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2018年10月22日

買い物の季節は続く〈靴〉(十月十八日)



 今年の夏は、サマースクールに向けてあれこれ買い物をしなければならなかったという話は、すでに書いたが、あそこで願った、これからしばらくは買い物をしなくてもいいようにという願いはかないそうもない。夏物だけでなく、秋冬物に関してもあれこれ買い足す必要が出てきたのだ。十年ほど前の第一次買い物の季節というべき時期に購入して長年使用してきた服やら靴やらが、寿命を迎えつつある。去年までは多少不具合には目をつぶってだましだまし使ってきたのだけど、さすがにこれ以上はというところまで来たし、夏の買い物の勢いが続いているので、そのままいくつか買っちまおうというわけなのである。

 靴に関しては、今はなきプリオールの最上階にあった靴屋、たしかスロバキアのジョン・ガーフィールドという靴屋が、しばしば二足買ったら、二足目はただとか、50パーセントオフとか、大々的な割引セールを結構ひんぱんにやっていて、それを利用してうちのと一緒に何足も買ったのを覚えている。靴底がすり減ったり、かかとの部分がこわれてしまったりして履けなくなる靴が出てきて、今でも現役で履いている靴は、あの時買ったもののうち二足だけである。もちろんその後何足か買い足しているので、履くものがないという状態には陥っていない。
 その二足も、暖かい時期用の布靴は、靴底がすり減ったというよりは、へたれた感じで履いて長時間歩くと足が痛くなるようになった。それが今年の夏に絶対に新しい布製の靴が必要になった理由である。あのときも、もう一足買うかどうか悩んだのだが、結局面倒くさくなってやめたのだった。へたれた靴も毎日履かなければまだ使用可能のようにも感じられたし。

 冬用のもう一足は、真冬の一番寒い時ではなく、もう少し暖かいときに履くことの多いものなのだが、今年の春までにいくつかの小さな部品が外れ落ちている。現時点では穴が開くとか、実用に堪えないような問題は発生していないが、今後もこれまでのペースで履き続けたら、いずれ近いうちに履けなくなるのは確実である。ということで、今回は日本の冬用、チェコの晩秋から初冬にかけて用の靴が必要になった。
 実は上に書いたスロバキアのジョン・ガーフィールドのお店は、現在はシャントフカに出店していて、ときどき二足目無料のキャンペーンをやっていることもあるようなのだけど、どうも足が向きにくくて近くを通っても中に入ったことはない。ネット上の値段がユーロで表示されているのも足が遠くなる理由かな。もう一つの選択肢としては、チェコの靴ならバテャだという考えもある。あるんだけど、バテャの靴がすべてチェコで生産されているわけでもないし、何より問題なのは、こちらが必要な小さめのサイズがあまりないことである。

 それで、夏の靴は、結局プリオールの後身、ガレリエ・モリツに入っているポーランドの大手の靴屋CCCで買うことにした。シャントフカにもオロモウツ・シティにも入っているけど、選んだのはガレリエ・モリツのお店である。旧市街の中心にあるからサマースクールへの行き帰りに寄れたしね。CCCの持つプロの自転車チームでチェコ人活躍してるし、来年からワールドツアーのチームを運営するみたいだから、そこにチェコ人が入れるように応援しようというのは、理由にならないかな。とまれ、夏は、ポーランドの会社CCCのラネティというイタリアのっぽいブランドの靴を買ったのだった。
 ということで、今回もガレリエ・モリツのCCCのお店に向かった。一応ネット上でこんなのがいいかなという目当てはつけてあったので、あとは現物を見て履いてみて買うかどうか決めるだけである。色は黒。今履いてるのが茶色だから、色が違う方がよかろう。ただ、色的なアクセントとして縫い糸が白のものと赤のものがあってどちらがいいのか決めかねていたし、現物を見たらこんなの嫌だということになる可能性もある。結局は赤でも白でもなくて、茶色のものを選んだんだけどさ。

 次はサイズである。珍しく39の靴があったので、ちょっと大きめになることがわかっている40と履き比べてみた。39のほうが自分の足の大きさには合っているようだったけど、冬場は厚手の靴下を履くこと、それから、防寒用の中敷きを入れることを考えると、足の甲のあたりが窮屈だったのでサイズ40のものを選んだ。
 このヨーロッパのサイズが日本の何センチに該当するのかについては、あちこちに換算表が掲出されているけど、どれもこれも微妙に違うような気がする。日本だと大きめで26センチぐらいを買っていたから、実際の足の大きさは25センチぐらいかな。チェコで初めて買った靴は、今でも現役ではいているけど、買うときに店のおばちゃんに、こんな小さな足に合うのは子供物しかないわとか言われて、子供物を買ったことを考えると、実際はもっと小さいのかなあ。中学高校時代の先輩は、足の大きさが30センチを越えていて靴がないと嘆いていたけど、小さすぎても靴はないのだよ。40なら大抵はあるから、ちょっと大きいけど今後も40を買うことになるんだろうなあ。
2018年10月19日17時25分。










2018年01月04日

元日(正月一日)



 大晦日の除夜の鐘の代わりの花火は、午前一時近くまで続いた。チェコには午後10時以降は、騒音を発してはいけないという法律があるのだが、大晦日に限っては例外的に適用されなくなるらしい。苦情を出す人はいないのだろうか。花火を挙げて新年を祝うというならそれはそれでいいけれども、あちこちで無軌道にやるのではなく、花火を挙げる場所と時間を決めておいたほうが安全の面からもいいと思うのだが、現時点ではそんなことにはなっていない。
 一番花火を挙げて騒ぎたい連中が集まるのが、オロモウツならホルニー広場ということになるのだろうが、家の窓から見る限りそこらへんの駐車場なんかから上がる花火もあったりして、火事の原因になるんじゃないかと不安になる。日本では伝統的な風物詩とも言うべき除夜の鐘にさえ、うるさいとクレームをつけて、自粛に追い込む人たちがいるらしいけれども、日本社会が非寛容になったと考えるべきなのか、チェコが寛容すぎるのか。

 人間は、まあうるさくて寝付けないのを我慢すればいいだけなのだが、人間よりも音に敏感な犬の場合には、花火の騒音にパニックを起こしてしまうことがあるらしい。うちのの実家で飼っている二匹の犬も、花火の音に対して恐れからかひたすら吠えまくっていたが、ひどい場合には庭で飼われている犬が、パニックになって逃げ出して行方不明になることも多いという。
 そういう飼い主からはぐれたペットを保護する施設は、新年になるとたくさんの保護された犬が集められ、行方不明のペットを探す人たちで賑わうらしい。このニュースをテレビで見たとき、犬隙が多く、犬を飼っている人の多いチェコで、どうして犬を虐待するようなイベントもどきが禁止されないのだろうと不思議に思ったのだけど、新年ってのはそこまでして祝うべきものなのか。


