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2018年11月06日
拓馬篇後記−17
「さあて、オレのなにに興味があるのかな」
稔次は雑巾による床掃除の開始と同時にしゃべった。拓馬は今日使用したミットの拭き掃除に取りかかっている。二人の視線が合うことはなく、ただ声だけで意志疎通する。
「なにから……トシさんからまだ隠されてないことを聞きましょうか」
「ああ、それがいいと思うんならね」
解答者は腰をすえて拭き掃除をおこなっている。
「たぶんどんな質問も、はっきりした返事はできないよ」
「答えられなくてもいいんです」
拓馬が思いついた質問は、稔次とその家族を特定しない漠然とした内容だ。
「……トシさんって、子どもいます?」
稔次は顔を上げる。拓馬がどんな思いでその問いをしたのか、推しはかっているようだ。
「なんでそんなことが気になる?」
「トシさんが体験会にきた子どもを見てるとき、なんだか、お父さんみたいな顔をしてると思ったんです」
「へえ、きみは感受性が豊かなんだね〜」
稔次は顔を伏せ、掃除を再開した。拓馬はこの問いが茶化されたように感じる。
(あんまりいい質問じゃなかったかな……)
もとより完全な返答を期待してはいない。拓馬は次なる疑問をたずねようかと意識を切り替えた。だが稔次は「合ってるよ」と前問の解答をしてくる。
「オレには、子どもがいたんだ」
彼は掃除を続けている。声の調子はいくぶん暗い。
「もう大きくなってる。いま見てもだれだかわからないくらいに……」
「ずいぶん会ってないんですか?」
「そうだよ。離婚して、それからは会ってない」
その説明は事実のみを述べていた。子と離れて暮らす彼個人の意思は伝わらない。
「会いたいっておも──」
「会っちゃいけないと思ってるんだ」
強い語調だった。そこに稔次の願望とは相反する決意がある。
「オレがふがいないばっかりに、妻をつらい目に遭わせた。だから、二人にはオレぬきで幸せになってほしい」
この希望はもっともらしい。過去のいまわしい記憶を封印しつづけることが妻子の幸福になる。そんな家庭もあるのだろうと拓馬は思った。しかし身近な友人のことを考えると、同意しかねた。拓馬が連想した友は二人。ひとりは母親が復縁した椙守、もうひとりは父親のいない男友達だ。
「ほんとうに、奥さんたちはトシさんがいないほうが幸せになれるんですか?」
だれにも正解のわからないことを拓馬は口走った。言われたほうは不快になるだろうと思ったが、稔次は平然と作業を続けている。
「子どもにはよくわからないだろうさ」
「子どもだから知ってることはありますよ」
「どんなことを?」
「俺の友だちに、両親が離婚した子が二人います。ひとりは母親が復縁して、実の父親の家にもどってこれた子です」
「その子は父親と仲がいいのかな?」
「ぜんぜん。好きじゃないみたいです。家の仕事を無理やり手伝わされるし、好きなことをあんまりさせてもらえないから」
「じゃあ父親はいないほうがいいんじゃないか」
稔次がからかうように軽い調子で言った。いまの説明で話がおわりなら、彼の意見は正しい。拓馬は首を横にふる。
「だけど『親が再婚しなかったらよかった』なんて一度も言ったことがないんです」
「お父さんがキライなのに?」
「父親と仲良くはないけど、体の強くない母親が無理してはたらいていたときとくらべたら、いまがいいってことらしいです」
椙守母子の過去を拓馬はすべて知っているわけではない。ただ一度、椙守が「母さんには父さんが必要なんだ」と父親を評価したことがあった。それきり椙守は拓馬の前では父親をほめないが、たった一回の賛辞もまた彼の本心だと拓馬は感じていた。
「その子は、お母さんのための再婚、と割り切ってるのか」
「そうだと思います。そいつ、頭がいいから、物事のメリットとデメリットをちゃんと考えられるんです」
