2013年02月01日
日本人が感じている抑圧感の正体は何なのか
徳育は儒教思想のすりこみ、体育は軍事教練・・・だから、暴力教師があとを絶たない。
「公正さ」を主張すると、生意気だといわれる風土をなんとかしないと、ダメだ!
( ̄^ ̄)ゞ
zeraniumのブログ より転載
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日本人が感じている抑圧感の正体は何なのか B
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83958587
日本社会にはフェアネス、つまり「公正さ」は存在しません。
近代になってフェアネスという言葉だけは輸入したものの、フェアネスを否定する儒教思想が浸透しているので仕方がないことではあります。
フェアネスのない日本社会では「情状酌量」がまかり通り、裁判所から企業にいたるまで、さまざまな組織の問題解決能力が低いままに放置されています。
たとえば、「お客様は神様」思想がはびこって、健全な経済活動の妨げになっていることはすでに指摘しました。しかしフェアネスがないことによる最大の弊害は、もっと別のところにあります。
それは、社会の成員をなす一人ひとりの可能性を奪ってしまうことです。
繰り返し述べてきましたが、フェアネスは、「本質的に人間は誰もが平等である」との良識のことです。
そうである以上、少なくとも建前上は、すべての人に均等に自己実現の機会が与えられていなければ平等とは言えません。
たとえばアメリカでは、実際に誰もが支配者側に入り込むチャンスが与えられており、つまり個人の可能性を生かせる社会です。
ところが日本社会は違います。
フェアネスがないために、「本質的に人間は皆平等だ」というメンタリティがありません。
だから金持ちや権力者は、ほんとうに偉い人とみなされてしまいます。
つまり、「自分たちと同じ対等な人間の一人が成功した、権力の座に昇りつめた」ではなく、「成功して、権力の座に昇りつめた人は、自分たちとは違う」、と差別的な人間観が生まれてしまうのです。
こうなると、同じ社会の成員といっても、人それぞれの価値が違うことになります。
価値が違う以上、対等に扱われる必要はない。
したがって平等にチャンスが与えられなくてもかまわないという発想になります。
チャンスが平等ではない社会はいったいどうなるでしょうか。
ひと言でいえば、封建社会になります。
日本では、国会議員の子どもが国会議員になる確率は、一般人の子どもが国会議員になる確率の約3万倍です。
ちなみに、自民党では世襲議員の比率は約50%であり、国会議員全体で約40%です。(「世論力テレビ」調べ)
これは明らかに違憲です。
最低でも、親の選挙区には出られないといった程度のルールは必要でしょう。
ほかにも、医者は二世や三世が多い職業として知られています。また、あまり知られてはいませんが、日本ではアカデミズムの世界も「世襲」の比率が非常に高いのです。
法科大学院制度になり多額の学費が必要になったことにより、今後は弁護士など法曹の世界も、今よりいっそう世襲化が進むでしょう。
それだけでなくさらに、個人の才能だけが肝心なはずのビジネスの世界でさえ、似たようなことが起きています。
楽天の会長兼社長である三木谷浩史氏は、父親は神戸大学教授、母親は戦前にアメリカで学んだという帰国子女の名門の家柄で、彼は大学を卒業すると、名家出身者が多かった当時の日本勧業銀行に入行しています。
同じく、IT企業を起こした新興起業家でありながら、ごくふつうの家庭で育ち、東大中退で大企業経験もない堀江貴文氏は、徹底的に財界から嫌われ、最終的には潰されてしまった。
一方の三木谷氏は、財界からの覚えもめでたく、それは彼が経団連を退会するようなあからさまな反抗をした後でも変りません。
そこに出身による差別を見て取るのは、不自然なことでしょうか?
