2018年10月27日
拓馬篇後記−14
道着に着替えた拓馬は練習場へもどった。着替えおわったことを男性に知らせようかと思ったが、相手方の片付け作業をせかす可能性もあったので、やめておいた。
ほどなくして神南もやってくる。彼女は練習場の出入りに邪魔にならない場所で柔軟体操をはじめた。ケガを未然にふせぐには適切な柔軟体操が大事だ。拓馬も神南に倣い、片足前屈をする。しかし無言でいるのもなんなので、頭巾の男性の話をもちかける。
「あの男の人、なにかわかりました?」
「いえ、あんまり……でも師範代とは仲がいいみたい」
「どこを見てそう思ったんです?」
「師範代のことを『ホーちゃん』ってよんでた」
大畑の名は豊一(ほういち)という。そのあだ名を呼ぶのに妥当な本名ではあるが、かなりちかしい存在でなくては使いにくい呼び名だ。むかしからの友人なのだろうか。それとも男性が一方的に馴れ馴れしくしているだけなのか。たとえばヤマダは大畑に少々失礼なあだ名をつけており、大畑はその名の使用を寛大な心で許可している。
(師範代はあの人をどうよんでるんだ?)
大畑が男性に使う呼称次第で親密度が測れそうだ。なおかつ拓馬が知りたかった男性の呼び名もわかる。
「師範代のほうは、男の人をなんてよぶんです?」
「『トシ』か『トッシー』って……」
「それは仲よさそうな……神南さんはどうよぶことにしました?」
「まあ、ふつうに『トシさん』、かな……」
神南は片足前屈を両足やりおえ、次に両足をひらく開脚前屈をはじめた。拓馬は片足前屈の片足を長く伸ばしていたので、もう片方の足の柔軟に切り替える。
「じゃあ俺もそうよびます」
「うん……一回、本人に聞いていいとは思うけど」
「神南さんも自己紹介はしてないんですか」
「そう。でも師範代が教えたみたいで、トシさんはあたしの名前を知ってた」
「『神南さん』ってよばれた?」
「あ、いや……」
神南は床に向けていた顔を横にそむけた。奇妙な反応だ。恥ずかしがっているようでもある。
「下の名前でよばれてる?」
「そうでもなくて……」
練習場の引き戸が開いた。白い道着に着替えた男性が入ってくる。彼の頭巾は外されていて、頭巾で隠れていた前髪が額にかかっている。
「カンちゃんたちは準備運動やってるんだ?」
聞き慣れない名前だ。それが拓馬の呼び名ではないことは知れた。
(カンナミのカン……?)
あだ名を呼ばれたであろう神南の様子を見ると、彼女は男性に顔を合わせないようにしていた。その呼び名に抵抗があるらしい。だが不快ではなさそうだ。拓馬が男性へあだ名の呼びとめを仕掛けるにはおよばず、そのまま様子を見た。
男性は「オレもやろうっと」と座り、三人で円をつくるような形で柔軟体操をはじめた。男性はかかとの裏同士を合わせた足を手でつかみ、前のめりになる。なぜだか彼の目の前には体験会のチラシがある。
「あれ、どっからそのチラシが……」
「いまオレが持ってきた。時間があるし、ヒマつぶしに見ておこうかと思って」
「はあ……」
大畑家が自力制作したとおぼしいチラシを、男性はながめている。そのチラシはデキのよくない作品だ。古風な筆致とかわいらしいイラストが混在する混沌としたつくりである。拓馬としては、見ていてたのしめる広告には思えないのだが。
(この人が作ったわけじゃなさそうだな)
その制作に関わっていたならいまさらこの場で見なくてもよいはず。よほどのナルシストでなければ見飽きているだろう、と拓馬は思い、チラシについて質問する。
「そのチラシはだれが作ったか、聞いてます?」
「ん? これはホーちゃん……師範代の家族の合作だ」
「やっぱり。フツーの会社にたのんだら、こんなのになりませんよね」
男性は上体をもどした。その顔は笑っている。
「よくわかるね〜。きみはセンスがあるよ」
なんでもない普通の感性をほめられて、拓馬は気恥ずかしくなる。
「いや、これぐらい学校で習うんで……」
「へえ、チラシの制作を学ぶのか」
