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2018年11月01日
拓馬篇後記−15
二度目の体験会がはじまった。参加する客層には新顔もいたが、多くは前回の顔ぶれと同じようだと拓馬は感じた。二度の参加を果たす彼らはおそらく入門を決めかねている。この体験会が入門の可否の決め手になる。道場側の者としてはここで客たちに好印象を与えるべきなのだが、あいにく今回の体験会で行なうことは前回と同じ。目立った変化は指導員がひとり増えたことだけだ。これではあまり効果的な勧誘は見込めない。しかし参加する子どもの保護者のうち、婦人方の目つきは多少ちがっていた。彼女らの視線はあらたな男性指導員によくあつまる。やはり見目麗しい異性に関心を寄せてしまうようだ。
(母親がトシさん目当てに子どもを入門させるって線も……)
不謹慎だがありえそうな事態だ。稔次は思いがけず女性客の心をつかんでいる。その彼に一目会いたいがために、子を道場にかよわせる母があらわれるかもしれなかった。
稔次のほうはというと、彼は女性からの注目には無関心だ。もっぱら小さな子どもに視線を落としている。その目は慈愛がこもっていて、拓馬たちに見せた表情とは異なる情が感じられた。
(子ども、好きなのかな……)
稔次は三十代以上の男性だ。これだけの容姿だと女性のほうが彼を放っておかない。そのうえ性格は社交的。彼と懇意になりたがる女性は過去にもいただろう。彼に結婚歴があって、子どもをもっていたとしてもおどろくことではない。
(子どもがいるか、なんて聞いていいのかどうか)
自分の兄弟のことを言いたがらない人だ。妻子の有無もさぐられたくはない個人情報かもしれない。そう考えた拓馬は稔次への疑念を押しとどめながら、指導員の補佐の役目をまっとうした。
体験会の終了間際、大畑は入門書を配布した。前回は希望者にのみ受付で渡していたものだ。今回もそんな受動的な態度でいては客をのがすと思ったのだろうか。拓馬たちも手分けして配った。中には「まえにもらった」と言って断る人がおり、そういった客にはむりに入門書を押し付けなかった。
体験会が閉幕する。客は練習場を出る者とのこる者に二分した。のこった客もまた大きく分けて二種類。入門を申しこもうとする者と、入門にまつわる質問をする者がいた。拓馬はその質疑応答をそばで聞いた。気になっていた夏季日程の担当はやはり稔次。彼に一任すると大畑が宣言する。
「彼の技はワシをしのいでおります。指導するのに不足はありません」
大畑が新人指導員の技芸を称賛した。しかし小さな子を連れた中年女性が意見する。
「それはいいんですけど、教える先生はおひとりなんですか?」
「おもにひとりですが、ときどき師範も参加する予定です。なにか問題が?」
「うちの子、物覚えがわるくって……この子におしえるのにかかりきりになったら、ほかの子にも迷惑をかけるでしょう? もっと先生がいてくだされば安心できるんです」
「ほかの指導員が……いたらいいんですね」
女性に顔を向けていた大畑は突然拓馬を見た。拓馬は体が硬直する。
(ああ、やっぱり……)
体験会の手伝いを承諾する以前からうすうす勘付いていたことだ。しかし快諾する気持ちにはなれなかった。
大畑はじりじりと寄ってきて、拓馬の肩に手をのせる。
「どうだろう、拓馬くん。夏休みの間──」
「俺が指導員をやってて、お客さんが納得すると思います?」
「なにを言う! きみは段位をもっているんだろう?」
拓馬はびっくりした。この情報をみずから大畑に伝えたおぼえはない。空手にまつわることは彼との話題にのぼらせないよう、注意していた。そう配慮したわけは、大畑がめんどくさいことを言い出しそうだと思っていたからだ。現にいま、段位取得を根拠に拓馬の道場の手伝いを継続させようとしている。
「初段は一人前の証拠になる!」
「それ、どこから知ったんです?」
「きみのお友だちが年賀状でおしえてくれたぞ」
大畑に年賀状を出す、拓馬の友人──思い当たるのはひとりだけだ。
「ヤマダが……余計なことを」
「いいじゃないか。めでたい報せはみんなで共有するもんだ」
「はぁ」
「で、どうだ? タダでとは言わないから」
