2018年11月14日
拓馬篇後記−19
拓馬は道場の研修に参加した。年少の門下生たちは新参者の指導員を興味深そうに見てくる。彼らの視線はどれも歓迎の意がこもっていた。拓馬と背格好の変わらぬ中学生でもそのような反応だ。拓馬は自身の小柄な体型ゆえに、自分と体格がちかいかそれ以上にすぐれる者からあなどられるのではないかと少々危惧していた。そうではなさそうだとわかり、前途が良好だと感じた。
研修にかかった時間は都合三時間ほど。最初の指導対象は未就学児から小学三年生までの部、その次に小学四年生から中学三年生までの部があった。門下生ひとりあたりの練習時間は一時間程度でおわる。拓馬は二部続きでくわわった。練習前後の支度と合間の休憩時間込みで三時間かかる計算だ。拓馬が担当する時間も同じくらいなのだと、同じ研修生の稔次が言った。同時に彼は「今日はすぐに帰らないでね」と拓馬に忠告した。体験会に参加した謝礼を大畑が本日の研修後に渡すという。ここで受け取らねば大畑が根岸宅にやってくる。そのような手間を大畑にとらせる意義はないので、拓馬は素直にしたがった。
道場の練習がおわったころには日が落ちていた。暗がりの中を門下生が帰宅していく。その姿を見送ったあと、拓馬は更衣室へ向かった。着替えをすませたのち、道場に居残る。現在大畑は道場にいない。彼は本日、門下生に指導していたが、いまは一時帰宅している。拓馬のための報酬を取りにもどったのだ。道場内での金銭紛失をおそれて、そのような段取りをとったらしい。
拓馬は道場の玄関で待ちぼうけた。まだ着替えていない稔次がそのとなりに立つ。
「師範代はもうちょっとでくるはずだから」
「はい」
「お金をもらったらなにに使う?」
稔次は無邪気に聞いてきた。拓馬はそれまで思いつきもしなかったことを一考する。
(なにに……なんだろう?)
すぐに出てくる使い道はなかった。そもそも頂戴できる金額がわからない。決まった予算もなしに使用用途を決められるはずもない。
「いくらもらえるのか知らないんで、わからないです」
「うーん、そう? 知らないいまだからこそ、夢をふくらませて答えてくれるかと思ったんだけど」
「夢? ……『宇宙旅行に行きたい』とかですか」
「デッカイ夢だね〜。でも道場の稼ぎじゃあとても行けないね」
拓馬もその経済事情はわかっていた。しかるに、稔次が夏季日程で得られる収入はどうなるのかと拓馬は気になりはじめた。当初の予定では彼ひとりで午前の部を担当するつもりだったのが、拓馬もくわわることになる。当然、儲けは減る。
「あの、俺が指導員をやったらトシさんの稼ぎって──」
「単純計算で半分こになるね」
「それでいいんですか?」
「うん。そのほうが結果的にもうかるんじゃないかな」
「『もうかる』?」
余分な人件費がかさむために利益が下がるのだ。それなのに奇妙な発言だと拓馬は思った。
「もしオレがヘマやって、客をにがしたら、どうなると思う?」
「それは、月謝が入らなくなって……」
「月謝もそうだけど道場の評判だっておちる。それじゃ今後の門下生が増えにくくなるだろ?」
「へる一方、ですか」
「そう。目先のもうけよりもリスクを下げたほうがいいと思うんだ。ここはオレだけの道場じゃないからね」
この道場は子々孫々と受け継がれているそうだ。一度ついた汚名は現在の師範一家がかぶるだけですまず、末裔にも影響をのこすかもしれない。その連綿とつづく歴史に若輩者が参与することで、まことにリスクを下げられるのか疑問である。
「そんな大事なこと……ホントに俺に任せていいんですか?」
「拓馬くんはしっかり者だからヘーキだよ。肩肘はらずに付き合ってくれればいい」
稔次の言葉は拓馬の不安を軽減した。
ガラス戸の向こうから道着姿の人物があらわれる。それを見た稔次は「じゃあ服を着替えてくる」と言って更衣室へ入った。玄関に入ってきた大畑は下足をぬがないまま封筒を差し出してくる。
「これが体験会の駄賃だ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「いちおう、中を確認してほしい」
拓馬はさっそく封筒の中身を拝見した。紙幣数枚が入っている。その総金額は、拓馬が想定した数字の倍に相当する。
(半日を二日間で……?)
