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2016年05月23日
第210回 ポワンチュの髯
文●ツルシカズヒコ
岩野泡鳴は一九一六(大正五)年十月十二日の日記に、こう書いている。
十月十二日。雨。大杉氏、野枝氏と共に来訪。
(「巣鴨日記」/『泡鳴全集 第十二巻』)
大杉と野枝は泡鳴に借金の申し込みに行ったと推測される。
『日録・大杉栄伝』によれば、大杉と野枝が麹町区三番町六四の下宿・第一福四万館を出て、本郷区菊坂町八二の菊富士ホテルに移ったのは十月十五日だった。
ふたりで三十円の下宿代を三カ月も払わずにいたので、第一福四万館から追い出されたのである。
このころの大杉と野枝について、山川菊栄はこう書いている。
その年の夏中二人は三番町の下宿に籠城して雨と降る世間の攻撃の中に、食ふや食はずの悲惨な生活をしてゐた。
遂には下宿屋で食事を出すことをやめてしまつたので、小遣銭のない時は絶食し、幾らかはいつた時は食パンを買つて来て飢を凌いだと聞いてゐる。
これは二人の恋の尊い代価だつた。
(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p16)
そのころの大杉さんは八方ふさがりで、野枝さんの話では下宿のたちのきを求められ、食事も出してくれないので、食パンと水でしのいでいるとのこと。
しかし若い二人は憎まれれば憎まれるほどなお楽しそうに、貧乏の苦労もひとごとのように笑い話にしていました。
ふしぎなことに、どんな場合にも大杉さんは高級な、スマートな服装を欠かさず、野枝さんも気のきいた恰好で、「片道だけでいいのよ」といって私のところから余分はおいて銅貨二、三枚の電車賃をもっていくときでも、しょげた様子は見せませんでした。
(山川菊栄『おんな二代の記』_p226)
菊富士ホテルに移ったのは、投宿中の大石七分(大石誠之助の甥)の紹介による。
表三階二十三番の八畳の間に、一人三十円、二人で六十円の約束で宿泊することになった。
菊富士ホテルは大正三年、東京で三番目にできたホテル形式の宿泊施設で、長期滞在客相手の高級下宿である。
大杉が入ったので、本富士警察署の刑事が四六時中、監視についていた。
(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p193)
広津和郎は、こう書いている。
大杉栄がいた頃には、その頃は例の「尾行」時代だったので、朝から晩まで大杉を見守る本富士署の刑事が二人、玄関前に立ちつづけていたそうであるが、私がここに部屋を借りてから、その刑事の一人が訪ねて来て、尾行している中にすっかり大杉に魅力を感じたそうで、「私は今でも大杉先生を崇拝しています」などと云っていた。
(「年月のあしおと」/『広津和郎全集 第十二巻』_p254)
大杉栄『自叙伝』(「葉山事件」)によれば、十月三十日の夜、大杉は内務大臣官邸に電話をかけ、後藤新平がいることを確認して、永田町に出かけた。
官邸では二十八日から開かれていた寺内新内閣初の地方長官会議が終わって、慰労会が行なわれていた(『日録・大杉栄伝』)。
後藤の秘書官らしい男が大杉の名刺を持って挨拶に出てきた。
「御覧のとおり、今晩はこんな宴会中ですから……」
「いや、それは知って来ているんです。とにかくその名刺を取り次いで、ほんのちょっとの時間でいいから会いたい、と言ってもらえばいいんです」
秘書官は引っ込んで行き、すぐまた出てきて、大杉を二階のとっつきのごく小さな部屋へ案内した。
テーブルがひとつ、椅子が三脚ばかりの飾り気のない部屋だった。
すぐに給仕がお茶を持って来た。
その給仕はお茶をテーブルに置くと、ドアの右手と正面とにある三つばかりの窓を、いちいち開けては鎧戸を下ろしてまた閉めていった。
大杉が変なことをするなと思っていると、左手の壁の中にあるドアを開けて、さっきの秘書官が入って来た。
「今すぐ大臣がお出でですから」
彼はそう言って、出入口のドアをいったん開けてみて、また閉めて、それにピチンと鍵を下ろした。