正直拓馬はどうとも言えなかった。めんどうごとが増えるのはイヤだ。かといって夏休みの予定はとくになく、ぼーっとすごすのも時間が惜しい。まだ小遣い稼ぎにいそしんだほうが有益だといえる。
(でも俺が先生役なんて……)
その役割を果たす力量があるのか、不安に思っているのは拓馬自身だった。客がどう思う、というのは言い訳にすぎない。
煮え切らない態度の拓馬に、稔次も近寄ってくる。
「オレもきみがいてくれたら心強いな。この図体だと子どもがこわがるかもしれないし」
稔次の懸念は拓馬の視野を広げた。彼もまた不安をかかえている。その解消には拓馬の助勢が必要、とは真に受けがたいが、心にもないこととは思えなかった。
「あたらしく習いはじめた子が慣れるまで、でもいいからさ」
「それぐらいなら……」
予定にないことを引き受けてしまった。本来なら家族とも相談したうえで決めたかったが、指導員の数を気にする客がこの場にいるために、即断せねばならぬと拓馬は思った。
(やっていくのがムリになってきたら、ぬければいい)
大畑のほうが計画性のないことをポンポン言ってきているのだ。拓馬が指導員をやってみてダメだった、とこれまた行き当たりばったりな事態になっても、大畑は文句を言わないだろう。
拓馬の歯切れわるい了承を聞いた大畑は得意気に「よく言った!」と拓馬の決断を称賛した。待たせていた質問者へ向きなおり、「この子も指導員をやります」と拓馬を紹介する。
「まだ歳は若いですが、小さいときからこの道場で修練にはげんできた子です。実力はワシが保証します!」
「その子、イヤイヤ言ってません?」
「なに、彼が本気でイヤがっておればこの体験会にも参加しませんとも」
この場に拓馬が居ることが拓馬のやる気の証明だ、という論調だ。拓馬は(そうなのか?)と自分で自分の意思に疑問を感じた。わかるようなわからないような理屈だ。拓馬はいまひとつ大畑の言い分に納得しないものの、女性のほうは稔次の愛想笑いにほだされ、質問をおえた。
(母親がトシさん目当てに子どもを入門させるって線も……)
不謹慎だがありえそうな事態だ。稔次は思いがけず女性客の心をつかんでいる。その彼に一目会いたいがために、子を道場にかよわせる母があらわれるかもしれなかった。
稔次のほうはというと、彼は女性からの注目には無関心だ。もっぱら小さな子どもに視線を落としている。その目は慈愛がこもっていて、拓馬たちに見せた表情とは異なる情が感じられた。
(子ども、好きなのかな……)
稔次は三十代以上の男性だ。これだけの容姿だと女性のほうが彼を放っておかない。そのうえ性格は社交的。彼と懇意になりたがる女性は過去にもいただろう。彼に結婚歴があって、子どもをもっていたとしてもおどろくことではない。
(子どもがいるか、なんて聞いていいのかどうか)
自分の兄弟のことを言いたがらない人だ。妻子の有無もさぐられたくはない個人情報かもしれない。そう考えた拓馬は稔次への疑念を押しとどめながら、指導員の補佐の役目をまっとうした。
体験会の終了間際、大畑は入門書を配布した。前回は希望者にのみ受付で渡していたものだ。今回もそんな受動的な態度でいては客をのがすと思ったのだろうか。拓馬たちも手分けして配った。中には「まえにもらった」と言って断る人がおり、そういった客にはむりに入門書を押し付けなかった。
体験会が閉幕する。客は練習場を出る者とのこる者に二分した。のこった客もまた大きく分けて二種類。入門を申しこもうとする者と、入門にまつわる質問をする者がいた。拓馬はその質疑応答をそばで聞いた。気になっていた夏季日程の担当はやはり稔次。彼に一任すると大畑が宣言する。
「彼の技はワシをしのいでおります。指導するのに不足はありません」
大畑が新人指導員の技芸を称賛した。しかし小さな子を連れた中年女性が意見する。
「それはいいんですけど、教える先生はおひとりなんですか?」
「おもにひとりですが、ときどき師範も参加する予定です。なにか問題が?」
「うちの子、物覚えがわるくって……この子におしえるのにかかりきりになったら、ほかの子にも迷惑をかけるでしょう? もっと先生がいてくだされば安心できるんです」
「ほかの指導員が……いたらいいんですね」
女性に顔を向けていた大畑は突然拓馬を見た。拓馬は体が硬直する。