時間を合計すれば一日分の給与。最低賃金ではない普通の仕事ではそれが日当の相場だとは聞く。しかし縁故ある個人からの依頼で、しかも職務内容は重要度の低いアシスタント役だ。相場を下回っても致し方ないかと拓馬は思っていた。
「どうだろう?」
「もっと安いかと思ってました」
「そうか、じつは今回は特別だ。約束どおり色をつけさせてもらったからな」
「門下生が予想より増えたら、手当てをつけるってやつですか」
「そうだ。なんと体験会に参加していない人からも申し込みがあってな! 体験会に出た人の口コミでひろまったらしい」
拓馬たちが参加した体験会が好評だった結果なのだろう。その要因はおそらく拓馬よりは稔次にありそうだ。彼の風貌が人々、とくにご婦人方の会話にあがりやすい素材なのだ。
(そのへんは言わなくていいか……)
拓馬が引き起こした成果ではない、と言ったところで、大畑はよろこばない。これが正当な対価だというならそのまま受け取っておくことにした。
「夏休みの指導の報酬はこれより単価が下がるが……わるく思わないでほしい」
「それはわかってます。トシさんの稼ぎを横取りするつもりはありませんから」
「うむ、どうかトシが独り立ちできるまで補佐してくれ。一ヶ月の辛抱だ」
本当に夏休みで契約が切れるのだろうか、と拓馬はひそかに思う。
(最初は二日間だけ、って言われて、次が一ヶ月で……)
体験会、夏季日程と徐々に契約が延長している。夏休みがおわるころには「放課後の夕方も」と大畑が言い出すのではないか。その可能性を感じたが、藪蛇をつつく真似はしたくない。拓馬は大畑に別れのあいさつを交わし、早々に家路についた。
研修にかかった時間は都合三時間ほど。最初の指導対象は未就学児から小学三年生までの部、その次に小学四年生から中学三年生までの部があった。門下生ひとりあたりの練習時間は一時間程度でおわる。拓馬は二部続きでくわわった。練習前後の支度と合間の休憩時間込みで三時間かかる計算だ。拓馬が担当する時間も同じくらいなのだと、同じ研修生の稔次が言った。同時に彼は「今日はすぐに帰らないでね」と拓馬に忠告した。体験会に参加した謝礼を大畑が本日の研修後に渡すという。ここで受け取らねば大畑が根岸宅にやってくる。そのような手間を大畑にとらせる意義はないので、拓馬は素直にしたがった。
道場の練習がおわったころには日が落ちていた。暗がりの中を門下生が帰宅していく。その姿を見送ったあと、拓馬は更衣室へ向かった。着替えをすませたのち、道場に居残る。現在大畑は道場にいない。彼は本日、門下生に指導していたが、いまは一時帰宅している。拓馬のための報酬を取りにもどったのだ。道場内での金銭紛失をおそれて、そのような段取りをとったらしい。
拓馬は道場の玄関で待ちぼうけた。まだ着替えていない稔次がそのとなりに立つ。
「師範代はもうちょっとでくるはずだから」
「はい」
「お金をもらったらなにに使う?」
稔次は無邪気に聞いてきた。拓馬はそれまで思いつきもしなかったことを一考する。
(なにに……なんだろう?)