ははあ、何か間違いでもあった時に、僕が逃げられない用心をしているんだなーー大杉は笑いたいのをこらえた。
秘書官は給仕が閉めた窓の窓掛けをいちいち下ろして、丁寧にお辞儀をしてまた隣りの部屋との間のドアの向こうに消えた。
すると、後藤はあのドアから入って来るんだなーーそう大杉は思って、そのドアの方に向かって、煙草をくゆらせて待っていた。
すぐ、後藤が入ってきた。
新聞の写真でよく見ていた、鼻眼鏡とポワンチュ(※筆者註/仏語 pointu/尖った)の髭の、まぎれもない彼だった。
「よくお出ででした。いや、お名前はよく存じています。私の方からもぜひ一度お目にかかりたいと思っていたのでした。今日はこんな場合ではなはだ失礼ですが、しかし今ちょうど食事もすんで、ちょっとの間なら席を外してもおれます。私があなたに会って、一番先に聞きたいと思っていたことは、どうしてあなたが今のような思想を持つようになったかです。どうです、ざっくばらんにひとつ、その話をしてくれませんか」
少し赤く酔いを出していた後藤は、馬鹿にお世辞がよかった。
「え、その話もしましょう。が、今日は僕の方で別に話を持って来ているのです。そしてその方が僕には急なのだから、今日はまずその話だけにしましょう」
「そうですか。するとそのお話というのは?」
「実は金が少々欲しいんです。で、それを、もしいただければいだだきたいと思って来たのです」
「ああ金のことですか。そんなことならどうにでもなりますよ。それよりも一つ、さっきのお話を聞こうじゃありませんか」
「いや、僕の方は今日はこの金の方が重大問題なんです。どうでしょう。僕は今、非常に生活に困っているんです。少々の無心を聞いてもらえるでしょうか」
「あなたは実にいい頭を持って、そしていい腕を持っているという話ですがね。どうしてそんなに困るんです」
「政府が僕らの職業を邪魔するからです」
「が、特に私のところへ無心に来たわけは」
「政府が僕らを困らせるから、政府へ無心に来るのは当然だと思ったのです。そしてあなたならそんな話はわかろうと思って来たんです」
「そうですか、わかりました。で、いくら欲しいんです」
「今、急のところ三、四百円あればいいんです」
「ようごわす、差し上げましょう。が、これはお互いのことなんだから、ごく内々にしていただきたいですね。同志の方にもですな」
「承知しました」
三百円を懐にした大杉は、保子に五十円渡し、野枝にも三十円渡した。
ぼろぼろになった寝衣一枚きりになっていた野枝は、その金でお召しの着物と羽織を質屋から受け出した。
大杉の手許にはまだ二百円は残っていた。
それに五十円足せば、市外に発行所を置く月刊誌の保証金には間に合うはずだった。
栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(p88)によれば、当時の「三、四百円」は現在の百万円くらいの金額だという。
★『泡鳴全集 第十二巻』(国民図書・1921年12月)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★山川菊栄『おんな二代の記』(岩波文庫・2014年7月16日)
★『広津和郎全集 第十二巻』(中央公論社・1974年3月10日)
★栗原康『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店・2016年3月23日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第209回 霊南坂
文●ツルシカズヒコ
一九一六年七月十九日午後の列車で大阪から帰京した野枝は、七月二十五日に大杉と一緒に横浜に行き、大杉の同志である中村勇次郎、伊藤公敬、吉田万太郎、小池潔、磯部雅美らと会った(大杉豊『日録・大杉栄伝』)。
野枝と別れた辻は一時、下谷(したや)区の寺に寄寓していた。
野枝が第一福四万館で大杉と同棲していたころである。
ある日、野枝が寺を訪れ辻に面会したときのことを、宮嶋資夫は書き記している。
「あなたと私とだつて何も他人でなくたつて好いぢやありませんか」
と云つた。
其の時辻君は、「貴様と○○位なら淫売を買ひに行くか」
