2013年02月01日
「権力者は人格的に優れている」と信じている日本人
zeraniumのブログ より転載
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「権力者は人格的に優れている」と信じている日本人
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-84393271
「権力者は優れている」という妄信
日本人の国家に対する信頼感はどこに由来しているのか。
実はこれも、本書で再三にわたって指摘してきた「儒教思想」から説明することができます。
儒教においては、「君子=エリート」という図式による支配を、人間社会の理想像としていると述べました。
この君子がなぜエリートとされるかといえば、知力や教養といった能力に優れていることはもちろんですが、それ以上に人格が優れているからです。
そして君子の中で特に、人格的に優れた理想的な人間は「聖人」と呼ばれます。
歴史上、聖人に数えられているのはごく少数で、儒教の祖である孔子や、堯(ぎょう)、舜(しゅん)といった伝説上の天子だけということになっています。
つまり儒教においては「支配者たるエリートは、人格的にも優れていなければならない」という原則」があるのです。
これは額面どおりに受け取るならば、エリートの資格を厳しく限定しているように見えます。
実際に孔子やその後継者たちは、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけないのだ」と考えたのでしょう。しかしこうした建前の意味は、いつのまにかすり替わってしまった。
すなわち、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけない」はずが、いつのころからか、「だから支配者になっている人は、人格的に優れた、いい人のはずだ」という論理に転換してしまったのです。
こうした転倒した原理こそが、日本人の権力者に対する盲目的な信頼の根底にあるものです。
「お上(かみ)」は権力者の地位にある以上、本質的に善なる存在であり、最終的には自分たちを助けてくれる頼れる存在である・・・」儒教思想にどっぷり浸かった日本人は、そのように信じて疑わなくなったのです。
なぜ日本の政治家は下半身スキャンダルで失脚するのか?
とはいえ、もちろん日本人も「お上」を批判することはあります。
というよりも、テレビで流される「街の声」を聞く限りでは、有権者は政治家や官僚を非難ばかりしているようにさえ見えます。
しかしよく注意して見てほしいのですが、こうした街の声の大半は、「政治家の心がけがよくない」とか、「このようなスキャンダルは政治家にふさわしくない」といった、人格的な非難だけで埋め尽くされているのがほとんどなのです。
最近では、原子力安全・保安院のスポークスマンを務めていた当時の西山英彦審議官が、不倫が明るみに出たことで左遷人事を言い渡された。
また自民党の後藤田正純衆議院議員も、写真週刊誌に不倫行為をすっぱ抜かれて党内の役職を辞任しています。
こういった不祥事が非難されるということは、「本来、支配者とは有徳の人であるべき」という信頼感があればこそと言えます。
しかし考えてみれば、こうした期待はどこかおかど違いではないでしょうか。
職業人はあくまでも仕事の腕で評価されるべきもので、政治家にせよ官僚にせよ、それが職業の一つである以上は、資格に必要なものは業務遂行上の能力であるはずなのです。
「政策に弱いやつが議員になるな」「よけいな法律を作ろうとする官僚は行政官失格だ」といった非難は当を得ています。
しかし人格の高潔さや清廉潔白さなどは、政治家や官僚としての能力とは、本来関係がないはずなのです。
もちろん収賄(しゅうわい)などは職業上の犯罪なので罰せられるべきであり、まさに業務遂行上の能力の欠如が非難されるものです。
未成年者の買春もそうで、たとえ仕事の能力と関係がなくてもそれは犯罪なので、職業を問わず許されないというだけの話です。
実際に、イタリアのベルルスコーニ首相は未成年者買春容疑で窮地に追い込まれ、国内の財政不安で辞任を余儀なくされた。
しかしながらたとえ政治家や官僚が不倫をしても、それは道徳上の問題であって犯罪でも何でもないし、言うまでもなく職業上の能力とも何ら関係がない。
長年にわたって失言を繰り返し、不倫疑惑まであったベルルスコーニ氏でしたが、イタリア経済がもっている間は、それでも首相の座を明け渡さなかったのです。
しかし日本ではどうかというと、こうしたスキャンダルはバッシングの材料になり、職を追われる人が少なくない。
これは、日本人が権力者に清廉潔白であることを求めているからなのです。
といっても日本人の清廉潔白志向は、必ずしも日本人が権力者の資格に関して、「厳しい目」を持っていることを意味していない点には要注意です。
