしみとほる」ものは、冬、冬の寒さであろう。当然酒は適度に冷やされたビールで、「歯にしみとほる」ほどおいしいのである。「歯にしみとほる」ほど冷たいビールは飲みたくないのでこう解釈しておく。
チェコのくそ寒い冬、飲み屋の暖かい部屋の中で、さらに暖かくなるようにみんなで楽しく話しながら、おいしいビールを飲む、これがチェコのビールの飲み方である。いや冬のビールの正しい飲みかたである。ということで、
白玉の歯にしみとほる冬の麦酒みなでさわきて飲むべかりけれ ほくすい(偽)
うーん、うーん。無駄な文学趣味はあっても歌才はないのだと再確認する。えっ、本歌取りだって? いやいやそんな高尚な物なんかではなくて、こんなのはただの剽窃というのだよ。
この文章、途中までは、結構うまく落とせるかと思いつつ書いていたのだけど、いつものように恥をさらして終わってしまった。23日の楽しいお酒の代償である。23日の深夜に酔っぱらった頭で書き始め、24日にアルコールの残った頭で書き終えきれず、25日の夕方にアルコールの抜けきれない頭で書き上げようとしている。たったの三杯しか飲んでいないのに、弱くなっちまったぜい。
11月25日17時。