「ざんねんだけどオレには当てはまらなさそうだな。オレはむしろ妻側に負担をかけてしまうほうだ」
稔次は就労しづらい事情を抱えているという。それゆえ金銭面での再婚のメリットは見いだせない。拓馬はこちらの事例が蛇足だったと反省した。
「もうひとりの子の話は?」
稔次が拓馬の話題に食いついている。子ども目線の話にまだ興味をもってくれているとわかり、拓馬はもうひとりの友人のことを思い出す。その人物はジモンという、大柄で筋肉質な男子だ。
「もうひとりは、父親がいません。ちっちゃいときに母親と離婚したそうで、父親がどんな人だったか、ほとんどおぼえていないらしいです」
「その子は父親に会いたがってる?」
「そう、だと思います。いつも明るい性格で、しめっぽい話はしたがらないけど……父親にちかづきたい、とは言ってました。だから剣道部に入るんだって」
ジモンは体格的に徒手の武道を習ったほうが有利そうな男子だ。しかし彼はあえて剣の道を選んだ。その動機は彼の母親から聞いた、父親の像を追いかけるためだという。
「俺はその子のことをジモンってよぶんですけどね。ジモンの父親は、歳が若くても剣術が上手だったっていうんです。そのことを母親から聞かされたジモンは『漫画によくある主人公みたいだ』と冗談かましてたけど、父親が剣の達人だってことを信じてる。剣の道をすすんでいけば、いつか父親のことがもっとわかるかもしれないって……思ってるんでしょうね」
闊達(かったつ)なジモンからは想像しにくい経緯だ。しかしそれが拓馬が見聞きしたジモンとその父親の情報。父を慕う父なき子の実例を根拠に、拓馬はさらに言う。
「もしトシさんの子どもも、親に会いたい子だったら、やっぱり一回は会ったほうがいいんじゃないかと思うんです」
「『会わなきゃよかった』と幻滅するかもしれないよ?」
「俺はそう思えません」
「おや、今日会ったばかりだっていうのに、ずいぶんオレを信じてくれるね」
「そうですよ。俺はトシさんをいい人だと思ってる」
稔次の私生活がどんなのであれ、彼の外面(そとづら)はよい。それは拓馬だけでなく、おそらく体験会に参加した客たちも感じていることだ。
「裏でどんなことをしてきたのか知らないけど、俺はそう思った。これは、お子さんに一回会うくらいじゃボロが出ない証拠になるんじゃないですか」
「うまいこと言うね〜」
稔次は拓馬の主張をほめてきたが、本気かどうかは拓馬にはわからなかった。彼の飄々とした態度は、なにかを隠そうとする気持ちのあらわれだろう。その反応にしても、過去に妻にトラウマを植えつける真似をした人物だとはにわかに信じられない。そのトラウマがなにか、が拓馬は気になり出す。
「奥さんになにをした、ってことは聞けないですよね?」
「ああ、言えない。それを言うと師範代たちにも迷惑がかかりそうでね」
親類にまで被害がおよぶこと。それは稔次が風聞のよくないことを過去にしでかした、ということが該当すると拓馬は考えた。それゆえ大畑一家との関係性を不透明にしているのかもしれない。
(わるいこと……犯罪? それで長いこと警察から逃げ回ったとか……)
あるいは収監されていたのか。いずれにせよ、稔次が仕事に就労しづらいとの事情には合致する。
「もしかして、そのせいで仕事に就きにくくなったんですか?」
「よく当ててくるね。きみって探偵になれるんじゃないか?」
「それはないです。俺の知ってる人のほうがカンがいいんで」
拓馬の脳裏には幼馴染のヤマダと知人のシズカがうかんだ。この二人の察しのよさは自身をしのぐ、と拓馬は評価していた。
「まわりにいる人がスゴイのか。それできみはちっともエラぶらないんだな」
「俺のことはいいです。まだ質問してもいいですか」
「うーん、今度はオレがきみに聞いてもいいかな」
「なんです?」
「そのジモンって子は……オレの子だと思う?」
意外にも彼は父不明の男子に関心があった。拓馬はあくまで例え話としてジモンの身の上を話しただけなので、稔次の発想は予想外だ。
