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2013年02月02日
宗教の教義は常に権力者の都合で作られる
zeraniumのブログ より転載
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宗教の教義は常に権力者の都合で作られる C
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83635885
長い年月の間に聖書は、英語をはじめさまざまな世界の言葉に翻訳されていきました。
海外の旅行先のホテルなどに置いてある聖書は、たいていは英語のものです。
キリスト教に馴染みのない日本人はその理由を、「英語人口が多いからだろう」と考えるかもしれませんが、英語の聖書が備えられていることには、もっと根本的な理由があるのです。
英語の聖書というのは、それは通常イギリス国教会の聖書のことで、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、それ以外は正しい聖書ではないとさえ言えるのです。
そして実はカトリックの聖書も、英語の聖書はKJV聖書をベースにしています。
このKJVとはKing James Version の略です。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
しかしローマカトリックが正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれた聖書です。
それと同じ意味で、多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書のみなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書をつくったのは、スコットランドやイングランド、アイルランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュワート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から、『欽定訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
それがつくられる以前までは、イギリスには「ジュネーブ聖書」と呼ばれる英語訳聖書が普及しており、人々に親しまれていました。
これは宗教改革運動への迫害を逃れてジュネーブに渡った、カルヴァン派の神学者たちによって翻訳されたものです。
聖書の英訳にも興味の尽きない歴史があります。
最初の英訳は、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書(1408年)、その次がウィリアム・ティンダルによる英訳聖書(1525年)です。
ウィクリフとティンダルはともに宗教改革のリーダー的存在でした。
それ以後は、『マシュー版聖書』、『ジュネーブ聖書』、と次々刊行されましたが、『欽定訳聖書』はティンダル版聖書に大きな影響を受けています。
ジェームズ1世に、あらためて英訳聖書をつくることを決意させたものが何であったか、詳しい事情はわかりません。
ただ他の国王たちが、自分に服従しないと感じたジェームズ1世は、それまでの聖書をひどく嫌ったといわれています。
時代はまさに宗教改革の波に洗われ、イギリスの政治の歯車が大きな音とともに回り始めていました。
ですからジェームズ1世が、自らの力で新しい聖書を定めることが権力をさらに拡大する道である、と考えたことは想像に難くありません。
キング・ジェームズ1世の悪訳
54人の神学者たちが、どれほど正典の教えに忠実であろうとしたにせよ、彼らはジェームズ1世の政治的野望の手の平で踊らされていたにすぎません。
そして実際にジェームズ1世は、自分に都合のいい言葉を「そっと」聖書に忍び込ませたのです。
たとえば、「汝、殺すことなかれ」で知られるマタイ19:18は、カトリックの聖書では、Thou shalt do not kill となっていますが、『欽定訳聖書』では、Thou shalt do not murder となっており、kill が murder に変わっています。
もともとのギリシャ語では φονευω(phoneuo)という単語は kill を表す一般名詞です。
それは旧約の神が認める kill は murder ではないとするもので、まさに魔女狩りや十字軍の論理であり、それが聖書の文字に表されたのです。
そしてイギリスの国教会からアメリカに移住したピューリタンまでが、この聖書を使いました。
アメリカインディアンの虐殺もまさに murderではなく kill であり神は murder は禁じていても、 kill は禁じていないという論理で行なわれたのでしょう。
同じく、原爆投下の論理もそう感じられます。
「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、ラリー・キング・ライヴのトーク番組で行なわれた議論が示すように、現実は確かにそうなっています。
そして就任式に臨む歴代のアメリカ大統領は「キル」を肯定するバイブルに片手を置き、「ヘルプ・ミー・ゴッド」と宣誓を行なうのです。
また、もともと「教会」は英語で congregation と言いますが、これをイギリス国教会を示す church に変えたのはジェームズ1世です。
ですからプロテスタントの開祖は、ジェームズ1世と言ってもいいのです。
私はジェームズ1世による訳語改変の理由が、彼の個人的理由から生まれたと考えているのですが、それは後で明らかにしていきます。
宗教は検証されない
さて、ここまでの話で重要な点は、宗教の教義というものは、いつの時代にも権力者に都合のいいように書き残されているということです。
そして文字として書かれた教義は、科学論文のように査読され、検証されることなく、いつの間にか人々の心に刻まれていきます。
なぜ検証しないかといえば、宗教はもともと検証できないものであり、「この部分は正しいけど、全体的には間違っている」ということになれば、もはやそれは信じられるものではなく、盲従する信者たちの求めに応じられるものではないからです。
救いを求める人ほど、騙しやすいものはありません。
金に困り、のどから手が出るほどお金が欲しいと思っている人ほど、詐欺に騙されやすいというのはいつの時代も変わりません。
同じことが宗教に救いを求める人にも言えるのです。
なぜ書かれた教義を盲目的に信用するかといえば、それは他人を信じていないにもかかわらず、信用できる対象が欲しいと考えているからです。
まず最初に、すべてのことを疑う
心を持てば、そのような浅薄な気持ちはすぐに消えてなくなります。
そうなると、自らの判断で信用できるものを受け入れようと前に出る自信が、逆に心に満ちてくるはずです。
満たされない心に作用するのは、これまでも常に宗教であり、言葉でした。
そしてその作用を強化し、増幅させたのが、書かれた言葉であり、印刷された言葉でした。
グーテンベルクの印刷術による発明は、人間が知識を獲得するうえで、それは極めて大きな役割を果たしたのは事実です。
しかしその反面、印刷術は、中世のヨーロッパの人々の心に誤まった固定観念を植え付ける役割も果たしたのです。
『魔女に与える鉄槌』という書物が繰り返し複製されることによって、誤まった固定観念が広められていくという、負の側面も存在しました。
権力者と宗教はその効果を利用し、この書物が版を重ねるにつれて、魔女狩りがいよいよ猛威を振るっていったのは偶然ではありません。
『魔女に与える鉄槌』がベストセラーになると、魔女に関する書物は次々と生み出されていき、その一つがジェームズ1世の手になる『デモノロジー』(悪魔学)です。
19世紀になると魔女狩りは終息しましたが、デモノロジーの流れは残りました。
ボードレールの『悪の華』などの悪魔文学は、まさにそれを受け継ぐものでした。
またフロイトが、精神分析学を確立したのも、自分が魔女であると自称する人々の心理を、解明しようと考えたことが発端であったのです。
その意味で、魔女狩りはヨーロッパ社会の形成を左右した非常に大きな試金石だった、という指摘もあります。
さて、現代におけるITの発明は、グーテンベルクによる印刷術に匹敵するといわれています。
その恩恵に浴する私たちは、外国の政府や新聞、ラジオ、テレビ、また個人が撮影した映像に至るまで、好きなように接し、保存し、加工することまでできるようになりました。
そうした情報は、専門家を含む大勢の人々の目というフィルターを通して、誤まった情報は修正され、淘汰されていきます。
その結果私たちはIT以前に比べると、はるかに正しく高い知識が得られる環境に暮らせるようになりました。
いつの時代も情報操作を行なう人間がいる
しかしながら、それは表の話であり、物事には必ず裏表が存在します。
ヨーロッパの中世にグーテンベルクの印刷術がもたらされたことが表だとすると、その印刷術によって『魔女に与える鉄槌』が中世もたらしたものが裏の世界であり、それは現代においても存在しています。
それは、専門家を含め大勢の人々によって検証されない情報であり、なかでも意図的な誤誘導や、洗脳を企む権力者によって行なわれる組織的な情報操作の世界です。
従来から、インターネットの世界で起こるこうした情報操作に対して、情報の1次ソースを確認したり、反対意見や複数の意見を吟味する情報リテラシーのキャンペーンが行なわれてきました。
しかし情報リテラシーは、悪質なサイトや金銭トラブルに巻き込まれないという程度のことには役立つとしても、権力者による意図的な情報操作に太刀打ちできるものではありません。
なぜなら情報操作の世界は、改竄された1次ソースや、一見すると反対意見のように読める「偽装した賛成意見」や、あるいは一見すると賛成意見のように読める「偽装した反対意見」などが蔓延する、情報空間世界だからです。
しかもツイッターの登場によって、こうした偽装情報はなおさら巧妙に流通しつつあります。
論理を持たず、感情に訴える「つぶやき」は、反論や反証をほとんど受け付けません。
誤まっていることをとがめても、「つぶやいただけなんだから、いいじゃん」、で終わりです。
これは現代に魔女狩りが流行する、非常に大きな環境的条件です。
これを利用する権力者はすでに現れているし、その動きは今後益々顕著になっていくでしょう。
それについては明らかにしていきますが、そのためにもヨーロッパ中世に起こった魔女狩りについて、もう少し深く考察を進める必要があります。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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宗教の教義は常に権力者の都合で作られる C
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83635885
長い年月の間に聖書は、英語をはじめさまざまな世界の言葉に翻訳されていきました。
海外の旅行先のホテルなどに置いてある聖書は、たいていは英語のものです。
キリスト教に馴染みのない日本人はその理由を、「英語人口が多いからだろう」と考えるかもしれませんが、英語の聖書が備えられていることには、もっと根本的な理由があるのです。
英語の聖書というのは、それは通常イギリス国教会の聖書のことで、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、それ以外は正しい聖書ではないとさえ言えるのです。
そして実はカトリックの聖書も、英語の聖書はKJV聖書をベースにしています。
このKJVとはKing James Version の略です。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
しかしローマカトリックが正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれた聖書です。
それと同じ意味で、多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書のみなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書をつくったのは、スコットランドやイングランド、アイルランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュワート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から、『欽定訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
それがつくられる以前までは、イギリスには「ジュネーブ聖書」と呼ばれる英語訳聖書が普及しており、人々に親しまれていました。
これは宗教改革運動への迫害を逃れてジュネーブに渡った、カルヴァン派の神学者たちによって翻訳されたものです。
聖書の英訳にも興味の尽きない歴史があります。
最初の英訳は、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書(1408年)、その次がウィリアム・ティンダルによる英訳聖書(1525年)です。
ウィクリフとティンダルはともに宗教改革のリーダー的存在でした。
それ以後は、『マシュー版聖書』、『ジュネーブ聖書』、と次々刊行されましたが、『欽定訳聖書』はティンダル版聖書に大きな影響を受けています。
ジェームズ1世に、あらためて英訳聖書をつくることを決意させたものが何であったか、詳しい事情はわかりません。
ただ他の国王たちが、自分に服従しないと感じたジェームズ1世は、それまでの聖書をひどく嫌ったといわれています。
時代はまさに宗教改革の波に洗われ、イギリスの政治の歯車が大きな音とともに回り始めていました。
ですからジェームズ1世が、自らの力で新しい聖書を定めることが権力をさらに拡大する道である、と考えたことは想像に難くありません。
キング・ジェームズ1世の悪訳
54人の神学者たちが、どれほど正典の教えに忠実であろうとしたにせよ、彼らはジェームズ1世の政治的野望の手の平で踊らされていたにすぎません。
そして実際にジェームズ1世は、自分に都合のいい言葉を「そっと」聖書に忍び込ませたのです。
たとえば、「汝、殺すことなかれ」で知られるマタイ19:18は、カトリックの聖書では、Thou shalt do not kill となっていますが、『欽定訳聖書』では、Thou shalt do not murder となっており、kill が murder に変わっています。
もともとのギリシャ語では φονευω(phoneuo)という単語は kill を表す一般名詞です。
それは旧約の神が認める kill は murder ではないとするもので、まさに魔女狩りや十字軍の論理であり、それが聖書の文字に表されたのです。
そしてイギリスの国教会からアメリカに移住したピューリタンまでが、この聖書を使いました。
アメリカインディアンの虐殺もまさに murderではなく kill であり神は murder は禁じていても、 kill は禁じていないという論理で行なわれたのでしょう。
同じく、原爆投下の論理もそう感じられます。
「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、ラリー・キング・ライヴのトーク番組で行なわれた議論が示すように、現実は確かにそうなっています。
そして就任式に臨む歴代のアメリカ大統領は「キル」を肯定するバイブルに片手を置き、「ヘルプ・ミー・ゴッド」と宣誓を行なうのです。
また、もともと「教会」は英語で congregation と言いますが、これをイギリス国教会を示す church に変えたのはジェームズ1世です。
ですからプロテスタントの開祖は、ジェームズ1世と言ってもいいのです。
私はジェームズ1世による訳語改変の理由が、彼の個人的理由から生まれたと考えているのですが、それは後で明らかにしていきます。
宗教は検証されない
さて、ここまでの話で重要な点は、宗教の教義というものは、いつの時代にも権力者に都合のいいように書き残されているということです。
そして文字として書かれた教義は、科学論文のように査読され、検証されることなく、いつの間にか人々の心に刻まれていきます。
なぜ検証しないかといえば、宗教はもともと検証できないものであり、「この部分は正しいけど、全体的には間違っている」ということになれば、もはやそれは信じられるものではなく、盲従する信者たちの求めに応じられるものではないからです。
救いを求める人ほど、騙しやすいものはありません。
金に困り、のどから手が出るほどお金が欲しいと思っている人ほど、詐欺に騙されやすいというのはいつの時代も変わりません。
同じことが宗教に救いを求める人にも言えるのです。
なぜ書かれた教義を盲目的に信用するかといえば、それは他人を信じていないにもかかわらず、信用できる対象が欲しいと考えているからです。
まず最初に、すべてのことを疑う
心を持てば、そのような浅薄な気持ちはすぐに消えてなくなります。
そうなると、自らの判断で信用できるものを受け入れようと前に出る自信が、逆に心に満ちてくるはずです。
満たされない心に作用するのは、これまでも常に宗教であり、言葉でした。
そしてその作用を強化し、増幅させたのが、書かれた言葉であり、印刷された言葉でした。
グーテンベルクの印刷術による発明は、人間が知識を獲得するうえで、それは極めて大きな役割を果たしたのは事実です。
しかしその反面、印刷術は、中世のヨーロッパの人々の心に誤まった固定観念を植え付ける役割も果たしたのです。
『魔女に与える鉄槌』という書物が繰り返し複製されることによって、誤まった固定観念が広められていくという、負の側面も存在しました。
権力者と宗教はその効果を利用し、この書物が版を重ねるにつれて、魔女狩りがいよいよ猛威を振るっていったのは偶然ではありません。
『魔女に与える鉄槌』がベストセラーになると、魔女に関する書物は次々と生み出されていき、その一つがジェームズ1世の手になる『デモノロジー』(悪魔学)です。
19世紀になると魔女狩りは終息しましたが、デモノロジーの流れは残りました。
ボードレールの『悪の華』などの悪魔文学は、まさにそれを受け継ぐものでした。
またフロイトが、精神分析学を確立したのも、自分が魔女であると自称する人々の心理を、解明しようと考えたことが発端であったのです。
その意味で、魔女狩りはヨーロッパ社会の形成を左右した非常に大きな試金石だった、という指摘もあります。
さて、現代におけるITの発明は、グーテンベルクによる印刷術に匹敵するといわれています。
その恩恵に浴する私たちは、外国の政府や新聞、ラジオ、テレビ、また個人が撮影した映像に至るまで、好きなように接し、保存し、加工することまでできるようになりました。
そうした情報は、専門家を含む大勢の人々の目というフィルターを通して、誤まった情報は修正され、淘汰されていきます。
その結果私たちはIT以前に比べると、はるかに正しく高い知識が得られる環境に暮らせるようになりました。
いつの時代も情報操作を行なう人間がいる
しかしながら、それは表の話であり、物事には必ず裏表が存在します。
ヨーロッパの中世にグーテンベルクの印刷術がもたらされたことが表だとすると、その印刷術によって『魔女に与える鉄槌』が中世もたらしたものが裏の世界であり、それは現代においても存在しています。
それは、専門家を含め大勢の人々によって検証されない情報であり、なかでも意図的な誤誘導や、洗脳を企む権力者によって行なわれる組織的な情報操作の世界です。
従来から、インターネットの世界で起こるこうした情報操作に対して、情報の1次ソースを確認したり、反対意見や複数の意見を吟味する情報リテラシーのキャンペーンが行なわれてきました。
しかし情報リテラシーは、悪質なサイトや金銭トラブルに巻き込まれないという程度のことには役立つとしても、権力者による意図的な情報操作に太刀打ちできるものではありません。
なぜなら情報操作の世界は、改竄された1次ソースや、一見すると反対意見のように読める「偽装した賛成意見」や、あるいは一見すると賛成意見のように読める「偽装した反対意見」などが蔓延する、情報空間世界だからです。
しかもツイッターの登場によって、こうした偽装情報はなおさら巧妙に流通しつつあります。
論理を持たず、感情に訴える「つぶやき」は、反論や反証をほとんど受け付けません。
誤まっていることをとがめても、「つぶやいただけなんだから、いいじゃん」、で終わりです。
これは現代に魔女狩りが流行する、非常に大きな環境的条件です。
これを利用する権力者はすでに現れているし、その動きは今後益々顕著になっていくでしょう。
それについては明らかにしていきますが、そのためにもヨーロッパ中世に起こった魔女狩りについて、もう少し深く考察を進める必要があります。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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聖書は実際に「聖なる書」なのか?
