2021年09月23日
リーダーの佇まい
天皇陛下が、稲刈りをされたというニュースが流れた。
毎年、自ら田植えを行い皇居内で育てている稲である。
この稲を11月23日の新嘗祭にて、神前に捧げるのだと言う。
新嘗祭は、今年収穫された新穀を供え、豊穣を感謝する。
古来より米が取れていれば、日本人は食うに困らないわけで、その意味でも、豊穣を感謝することは、日本国民が健やかに生活できることを祈る場でもある。
天皇は、ずっとこうした儀式を通して、国民の安寧を祈ってきた存在である。
戦後、人間宣言し、皇室がやや俗っぽくなりつつあるが、まだまだ伝統の力は大きい。
人々の知らないところで、純粋な心で、祈りを捧げる様は、単なる「象徴」を遥かに超えた、徳あるリーダーとしての佇まいを感じる。
天皇陛下は、新嘗祭において、初めて新米を食されるのだという。
我々俗の者は、「稲刈りが終わったから、そろそろ新米が食べられるな」、などと思っていたが、陛下はこの先も当分は新米をお召し上がりならないわけだ。
10月16日に、伊勢神宮で神嘗祭が行われる
その際、新穀が天照大神をはじめとする神々に奉納されるのだという。
もちろん、五穀豊穣の感謝と日本国の安泰と祈る場である。
おそらく伊勢神宮が開かれてから、欠かすことなく行われていた祈りの場であろう。
そして、宮中でも、天皇陛下が祈りを捧げ続けてきたのだ。
単なる伝統行事では済まされない、権威と重みがある。
何が起ころうと、祈りは続けられ、その祈りのためには、自らの行動を心を律し、禊ぎをしてのち、そのような神事を続けられているもだろう。
宮中祭祀の数は多い。
その一つひとつを、丁寧に、心を正して行われていることに、私は日本国民として感謝と敬意を捧げたい。
天皇陛下が自ら稲を育てるようになったのは、昭和天皇からだそうだ。
より心を込め、丁寧に祭祀を行いたい、というご意向もあったのだと思う。
政治的な発言は禁じられているようだが、日本国のリーダーとしての佇まいを感じる。
私はこうした話も、積極的に生徒に語る。
毎年、自ら田植えを行い皇居内で育てている稲である。
この稲を11月23日の新嘗祭にて、神前に捧げるのだと言う。
新嘗祭は、今年収穫された新穀を供え、豊穣を感謝する。
古来より米が取れていれば、日本人は食うに困らないわけで、その意味でも、豊穣を感謝することは、日本国民が健やかに生活できることを祈る場でもある。
天皇は、ずっとこうした儀式を通して、国民の安寧を祈ってきた存在である。
戦後、人間宣言し、皇室がやや俗っぽくなりつつあるが、まだまだ伝統の力は大きい。
人々の知らないところで、純粋な心で、祈りを捧げる様は、単なる「象徴」を遥かに超えた、徳あるリーダーとしての佇まいを感じる。
天皇陛下は、新嘗祭において、初めて新米を食されるのだという。
我々俗の者は、「稲刈りが終わったから、そろそろ新米が食べられるな」、などと思っていたが、陛下はこの先も当分は新米をお召し上がりならないわけだ。
10月16日に、伊勢神宮で神嘗祭が行われる
その際、新穀が天照大神をはじめとする神々に奉納されるのだという。
もちろん、五穀豊穣の感謝と日本国の安泰と祈る場である。
おそらく伊勢神宮が開かれてから、欠かすことなく行われていた祈りの場であろう。
そして、宮中でも、天皇陛下が祈りを捧げ続けてきたのだ。
単なる伝統行事では済まされない、権威と重みがある。
何が起ころうと、祈りは続けられ、その祈りのためには、自らの行動を心を律し、禊ぎをしてのち、そのような神事を続けられているもだろう。
宮中祭祀の数は多い。
その一つひとつを、丁寧に、心を正して行われていることに、私は日本国民として感謝と敬意を捧げたい。
天皇陛下が自ら稲を育てるようになったのは、昭和天皇からだそうだ。
より心を込め、丁寧に祭祀を行いたい、というご意向もあったのだと思う。
政治的な発言は禁じられているようだが、日本国のリーダーとしての佇まいを感じる。
私はこうした話も、積極的に生徒に語る。
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