「え……顔がぜんぜん似てないし……」
ジモンはブサイクではないが美形では決してない。その造形は稔次とちがいすぎた。そもそもジモンの父は剣術の達人。空手家である稔次とは持ちうる武芸の腕が異なる。
「トシさんは剣道をやってたんですか?」
「いや、剣道はやってこなかったなぁ」
「じゃあちがうんじゃ」
「まぁそうか。ごめん、つまんないこと聞いたね」
室内の半分あたりまで清掃した稔次はバケツに雑巾を入れた。バケツの水で雑巾を洗い、絞る。
「んー、水を換えようかな……どう? まだ話し足りないことはある?」
稔次はこれで込み入った話を終えようとしている。拓馬もあらかた聞けることは聞いた手応えがあり、最後に言うことはないかと絞り出す。
「えっと……ひとつだけ確認していいですか」
「いいよ」
「俺としゃべってて……家族に会わない宣言は、どうなりました?」
稔次はバケツの取っ手を握った。バケツを持つ彼がにっと笑う。
「いま気持ちがぐらついてる」
「じゃあ……」
「前向きに検討しようかな」
そう言って稔次は練習場を出た。心なしか声色はうれしそうだった。やはり自分の子どもに会ってもよいのだと言われて、彼の気が楽になる部分があったようだ。
(いいこと言えた……のかな)
事情を知らぬ部外者が好き勝手にアドバイスをして、当事者にどれだけの得になるだろうか。それでも彼に抜け落ちていた視点を伝えるのは拓馬のすべきことだと思った。
(ジモンは……本当の父さんに会えたら、すごくよろこぶんだろうな)
小事にこだわらない友のことだ。どんなに悪辣な過去がある人物だろうと、現在改心していれば普通に接するはず。
(そういう子もいるんだから……一方的に子どもと会わないほうがいいと決めつけるの、ちがうと思う)
父不在の子どもの思いは拓馬が代弁した。これで稔次の意向が変わらなかったとしても、悔いはのこらない。それが彼なりの家族への愛し方だというのなら、門外漢が口出しできる余地はなかった。
拓馬は五つのミットを拭きおえた。実はとうに終了していい出来だったが、意識は掃除以外のことに重点を置いていたために、長く時間をかけた。
(俺はべつの掃除をしようか……)
拓馬も掃除道具をもって、練習場を出た。その後に稔次と会っても彼の家族の話題はなく、事務連絡的な会話と雑談で締めくくられた。
稔次は雑巾による床掃除の開始と同時にしゃべった。拓馬は今日使用したミットの拭き掃除に取りかかっている。二人の視線が合うことはなく、ただ声だけで意志疎通する。
「なにから……トシさんからまだ隠されてないことを聞きましょうか」
「ああ、それがいいと思うんならね」
解答者は腰をすえて拭き掃除をおこなっている。
「たぶんどんな質問も、はっきりした返事はできないよ」
「答えられなくてもいいんです」
拓馬が思いついた質問は、稔次とその家族を特定しない漠然とした内容だ。
「……トシさんって、子どもいます?」
稔次は顔を上げる。拓馬がどんな思いでその問いをしたのか、推しはかっているようだ。
「なんでそんなことが気になる?」
「トシさんが体験会にきた子どもを見てるとき、なんだか、お父さんみたいな顔をしてると思ったんです」
「へえ、きみは感受性が豊かなんだね〜」
稔次は顔を伏せ、掃除を再開した。拓馬はこの問いが茶化されたように感じる。
(あんまりいい質問じゃなかったかな……)
もとより完全な返答を期待してはいない。拓馬は次なる疑問をたずねようかと意識を切り替えた。だが稔次は「合ってるよ」と前問の解答をしてくる。
「オレには、子どもがいたんだ」
彼は掃除を続けている。声の調子はいくぶん暗い。
「もう大きくなってる。いま見てもだれだかわからないくらいに……」
「ずいぶん会ってないんですか?」
「そうだよ。離婚して、それからは会ってない」
その説明は事実のみを述べていた。子と離れて暮らす彼個人の意思は伝わらない。
「会いたいっておも──」