zeraniumのブログ より転載
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聖書は実際に「聖なる書」なのか? B
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83620474
儒教について、私たちがよく知るのが『論語』の教えでしょう。
『論語』は孔子の死後数百年経ってから、彼の弟子たちがまとめたものです。
有名な一節を取り上げてみましょう。
『子の曰(いわ)く、吾(わ)れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑(まど)わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。』 (為政篇)
これを読んで若い人は、「自分も勉強するぞ」と青雲の志を抱くに違いないし、40歳前後の人は「今の境遇も天命だ。
辛抱して頑張ろう」と、気持ちを引き締めることでしょう。
しかし、私に言わせれば、これこそが、実は奴隷の教えです。
15歳にして勉学に励み、30歳にして独立する。
ここまでは人々が受け入れやすい、ごく普通のことです。
当時の平均寿命からすると、子どもが30歳になる頃に親は大体死んでいますから、それまでに勉学して独立せよ、というわけです。
ところがその次の、「四十にして惑わず」から隠れた本領が姿を現します。
「惑わない」というのは、いろいろな可能性を考えて他に気をとられることなく、一つの価値感で迷わずに生きるということです。
つまり惑わずに奴隷の道を歩め、ということです。
そして「五十にして天命を知る」において、さらに奴隷のボルテージが上がります。
当時の「天」とは、間接的に皇帝を指しています。
もちろん「天」には神のような直接的な意味もありますが、儒教の本質は、この世の神が皇帝であるというものです。
それは戦前の神ならぬ天皇陛下のような位置づけです。
つまり「天命を知る」とは、皇帝の命令を自ら進んで理解して行動するということです。
きわめつきは、「七十にして心の欲するままに従って、矩を踰えず」でしょう。
その意味はそうやって、70歳になると思うままに振舞っても道を外れないようになった、というわけです。
つまり奴隷の人生を70年間続ければ、何をやっても奴隷の枠から外れることはなくなる、ということです。
これは大変な話です。この教えによって出来上がった聡明で勤勉で、かつ命令を聞く人間が、どれほど権力者にとって都合のいいものであったか、私たちはそこに注意を向ける必要があります。
その証拠に儒教国ではいまなお、親よりもいい会社に入ってはいけないし、親が死ぬまで親よりもいい暮らしをしてはいけないという考えが根強く残っています。
日本では明治維新後に西欧の民主主義が輸入されたために、今の日本人はそういう考えをあまり持ってはいませんが、江戸時代の日本人にとっては、それを守るのが真っ当な生き方であったのです。
蛇足ですが、日本では神道は明治維新とともに作り出されました。
神道とは、明治政府が作った人工宗教であり、西欧では宗教とは認められないような代物(しろもの)です。
おそらく明治政府は政治を行なう上で、天皇の扱いをどうするか困ったものと思われます。
維新の功績が天皇にあることは、薩摩や長州もよくよくわかっていました。
なぜなら倒幕のための最大の武器が「錦の御旗(にしきのみはた)」であったからです。
そこで明治政府は天皇を神格化することを画策しました。
そして、それまで埃をかぶっていた原始宗教を拾い上げ、きれいに塵を払い、「これが日本古来の宗教だ」と掲げたのです。
しかし太古の神道には、教義も経典もありません。
そこでキリスト教を手本に、儒教の教えをベースにして形を整えました。
それでも神道は、神風特攻を遂行させることができるほどには成功したのです。
つまり大日本帝国の政府は、神道をうまく利用したのでした。
天皇家が時の政府による神格化の動きを、どのように受け止めていたのか、そこは定かではありません。
宗教は政治に利用されることをバネにして、勢力を拡大してきました。
権力者にとっては宗教は、実に使い出のある道具でした。それは人々を統治することはもちろん、政敵さえ失脚させることも簡単だからです。
「神の教えに背いている」と指弾することは、どんな嫌がらせよりも有効であったからです。
また領土的野心を満たそうとするときも、それは大いに役立ちました。
たとえばローマ帝国は、ゲルマン人との度重なる戦いに教会の司祭たちを伴い、占領地の住民にキリスト教を布教させたといわれています。
話をもう一度キリスト教に戻します。
今私たちがキリスト教と考えている宗教には、2つの大きな流れがあり、一つはカトリックで、すでに述べたようにローマ帝国が国教化したキリスト教であり、ローマ法王を頂点とするものです。
もう一つは、ご存知のようにプロテスタントです。そして実はプロテスタントにも、コンスタンティヌス大帝とは別の開祖がいるのです。
宗教を論じる際に、私がときどき紹介するエピソードの一つに、「ラリー・キング・ライブ」の話があります。
これは米国のCNNの看板トーク番組で、ラリー・キングが司会を務めており、アメリカ人の考え方や情勢を非常によく伝える格好のソースでした。
しかし残念ながら、2010年末に終了してしまいました。
それは9・11の出来事が起こり、その影響でイラク戦争が始まった頃で、このトーク番組で戦争の是非をめぐる討論が行なわれたときのことです。
出演者はユダヤ教の指導者のラビ、イスラムの宗教指導者、カトリックの神父、プロテスタントの牧師、そしてインド人のニュー・エイジ系指導者の5人でした。
そのとき、視聴者から電話で、「なぜ戦争では人を殺してもいいのですか」という質問が寄せられました。
すると、ユダヤ教のラビが「マーダー(murder)とキル(kill)は違う」と答えたのです。
つまり、戦争で行なう殺人はキルであって、それは許されるという意味です。
「ちょっと待て!」、と私は思わず突っ込みを入れたくなりましたが、番組に同席した他の宗教指導者たちは誰も反論しません。むしろ当たり前だと言わんばかりに平然としているのです。
それは実に不思議な光景でした。
この発言の裏には、宗教的な倫理があります。
つまり、神は「汝、人を殺すなかれ」とマーダー(murder)を禁じています。
人間が人間を殺すのが「マーダー」で、これは絶対に許されないはずです。
ただ旧約聖書の神は創世記の「ノアの箱舟」の話で、「悪を行なう人間」には大量殺戮を行なう神なのです。
しかし「正しい人」ノアは救われ、その子孫は「正しいこと」を続ける限り絶滅させられないとする契約を、神と締結しました。
そしてそこから、(神がそうであるから)、キルが許されないと言っているわけではない、という理屈が成り立つのです。
そこから導き出される論理は、
神との契約を守らない人間は、人類のために滅ぼされなければならないというものです。
ゆえに、人類のためにキルは許される、という結論にたどり着くのです。
ここで私が問題にしたいのは、彼らのおかしな論理のことではありません。
「マーダー」は許されないが、「キル」はその限りではないという彼らの解釈をたとえ百歩譲ってよしとしても、いったいその聖書は誰が書いた聖書なのか、という点です。
わかっていることですが、イエス・キリストもパウロも、アタナシウスも、そしてコンスタンティヌス大帝も、「マーダー」と「キル」の使い分けなど一切してはいないのです。
英語の聖書というのは、通常イギリス国教会の聖書で、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、実はカトリックの聖書も英語の聖書のKJV聖書をベースにしています。
このKJVとは、King James Version の略で、キング・ジェームズ1世の名前が使われています。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
カトリック教会が正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれたものだけですが、それと同じ意味において多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書だけなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが決定的に重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書を作ったのは、スコットランド・アイルランド・イングランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュアート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から『欽定(きんてい)訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
実は『欽定訳聖書』が誕生する14年ほど前、ジェームズ1世は『デモノロジー』(悪魔学)という書物を著わしています。
この本は、先に紹介した『魔女に与える鉄槌』の流れを汲み、イギリスにおける魔女狩りの指南書としての役割を果たしました。
つまり、イギリスの魔女狩りを主導した王が、現代に受け継がれるイギリス国教会の聖書、KJV聖書ををつくったのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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聖書は実際に「聖なる書」なのか? B
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83620474
儒教について、私たちがよく知るのが『論語』の教えでしょう。
『論語』は孔子の死後数百年経ってから、彼の弟子たちがまとめたものです。
有名な一節を取り上げてみましょう。
『子の曰(いわ)く、吾(わ)れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑(まど)わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(した)がう。
七十にして心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず。』 (為政篇)
これを読んで若い人は、「自分も勉強するぞ」と青雲の志を抱くに違いないし、40歳前後の人は「今の境遇も天命だ。
辛抱して頑張ろう」と、気持ちを引き締めることでしょう。
しかし、私に言わせれば、これこそが、実は奴隷の教えです。
15歳にして勉学に励み、30歳にして独立する。
ここまでは人々が受け入れやすい、ごく普通のことです。
当時の平均寿命からすると、子どもが30歳になる頃に親は大体死んでいますから、それまでに勉学して独立せよ、というわけです。
ところがその次の、「四十にして惑わず」から隠れた本領が姿を現します。
「惑わない」というのは、いろいろな可能性を考えて他に気をとられることなく、一つの価値感で迷わずに生きるということです。
つまり惑わずに奴隷の道を歩め、ということです。
そして「五十にして天命を知る」において、さらに奴隷のボルテージが上がります。
当時の「天」とは、間接的に皇帝を指しています。
もちろん「天」には神のような直接的な意味もありますが、儒教の本質は、この世の神が皇帝であるというものです。
それは戦前の神ならぬ天皇陛下のような位置づけです。
つまり「天命を知る」とは、皇帝の命令を自ら進んで理解して行動するということです。
きわめつきは、「七十にして心の欲するままに従って、矩を踰えず」でしょう。
その意味はそうやって、70歳になると思うままに振舞っても道を外れないようになった、というわけです。
つまり奴隷の人生を70年間続ければ、何をやっても奴隷の枠から外れることはなくなる、ということです。
これは大変な話です。この教えによって出来上がった聡明で勤勉で、かつ命令を聞く人間が、どれほど権力者にとって都合のいいものであったか、私たちはそこに注意を向ける必要があります。
その証拠に儒教国ではいまなお、親よりもいい会社に入ってはいけないし、親が死ぬまで親よりもいい暮らしをしてはいけないという考えが根強く残っています。
日本では明治維新後に西欧の民主主義が輸入されたために、今の日本人はそういう考えをあまり持ってはいませんが、江戸時代の日本人にとっては、それを守るのが真っ当な生き方であったのです。
蛇足ですが、日本では神道は明治維新とともに作り出されました。
神道とは、明治政府が作った人工宗教であり、西欧では宗教とは認められないような代物(しろもの)です。
おそらく明治政府は政治を行なう上で、天皇の扱いをどうするか困ったものと思われます。
維新の功績が天皇にあることは、薩摩や長州もよくよくわかっていました。
なぜなら倒幕のための最大の武器が「錦の御旗(にしきのみはた)」であったからです。
そこで明治政府は天皇を神格化することを画策しました。
そして、それまで埃をかぶっていた原始宗教を拾い上げ、きれいに塵を払い、「これが日本古来の宗教だ」と掲げたのです。
しかし太古の神道には、教義も経典もありません。
そこでキリスト教を手本に、儒教の教えをベースにして形を整えました。
それでも神道は、神風特攻を遂行させることができるほどには成功したのです。
つまり大日本帝国の政府は、神道をうまく利用したのでした。
天皇家が時の政府による神格化の動きを、どのように受け止めていたのか、そこは定かではありません。
宗教は政治に利用されることをバネにして、勢力を拡大してきました。
権力者にとっては宗教は、実に使い出のある道具でした。それは人々を統治することはもちろん、政敵さえ失脚させることも簡単だからです。
「神の教えに背いている」と指弾することは、どんな嫌がらせよりも有効であったからです。
また領土的野心を満たそうとするときも、それは大いに役立ちました。
たとえばローマ帝国は、ゲルマン人との度重なる戦いに教会の司祭たちを伴い、占領地の住民にキリスト教を布教させたといわれています。
話をもう一度キリスト教に戻します。
今私たちがキリスト教と考えている宗教には、2つの大きな流れがあり、一つはカトリックで、すでに述べたようにローマ帝国が国教化したキリスト教であり、ローマ法王を頂点とするものです。
もう一つは、ご存知のようにプロテスタントです。そして実はプロテスタントにも、コンスタンティヌス大帝とは別の開祖がいるのです。
宗教を論じる際に、私がときどき紹介するエピソードの一つに、「ラリー・キング・ライブ」の話があります。
これは米国のCNNの看板トーク番組で、ラリー・キングが司会を務めており、アメリカ人の考え方や情勢を非常によく伝える格好のソースでした。
しかし残念ながら、2010年末に終了してしまいました。
それは9・11の出来事が起こり、その影響でイラク戦争が始まった頃で、このトーク番組で戦争の是非をめぐる討論が行なわれたときのことです。
出演者はユダヤ教の指導者のラビ、イスラムの宗教指導者、カトリックの神父、プロテスタントの牧師、そしてインド人のニュー・エイジ系指導者の5人でした。
そのとき、視聴者から電話で、「なぜ戦争では人を殺してもいいのですか」という質問が寄せられました。
すると、ユダヤ教のラビが「マーダー(murder)とキル(kill)は違う」と答えたのです。
つまり、戦争で行なう殺人はキルであって、それは許されるという意味です。
「ちょっと待て!」、と私は思わず突っ込みを入れたくなりましたが、番組に同席した他の宗教指導者たちは誰も反論しません。むしろ当たり前だと言わんばかりに平然としているのです。
それは実に不思議な光景でした。
この発言の裏には、宗教的な倫理があります。
つまり、神は「汝、人を殺すなかれ」とマーダー(murder)を禁じています。
人間が人間を殺すのが「マーダー」で、これは絶対に許されないはずです。
ただ旧約聖書の神は創世記の「ノアの箱舟」の話で、「悪を行なう人間」には大量殺戮を行なう神なのです。
しかし「正しい人」ノアは救われ、その子孫は「正しいこと」を続ける限り絶滅させられないとする契約を、神と締結しました。
そしてそこから、(神がそうであるから)、キルが許されないと言っているわけではない、という理屈が成り立つのです。
そこから導き出される論理は、
神との契約を守らない人間は、人類のために滅ぼされなければならないというものです。
ゆえに、人類のためにキルは許される、という結論にたどり着くのです。
ここで私が問題にしたいのは、彼らのおかしな論理のことではありません。
「マーダー」は許されないが、「キル」はその限りではないという彼らの解釈をたとえ百歩譲ってよしとしても、いったいその聖書は誰が書いた聖書なのか、という点です。
わかっていることですが、イエス・キリストもパウロも、アタナシウスも、そしてコンスタンティヌス大帝も、「マーダー」と「キル」の使い分けなど一切してはいないのです。
英語の聖書というのは、通常イギリス国教会の聖書で、KJV聖書といわれます。
プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、実はカトリックの聖書も英語の聖書のKJV聖書をベースにしています。
このKJVとは、King James Version の略で、キング・ジェームズ1世の名前が使われています。
もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。
カトリック教会が正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれたものだけですが、それと同じ意味において多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書だけなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが決定的に重要なポイントになります。
プロテスタントの英語聖書を作ったのは、スコットランド・アイルランド・イングランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュアート)です。
彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から『欽定(きんてい)訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。
実は『欽定訳聖書』が誕生する14年ほど前、ジェームズ1世は『デモノロジー』(悪魔学)という書物を著わしています。
この本は、先に紹介した『魔女に与える鉄槌』の流れを汲み、イギリスにおける魔女狩りの指南書としての役割を果たしました。
つまり、イギリスの魔女狩りを主導した王が、現代に受け継がれるイギリス国教会の聖書、KJV聖書ををつくったのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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聖書をしのぐ大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』 2
zeraniumのブログ より転載
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キリスト教の開祖はコンスタンティヌス大帝 A
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83605331
やや脇道にそれますが、宗教はいつの時代においても、政治と権力に都合のいい教義を作り上げるものです。
彼らは権力者の権力強化に自分たちが役立つからこそ勢力を拡大し、成功することを知っているのです。
権力者の役に立たなければ、イエス・キリストがそうであったように一撃で潰されて終わりです。
東洋で力を持つ宗教は仏教であると考える人がいるかもしれませんが、それは誤った理解です。
実際には、仏教徒は今のインドにはほとんどいません。
日本にはいますが、その数はせいぜい1億人くらいのものです。
ほかにスリランカとミャンマー、ネパールの一部、ブータン、そしてチベットを合わせても、仏教徒の数はせいぜい数千万人でしょう。
そうすると世界65億人中、仏教徒は2億人もいない計算です。
それに対し、儒教はどのくらいいるかというと、中国と韓国の人口を合わせるだけですでに15億人くらいいます。
中国共産党が支配する中国に宗教はないと思うかもしれませんが、それは見える形での宗教がないだけの話です。
古代中国で生まれ、後漢の時代に国教化された儒教は、現代の中国人の心にも非常に深く刻まれているのです。
さらに歴史的に中国の影響が強かった東南アジアの国々や、その影響下にあった日本のことを考えると、儒教の信徒と言えるような人間は、少なく見積もっても16億人は固いのではないでしょうか。
儒教がそこまで勢力を拡大することができたのも、それが権力者の権力強化に大いに役立つ宗教であったからです。
天皇家は、江戸時代まで仏教を信仰していました。
そして明治維新後は、諸外国にはキリスト教に改宗したかのように振舞っています。
明治からこのかた、天皇家では男子にはプロテスタントの家庭教師が付き、女子はカトリックの勉強をしています。
そして実際にカトリックの学校出身者が天皇家に嫁いでいます。
そうしないと、欧米列強の王室と対等に付き合えないという事情があったのでしょう。
天皇を神だと思っていた当時の日本人には理解できない事実ですが、宗教が勢力を持つ陰には必ず、権力者の意図が働いているのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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キリスト教の開祖はコンスタンティヌス大帝 A
