2013年02月01日
日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない(2)
zeraniumのブログ より転載
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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
第1章で見たように、儒教思想は君子による支配を理想的な社会秩序と見ています。
つまりそれは、エリートを頂点とするピラミッド構造が正しい社会秩序であるとする思想です。
ですからそのピラミッド構造を支える原理こそが、まさに上位者に対しては遠慮し、自分に与えられた分際を守る「忠」の原理です。
ということになると「仁」とは、人と人との対等な個人の間の「思いやり」ではなく、それは「忠」によるピラミッド構造を前提としたうえでの「恕」(思いやり)であり、これこそが「仁」の正体なのです。
それは自分と異なる点を持ちながらも、人間として等しく尊厳をもつ他者に対して思いやる、と言う意味での「思いやり」ではありません。
むしろそれはピラミッド構造における社会秩序の中で、相手にふさわしい扱いをするということであり、「偉い人は偉い人として尊重し、偉くない人はそれなりに尊重する」、という差別思想的な思いやりでしかないのです。
だからこそ「仁」の原理は日本の現代社会においても、上下関係を重視する社会集団と馴染みやすいのです。
それが、たとえば「仁義」を重んじるやくざの世界です。
組織内・組織間の序列が何よりも大切であり、地位にふさわしい面子(めんつ)を立て合うことを至上命令としているヤクザ社会は、「仁」なくしては成り立たないのです。
ここまで見てくると、「巧言令色鮮し仁」の意味はもはや明白でしょう。
「ディベートという公平な議論を否定する一方で、上下関係を重視し、相手の立場にふさわしい扱いをすることを心がける」。
これはひと言で言えば「フェアネス(公正)の否定」にほかなりません。
ですから儒教思想は、近代民主主義社会の大原則である「フェアネス」と真っ向から対立するのです。
当然、儒教思想に洗脳されて、議論・討論のディベートが機能せず、当たり前のように「情状酌量」が横行する日本社会には、フェアネス(公正さ)は存在しないのです。
また、日本に公正さが存在しないことを端的に物語るのが、「お客様は神様です」というセリフです。
それは本来顧客を大事にする商売の心得として、三波春夫氏が信条として語ったとされますが、三波氏自身は、現在のような意味にとられてしまったことに困惑していたようです。
そのどこに問題があるのかというと、客という立場にあるというだけで、正しいとされるところです。
つまり、商取引において客という立場にあるだけで、お客の判断や行動は正しいと見なされることです。
このような弊害を指摘すると、クレーマーのような極端な客の例を想像するかもしれません。
つまり客という立場をカサに着て、明らかに無法な要求をサービス側にする人々です。
もちろんこうした連中も「お客様は神様」思想が生み出したものですが、実はそこに潜む真の問題は根深く、かつ広範囲に広がるものなのです。
商取引の本質は、売買契約や請負契約といった契約です。
それは対等な当事者間で行なわれるべきものです。
また対等だからこそ互いに尊重し合い、契約を守る努力が果たされるのです。
ところが「お客様は神様です」という考えが入り込むと、対等な考えが崩れてしまい、客の側がすべて正しいというのが原則になってしまうので、そこには公正な取引関係はありません。
不公平で不健全な日本の取引関係を象徴するのが、「接待」と呼ばれる慣習です。
企業が接待費を潤沢に使えたバブル期には、営業マンは週に数回、当然のように宴席を設けては得意先を接待していました。
実際には「客の命令で仕方なく付き合わされている」わけで、接待の場ではセクハラやパワハラも横行しており、それが対等な人間同士であれば決して許されない関係でしょう。
バブル崩壊ご、長引く不況で接待は激減しましたが、それで日本の商取引が健全化したかといえば、そうではありません。
今度はコストダウンのために、客が無理な値引きを要求するようになった。
売り手側はその要求に応えるために、人員を減らし、残業代ももらわずに倒れる寸前まで働かなければならない。
いまどき、会社の上司が部下を「バカ」だの「死ね」だのと罵倒したら、パワハラとして大問題になります。
しかしコールセンターにクレームの電話をかけてきた客が対応したオペレーターを罵倒しても、パワハラとは言われません。
また飲食店で客が店員を怒鳴りつけても、やはりパワハラにはならない。それはどこかおかしくないですか?