「会っちゃいけないと思ってるんだ」
強い語調だった。そこに稔次の願望とは相反する決意がある。
「オレがふがいないばっかりに、妻をつらい目に遭わせた。だから、二人にはオレぬきで幸せになってほしい」
この希望はもっともらしい。過去のいまわしい記憶を封印しつづけることが妻子の幸福になる。そんな家庭もあるのだろうと拓馬は思った。しかし身近な友人のことを考えると、同意しかねた。拓馬が連想した友は二人。ひとりは母親が復縁した椙守、もうひとりは父親のいない男友達だ。
「ほんとうに、奥さんたちはトシさんがいないほうが幸せになれるんですか?」
だれにも正解のわからないことを拓馬は口走った。言われたほうは不快になるだろうと思ったが、稔次は平然と作業を続けている。
「子どもにはよくわからないだろうさ」
「子どもだから知ってることはありますよ」
「どんなことを?」
「俺の友だちに、両親が離婚した子が二人います。ひとりは母親が復縁して、実の父親の家にもどってこれた子です」
「その子は父親と仲がいいのかな?」
「ぜんぜん。好きじゃないみたいです。家の仕事を無理やり手伝わされるし、好きなことをあんまりさせてもらえないから」
「じゃあ父親はいないほうがいいんじゃないか」
稔次がからかうように軽い調子で言った。いまの説明で話がおわりなら、彼の意見は正しい。拓馬は首を横にふる。
「だけど『親が再婚しなかったらよかった』なんて一度も言ったことがないんです」
「お父さんがキライなのに?」
「父親と仲良くはないけど、体の強くない母親が無理してはたらいていたときとくらべたら、いまがいいってことらしいです」
椙守母子の過去を拓馬はすべて知っているわけではない。ただ一度、椙守が「母さんには父さんが必要なんだ」と父親を評価したことがあった。それきり椙守は拓馬の前では父親をほめないが、たった一回の賛辞もまた彼の本心だと拓馬は感じていた。
「その子は、お母さんのための再婚、と割り切ってるのか」
「そうだと思います。そいつ、頭がいいから、物事のメリットとデメリットをちゃんと考えられるんです」
「ざんねんだけどオレには当てはまらなさそうだな。オレはむしろ妻側に負担をかけてしまうほうだ」
稔次は就労しづらい事情を抱えているという。それゆえ金銭面での再婚のメリットは見いだせない。拓馬はこちらの事例が蛇足だったと反省した。
「もうひとりの子の話は?」
稔次が拓馬の話題に食いついている。子ども目線の話にまだ興味をもってくれているとわかり、拓馬はもうひとりの友人のことを思い出す。その人物はジモンという、大柄で筋肉質な男子だ。
「もうひとりは、父親がいません。ちっちゃいときに母親と離婚したそうで、父親がどんな人だったか、ほとんどおぼえていないらしいです」
「その子は父親に会いたがってる?」
「そう、だと思います。いつも明るい性格で、しめっぽい話はしたがらないけど……父親にちかづきたい、とは言ってました。だから剣道部に入るんだって」
ジモンは体格的に徒手の武道を習ったほうが有利そうな男子だ。しかし彼はあえて剣の道を選んだ。その動機は彼の母親から聞いた、父親の像を追いかけるためだという。
「俺はその子のことをジモンってよぶんですけどね。ジモンの父親は、歳が若くても剣術が上手だったっていうんです。そのことを母親から聞かされたジモンは『漫画によくある主人公みたいだ』と冗談かましてたけど、父親が剣の達人だってことを信じてる。剣の道をすすんでいけば、いつか父親のことがもっとわかるかもしれないって……思ってるんでしょうね」
闊達(かったつ)なジモンからは想像しにくい経緯だ。しかしそれが拓馬が見聞きしたジモンとその父親の情報。父を慕う父なき子の実例を根拠に、拓馬はさらに言う。
「もしトシさんの子どもも、親に会いたい子だったら、やっぱり一回は会ったほうがいいんじゃないかと思うんです」
「『会わなきゃよかった』と幻滅するかもしれないよ?」