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やや脇道にそれますが、宗教はいつの時代においても、政治と権力に都合のいい教義を作り上げるものです。
彼らは権力者の権力強化に自分たちが役立つからこそ勢力を拡大し、成功することを知っているのです。
権力者の役に立たなければ、イエス・キリストがそうであったように一撃で潰されて終わりです。
東洋で力を持つ宗教は仏教であると考える人がいるかもしれませんが、それは誤った理解です。
実際には、仏教徒は今のインドにはほとんどいません。
日本にはいますが、その数はせいぜい1億人くらいのものです。
ほかにスリランカとミャンマー、ネパールの一部、ブータン、そしてチベットを合わせても、仏教徒の数はせいぜい数千万人でしょう。
そうすると世界65億人中、仏教徒は2億人もいない計算です。
それに対し、儒教はどのくらいいるかというと、中国と韓国の人口を合わせるだけですでに15億人くらいいます。
中国共産党が支配する中国に宗教はないと思うかもしれませんが、それは見える形での宗教がないだけの話です。
古代中国で生まれ、後漢の時代に国教化された儒教は、現代の中国人の心にも非常に深く刻まれているのです。
さらに歴史的に中国の影響が強かった東南アジアの国々や、その影響下にあった日本のことを考えると、儒教の信徒と言えるような人間は、少なく見積もっても16億人は固いのではないでしょうか。
儒教がそこまで勢力を拡大することができたのも、それが権力者の権力強化に大いに役立つ宗教であったからです。
天皇家は、江戸時代まで仏教を信仰していました。
そして明治維新後は、諸外国にはキリスト教に改宗したかのように振舞っています。
明治からこのかた、天皇家では男子にはプロテスタントの家庭教師が付き、女子はカトリックの勉強をしています。
そして実際にカトリックの学校出身者が天皇家に嫁いでいます。
そうしないと、欧米列強の王室と対等に付き合えないという事情があったのでしょう。
天皇を神だと思っていた当時の日本人には理解できない事実ですが、宗教が勢力を持つ陰には必ず、権力者の意図が働いているのです。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
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聖書をしのぐ大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』
zeraniumのブログ より転載
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キリスト教の開祖はコンスタンティヌス大帝 A
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83605331
聖書をしのぐ大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』
15世紀から17世紀という二百数十年の間に魔女裁判で処刑された人は、数百万人とも推計されています。
戦争に明け暮れたヨーロッパでは裁判記録は消失しており、残っているのはごくわずかのものです。
そのために実際にどれほどの人が処刑されたのか、正確なことは誰にもわかりません。
断片的な記録から、中世ヨーロッパの世界で魔女狩りが大変な猛威を振るったことがわかっているのですが、興味深いことに、その流行はある時期を境に急速に終息しています。
何かきっかけが存在するはずなのですが、探してもこれといった出来事は見つかりません。
たとえれば昨日まで重病に苦しんでいた人が、朝目を覚ますとケロッとして起き上がってきたという感じで、これは実に不思議なことだといわなくてはなりません。
ほとんど指摘されてはいないことですが、私の考えでは、魔女狩りの流行はヨハネス・グーテンベルクによる印刷機の発明ときわめて深く関係しています。
1445年にグーテンベルクは、葡萄の圧搾機にヒントを得て活版印刷術を発明しました。
これが、私たちが世界三大発明と呼ぶほどの強烈なインパクトを、その後の社会にもたらすことになります。
それから10年後に、彼は後にグーテンベルク聖書と呼ばれる『ウルガタ』(ラテン語訳聖書)を底本とした印刷聖書を世界で初めて作りました。
グーテンベルク聖書の初版部数は現代の感覚では「わずか」ともいえるほどで、ほんの180部に過ぎませんでした。
その値段を知るすべはありませんが、おそらく現代に置き換えれば、聖書1冊でフェラーリが1台買えるほど高価なものであったと思われます。
しかしその陰に、聖書を遥かにしのぐ大ベストセラーが存在したことはほとんど知られていません。
それが、1487年にドイツで出版された『魔女に与える鉄槌(てっつい)』という書物です。
この本は異端審問官であったドミニコ会修道士ハインリッヒ・クラマーとケルン大学神学部長であったヤーコプ・シュプレンガーによって書かれたもので、いわば魔女狩りのための初めてのマニュアル本です。
1487年から1520年の間に13版の増刷がされ、1547年から1669年までの間にさらに33版が増刷されています。
一節には3万部程度刷られたといわれていますが、当時としては驚異的な部数です。
しかし伝えられている版数はあくまで公式の記録にすぎず、出版の本質がコピー文化であることを考えると、そのほかにたくさんの海賊版が作られていたのは確かです。
いずれにしても『魔女に与える鉄槌』が、当時としては驚異的な版数を重ねたことは、何よりもその需要の大きさを物語るものです。
この本は、想像以上に速いスピードで、全ヨーロッパに広がったと思われます。
その理由はこの書物が、いわば「裏モノ」というべき性格を持っていたからです。いつの時代においても「裏モノ」の伝播と増殖のスピードは「表モノ」よりも圧倒的に速いものです。
この書物は魔女狩りのマニュアルという以上に、人々の心を捉える何かを内包していました。
そして、中世の暗黒時代を象徴する魔女狩りは、『魔女に与える鉄槌』というこの上ないエンジンを手に入れたかのように、ヨーロッパの隅々にまで広がっていったのです。
この書物の記述は微に入り細に入り、神学的な出典がこれでもかと示されています。
そのために努力を傾注した著者たちの、息遣いさえ聞こえてきそうなほどです。
しかしもちろん、これを魔女狩りの推進エンジンとして始動させるためには、それ相当の仕掛けが必要であったのも確かです。
『魔女に与える鉄槌』が魔女狩りのエンジンになった理由を述べるためには、まずキリスト教とは何かという点を明らかにしていかなければなりません。
最初にひと言だけ述べておくと、その理由は「それが印刷された言葉」だからです。
私たちはどういうわけか、書かれているものや、印刷されたものに深い意味を見出そうとする生き物であり、それに非常に囚われてしまうものです。
実はキリスト教の成り立ちにはこの点が大きく関係しています。
(略)キリスト教の本当の開祖は、歴史的に見れば、それがコンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世)であることは一目瞭然です。
特筆すべきことは、325年に行なわれた第1回ニケア公会議です。
ローマカトリック教会には、公会議という最高会議があり、全世界の教会の司教が出席し、教義や典礼、教会法などについて審議、決定を行なう最高意思決定機関です。
この教会史上初の第1回ニケア公会議を開催し主導したのが、コンスタンティヌス大帝でした。
当時キリスト教は、キリスト論や三位一体論の解釈をめぐり対立していました。
なかでも信徒からなるアリウス派は三位一体を否定し、唯一神を主張したので、三位一体を唱えるアタナシウス派と激しく対立しました。
一方、コンスタンティヌス大帝はローマ帝国の再統一を果たす野望を抱いており、そのためにキリスト教という宗教の力を利用するつもりだったので、アリウス派を排除する側につき、結局アリウス派はアタナシウス派に破れて異端とされてしまったのです。
コンスタンティヌス大帝はその勢いで、正典の編纂に取り掛かりました。
現在伝えられる『新約聖書27編』は、アリウス派を異端として退けたアタナシウスその人が選んだものです。
もちろんその選択にコンスタンティヌス大帝の意思が大いに関わったのは確実です。
なぜなら為政者が自らの権力統治に、都合の悪い内容を国教と認めるはずがないからです。
またキリスト教の開祖はパウロだという根拠も、イエスと1度も会っていないパウロによってイエス像が描かれており、イエスが話していたアラム語ではなく、ヘブライ語やギリシャ語で最近書かれた書簡の多くが新約聖書に選択され、教義の中心とされていることにあります。
ただしこのパウロ書簡を採択させた張本人は、コンスタンティヌス大帝です。
しかしながらトマスの福音書やユダの福音書、マグダラのマリアの福音書など、支配統治に都合の悪そうな福音書はしっかり退けられています。
英語の「Virgin」に置き換えられたもともとのヘブライ語は「若い女性」という意味であり、イエスの処女懐胎が教義とされたのは、325年ニケア公会議においてです。
もともとはヘブライ語で”almah”という単語が使われており、これは結婚適齢期の女性、もしくは新婚の女性を表す一般名詞です。
これがギリシア語に訳される過程で、若い女性と処女の両方を意味する”παρѲνο(parthenos)”と訳されました。
つまりニケア公会議ではヘブライ語の元の言葉を無視して、ギリシア語の派生的意味合いの「処女」をわざわざ選んだのです。
思うに、2000年前の世界ではどの地域においても、性習俗は緩(ゆる)いものであったと考えられます。
現代のように、国家が家族を統治の単位と考えて規制していたわけではなく、女性が男性の経済力を頼って生きる時代でもなかったのです。
したがってキリストが処女から生まれなければならない特別な理由もはじめからなかったのです。
それをわざわざ「処女」と訳したのは、キリストの死後300年の時が経ってからであり、そうでなければならない理由が別に生じたからと考えられます。
正典に加えられず、焚書(ふんしょ・焼却された文書)はいったいどのくらいの量に上ったことでしょうか。
たとえば20世紀に発見された死海文書は、およそ850巻にのぼっており、洞窟の中から膨大な文書が見つかったことで世界中が驚いたのですが、それでも当時、焚書された量に比べれば、ほんのわずかにすぎないと考えられています。
それは死海文書の100倍という規模で、焚書が行なわれたとしても驚くにはあたらないのです。
こうした文書が『新約聖書』27編に集約されたわけです。
キリスト教はこのときに整理され、はじめて現在に伝わるキリスト教の姿になりました。
そしてアタナシウスが選んだとされる27編は、397年の第3回カルタゴ公会議において、『新約聖書正典』として認められました。
以後、ローマカトリック教会はこの正典を一字一句いじらずに、現代に伝えているわけです。
そうだとすればキリスト教の開祖は、イエス・キリストでもなく、パウロでもなく、コンスタンティヌス大帝である、としなくてはなりません。
コンスタンティヌス大帝が主導し、その意向を働かせて27編を選ばせたという歴史的事実を見れば、キリスト教の開祖は彼しかいないのです。
また、もともとわからなかったイエスの生誕日を12月25日としたのも、当時ローマ帝国でキリスト教より流行していた、ミトラ教の教祖の生誕日が12月25日であったのを取り入れたものであり、聖母伝説を取り入れたりすることで、ミトラ教徒の取り込みまで行なわれていました。
ミトラという言葉は、サンスクリット語のマイトレーヤ(弥勒菩薩)と同語源です。
キリスト教が大乗仏教と似ていると言われるのは、時代的にもミトラ教を取り込んだためかもしれません。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
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キリスト教の開祖はコンスタンティヌス大帝 A
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聖書をしのぐ大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』
15世紀から17世紀という二百数十年の間に魔女裁判で処刑された人は、数百万人とも推計されています。
戦争に明け暮れたヨーロッパでは裁判記録は消失しており、残っているのはごくわずかのものです。
そのために実際にどれほどの人が処刑されたのか、正確なことは誰にもわかりません。
断片的な記録から、中世ヨーロッパの世界で魔女狩りが大変な猛威を振るったことがわかっているのですが、興味深いことに、その流行はある時期を境に急速に終息しています。
何かきっかけが存在するはずなのですが、探してもこれといった出来事は見つかりません。
たとえれば昨日まで重病に苦しんでいた人が、朝目を覚ますとケロッとして起き上がってきたという感じで、これは実に不思議なことだといわなくてはなりません。
ほとんど指摘されてはいないことですが、私の考えでは、魔女狩りの流行はヨハネス・グーテンベルクによる印刷機の発明ときわめて深く関係しています。
1445年にグーテンベルクは、葡萄の圧搾機にヒントを得て活版印刷術を発明しました。
これが、私たちが世界三大発明と呼ぶほどの強烈なインパクトを、その後の社会にもたらすことになります。
それから10年後に、彼は後にグーテンベルク聖書と呼ばれる『ウルガタ』(ラテン語訳聖書)を底本とした印刷聖書を世界で初めて作りました。
グーテンベルク聖書の初版部数は現代の感覚では「わずか」ともいえるほどで、ほんの180部に過ぎませんでした。
その値段を知るすべはありませんが、おそらく現代に置き換えれば、聖書1冊でフェラーリが1台買えるほど高価なものであったと思われます。
しかしその陰に、聖書を遥かにしのぐ大ベストセラーが存在したことはほとんど知られていません。
それが、1487年にドイツで出版された『魔女に与える鉄槌(てっつい)』という書物です。
この本は異端審問官であったドミニコ会修道士ハインリッヒ・クラマーとケルン大学神学部長であったヤーコプ・シュプレンガーによって書かれたもので、いわば魔女狩りのための初めてのマニュアル本です。
1487年から1520年の間に13版の増刷がされ、1547年から1669年までの間にさらに33版が増刷されています。
一節には3万部程度刷られたといわれていますが、当時としては驚異的な部数です。
しかし伝えられている版数はあくまで公式の記録にすぎず、出版の本質がコピー文化であることを考えると、そのほかにたくさんの海賊版が作られていたのは確かです。
いずれにしても『魔女に与える鉄槌』が、当時としては驚異的な版数を重ねたことは、何よりもその需要の大きさを物語るものです。
この本は、想像以上に速いスピードで、全ヨーロッパに広がったと思われます。
その理由はこの書物が、いわば「裏モノ」というべき性格を持っていたからです。いつの時代においても「裏モノ」の伝播と増殖のスピードは「表モノ」よりも圧倒的に速いものです。
この書物は魔女狩りのマニュアルという以上に、人々の心を捉える何かを内包していました。
そして、中世の暗黒時代を象徴する魔女狩りは、『魔女に与える鉄槌』というこの上ないエンジンを手に入れたかのように、ヨーロッパの隅々にまで広がっていったのです。
この書物の記述は微に入り細に入り、神学的な出典がこれでもかと示されています。
そのために努力を傾注した著者たちの、息遣いさえ聞こえてきそうなほどです。
しかしもちろん、これを魔女狩りの推進エンジンとして始動させるためには、それ相当の仕掛けが必要であったのも確かです。
『魔女に与える鉄槌』が魔女狩りのエンジンになった理由を述べるためには、まずキリスト教とは何かという点を明らかにしていかなければなりません。
最初にひと言だけ述べておくと、その理由は「それが印刷された言葉」だからです。
私たちはどういうわけか、書かれているものや、印刷されたものに深い意味を見出そうとする生き物であり、それに非常に囚われてしまうものです。
実はキリスト教の成り立ちにはこの点が大きく関係しています。
(略)キリスト教の本当の開祖は、歴史的に見れば、それがコンスタンティヌス大帝(コンスタンティヌス1世)であることは一目瞭然です。
特筆すべきことは、325年に行なわれた第1回ニケア公会議です。
ローマカトリック教会には、公会議という最高会議があり、全世界の教会の司教が出席し、教義や典礼、教会法などについて審議、決定を行なう最高意思決定機関です。
この教会史上初の第1回ニケア公会議を開催し主導したのが、コンスタンティヌス大帝でした。
当時キリスト教は、キリスト論や三位一体論の解釈をめぐり対立していました。
なかでも信徒からなるアリウス派は三位一体を否定し、唯一神を主張したので、三位一体を唱えるアタナシウス派と激しく対立しました。
一方、コンスタンティヌス大帝はローマ帝国の再統一を果たす野望を抱いており、そのためにキリスト教という宗教の力を利用するつもりだったので、アリウス派を排除する側につき、結局アリウス派はアタナシウス派に破れて異端とされてしまったのです。
コンスタンティヌス大帝はその勢いで、正典の編纂に取り掛かりました。
現在伝えられる『新約聖書27編』は、アリウス派を異端として退けたアタナシウスその人が選んだものです。
もちろんその選択にコンスタンティヌス大帝の意思が大いに関わったのは確実です。
なぜなら為政者が自らの権力統治に、都合の悪い内容を国教と認めるはずがないからです。
またキリスト教の開祖はパウロだという根拠も、イエスと1度も会っていないパウロによってイエス像が描かれており、イエスが話していたアラム語ではなく、ヘブライ語やギリシャ語で最近書かれた書簡の多くが新約聖書に選択され、教義の中心とされていることにあります。
ただしこのパウロ書簡を採択させた張本人は、コンスタンティヌス大帝です。
しかしながらトマスの福音書やユダの福音書、マグダラのマリアの福音書など、支配統治に都合の悪そうな福音書はしっかり退けられています。
英語の「Virgin」に置き換えられたもともとのヘブライ語は「若い女性」という意味であり、イエスの処女懐胎が教義とされたのは、325年ニケア公会議においてです。
もともとはヘブライ語で”almah”という単語が使われており、これは結婚適齢期の女性、もしくは新婚の女性を表す一般名詞です。
これがギリシア語に訳される過程で、若い女性と処女の両方を意味する”παρѲνο(parthenos)”と訳されました。
つまりニケア公会議ではヘブライ語の元の言葉を無視して、ギリシア語の派生的意味合いの「処女」をわざわざ選んだのです。
思うに、2000年前の世界ではどの地域においても、性習俗は緩(ゆる)いものであったと考えられます。
現代のように、国家が家族を統治の単位と考えて規制していたわけではなく、女性が男性の経済力を頼って生きる時代でもなかったのです。
したがってキリストが処女から生まれなければならない特別な理由もはじめからなかったのです。
それをわざわざ「処女」と訳したのは、キリストの死後300年の時が経ってからであり、そうでなければならない理由が別に生じたからと考えられます。
正典に加えられず、焚書(ふんしょ・焼却された文書)はいったいどのくらいの量に上ったことでしょうか。
たとえば20世紀に発見された死海文書は、およそ850巻にのぼっており、洞窟の中から膨大な文書が見つかったことで世界中が驚いたのですが、それでも当時、焚書された量に比べれば、ほんのわずかにすぎないと考えられています。
それは死海文書の100倍という規模で、焚書が行なわれたとしても驚くにはあたらないのです。
こうした文書が『新約聖書』27編に集約されたわけです。
キリスト教はこのときに整理され、はじめて現在に伝わるキリスト教の姿になりました。
そしてアタナシウスが選んだとされる27編は、397年の第3回カルタゴ公会議において、『新約聖書正典』として認められました。
以後、ローマカトリック教会はこの正典を一字一句いじらずに、現代に伝えているわけです。
そうだとすればキリスト教の開祖は、イエス・キリストでもなく、パウロでもなく、コンスタンティヌス大帝である、としなくてはなりません。
コンスタンティヌス大帝が主導し、その意向を働かせて27編を選ばせたという歴史的事実を見れば、キリスト教の開祖は彼しかいないのです。
また、もともとわからなかったイエスの生誕日を12月25日としたのも、当時ローマ帝国でキリスト教より流行していた、ミトラ教の教祖の生誕日が12月25日であったのを取り入れたものであり、聖母伝説を取り入れたりすることで、ミトラ教徒の取り込みまで行なわれていました。
ミトラという言葉は、サンスクリット語のマイトレーヤ(弥勒菩薩)と同語源です。
キリスト教が大乗仏教と似ていると言われるのは、時代的にもミトラ教を取り込んだためかもしれません。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
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中世の「魔女狩り」は教会が邪魔者を消すことだった
zeraniumのブログ より転載
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中世の「魔女狩り」は教会が邪魔者を消すことだった
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83591250
あなたは、15世紀の大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』(Malleus Maleficarum)を知っていますか?