 門松は冥土の旅の一里塚

 なんて句を読んだのは、一休禅師だっただろうか。昔は新年はめでたいものという常識をひっくり返すような内容を喜んでいたのだが、最近年をとったせいか素直に理解できるような気もしてきた。新年を迎えると一つ年をとる数え年を使っていた時代には、今よりも平均寿命が短かったわけだし、新しい年を迎えるたびに、この世での時間が短くなったことを感じていたのかもしれない。だからこそ、また新しい年を迎えられたという喜びも大きかったのだろうか。
 そう考えると、一休禅師の句も、時代を考えると俳句でも発句でもなく、連歌の一節だったのだろうが、新年を迎えた喜びを表しているとも言えそうである。いずれにしても、お年玉ももらえなくなり、新年が年の変わり目という単なる節目に変わってしまった今の自分にはそぐわない。チェコにいると門松も目にする機会はないわけだし、それで年をとってあの世へ一歩近づいたという感慨も抱けない。


 めでたさもちうぐらいなりおらが春

 一茶という俳人は、あまり好きではないのだけど、今年の新年の気分にはこの句が一番ぴったりくる。世間に背を向けて新年なんてとつばを吐く気にもなれないし、だからといって両手を挙げてめでたいと万歳をする気にもなれない。大晦日だから、元日だからと特別なことをするわけでもなく、いつもと同じように、こんな駄文を書いているのだ。それでも普段とはちょっと違うテーマになっているあたりが、取り立てて目でたいわけではなくて「ちうぐらいなり」なのである。

 クリスマスと違って、風情のかけらもない花火を除けば、特にこれといった行事というか、決まってすることのないチェコの元日において、元日であることを強く感じさせるものは何だろう。今のゼマン大統領になってからクリスマスに時期を移してしまったけれども、クラウス大統領までは元日に新年を迎える演説をしていた。その演説をチェコテレビだけでなく、民放のノバとプリマも放送していたのではなかったか。このあたりにチェコ人の政治好きを感じてしまう。それはともかく、大統領のテレビ演説は新年恒例と言っていいものだった。まじめに聞いていたわけではないけど。
 それをゼマン大統領がクリスマスに移してしまったのだが、今年は内容も結構議論を呼ぶものだったらしい。今年もと言うべきかも知れない。ほとんどすべてのチェコ人に、自分たちの大統領として認められていたのはハベル大統領だけで、前のクラウス大統領も今のゼマン大統領も、認められないと言うアンチが結構いるからなあ。それでも日本人の首相の新年の演説に対する関心を考えたら、チェコ人は政治的にまじめである。

 テレビつながりで思い出した。新年の風物詩としてはチェコのものではないけれども、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートがある。いつのころからかチェコテレビでも放送してくれるようになって、元日の昼食はウィーンフィルのコンサートの様子を見ながらというのが恒例になっている。ウィーンくんだりまで出かけて場か高いチケットを購入して会場で聞くような余裕はないし、テレビで十分なのだよ。
 テレビを見ていると、ウィーンフィルで、ウィーンからの中継と言いながら、関係者にチェコ系の人がかなりいることがわかるし。今年は取り上げられた作曲家の一人がツィブルカで、どう見てもチェコ系の苗字だったし、休憩時間に放送されたプログラムのタイトルロールには「RIHA」という苗字がいくつも並んでいた。これ、今ではリーハさんになっているかもしれないが、本来はチェコ語の苗字の「ŘÍHA(ジーハ)」である。チェコとウィーンはつながっているのである。

 新年という感慨の薄い生活を送っていると、平安朝の貴族たちが年中行事にこだわっていた理由もなんとなくわかる気がする。そして、高浜虚子の俳句「去年今年貫く棒の如きもの」という俳句も、わからなくはないけど、「棒」ではなくて、「糸の如きもの」と言ってみたくなる。去年と今年をつなぐ頼りない糸が、このブログなんだなんていうと、きれいにまとまりそうな気もするけれども、今日の分の記事は、いつも以上にぐちゃぐちゃに入り混じって理解不能になっているような気もして、間違い探しの読み返しもしたくない。この酩酊した文章を最後まで読んでくださった方々には、今年もよろしくとお願いしておこう。我が駄文を読むには忍耐力が必要なはずである。
2018年1月1日23時。



 自分で作る気はないけどね。1月3日追記。

俳句の作りよう (角川ソフィア文庫)








2017年12月21日

寒さに弱くなったかもしれない(十二月十八日)



 寒さの厳しいチェコに来て廿年近く、最近は毎年ではないけれども、マイナス10度を超えるような寒さにさらされてきたのだから、日本にいたころよりは寒さに強くなっているものだと思っていた。十年ほど前には、マイナス20度以下の日々を耐えることもできたわけだし、せいぜいマイナス5度ぐらいまでしか下がらない東京の寒さなんか、それに比べれば何でもなかったと思い込んでいたのである。
 昨日、車で買い物に出かけたときに、車内は気温が下がって吐く息が白くなっていた。当然寒いと感じたわけだが、車の温度計を見るとマイナス2度でしかなかった。このくらいの気温であれば、東京はもちろん、田舎の九州でだって年に何回かは体験していたはずである。あちらでは、朝晩の一番冷え込む時間帯だけマイナスになり、こちらでは一日中気温がプラスにならないこともあるという点は違うけれども、仕事や学校への行き帰りの時間以外は室内にいるという点では、大差ない。

 違うのは、気づいてしまった相違点は、自らの服装である。日本にいた頃は、真冬であっても今ほど厚着をしていなかったような気がする。靴は普通のせいぜい底の厚いショートブーツを履くぐらいで、内側が起毛になっている冬用の靴は持っていなかったし、そもそも売られているのを見たことがないような気もする。北国の人が冬靴とか雪靴とか言っているのは聞いたことがあるんだけど。それに靴の中に入れる中敷のとカイロなんてものは、使ったことがない。こちらでは冬靴に加えて起毛の中敷を使ってしまっているなあ。これは靴の大きさが合わないことへの対策でもあるのだけどね。
 靴下も取り立て厚手のものを選ぶことはなかったし、今のように二枚重ねてしまうなんてこともなかった。靴下を重ねて履くというのは、健康法マニアの作家だったか、漫画家だったかが雑誌で自慢げに語っていたのを覚えているけれども、足が無駄に熱くなりそうで不快になりそうだったので、試しもしなかった。そもそもその作家のファンというわけでもなかったので、試す理由自体が存在しなかったということになる。

 ズボンはどんなに寒くても、厚手のものをはくぐらいで、パンツとズボンの間にもう一枚履こうなんて発想はなかった。いや父親はさ、股引なんてものを履いていたよ。ただ、それが年寄りの履くものという印象を与えていて、自分では履きたいと思わなかった。それが今では秋が深まり気温が零度に近づくと、うちのにもう履くのという顔をされながら、ズボン下を履き始め、春もかなり遅い時期まで履き続けてしまうのである。

