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2013年、何か新しいことを始めようと、ツイッターとこのブログを始めました。 ツイッターのアカウントはこちらです。 https://twitter.com/Petit_Soleil17
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2013年02月02日

宗教の教義は常に権力者の都合で作られる 

zeraniumのブログ より転載

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宗教の教義は常に権力者の都合で作られる C
http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/index.html#entry-83635885


   長い年月の間に聖書は、英語をはじめさまざまな世界の言葉に翻訳されていきました。

   海外の旅行先のホテルなどに置いてある聖書は、たいていは英語のものです。

キリスト教に馴染みのない日本人はその理由を、「英語人口が多いからだろう」と考えるかもしれませんが、英語の聖書が備えられていることには、もっと根本的な理由があるのです。

   英語の聖書というのは、それは通常イギリス国教会の聖書のことで、KJV聖書といわれます。

プロテスタントの聖書は英語で書かれたものであり、それ以外は正しい聖書ではないとさえ言えるのです。

そして実はカトリックの聖書も、英語の聖書はKJV聖書をベースにしています。

このKJVとはKing James Version の略です。

もともと『新約聖書』はギリシャ語で書かれていましたが、それがラテン語に翻訳されて広まっていきました。

しかしローマカトリックが正式に聖書と定めているのは、いまでもラテン語で書かれた聖書です。

それと同じ意味で、多くのプロテスタント教会が聖書と定めているのは、英語で書かれた聖書のみなのです。
だとすれば、誰が英語の聖書を翻訳し、編纂したのかが重要なポイントになります。

   プロテスタントの英語聖書をつくったのは、スコットランドやイングランド、アイルランドを治めたジェームズ1世(チャールズ・ジェームズ・スチュワート)です。

彼は1611年に、イギリス国教会の典礼に使うという理由から、『欽定訳聖書』(KJV聖書)をつくりました。

それがつくられる以前までは、イギリスには「ジュネーブ聖書」と呼ばれる英語訳聖書が普及しており、人々に親しまれていました。

これは宗教改革運動への迫害を逃れてジュネーブに渡った、カルヴァン派の神学者たちによって翻訳されたものです。

   聖書の英訳にも興味の尽きない歴史があります。

   最初の英訳は、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書(1408年)、その次がウィリアム・ティンダルによる英訳聖書(1525年)です。

ウィクリフとティンダルはともに宗教改革のリーダー的存在でした。

それ以後は、『マシュー版聖書』、『ジュネーブ聖書』、と次々刊行されましたが、『欽定訳聖書』はティンダル版聖書に大きな影響を受けています。

   ジェームズ1世に、あらためて英訳聖書をつくることを決意させたものが何であったか、詳しい事情はわかりません。

ただ他の国王たちが、自分に服従しないと感じたジェームズ1世は、それまでの聖書をひどく嫌ったといわれています。

時代はまさに宗教改革の波に洗われ、イギリスの政治の歯車が大きな音とともに回り始めていました。

ですからジェームズ1世が、自らの力で新しい聖書を定めることが権力をさらに拡大する道である、と考えたことは想像に難くありません。

キング・ジェームズ1世の悪訳

   54人の神学者たちが、どれほど正典の教えに忠実であろうとしたにせよ、彼らはジェームズ1世の政治的野望の手の平で踊らされていたにすぎません。

そして実際にジェームズ1世は、自分に都合のいい言葉を「そっと」聖書に忍び込ませたのです。

たとえば、「汝、殺すことなかれ」で知られるマタイ19:18は、カトリックの聖書では、Thou shalt do not kill となっていますが、『欽定訳聖書』では、Thou shalt do not murder となっており、kill が murder に変わっています。

もともとのギリシャ語では φονευω(phoneuo)という単語は kill を表す一般名詞です。

それは旧約の神が認める kill は murder ではないとするもので、まさに魔女狩りや十字軍の論理であり、それが聖書の文字に表されたのです。

   そしてイギリスの国教会からアメリカに移住したピューリタンまでが、この聖書を使いました。

アメリカインディアンの虐殺もまさに murderではなく kill であり神は murder は禁じていても kill は禁じていないという論理で行なわれたのでしょう。

同じく、原爆投下の論理もそう感じられます。

   「そんな馬鹿な」と思うかもしれませんが、ラリー・キング・ライヴのトーク番組で行なわれた議論が示すように、現実は確かにそうなっています。

そして就任式に臨む歴代のアメリカ大統領は「キル」を肯定するバイブルに片手を置き、「ヘルプ・ミー・ゴッド」と宣誓を行なうのです。

また、もともと「教会」は英語で congregation と言いますが、これをイギリス国教会を示す church に変えたのはジェームズ1世です。

ですからプロテスタントの開祖は、ジェームズ1世と言ってもいいのです。

私はジェームズ1世による訳語改変の理由が、彼の個人的理由から生まれたと考えているのですが、それは後で明らかにしていきます。

宗教は検証されない

   さて、ここまでの話で重要な点は、宗教の教義というものは、いつの時代にも権力者に都合のいいように書き残されているということです。

そして文字として書かれた教義は、科学論文のように査読され、検証されることなく、いつの間にか人々の心に刻まれていきます。

なぜ検証しないかといえば、宗教はもともと検証できないものであり、「この部分は正しいけど、全体的には間違っている」ということになれば、もはやそれは信じられるものではなく、盲従する信者たちの求めに応じられるものではないからです。