これは、1486年にドミニコ会士で異端審問間であったハインリヒ・クラマーとヤーコブ・シュプレンガーによって書かれた「魔女狩り」に関する論文です。
それは魔女発見の手順と、その審問と拷問についてこと細かに記されており、中世において大きな影響を与えたことで知られています。
「魔女狩り」は、中性末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた魔女や魔術行為に対する追求のことで、魔女と認定された膨大な数の人々が処刑されました。
犠牲者数については諸説ありますが、900万人とも言われています。
本書では、なぜこのような残酷なことが行なわれたのか?
なぜ「魔女狩り」についての書物が大ベストセラーになったのか? なぜ現代において「魔女狩り」が甦ったのか? を解明していきます。
私は脳機能科学者です。
つまり脳のことを研究している脳の専門家です。
「脳がどうやって世界を認知し、人の行動や思考を支配しているか」を研究し続けています。
そこでわかったことは、「脳は見たいものしか見ない」ということでした。
では脳が見たいものとは何でしょうか? それは「過去の自分にとって価値のあるもの」です。
それはたとえば私が「ドリームキラー」と呼ぶ、親や教師や友人などからの情報によって植え付けられる価値のことです。
さらにはテレビ、新聞、インターネット、ソーシャルメディアから与えられた価値のことです。
これは非常に恐ろしいことです。
もしも、ある一部の権力者によってメディアがコントロールされてしまえば、あなたは「他人によって作られた人生」を生きることになります。
つまりあなたが見ているものは「過去の自分にとって価値のあるもの」だけであり、それは「他人によって作られた世界」なのです。
あなたの生きている世界はすべて「他人によって作られた世界」で、あなたが見ているもの、あなたの行動、あなたの思考は他人によって作られている可能性が高いのです。
よくITの発明は当時の印刷術の発明と比較され、ITが新しい「知」の世界を切り開くと礼賛されるのを聞きます。
確かにその通りではあるのですが、それを手放しで受け入れるだけでは罠にはまる危険性が高いと考える私は、警鐘を鳴らしてきました。
私がそう考える理由は、ヨーロッパ中世は魔女狩りに象徴される暗黒時代であり、中性の人々をその暗闇へ誘った力として、グーテンベルクの印刷術の発明が大きかったと考えるからです。
グーテンベルクの発明によってもたらされた印刷書物は、時の権力者によって極めて強力な洗脳の道具として利用されました。その特筆すべき1冊が、『魔女に与える鉄槌』という書物です。
一般的に、中世のベストセラーは印刷術によって爆発的に普及した「聖書」であるとされています。
ところがさまざまな文献を調べていくと、どうもそうではなかったことがわかってきました。
その一つは、ローマカトリック教会が聖書の普及を好ましく思っていなかったことです。
カトリック教会は、祈りの場を唯一教会にのみ定め、聖書の解釈は唯一教会が行なうものと決めていたからです。
聖書の普及が宗教改革運動を拡大させたことを考えると、教会は、聖書が複製によって大衆化していくことを嫌っていたのは当然です。
15世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパは異端審問と魔女狩りに明け暮れた時代でした。
それに伴って「魔女論」という魔女について書かれた書物が相次いで出版されました。
「魔女」という一つのテーマだけでこれだけ多くの書物が書かれた事実は、それだけ大きな社会的関心がそのテーマにあったことを示しています。
「魔女論」の一群の中でも、もっともよく売れたとされていたのが『魔女の鉄槌』です。
しかも短期間のうちに多くの版が重ねられた事実から見て、私はヨーロッパ中世のベストセラーは聖書ではなく、『魔女の鉄槌』であったという結論を得ました。
私はこの書物の英語訳現代版とラテン語のオリジナル版の両方を手に入れ、目を通したところ、案の定、そこには魔女狩りを流行させた「企み」が潜んでいたのです。
ところでグーテンベルクの印刷術で製本されるまでは、聖書は写本で作られていました。
しかし現代人は写本と聞くと、写し間違いや改竄を考えるせいか、それにあまり信頼を寄せる気になりません。
ところがそれが印刷された活字になると、どういうわけか間違いないものと感じ、内容にも信頼を置くようになります。不思議なことですが、どういうわけかそう受け止めるのです。
しかしこれは明らかに錯覚です。
そのために、聖書に書かれている情報が批判的に検証されることはまったくありません。
宗教だから当たり前といえば当たり前です。歴史的考察がされることはあっても、聖書が編纂されておよそ1700年の間、信徒にとって問題なのはその解釈であって、書かれたことが正しいかどうかは論外で検証の対象にすらなりません。
この事実は、現代人が抱いている印刷出版文化への無批判な信頼感に対して、一つの示唆を与えています。
それは私たち現代人が、活字化された情報によって翻弄され惑わされる危険というリスクを、常に持っていることを意味します。
それは「誰かがその情報をあなたに信じ込ませたいために用意した偽書であるかもしれない」、ということです。それはテレビやラジオも同様です。
ヨーロッパ中世で起こった魔女狩りは、20世紀半ばころから著名な学者たちによって研究され、その成果はいくつもの書物に著わされてきました。
そして魔女とは何だったのかということや、教会権力と社会との関係を明らかにしようとするものなどでした。
研究者たちを捉えたのは、15世紀から17世紀という長期間にわたって、なぜこれほど大規模に流行することになったのかという謎でした。
人間社会は歴史的にも心理学的にも、しばしば大虐殺や集団リンチを行なう傾向が見られます。
しかしそれがヨーロッパ全域というきわめて広い地域で、かつ二百数十年という長期にわたり猛威を振るい続けた事実は、いまだに解きがたい謎であり続けています。
私が本書を著わす目的は、この謎を解き明かすことではなく、私の問題意識である、現代において魔女狩りが再び猛威を振るい始めていることにあります。
現代の魔女狩りを端的に表現すれば、「都合の悪い者は消せ」というものです。
それらはたとえばテレビなどでマスコミが行なう、御用学者や御用評論家による考え方の誘導や、風評被害を口実にしたネット言論規制、掲示板荒らしを専門にする雇われ工作員の存在などで、特定の人物を容赦なく追い落とす行為の数々は、これまでにもさんざん行なわれており、決して珍しいものではありません。
ところがこの21世紀に始まる新しい魔女狩りでは、誰かが追い落とされて社会的に抹殺され、あるいは殺されたとしても、おそらくその痕跡すら残りません。
それだけでなく裏で暗躍する存在と彼らの目的も、私たちの目に映らなくなるのです。
なぜ見えないかといえば、水面下に隠れたアンダーグラウンドメディアが目的達成の手段として使用されるからです。
今権力者は、大衆洗脳の道具を求めるという強烈なニーズを持っています。
私は近々、その道具の代表にツイッターがなる、と考えています。わずか数行の「つぶやき」が人間を変えるということを、彼らは発見したからです。
そしてグーグルの検索エンジンが思想調査に使用され、フェイスブックが中東の民主化を促し、さらにツイッターではつぶやきを自然言語処理することによって、それが国家の政策立案に使えるという研究成果が出されました。
このことはつまり、これらをすべて反対の目的に作用させる使い方ができるということです。
私が見る限り、その兆候は、すでにあちこちで顕在化しています。たとえば最近では、
「放射能を心配しすぎるのはバカ」
「20ミリシーベルトと国が決めたのだから、国民はそれに従う義務がある」
「東日本大震災は神の仕業」
いずれもブログやツイッターで繰り返し取り上げられている言葉です。
批判も検証もなされることなく、無意識のうちにこうした言葉が何度も何度も、私たちの中に刷り込まれています。
しかしそれをアホらしいと感じればいいのですが、そうは感じない人間が増えているのです。
これは、21世紀に新しい魔女狩りが流行する、非常に大きなシグナルであるといえます。
私がなぜそれを魔女狩りと位置づけるのか、中世との類似性はどこにあり、拡大を推進するメカニズムは何か、なぜアンダーグラウンドメディアがそれほど強い影響力を持つのかについて明らかにすることは、同時に、中世の魔女狩りが広範囲かつ長期にわたって流行した謎に、一つの答えを与えることにもなるでしょう。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
*******************************************************************************
現代の「魔女狩り」、植草事件、鈴木ムネオ事件、小沢事件、などデッチ上げで社会的リンチを受けている。
中世の印刷技術による人々の洗脳...今は、マスコミによる大衆への執拗な洗脳。
中世でも人々はおかしいと少しは思いながらも権威には逆らえなかった。
無抵抗な人々は生贄にされていった。
今も無名な人々は「自殺」ということで闇に葬られているのだろう。
不審死が毎年10万人、自殺の9割は他殺と言われている。
現代も魔女狩りは続いている。( ̄^ ̄)
「成功の9ステップ」で有名なジェームス・スキナー
*******************************************************************************
中世の「魔女狩り」は教会が邪魔者を消すことだった
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83591250
あなたは、15世紀の大ベストセラー『魔女に与える鉄槌』(Malleus Maleficarum)を知っていますか?
これは、1486年にドミニコ会士で異端審問間であったハインリヒ・クラマーとヤーコブ・シュプレンガーによって書かれた「魔女狩り」に関する論文です。
それは魔女発見の手順と、その審問と拷問についてこと細かに記されており、中世において大きな影響を与えたことで知られています。
「魔女狩り」は、中性末期から近代にかけてのヨーロッパや北アメリカにおいてみられた魔女や魔術行為に対する追求のことで、魔女と認定された膨大な数の人々が処刑されました。
犠牲者数については諸説ありますが、900万人とも言われています。
本書では、なぜこのような残酷なことが行なわれたのか?