 上も昔は、下着代わりに半袖のTシャツを着て、その上にシャツ、それにセーターかトレーナーを重ねて一番外側に上着という合わせてせいぜい4枚で、気温がマイナスでも外を闊歩していた。昼休みなんかは、上着もセーターも脱いで室内にいるのと同じいでたちで外に出ることも多かったなあ。寒かったけど耐えられたのだよ。首周りもマフラーなんて邪魔にしか思えなかったから巻くことはなかったし、ハイネックのセーターとか首がむずむずして着られなかった。それに防寒用の帽子は、被っている人はいたんだろうけど、それを自分で被ろうという気にはなれなかった。マフラーも帽子も使わなくても何となるものだったのだ。
 それが今は、長袖のTシャツを下着代わりに着て、その上に特殊繊維で作られた下着を重ねる。この手の服を素肌に直接着るのが苦手なので、下に一枚入れるのである。さらにシャツを着て、セーター、上着が基本のパターンだから、最低でも5枚は身に付けていることになる。この前プラハに行ったときは、久々にスーツなんか引っ張り出したもんだから、全部で6枚も重ね着することになった。あまり寒い日ではなかったので電車を降りるときに一枚減らしたけど。

 そして、マフラーもひどいときには二本巻く。上着の内側と外側に巻くと暖かさが違うんだよ。そして毛糸の帽子はもうマフラーやズボン下を引っ張り出す前から、外出の際の必需品になっている。出かけるときは暖かくて不要な場合でも、帰るときには必要になることもあるから、鞄の中に入れて行く。あまり使わないものといえば、手袋ぐらいのものだろう。これも寒くないからではなく、リーダーで本を読むのに邪魔だから使わないだけで、本が読めない状態だったら躊躇なくポケットから取り出して使用する。

 考えてみれば、日本では外に出ている間のことよりも、行った先、学校だったり職場だったりのことを考えて、室内で暑くなりすぎないような格好を選んでいた。その一方、こちらでは、外の寒さに耐えることが第一で、室内で多少暑くても我慢してしまえという服の選び方をしているのである。来たばかりのころは、室内に入って汗をかいてそのまま外に出て、風邪を引くことがままあったのだけど、最近では厚着をしていてもそんなことはなくなった。その意味では寒さに体が適応し始めているとは言えるのだけど……。
 日本と同じような気温であっても、日本にいたとき以上に厚着をしてしまうのは、多分十年ほど前のあの冬がトラウマになっているのだ。トラムの停留所まで歩くだけで筋肉痛になったあの寒さが骨身にしみて、ついつい必要以上に厚着をしてしまう。その厚着に慣れてきたということは、確実に寒さに弱くなっているということだ。それとも、股引はいていた父親と同じような年になってこらえしょうがなくなったということか。どちらにしてもあまり気分のいいことではないな。
2017年12月18日23時。




冬靴あった。12月20日追記。

【VANS】 ヴァンズ WORKER BEE V2552SNOW 冬靴 N/WHEAT








2017年12月10日

買い物苦手(十二月七日)



 昔から物持ちのいい人間で、いろいろなものを長く使う傾向がある。夏物のスーツはチェコで、まだOPプロスチェヨフが健在だったころに買ったけど、十年ほど前のことだし、冬物のスーツに至っては日本で二十年以上前に購入したものを未だに着ている。着ているとは言っても、スーツなんてめったに着る機会がないから、着られなくなる要因もないのだけど。コートなんかの冬物、秋物の上着は着る機会が多く、そろそろ新しいのを買おうかなあと思いつつ、古いのを着続けている。
 なぜかというと、買い物が面倒くさいのである。最初は、せっかく新しいのを買うのだからと、あれこれ考えて一番いいのを選ぼうとネットで確認したりもしてお店に出向くのだけど、商品を見ているうちに、どれがいいかなとか、どっちがいいかなと考えるの面倒くさくなってしまう。そしてたいていの場合は、まだ使えるからいいやという結論で買わずに終わってしまう。

 ときどき、また買おうとか考えるのも面倒だから適当に買ってしまえで、後で自分でも何でこんなの買ったんだろと思うようなものを買ってしまうこともある。そんなものでも使っているうちに愛着がわいて長年使い続けることになるのだけど、それはつつましい性格とか、倹約の精神とか、そんな立派なものが理由ではなく、ただ単に、もう一度新しいものを買いに行くのが面倒だという、ものぐささが理由なのである。携帯電話で古いNOKIAを使い続けているのも理由は同じ。
 そんな中、そうも言っていられないものが出てきた。ほとんど毎日のように使っているリュックが、まだ使えなくはないけれども、ファスナーの調子がおかしくなって開け閉めに問題があることが増えて、さすがにこれを毎日使いたくはないという状態になってしまった。近々所用で久しぶりにスーツを着て出かける機会が発生してしまったこともあって、コンピューターも入れられるような肩掛けのカバンを買っておこうかと、重い重い腰を上げることにした。PCについてきたのはあるのだけど、他のものを入れにくいのである。

 ネット上でいくつかのお店を確認して、一時間ぐらいあれば何とかなるだろうと靴屋とかカバン屋の入っているシャントフカに出かけた。あれこれ見て回るけれども、ぴんと来るものがない。悪くはないんだけど……。自分の買おうという決意が強くなかったのかもしれない。バテャにネットで見てこれあったら買おうかなとおもっていた物がなかったのもよくなかった。
 これでこのまま何も買わずに済ませて、ぼろぼろのリュックかPC用のバッグを使うことになるのかなあと考えつつシャントフカを出て、まだ時間があったので、ホルニー広場のバテャ、元プリオール内の靴屋なんかをのぞいたけど、結果は変わらず。その後、革製品のお店でカバンを中心に扱っているところがあったのを思い出して、立ち寄ってみた。

 小さなお店だけれどもカバンの専門店だけあって数はそれなりにあった。革は手入れがなあと思って見ていると、革ではなく人工皮革のものとか、化学繊維のものとかもあったのでそちらから選ぼうかなあと考えていたら、お店のおばちゃん、おばあちゃんかもに声をかけられた。PCを入れられるような手提げ、肩ひも付きのカバンがほしいというと、いくつか該当しそうなものを引っ張り出してくれた。
 スーツも上着も黒だからカバンも黒はちょっとなあということで何とも言葉では言い表しがたいくらい色合いのものが二つ候補として残った。一つはおばちゃんは皮のイミテーションと言っていたけれども人工皮革のもの、もう一つは化学繊維のもの。前者のほうが高かったのだけどおばちゃんは安易にそちらを勧めることはなく、化学繊維のほうがいいんじゃないかなあ、軽いし取り扱いも楽だしと言っていた。こちらが決めかねていると、鏡があるから手に持って写してごらんと言う。
 その結果、おばちゃんの言葉に従って化学繊維のものを購入したのだけど、やっぱり買い物嫌いには、こういうちょっと親切すぎるぐらいの店員さんがいるお店のほうがあっている。買ったカバンもパッと見でピンと来てこれじゃなきゃとおもったわけじゃないけど、おばちゃんと話をしていてこれならまた長期間使えるかなと思えたので購入に踏み切ったのである。