「俺はそう思えません」
「おや、今日会ったばかりだっていうのに、ずいぶんオレを信じてくれるね」
「そうですよ。俺はトシさんをいい人だと思ってる」
稔次の私生活がどんなのであれ、彼の外面(そとづら)はよい。それは拓馬だけでなく、おそらく体験会に参加した客たちも感じていることだ。
「裏でどんなことをしてきたのか知らないけど、俺はそう思った。これは、お子さんに一回会うくらいじゃボロが出ない証拠になるんじゃないですか」
「うまいこと言うね〜」
稔次は拓馬の主張をほめてきたが、本気かどうかは拓馬にはわからなかった。彼の飄々とした態度は、なにかを隠そうとする気持ちのあらわれだろう。その反応にしても、過去に妻にトラウマを植えつける真似をした人物だとはにわかに信じられない。そのトラウマがなにか、が拓馬は気になり出す。
「奥さんになにをした、ってことは聞けないですよね?」
「ああ、言えない。それを言うと師範代たちにも迷惑がかかりそうでね」
親類にまで被害がおよぶこと。それは稔次が風聞のよくないことを過去にしでかした、ということが該当すると拓馬は考えた。それゆえ大畑一家との関係性を不透明にしているのかもしれない。
(わるいこと……犯罪? それで長いこと警察から逃げ回ったとか……)
あるいは収監されていたのか。いずれにせよ、稔次が仕事に就労しづらいとの事情には合致する。
「もしかして、そのせいで仕事に就きにくくなったんですか?」
「よく当ててくるね。きみって探偵になれるんじゃないか?」
「それはないです。俺の知ってる人のほうがカンがいいんで」
拓馬の脳裏には幼馴染のヤマダと知人のシズカがうかんだ。この二人の察しのよさは自身をしのぐ、と拓馬は評価していた。
「まわりにいる人がスゴイのか。それできみはちっともエラぶらないんだな」
「俺のことはいいです。まだ質問してもいいですか」
「うーん、今度はオレがきみに聞いてもいいかな」
「なんです?」
「そのジモンって子は……オレの子だと思う?」
意外にも彼は父不明の男子に関心があった。拓馬はあくまで例え話としてジモンの身の上を話しただけなので、稔次の発想は予想外だ。
「え……顔がぜんぜん似てないし……」
ジモンはブサイクではないが美形では決してない。その造形は稔次とちがいすぎた。そもそもジモンの父は剣術の達人。空手家である稔次とは持ちうる武芸の腕が異なる。
「トシさんは剣道をやってたんですか?」
「いや、剣道はやってこなかったなぁ」
「じゃあちがうんじゃ」
「まぁそうか。ごめん、つまんないこと聞いたね」
室内の半分あたりまで清掃した稔次はバケツに雑巾を入れた。バケツの水で雑巾を洗い、絞る。
「んー、水を換えようかな……どう? まだ話し足りないことはある?」
稔次はこれで込み入った話を終えようとしている。拓馬もあらかた聞けることは聞いた手応えがあり、最後に言うことはないかと絞り出す。
「えっと……ひとつだけ確認していいですか」
「いいよ」
「俺としゃべってて……家族に会わない宣言は、どうなりました?」
稔次はバケツの取っ手を握った。バケツを持つ彼がにっと笑う。
「いま気持ちがぐらついてる」
「じゃあ……」
「前向きに検討しようかな」
そう言って稔次は練習場を出た。心なしか声色はうれしそうだった。やはり自分の子どもに会ってもよいのだと言われて、彼の気が楽になる部分があったようだ。
(いいこと言えた……のかな)
事情を知らぬ部外者が好き勝手にアドバイスをして、当事者にどれだけの得になるだろうか。それでも彼に抜け落ちていた視点を伝えるのは拓馬のすべきことだと思った。
(ジモンは……本当の父さんに会えたら、すごくよろこぶんだろうな)
小事にこだわらない友のことだ。どんなに悪辣な過去がある人物だろうと、現在改心していれば普通に接するはず。
(そういう子もいるんだから……一方的に子どもと会わないほうがいいと決めつけるの、ちがうと思う)