と云つてから、
「お前は大杉君の方へ行く時分には一人でなければいやだと云つてゐたぢやないか。それなのに今になつてそんな事を云ふのは大杉君に負けたんだろ」
と云つたら、
「いえ私は初めから斯うなんです」
と強情を張つてゐた。
(「予の観たる大杉事件の真相」/『新社会』1917年1月号・第3巻第5号/『宮嶋資夫著作集 第六巻』_p287)
野枝が再び大阪に向かったのは八月二十四日だった(『日録・大杉栄伝』)。
大杉の『近代思想』再刊のための金策である。
野枝は再び代準介を訪ねた。
代は二〇日間居る約束を反古にしたことを叱責し、大杉と別れるならば必要なだけお金を融通するという。
野枝は石のように黙りこくり、叔父とは決定的な喧嘩をせず、金策に九州へ廻る。
実家の父・亀吉からもよい返事はもらえず、九月の初旬に帰京する。
野枝は帰京すると直ぐに意を決して、霊南坂の頭山を訪ねる。
大杉の出版の意義を訴え、資金援助を頼み込む。
頭山は代の姪でもある野枝に優しく接し、盟友である杉山茂丸を紹介する。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p128)
大阪から福岡に行った野枝は、叔母・坂口モトのところに滞在していたようで、そこに宛てて大杉が手紙を書いている。
また大阪でそんなにいぢめられてゐるのか。
ほんとに可哀さうな野枝子だね。
大阪へは寄らずに直ぐ九州へ行つて了ひたい、とあんなに野枝子が云つてゐたのにね。
よつぽど痔をわるくしたものと見えるね。
その後はどう?
又長い間の汽車に揺られて、一層わるくなつてはゐやしないか。
しかし、そんな事で、杉田さんとか云ふ人にも会ふことが出来たのだね。
いつか伯父(ママ)さんが汽車の中で会つたと云ふあの人かい?
仕事は、男女関係の進化の、序文と目次とを書いただけ。
野枝子は、大阪を立つ時に電報をうつから、さうしたら手紙を書いてくれ、と云ふのだが、僕にはとてもそれまで待つてゐられない。
ほんとに僕は、幾度も云つた事だが、こんな恋はこんど始めて知つた。
もう幾ケ月もの間、むさぼれるだけむさぼつて、それでも猶少しも飽くと云ふ事を知らなかつたのだ。
と云ふよりは寧ろ、むさぼるだけ、益々もつと深くむさぼりたくなつて来るのだ。
そして此のむさぼると云ふ事に、殆ど何等の自制もなくなつてゐる程なのだ。
その野枝子と暫くでも離れるのだ。
しかも、お互ひに暫くでも音信なしでゐようと云ふのだ。
僕と同じ思ひの野枝子には、僕がどんな思ひをして其後の夜を明かしたか、今更云ふ必要もなからう。
野枝子が早く落ちついて、ほんとに野枝子自身の生活にはいる事、これが今の野枝子に対する僕の唯一の願ひなのだ。
果してこんどの九州行きは、野枝子の望み通りに、それを果たすための方法をつくつてくれるだらうか。
又、野枝子のもう一つの目的が、果してうまく達せられるだらうか。
此の二つの目的が達しられさへすれば、野枝子も僕も、直ぐに新しい生活にはいる事が出来るのだ。
しかしね、野枝子、若しうまく行かなかつたら、あせつたりもがいたりするよりも、何によりも先づ早く帰つておいで。
けれども、うまく行つてくれれば、ほんとに有りがたいのだがね。
野枝子もこんなに一生懸命になつて奔走してゐのだもの。
僕は、けふから又、うんと仕事にとりかかる。
もう昼近くなつた。
野枝子からはいつ電報が来るのだろう(三十一日)。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年九月一日 福岡県三池郡二川村坂口方野枝宛/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p649~654)
野枝が帰京したのは九月八日だった(『日録・大杉栄伝』)。
大杉栄『自叙伝』(「葉山事件」_p314)にも記述されているが、帰京した野枝は頭山満のところへ金策に行った。
野枝は上野高女時代に代準介に同行して頭山に面会したことがあるから、ふたりは知らぬ間柄ではない。
頭山は今は金がないからと言って杉山茂丸に紹介状を書いた。
野枝が杉山に会いに行くと、杉山は大杉に会いたいと言った。