 その後、普段はリュックに放り込んであるさまざまなものをカバンにつめてみたけど、PC用と違って問題なく、特にストレスがかかることもなく全部入れることができた。これでスーツ着てカバンもってお出かけする準備は完了である。もう一つの悩みは、昔OPプロスチェヨフで買った黒のベストを着るかどうかだなあ。これは当日の朝決めればいいや。

 次は靴かなあ、上着かなあ。どちらも最近買ってないんだよなあ。めんどくさがって、壊れて使えなくなってからにしてしまいそうだけどさ。
2017年12月8日10時。







2017年12月06日

ブルノ行き(十二月三日)



 毎年恒例の十二月はじめのブルノ行きである。今年はじめのプラハ行きに続いて、えせ紀行文に挑戦してみよう。

 七時過ぎにオロモウツを出る電車に乗る必要があるので、五時起きである。いつもより早起きが必要なときには、眠りが浅くなるというか、眠っているのかいないのかよくわからない状態で寝ていることが多いのだけど、今回は体調不良で眠さに苛まれていたせいか、比較的ぐっすり眠ることができ、すっきり目覚めることができたような気がする。不幸中の幸いというやつである。
 冬時間が始まって朝の明るさが増しているとはいえ、緯度の高いチェコである。六時半ごろにうちを出たときには、まだ夜といいたくなるような暗さが街を覆っていた。気温は低いけれども、危惧していた雪も降らず、降った雪も完全に溶けていて、今日一日何とかなりそうだという気分でバス停に向かう。
 週末の早朝の道路は、車の姿はほとんどなく、バスが遅れることはありえないのだが、ちょっと先に出てしまう可能性はある。ということで早めにバス停に向かったら、すでにバスが待っていた。そのバスには間に合わず、乗りそこなったかと不安になったのだが、一本前のバスだった。乗る予定のバスも少し早く到着して少し早く出発したので、早く出たかいはあった。

 駅も金曜日の混雑とは比べ物にならないぐらい人の姿が少なく、切符を買うのにも行列せずにすんだ。レギオジェットやペンドリーノのような座席指定の必要な電車を使うときとちがって、チェコ鉄道の普通の電車を使うときには、事前に切符を買うようなことはしないのだ。オロモウツからブルノまで、片道で距離が100Km、運賃も100コルナ。チェコ鉄道の料金体系というのもかなり意味不明で、普通は距離が長くなるほど、1kmあたりの運賃が下がるものだが、ブルノに行くのに直行便がないときに、プシェロフを経由すると、距離は10kmぐらいしか増えないのに、値段は50コルナも上がるのである。
 どうも、チェコの鉄道料金は幹線、一番近いルートが割安になる傾向があるようである。ただし、プラハ、オロモウツ、オストラバを結ぶ線は、レギオジェットやレオエクスプレスのようなライバル企業の参入があって競争が激しくなっているために、料金体系がさっぱりわからなくなっている。最近はペンドリーノもご無沙汰しているので、オロモウツ、プラハがどのぐらいするのかもわからないのだけどさ。

 七時過ぎに、少しずつ明るくなり始めた中を電車が出発し、オロモウツの近くでは雪は完全に消えていたのだが、南西に向かいプロスチェヨフに近づくにつれて、畑の色が白くなっていく。茶色い畑ではあまり目立たない森から出てきて餌をあさっている鹿の姿が目立つようになる。普段は農地と農地にはさまれたところに残されている小さな森に住んでいるのだろうか。この辺の動物はチェコでは猟師たちが管理していて、冬の餌不足になりそうな時期には、森に餌を運んで与えているらしい。塩の塊を持っていくなんて話もあったなあ。

 雪の量はブルノに近づくに連れて更に増え、ネザミスリツェ、ビシュコフ辺りになると、畑は完全に真っ白になっていた。ビシュコフといえば、広島の知り合いから聞いた話だけど、広島の高校とビシュコフの高校の間で交流が行われているらしい。それはいいのだけど、広島の高校生がビシュコフに来たときに、連れて行かれたのが、ビシュコフのビール工場だったというのは、いいのか悪いのか。チェコといえばビールというのは確かにその通りだけど、アルコールを飲んではいけない高校生を連れて行く場所ではなかろう。先生たちがおいしそうに飲んでいるのを、うらやましそうに見つめているしかなかったのではないかと想像をたくましくしてしまう。チェコではお酒もたばこも選挙権も全部18歳からだから、日本もそうだと誤解されていたのかもしれないけど。
 ビシュコフのビール工場に関しては、十年ほど前に倒産したというニュースが流れ、経営を引き継ぐ企業も見つからなかったという話を聞いていたのだが、何とか復活したらしい。以前の大量生産の工場ではなく、地ビール的なミニ醸造所としての復活かもしれないけどさ。ビール会社が作っている組合には加盟していないようだし。

 ブルノノ駅は今年の前半大々的な改修工事を行っていて、電車によっては郊外の駅までしか行かずそこから大体のバスで移動するという形になっていたのだが、その工事はもう終わっているはずである。改修を受けて使いやすくなっているのか、意味不明な改修で逆に使いにくくなっているのか楽しみである。プラハの駅は改修の結果、構内の店が増えすぎて使いにくくなったからなあ。ファンタの喫茶店が修復されたのはいいことだけど。
 9時前に到着したブルノノ駅は、それほど大きく変わっているようには見えなかった。ホームが改修されてきれいにはなっていたのかな。ごちゃごちゃして降りるときにはいいけれども乗るときにホームの位置を探すのが大変な点も昔と同じで、あれだけ大々的に改修したのは何のためだったのだろうと言いたくなる。安全のための装置をどうこう言っていたような記憶もあるから、見えないところが改善されたのかなあ。

 ブルノはオロモウツと比べると大きな街である。街が大きいだけでなく一つ一つの建物も、ウィーンほどではないにしても大きい。当然、クリスマスマーケットもオロモウツのものよりは大きいのだけど、以前何かの機会に覗いたときには品揃えに大きな違いがあるようには見えなかった。今回ブルノの中心の一つの、ゼレニー・トルフという広場を通ったら、コロトチが回転していた。移動式のメリーゴーランドみたいなもので、これはオロモウツにはまだない。いらんけど。