(ああ、やっぱり……)
体験会の手伝いを承諾する以前からうすうす勘付いていたことだ。しかし快諾する気持ちにはなれなかった。
大畑はじりじりと寄ってきて、拓馬の肩に手をのせる。
「どうだろう、拓馬くん。夏休みの間──」
「俺が指導員をやってて、お客さんが納得すると思います?」
「なにを言う! きみは段位をもっているんだろう?」
拓馬はびっくりした。この情報をみずから大畑に伝えたおぼえはない。空手にまつわることは彼との話題にのぼらせないよう、注意していた。そう配慮したわけは、大畑がめんどくさいことを言い出しそうだと思っていたからだ。現にいま、段位取得を根拠に拓馬の道場の手伝いを継続させようとしている。
「初段は一人前の証拠になる!」
「それ、どこから知ったんです?」
「きみのお友だちが年賀状でおしえてくれたぞ」
大畑に年賀状を出す、拓馬の友人──思い当たるのはひとりだけだ。
「ヤマダが……余計なことを」
「いいじゃないか。めでたい報せはみんなで共有するもんだ」
「はぁ」
「で、どうだ? タダでとは言わないから」
正直拓馬はどうとも言えなかった。めんどうごとが増えるのはイヤだ。かといって夏休みの予定はとくになく、ぼーっとすごすのも時間が惜しい。まだ小遣い稼ぎにいそしんだほうが有益だといえる。
(でも俺が先生役なんて……)
その役割を果たす力量があるのか、不安に思っているのは拓馬自身だった。客がどう思う、というのは言い訳にすぎない。
煮え切らない態度の拓馬に、稔次も近寄ってくる。
「オレもきみがいてくれたら心強いな。この図体だと子どもがこわがるかもしれないし」
稔次の懸念は拓馬の視野を広げた。彼もまた不安をかかえている。その解消には拓馬の助勢が必要、とは真に受けがたいが、心にもないこととは思えなかった。
「あたらしく習いはじめた子が慣れるまで、でもいいからさ」
「それぐらいなら……」
予定にないことを引き受けてしまった。本来なら家族とも相談したうえで決めたかったが、指導員の数を気にする客がこの場にいるために、即断せねばならぬと拓馬は思った。
(やっていくのがムリになってきたら、ぬければいい)
大畑のほうが計画性のないことをポンポン言ってきているのだ。拓馬が指導員をやってみてダメだった、とこれまた行き当たりばったりな事態になっても、大畑は文句を言わないだろう。
拓馬の歯切れわるい了承を聞いた大畑は得意気に「よく言った!」と拓馬の決断を称賛した。待たせていた質問者へ向きなおり、「この子も指導員をやります」と拓馬を紹介する。
「まだ歳は若いですが、小さいときからこの道場で修練にはげんできた子です。実力はワシが保証します!」
「その子、イヤイヤ言ってません?」
「なに、彼が本気でイヤがっておればこの体験会にも参加しませんとも」
この場に拓馬が居ることが拓馬のやる気の証明だ、という論調だ。拓馬は(そうなのか?)と自分で自分の意思に疑問を感じた。わかるようなわからないような理屈だ。拓馬はいまひとつ大畑の言い分に納得しないものの、女性のほうは稔次の愛想笑いにほだされ、質問をおえた。
タグ:拓馬
2018年10月27日
拓馬篇後記−14
道着に着替えた拓馬は練習場へもどった。着替えおわったことを男性に知らせようかと思ったが、相手方の片付け作業をせかす可能性もあったので、やめておいた。
ほどなくして神南もやってくる。彼女は練習場の出入りに邪魔にならない場所で柔軟体操をはじめた。ケガを未然にふせぐには適切な柔軟体操が大事だ。拓馬も神南に倣い、片足前屈をする。しかし無言でいるのもなんなので、頭巾の男性の話をもちかける。
「あの男の人、なにかわかりました?」
「いえ、あんまり……でも師範代とは仲がいいみたい」
「どこを見てそう思ったんです?」
「師範代のことを『ホーちゃん』ってよんでた」
大畑の名は豊一(ほういち)という。そのあだ名を呼ぶのに妥当な本名ではあるが、かなりちかしい存在でなくては使いにくい呼び名だ。むかしからの友人なのだろうか。それとも男性が一方的に馴れ馴れしくしているだけなのか。たとえばヤマダは大畑に少々失礼なあだ名をつけており、大畑はその名の使用を寛大な心で許可している。
(師範代はあの人をどうよんでるんだ?)
