2019年08月06日
日常からの脱出
いつものように起きて愛犬の散歩。
いつもと違うのは、そのあと部活がないこと。
そして、今日は東京から母が出てくること。
隠れ家を手に入れてから、泊まりでやってくるのはこれが初めてだ。
母に地元を案内するのではあるが、生徒と関わることなく今日、明日を過ごすのは、これまでにはなかったことだ。
私の教員人生では、必ずどこかに生徒がいた。
それが、当然であり、必要不可欠なことであると思っていた。
だが、近年、「それではいけない。時に、生徒たちと離れることも必要だ」、と感じたのだ。
他の先生方にとっては当たり前のことが、私には当たり前のことではなかったのだ。
もちろん、母が来なければ、こういう機会もないのだろう。
以前なら、なんとなく寂しく感じていたのが、この頃は違う。
「こういう時間の過ごし方も、大切なことなんだろうな」、と考えるようになったのだ。
『我武者羅』だったのだろう。
人に評価されようとは思わなかったが、あまりに人から非難されるのは嫌だった。
それが評価と言えば、評価なのかも知れないが、褒められて育った記憶のない私には、激しい非難はかなりのダメージを受ける。
確固たる自分のスタイルが確立していたのだろう。
なりたくて教員になった。
小学生の頃からなろうと思っていた職業だった。
大学生のときは、ひたすら授業のシミュレーションをした。
教員になってからは、毎日生徒たちへの話の材料を集め続けた。
一生懸命になって、親を越えようとしてしまったこともある。
そうした人生を送ってきたのが私である。
『自らを愛することができるか』
と、問われれば、否と答える。
それではいけないことは分かっているが、自分自身に対して素直にはなれないことも事実だ。
母と少し山歩きをした。
「雄大な自然ね…。」
という母の言葉に、
「人間は、一年に何回か、こういう所で美味しい空気を吸い、景色を見て、英気を養わなければいけないんだ。」
と、私。
机に向かってばかりで仕事をした気になってはいけない。
時に自然の中に身を投じて見ると、また違った見方ができるはずだ。
毎日の繰り返しの中に、油断と隙があると思う。
いつもと違うのは、そのあと部活がないこと。
そして、今日は東京から母が出てくること。
隠れ家を手に入れてから、泊まりでやってくるのはこれが初めてだ。
母に地元を案内するのではあるが、生徒と関わることなく今日、明日を過ごすのは、これまでにはなかったことだ。
私の教員人生では、必ずどこかに生徒がいた。
それが、当然であり、必要不可欠なことであると思っていた。
だが、近年、「それではいけない。時に、生徒たちと離れることも必要だ」、と感じたのだ。
他の先生方にとっては当たり前のことが、私には当たり前のことではなかったのだ。
もちろん、母が来なければ、こういう機会もないのだろう。
以前なら、なんとなく寂しく感じていたのが、この頃は違う。
「こういう時間の過ごし方も、大切なことなんだろうな」、と考えるようになったのだ。
『我武者羅』だったのだろう。
人に評価されようとは思わなかったが、あまりに人から非難されるのは嫌だった。
それが評価と言えば、評価なのかも知れないが、褒められて育った記憶のない私には、激しい非難はかなりのダメージを受ける。
確固たる自分のスタイルが確立していたのだろう。
なりたくて教員になった。
小学生の頃からなろうと思っていた職業だった。
大学生のときは、ひたすら授業のシミュレーションをした。
教員になってからは、毎日生徒たちへの話の材料を集め続けた。
一生懸命になって、親を越えようとしてしまったこともある。
そうした人生を送ってきたのが私である。
『自らを愛することができるか』
と、問われれば、否と答える。
それではいけないことは分かっているが、自分自身に対して素直にはなれないことも事実だ。
母と少し山歩きをした。
「雄大な自然ね…。」
という母の言葉に、
「人間は、一年に何回か、こういう所で美味しい空気を吸い、景色を見て、英気を養わなければいけないんだ。」
と、私。
机に向かってばかりで仕事をした気になってはいけない。
時に自然の中に身を投じて見ると、また違った見方ができるはずだ。
毎日の繰り返しの中に、油断と隙があると思う。
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