   救いを求める人ほど、騙しやすいものはありません。

   金に困り、のどから手が出るほどお金が欲しいと思っている人ほど、詐欺に騙されやすいというのはいつの時代も変わりません。

同じことが宗教に救いを求める人にも言えるのです。

なぜ書かれた教義を盲目的に信用するかといえば、それは他人を信じていないにもかかわらず、信用できる対象が欲しいと考えているからです。

まず最初に、すべてのことを疑う
心を持てば、そのような浅薄な気持ちはすぐに消えてなくなります。

そうなると、自らの判断で信用できるものを受け入れようと前に出る自信が、逆に心に満ちてくるはずです。

   満たされない心に作用するのは、これまでも常に宗教であり、言葉でした。

   そしてその作用を強化し、増幅させたのが、書かれた言葉であり、印刷された言葉でした。

グーテンベルクの印刷術による発明は、人間が知識を獲得するうえで、それは極めて大きな役割を果たしたのは事実です。

しかしその反面、印刷術は、中世のヨーロッパの人々の心に誤まった固定観念を植え付ける役割も果たしたのです。

『魔女に与える鉄槌』という書物が繰り返し複製されることによって、誤まった固定観念が広められていくという、負の側面も存在しました。

権力者と宗教はその効果を利用し、この書物が版を重ねるにつれて、魔女狩りがいよいよ猛威を振るっていったのは偶然ではありません。

   『魔女に与える鉄槌』がベストセラーになると、魔女に関する書物は次々と生み出されていき、その一つがジェームズ1世の手になる『デモノロジー』(悪魔学)です。

19世紀になると魔女狩りは終息しましたが、デモノロジーの流れは残りました。

ボードレールの『悪の華』などの悪魔文学は、まさにそれを受け継ぐものでした。

またフロイトが、精神分析学を確立したのも、自分が魔女であると自称する人々の心理を、解明しようと考えたことが発端であったのです。

その意味で、魔女狩りはヨーロッパ社会の形成を左右した非常に大きな試金石だった、という指摘もあります。

   さて、現代におけるITの発明は、グーテンベルクによる印刷術に匹敵するといわれています。

その恩恵に浴する私たちは、外国の政府や新聞、ラジオ、テレビ、また個人が撮影した映像に至るまで、好きなように接し、保存し、加工することまでできるようになりました。

そうした情報は、専門家を含む大勢の人々の目というフィルターを通して、誤まった情報は修正され、淘汰されていきます。

その結果私たちはIT以前に比べると、はるかに正しく高い知識が得られる環境に暮らせるようになりました。

いつの時代も情報操作を行なう人間がいる

   しかしながら、それは表の話であり、物事には必ず裏表が存在します。

   ヨーロッパの中世にグーテンベルクの印刷術がもたらされたことが表だとすると、その印刷術によって『魔女に与える鉄槌』が中世もたらしたものが裏の世界であり、それは現代においても存在しています。

それは、専門家を含め大勢の人々によって検証されない情報であり、なかでも意図的な誤誘導や、洗脳を企む権力者によって行なわれる組織的な情報操作の世界です。

   従来から、インターネットの世界で起こるこうした情報操作に対して、情報の1次ソースを確認したり、反対意見や複数の意見を吟味する情報リテラシーのキャンペーンが行なわれてきました。

しかし情報リテラシーは、悪質なサイトや金銭トラブルに巻き込まれないという程度のことには役立つとしても、権力者による意図的な情報操作に太刀打ちできるものではありません。

なぜなら情報操作の世界は、改竄された1次ソースや、一見すると反対意見のように読める「偽装した賛成意見」や、あるいは一見すると賛成意見のように読める「偽装した反対意見」などが蔓延する、情報空間世界だからです。

   しかもツイッターの登場によって、こうした偽装情報はなおさら巧妙に流通しつつあります。

論理を持たず、感情に訴える「つぶやき」は、反論や反証をほとんど受け付けません。

誤まっていることをとがめても、「つぶやいただけなんだから、いいじゃん」、で終わりです。

これは現代に魔女狩りが流行する、非常に大きな環境的条件です。

これを利用する権力者はすでに現れているし、その動きは今後益々顕著になっていくでしょう。

それについては明らかにしていきますが、そのためにもヨーロッパ中世に起こった魔女狩りについて、もう少し深く考察を進める必要があります。



          「現代版 魔女の鉄槌」 苫米地英人著 フォレスト出版

                       抜粋したもの


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posted by ぷちそれいゆ at 13:15| History
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