父不在の子どもの思いは拓馬が代弁した。これで稔次の意向が変わらなかったとしても、悔いはのこらない。それが彼なりの家族への愛し方だというのなら、門外漢が口出しできる余地はなかった。
拓馬は五つのミットを拭きおえた。実はとうに終了していい出来だったが、意識は掃除以外のことに重点を置いていたために、長く時間をかけた。
(俺はべつの掃除をしようか……)
拓馬も掃除道具をもって、練習場を出た。その後に稔次と会っても彼の家族の話題はなく、事務連絡的な会話と雑談で締めくくられた。
タグ:拓馬
2018年11月03日
拓馬篇後記−16
体験会に参加した客は全員帰途についた。練習場には道場関係者がのこる。彼らは輪になって、新規の指導員について議題にする。
「あの状況じゃ拓馬くんがことわれません」
とは神南の言葉だ。彼女は大畑が土壇場で拓馬を指導員に仕立てたことをやり玉に挙げる。
「お客さんには『人手を増やしたいと思っています』と答えるぐらいじゃ、ダメだったんですか」
普段は控えめな神南がめずらしくキツいことを言っている。大畑に言動の反省をうながしているのだ。責められた大畑は「言われればたしかに」と萎縮する。
「あそこで急に決めなくてもよかったな……」
「ひとりでも多くの門下生がほしいのはわかります。でも子どもに気を遣わせるなんて、いい大人のすることじゃありません」
「むう、スマンな、拓馬くん……」
大畑がうなだれながら謝った。拓馬は謝罪を要求するほどのことではないと思っていたので、この対応にはあわてる。
「いや、どうせ予定はないし……トシさんが俺の手を借りたいっていうなら、貸していいなって」
「おお、トシを気に入ってくれたか!」
落ち込んでいた中年が一気に元通りになった。その変貌に拓馬は面食らう。
「あ……べつに気に入るってわけじゃ……」
「照れんでもいい! ワシもトシは好きだ」
「え」
「家族として好きという意味だ。誤解はせんでくれ。きみはどうもワシをカンちがいしとるようだからな」
拓馬が大畑に男色のケがあるとうたがっている。そのことがバレた。それをどう言い繕おうかと拓馬がまごまごすると、大畑の父である師範は「どうだかの」とうたがいのまなざしを子に向ける。
「トシに会えたその晩に、トシにくっついて寝たのはだれだ?」
「妻もいっしょだからいいでしょう!」
「よそさまの夫はな、川の字になって寝るのは妻と子どもとだけだ。この夏場の暑苦しいときに男同士でひっつき合うのはどうかしとる」
「長年積もった情があふれ出ておるのです!」
大畑は稔次と肩を組もうと手をのばした。しかし稔次がひらりと身をかわす。
「オレもーヤダよ」
「なんと! このファミリー愛をこばむというのか!」
「くっつかれるなら女の人がいいって」
「そんなスケコマシにそだてたおぼえはないぞ!」
「普通の男ならだれだってそうだよ」
ねー、と稔次が拓馬に同意を求める。拓馬は家族間の言い争いに加わりたくなかったので、無言でうなずいた。同時に大畑の発言を考察する。
(師範代がトシさんをそだてたって言ってるから……二人はちっちゃいときから一緒だったみたいだな)
稔次が身よりのない親戚の子どもだったのか、あるいは大畑とは兄弟なのか。その二つが可能性として浮上した。大畑の名が豊一で長男らしいのと、稔次の名が次男らしいのをふまえると、兄弟の線が濃厚だ。
(でも弟を親戚だなんて言うかな)
稔次が大畑家と直接の関わりがあると周囲に知れてはこまる──そんな事情が両者の間にあるのかもしれない。そう思った頃合いに、大畑が質問の好機となるセリフを言う。
「──これまでにいろいろあったが、これからのトシには人生をたのしんでほしいと思っておる」
「いろいろって?」
拓馬はその質問をするのが当然のようにたずねた。過去を隠したがる彼らが直接答えを教えるはずもないが、想像の種くらいは言ってくれるのではないかと思った。大畑は稔次の顔色をうかがう。稔次は気まずそうだ。