大畑が男性に使う呼称次第で親密度が測れそうだ。なおかつ拓馬が知りたかった男性の呼び名もわかる。
「師範代のほうは、男の人をなんてよぶんです?」
「『トシ』か『トッシー』って……」
「それは仲よさそうな……神南さんはどうよぶことにしました?」
「まあ、ふつうに『トシさん』、かな……」
神南は片足前屈を両足やりおえ、次に両足をひらく開脚前屈をはじめた。拓馬は片足前屈の片足を長く伸ばしていたので、もう片方の足の柔軟に切り替える。
「じゃあ俺もそうよびます」
「うん……一回、本人に聞いていいとは思うけど」
「神南さんも自己紹介はしてないんですか」
「そう。でも師範代が教えたみたいで、トシさんはあたしの名前を知ってた」
「『神南さん』ってよばれた?」
「あ、いや……」
神南は床に向けていた顔を横にそむけた。奇妙な反応だ。恥ずかしがっているようでもある。
「下の名前でよばれてる?」
「そうでもなくて……」
練習場の引き戸が開いた。白い道着に着替えた男性が入ってくる。彼の頭巾は外されていて、頭巾で隠れていた前髪が額にかかっている。
「カンちゃんたちは準備運動やってるんだ?」
聞き慣れない名前だ。それが拓馬の呼び名ではないことは知れた。
(カンナミのカン……?)
あだ名を呼ばれたであろう神南の様子を見ると、彼女は男性に顔を合わせないようにしていた。その呼び名に抵抗があるらしい。だが不快ではなさそうだ。拓馬が男性へあだ名の呼びとめを仕掛けるにはおよばず、そのまま様子を見た。
男性は「オレもやろうっと」と座り、三人で円をつくるような形で柔軟体操をはじめた。男性はかかとの裏同士を合わせた足を手でつかみ、前のめりになる。なぜだか彼の目の前には体験会のチラシがある。
「あれ、どっからそのチラシが……」
「いまオレが持ってきた。時間があるし、ヒマつぶしに見ておこうかと思って」
「はあ……」
大畑家が自力制作したとおぼしいチラシを、男性はながめている。そのチラシはデキのよくない作品だ。古風な筆致とかわいらしいイラストが混在する混沌としたつくりである。拓馬としては、見ていてたのしめる広告には思えないのだが。
(この人が作ったわけじゃなさそうだな)
その制作に関わっていたならいまさらこの場で見なくてもよいはず。よほどのナルシストでなければ見飽きているだろう、と拓馬は思い、チラシについて質問する。
「そのチラシはだれが作ったか、聞いてます?」
「ん? これはホーちゃん……師範代の家族の合作だ」
「やっぱり。フツーの会社にたのんだら、こんなのになりませんよね」
男性は上体をもどした。その顔は笑っている。
「よくわかるね〜。きみはセンスがあるよ」
なんでもない普通の感性をほめられて、拓馬は気恥ずかしくなる。
「いや、これぐらい学校で習うんで……」
「へえ、チラシの制作を学ぶのか」
「うちの高校、授業にデジタルの画像処理もあるんです。それ専門の学校じゃないですけど、それでウェブサイトと広告の基本はだいたい……」
「そりゃいいな。オレも通いたいくらいだ」
拓馬の倍ほど生きる男性が学校に興味を示している。それが不思議で、拓馬は掘り下げる。
「広告をつくることに興味あるんですか?」
「まえはそれで食ってたんだよ。そういう学校にも行った」
「じゃあ勉強しなくても──」
「こういう技術はどんどんあたらしくなるからね。最新の手法とセンスは磨きたい……けど、それで仕事に就けるかは別問題だ」
男性はこれから職をさがすという。しかしそれは困難でもあるといい、その事情は他人が気軽に聞けるものではなかった。
男性はふたたび前屈する。
「このチラシ、見ようによっちゃいい広告だよ」
「え? 文字とイラストの雰囲気がぜんぜんちがうのに?」
「広告は見た人の記憶にのこってナンボだ。たしかにきれいにつくったものは人にこのまれやすい。でもだからおぼえてもらえるとはかぎらない。このチラシのアンバランスさはかえって見る人の印象にのこりやすいと思うよ」
その筋の人らしい見方だ。素人では思いつかない意見を聞けて、拓馬にささやかな好奇心が芽生える。
「じゃあこのチラシは手直ししなくていいと?」
「うーん、オレが手を入れていいんなら、変えたくなるな」
「どんなふうに?」