客がオペレーターや店員を罵倒するのは、客という立場を利用した一種の暴力です。
上司の立場を利用した部下への罵倒とどこが違うのでしょうか?
どちらもパワハラです。にもかかわらず、客だからという理由で免責されるのです。
コールセンターのオペレーターが客をパワハラで訴えたという話は聞かないし、パワハラの被害者を支援する弁護士は多いのですが、客からのパワハラに悩む駅員や接客業の人々を支援する弁護団の話は聞いたことがありません。
それは訴えがないということではなく、それを取り上げる弁護士がいないということであり、その理由は弱者の味方を標榜する弁護士たちでさえも、「お客様は神様です」というドグマを許容しているからです。
日本のように、売り手と買い手が対等ではなく、売り手が常に軽視される考え方を放置するのは非常にまずいことです。
売り手が蔑(さげす)まれるということは、商売に携わる人が蔑まれるということで、つまり商人差別がまかり通っているのです。
これは、何も売らない職業である役人が、日本では一番偉いとされる風潮と表裏一体の関係にあります。これはまさに士農工商の世界です。
商人差別のもとでは、営業マンや販売員、その他の接客業の人々は、常に不愉快な思いをしながら仕事をすることになるので、当然やる気は失われます。
仕事の質も低下し、それを見た若い世代は、商人ではなく役人になったほうが得だと思うようになる。
こうしてモノやサービスの売り買いを現場で支える人々の活力が徐々に奪われていくことになり、そしてそれは日本経済を動かすエンジンの一つが衰えていくことにほかなりません。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
抜粋
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@Petit_Soleil17 からのツイート
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日本人は対等な人としての平等意識を養わねばならない
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/index.html#entry-83985564
第1章で見たように、儒教思想は君子による支配を理想的な社会秩序と見ています。
つまりそれは、エリートを頂点とするピラミッド構造が正しい社会秩序であるとする思想です。
ですからそのピラミッド構造を支える原理こそが、まさに上位者に対しては遠慮し、自分に与えられた分際を守る「忠」の原理です。
ということになると「仁」とは、人と人との対等な個人の間の「思いやり」ではなく、それは「忠」によるピラミッド構造を前提としたうえでの「恕」(思いやり)であり、これこそが「仁」の正体なのです。
それは自分と異なる点を持ちながらも、人間として等しく尊厳をもつ他者に対して思いやる、と言う意味での「思いやり」ではありません。
むしろそれはピラミッド構造における社会秩序の中で、相手にふさわしい扱いをするということであり、「偉い人は偉い人として尊重し、偉くない人はそれなりに尊重する」、という差別思想的な思いやりでしかないのです。
だからこそ「仁」の原理は日本の現代社会においても、上下関係を重視する社会集団と馴染みやすいのです。
それが、たとえば「仁義」を重んじるやくざの世界です。
組織内・組織間の序列が何よりも大切であり、地位にふさわしい面子(めんつ)を立て合うことを至上命令としているヤクザ社会は、「仁」なくしては成り立たないのです。
ここまで見てくると、「巧言令色鮮し仁」の意味はもはや明白でしょう。
「ディベートという公平な議論を否定する一方で、上下関係を重視し、相手の立場にふさわしい扱いをすることを心がける」。
これはひと言で言えば「フェアネス(公正)の否定」にほかなりません。
ですから儒教思想は、近代民主主義社会の大原則である「フェアネス」と真っ向から対立するのです。
当然、儒教思想に洗脳されて、議論・討論のディベートが機能せず、当たり前のように「情状酌量」が横行する日本社会には、フェアネス(公正さ)は存在しないのです。