なぜ「魔女狩り」についての書物が大ベストセラーになったのか? なぜ現代において「魔女狩り」が甦ったのか? を解明していきます。
私は脳機能科学者です。
つまり脳のことを研究している脳の専門家です。
「脳がどうやって世界を認知し、人の行動や思考を支配しているか」を研究し続けています。
そこでわかったことは、「脳は見たいものしか見ない」ということでした。
では脳が見たいものとは何でしょうか? それは「過去の自分にとって価値のあるもの」です。
それはたとえば私が「ドリームキラー」と呼ぶ、親や教師や友人などからの情報によって植え付けられる価値のことです。
さらにはテレビ、新聞、インターネット、ソーシャルメディアから与えられた価値のことです。
これは非常に恐ろしいことです。
もしも、ある一部の権力者によってメディアがコントロールされてしまえば、あなたは「他人によって作られた人生」を生きることになります。
つまりあなたが見ているものは「過去の自分にとって価値のあるもの」だけであり、それは「他人によって作られた世界」なのです。
あなたの生きている世界はすべて「他人によって作られた世界」で、あなたが見ているもの、あなたの行動、あなたの思考は他人によって作られている可能性が高いのです。
よくITの発明は当時の印刷術の発明と比較され、ITが新しい「知」の世界を切り開くと礼賛されるのを聞きます。
確かにその通りではあるのですが、それを手放しで受け入れるだけでは罠にはまる危険性が高いと考える私は、警鐘を鳴らしてきました。
私がそう考える理由は、ヨーロッパ中世は魔女狩りに象徴される暗黒時代であり、中性の人々をその暗闇へ誘った力として、グーテンベルクの印刷術の発明が大きかったと考えるからです。
グーテンベルクの発明によってもたらされた印刷書物は、時の権力者によって極めて強力な洗脳の道具として利用されました。その特筆すべき1冊が、『魔女に与える鉄槌』という書物です。
一般的に、中世のベストセラーは印刷術によって爆発的に普及した「聖書」であるとされています。
ところがさまざまな文献を調べていくと、どうもそうではなかったことがわかってきました。
その一つは、ローマカトリック教会が聖書の普及を好ましく思っていなかったことです。
カトリック教会は、祈りの場を唯一教会にのみ定め、聖書の解釈は唯一教会が行なうものと決めていたからです。
聖書の普及が宗教改革運動を拡大させたことを考えると、教会は、聖書が複製によって大衆化していくことを嫌っていたのは当然です。
15世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパは異端審問と魔女狩りに明け暮れた時代でした。
それに伴って「魔女論」という魔女について書かれた書物が相次いで出版されました。
「魔女」という一つのテーマだけでこれだけ多くの書物が書かれた事実は、それだけ大きな社会的関心がそのテーマにあったことを示しています。
「魔女論」の一群の中でも、もっともよく売れたとされていたのが『魔女の鉄槌』です。
しかも短期間のうちに多くの版が重ねられた事実から見て、私はヨーロッパ中世のベストセラーは聖書ではなく、『魔女の鉄槌』であったという結論を得ました。
私はこの書物の英語訳現代版とラテン語のオリジナル版の両方を手に入れ、目を通したところ、案の定、そこには魔女狩りを流行させた「企み」が潜んでいたのです。
ところでグーテンベルクの印刷術で製本されるまでは、聖書は写本で作られていました。
しかし現代人は写本と聞くと、写し間違いや改竄を考えるせいか、それにあまり信頼を寄せる気になりません。
ところがそれが印刷された活字になると、どういうわけか間違いないものと感じ、内容にも信頼を置くようになります。不思議なことですが、どういうわけかそう受け止めるのです。
しかしこれは明らかに錯覚です。
そのために、聖書に書かれている情報が批判的に検証されることはまったくありません。
宗教だから当たり前といえば当たり前です。歴史的考察がされることはあっても、聖書が編纂されておよそ1700年の間、信徒にとって問題なのはその解釈であって、書かれたことが正しいかどうかは論外で検証の対象にすらなりません。
この事実は、現代人が抱いている印刷出版文化への無批判な信頼感に対して、一つの示唆を与えています。
それは私たち現代人が、活字化された情報によって翻弄され惑わされる危険というリスクを、常に持っていることを意味します。
それは「誰かがその情報をあなたに信じ込ませたいために用意した偽書であるかもしれない」、ということです。それはテレビやラジオも同様です。
ヨーロッパ中世で起こった魔女狩りは、20世紀半ばころから著名な学者たちによって研究され、その成果はいくつもの書物に著わされてきました。
そして魔女とは何だったのかということや、教会権力と社会との関係を明らかにしようとするものなどでした。
研究者たちを捉えたのは、15世紀から17世紀という長期間にわたって、なぜこれほど大規模に流行することになったのかという謎でした。
人間社会は歴史的にも心理学的にも、しばしば大虐殺や集団リンチを行なう傾向が見られます。
しかしそれがヨーロッパ全域というきわめて広い地域で、かつ二百数十年という長期にわたり猛威を振るい続けた事実は、いまだに解きがたい謎であり続けています。
私が本書を著わす目的は、この謎を解き明かすことではなく、私の問題意識である、現代において魔女狩りが再び猛威を振るい始めていることにあります。
現代の魔女狩りを端的に表現すれば、「都合の悪い者は消せ」というものです。
それらはたとえばテレビなどでマスコミが行なう、御用学者や御用評論家による考え方の誘導や、風評被害を口実にしたネット言論規制、掲示板荒らしを専門にする雇われ工作員の存在などで、特定の人物を容赦なく追い落とす行為の数々は、これまでにもさんざん行なわれており、決して珍しいものではありません。
ところがこの21世紀に始まる新しい魔女狩りでは、誰かが追い落とされて社会的に抹殺され、あるいは殺されたとしても、おそらくその痕跡すら残りません。
それだけでなく裏で暗躍する存在と彼らの目的も、私たちの目に映らなくなるのです。
なぜ見えないかといえば、水面下に隠れたアンダーグラウンドメディアが目的達成の手段として使用されるからです。
今権力者は、大衆洗脳の道具を求めるという強烈なニーズを持っています。
私は近々、その道具の代表にツイッターがなる、と考えています。わずか数行の「つぶやき」が人間を変えるということを、彼らは発見したからです。
そしてグーグルの検索エンジンが思想調査に使用され、フェイスブックが中東の民主化を促し、さらにツイッターではつぶやきを自然言語処理することによって、それが国家の政策立案に使えるという研究成果が出されました。
このことはつまり、これらをすべて反対の目的に作用させる使い方ができるということです。
私が見る限り、その兆候は、すでにあちこちで顕在化しています。たとえば最近では、
「放射能を心配しすぎるのはバカ」
「20ミリシーベルトと国が決めたのだから、国民はそれに従う義務がある」
「東日本大震災は神の仕業」
いずれもブログやツイッターで繰り返し取り上げられている言葉です。
批判も検証もなされることなく、無意識のうちにこうした言葉が何度も何度も、私たちの中に刷り込まれています。
しかしそれをアホらしいと感じればいいのですが、そうは感じない人間が増えているのです。
これは、21世紀に新しい魔女狩りが流行する、非常に大きなシグナルであるといえます。
私がなぜそれを魔女狩りと位置づけるのか、中世との類似性はどこにあり、拡大を推進するメカニズムは何か、なぜアンダーグラウンドメディアがそれほど強い影響力を持つのかについて明らかにすることは、同時に、中世の魔女狩りが広範囲かつ長期にわたって流行した謎に、一つの答えを与えることにもなるでしょう。
「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版
抜粋したもの
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現代の「魔女狩り」、植草事件、鈴木ムネオ事件、小沢事件、などデッチ上げで社会的リンチを受けている。
中世の印刷技術による人々の洗脳...今は、マスコミによる大衆への執拗な洗脳。
中世でも人々はおかしいと少しは思いながらも権威には逆らえなかった。
無抵抗な人々は生贄にされていった。
今も無名な人々は「自殺」ということで闇に葬られているのだろう。
不審死が毎年10万人、自殺の9割は他殺と言われている。
現代も魔女狩りは続いている。( ̄^ ̄)
「成功の9ステップ」で有名なジェームス・スキナー
2013年02月01日
日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない(2)
zeraniumのブログ より転載
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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
第1章で見たように、儒教思想は君子による支配を理想的な社会秩序と見ています。
つまりそれは、エリートを頂点とするピラミッド構造が正しい社会秩序であるとする思想です。
ですからそのピラミッド構造を支える原理こそが、まさに上位者に対しては遠慮し、自分に与えられた分際を守る「忠」の原理です。
ということになると「仁」とは、人と人との対等な個人の間の「思いやり」ではなく、それは「忠」によるピラミッド構造を前提としたうえでの「恕」(思いやり)であり、これこそが「仁」の正体なのです。
それは自分と異なる点を持ちながらも、人間として等しく尊厳をもつ他者に対して思いやる、と言う意味での「思いやり」ではありません。
むしろそれはピラミッド構造における社会秩序の中で、相手にふさわしい扱いをするということであり、「偉い人は偉い人として尊重し、偉くない人はそれなりに尊重する」、という差別思想的な思いやりでしかないのです。
だからこそ「仁」の原理は日本の現代社会においても、上下関係を重視する社会集団と馴染みやすいのです。
それが、たとえば「仁義」を重んじるやくざの世界です。
組織内・組織間の序列が何よりも大切であり、地位にふさわしい面子(めんつ)を立て合うことを至上命令としているヤクザ社会は、「仁」なくしては成り立たないのです。
ここまで見てくると、「巧言令色鮮し仁」の意味はもはや明白でしょう。
「ディベートという公平な議論を否定する一方で、上下関係を重視し、相手の立場にふさわしい扱いをすることを心がける」。
これはひと言で言えば「フェアネス(公正)の否定」にほかなりません。
ですから儒教思想は、近代民主主義社会の大原則である「フェアネス」と真っ向から対立するのです。
当然、儒教思想に洗脳されて、議論・討論のディベートが機能せず、当たり前のように「情状酌量」が横行する日本社会には、フェアネス(公正さ)は存在しないのです。
また、日本に公正さが存在しないことを端的に物語るのが、「お客様は神様です」というセリフです。
それは本来顧客を大事にする商売の心得として、三波春夫氏が信条として語ったとされますが、三波氏自身は、現在のような意味にとられてしまったことに困惑していたようです。
そのどこに問題があるのかというと、客という立場にあるというだけで、正しいとされるところです。
つまり、商取引において客という立場にあるだけで、お客の判断や行動は正しいと見なされることです。
このような弊害を指摘すると、クレーマーのような極端な客の例を想像するかもしれません。
つまり客という立場をカサに着て、明らかに無法な要求をサービス側にする人々です。
もちろんこうした連中も「お客様は神様」思想が生み出したものですが、実はそこに潜む真の問題は根深く、かつ広範囲に広がるものなのです。
商取引の本質は、売買契約や請負契約といった契約です。
それは対等な当事者間で行なわれるべきものです。
また対等だからこそ互いに尊重し合い、契約を守る努力が果たされるのです。
ところが「お客様は神様です」という考えが入り込むと、対等な考えが崩れてしまい、客の側がすべて正しいというのが原則になってしまうので、そこには公正な取引関係はありません。
不公平で不健全な日本の取引関係を象徴するのが、「接待」と呼ばれる慣習です。
企業が接待費を潤沢に使えたバブル期には、営業マンは週に数回、当然のように宴席を設けては得意先を接待していました。
実際には「客の命令で仕方なく付き合わされている」わけで、接待の場ではセクハラやパワハラも横行しており、それが対等な人間同士であれば決して許されない関係でしょう。
バブル崩壊ご、長引く不況で接待は激減しましたが、それで日本の商取引が健全化したかといえば、そうではありません。
今度はコストダウンのために、客が無理な値引きを要求するようになった。
売り手側はその要求に応えるために、人員を減らし、残業代ももらわずに倒れる寸前まで働かなければならない。
いまどき、会社の上司が部下を「バカ」だの「死ね」だのと罵倒したら、パワハラとして大問題になります。
しかしコールセンターにクレームの電話をかけてきた客が対応したオペレーターを罵倒しても、パワハラとは言われません。
また飲食店で客が店員を怒鳴りつけても、やはりパワハラにはならない。それはどこかおかしくないですか?
客がオペレーターや店員を罵倒するのは、客という立場を利用した一種の暴力です。
上司の立場を利用した部下への罵倒とどこが違うのでしょうか?
どちらもパワハラです。にもかかわらず、客だからという理由で免責されるのです。
コールセンターのオペレーターが客をパワハラで訴えたという話は聞かないし、パワハラの被害者を支援する弁護士は多いのですが、客からのパワハラに悩む駅員や接客業の人々を支援する弁護団の話は聞いたことがありません。
それは訴えがないということではなく、それを取り上げる弁護士がいないということであり、その理由は弱者の味方を標榜する弁護士たちでさえも、「お客様は神様です」というドグマを許容しているからです。
日本のように、売り手と買い手が対等ではなく、売り手が常に軽視される考え方を放置するのは非常にまずいことです。
売り手が蔑(さげす)まれるということは、商売に携わる人が蔑まれるということで、つまり商人差別がまかり通っているのです。
これは、何も売らない職業である役人が、日本では一番偉いとされる風潮と表裏一体の関係にあります。これはまさに士農工商の世界です。
商人差別のもとでは、営業マンや販売員、その他の接客業の人々は、常に不愉快な思いをしながら仕事をすることになるので、当然やる気は失われます。
仕事の質も低下し、それを見た若い世代は、商人ではなく役人になったほうが得だと思うようになる。
こうしてモノやサービスの売り買いを現場で支える人々の活力が徐々に奪われていくことになり、そしてそれは日本経済を動かすエンジンの一つが衰えていくことにほかなりません。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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@Petit_Soleil17 からのツイート
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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
第1章で見たように、儒教思想は君子による支配を理想的な社会秩序と見ています。
つまりそれは、エリートを頂点とするピラミッド構造が正しい社会秩序であるとする思想です。
ですからそのピラミッド構造を支える原理こそが、まさに上位者に対しては遠慮し、自分に与えられた分際を守る「忠」の原理です。
ということになると「仁」とは、人と人との対等な個人の間の「思いやり」ではなく、それは「忠」によるピラミッド構造を前提としたうえでの「恕」(思いやり)であり、これこそが「仁」の正体なのです。
それは自分と異なる点を持ちながらも、人間として等しく尊厳をもつ他者に対して思いやる、と言う意味での「思いやり」ではありません。
むしろそれはピラミッド構造における社会秩序の中で、相手にふさわしい扱いをするということであり、「偉い人は偉い人として尊重し、偉くない人はそれなりに尊重する」、という差別思想的な思いやりでしかないのです。
だからこそ「仁」の原理は日本の現代社会においても、上下関係を重視する社会集団と馴染みやすいのです。
それが、たとえば「仁義」を重んじるやくざの世界です。
組織内・組織間の序列が何よりも大切であり、地位にふさわしい面子(めんつ)を立て合うことを至上命令としているヤクザ社会は、「仁」なくしては成り立たないのです。
ここまで見てくると、「巧言令色鮮し仁」の意味はもはや明白でしょう。
「ディベートという公平な議論を否定する一方で、上下関係を重視し、相手の立場にふさわしい扱いをすることを心がける」。
これはひと言で言えば「フェアネス(公正)の否定」にほかなりません。
ですから儒教思想は、近代民主主義社会の大原則である「フェアネス」と真っ向から対立するのです。
当然、儒教思想に洗脳されて、議論・討論のディベートが機能せず、当たり前のように「情状酌量」が横行する日本社会には、フェアネス(公正さ)は存在しないのです。
また、日本に公正さが存在しないことを端的に物語るのが、「お客様は神様です」というセリフです。
それは本来顧客を大事にする商売の心得として、三波春夫氏が信条として語ったとされますが、三波氏自身は、現在のような意味にとられてしまったことに困惑していたようです。
そのどこに問題があるのかというと、客という立場にあるというだけで、正しいとされるところです。
つまり、商取引において客という立場にあるだけで、お客の判断や行動は正しいと見なされることです。
このような弊害を指摘すると、クレーマーのような極端な客の例を想像するかもしれません。
つまり客という立場をカサに着て、明らかに無法な要求をサービス側にする人々です。
もちろんこうした連中も「お客様は神様」思想が生み出したものですが、実はそこに潜む真の問題は根深く、かつ広範囲に広がるものなのです。
商取引の本質は、売買契約や請負契約といった契約です。
それは対等な当事者間で行なわれるべきものです。
また対等だからこそ互いに尊重し合い、契約を守る努力が果たされるのです。
ところが「お客様は神様です」という考えが入り込むと、対等な考えが崩れてしまい、客の側がすべて正しいというのが原則になってしまうので、そこには公正な取引関係はありません。
不公平で不健全な日本の取引関係を象徴するのが、「接待」と呼ばれる慣習です。
企業が接待費を潤沢に使えたバブル期には、営業マンは週に数回、当然のように宴席を設けては得意先を接待していました。
実際には「客の命令で仕方なく付き合わされている」わけで、接待の場ではセクハラやパワハラも横行しており、それが対等な人間同士であれば決して許されない関係でしょう。
バブル崩壊ご、長引く不況で接待は激減しましたが、それで日本の商取引が健全化したかといえば、そうではありません。
今度はコストダウンのために、客が無理な値引きを要求するようになった。
売り手側はその要求に応えるために、人員を減らし、残業代ももらわずに倒れる寸前まで働かなければならない。
いまどき、会社の上司が部下を「バカ」だの「死ね」だのと罵倒したら、パワハラとして大問題になります。
しかしコールセンターにクレームの電話をかけてきた客が対応したオペレーターを罵倒しても、パワハラとは言われません。
また飲食店で客が店員を怒鳴りつけても、やはりパワハラにはならない。それはどこかおかしくないですか?
客がオペレーターや店員を罵倒するのは、客という立場を利用した一種の暴力です。
上司の立場を利用した部下への罵倒とどこが違うのでしょうか?
どちらもパワハラです。にもかかわらず、客だからという理由で免責されるのです。
コールセンターのオペレーターが客をパワハラで訴えたという話は聞かないし、パワハラの被害者を支援する弁護士は多いのですが、客からのパワハラに悩む駅員や接客業の人々を支援する弁護団の話は聞いたことがありません。
それは訴えがないということではなく、それを取り上げる弁護士がいないということであり、その理由は弱者の味方を標榜する弁護士たちでさえも、「お客様は神様です」というドグマを許容しているからです。
日本のように、売り手と買い手が対等ではなく、売り手が常に軽視される考え方を放置するのは非常にまずいことです。
売り手が蔑(さげす)まれるということは、商売に携わる人が蔑まれるということで、つまり商人差別がまかり通っているのです。
これは、何も売らない職業である役人が、日本では一番偉いとされる風潮と表裏一体の関係にあります。これはまさに士農工商の世界です。
商人差別のもとでは、営業マンや販売員、その他の接客業の人々は、常に不愉快な思いをしながら仕事をすることになるので、当然やる気は失われます。
仕事の質も低下し、それを見た若い世代は、商人ではなく役人になったほうが得だと思うようになる。
こうしてモノやサービスの売り買いを現場で支える人々の活力が徐々に奪われていくことになり、そしてそれは日本経済を動かすエンジンの一つが衰えていくことにほかなりません。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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@Petit_Soleil17 からのツイート
「権力者は人格的に優れている」と信じている日本人
zeraniumのブログ より転載
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「権力者は人格的に優れている」と信じている日本人
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-84393271
「権力者は優れている」という妄信
日本人の国家に対する信頼感はどこに由来しているのか。
実はこれも、本書で再三にわたって指摘してきた「儒教思想」から説明することができます。
儒教においては、「君子=エリート」という図式による支配を、人間社会の理想像としていると述べました。
この君子がなぜエリートとされるかといえば、知力や教養といった能力に優れていることはもちろんですが、それ以上に人格が優れているからです。
そして君子の中で特に、人格的に優れた理想的な人間は「聖人」と呼ばれます。
歴史上、聖人に数えられているのはごく少数で、儒教の祖である孔子や、堯(ぎょう)、舜(しゅん)といった伝説上の天子だけということになっています。
つまり儒教においては「支配者たるエリートは、人格的にも優れていなければならない」という原則」があるのです。
これは額面どおりに受け取るならば、エリートの資格を厳しく限定しているように見えます。
実際に孔子やその後継者たちは、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけないのだ」と考えたのでしょう。しかしこうした建前の意味は、いつのまにかすり替わってしまった。
すなわち、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけない」はずが、いつのころからか、「だから支配者になっている人は、人格的に優れた、いい人のはずだ」という論理に転換してしまったのです。
こうした転倒した原理こそが、日本人の権力者に対する盲目的な信頼の根底にあるものです。
「お上(かみ)」は権力者の地位にある以上、本質的に善なる存在であり、最終的には自分たちを助けてくれる頼れる存在である・・・」儒教思想にどっぷり浸かった日本人は、そのように信じて疑わなくなったのです。
なぜ日本の政治家は下半身スキャンダルで失脚するのか?