「うちの高校、授業にデジタルの画像処理もあるんです。それ専門の学校じゃないですけど、それでウェブサイトと広告の基本はだいたい……」
「そりゃいいな。オレも通いたいくらいだ」
拓馬の倍ほど生きる男性が学校に興味を示している。それが不思議で、拓馬は掘り下げる。
「広告をつくることに興味あるんですか?」
「まえはそれで食ってたんだよ。そういう学校にも行った」
「じゃあ勉強しなくても──」
「こういう技術はどんどんあたらしくなるからね。最新の手法とセンスは磨きたい……けど、それで仕事に就けるかは別問題だ」
男性はこれから職をさがすという。しかしそれは困難でもあるといい、その事情は他人が気軽に聞けるものではなかった。
男性はふたたび前屈する。
「このチラシ、見ようによっちゃいい広告だよ」
「え? 文字とイラストの雰囲気がぜんぜんちがうのに?」
「広告は見た人の記憶にのこってナンボだ。たしかにきれいにつくったものは人にこのまれやすい。でもだからおぼえてもらえるとはかぎらない。このチラシのアンバランスさはかえって見る人の印象にのこりやすいと思うよ」
その筋の人らしい見方だ。素人では思いつかない意見を聞けて、拓馬にささやかな好奇心が芽生える。
「じゃあこのチラシは手直ししなくていいと?」
「うーん、オレが手を入れていいんなら、変えたくなるな」
「どんなふうに?」
「オレだったら文字を変える。イラストに合わせたポップな書体にするかな。子ども向けの企画なんだし……奇抜なことはしなくていいと思う」
「子どもに合わせるんですね」
「ああ、平凡なことを言っちゃうとそうなるね」
「いえ、参考になります」
拓馬は姿勢を変え、男性と同じ柔軟体操をやる。男性は不意に笑う。
「あはは、きみはずいぶん大人びてるね」
「あ……ヘンですか?」
「そんなことないよ。人間、しっかりしててしすぎってこたぁない。オレなんかいっつも抜け作でね〜」
抜けてる、といえば拓馬たちは互いの名前を明かしていない。一般的な初対面の者とのやり取りがいまだに完遂されないことに、拓馬は多少のあせりをおぼえる。
「あの、俺の名前ってまだ言ってないですよね?」
「師範代から聞いてるよ。拓馬くんって言うんだろ? オレもそうよんでいいかな」
「はい。俺はあなたのことをなんてよべばいいですか?」
「呼び名か……『オバタケ』じゃ師範代とかぶるしね〜」
「え、あなたも大畑というんですか? 『大きい』に『畑』の?」
「そうだけど……?」
男性は拓馬のおどろきようにおどろいている。拓馬の推測では彼が大畑姓の一族ではないと思っていた。その見込みちがいについて拓馬は釈明する。
「あ、てっきり……師範代のお母さんの家系の人かと思って」
「ああ〜、顔がね……」
男性は自身の頬を手のひらでこする。大畑の母に顔が似ている自覚はあるようだ。
「そっちで通したほうがよかったかな」
「え、『通す』?」
通す、とは真実でない事柄をそれらしく見せかけるときにも使う言葉だ。詐称のにおいがただよってくる口ぶりである。拓馬があやしむと男性は愛想笑いをする。
「なんでもないよ。オレのことは……トシツグとよんでくれ」
「トシツグ、さん?」
「『トシ』はのぎへんに念じる、で『稔』。『ツグ』は次男次女の『次』って字だ。みじかくよびたかったらトシでいい」
「次男の……もしかしてお兄さんがいるんですか?」
稔次という男性は顔をこわばらせた。痛いところを突かれたかのようだ。これまでほがらかに会話してきた人とは思えぬ態度だ。
「俺、まずいことを言いました?」
「いや、その、なんでオレにアニキがいると思ったのかな、て」
「いま自分で『次男だ』ってことを遠回しに言ったんじゃ」
「あ、そんなふうに、聞こえる?」
稔次のまばたきの回数が増えた。どうも反応が奇妙である。彼の素性と漢字の説明とが一致しないのなら拓馬の予想を否定すればよいのに、確実にそうではない素振りだ。
(兄弟がいるのって、隠したいことなのか……?)