 夕方6時過ぎに乗った電車は、朝暖房の効きすぎた車両に乗ったので、暖房控えめのあまり暑くない車両に乗り込んで座っていたら検札に来た車掌さんに、この車両は暖房が入っていないから別の車両に移動したらと勧められてしまった。だんだん寒くなってきたような気がしたのは間違いではなかったようだ。いまさら移動したくなかったので大丈夫といって同じ席に座り続けているのだけど、涼しいだったのが寒いに変わり、一度は脱いだセーターを再び身に着けた。マフラーも巻いて帽子もかぶったのに、これで大丈夫というわけには行かず、キーボードを打つ手がかじかみ始めた。

 これで明日はまた体調不良がぶり返すのかな。再びの挑戦はやはり自分には紀行文なんぞ書けないという現実を教えるに終わったのだった。ふう。
2017年12月4日23時。








2017年12月04日

風邪引いた(十二月一日)



 どうものどが痛くなりそうで、鼻の奥がツーんとした感じで、花粉症の頃ほどではないけれども鼻水が止まらずにたれてくる。昔日本にいた頃は、年末の休みが近づいてくると体調を崩しがちになり、休みが始まるとぶっ倒れて寝込むというのを繰り返していた。無理して仕事をしていたわけではないのだけど、一年の疲れ、それに寒さと忘年会疲れが重なってのことだったのかも知れない。
 チェコに来てからは、特に年末にということはなくなった。年末に体調を崩すことはあっても、それは年末だからではなく、年末にたまたま寒波が襲ってきて、体が耐えられなくなるというのが、体調を崩す理由だった。日に日にゆっくり気温が下がっていってくれるのであれば、まだ対応できるのだけど、気温の上下動が激しいのには、特に冬の寒さの中では対応し切れない。

 今年も、10月だったかなに、一気に冷え込んだときに、体調を崩しかけて何とか持ちこたえたのだけど、11月末の気温の低下と降り始めた雪には耐えることができなかった。もともと南国の人間には、毎年毎年、寒さと雪に慣れるまでにしばらく時間がかかるのである。ありがたいのは、すでに雪がやんで融け始めていることで、街を歩いていると屋根の上が通りに落ちてきて危険を感じることはあるけど、雪が降り続けて街が雪に覆われてしまうのに比べればはるかにましである。今回は融けてくれたみたいなので、ほっと一息というところ。
 街が雪に覆われること自体はかまわないのだ。ただ、最初の積雪からではなく、徐々に積もる雪が増えて、こちらが寒さと雪に慣れたころにそのようになってほしい。それならこちらの体も寒さになれて多少寒さを感じるような格好で外に出ても問題ないし、汗もかきにくくなっているはずなので、暖房の効きすぎた室内で汗をかいたまま外に出て、風邪を引くということもしにくくなる。

 以前は、風邪を引くと、風邪を引きかけると、必ず熱が出て咳と鼻水が止まらなくなるところまで悪化して平日は無理やり仕事にでて、週末寝込まなければ直らなかったのだが、最近は年をとったせいか、微熱状態で咳も鼻水も中途半端な状態が続くことが多い。タイミングよく十分以上の睡眠を取ることができたらそのまま治り、失敗すると悪化して寝込むことになる。去年の末から今年の初めにかけては、これに失敗してしまったせいで、一年連続毎日ブログを更新するという目標を、直前で達成できなかったのだ。
 しかし、最悪なのは、風邪を引いたのか引いていないのかわからない状態がずるずると続くことで、風邪を引いてしまった場合には、開き直って無理をするか、諦めて寝るか決断もつけやすいのだけど、無理をしている自覚もないまま、良くも悪くもならない状態でバランスをとるような形になってしまう。頭が痛いというよりは重く、何も考えられないのではなく、考えられるけれども、まともなことが考えられない。ここしばらく、森雅裕の作品をネタにしながら、自分でも何とも中途半端名だなあという文章を書いてしまっているが、それはひとえに体調のせいで、頭がまともに働かないからである。

 尾篭な話になってしまうけれども、結構お腹にも来ているので、文章を書いている最中にトイレに向かう機会も多いし、って、インフルエンザのかかりかけってことなのかなあ。おまけに昼間やたらと眠いし、昼間だけでなくて朝も夜も眠いけど、昼食後の眠さが耐えられないほどに辛い、今日は昼食なんてとってる余裕がなかったから、そこまで眠くはならなかったけど、うちに帰ってから、スラビアとオストラバのサッカーの試合を見ていたら、試合があんまり面白くなかったのと、オストラバのファンが持ち込んだ発煙筒をがんがん焚きやがったせいで、煙で選手もボールもよく見えいない時間が続いたのとで、寝てしまいそうになった。バロシュがPKよこせで大騒ぎしているので目が覚めたけど。

 こんなしょうもない文章を長々と書くのもあれなので、この辺でおしまいにしよう。体調が悪いと文章の質もてきめんに落ちてしまう。元が高いというわけではないけどさ。久しぶりに愚痴になってしまった。
12月2日23時。
 







2017年10月29日

「今日までそして明日から」(十月廿六日)



 ANOの選挙結果について書こうとするのだけど、頭の中を吉田拓郎のどれともつかぬ曲が走り回っていて、思うように集中して書くことができない。一度けりをつけるために、選挙を中断して吉田拓郎の歌について書いて書くことにする。ひとつ書けば、聞きたいという気持ちも、頭の中を流れる曲もおさまってくれるだろう。
 発端は、知人のブログに吉田拓郎の歌碑が登場したことにある。思いがけない登場に、いや知人が吉田拓郎と関係のあるところに勤めていることは知っていたけれども、歌碑があるなんて思ってもいなかったし、ブログに登場するとは全く想像もしていなかったため、強烈な懐かしさにかられてしまった。90年代に同時代の音楽に目を背けていたころ、現在は背けるどことか日本の音楽なんて全く聴かなくなっているけど、60年代、70年代の黎明期の日本のフォーク、ロックを聴き漁っていた。当然吉田拓郎、当時のものは名前がひらがなだったかもしれないけど、吉田拓郎の曲もあれこれ聞いていたのだ。

 件の歌碑には「今日までそして明日から」の歌詞が印刷されている。この歌どんな歌詞だったっけと考えて写真を見るけど、ちょっと小さすぎて見づらい。ネットで検索して出てきた歌詞を見て、更なる懐かしさに、そのページに上がっていた題名を記憶している歌の歌詞を片っ端から見ていった。歌詞は忘れていた部分もあったけど、それなりに覚えていて、それもまた懐かしさを駆り立てた。
 しかし、歌詞を何度読んでも、覚えていたつもりのメロディーが頭の中に浮かび上がってこない。うーんかれこれ20年近く聞いていないからなあ。そこで仕方がないと諦められればよかったのだが、いや、ネットがここまで便利なっていなければ諦められたのだが、ついつい次を探してしまった。つまり歌が聴けそうなページを探したのだ。