むしろ日本人は、「政治家や官僚になるような人は、聖人君子のような立派な人であるハズダ」という素朴な信頼、もっといえば、そのように信じる「信仰」を抱いているからこその証しに過ぎないのです。
つまりその「信仰」を侮辱されたと感じるからこそ、日本人は政治家の下半身スキャンダルに烈火のごとく怒るわけです。
見たくない現実を脳は認識できない
(見たくないと思っている現実を脳は認識しないので、見えない)
繰り返しますが、日本人の権力者への信頼感は、儒教教育によって強化されているので、そのゆえに普通なら国を捨てたくなるような状況でも、日本人は国にしがみつくことに疑問を持ちません。こうした現状維持のメンタリティが、日本人は特に強いといえます。
ただしここでひと言断っておきますが、「まさか自分の預金が封鎖されることはないだろう」「この国でデノミ(貨幣単位を切り下げて100円が1円になること)が実施されるはずがない」といった、現状への根拠のない信頼自体は決して日本特有のものではありません。
それは人間の脳の仕組みに由来する、きわめて普遍的な現象です。
しかもそこには、私が著書でしばしば言及するスコトーマ(思い込み・盲点)の原理が働いています。
私たち人間の脳は、感覚器を通じて入ってくる情報に勝手にフィルターをかけて選別します。
そして重要だと思う情報だけを認識するのです。
なぜならすべての情報を認識するためには、脳をフル回転させなければならず、そうするとあまりにもエネルギーを消費することになり、生存自体に支障を来たしかねないからなのです。
そして脳がある情報を重要と見なすかどうかの基準は、その情報が自分の慣れ親しんだ環境の範囲内にあるかどうかによります。
つまり、現状から見て「ありえない」と思う情報は、たとえ目の前にあっても気づくことができないわけです。スコトーマ(思い込み・盲点)の原理とはこのような脳の限界を指しています。
これはすべてのことにおいてそうで、仮に日本で明らかな預金封鎖の兆候や、紙幣が紙切れになるようなデノミの兆候が存在したとしても、多くの人々はそれをすぐには認識することができません。
なぜなら、要するに見たくない現実は認識しようとしないからです。
実際に、マネーロンダリングや振り込め詐欺を防ぐとの理由から、私たちがATMで預金口座から引き出せる限度額は、原則1日50万円です。
銀行窓口でも1000万円オーダーの預金は当日にはまず下ろせません。
これは銀行法の論理では、すでに預金封鎖されているのと同じことなのですが、スコトーマのせいで、誰もそうは見ていないのです。
いずれにしても、「経済が破綻するなんてありえない」と思っている点で、日本人もアメリカ人も中国人も、少し前のギリシャ人だって、まったく変りはありません。
考えてみてください。ウォール街のファンドマネージャーたちのほんの数パーセントでもアメリカの財政破綻を本気で心配し、ドル売りに走ったとしたら一体どうなるでしょう。
その影響はまずウォール街全体に広がり、次に世界全体にたちまち伝播し、ドルはあっというまに暴落して、今ごろ1ドル30円を切っているかもしれません。
そうなっていないということは、ウォール街の専門家でさえ、彼らのほぼ全員が「この現状は続く」と信じきっている証拠です。
「現状は続く」という思い込み
同じような例で、「年金なんてもらえるわけがないのに、未だに年金保険料を納め続けている日本人は愚かだ」と言う人がいます。
しかし結局日本人は、「なんだかんだ言っても、年金は受け取れるだろう」と皆信じているようです。
しかしこれはアメリカ人でもまったく同じで、アメリカの年金制度は日本のような国家による公的年金制度中心の設計ではなく、企業年金が軸になっています。
またアメリカは日本のように、少子高齢化に悩んでいるわけでもありません。
(「少子高齢化」だから年金が危ない」というのは、実は日本の厚生労働省による詭弁なのですが、その問題はとりあえず置いておきます。)
アメリカの場合は、自国通貨のドルの価値自体が大きく揺らいでいるのでが問題なのです。
したがって積み立てた年金が単なる紙くずになってしまう危険性は非常に大きく、日本で騒ぎ立てられている「年金危機」どころの話ではないのです。
それでもアメリカ人たちは未だに進んで、401kなどの確定拠出型年金にお金を積み立てています。結局は彼らも、実際に被害にあうまでは「自分は大丈夫」だと思い込んでいるのです。
「現状は続く」という根拠なき思い込みの強さを示す例として、私たちはもっと印象的な例を知っています。
2011年3月に大地震に襲われる前、誰がそれを予測していたでしょうか。
もしそんな予測や予感がほんのちょっとでもあれば、避難する人々によるちょっとした「民族大移動」が起きていたはずです。
このように「現状はこのまま続くんだ」という私たちの信頼はきわめて強いことがわかります。
そしてそこから政治的な現体制も基本的には信頼されるわけで、そのうえにさらに強く儒教文化による信頼強化を施したのが、日本の支配体制だといえるのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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「権力者は人格的に優れている」と信じている日本人