すぐに出てくる使い道はなかった。そもそも頂戴できる金額がわからない。決まった予算もなしに使用用途を決められるはずもない。
「いくらもらえるのか知らないんで、わからないです」
「うーん、そう? 知らないいまだからこそ、夢をふくらませて答えてくれるかと思ったんだけど」
「夢? ……『宇宙旅行に行きたい』とかですか」
「デッカイ夢だね〜。でも道場の稼ぎじゃあとても行けないね」
拓馬もその経済事情はわかっていた。しかるに、稔次が夏季日程で得られる収入はどうなるのかと拓馬は気になりはじめた。当初の予定では彼ひとりで午前の部を担当するつもりだったのが、拓馬もくわわることになる。当然、儲けは減る。
「あの、俺が指導員をやったらトシさんの稼ぎって──」
「単純計算で半分こになるね」
「それでいいんですか?」
「うん。そのほうが結果的にもうかるんじゃないかな」
「『もうかる』?」
余分な人件費がかさむために利益が下がるのだ。それなのに奇妙な発言だと拓馬は思った。
「もしオレがヘマやって、客をにがしたら、どうなると思う?」
「それは、月謝が入らなくなって……」
「月謝もそうだけど道場の評判だっておちる。それじゃ今後の門下生が増えにくくなるだろ?」
「へる一方、ですか」
「そう。目先のもうけよりもリスクを下げたほうがいいと思うんだ。ここはオレだけの道場じゃないからね」
この道場は子々孫々と受け継がれているそうだ。一度ついた汚名は現在の師範一家がかぶるだけですまず、末裔にも影響をのこすかもしれない。その連綿とつづく歴史に若輩者が参与することで、まことにリスクを下げられるのか疑問である。
「そんな大事なこと……ホントに俺に任せていいんですか?」
「拓馬くんはしっかり者だからヘーキだよ。肩肘はらずに付き合ってくれればいい」
稔次の言葉は拓馬の不安を軽減した。
ガラス戸の向こうから道着姿の人物があらわれる。それを見た稔次は「じゃあ服を着替えてくる」と言って更衣室へ入った。玄関に入ってきた大畑は下足をぬがないまま封筒を差し出してくる。
「これが体験会の駄賃だ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「いちおう、中を確認してほしい」
拓馬はさっそく封筒の中身を拝見した。紙幣数枚が入っている。その総金額は、拓馬が想定した数字の倍に相当する。
(半日を二日間で……?)
時間を合計すれば一日分の給与。最低賃金ではない普通の仕事ではそれが日当の相場だとは聞く。しかし縁故ある個人からの依頼で、しかも職務内容は重要度の低いアシスタント役だ。相場を下回っても致し方ないかと拓馬は思っていた。
「どうだろう?」
「もっと安いかと思ってました」
「そうか、じつは今回は特別だ。約束どおり色をつけさせてもらったからな」
「門下生が予想より増えたら、手当てをつけるってやつですか」
「そうだ。なんと体験会に参加していない人からも申し込みがあってな! 体験会に出た人の口コミでひろまったらしい」
拓馬たちが参加した体験会が好評だった結果なのだろう。その要因はおそらく拓馬よりは稔次にありそうだ。彼の風貌が人々、とくにご婦人方の会話にあがりやすい素材なのだ。
(そのへんは言わなくていいか……)
拓馬が引き起こした成果ではない、と言ったところで、大畑はよろこばない。これが正当な対価だというならそのまま受け取っておくことにした。
「夏休みの指導の報酬はこれより単価が下がるが……わるく思わないでほしい」
「それはわかってます。トシさんの稼ぎを横取りするつもりはありませんから」
「うむ、どうかトシが独り立ちできるまで補佐してくれ。一ヶ月の辛抱だ」
本当に夏休みで契約が切れるのだろうか、と拓馬はひそかに思う。
(最初は二日間だけ、って言われて、次が一ヶ月で……)
体験会、夏季日程と徐々に契約が延長している。夏休みがおわるころには「放課後の夕方も」と大畑が言い出すのではないか。その可能性を感じたが、藪蛇をつつく真似はしたくない。拓馬は大畑に別れのあいさつを交わし、早々に家路についた。
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