九月の中旬から下旬ごろ(『日録・大杉栄伝』)、大杉が築地の台華社(杉山のオフィス)に行き杉山に面会すると、杉山は「白柳秀湖だの、山口孤剣だののように」軟化をするようにと勧めた。
国家社会主義くらいのところになれば、金もいるだけ出してやるという。
大杉はすぐに台華社を辞した。
杉山は無条件では金を出さなかったが、話の間に時々出てきた「後藤が」「後藤が」という言葉に、大杉はピンと来るものがあった。
大杉が杉山に面会できるまでの段取りをつけたのは、野枝であるが、彼女のこの金策について、鎌田慧はこう書いている。
……野枝は、祖父と親しかったという、「玄洋社」を組織した国家社会主義者である頭山満のもとへ金策にでかけたり、その紹介で、やはり福岡出身で玄洋社系の政界黒幕、杉山茂丸(夢野久作はその長男)に会ったりしていた。
(鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』_p234)
頭山と親しかったのは野枝の祖父ではなく代準介なので、この記述は明らかな誤記であるが、この類いの記述に関して矢野寛治はこう指摘している。
野枝研究者の多くが、「頭山は野枝の祖父と懇意で」と書かれているのを散見するが、これはあくまで叔父代準介の間違いである。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p129)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『宮嶋資夫著作集 第六巻』(慶友社・1983年11月10日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★鎌田慧『大杉榮 自由への疾走』・岩波現代文庫・2003年3月14日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年05月22日
第208回 和歌浦
文●ツルシカズヒコ
野枝は大杉に宛てた大阪からの一信に、こう書いた。
叔父(代準介)は午後から旅行するのだと云つて可なり混雑してゐる処でした。
叔父は三時にたつと云つてゐたのですのでけれども九時まで延ばしていろ/\お話をしました。
何か云はうと思ひますけれども、何を云つても駄目なのでいやになつて仕舞ひました。
叔父はアメリカに直ぐに行けと云ふのです。
そして社会主義なんか止めて学者になれと云ふのです。
とにかく二十日ばかり留守にするからそれ迄ゐろと云ひますから、ゐる事にはしましたが、叔母が何も分らないくせに、のべつにぐず/\云ふのを黙つて聞いてゐるのがいやで仕方がありません。
要するにあなたと関係をたてと云ふのですけれども、それをはつきり云はないのです。
神近さんはどうしてゐらつしやいますか。
本当に私はあの方にはお気の毒な気がします。
私は毎日々々電話がかかつて来る度に、辛らくて仕方がありませんでした。
私がどんなに彼(あ)の方の自由を害してゐるかを考へると、本当にいやでした。
そして又、あなたのいろ/\な心遣ひがどんなに私に苦しかつたでせう。
私はかなしいやうな妙な気がして仕方がなかつたのです。
今度も帰りましたら、直ぐに家を探しておちつきたいと思つてゐます。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年七月十五日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p393~394/「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)
『伊藤野枝と代準介』によれば、代準介が二十日間の旅に出ることにしたのは、野枝が二十日間も代の家に滞在すれば、キチの説得により大杉にのぼせている彼女の心も冷静になるだろうという代の策略だった。
野枝はすぐに二信を書いた。
すこし甘へたくなつたから、また手紙をかきたいの。
野枝公もうすつかり悄気(しよげ)てゐるの。
だつて来ると早くからいぢめられてゐるんだもの、可哀さうぢやない?