 ユーチューブは嫌いである。フェイスブックやツイッターと同じぐらい嫌いである。嫌いなんだけどしょうがないじゃないか。音だけで視聴できるページは見つけたけど、視聴でさわりだけというのは、飢餓感を増幅するだけだった。背に腹は換えられない。普段の主義主張にはちょっとふたをさせてもらって、断腸の思いで、検索で出てきた「今日までそして明日から」のビデオを再生した。映像なんかいらないから、見ないで歌だけを聴きながら、文章を書くつもりだったのだ。だけど……。
 久しぶりに、本当に久しぶりに聞く吉田拓郎の歌声は耳に優しく、歌詞には心を揺さぶられた。歌詞を読んだときには何とかなったのだが、メロディーにのせられた歌詞を聴いて、思わず涙をこぼしてしまった。こうなるともう何も書けやしない。次々に聴いた記憶のある曲を再生し、懐旧の念に浸ってしまった。90年代に聴いた70年代の音楽は新しい発見であったが、今回の感情はどう考えても懐古だ。昔聴いた歌を聴きなおして涙を流しちまうなんざ、年を食った証拠だな。最近、年をとったと思わされることが多くていやになる。二十歳にして生きすぎたりのはずが、冬蜂の死に所なく歩きけりになりそうなんだよなあ。

 ところで、「今日までそして明日から」の歌詞を間違えて覚えていたことに気づいてしまった。冒頭の「わたしは今日まで生きてみました」を、「みました」ではなく、「きました」だと思い込んでいたのだ。単なる昔を思い出して泣いちゃいましたじゃ、日記もどきになってこのブログにはそぐわないので、この「きました」と「みました」の違いについて感覚的に考えてみる。
 日本語の補助動詞の「みる」には、確かに「試す」という意味がある。ただ、この「みる」を使ったときに、動詞の表す動作に対する決意にある種の軽さを感じてしまうのも確かである。例えば、「私は日本語を勉強してみます」なんて言われたら、そこには絶対に日本語ができるようになりたいという強い決意は感じられず、むしろちょっとやって駄目だったらすぐやめるという決意ともいえないような言い訳めいたものが見え隠れしてしまう。
 誰かに料理を勧めるときなんかに、「食べてみてください」というのも、美味しくなかったらすぐやめていいですよという思いやりを示すものだし、「してみる」という表現には、駄目だったらすぐにやめてもいいという緩さを感じてしまうのである。だから「わたしは今日まで生きてみました」の部分だけを取り出すと、生きることへの決意の軽さか感じられるような気がして、最後の「明日からもこうして生きていこうと思うんです」という部分と対応する形の「わたしは今日まで生きてきました」だと思ってしまっていたのだ。

 しかし、改めて歌詞を読み返してみると、そうではないのだ。「わたしは今日まで生きてみました」がかかっていくのは、生きる手段を語った次の二行「時には人に助けられて」「時には人にすがりついて」なのである。言い換えるなら、これまでいろいろな方法で生きてみたということなのだ。そうなると「みる」の持つ軽さは、「生きる」ではなく生き方にかかっていく。一つの生き方を試してみてだめだったら、すぐに次のいき方を試す。それを何度も繰り返すわけだから、「生きる」ことへの決意の強さはこの上もないものになる。「自分の人生」を生きるためには、手段を問わないのである。
 それに比べて、「生きてきました」としたときの、貧弱さはどうだろう。生きるための、生き方を探すための試みであった「時には人に助けられて」「時には人にすがりついて」も、単なる状況を説明する背景に後退してしまい、状況に流されて生きてきたような印象を与えてしまう。これでは、「明日からもこうして生きていこうと思うんです」の強い決意を受け止めきれない。

 ああそうか。「生きてきました」というのは我が人生なのだ。状況に追い詰められて流されるように、道を踏み外し続けてきた我が人生には、能動的な「生きてみました」というのはふさわしくない。だから、長らく聴かなかった間に記憶の中の歌詞を無意識に改変してしまったのだ。そして、自分にはできない生き方だからこそ、この歌を聴いて涙を流してしまったのだ。
 我が恥さらしの人生については、「今はまだ人生を語らず」と答えるにしても、いつか語れるようになる日が来るのだろうか。とまれ、天性の詩人の言葉への感覚の鋭さは、大学で文学なんてものを学問としてかじった人間に及びのつくようなものではないのだ。異国の地で昔聞いていた吉田拓郎のすごさを再確認し感慨にふけるなんてのも、老い先短い人生、悪くはないんじゃないかという気がしてきた。

 以上、心の中にうずまいていたことをぶちまけてみたわけだけど、ユーチューブで吉田拓郎を聴くのを止められるかな。この次の記事が選挙結果の話だったら止められたということである。
2017年10月27日23時。









2017年04月04日

エイプリルフール(四月一日)



 エイプリルフールというと、「アサヒパソコン」という雑誌を思い出す。パソコンの普及に大いに貢献したウィンドウズ95発売前後のバカ騒ぎに巻き込まれて、特に必要もなかったパソコンを購入してしまったのだが、ろくに使えなかったので雑誌でも読んで勉強しようとあれこれ立ち読みした。その中で、一番まともそうだったのがこの雑誌だった。その普段は真面目でまともな雑誌が、四月前半に出る号で、エイプリルフールをやっていたのだ。
 新製品紹介の見開きページが、まるまる嘘の、嘘だけれどもあってもおかしくなさそうな製品の紹介に使われていた。もちろんページの下の方にエイプリルフールの企画であって云々という記載が入っていたのだが、最初の年はそれに気づかず、面白い商品を考える人がいるんだなあと信じてしまい、確か仕事帰りに秋葉原に寄って探してしまったのだった。
 当時パソコンから出る電磁波というものが、体に悪影響を与えるなんて話が、まことしやかに語られていた。それを信じていたわけではないのだが、偽記事の中に備長炭を使った小物をデスクトップのパソコンの上に置くことで、電磁波を吸収できるという製品が紹介されていたのだ。そんなのありえねえだろうと思いつつ、あまりのばかばかしさに逆にありえるかもと思ってしまった。ついほしくなって、秋葉原の専門店に置かれていると書いてあるのを見て……、救いは、お店の人に質問しなかったことと、誰かに話をする前に記事がエイプリルフールだということに気づけたことだけである。

 この企画、毎年楽しみにしていたのだが、何年かたつと行なわれなくなってしまった。だまされた読者からクレームでもついたのだろうか。編集後記に今年のエイプリルフール企画はどうでしたかなんてことも書いてあって、よく読めば嘘だということがわかるようになっていたのだけど。ネタ切れだったのかもしれない。