このように、機会の平等がない社会では、もともと有利な立場にいる人とそうでない人とのあいだで、自己実現の可能性には大きな開きがあるのです。
自己実現の機会の平等・不平等については、さまざまな議論があります。
少なくとも、一部の特権階級出身の人にしかチャンスがないとまでは言えず、そうでない人にも不平等とはいえチャンスはそれなりにあります。
しかしより深刻な問題は、多くの人々がその少ないチャンスさえも活かそうとはせずに、早々に、成功することや自己実現を諦めてしまうことにあります。
つまり、すでに機会の不平等があるうえに、日本人は自らが住む封建社会をより一層固定化させるかのように、自分に与えられた「分際」に留まってしまうのです。
その背景には、日本の教育による誘導があります。
現代日本の教育を基礎づけている考え方に「三育主義」というものがあります。
それは「知育」徳育」「体育」の三つを、バランスよく施すのが正しい教育であるとした思想です。
もともとはイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが唱えたこの思想を、明治の日本人が採り入れたのです。
三育のうち国語、算数、理科、社会、音楽・・・といった知識を教える「知育」はよいとしても、問題は「徳育」と「体育」です。
徳育は、分かりやすい例でいえば道徳の授業です。
日本ではしつけや道徳を教えることが学校の役割になっています。
しつけや道徳を教えるということは、特定の価値感=思想や宗教を教えることです。
すでに述べてきたように、日本人にもっとも影響を与えている思想は儒教です。
そういうと、「道徳の時間に儒教教育を受けた覚えはない」と言われるかもしれませんが、しかし「年長さんの言うことを聞きましょう」とか、「勝手な行動は慎みましょう」といったことを、さんざん叩き込まれたのではないでしょうか? それはまさに儒教の価値感です。
さらに、体育も問題です。
子どもたちの好きなように身体を動かせるのならいいのですが、ご存知のように、日本の体育の授業でもっとも重視されているのは、「先生の号令に合わせて動くこと」で、簡単にいえば軍事教練です。ここでは露骨に、命令をよく聞く人間の養成が行なわれているのです。
徳育と体育によって、日本の子どもたちは徹底的に秩序を守るように仕込まれます。
秩序を乱す発想や行動は許されないわけですから、考え方としてはすでにある社会構造の中における上昇を願うようになります。
もともと特権を持たない一般の人々は、ユニークな発想や考え方をすることではじめて逆転の可能性が生まれ、成功や自己実現に近づくことができます。
しかし日本の教育は、そういった自由な発想や考え方をあらかじめ潰してしまうのです。
その結果、特権を与えられていない多くの人々は、「東大を出て官僚に」「有名大学から大企業へ」といった既に敷かれてあるレールの上でしか、成功や自己実現を考えることができません。
キャリア官僚は無理でも、せめて地方公務員に、東電には入れなくても、せめて東電の下請け企業へ、と既存の秩序にしがみつこうとするのです。
つまり、自分たちを縛っているピラミッド構造の一部を進んで担おうとするのです。
こうして、日本の封建社会は維持されていくのです。
そしてこれこそが、日本人に元気がない最大の理由でしょう。
本章の冒頭で述べたように、日本の経済力は相対的には、決して衰えてはいません。
経済格差もアメリカほどには大きくはなく、政治的にも一応の自由な社会は保証されています。にもかかわらず、日本社会には活力がなく、日本人はどこか元気がない。幸福を感じられない。
それは、個人の可能性があらかじめ限定されているからです。
自分の未来に限りない希望が持てなければ、人は現在を楽しむことはできないし、未来に向かって挑戦することはできないからです。
この状況をいかに変えていくべきかを考えるために、本章ではさらにもう一歩踏み込んで、私たちを縛っているものの正体を見極めたいと思います。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋したもの
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「公正さ」を主張すると、生意気だといわれる風土をなんとかしないと、ダメだ!
( ̄^ ̄)ゞ
zeraniumのブログ より転載
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日本人が感じている抑圧感の正体は何なのか B
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83958587
日本社会にはフェアネス、つまり「公正さ」は存在しません。
近代になってフェアネスという言葉だけは輸入したものの、フェアネスを否定する儒教思想が浸透しているので仕方がないことではあります。
フェアネスのない日本社会では「情状酌量」がまかり通り、裁判所から企業にいたるまで、さまざまな組織の問題解決能力が低いままに放置されています。
たとえば、「お客様は神様」思想がはびこって、健全な経済活動の妨げになっていることはすでに指摘しました。しかしフェアネスがないことによる最大の弊害は、もっと別のところにあります。
それは、社会の成員をなす一人ひとりの可能性を奪ってしまうことです。
繰り返し述べてきましたが、フェアネスは、「本質的に人間は誰もが平等である」との良識のことです。
そうである以上、少なくとも建前上は、すべての人に均等に自己実現の機会が与えられていなければ平等とは言えません。
たとえばアメリカでは、実際に誰もが支配者側に入り込むチャンスが与えられており、つまり個人の可能性を生かせる社会です。
ところが日本社会は違います。
フェアネスがないために、「本質的に人間は皆平等だ」というメンタリティがありません。
だから金持ちや権力者は、ほんとうに偉い人とみなされてしまいます。
つまり、「自分たちと同じ対等な人間の一人が成功した、権力の座に昇りつめた」ではなく、「成功して、権力の座に昇りつめた人は、自分たちとは違う」、と差別的な人間観が生まれてしまうのです。
こうなると、同じ社会の成員といっても、人それぞれの価値が違うことになります。
価値が違う以上、対等に扱われる必要はない。
したがって平等にチャンスが与えられなくてもかまわないという発想になります。
チャンスが平等ではない社会はいったいどうなるでしょうか。
ひと言でいえば、封建社会になります。
日本では、国会議員の子どもが国会議員になる確率は、一般人の子どもが国会議員になる確率の約3万倍です。
ちなみに、自民党では世襲議員の比率は約50%であり、国会議員全体で約40%です。(「世論力テレビ」調べ)
これは明らかに違憲です。
最低でも、親の選挙区には出られないといった程度のルールは必要でしょう。
ほかにも、医者は二世や三世が多い職業として知られています。また、あまり知られてはいませんが、日本ではアカデミズムの世界も「世襲」の比率が非常に高いのです。
法科大学院制度になり多額の学費が必要になったことにより、今後は弁護士など法曹の世界も、今よりいっそう世襲化が進むでしょう。
それだけでなくさらに、個人の才能だけが肝心なはずのビジネスの世界でさえ、似たようなことが起きています。
楽天の会長兼社長である三木谷浩史氏は、父親は神戸大学教授、母親は戦前にアメリカで学んだという帰国子女の名門の家柄で、彼は大学を卒業すると、名家出身者が多かった当時の日本勧業銀行に入行しています。
同じく、IT企業を起こした新興起業家でありながら、ごくふつうの家庭で育ち、東大中退で大企業経験もない堀江貴文氏は、徹底的に財界から嫌われ、最終的には潰されてしまった。
一方の三木谷氏は、財界からの覚えもめでたく、それは彼が経団連を退会するようなあからさまな反抗をした後でも変りません。
そこに出身による差別を見て取るのは、不自然なことでしょうか?