秘匿したがる動機はまったく見当もつかないが、当人がのぞむのなら追究はしない。拓馬は室内の壁掛け時計を見る。受付の開始時刻があと数分にせまっている。
「そろそろ人がくる時間じゃないですか」
「お、そうか。案内役をしないとな」
稔次はそそくさと練習場を出る。拓馬もそれに続こうかと思い、腰をあげた。神南も立ち上がり、「気を遣ってあげたの?」と拓馬の言動を問う。
「トシさん、隠し事が上手じゃないみたいね」
「そうですね……いい人っぽいから、気になりませんけど」
「ええ、こわい人じゃなくてよかった」
神南も稔次の人柄に免じて、彼の不審な点を見逃すつもりだ。二人はこれで稔次の話をやめ、今日の体験会に向けた行動を再開した。
ほどなくして神南もやってくる。彼女は練習場の出入りに邪魔にならない場所で柔軟体操をはじめた。ケガを未然にふせぐには適切な柔軟体操が大事だ。拓馬も神南に倣い、片足前屈をする。しかし無言でいるのもなんなので、頭巾の男性の話をもちかける。
「あの男の人、なにかわかりました?」
「いえ、あんまり……でも師範代とは仲がいいみたい」
「どこを見てそう思ったんです?」
「師範代のことを『ホーちゃん』ってよんでた」
大畑の名は豊一(ほういち)という。そのあだ名を呼ぶのに妥当な本名ではあるが、かなりちかしい存在でなくては使いにくい呼び名だ。むかしからの友人なのだろうか。それとも男性が一方的に馴れ馴れしくしているだけなのか。たとえばヤマダは大畑に少々失礼なあだ名をつけており、大畑はその名の使用を寛大な心で許可している。
(師範代はあの人をどうよんでるんだ?)
大畑が男性に使う呼称次第で親密度が測れそうだ。なおかつ拓馬が知りたかった男性の呼び名もわかる。
「師範代のほうは、男の人をなんてよぶんです?」
「『トシ』か『トッシー』って……」
「それは仲よさそうな……神南さんはどうよぶことにしました?」
「まあ、ふつうに『トシさん』、かな……」
神南は片足前屈を両足やりおえ、次に両足をひらく開脚前屈をはじめた。拓馬は片足前屈の片足を長く伸ばしていたので、もう片方の足の柔軟に切り替える。
「じゃあ俺もそうよびます」
「うん……一回、本人に聞いていいとは思うけど」
「神南さんも自己紹介はしてないんですか」
「そう。でも師範代が教えたみたいで、トシさんはあたしの名前を知ってた」
「『神南さん』ってよばれた?」
「あ、いや……」
神南は床に向けていた顔を横にそむけた。奇妙な反応だ。恥ずかしがっているようでもある。
「下の名前でよばれてる?」
「そうでもなくて……」
練習場の引き戸が開いた。白い道着に着替えた男性が入ってくる。彼の頭巾は外されていて、頭巾で隠れていた前髪が額にかかっている。
「カンちゃんたちは準備運動やってるんだ?」
聞き慣れない名前だ。それが拓馬の呼び名ではないことは知れた。
(カンナミのカン……?)
あだ名を呼ばれたであろう神南の様子を見ると、彼女は男性に顔を合わせないようにしていた。その呼び名に抵抗があるらしい。だが不快ではなさそうだ。拓馬が男性へあだ名の呼びとめを仕掛けるにはおよばず、そのまま様子を見た。
男性は「オレもやろうっと」と座り、三人で円をつくるような形で柔軟体操をはじめた。男性はかかとの裏同士を合わせた足を手でつかみ、前のめりになる。なぜだか彼の目の前には体験会のチラシがある。
「あれ、どっからそのチラシが……」
「いまオレが持ってきた。時間があるし、ヒマつぶしに見ておこうかと思って」
「はあ……」
大畑家が自力制作したとおぼしいチラシを、男性はながめている。そのチラシはデキのよくない作品だ。古風な筆致とかわいらしいイラストが混在する混沌としたつくりである。拓馬としては、見ていてたのしめる広告には思えないのだが。
(この人が作ったわけじゃなさそうだな)
その制作に関わっていたならいまさらこの場で見なくてもよいはず。よほどのナルシストでなければ見飽きているだろう、と拓馬は思い、チラシについて質問する。
「そのチラシはだれが作ったか、聞いてます?」
「ん? これはホーちゃん……師範代の家族の合作だ」
「やっぱり。フツーの会社にたのんだら、こんなのになりませんよね」
男性は上体をもどした。その顔は笑っている。
「よくわかるね〜。きみはセンスがあるよ」
なんでもない普通の感性をほめられて、拓馬は気恥ずかしくなる。
「いや、これぐらい学校で習うんで……」
「へえ、チラシの制作を学ぶのか」
「うちの高校、授業にデジタルの画像処理もあるんです。それ専門の学校じゃないですけど、それでウェブサイトと広告の基本はだいたい……」
「そりゃいいな。オレも通いたいくらいだ」