 チェコ語で四月は、ドゥベンという。ただし、エイプリルフールに関係するときだけ、アプリルと呼ばれることになる。チェコのインターネットでは毎年このアプリルがエスカレートしているような印象がある。今年も、Seznamの地図が奇妙なものに改変されていたし、スパルタとスラビアが合併するなんて記事も出ていた。
 正直な話、この手の企画は大々的にこれ見よがしにやられると興ざめ以外の何物でもない。見出しを見ただけでエイプリルフールの嘘だとわかってしまうような記事は、読みたいとも思わないので、チェコのネット上の企画記事も見出しだけ見て、記事は読まなかった。あの「アサヒパソコン」の記事が魅力的だったのは、普段は、他のパソコン雑誌と違って真面目な記事ばかり載せている雑誌がやるという意外性と、記事自体が信じてしまえそうで、信じてしまっても実害のないものだったおかげである。

 さて、今年はプラハのハーフマラソンが、エイプリルフールに行なわれたのだけど、ちょっと目を疑ってしまった。女子の優勝した選手が、世界記録を更新するタイムでゴールした。それはいい。ただ、ゴールまで男性のペースメーカーに引っ張ってもらって、一緒にゴールしていたのだ。ペースメーカーって途中で外れるものじゃないのか。チェコ人の選手もチェコ記録を狙ってかペースメーカーにゴールまで引っ張ってもらっていたけれども、ペースメーカーがゴールまで先導したのが世界記録とか国の記録ってのは、かまわないのだろうか。市民ランナーがペースメーカーについて走って自己記録更新というのならともかく、なんだか狐につままれたような気になってしまった。
 かつて、熱心に見ていたマラソンとか、陸上の長距離レースに興味が持てなくなったのは、記録を更新させるためとか称して大々的にペースメーカーが導入されるようになってからだった。昔は結構序盤から行けるところまで行けってな感じで独走する選手がでることもあって、最初から最後まで目が離せなかったけど、最近のマラソンはつまらなくなってしまった。ペースメーカーをぶっちぎって走るような選手が出てこないものだろうか。

 そしてもう一つエイプリルフールの冗談っぽかったのが、サッカーのプルゼニュとテプリツェの試合である。テプリツェは日本ではほとんど知られていないようだが、実は日本の旭硝子の現地法人がオーナー、メインスポンサーとなったチームである。だからといって日本の選手がいるわけではないけど。
 とまれ、その試合でプルゼニュが、コーナーキックでやらかした。コーナーからドリブルするというトリックプレーをしようとしたのだろうか。コピツが、ゼマンが近づいてくるのを見て、コーナーに置いたボールに軽く触れて動かしてから、コーナーを離れた。ゼマンがのんびりとボールに近づいているすきに、コピツがボールに触れたことに気づいたテプリツェの選手が、ゼマンを追い抜いてボールをかっさらってカウンター。プルゼニュの選手が戻り切れないうちに、ゴールが決まってしまった。チェコだからこんな冗談みたいな試合もあるよね。

4月2日22時。

 結局この試合、終盤にプルゼニュが頑張って0-2から引き分けに持ち込んだのだけど、翌日監督が解任されてしまった。

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2017年03月14日

三月十一日の記憶(三月十一日)



 小学校だったか、中学校だったかの理科の時間に地震について勉強した。マグニチュードについては正直な話、数字が大きければ大きいほど地震の規模が大きいという以外には理解できなかったが、震度は実際に自分が感じた地震の揺れを、ニュースで報道される数字で確認することと、教科書の数字の脇に書かれていた説明を読むことで、大体のイメージをつかむことができた。少なくとも、そう考えていた。

 最初にその思い込みが粉砕されたのは、1995年の阪神淡路大震災のときで、確か当時アルバイトをしていた出版関係の会社のテレビとしても使えるパソコンで、ニュースを見てその惨状、高速道路を含め、ほとんどの建物が倒壊している情景に大きなショックを受けた。烈震という言葉と家屋が倒壊するという説明文から想像できる情景とはまったく違っていた。想像力が貧困だったのか、現実が想像力を超えていたというべきか。物心付いてから初めての巨大地震が、この震災だったというのも大きいのだろう。
 その後、高速道路に関しては、建設当時の工事が手抜きだったんだという話が出てきたし、関西は長い間地震が起こらない地方だと思われており、そのせいで地震対策が進んでいなかったのも被害が大きくなった原因だという説も読んだ。関東は、関東大震災の再来が予言されて久しいから、地震対策は進んでいるという話もあったけれども、木造の築ウン十年のアパートに住んでいた人間には気休めにもならなかった。

 それからしばらくは、ちょっと大きな地震が来ると、妙にびくびくしていたような記憶がある。そして田舎にいたころに、大して大きな地震ではなかったのだけど、校舎の老朽化が進んでいたのだろう、地震で学校の校舎にひびが入って校舎間をつなぐ橋が使用禁止になったことを思い出した。そのときは、別に怖いともなんとも思わなかったのだけど、震災の後で、あのときの地震が休み時間で、もう少し大きかったら、大惨事になっていた可能性もあったことにぞっとしたのだった。


 チェコは地震のない国である。活動を停止したかつての火山は存在しても、活動を続ける火山もなく、おそらくはいわゆる断層なるものも存在しないのではないだろうか。そんな国で起こる地震といえば、原因がよくわらからない西ボヘミア地方のマグニチュードがせいぜい2ぐらいの小さな地震か、地震と言っていいのかどうかはわからないが、炭鉱のある地域で地下の地盤沈下などで地表が揺れる地震のようなものしかない。住んでいるモラビアの真ん中にあるオロモウツは、地震とは全く縁のない町である。

 その分、2011年の大震災のニュースに大きな衝撃を受けたのかもしれない。朝起きたときには、すでに地震が起こっていて、普段は視聴できないNHKのネット上での放送も、国外からのアクセスに対して解放されており、それも事態の深刻さを想像させた。各地の震度を見ていると、6がいくつもあって、7なんてものもあるのを見たときには、この地域では各地で建物が崩壊し、阪神淡路大震災のとき以上の惨状になっているのではないかと、正直、現地の映像を見るのが恐ろしいような気分になった。
 それが、実際に見てみたら、家屋や高架の倒壊は、思ったほど多くなく、被害もそれほど大きくないのだろうと一安心したところ、津波、さらには福島の原子力発電所の爆発というさらなる大問題が立て続けに発生していても立ってもいられなくなってしまうことになる。こんな気分には阪神淡路大震災のときにはならなかったのだが、何かをせずにはいられないような気分に襲われた。それは、外国にいるからこそ、強く感じる日本人としてのナショナリズムの発露だったのだろうか。