とはいえ、もちろん日本人も「お上」を批判することはあります。
というよりも、テレビで流される「街の声」を聞く限りでは、有権者は政治家や官僚を非難ばかりしているようにさえ見えます。
しかしよく注意して見てほしいのですが、こうした街の声の大半は、「政治家の心がけがよくない」とか、「このようなスキャンダルは政治家にふさわしくない」といった、人格的な非難だけで埋め尽くされているのがほとんどなのです。
最近では、原子力安全・保安院のスポークスマンを務めていた当時の西山英彦審議官が、不倫が明るみに出たことで左遷人事を言い渡された。
また自民党の後藤田正純衆議院議員も、写真週刊誌に不倫行為をすっぱ抜かれて党内の役職を辞任しています。
こういった不祥事が非難されるということは、「本来、支配者とは有徳の人であるべき」という信頼感があればこそと言えます。
しかし考えてみれば、こうした期待はどこかおかど違いではないでしょうか。
職業人はあくまでも仕事の腕で評価されるべきもので、政治家にせよ官僚にせよ、それが職業の一つである以上は、資格に必要なものは業務遂行上の能力であるはずなのです。
「政策に弱いやつが議員になるな」「よけいな法律を作ろうとする官僚は行政官失格だ」といった非難は当を得ています。
しかし人格の高潔さや清廉潔白さなどは、政治家や官僚としての能力とは、本来関係がないはずなのです。
もちろん収賄(しゅうわい)などは職業上の犯罪なので罰せられるべきであり、まさに業務遂行上の能力の欠如が非難されるものです。
未成年者の買春もそうで、たとえ仕事の能力と関係がなくてもそれは犯罪なので、職業を問わず許されないというだけの話です。
実際に、イタリアのベルルスコーニ首相は未成年者買春容疑で窮地に追い込まれ、国内の財政不安で辞任を余儀なくされた。
しかしながらたとえ政治家や官僚が不倫をしても、それは道徳上の問題であって犯罪でも何でもないし、言うまでもなく職業上の能力とも何ら関係がない。
長年にわたって失言を繰り返し、不倫疑惑まであったベルルスコーニ氏でしたが、イタリア経済がもっている間は、それでも首相の座を明け渡さなかったのです。
しかし日本ではどうかというと、こうしたスキャンダルはバッシングの材料になり、職を追われる人が少なくない。
これは、日本人が権力者に清廉潔白であることを求めているからなのです。
といっても日本人の清廉潔白志向は、必ずしも日本人が権力者の資格に関して、「厳しい目」を持っていることを意味していない点には要注意です。
むしろ日本人は、「政治家や官僚になるような人は、聖人君子のような立派な人であるハズダ」という素朴な信頼、もっといえば、そのように信じる「信仰」を抱いているからこその証しに過ぎないのです。
つまりその「信仰」を侮辱されたと感じるからこそ、日本人は政治家の下半身スキャンダルに烈火のごとく怒るわけです。
見たくない現実を脳は認識できない
(見たくないと思っている現実を脳は認識しないので、見えない)
繰り返しますが、日本人の権力者への信頼感は、儒教教育によって強化されているので、そのゆえに普通なら国を捨てたくなるような状況でも、日本人は国にしがみつくことに疑問を持ちません。こうした現状維持のメンタリティが、日本人は特に強いといえます。
ただしここでひと言断っておきますが、「まさか自分の預金が封鎖されることはないだろう」「この国でデノミ(貨幣単位を切り下げて100円が1円になること)が実施されるはずがない」といった、現状への根拠のない信頼自体は決して日本特有のものではありません。
それは人間の脳の仕組みに由来する、きわめて普遍的な現象です。
しかもそこには、私が著書でしばしば言及するスコトーマ(思い込み・盲点)の原理が働いています。
私たち人間の脳は、感覚器を通じて入ってくる情報に勝手にフィルターをかけて選別します。
そして重要だと思う情報だけを認識するのです。
なぜならすべての情報を認識するためには、脳をフル回転させなければならず、そうするとあまりにもエネルギーを消費することになり、生存自体に支障を来たしかねないからなのです。
そして脳がある情報を重要と見なすかどうかの基準は、その情報が自分の慣れ親しんだ環境の範囲内にあるかどうかによります。
つまり、現状から見て「ありえない」と思う情報は、たとえ目の前にあっても気づくことができないわけです。スコトーマ(思い込み・盲点)の原理とはこのような脳の限界を指しています。
これはすべてのことにおいてそうで、仮に日本で明らかな預金封鎖の兆候や、紙幣が紙切れになるようなデノミの兆候が存在したとしても、多くの人々はそれをすぐには認識することができません。
なぜなら、要するに見たくない現実は認識しようとしないからです。
実際に、マネーロンダリングや振り込め詐欺を防ぐとの理由から、私たちがATMで預金口座から引き出せる限度額は、原則1日50万円です。
銀行窓口でも1000万円オーダーの預金は当日にはまず下ろせません。
これは銀行法の論理では、すでに預金封鎖されているのと同じことなのですが、スコトーマのせいで、誰もそうは見ていないのです。
いずれにしても、「経済が破綻するなんてありえない」と思っている点で、日本人もアメリカ人も中国人も、少し前のギリシャ人だって、まったく変りはありません。
考えてみてください。ウォール街のファンドマネージャーたちのほんの数パーセントでもアメリカの財政破綻を本気で心配し、ドル売りに走ったとしたら一体どうなるでしょう。
その影響はまずウォール街全体に広がり、次に世界全体にたちまち伝播し、ドルはあっというまに暴落して、今ごろ1ドル30円を切っているかもしれません。
そうなっていないということは、ウォール街の専門家でさえ、彼らのほぼ全員が「この現状は続く」と信じきっている証拠です。
「現状は続く」という思い込み
同じような例で、「年金なんてもらえるわけがないのに、未だに年金保険料を納め続けている日本人は愚かだ」と言う人がいます。
しかし結局日本人は、「なんだかんだ言っても、年金は受け取れるだろう」と皆信じているようです。
しかしこれはアメリカ人でもまったく同じで、アメリカの年金制度は日本のような国家による公的年金制度中心の設計ではなく、企業年金が軸になっています。
またアメリカは日本のように、少子高齢化に悩んでいるわけでもありません。
(「少子高齢化」だから年金が危ない」というのは、実は日本の厚生労働省による詭弁なのですが、その問題はとりあえず置いておきます。)
アメリカの場合は、自国通貨のドルの価値自体が大きく揺らいでいるのでが問題なのです。
したがって積み立てた年金が単なる紙くずになってしまう危険性は非常に大きく、日本で騒ぎ立てられている「年金危機」どころの話ではないのです。
それでもアメリカ人たちは未だに進んで、401kなどの確定拠出型年金にお金を積み立てています。結局は彼らも、実際に被害にあうまでは「自分は大丈夫」だと思い込んでいるのです。
「現状は続く」という根拠なき思い込みの強さを示す例として、私たちはもっと印象的な例を知っています。
2011年3月に大地震に襲われる前、誰がそれを予測していたでしょうか。
もしそんな予測や予感がほんのちょっとでもあれば、避難する人々によるちょっとした「民族大移動」が起きていたはずです。
このように「現状はこのまま続くんだ」という私たちの信頼はきわめて強いことがわかります。
そしてそこから政治的な現体制も基本的には信頼されるわけで、そのうえにさらに強く儒教文化による信頼強化を施したのが、日本の支配体制だといえるのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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「権力者は人格的に優れている」と信じている日本人
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-84393271
「権力者は優れている」という妄信
日本人の国家に対する信頼感はどこに由来しているのか。
実はこれも、本書で再三にわたって指摘してきた「儒教思想」から説明することができます。
儒教においては、「君子=エリート」という図式による支配を、人間社会の理想像としていると述べました。
この君子がなぜエリートとされるかといえば、知力や教養といった能力に優れていることはもちろんですが、それ以上に人格が優れているからです。
そして君子の中で特に、人格的に優れた理想的な人間は「聖人」と呼ばれます。
歴史上、聖人に数えられているのはごく少数で、儒教の祖である孔子や、堯(ぎょう)、舜(しゅん)といった伝説上の天子だけということになっています。
つまり儒教においては「支配者たるエリートは、人格的にも優れていなければならない」という原則」があるのです。
これは額面どおりに受け取るならば、エリートの資格を厳しく限定しているように見えます。
実際に孔子やその後継者たちは、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけないのだ」と考えたのでしょう。しかしこうした建前の意味は、いつのまにかすり替わってしまった。
すなわち、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけない」はずが、いつのころからか、「だから支配者になっている人は、人格的に優れた、いい人のはずだ」という論理に転換してしまったのです。
こうした転倒した原理こそが、日本人の権力者に対する盲目的な信頼の根底にあるものです。
「お上(かみ)」は権力者の地位にある以上、本質的に善なる存在であり、最終的には自分たちを助けてくれる頼れる存在である・・・」儒教思想にどっぷり浸かった日本人は、そのように信じて疑わなくなったのです。
なぜ日本の政治家は下半身スキャンダルで失脚するのか?
とはいえ、もちろん日本人も「お上」を批判することはあります。
というよりも、テレビで流される「街の声」を聞く限りでは、有権者は政治家や官僚を非難ばかりしているようにさえ見えます。
しかしよく注意して見てほしいのですが、こうした街の声の大半は、「政治家の心がけがよくない」とか、「このようなスキャンダルは政治家にふさわしくない」といった、人格的な非難だけで埋め尽くされているのがほとんどなのです。
最近では、原子力安全・保安院のスポークスマンを務めていた当時の西山英彦審議官が、不倫が明るみに出たことで左遷人事を言い渡された。
また自民党の後藤田正純衆議院議員も、写真週刊誌に不倫行為をすっぱ抜かれて党内の役職を辞任しています。
こういった不祥事が非難されるということは、「本来、支配者とは有徳の人であるべき」という信頼感があればこそと言えます。
しかし考えてみれば、こうした期待はどこかおかど違いではないでしょうか。
職業人はあくまでも仕事の腕で評価されるべきもので、政治家にせよ官僚にせよ、それが職業の一つである以上は、資格に必要なものは業務遂行上の能力であるはずなのです。
「政策に弱いやつが議員になるな」「よけいな法律を作ろうとする官僚は行政官失格だ」といった非難は当を得ています。
しかし人格の高潔さや清廉潔白さなどは、政治家や官僚としての能力とは、本来関係がないはずなのです。
もちろん収賄(しゅうわい)などは職業上の犯罪なので罰せられるべきであり、まさに業務遂行上の能力の欠如が非難されるものです。
未成年者の買春もそうで、たとえ仕事の能力と関係がなくてもそれは犯罪なので、職業を問わず許されないというだけの話です。
実際に、イタリアのベルルスコーニ首相は未成年者買春容疑で窮地に追い込まれ、国内の財政不安で辞任を余儀なくされた。
しかしながらたとえ政治家や官僚が不倫をしても、それは道徳上の問題であって犯罪でも何でもないし、言うまでもなく職業上の能力とも何ら関係がない。
長年にわたって失言を繰り返し、不倫疑惑まであったベルルスコーニ氏でしたが、イタリア経済がもっている間は、それでも首相の座を明け渡さなかったのです。
しかし日本ではどうかというと、こうしたスキャンダルはバッシングの材料になり、職を追われる人が少なくない。
これは、日本人が権力者に清廉潔白であることを求めているからなのです。
といっても日本人の清廉潔白志向は、必ずしも日本人が権力者の資格に関して、「厳しい目」を持っていることを意味していない点には要注意です。
むしろ日本人は、「政治家や官僚になるような人は、聖人君子のような立派な人であるハズダ」という素朴な信頼、もっといえば、そのように信じる「信仰」を抱いているからこその証しに過ぎないのです。
つまりその「信仰」を侮辱されたと感じるからこそ、日本人は政治家の下半身スキャンダルに烈火のごとく怒るわけです。
見たくない現実を脳は認識できない
(見たくないと思っている現実を脳は認識しないので、見えない)
繰り返しますが、日本人の権力者への信頼感は、儒教教育によって強化されているので、そのゆえに普通なら国を捨てたくなるような状況でも、日本人は国にしがみつくことに疑問を持ちません。こうした現状維持のメンタリティが、日本人は特に強いといえます。
ただしここでひと言断っておきますが、「まさか自分の預金が封鎖されることはないだろう」「この国でデノミ(貨幣単位を切り下げて100円が1円になること)が実施されるはずがない」といった、現状への根拠のない信頼自体は決して日本特有のものではありません。
それは人間の脳の仕組みに由来する、きわめて普遍的な現象です。
しかもそこには、私が著書でしばしば言及するスコトーマ(思い込み・盲点)の原理が働いています。
私たち人間の脳は、感覚器を通じて入ってくる情報に勝手にフィルターをかけて選別します。
そして重要だと思う情報だけを認識するのです。
なぜならすべての情報を認識するためには、脳をフル回転させなければならず、そうするとあまりにもエネルギーを消費することになり、生存自体に支障を来たしかねないからなのです。
そして脳がある情報を重要と見なすかどうかの基準は、その情報が自分の慣れ親しんだ環境の範囲内にあるかどうかによります。
つまり、現状から見て「ありえない」と思う情報は、たとえ目の前にあっても気づくことができないわけです。スコトーマ(思い込み・盲点)の原理とはこのような脳の限界を指しています。
これはすべてのことにおいてそうで、仮に日本で明らかな預金封鎖の兆候や、紙幣が紙切れになるようなデノミの兆候が存在したとしても、多くの人々はそれをすぐには認識することができません。
なぜなら、要するに見たくない現実は認識しようとしないからです。
実際に、マネーロンダリングや振り込め詐欺を防ぐとの理由から、私たちがATMで預金口座から引き出せる限度額は、原則1日50万円です。
銀行窓口でも1000万円オーダーの預金は当日にはまず下ろせません。
これは銀行法の論理では、すでに預金封鎖されているのと同じことなのですが、スコトーマのせいで、誰もそうは見ていないのです。
いずれにしても、「経済が破綻するなんてありえない」と思っている点で、日本人もアメリカ人も中国人も、少し前のギリシャ人だって、まったく変りはありません。
考えてみてください。ウォール街のファンドマネージャーたちのほんの数パーセントでもアメリカの財政破綻を本気で心配し、ドル売りに走ったとしたら一体どうなるでしょう。
その影響はまずウォール街全体に広がり、次に世界全体にたちまち伝播し、ドルはあっというまに暴落して、今ごろ1ドル30円を切っているかもしれません。
そうなっていないということは、ウォール街の専門家でさえ、彼らのほぼ全員が「この現状は続く」と信じきっている証拠です。
「現状は続く」という思い込み
同じような例で、「年金なんてもらえるわけがないのに、未だに年金保険料を納め続けている日本人は愚かだ」と言う人がいます。
しかし結局日本人は、「なんだかんだ言っても、年金は受け取れるだろう」と皆信じているようです。
しかしこれはアメリカ人でもまったく同じで、アメリカの年金制度は日本のような国家による公的年金制度中心の設計ではなく、企業年金が軸になっています。
またアメリカは日本のように、少子高齢化に悩んでいるわけでもありません。
(「少子高齢化」だから年金が危ない」というのは、実は日本の厚生労働省による詭弁なのですが、その問題はとりあえず置いておきます。)
アメリカの場合は、自国通貨のドルの価値自体が大きく揺らいでいるのでが問題なのです。
したがって積み立てた年金が単なる紙くずになってしまう危険性は非常に大きく、日本で騒ぎ立てられている「年金危機」どころの話ではないのです。
それでもアメリカ人たちは未だに進んで、401kなどの確定拠出型年金にお金を積み立てています。結局は彼らも、実際に被害にあうまでは「自分は大丈夫」だと思い込んでいるのです。
「現状は続く」という根拠なき思い込みの強さを示す例として、私たちはもっと印象的な例を知っています。
2011年3月に大地震に襲われる前、誰がそれを予測していたでしょうか。
もしそんな予測や予感がほんのちょっとでもあれば、避難する人々によるちょっとした「民族大移動」が起きていたはずです。
このように「現状はこのまま続くんだ」という私たちの信頼はきわめて強いことがわかります。
そしてそこから政治的な現体制も基本的には信頼されるわけで、そのうえにさらに強く儒教文化による信頼強化を施したのが、日本の支配体制だといえるのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない(1)
zeraniumのブログ より転載
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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
