2013年02月01日
日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない(1)
zeraniumのブログ より転載
*******************************************************************************
日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
ディベートとは、議論や討論をすることで、二手に分かれてある論題について、どちらが妥当かの結論を出すことを言います。
競技としてのディベートでは、いわゆる見た目で感じられる要素などはいっさい考慮されず、たとえば感情をこめた話し方であるとか、表情や態度、印象などの、テレビ討論やスピーチ大会で重視されるような要素はいっさい考慮されません。
必要なことは内容であるので、そのためにはこうした要素は意思決定においてはノイズ(雑音)でしかないからです。
企業の意思決定にかぎらず、国会で議論が交わされるのも、裁判で原告と被告に分かれて主張や立証を争うのも、すべてディベートです。
そうすることによって、より確からしい結論にたどりつける可能性があるからです。
民主主義がまともに機能するのは、こうしたディベートがしっかり実践されている場合だけです。
それを、いわゆる多数決による議決だけで意思決定が行なわれているとしたら、そこでは民主主義は単なる「多数派による独裁」でしかありません。
国会であれ、裁判であれ、株主総会であれ、議決にいたるまでに十分なディベートが行なわれ、十分な情報が議論において提示されるからこそ、妥当な判断が可能になるのです。
しかしもし、このような意思決定の場に「情状酌量」が持ち込まれたらどうなるでしょうか。
「Aの案を提示した社員はさえない中年男だったが、B案は美人の女性社員だった。
だからB案を指示しよう」
「あいつはネクタイも曲がってるし、服装もだらしないし、そういうヤツの言うことは信用できない」
「彼は同じ大学の後輩だし、子どもも同じ小学校に通っているから賛成してやろう」
このような感じで議論の内容以外の要素が判断材料として働くようになると、それはもう議論ではなくまともなディベートは望めません。
「情状酌量」によって、対立する側の立場の対等性が保たれないのであれば、十分な発言の機会が与えられない、あるいは与えられるといった不公平が生まれます。
そうなると議論の場には偏った情報しか提供されないことになり、判断はより偏っていくことになる。
結局、「情状酌量」を持ち込むと、意思決定をする機関は妥当な解決から遠ざかることになります。
これこそが問題解決能力が低い、つまり端的にいえば「無能」なのです。
どんなに理を尽くしても受け入れられず、それとは別の要素で意思決定が行なわれることが続けば、合理的な人ほどエフィカシー(自分の能力に対する自信)が低下するのは無理もありません。
つまり日本の企業や裁判所は、「情状酌量」で判断する組織なので、民主主義の根本を否定していると言えます。
前章で、日本人を奴隷化した元凶の一つであると断罪した儒教思想ですが、そのもっとも重要な教訓は、言うまでもなく、孔子の言行を記録した『論語』です。
その中に、
「巧言令色鮮(すくな)し仁」という、有名なフレーズがあります。
この意味は一般的に、「弁舌が巧みで、愛想よく取り繕(つくろ)った顔をする者には、人としてもっとも重要な徳目である”仁”が欠けていることが多い」という意味に解釈されています。
この「巧言令色鮮し仁」こそ、日本の「情状酌量文化」に、きわめて大きな悪影響を及ぼした考え方だと私は思っています。
一見すると「巧言令色」のいう批判は、上面に騙されるなという意味にも取れるので、むしろ「情状酌量」を否定しているように思えるかもしれません。
しかしここで否定されているのは、詭弁や屁理屈ではなく、あくまでも巧みな弁舌です。
この否定は議論やスキルの否定と同じであり、つまりは、孔子はディベートを否定しているのです。
「ディベートの上手いヤツは、愛想を振りまくヤツと同じく信用できない」。これが孔子の考え方です。
そして今でも日本では、男は寡黙なほうがカッコいいとされる傾向がありますが、元はといえばこのフレーズに由来しているのです。
ディベートが機能せず、「情状酌量」がまかり通る日本的風土の原点は、またしても儒教思想だったわけです。
また「巧言令色」を否定する一方で、儒教思想が重視する「仁」という徳目は何かといえば、これも大いに問題があると言わざるをえない。
「仁」はふつう「思いやり」と訳されます。
自分を律しつつも、他者を思いやる気持ちが「仁」ですが、これだけ聞くと、素晴らしい教えのようにも思えます。
しかし儒教の解釈学では、「仁」を構成する要素は「忠」と「恕(じょ)」であるとされており、「忠」は文字通り忠義の忠であり、「恕」は「思いやり」と訳されています。
(実際には「恕」は儒教の重要な儀式のことを指している。詳しくは拙著「洗脳論語」(三才ブックス)を参照。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