このように、機会の平等がない社会では、もともと有利な立場にいる人とそうでない人とのあいだで、自己実現の可能性には大きな開きがあるのです。
自己実現の機会の平等・不平等については、さまざまな議論があります。
少なくとも、一部の特権階級出身の人にしかチャンスがないとまでは言えず、そうでない人にも不平等とはいえチャンスはそれなりにあります。
しかしより深刻な問題は、多くの人々がその少ないチャンスさえも活かそうとはせずに、早々に、成功することや自己実現を諦めてしまうことにあります。
つまり、すでに機会の不平等があるうえに、日本人は自らが住む封建社会をより一層固定化させるかのように、自分に与えられた「分際」に留まってしまうのです。
その背景には、日本の教育による誘導があります。
現代日本の教育を基礎づけている考え方に「三育主義」というものがあります。
それは「知育」徳育」「体育」の三つを、バランスよく施すのが正しい教育であるとした思想です。
もともとはイギリスの哲学者ハーバート・スペンサーが唱えたこの思想を、明治の日本人が採り入れたのです。
三育のうち国語、算数、理科、社会、音楽・・・といった知識を教える「知育」はよいとしても、問題は「徳育」と「体育」です。
徳育は、分かりやすい例でいえば道徳の授業です。
日本ではしつけや道徳を教えることが学校の役割になっています。
しつけや道徳を教えるということは、特定の価値感=思想や宗教を教えることです。
すでに述べてきたように、日本人にもっとも影響を与えている思想は儒教です。
そういうと、「道徳の時間に儒教教育を受けた覚えはない」と言われるかもしれませんが、しかし「年長さんの言うことを聞きましょう」とか、「勝手な行動は慎みましょう」といったことを、さんざん叩き込まれたのではないでしょうか? それはまさに儒教の価値感です。
さらに、体育も問題です。
子どもたちの好きなように身体を動かせるのならいいのですが、ご存知のように、日本の体育の授業でもっとも重視されているのは、「先生の号令に合わせて動くこと」で、簡単にいえば軍事教練です。ここでは露骨に、命令をよく聞く人間の養成が行なわれているのです。
徳育と体育によって、日本の子どもたちは徹底的に秩序を守るように仕込まれます。
秩序を乱す発想や行動は許されないわけですから、考え方としてはすでにある社会構造の中における上昇を願うようになります。
もともと特権を持たない一般の人々は、ユニークな発想や考え方をすることではじめて逆転の可能性が生まれ、成功や自己実現に近づくことができます。
しかし日本の教育は、そういった自由な発想や考え方をあらかじめ潰してしまうのです。
その結果、特権を与えられていない多くの人々は、「東大を出て官僚に」「有名大学から大企業へ」といった既に敷かれてあるレールの上でしか、成功や自己実現を考えることができません。
キャリア官僚は無理でも、せめて地方公務員に、東電には入れなくても、せめて東電の下請け企業へ、と既存の秩序にしがみつこうとするのです。
つまり、自分たちを縛っているピラミッド構造の一部を進んで担おうとするのです。
こうして、日本の封建社会は維持されていくのです。
そしてこれこそが、日本人に元気がない最大の理由でしょう。
本章の冒頭で述べたように、日本の経済力は相対的には、決して衰えてはいません。
経済格差もアメリカほどには大きくはなく、政治的にも一応の自由な社会は保証されています。にもかかわらず、日本社会には活力がなく、日本人はどこか元気がない。幸福を感じられない。
それは、個人の可能性があらかじめ限定されているからです。
自分の未来に限りない希望が持てなければ、人は現在を楽しむことはできないし、未来に向かって挑戦することはできないからです。
この状況をいかに変えていくべきかを考えるために、本章ではさらにもう一歩踏み込んで、私たちを縛っているものの正体を見極めたいと思います。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋したもの
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