ディベートとは、議論や討論をすることで、二手に分かれてある論題について、どちらが妥当かの結論を出すことを言います。
競技としてのディベートでは、いわゆる見た目で感じられる要素などはいっさい考慮されず、たとえば感情をこめた話し方であるとか、表情や態度、印象などの、テレビ討論やスピーチ大会で重視されるような要素はいっさい考慮されません。
必要なことは内容であるので、そのためにはこうした要素は意思決定においてはノイズ(雑音)でしかないからです。
企業の意思決定にかぎらず、国会で議論が交わされるのも、裁判で原告と被告に分かれて主張や立証を争うのも、すべてディベートです。
そうすることによって、より確からしい結論にたどりつける可能性があるからです。
民主主義がまともに機能するのは、こうしたディベートがしっかり実践されている場合だけです。
それを、いわゆる多数決による議決だけで意思決定が行なわれているとしたら、そこでは民主主義は単なる「多数派による独裁」でしかありません。
国会であれ、裁判であれ、株主総会であれ、議決にいたるまでに十分なディベートが行なわれ、十分な情報が議論において提示されるからこそ、妥当な判断が可能になるのです。
しかしもし、このような意思決定の場に「情状酌量」が持ち込まれたらどうなるでしょうか。
「Aの案を提示した社員はさえない中年男だったが、B案は美人の女性社員だった。
だからB案を指示しよう」
「あいつはネクタイも曲がってるし、服装もだらしないし、そういうヤツの言うことは信用できない」
「彼は同じ大学の後輩だし、子どもも同じ小学校に通っているから賛成してやろう」
このような感じで議論の内容以外の要素が判断材料として働くようになると、それはもう議論ではなくまともなディベートは望めません。
「情状酌量」によって、対立する側の立場の対等性が保たれないのであれば、十分な発言の機会が与えられない、あるいは与えられるといった不公平が生まれます。
そうなると議論の場には偏った情報しか提供されないことになり、判断はより偏っていくことになる。
結局、「情状酌量」を持ち込むと、意思決定をする機関は妥当な解決から遠ざかることになります。
これこそが問題解決能力が低い、つまり端的にいえば「無能」なのです。
どんなに理を尽くしても受け入れられず、それとは別の要素で意思決定が行なわれることが続けば、合理的な人ほどエフィカシー(自分の能力に対する自信)が低下するのは無理もありません。
つまり日本の企業や裁判所は、「情状酌量」で判断する組織なので、民主主義の根本を否定していると言えます。
前章で、日本人を奴隷化した元凶の一つであると断罪した儒教思想ですが、そのもっとも重要な教訓は、言うまでもなく、孔子の言行を記録した『論語』です。
その中に、
「巧言令色鮮(すくな)し仁」という、有名なフレーズがあります。
この意味は一般的に、「弁舌が巧みで、愛想よく取り繕(つくろ)った顔をする者には、人としてもっとも重要な徳目である”仁”が欠けていることが多い」という意味に解釈されています。
この「巧言令色鮮し仁」こそ、日本の「情状酌量文化」に、きわめて大きな悪影響を及ぼした考え方だと私は思っています。
一見すると「巧言令色」のいう批判は、上面に騙されるなという意味にも取れるので、むしろ「情状酌量」を否定しているように思えるかもしれません。
しかしここで否定されているのは、詭弁や屁理屈ではなく、あくまでも巧みな弁舌です。
この否定は議論やスキルの否定と同じであり、つまりは、孔子はディベートを否定しているのです。
「ディベートの上手いヤツは、愛想を振りまくヤツと同じく信用できない」。これが孔子の考え方です。
そして今でも日本では、男は寡黙なほうがカッコいいとされる傾向がありますが、元はといえばこのフレーズに由来しているのです。
ディベートが機能せず、「情状酌量」がまかり通る日本的風土の原点は、またしても儒教思想だったわけです。
また「巧言令色」を否定する一方で、儒教思想が重視する「仁」という徳目は何かといえば、これも大いに問題があると言わざるをえない。
「仁」はふつう「思いやり」と訳されます。
自分を律しつつも、他者を思いやる気持ちが「仁」ですが、これだけ聞くと、素晴らしい教えのようにも思えます。
しかし儒教の解釈学では、「仁」を構成する要素は「忠」と「恕(じょ)」であるとされており、「忠」は文字通り忠義の忠であり、「恕」は「思いやり」と訳されています。
(実際には「恕」は儒教の重要な儀式のことを指している。詳しくは拙著「洗脳論語」(三才ブックス)を参照。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
ディベートとは、議論や討論をすることで、二手に分かれてある論題について、どちらが妥当かの結論を出すことを言います。
競技としてのディベートでは、いわゆる見た目で感じられる要素などはいっさい考慮されず、たとえば感情をこめた話し方であるとか、表情や態度、印象などの、テレビ討論やスピーチ大会で重視されるような要素はいっさい考慮されません。
必要なことは内容であるので、そのためにはこうした要素は意思決定においてはノイズ(雑音)でしかないからです。
企業の意思決定にかぎらず、国会で議論が交わされるのも、裁判で原告と被告に分かれて主張や立証を争うのも、すべてディベートです。
そうすることによって、より確からしい結論にたどりつける可能性があるからです。
民主主義がまともに機能するのは、こうしたディベートがしっかり実践されている場合だけです。
それを、いわゆる多数決による議決だけで意思決定が行なわれているとしたら、そこでは民主主義は単なる「多数派による独裁」でしかありません。
国会であれ、裁判であれ、株主総会であれ、議決にいたるまでに十分なディベートが行なわれ、十分な情報が議論において提示されるからこそ、妥当な判断が可能になるのです。
しかしもし、このような意思決定の場に「情状酌量」が持ち込まれたらどうなるでしょうか。
「Aの案を提示した社員はさえない中年男だったが、B案は美人の女性社員だった。
だからB案を指示しよう」
「あいつはネクタイも曲がってるし、服装もだらしないし、そういうヤツの言うことは信用できない」
「彼は同じ大学の後輩だし、子どもも同じ小学校に通っているから賛成してやろう」
このような感じで議論の内容以外の要素が判断材料として働くようになると、それはもう議論ではなくまともなディベートは望めません。
「情状酌量」によって、対立する側の立場の対等性が保たれないのであれば、十分な発言の機会が与えられない、あるいは与えられるといった不公平が生まれます。
そうなると議論の場には偏った情報しか提供されないことになり、判断はより偏っていくことになる。
結局、「情状酌量」を持ち込むと、意思決定をする機関は妥当な解決から遠ざかることになります。
これこそが問題解決能力が低い、つまり端的にいえば「無能」なのです。
どんなに理を尽くしても受け入れられず、それとは別の要素で意思決定が行なわれることが続けば、合理的な人ほどエフィカシー(自分の能力に対する自信)が低下するのは無理もありません。
つまり日本の企業や裁判所は、「情状酌量」で判断する組織なので、民主主義の根本を否定していると言えます。
前章で、日本人を奴隷化した元凶の一つであると断罪した儒教思想ですが、そのもっとも重要な教訓は、言うまでもなく、孔子の言行を記録した『論語』です。
その中に、
「巧言令色鮮(すくな)し仁」という、有名なフレーズがあります。
この意味は一般的に、「弁舌が巧みで、愛想よく取り繕(つくろ)った顔をする者には、人としてもっとも重要な徳目である”仁”が欠けていることが多い」という意味に解釈されています。
この「巧言令色鮮し仁」こそ、日本の「情状酌量文化」に、きわめて大きな悪影響を及ぼした考え方だと私は思っています。
一見すると「巧言令色」のいう批判は、上面に騙されるなという意味にも取れるので、むしろ「情状酌量」を否定しているように思えるかもしれません。
しかしここで否定されているのは、詭弁や屁理屈ではなく、あくまでも巧みな弁舌です。
この否定は議論やスキルの否定と同じであり、つまりは、孔子はディベートを否定しているのです。
「ディベートの上手いヤツは、愛想を振りまくヤツと同じく信用できない」。これが孔子の考え方です。
そして今でも日本では、男は寡黙なほうがカッコいいとされる傾向がありますが、元はといえばこのフレーズに由来しているのです。
ディベートが機能せず、「情状酌量」がまかり通る日本的風土の原点は、またしても儒教思想だったわけです。
また「巧言令色」を否定する一方で、儒教思想が重視する「仁」という徳目は何かといえば、これも大いに問題があると言わざるをえない。
「仁」はふつう「思いやり」と訳されます。
自分を律しつつも、他者を思いやる気持ちが「仁」ですが、これだけ聞くと、素晴らしい教えのようにも思えます。
しかし儒教の解釈学では、「仁」を構成する要素は「忠」と「恕(じょ)」であるとされており、「忠」は文字通り忠義の忠であり、「恕」は「思いやり」と訳されています。
(実際には「恕」は儒教の重要な儀式のことを指している。詳しくは拙著「洗脳論語」(三才ブックス)を参照。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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日本人が感じている抑圧感の正体は何なのか
徳育は儒教思想のすりこみ、体育は軍事教練・・・だから、暴力教師があとを絶たない。
「公正さ」を主張すると、生意気だといわれる風土をなんとかしないと、ダメだ!
( ̄^ ̄)ゞ
zeraniumのブログ より転載
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日本人が感じている抑圧感の正体は何なのか B
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83958587
日本社会にはフェアネス、つまり「公正さ」は存在しません。
近代になってフェアネスという言葉だけは輸入したものの、フェアネスを否定する儒教思想が浸透しているので仕方がないことではあります。
フェアネスのない日本社会では「情状酌量」がまかり通り、裁判所から企業にいたるまで、さまざまな組織の問題解決能力が低いままに放置されています。
たとえば、「お客様は神様」思想がはびこって、健全な経済活動の妨げになっていることはすでに指摘しました。しかしフェアネスがないことによる最大の弊害は、もっと別のところにあります。
それは、社会の成員をなす一人ひとりの可能性を奪ってしまうことです。
繰り返し述べてきましたが、フェアネスは、「本質的に人間は誰もが平等である」との良識のことです。
そうである以上、少なくとも建前上は、すべての人に均等に自己実現の機会が与えられていなければ平等とは言えません。
たとえばアメリカでは、実際に誰もが支配者側に入り込むチャンスが与えられており、つまり個人の可能性を生かせる社会です。
ところが日本社会は違います。
フェアネスがないために、「本質的に人間は皆平等だ」というメンタリティがありません。
だから金持ちや権力者は、ほんとうに偉い人とみなされてしまいます。
つまり、「自分たちと同じ対等な人間の一人が成功した、権力の座に昇りつめた」ではなく、「成功して、権力の座に昇りつめた人は、自分たちとは違う」、と差別的な人間観が生まれてしまうのです。
こうなると、同じ社会の成員といっても、人それぞれの価値が違うことになります。
価値が違う以上、対等に扱われる必要はない。
したがって平等にチャンスが与えられなくてもかまわないという発想になります。
チャンスが平等ではない社会はいったいどうなるでしょうか。
ひと言でいえば、封建社会になります。
日本では、国会議員の子どもが国会議員になる確率は、一般人の子どもが国会議員になる確率の約3万倍です。
ちなみに、自民党では世襲議員の比率は約50%であり、国会議員全体で約40%です。(「世論力テレビ」調べ)
これは明らかに違憲です。
最低でも、親の選挙区には出られないといった程度のルールは必要でしょう。
ほかにも、医者は二世や三世が多い職業として知られています。また、あまり知られてはいませんが、日本ではアカデミズムの世界も「世襲」の比率が非常に高いのです。
法科大学院制度になり多額の学費が必要になったことにより、今後は弁護士など法曹の世界も、今よりいっそう世襲化が進むでしょう。
それだけでなくさらに、個人の才能だけが肝心なはずのビジネスの世界でさえ、似たようなことが起きています。
楽天の会長兼社長である三木谷浩史氏は、父親は神戸大学教授、母親は戦前にアメリカで学んだという帰国子女の名門の家柄で、彼は大学を卒業すると、名家出身者が多かった当時の日本勧業銀行に入行しています。
同じく、IT企業を起こした新興起業家でありながら、ごくふつうの家庭で育ち、東大中退で大企業経験もない堀江貴文氏は、徹底的に財界から嫌われ、最終的には潰されてしまった。
一方の三木谷氏は、財界からの覚えもめでたく、それは彼が経団連を退会するようなあからさまな反抗をした後でも変りません。
そこに出身による差別を見て取るのは、不自然なことでしょうか?
このように、機会の平等がない社会では、もともと有利な立場にいる人とそうでない人とのあいだで、自己実現の可能性には大きな開きがあるのです。
自己実現の機会の平等・不平等については、さまざまな議論があります。
少なくとも、一部の特権階級出身の人にしかチャンスがないとまでは言えず、そうでない人にも不平等とはいえチャンスはそれなりにあります。
しかしより深刻な問題は、多くの人々がその少ないチャンスさえも活かそうとはせずに、早々に、成功することや自己実現を諦めてしまうことにあります。
つまり、すでに機会の不平等があるうえに、日本人は自らが住む封建社会をより一層固定化させるかのように、自分に与えられた「分際」に留まってしまうのです。
その背景には、日本の教育による誘導があります。
現代日本の教育を基礎づけている考え方に「三育主義」というものがあります。
それは「知育」徳育」「体育」の三つを、バランスよく施すのが正しい教育であるとした思想です。
もともとはイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが唱えたこの思想を、明治の日本人が採り入れたのです。
三育のうち国語、算数、理科、社会、音楽・・・といった知識を教える「知育」はよいとしても、問題は「徳育」と「体育」です。
徳育は、分かりやすい例でいえば道徳の授業です。
日本ではしつけや道徳を教えることが学校の役割になっています。
しつけや道徳を教えるということは、特定の価値感=思想や宗教を教えることです。
すでに述べてきたように、日本人にもっとも影響を与えている思想は儒教です。
そういうと、「道徳の時間に儒教教育を受けた覚えはない」と言われるかもしれませんが、しかし「年長さんの言うことを聞きましょう」とか、「勝手な行動は慎みましょう」といったことを、さんざん叩き込まれたのではないでしょうか? それはまさに儒教の価値感です。
さらに、体育も問題です。
子どもたちの好きなように身体を動かせるのならいいのですが、ご存知のように、日本の体育の授業でもっとも重視されているのは、「先生の号令に合わせて動くこと」で、簡単にいえば軍事教練です。ここでは露骨に、命令をよく聞く人間の養成が行なわれているのです。
徳育と体育によって、日本の子どもたちは徹底的に秩序を守るように仕込まれます。
秩序を乱す発想や行動は許されないわけですから、考え方としてはすでにある社会構造の中における上昇を願うようになります。
もともと特権を持たない一般の人々は、ユニークな発想や考え方をすることではじめて逆転の可能性が生まれ、成功や自己実現に近づくことができます。
しかし日本の教育は、そういった自由な発想や考え方をあらかじめ潰してしまうのです。
その結果、特権を与えられていない多くの人々は、「東大を出て官僚に」「有名大学から大企業へ」といった既に敷かれてあるレールの上でしか、成功や自己実現を考えることができません。
キャリア官僚は無理でも、せめて地方公務員に、東電には入れなくても、せめて東電の下請け企業へ、と既存の秩序にしがみつこうとするのです。
つまり、自分たちを縛っているピラミッド構造の一部を進んで担おうとするのです。
こうして、日本の封建社会は維持されていくのです。
そしてこれこそが、日本人に元気がない最大の理由でしょう。
本章の冒頭で述べたように、日本の経済力は相対的には、決して衰えてはいません。
経済格差もアメリカほどには大きくはなく、政治的にも一応の自由な社会は保証されています。にもかかわらず、日本社会には活力がなく、日本人はどこか元気がない。幸福を感じられない。
それは、個人の可能性があらかじめ限定されているからです。
自分の未来に限りない希望が持てなければ、人は現在を楽しむことはできないし、未来に向かって挑戦することはできないからです。
この状況をいかに変えていくべきかを考えるために、本章ではさらにもう一歩踏み込んで、私たちを縛っているものの正体を見極めたいと思います。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋したもの
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「公正さ」を主張すると、生意気だといわれる風土をなんとかしないと、ダメだ!