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-84393271
「権力者は優れている」という妄信
日本人の国家に対する信頼感はどこに由来しているのか。
実はこれも、本書で再三にわたって指摘してきた「儒教思想」から説明することができます。
儒教においては、「君子=エリート」という図式による支配を、人間社会の理想像としていると述べました。
この君子がなぜエリートとされるかといえば、知力や教養といった能力に優れていることはもちろんですが、それ以上に人格が優れているからです。
そして君子の中で特に、人格的に優れた理想的な人間は「聖人」と呼ばれます。
歴史上、聖人に数えられているのはごく少数で、儒教の祖である孔子や、堯(ぎょう)、舜(しゅん)といった伝説上の天子だけということになっています。
つまり儒教においては「支配者たるエリートは、人格的にも優れていなければならない」という原則」があるのです。
これは額面どおりに受け取るならば、エリートの資格を厳しく限定しているように見えます。
実際に孔子やその後継者たちは、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけないのだ」と考えたのでしょう。しかしこうした建前の意味は、いつのまにかすり替わってしまった。
すなわち、「人格的に優れた人でなければ、支配者になってはいけない」はずが、いつのころからか、「だから支配者になっている人は、人格的に優れた、いい人のはずだ」という論理に転換してしまったのです。
こうした転倒した原理こそが、日本人の権力者に対する盲目的な信頼の根底にあるものです。
「お上(かみ)」は権力者の地位にある以上、本質的に善なる存在であり、最終的には自分たちを助けてくれる頼れる存在である・・・」儒教思想にどっぷり浸かった日本人は、そのように信じて疑わなくなったのです。
なぜ日本の政治家は下半身スキャンダルで失脚するのか?
とはいえ、もちろん日本人も「お上」を批判することはあります。
というよりも、テレビで流される「街の声」を聞く限りでは、有権者は政治家や官僚を非難ばかりしているようにさえ見えます。
しかしよく注意して見てほしいのですが、こうした街の声の大半は、「政治家の心がけがよくない」とか、「このようなスキャンダルは政治家にふさわしくない」といった、人格的な非難だけで埋め尽くされているのがほとんどなのです。
最近では、原子力安全・保安院のスポークスマンを務めていた当時の西山英彦審議官が、不倫が明るみに出たことで左遷人事を言い渡された。
また自民党の後藤田正純衆議院議員も、写真週刊誌に不倫行為をすっぱ抜かれて党内の役職を辞任しています。
こういった不祥事が非難されるということは、「本来、支配者とは有徳の人であるべき」という信頼感があればこそと言えます。
しかし考えてみれば、こうした期待はどこかおかど違いではないでしょうか。
職業人はあくまでも仕事の腕で評価されるべきもので、政治家にせよ官僚にせよ、それが職業の一つである以上は、資格に必要なものは業務遂行上の能力であるはずなのです。
「政策に弱いやつが議員になるな」「よけいな法律を作ろうとする官僚は行政官失格だ」といった非難は当を得ています。
しかし人格の高潔さや清廉潔白さなどは、政治家や官僚としての能力とは、本来関係がないはずなのです。
もちろん収賄(しゅうわい)などは職業上の犯罪なので罰せられるべきであり、まさに業務遂行上の能力の欠如が非難されるものです。
未成年者の買春もそうで、たとえ仕事の能力と関係がなくてもそれは犯罪なので、職業を問わず許されないというだけの話です。
実際に、イタリアのベルルスコーニ首相は未成年者買春容疑で窮地に追い込まれ、国内の財政不安で辞任を余儀なくされた。
しかしながらたとえ政治家や官僚が不倫をしても、それは道徳上の問題であって犯罪でも何でもないし、言うまでもなく職業上の能力とも何ら関係がない。
長年にわたって失言を繰り返し、不倫疑惑まであったベルルスコーニ氏でしたが、イタリア経済がもっている間は、それでも首相の座を明け渡さなかったのです。
しかし日本ではどうかというと、こうしたスキャンダルはバッシングの材料になり、職を追われる人が少なくない。
これは、日本人が権力者に清廉潔白であることを求めているからなのです。
といっても日本人の清廉潔白志向は、必ずしも日本人が権力者の資格に関して、「厳しい目」を持っていることを意味していない点には要注意です。
むしろ日本人は、「政治家や官僚になるような人は、聖人君子のような立派な人であるハズダ」という素朴な信頼、もっといえば、そのように信じる「信仰」を抱いているからこその証しに過ぎないのです。