「オレだったら文字を変える。イラストに合わせたポップな書体にするかな。子ども向けの企画なんだし……奇抜なことはしなくていいと思う」
「子どもに合わせるんですね」
「ああ、平凡なことを言っちゃうとそうなるね」
「いえ、参考になります」
拓馬は姿勢を変え、男性と同じ柔軟体操をやる。男性は不意に笑う。
「あはは、きみはずいぶん大人びてるね」
「あ……ヘンですか?」
「そんなことないよ。人間、しっかりしててしすぎってこたぁない。オレなんかいっつも抜け作でね〜」
抜けてる、といえば拓馬たちは互いの名前を明かしていない。一般的な初対面の者とのやり取りがいまだに完遂されないことに、拓馬は多少のあせりをおぼえる。
「あの、俺の名前ってまだ言ってないですよね?」
「師範代から聞いてるよ。拓馬くんって言うんだろ? オレもそうよんでいいかな」
「はい。俺はあなたのことをなんてよべばいいですか?」
「呼び名か……『オバタケ』じゃ師範代とかぶるしね〜」
「え、あなたも大畑というんですか? 『大きい』に『畑』の?」
「そうだけど……?」
男性は拓馬のおどろきようにおどろいている。拓馬の推測では彼が大畑姓の一族ではないと思っていた。その見込みちがいについて拓馬は釈明する。
「あ、てっきり……師範代のお母さんの家系の人かと思って」
「ああ〜、顔がね……」
男性は自身の頬を手のひらでこする。大畑の母に顔が似ている自覚はあるようだ。
「そっちで通したほうがよかったかな」
「え、『通す』?」
通す、とは真実でない事柄をそれらしく見せかけるときにも使う言葉だ。詐称のにおいがただよってくる口ぶりである。拓馬があやしむと男性は愛想笑いをする。
「なんでもないよ。オレのことは……トシツグとよんでくれ」
「トシツグ、さん?」
「『トシ』はのぎへんに念じる、で『稔』。『ツグ』は次男次女の『次』って字だ。みじかくよびたかったらトシでいい」
「次男の……もしかしてお兄さんがいるんですか?」
稔次という男性は顔をこわばらせた。痛いところを突かれたかのようだ。これまでほがらかに会話してきた人とは思えぬ態度だ。
「俺、まずいことを言いました?」
「いや、その、なんでオレにアニキがいると思ったのかな、て」
「いま自分で『次男だ』ってことを遠回しに言ったんじゃ」
「あ、そんなふうに、聞こえる?」
稔次のまばたきの回数が増えた。どうも反応が奇妙である。彼の素性と漢字の説明とが一致しないのなら拓馬の予想を否定すればよいのに、確実にそうではない素振りだ。
(兄弟がいるのって、隠したいことなのか……?)
秘匿したがる動機はまったく見当もつかないが、当人がのぞむのなら追究はしない。拓馬は室内の壁掛け時計を見る。受付の開始時刻があと数分にせまっている。
「そろそろ人がくる時間じゃないですか」
「お、そうか。案内役をしないとな」
稔次はそそくさと練習場を出る。拓馬もそれに続こうかと思い、腰をあげた。神南も立ち上がり、「気を遣ってあげたの?」と拓馬の言動を問う。
「トシさん、隠し事が上手じゃないみたいね」
「そうですね……いい人っぽいから、気になりませんけど」
「ええ、こわい人じゃなくてよかった」
神南も稔次の人柄に免じて、彼の不審な点を見逃すつもりだ。二人はこれで稔次の話をやめ、今日の体験会に向けた行動を再開した。
ほどなくして神南もやってくる。彼女は練習場の出入りに邪魔にならない場所で柔軟体操をはじめた。ケガを未然にふせぐには適切な柔軟体操が大事だ。拓馬も神南に倣い、片足前屈をする。しかし無言でいるのもなんなので、頭巾の男性の話をもちかける。
「あの男の人、なにかわかりました?」
「いえ、あんまり……でも師範代とは仲がいいみたい」
「どこを見てそう思ったんです?」
「師範代のことを『ホーちゃん』ってよんでた」
大畑の名は豊一(ほういち)という。そのあだ名を呼ぶのに妥当な本名ではあるが、かなりちかしい存在でなくては使いにくい呼び名だ。むかしからの友人なのだろうか。それとも男性が一方的に馴れ馴れしくしているだけなのか。たとえばヤマダは大畑に少々失礼なあだ名をつけており、大畑はその名の使用を寛大な心で許可している。
(師範代はあの人をどうよんでるんだ?)