*******************************************************************************
*******************************************************************************
日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
ディベートとは、議論や討論をすることで、二手に分かれてある論題について、どちらが妥当かの結論を出すことを言います。
競技としてのディベートでは、いわゆる見た目で感じられる要素などはいっさい考慮されず、たとえば感情をこめた話し方であるとか、表情や態度、印象などの、テレビ討論やスピーチ大会で重視されるような要素はいっさい考慮されません。
必要なことは内容であるので、そのためにはこうした要素は意思決定においてはノイズ(雑音)でしかないからです。
企業の意思決定にかぎらず、国会で議論が交わされるのも、裁判で原告と被告に分かれて主張や立証を争うのも、すべてディベートです。
そうすることによって、より確からしい結論にたどりつける可能性があるからです。
民主主義がまともに機能するのは、こうしたディベートがしっかり実践されている場合だけです。
それを、いわゆる多数決による議決だけで意思決定が行なわれているとしたら、そこでは民主主義は単なる「多数派による独裁」でしかありません。
国会であれ、裁判であれ、株主総会であれ、議決にいたるまでに十分なディベートが行なわれ、十分な情報が議論において提示されるからこそ、妥当な判断が可能になるのです。
しかしもし、このような意思決定の場に「情状酌量」が持ち込まれたらどうなるでしょうか。
「Aの案を提示した社員はさえない中年男だったが、B案は美人の女性社員だった。
だからB案を指示しよう」
「あいつはネクタイも曲がってるし、服装もだらしないし、そういうヤツの言うことは信用できない」
「彼は同じ大学の後輩だし、子どもも同じ小学校に通っているから賛成してやろう」
このような感じで議論の内容以外の要素が判断材料として働くようになると、それはもう議論ではなくまともなディベートは望めません。
「情状酌量」によって、対立する側の立場の対等性が保たれないのであれば、十分な発言の機会が与えられない、あるいは与えられるといった不公平が生まれます。
そうなると議論の場には偏った情報しか提供されないことになり、判断はより偏っていくことになる。
結局、「情状酌量」を持ち込むと、意思決定をする機関は妥当な解決から遠ざかることになります。
これこそが問題解決能力が低い、つまり端的にいえば「無能」なのです。
どんなに理を尽くしても受け入れられず、それとは別の要素で意思決定が行なわれることが続けば、合理的な人ほどエフィカシー(自分の能力に対する自信)が低下するのは無理もありません。
つまり日本の企業や裁判所は、「情状酌量」で判断する組織なので、民主主義の根本を否定していると言えます。
前章で、日本人を奴隷化した元凶の一つであると断罪した儒教思想ですが、そのもっとも重要な教訓は、言うまでもなく、孔子の言行を記録した『論語』です。
その中に、
「巧言令色鮮(すくな)し仁」という、有名なフレーズがあります。
この意味は一般的に、「弁舌が巧みで、愛想よく取り繕(つくろ)った顔をする者には、人としてもっとも重要な徳目である”仁”が欠けていることが多い」という意味に解釈されています。
この「巧言令色鮮し仁」こそ、日本の「情状酌量文化」に、きわめて大きな悪影響を及ぼした考え方だと私は思っています。
一見すると「巧言令色」のいう批判は、上面に騙されるなという意味にも取れるので、むしろ「情状酌量」を否定しているように思えるかもしれません。
しかしここで否定されているのは、詭弁や屁理屈ではなく、あくまでも巧みな弁舌です。
この否定は議論やスキルの否定と同じであり、つまりは、孔子はディベートを否定しているのです。
「ディベートの上手いヤツは、愛想を振りまくヤツと同じく信用できない」。これが孔子の考え方です。
そして今でも日本では、男は寡黙なほうがカッコいいとされる傾向がありますが、元はといえばこのフレーズに由来しているのです。
ディベートが機能せず、「情状酌量」がまかり通る日本的風土の原点は、またしても儒教思想だったわけです。
また「巧言令色」を否定する一方で、儒教思想が重視する「仁」という徳目は何かといえば、これも大いに問題があると言わざるをえない。
「仁」はふつう「思いやり」と訳されます。
自分を律しつつも、他者を思いやる気持ちが「仁」ですが、これだけ聞くと、素晴らしい教えのようにも思えます。
しかし儒教の解釈学では、「仁」を構成する要素は「忠」と「恕(じょ)」であるとされており、「忠」は文字通り忠義の忠であり、「恕」は「思いやり」と訳されています。
(実際には「恕」は儒教の重要な儀式のことを指している。詳しくは拙著「洗脳論語」(三才ブックス)を参照。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
*******************************************************************************
【このカテゴリーの最新記事】
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image
-
no image