「それを知りたくば……」
大畑は満面の笑みを拓馬に見せる。
「ワシと家族になるかい?」
「なんで?」
「家族のヒミツを知りたいんだろう? ではきみにも家族になってもらわんとな!」
「どうやって?」
「ワシの息子に──」
拓馬はとっさに首を横にふる。いくら大畑が娘ばかりの家庭状況とはいえ「養子に入れ」とは急な話だと思ったためだ。
「ヤですよ、養子なんて」
「養子か。そういうことにもなるか」
「ちがうんですか?」
「婿に入れば同じことだな!」
拓馬は呆気にとられた。大畑の娘は年長の者でも小学生。とても恋愛対象には見れない相手だ。神南がおずおずと「まだ言うのは早いんじゃ」と大畑を制止する。
「二人ともまだ子どもです。そんなこと言っても反発されるだけですよ」
「そうは思っていたが、やはり言っておかないと心配だ。噂によれば拓馬くんには美人の女友達ができたそうじゃないか。その子にとられてからではおそい!」
近ごろ拓馬の友人になった女子というと、拓馬の思い当たる人物がいた。しかし彼女と特別親しくはないし、相手の気難しい性格上、大畑の心配はいきすぎだと感じる。
「その子とはそんな関係になれっこないです」
「転ばぬ先の杖だ! さあどうだ、うちの娘と許婚(いいなずけ)に」
「ムリです。歳が離れすぎです」
「うちの妻とワシもそれぐらい離れているぞ」
「そりゃ師範代みたいに三十路で結婚するんだったら気にならないでしょうけど……」
現実味の感じられない申し出だ。拓馬はどうにかこの場を乗り切ろうと話題を変える。
「もういいです。とっとと後片付けを──」
「いいよ、教えてあげる」
稔次が二人の会話に割って入る。表情はやわらかいが、心から笑ってはいない。
「教えるのと婿養子に入るのはべつの話だ。安心していい」
「あ、はい……」
「ぜんぶを言えるわけじゃないけど……それで我慢してくれ」
思いがけず重いトーンのやり取りがはじまることになった。大畑は師範と神南を見遣る。
「……拓馬くんとトシに練習場の掃除をまかせる。ワシらはほかの片付けをしよう」
大畑が厄介払いをした。三人がこの場を出ていく。しかし練習場を担当する拓馬たちも一度出なくては掃除ができない。謎多き男性と分担する掃除箇所を決め、そののちに掃除道具を取りに向かった。
「あの状況じゃ拓馬くんがことわれません」
とは神南の言葉だ。彼女は大畑が土壇場で拓馬を指導員に仕立てたことをやり玉に挙げる。
「お客さんには『人手を増やしたいと思っています』と答えるぐらいじゃ、ダメだったんですか」
普段は控えめな神南がめずらしくキツいことを言っている。大畑に言動の反省をうながしているのだ。責められた大畑は「言われればたしかに」と萎縮する。
「あそこで急に決めなくてもよかったな……」
「ひとりでも多くの門下生がほしいのはわかります。でも子どもに気を遣わせるなんて、いい大人のすることじゃありません」
「むう、スマンな、拓馬くん……」
大畑がうなだれながら謝った。拓馬は謝罪を要求するほどのことではないと思っていたので、この対応にはあわてる。
「いや、どうせ予定はないし……トシさんが俺の手を借りたいっていうなら、貸していいなって」
「おお、トシを気に入ってくれたか!」
落ち込んでいた中年が一気に元通りになった。その変貌に拓馬は面食らう。
「あ……べつに気に入るってわけじゃ……」
「照れんでもいい! ワシもトシは好きだ」
「え」
「家族として好きという意味だ。誤解はせんでくれ。きみはどうもワシをカンちがいしとるようだからな」
拓馬が大畑に男色のケがあるとうたがっている。そのことがバレた。それをどう言い繕おうかと拓馬がまごまごすると、大畑の父である師範は「どうだかの」とうたがいのまなざしを子に向ける。
「トシに会えたその晩に、トシにくっついて寝たのはだれだ?」
「妻もいっしょだからいいでしょう!」
「よそさまの夫はな、川の字になって寝るのは妻と子どもとだけだ。この夏場の暑苦しいときに男同士でひっつき合うのはどうかしとる」