大畑が男性に使う呼称次第で親密度が測れそうだ。なおかつ拓馬が知りたかった男性の呼び名もわかる。
「師範代のほうは、男の人をなんてよぶんです?」
「『トシ』か『トッシー』って……」
「それは仲よさそうな……神南さんはどうよぶことにしました?」
「まあ、ふつうに『トシさん』、かな……」
神南は片足前屈を両足やりおえ、次に両足をひらく開脚前屈をはじめた。拓馬は片足前屈の片足を長く伸ばしていたので、もう片方の足の柔軟に切り替える。
「じゃあ俺もそうよびます」
「うん……一回、本人に聞いていいとは思うけど」
「神南さんも自己紹介はしてないんですか」
「そう。でも師範代が教えたみたいで、トシさんはあたしの名前を知ってた」
「『神南さん』ってよばれた?」
「あ、いや……」
神南は床に向けていた顔を横にそむけた。奇妙な反応だ。恥ずかしがっているようでもある。
「下の名前でよばれてる?」
「そうでもなくて……」
練習場の引き戸が開いた。白い道着に着替えた男性が入ってくる。彼の頭巾は外されていて、頭巾で隠れていた前髪が額にかかっている。
「カンちゃんたちは準備運動やってるんだ?」
聞き慣れない名前だ。それが拓馬の呼び名ではないことは知れた。
(カンナミのカン……?)
あだ名を呼ばれたであろう神南の様子を見ると、彼女は男性に顔を合わせないようにしていた。その呼び名に抵抗があるらしい。だが不快ではなさそうだ。拓馬が男性へあだ名の呼びとめを仕掛けるにはおよばず、そのまま様子を見た。
男性は「オレもやろうっと」と座り、三人で円をつくるような形で柔軟体操をはじめた。男性はかかとの裏同士を合わせた足を手でつかみ、前のめりになる。なぜだか彼の目の前には体験会のチラシがある。
「あれ、どっからそのチラシが……」
「いまオレが持ってきた。時間があるし、ヒマつぶしに見ておこうかと思って」
「はあ……」
大畑家が自力制作したとおぼしいチラシを、男性はながめている。そのチラシはデキのよくない作品だ。古風な筆致とかわいらしいイラストが混在する混沌としたつくりである。拓馬としては、見ていてたのしめる広告には思えないのだが。
(この人が作ったわけじゃなさそうだな)
その制作に関わっていたならいまさらこの場で見なくてもよいはず。よほどのナルシストでなければ見飽きているだろう、と拓馬は思い、チラシについて質問する。
「そのチラシはだれが作ったか、聞いてます?」
「ん? これはホーちゃん……師範代の家族の合作だ」
「やっぱり。フツーの会社にたのんだら、こんなのになりませんよね」
男性は上体をもどした。その顔は笑っている。
「よくわかるね〜。きみはセンスがあるよ」
なんでもない普通の感性をほめられて、拓馬は気恥ずかしくなる。
「いや、これぐらい学校で習うんで……」
「へえ、チラシの制作を学ぶのか」
「うちの高校、授業にデジタルの画像処理もあるんです。それ専門の学校じゃないですけど、それでウェブサイトと広告の基本はだいたい……」
「そりゃいいな。オレも通いたいくらいだ」
拓馬の倍ほど生きる男性が学校に興味を示している。それが不思議で、拓馬は掘り下げる。
「広告をつくることに興味あるんですか?」
「まえはそれで食ってたんだよ。そういう学校にも行った」
「じゃあ勉強しなくても──」
「こういう技術はどんどんあたらしくなるからね。最新の手法とセンスは磨きたい……けど、それで仕事に就けるかは別問題だ」
男性はこれから職をさがすという。しかしそれは困難でもあるといい、その事情は他人が気軽に聞けるものではなかった。
男性はふたたび前屈する。
「このチラシ、見ようによっちゃいい広告だよ」
「え? 文字とイラストの雰囲気がぜんぜんちがうのに?」