また、日本に公正さが存在しないことを端的に物語るのが、「お客様は神様です」というセリフです。
それは本来顧客を大事にする商売の心得として、三波春夫氏が信条として語ったとされますが、三波氏自身は、現在のような意味にとられてしまったことに困惑していたようです。
そのどこに問題があるのかというと、客という立場にあるというだけで、正しいとされるところです。
つまり、商取引において客という立場にあるだけで、お客の判断や行動は正しいと見なされることです。
このような弊害を指摘すると、クレーマーのような極端な客の例を想像するかもしれません。
つまり客という立場をカサに着て、明らかに無法な要求をサービス側にする人々です。
もちろんこうした連中も「お客様は神様」思想が生み出したものですが、実はそこに潜む真の問題は根深く、かつ広範囲に広がるものなのです。
商取引の本質は、売買契約や請負契約といった契約です。
それは対等な当事者間で行なわれるべきものです。
また対等だからこそ互いに尊重し合い、契約を守る努力が果たされるのです。
ところが「お客様は神様です」という考えが入り込むと、対等な考えが崩れてしまい、客の側がすべて正しいというのが原則になってしまうので、そこには公正な取引関係はありません。
不公平で不健全な日本の取引関係を象徴するのが、「接待」と呼ばれる慣習です。
企業が接待費を潤沢に使えたバブル期には、営業マンは週に数回、当然のように宴席を設けては得意先を接待していました。
実際には「客の命令で仕方なく付き合わされている」わけで、接待の場ではセクハラやパワハラも横行しており、それが対等な人間同士であれば決して許されない関係でしょう。
バブル崩壊ご、長引く不況で接待は激減しましたが、それで日本の商取引が健全化したかといえば、そうではありません。
今度はコストダウンのために、客が無理な値引きを要求するようになった。
売り手側はその要求に応えるために、人員を減らし、残業代ももらわずに倒れる寸前まで働かなければならない。
いまどき、会社の上司が部下を「バカ」だの「死ね」だのと罵倒したら、パワハラとして大問題になります。
しかしコールセンターにクレームの電話をかけてきた客が対応したオペレーターを罵倒しても、パワハラとは言われません。
また飲食店で客が店員を怒鳴りつけても、やはりパワハラにはならない。それはどこかおかしくないですか?
客がオペレーターや店員を罵倒するのは、客という立場を利用した一種の暴力です。
上司の立場を利用した部下への罵倒とどこが違うのでしょうか?
どちらもパワハラです。にもかかわらず、客だからという理由で免責されるのです。
コールセンターのオペレーターが客をパワハラで訴えたという話は聞かないし、パワハラの被害者を支援する弁護士は多いのですが、客からのパワハラに悩む駅員や接客業の人々を支援する弁護団の話は聞いたことがありません。
それは訴えがないということではなく、それを取り上げる弁護士がいないということであり、その理由は弱者の味方を標榜する弁護士たちでさえも、「お客様は神様です」というドグマを許容しているからです。
日本のように、売り手と買い手が対等ではなく、売り手が常に軽視される考え方を放置するのは非常にまずいことです。
売り手が蔑(さげす)まれるということは、商売に携わる人が蔑まれるということで、つまり商人差別がまかり通っているのです。
これは、何も売らない職業である役人が、日本では一番偉いとされる風潮と表裏一体の関係にあります。これはまさに士農工商の世界です。
商人差別のもとでは、営業マンや販売員、その他の接客業の人々は、常に不愉快な思いをしながら仕事をすることになるので、当然やる気は失われます。
仕事の質も低下し、それを見た若い世代は、商人ではなく役人になったほうが得だと思うようになる。
こうしてモノやサービスの売り買いを現場で支える人々の活力が徐々に奪われていくことになり、そしてそれは日本経済を動かすエンジンの一つが衰えていくことにほかなりません。
「日本」を捨てよ 苫米地英人著 PHP新書
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