( ̄^ ̄)ゞ
zeraniumのブログ より転載
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日本人が感じている抑圧感の正体は何なのか B
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83958587
日本社会にはフェアネス、つまり「公正さ」は存在しません。
近代になってフェアネスという言葉だけは輸入したものの、フェアネスを否定する儒教思想が浸透しているので仕方がないことではあります。
フェアネスのない日本社会では「情状酌量」がまかり通り、裁判所から企業にいたるまで、さまざまな組織の問題解決能力が低いままに放置されています。
たとえば、「お客様は神様」思想がはびこって、健全な経済活動の妨げになっていることはすでに指摘しました。しかしフェアネスがないことによる最大の弊害は、もっと別のところにあります。
それは、社会の成員をなす一人ひとりの可能性を奪ってしまうことです。
繰り返し述べてきましたが、フェアネスは、「本質的に人間は誰もが平等である」との良識のことです。
そうである以上、少なくとも建前上は、すべての人に均等に自己実現の機会が与えられていなければ平等とは言えません。
たとえばアメリカでは、実際に誰もが支配者側に入り込むチャンスが与えられており、つまり個人の可能性を生かせる社会です。
ところが日本社会は違います。
フェアネスがないために、「本質的に人間は皆平等だ」というメンタリティがありません。
だから金持ちや権力者は、ほんとうに偉い人とみなされてしまいます。
つまり、「自分たちと同じ対等な人間の一人が成功した、権力の座に昇りつめた」ではなく、「成功して、権力の座に昇りつめた人は、自分たちとは違う」、と差別的な人間観が生まれてしまうのです。
こうなると、同じ社会の成員といっても、人それぞれの価値が違うことになります。
価値が違う以上、対等に扱われる必要はない。
したがって平等にチャンスが与えられなくてもかまわないという発想になります。
チャンスが平等ではない社会はいったいどうなるでしょうか。
ひと言でいえば、封建社会になります。
日本では、国会議員の子どもが国会議員になる確率は、一般人の子どもが国会議員になる確率の約3万倍です。
ちなみに、自民党では世襲議員の比率は約50%であり、国会議員全体で約40%です。(「世論力テレビ」調べ)
これは明らかに違憲です。
最低でも、親の選挙区には出られないといった程度のルールは必要でしょう。
ほかにも、医者は二世や三世が多い職業として知られています。また、あまり知られてはいませんが、日本ではアカデミズムの世界も「世襲」の比率が非常に高いのです。
法科大学院制度になり多額の学費が必要になったことにより、今後は弁護士など法曹の世界も、今よりいっそう世襲化が進むでしょう。
それだけでなくさらに、個人の才能だけが肝心なはずのビジネスの世界でさえ、似たようなことが起きています。
楽天の会長兼社長である三木谷浩史氏は、父親は神戸大学教授、母親は戦前にアメリカで学んだという帰国子女の名門の家柄で、彼は大学を卒業すると、名家出身者が多かった当時の日本勧業銀行に入行しています。
同じく、IT企業を起こした新興起業家でありながら、ごくふつうの家庭で育ち、東大中退で大企業経験もない堀江貴文氏は、徹底的に財界から嫌われ、最終的には潰されてしまった。
一方の三木谷氏は、財界からの覚えもめでたく、それは彼が経団連を退会するようなあからさまな反抗をした後でも変りません。
そこに出身による差別を見て取るのは、不自然なことでしょうか?
このように、機会の平等がない社会では、もともと有利な立場にいる人とそうでない人とのあいだで、自己実現の可能性には大きな開きがあるのです。
自己実現の機会の平等・不平等については、さまざまな議論があります。
少なくとも、一部の特権階級出身の人にしかチャンスがないとまでは言えず、そうでない人にも不平等とはいえチャンスはそれなりにあります。
しかしより深刻な問題は、多くの人々がその少ないチャンスさえも活かそうとはせずに、早々に、成功することや自己実現を諦めてしまうことにあります。
つまり、すでに機会の不平等があるうえに、日本人は自らが住む封建社会をより一層固定化させるかのように、自分に与えられた「分際」に留まってしまうのです。
その背景には、日本の教育による誘導があります。
現代日本の教育を基礎づけている考え方に「三育主義」というものがあります。
それは「知育」徳育」「体育」の三つを、バランスよく施すのが正しい教育であるとした思想です。
もともとはイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが唱えたこの思想を、明治の日本人が採り入れたのです。
三育のうち国語、算数、理科、社会、音楽・・・といった知識を教える「知育」はよいとしても、問題は「徳育」と「体育」です。
徳育は、分かりやすい例でいえば道徳の授業です。
日本ではしつけや道徳を教えることが学校の役割になっています。
しつけや道徳を教えるということは、特定の価値感=思想や宗教を教えることです。
すでに述べてきたように、日本人にもっとも影響を与えている思想は儒教です。
そういうと、「道徳の時間に儒教教育を受けた覚えはない」と言われるかもしれませんが、しかし「年長さんの言うことを聞きましょう」とか、「勝手な行動は慎みましょう」といったことを、さんざん叩き込まれたのではないでしょうか? それはまさに儒教の価値感です。
さらに、体育も問題です。
子どもたちの好きなように身体を動かせるのならいいのですが、ご存知のように、日本の体育の授業でもっとも重視されているのは、「先生の号令に合わせて動くこと」で、簡単にいえば軍事教練です。ここでは露骨に、命令をよく聞く人間の養成が行なわれているのです。
徳育と体育によって、日本の子どもたちは徹底的に秩序を守るように仕込まれます。
秩序を乱す発想や行動は許されないわけですから、考え方としてはすでにある社会構造の中における上昇を願うようになります。
もともと特権を持たない一般の人々は、ユニークな発想や考え方をすることではじめて逆転の可能性が生まれ、成功や自己実現に近づくことができます。
しかし日本の教育は、そういった自由な発想や考え方をあらかじめ潰してしまうのです。
その結果、特権を与えられていない多くの人々は、「東大を出て官僚に」「有名大学から大企業へ」といった既に敷かれてあるレールの上でしか、成功や自己実現を考えることができません。
キャリア官僚は無理でも、せめて地方公務員に、東電には入れなくても、せめて東電の下請け企業へ、と既存の秩序にしがみつこうとするのです。
つまり、自分たちを縛っているピラミッド構造の一部を進んで担おうとするのです。
こうして、日本の封建社会は維持されていくのです。
そしてこれこそが、日本人に元気がない最大の理由でしょう。
本章の冒頭で述べたように、日本の経済力は相対的には、決して衰えてはいません。
経済格差もアメリカほどには大きくはなく、政治的にも一応の自由な社会は保証されています。にもかかわらず、日本社会には活力がなく、日本人はどこか元気がない。幸福を感じられない。
それは、個人の可能性があらかじめ限定されているからです。
自分の未来に限りない希望が持てなければ、人は現在を楽しむことはできないし、未来に向かって挑戦することはできないからです。
この状況をいかに変えていくべきかを考えるために、本章ではさらにもう一歩踏み込んで、私たちを縛っているものの正体を見極めたいと思います。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋したもの
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米国の支配者の意向で「愛国心」を洗脳される日本人(2)
zeraniumのブログ より転載
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米国の支配者の意向で「愛国心」を洗脳される日本人 @
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83905328
このようにアメリカ政府の都合によって、日本人の愛国心はボリュームアップされています。
たしかにワールドカップやオリンピックでは、日本代表を応援する若者たちは、屈託なく日の丸を掲げ、君が代を斉唱するわけですが、これは愛国心ではありません。
もう一つ、愛国心とは無関係な現象として挙げられるのが「ネット右翼」です。
彼らの「原論活動」の動機は、自己肯定の欲求です。インターネット上では匿名で発言するかぎり、いくらでも他人を非難できる。
相手が中国や韓国の政府だろうが、日本の政治家だろうが、巨大マスメディアだろうが、反論を怖れずに口を極めて罵倒することができるのです。
そして何よりも、悪口をぶつけている対象と自分が対等になったような気になれるわけです。
余談ですが、本書のような書籍を刊行するたびに、私もネット媒体にさんざん悪口を書かれます。
要するにネット右翼の問題は愛国心の高まりというよりも、若い世代の居場所探しの問題、メンタルヘルスの問題と考えるべきです。
「自殺者が増えている」ことや「うつ病の患者が増え、SSRIなどの抗うつ剤の処方の異常な伸び」などの問題として対処されるのが適当と考えられます。
あらためて愛国心とは何かを確認すると、それは洗脳されないかぎりは生まれない人工的な概念でした。
そもそも人間は国などという大規模な集団に自然と帰属意識が持てるほど高い抽象度で思考してはいません。
自然に生まれる感情としては、愛国心ならぬ「愛家族心」、「愛ご近所心」といった程度がせいぜいなのです。
洗脳の産物である愛国心は、社会に参加している大人にも子どもにも同じように生じます。素直な分、むしろ子どもの方が愛国心を植え付けやすいくらいです。
ちなみに愛国心とナショナリズムはどこが違うかといえば、愛国心が洗脳であるのに対して、ナショナリズムは利害の問題であるという本質的な違いだと私は考えます。
つまりナショナリズムには必ず、ビジネスや金銭の問題が絡んでいるのです。
もっとも分かりやすい例が、アフリカのナショナリズムでしょう。
さまざまな問題はあるものの、その本質は「アフリカの土地、建物、資源を欧米人から自分たちの手に取り戻そう」ということです。
同様に日本のナショナリズムは、「海底油田を確保するために、尖閣諸島を狙う中国に警戒しよう」、あるいは「日本国内の農業を保護するためにTPPへの参加を阻止しよう」といった話です。
しかし結論からいうと、日本人の愛国心はまだ未熟な段階です。
学生たちは問われれば、「国のイメージはいいものだ」と答えるかもしれませんが、果たしてその愛国心が実際に愛国的な行動まで伴うかと言えば疑問です。
2003年から7年間にわたって、イラクの人道支援に伴う自衛隊の派遣が行なわれていた頃、航空自衛隊のパイロットが大量に退官しています。
空自のパイロットと言えば、士官に相当する幹部自衛官で、その多くは防衛大学校を卒業したエリートです。つまり一般的な日本人や自衛官の平均よりも、さらに強い愛国洗脳を受けているはずなのです。
その彼らからして、戦闘に巻き込まれる危険が生じると、あわてて逃げ出したのです。
あるいは報酬が高いからと、あっさりと転職したのです。
私は決して非難しているのではなく、人間として正常な判断だと思いますが。
ということは一般の自衛官は、もしも軍靴(ぐんか)の足音が近づいてきたら、どう行動するでしょうか。
おそらく大多数が退官すると言い出すでしょう。
自衛官の多くは、出動するのは災害救助の時くらいと考えて、今の仕事を続けています。
給料をもらいながら、人助けをすれば感謝されるのでやりがいもある。
資格も取れるし、退官後の再就職先も充実している・・・。
彼らはこうしたごく普通の人間らしい発想で、職業を選択しているに過ぎません。
愛国心ゆえに志願しているわけではないのです。
もちろん国を守る専門家であるはずの自衛官は、有事に際して自分を犠牲にしてでも国を守るべし、という特別な洗脳を受けているはずです。
にもかかわらず情勢がきな臭くなると、幹部自衛官が先を争って辞めていく。
このことからみても、基本的な洗脳しか受けていない一般の日本人の愛国心がどの程度のものか、おおよその見当はつくでしょう。
だからこそ政府は、国旗高揚や国家斉唱など、愛国心を強化するための努力に力を入れているのです。もちろんその背後にアメリカの支配者の意向があるのは言うまでもありませんが。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋したもの
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米国の支配者の意向で「愛国心」を洗脳される日本人 @
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83905328
このようにアメリカ政府の都合によって、日本人の愛国心はボリュームアップされています。
たしかにワールドカップやオリンピックでは、日本代表を応援する若者たちは、屈託なく日の丸を掲げ、君が代を斉唱するわけですが、これは愛国心ではありません。
もう一つ、愛国心とは無関係な現象として挙げられるのが「ネット右翼」です。
彼らの「原論活動」の動機は、自己肯定の欲求です。インターネット上では匿名で発言するかぎり、いくらでも他人を非難できる。
相手が中国や韓国の政府だろうが、日本の政治家だろうが、巨大マスメディアだろうが、反論を怖れずに口を極めて罵倒することができるのです。
そして何よりも、悪口をぶつけている対象と自分が対等になったような気になれるわけです。
余談ですが、本書のような書籍を刊行するたびに、私もネット媒体にさんざん悪口を書かれます。
要するにネット右翼の問題は愛国心の高まりというよりも、若い世代の居場所探しの問題、メンタルヘルスの問題と考えるべきです。
「自殺者が増えている」ことや「うつ病の患者が増え、SSRIなどの抗うつ剤の処方の異常な伸び」などの問題として対処されるのが適当と考えられます。
あらためて愛国心とは何かを確認すると、それは洗脳されないかぎりは生まれない人工的な概念でした。
そもそも人間は国などという大規模な集団に自然と帰属意識が持てるほど高い抽象度で思考してはいません。
自然に生まれる感情としては、愛国心ならぬ「愛家族心」、「愛ご近所心」といった程度がせいぜいなのです。
洗脳の産物である愛国心は、社会に参加している大人にも子どもにも同じように生じます。素直な分、むしろ子どもの方が愛国心を植え付けやすいくらいです。
ちなみに愛国心とナショナリズムはどこが違うかといえば、愛国心が洗脳であるのに対して、ナショナリズムは利害の問題であるという本質的な違いだと私は考えます。
つまりナショナリズムには必ず、ビジネスや金銭の問題が絡んでいるのです。
もっとも分かりやすい例が、アフリカのナショナリズムでしょう。
さまざまな問題はあるものの、その本質は「アフリカの土地、建物、資源を欧米人から自分たちの手に取り戻そう」ということです。
同様に日本のナショナリズムは、「海底油田を確保するために、尖閣諸島を狙う中国に警戒しよう」、あるいは「日本国内の農業を保護するためにTPPへの参加を阻止しよう」といった話です。
しかし結論からいうと、日本人の愛国心はまだ未熟な段階です。
学生たちは問われれば、「国のイメージはいいものだ」と答えるかもしれませんが、果たしてその愛国心が実際に愛国的な行動まで伴うかと言えば疑問です。
2003年から7年間にわたって、イラクの人道支援に伴う自衛隊の派遣が行なわれていた頃、航空自衛隊のパイロットが大量に退官しています。
空自のパイロットと言えば、士官に相当する幹部自衛官で、その多くは防衛大学校を卒業したエリートです。つまり一般的な日本人や自衛官の平均よりも、さらに強い愛国洗脳を受けているはずなのです。
その彼らからして、戦闘に巻き込まれる危険が生じると、あわてて逃げ出したのです。
あるいは報酬が高いからと、あっさりと転職したのです。
私は決して非難しているのではなく、人間として正常な判断だと思いますが。
ということは一般の自衛官は、もしも軍靴(ぐんか)の足音が近づいてきたら、どう行動するでしょうか。
おそらく大多数が退官すると言い出すでしょう。
自衛官の多くは、出動するのは災害救助の時くらいと考えて、今の仕事を続けています。
給料をもらいながら、人助けをすれば感謝されるのでやりがいもある。
資格も取れるし、退官後の再就職先も充実している・・・。
彼らはこうしたごく普通の人間らしい発想で、職業を選択しているに過ぎません。
愛国心ゆえに志願しているわけではないのです。
もちろん国を守る専門家であるはずの自衛官は、有事に際して自分を犠牲にしてでも国を守るべし、という特別な洗脳を受けているはずです。
にもかかわらず情勢がきな臭くなると、幹部自衛官が先を争って辞めていく。
このことからみても、基本的な洗脳しか受けていない一般の日本人の愛国心がどの程度のものか、おおよその見当はつくでしょう。
だからこそ政府は、国旗高揚や国家斉唱など、愛国心を強化するための努力に力を入れているのです。もちろんその背後にアメリカの支配者の意向があるのは言うまでもありませんが。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋したもの
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