拓馬の倍ほど生きる男性が学校に興味を示している。それが不思議で、拓馬は掘り下げる。
「広告をつくることに興味あるんですか?」
「まえはそれで食ってたんだよ。そういう学校にも行った」
「じゃあ勉強しなくても──」
「こういう技術はどんどんあたらしくなるからね。最新の手法とセンスは磨きたい……けど、それで仕事に就けるかは別問題だ」
男性はこれから職をさがすという。しかしそれは困難でもあるといい、その事情は他人が気軽に聞けるものではなかった。
男性はふたたび前屈する。
「このチラシ、見ようによっちゃいい広告だよ」
「え? 文字とイラストの雰囲気がぜんぜんちがうのに?」
「広告は見た人の記憶にのこってナンボだ。たしかにきれいにつくったものは人にこのまれやすい。でもだからおぼえてもらえるとはかぎらない。このチラシのアンバランスさはかえって見る人の印象にのこりやすいと思うよ」
その筋の人らしい見方だ。素人では思いつかない意見を聞けて、拓馬にささやかな好奇心が芽生える。
「じゃあこのチラシは手直ししなくていいと?」
「うーん、オレが手を入れていいんなら、変えたくなるな」
「どんなふうに?」
「オレだったら文字を変える。イラストに合わせたポップな書体にするかな。子ども向けの企画なんだし……奇抜なことはしなくていいと思う」
「子どもに合わせるんですね」
「ああ、平凡なことを言っちゃうとそうなるね」
「いえ、参考になります」
拓馬は姿勢を変え、男性と同じ柔軟体操をやる。男性は不意に笑う。
「あはは、きみはずいぶん大人びてるね」
「あ……ヘンですか?」
「そんなことないよ。人間、しっかりしててしすぎってこたぁない。オレなんかいっつも抜け作でね〜」
抜けてる、といえば拓馬たちは互いの名前を明かしていない。一般的な初対面の者とのやり取りがいまだに完遂されないことに、拓馬は多少のあせりをおぼえる。
「あの、俺の名前ってまだ言ってないですよね?」
「師範代から聞いてるよ。拓馬くんって言うんだろ? オレもそうよんでいいかな」
「はい。俺はあなたのことをなんてよべばいいですか?」
「呼び名か……『オバタケ』じゃ師範代とかぶるしね〜」
「え、あなたも大畑というんですか? 『大きい』に『畑』の?」
「そうだけど……?」
男性は拓馬のおどろきようにおどろいている。拓馬の推測では彼が大畑姓の一族ではないと思っていた。その見込みちがいについて拓馬は釈明する。
「あ、てっきり……師範代のお母さんの家系の人かと思って」
「ああ〜、顔がね……」
男性は自身の頬を手のひらでこする。大畑の母に顔が似ている自覚はあるようだ。
「そっちで通したほうがよかったかな」
「え、『通す』?」
通す、とは真実でない事柄をそれらしく見せかけるときにも使う言葉だ。詐称のにおいがただよってくる口ぶりである。拓馬があやしむと男性は愛想笑いをする。
「なんでもないよ。オレのことは……トシツグとよんでくれ」
「トシツグ、さん?」
「『トシ』はのぎへんに念じる、で『稔』。『ツグ』は次男次女の『次』って字だ。みじかくよびたかったらトシでいい」
「次男の……もしかしてお兄さんがいるんですか?」
稔次という男性は顔をこわばらせた。痛いところを突かれたかのようだ。これまでほがらかに会話してきた人とは思えぬ態度だ。
「俺、まずいことを言いました?」
「いや、その、なんでオレにアニキがいると思ったのかな、て」
「いま自分で『次男だ』ってことを遠回しに言ったんじゃ」
「あ、そんなふうに、聞こえる?」
稔次のまばたきの回数が増えた。どうも反応が奇妙である。彼の素性と漢字の説明とが一致しないのなら拓馬の予想を否定すればよいのに、確実にそうではない素振りだ。
(兄弟がいるのって、隠したいことなのか……?)
秘匿したがる動機はまったく見当もつかないが、当人がのぞむのなら追究はしない。拓馬は室内の壁掛け時計を見る。受付の開始時刻があと数分にせまっている。
「そろそろ人がくる時間じゃないですか」
「お、そうか。案内役をしないとな」
稔次はそそくさと練習場を出る。拓馬もそれに続こうかと思い、腰をあげた。神南も立ち上がり、「気を遣ってあげたの?」と拓馬の言動を問う。
「トシさん、隠し事が上手じゃないみたいね」
「そうですね……いい人っぽいから、気になりませんけど」
「ええ、こわい人じゃなくてよかった」
神南も稔次の人柄に免じて、彼の不審な点を見逃すつもりだ。二人はこれで稔次の話をやめ、今日の体験会に向けた行動を再開した。
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