「長年積もった情があふれ出ておるのです!」
大畑は稔次と肩を組もうと手をのばした。しかし稔次がひらりと身をかわす。
「オレもーヤダよ」
「なんと! このファミリー愛をこばむというのか!」
「くっつかれるなら女の人がいいって」
「そんなスケコマシにそだてたおぼえはないぞ!」
「普通の男ならだれだってそうだよ」
ねー、と稔次が拓馬に同意を求める。拓馬は家族間の言い争いに加わりたくなかったので、無言でうなずいた。同時に大畑の発言を考察する。
(師範代がトシさんをそだてたって言ってるから……二人はちっちゃいときから一緒だったみたいだな)
稔次が身よりのない親戚の子どもだったのか、あるいは大畑とは兄弟なのか。その二つが可能性として浮上した。大畑の名が豊一で長男らしいのと、稔次の名が次男らしいのをふまえると、兄弟の線が濃厚だ。
(でも弟を親戚だなんて言うかな)
稔次が大畑家と直接の関わりがあると周囲に知れてはこまる──そんな事情が両者の間にあるのかもしれない。そう思った頃合いに、大畑が質問の好機となるセリフを言う。
「──これまでにいろいろあったが、これからのトシには人生をたのしんでほしいと思っておる」
「いろいろって?」
拓馬はその質問をするのが当然のようにたずねた。過去を隠したがる彼らが直接答えを教えるはずもないが、想像の種くらいは言ってくれるのではないかと思った。大畑は稔次の顔色をうかがう。稔次は気まずそうだ。
「それを知りたくば……」
大畑は満面の笑みを拓馬に見せる。
「ワシと家族になるかい?」
「なんで?」
「家族のヒミツを知りたいんだろう? ではきみにも家族になってもらわんとな!」
「どうやって?」
「ワシの息子に──」
拓馬はとっさに首を横にふる。いくら大畑が娘ばかりの家庭状況とはいえ「養子に入れ」とは急な話だと思ったためだ。
「ヤですよ、養子なんて」
「養子か。そういうことにもなるか」
「ちがうんですか?」
「婿に入れば同じことだな!」
拓馬は呆気にとられた。大畑の娘は年長の者でも小学生。とても恋愛対象には見れない相手だ。神南がおずおずと「まだ言うのは早いんじゃ」と大畑を制止する。
「二人ともまだ子どもです。そんなこと言っても反発されるだけですよ」
「そうは思っていたが、やはり言っておかないと心配だ。噂によれば拓馬くんには美人の女友達ができたそうじゃないか。その子にとられてからではおそい!」
近ごろ拓馬の友人になった女子というと、拓馬の思い当たる人物がいた。しかし彼女と特別親しくはないし、相手の気難しい性格上、大畑の心配はいきすぎだと感じる。
「その子とはそんな関係になれっこないです」
「転ばぬ先の杖だ! さあどうだ、うちの娘と許婚(いいなずけ)に」
「ムリです。歳が離れすぎです」
「うちの妻とワシもそれぐらい離れているぞ」
「そりゃ師範代みたいに三十路で結婚するんだったら気にならないでしょうけど……」
現実味の感じられない申し出だ。拓馬はどうにかこの場を乗り切ろうと話題を変える。
「もういいです。とっとと後片付けを──」
「いいよ、教えてあげる」
稔次が二人の会話に割って入る。表情はやわらかいが、心から笑ってはいない。
「教えるのと婿養子に入るのはべつの話だ。安心していい」
「あ、はい……」
「ぜんぶを言えるわけじゃないけど……それで我慢してくれ」
思いがけず重いトーンのやり取りがはじまることになった。大畑は師範と神南を見遣る。
「……拓馬くんとトシに練習場の掃除をまかせる。ワシらはほかの片付けをしよう」
大畑が厄介払いをした。三人がこの場を出ていく。しかし練習場を担当する拓馬たちも一度出なくては掃除ができない。謎多き男性と分担する掃除箇所を決め、そののちに掃除道具を取りに向かった。
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