「広告は見た人の記憶にのこってナンボだ。たしかにきれいにつくったものは人にこのまれやすい。でもだからおぼえてもらえるとはかぎらない。このチラシのアンバランスさはかえって見る人の印象にのこりやすいと思うよ」
その筋の人らしい見方だ。素人では思いつかない意見を聞けて、拓馬にささやかな好奇心が芽生える。
「じゃあこのチラシは手直ししなくていいと?」
「うーん、オレが手を入れていいんなら、変えたくなるな」
「どんなふうに?」
「オレだったら文字を変える。イラストに合わせたポップな書体にするかな。子ども向けの企画なんだし……奇抜なことはしなくていいと思う」
「子どもに合わせるんですね」
「ああ、平凡なことを言っちゃうとそうなるね」
「いえ、参考になります」
拓馬は姿勢を変え、男性と同じ柔軟体操をやる。男性は不意に笑う。
「あはは、きみはずいぶん大人びてるね」
「あ……ヘンですか?」
「そんなことないよ。人間、しっかりしててしすぎってこたぁない。オレなんかいっつも抜け作でね〜」
抜けてる、といえば拓馬たちは互いの名前を明かしていない。一般的な初対面の者とのやり取りがいまだに完遂されないことに、拓馬は多少のあせりをおぼえる。
「あの、俺の名前ってまだ言ってないですよね?」
「師範代から聞いてるよ。拓馬くんって言うんだろ? オレもそうよんでいいかな」
「はい。俺はあなたのことをなんてよべばいいですか?」
「呼び名か……『オバタケ』じゃ師範代とかぶるしね〜」
「え、あなたも大畑というんですか? 『大きい』に『畑』の?」
「そうだけど……?」
男性は拓馬のおどろきようにおどろいている。拓馬の推測では彼が大畑姓の一族ではないと思っていた。その見込みちがいについて拓馬は釈明する。
「あ、てっきり……師範代のお母さんの家系の人かと思って」
「ああ〜、顔がね……」
男性は自身の頬を手のひらでこする。大畑の母に顔が似ている自覚はあるようだ。
「そっちで通したほうがよかったかな」
「え、『通す』?」
通す、とは真実でない事柄をそれらしく見せかけるときにも使う言葉だ。詐称のにおいがただよってくる口ぶりである。拓馬があやしむと男性は愛想笑いをする。
「なんでもないよ。オレのことは……トシツグとよんでくれ」
「トシツグ、さん?」
「『トシ』はのぎへんに念じる、で『稔』。『ツグ』は次男次女の『次』って字だ。みじかくよびたかったらトシでいい」
「次男の……もしかしてお兄さんがいるんですか?」
稔次という男性は顔をこわばらせた。痛いところを突かれたかのようだ。これまでほがらかに会話してきた人とは思えぬ態度だ。
「俺、まずいことを言いました?」
「いや、その、なんでオレにアニキがいると思ったのかな、て」
「いま自分で『次男だ』ってことを遠回しに言ったんじゃ」
「あ、そんなふうに、聞こえる?」
稔次のまばたきの回数が増えた。どうも反応が奇妙である。彼の素性と漢字の説明とが一致しないのなら拓馬の予想を否定すればよいのに、確実にそうではない素振りだ。
(兄弟がいるのって、隠したいことなのか……?)
秘匿したがる動機はまったく見当もつかないが、当人がのぞむのなら追究はしない。拓馬は室内の壁掛け時計を見る。受付の開始時刻があと数分にせまっている。
「そろそろ人がくる時間じゃないですか」
「お、そうか。案内役をしないとな」
稔次はそそくさと練習場を出る。拓馬もそれに続こうかと思い、腰をあげた。神南も立ち上がり、「気を遣ってあげたの?」と拓馬の言動を問う。
「トシさん、隠し事が上手じゃないみたいね」
「そうですね……いい人っぽいから、気になりませんけど」
「ええ、こわい人じゃなくてよかった」
神南も稔次の人柄に免じて、彼の不審な点を見逃すつもりだ。二人はこれで稔次の話をやめ、今日の体験会に向けた行動を再開した。
タグ:拓馬