つまりその「信仰」を侮辱されたと感じるからこそ、日本人は政治家の下半身スキャンダルに烈火のごとく怒るわけです。
見たくない現実を脳は認識できない
(見たくないと思っている現実を脳は認識しないので、見えない)
繰り返しますが、日本人の権力者への信頼感は、儒教教育によって強化されているので、そのゆえに普通なら国を捨てたくなるような状況でも、日本人は国にしがみつくことに疑問を持ちません。こうした現状維持のメンタリティが、日本人は特に強いといえます。
ただしここでひと言断っておきますが、「まさか自分の預金が封鎖されることはないだろう」「この国でデノミ(貨幣単位を切り下げて100円が1円になること)が実施されるはずがない」といった、現状への根拠のない信頼自体は決して日本特有のものではありません。
それは人間の脳の仕組みに由来する、きわめて普遍的な現象です。
しかもそこには、私が著書でしばしば言及するスコトーマ(思い込み・盲点)の原理が働いています。
私たち人間の脳は、感覚器を通じて入ってくる情報に勝手にフィルターをかけて選別します。
そして重要だと思う情報だけを認識するのです。
なぜならすべての情報を認識するためには、脳をフル回転させなければならず、そうするとあまりにもエネルギーを消費することになり、生存自体に支障を来たしかねないからなのです。
そして脳がある情報を重要と見なすかどうかの基準は、その情報が自分の慣れ親しんだ環境の範囲内にあるかどうかによります。
つまり、現状から見て「ありえない」と思う情報は、たとえ目の前にあっても気づくことができないわけです。スコトーマ(思い込み・盲点)の原理とはこのような脳の限界を指しています。
これはすべてのことにおいてそうで、仮に日本で明らかな預金封鎖の兆候や、紙幣が紙切れになるようなデノミの兆候が存在したとしても、多くの人々はそれをすぐには認識することができません。
なぜなら、要するに見たくない現実は認識しようとしないからです。
実際に、マネーロンダリングや振り込め詐欺を防ぐとの理由から、私たちがATMで預金口座から引き出せる限度額は、原則1日50万円です。
銀行窓口でも1000万円オーダーの預金は当日にはまず下ろせません。
これは銀行法の論理では、すでに預金封鎖されているのと同じことなのですが、スコトーマのせいで、誰もそうは見ていないのです。
いずれにしても、「経済が破綻するなんてありえない」と思っている点で、日本人もアメリカ人も中国人も、少し前のギリシャ人だって、まったく変りはありません。
考えてみてください。ウォール街のファンドマネージャーたちのほんの数パーセントでもアメリカの財政破綻を本気で心配し、ドル売りに走ったとしたら一体どうなるでしょう。
その影響はまずウォール街全体に広がり、次に世界全体にたちまち伝播し、ドルはあっというまに暴落して、今ごろ1ドル30円を切っているかもしれません。
そうなっていないということは、ウォール街の専門家でさえ、彼らのほぼ全員が「この現状は続く」と信じきっている証拠です。
「現状は続く」という思い込み
同じような例で、「年金なんてもらえるわけがないのに、未だに年金保険料を納め続けている日本人は愚かだ」と言う人がいます。
しかし結局日本人は、「なんだかんだ言っても、年金は受け取れるだろう」と皆信じているようです。
しかしこれはアメリカ人でもまったく同じで、アメリカの年金制度は日本のような国家による公的年金制度中心の設計ではなく、企業年金が軸になっています。
またアメリカは日本のように、少子高齢化に悩んでいるわけでもありません。
(「少子高齢化」だから年金が危ない」というのは、実は日本の厚生労働省による詭弁なのですが、その問題はとりあえず置いておきます。)
アメリカの場合は、自国通貨のドルの価値自体が大きく揺らいでいるのでが問題なのです。
したがって積み立てた年金が単なる紙くずになってしまう危険性は非常に大きく、日本で騒ぎ立てられている「年金危機」どころの話ではないのです。
それでもアメリカ人たちは未だに進んで、401kなどの確定拠出型年金にお金を積み立てています。結局は彼らも、実際に被害にあうまでは「自分は大丈夫」だと思い込んでいるのです。
「現状は続く」という根拠なき思い込みの強さを示す例として、私たちはもっと印象的な例を知っています。
2011年3月に大地震に襲われる前、誰がそれを予測していたでしょうか。
もしそんな予測や予感がほんのちょっとでもあれば、避難する人々によるちょっとした「民族大移動」が起きていたはずです。
このように「現状はこのまま続くんだ」という私たちの信頼はきわめて強いことがわかります。
そしてそこから政治的な現体制も基本的には信頼されるわけで、そのうえにさらに強く儒教文化による信頼強化を施したのが、日本の支配体制だといえるのです。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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