けれど、もう大阪なんか本当にいやになつちやつた。
野枝公もう帰へりたくなつたの。
もう帰つてもいい?
まだ早い?
叔母なんてあなとの手紙のやりとりだつて、あんまりしちやいけないなんて云ひ出すんですもの。
あたしそんなこと云はれちややりきれないわね。
帰つてもいい?
叔父の帰つて来るまでなんてゐること出来やしない。
叔父でも叔母でも、あなたに誘惑されたのだと思つて、今あなたから離しておきさへすれば、元にもどるのだと信じてゐるのですね。
私はもう断然ここの家とも今度きりで交渉をたつて仕舞はうかと思つてゐます。
……一日中のべつにぐず/\云はれては、唯さへ暑くてうるさいのに大変ですもの。
見せろ/\つて云ふので『生の闘争』を見せました。
堺さんの序文に幸徳さんの後を受けてゐるんだと書いてあつたのと、あの表に無政府主義とあつたのに猶驚いて、大変だと思つたんですね。
叔母はもうどうしても私がもう一ぺん思ひ返してくれなくては困ると云つて、是非さうさせると云ふやうな訳なのです。
野枝公もうすつかり閉口してゐるんです。
私には大阪と云ふ土地は本当に性に合はない処だわ。
矢張りあなたのそばが一等いいわ。
野枝公すつかり計画が外れていやになつちやつたけど仕方がない。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年七月十五日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p395~396/「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)
『生の闘争』は大杉の最初の論文集で、一九一四年に新潮社から刊行された。
大杉は野枝からの一信と二信に、こう返信した。
きのふ出した手紙が二通ついた。
大ぶ弱つてゐるやうだね。
うんといぢめつけられるがいい。
いい薬だ。
あれほどの悪い事をしてゐるのだから、それ位は当り前の事だ。
そして、ついでの事に、うんと喧嘩でもして早く帰つて来るがいい。
そのご褒美には、どんなにでもして可愛がつてあげる。
そして二人して、力を協せて、四方八方に出来るだけの悪事を働くのだ。
それとも……叔父さんの云ふ通りにアメリカへでも行くか。
そして二年なり三年なり、語学と音楽とをうんと勉強して来るか。
人間の運命はどうなるか分らない。
何が仕合になるのか、不仕合になるのか、どちらとも判断がつかない。
ただ後の方は今の所ではあまりにつらすぎる。
あつけなさすぎる。
まだ/\ふざけ足りない。
僕はもう、野枝子だけには、本当に安心してゐる。
若し行かうと思ふのなら、あと一と月か二た月かかぢりつかしてくれれば、何処へでも喜んで送る。
野枝子が何処へ行つた所で、野枝子の中には僕が生きてゐるんだ。
僕の中にも野枝子が生きてゐるんだ。
そして二人は、お互ひの中のお互ひを、益々生長さす事に努めるのだ。
何んだか、こんな事を書いてゐると、本当に今野枝子が遠くへ行つて了うやうな気がする。
そしてそれを送るの辭でも書いてゐるやうな気がする。
ヒロイクな、しかし又、悲しい気がする。
そして無暗に野枝子の事が恋しくなつて来る。
とにかく、都合が出来たらすぐ帰つて来たらどう?