 ネット上に拡散したアメリカの新兵器の実験の結果起こった地震だとかいう、言い出した人だけでなく、それを信じて広めてしまう人間の知性も疑ってしまうようなデマに、日本も科学教育の崩壊具合を嘆いたり、地震を自然への感謝を忘れた日本人への天罰だなどとさかしらなことをほざく連中に殺意を覚えたりした。この手の一見何だか哲学的で正しそうでありながら、実はでたらめこの上ない意見に納得してしまう連中が、たぶん日本の新宗教を支えているのだろう。オウムとか幸福の科学とかさ。
 衝撃のあまり、ボランティアとして東北に向かうために日本に帰国するなんて人もいたけれども、仕事を持つ身としてはそんなこともできず、せいぜい友人知人の間でお金を集めて、たまたまオロモウツにいた東北出身の人に町に寄付するために持って帰ってもらったり、チャリティーコンサートの開催の手伝いをしたりしたぐらいである。
 フリーの通訳として活躍している知人は、最初の何年かは毎年のように仕事のない時期に日本にボランティア活動をしに行っていたので、二年目ぐらいまではそいつにお金を託していたけれども、次第次第に日々の仕事に追われ、地域によって差はあるようだが、少なくとも地震と津波で被害を受けた地域では復興が進んでいそうな様子に、関心を失ってしまっていた。

 このブログ一年目の去年は、この日に全く関係のないテーマで文章を書いているし、あのときの衝撃はどこに行ったのだろうと言いたくなるほどである。熊本の、これも予想外の地震で記憶が改まったこともあるので、今年はこのテーマで一文物しておくことにした。
3月12日17時。


2017年02月18日

車酔い(二月十五日)



 昔、まだ学生のころ、古代史を勉強している連中と一緒に奈良史跡巡りをして、長屋王邸宅が発掘された場所にデパートが建っていて、その中に金で飾られた似非仏堂が設置され、長屋王邸宅跡地にちなんだなどと書かれていたのにみんなで憤ったことがある。憤りのあまり、その感情を似非長歌にして研究会の会報に掲載したのだった。微妙に内容を変えつつ説話もでっち上げたし、創建縁起も書いたかな。そのとき長歌を引用した歌集の名前として使ったのが『馬酔集』だった。
 これで、「まにゑふしふ」、つまり「まにようしゅう」と読ませ、読みから「まんにょうしゅう」=『万葉集』に掛け、字面から短歌雑誌の『馬酔木』に掛けたつもりだったのだけど、史学を勉強している連中には理解してもらえなかった。

 と、ここまで書いて、本日の話の枕にするには無理がありすぎることに気付いたのだが、乗物に酔うという話で、馬に酔うという意味ででっち上げた歌集の名前を思い出してしまったので書かずにはいられなかったのである。思い出すまですっかり忘れていたし、ここで書いておかなかったら、また十年ぐらい思い出すことはないだろうから。

 子供のころから車に酔うたちだった。実家から親戚の家まで行くたかだか一時間の間に、車酔いで吐き気が止まらなくなり、車の中や道路脇で吐いてしまったことなど、思い出すに枚挙に暇がない。自家中毒という子供の病気で入院させられたときには、入院先の県立病院まで車で運ばれる間に、嘔吐を繰り返し、消耗しきってしまい入院したという事実しか覚えていない。いやそれすら親たちに言われて植えつけられた記憶であるのかもしれない。
 大人になるにつれて、車酔いしにくくなり、普通に窓の外の景色を見ながら乗っていれば、酔うこともなくなった。しかし、うちのが車の免許を取り車を購入して、あちこち車で移動するようになると、車酔いを完全に克服したわけではないことが明らかになった。どちらも道を把握していなかったので地図を見ながらナビゲーションしていたら(カーナビなんてものはうちの車にはついていないし、つけたいとも思わない)、気持ち悪くなり始めたのだ。ときどき地図から目を離して、外の景色を見ることで吐き気を催すところまでは行かなかったのだけど、久しぶりに車に酔いかけて、ちょっとショックだった。

 不思議なことに子供のころ学校で遠足などに出かけるときに乗ったバスには、普通にしていれば酔わなかった。鉄道でも酔わなかったのだが、両者の違いは、鉄道の場合には、中で本を読んでも、友達とカードゲームをしても酔わなかったのに、バスの場合には読書もゲームも覿面酔いにつながったことだ。だから、移動時間を有効に利用するために、日本にいるときもバスを利用することはほとんどなかったし、チェコでもバスのほうが便利であっても電車を使ってきた。

 それが、昨年ブルノに出かけたときに、乗る予定の電車に間に合わず、次の電車を待つのも嫌だったし、当時ブルノの駅前を根城にしているホームレスたちの間で、肝炎が流行しているというニュースがあって長居したくなかったこともあって、駅近くのバス乗り場に行ってみたら、三十分後ぐらいにでるオロモウツ行きのバスに空席があると表示してあったので乗ってみた。
 鉄道のレギオジェットを走らせている会社ステューデントエージェンシーが運営している黄色いバスで、鉄道が一時間半以上かかるところを、オロモウツまで途中停車がないので、一時間で到着する。サービスは鉄道ほどではないけど悪くなく、お茶やコーヒーが出たり、新聞雑誌を配布していたり、座席の前のディスプレーで映画を見られたり、無料のワイファイが使えたりしていた。
 高々一時間の道中なので、そんな特別なサービスを使う気もなかったのだが、だめもとで本を読んでみた。気持ちが悪くなる兆しが見えたらすぐに読むのをやめて、窓の外の景色を見るつもりでいたのだが、自分でも驚いてしまうことに、何の問題もなく本を読み続けたままオロモウツに到着できてしまったのだった。

 次はノートパソコンを持ち込んで、仕事、ではなくて、このブログの与太記事を書いてみようと機会をうかがっていたら、今日ブルノの知人のところに出かける用事ができた。最初は確実に書ける鉄道にしようかと思っていたのだが、バスのほうが一時間半ほど遅い時間に出られることもあって、バスを使うことにした。帰りは行きの結果次第である。
 バスの中でコンピューターを使うのは無理だった。揺れがひどくて画面を見ていられないのと、頑張って見て書いていると車酔いの兆候が現れたのとで、出発して二十分ほどであきらめてコンピューターを終了させてしまった。本を読むのもつらいかなと思ったら、本はまったく問題なかった。うーん、帰りをどうしようと悩ましかった。

 結局、帰りもバスにしてバスに乗っている間は高々一時間なので本を読むことに費やし、コンピューターを使うのは知人のところでさせてもらうことにした。今現在、所用が終わって二時間ほど机の片隅を借りて、この原稿を書いているのである。最近サボっていた『小右記』の月ごとの記事もまとめて三日分に当てられそうなので(読む人はいなさそうだけど、これは自分のためのまとめなのである)、しばらくは自転車操業から逃れられそうである。
2月16日23時。


 ブルノに行ったのは十五日なので、『小右記』は後回しにして、十五日分はこの記事を投稿する。2月17日追記。

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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



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