本当に、そんな叔母さんと二人ぎりでゐるのぢや、とてもたまるまい。
僕だつて、可愛いい野枝子をそんないやなところに置くのは、とても堪らない。
帰つておいで。
早く帰つておいで。
一日でも早く帰つておいで。
手紙を開封したやうな形跡があつたら、警察へおしりをまくつてあばれこんでやるがいい。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年七月十六日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p646~647)
野枝子は今何をしてゐるのだらう。
伯母(ママ)さんと向ひあつて、飯でも食ひながら、愚図々々とお小言の御馳走でも戴いてゐるのだらうか。
大阪へ行けば、本当に口に合つたおいしいものが食べれると、よく口癖のやうに云つていたのだが、いつか、かつちやん(小林哥津)の所へ行つたときに、お小言を聞きに大阪へ行つて来る、と冗談に云つてゐたが、本当にそればつかりで行つたやうなものだね。
ここまで書いたら、和気から朝日(大阪朝日)の夕刊を送つて来た。
野枝子の満艦飾を施した頭と云ふのは、どんなものだらうね。
こんど帰つて来る時には、ぜひ其の満艦飾で来てもらひたい。
『吹出もののある可愛らしい顔』はいかにもいい。
最後の『訳の分らぬ事まで述べ立てて引退つた』は、みだしの『大気焔』と云ふのにちつともふさわしくないね。
こんどは、新橋で降りることにして、到着の時間を電報で知らしておくれ。
翻訳だと手がまるで機会的に働いて行くが、こんな手紙のやうなのでも、いざ書くとなるとなか/\骨が折れる。
ほんとに早く帰つて来ておくれ。
ね、いいかえ、野枝子。
今、荒川(義英)と吉川(守邦)とがやつて来たから、これでよして、直ぐ女中に出させる。
吹出もののある可愛らしい顔の野枝子へ。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年七月十七日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p648~649)
『日録・大杉栄伝』と『伊藤野枝と代準介』によれば、七月十七日、キチは野枝の気分転換のために、和歌山の和歌浦浜に電車の旅をして、野枝に得意の海水浴を楽しませた。
ちなみに、当時の水着はこんな感じだったようです。
しかし、キチは野枝を懐柔することはできず、野枝は七月十九日午後の列車で帰京した。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第207回 河原なでしこ
文●ツルシカズヒコ
御宿から帰京した野枝は第一福四万館の大杉の部屋に転がり込んだ。
一九一六(大正五)年七月十三日の夜、野枝は大杉に見送られて東京駅から大阪に向かった。
東京駅は大勢の人でごった返していて、なんだか急かされるような出発だったので、野枝の気持ちは落ちつかなかった。
鶴見あたりになって、ようやく野枝の気持ちは落ちついてきた。
沼津までは車内が混雑していて、体を曲げるのも窮屈だったが、沼津でボーイが席を代えてくれたので少し眠ることができた。
天竜川を渡るときには、車窓からきれいな月が見えた。
野枝はいろんなことを考えながらその月を眺めていた。
車中、野枝は大杉の著作『労働運動の哲学』を熱心に読み続けていた。
センデイカリスト等は、信者の如く行為すると同時に、又懐疑者の如く思索する。
強烈なる生活本能に従つて行為しつつ、其の行為の自己に与ふる結果に就いて、出来るだけの判断に耽る。
多くは直覚より成る彼等の思想は、此の行為と判断との全力的結実の集積である。
(「労働運動と個人主義」/『近代思想』1915年12月号・3巻3号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第一巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)
野枝は大杉の言わんとすることが、自分の体の中にしみ込んでいくような快感を覚えた。
すべてのことが、大杉に一歩ずつでも半歩ずつでも近づいているーーそれが嬉しかった。
大垣のあたりで夜が明けた。
野枝は躍り上がりたいようないい朝だと思った。
関ヶ原のあたりには緑の草に交じって可愛らしい河原なでしこがたくさん咲いていた。
野枝が好きな合歓の花も咲いていた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝の乗った列車が大阪駅に着いたのは、七月十四日の朝八時だった。
「浴衣の上にお納戸鼠の夏羽織を着け、麻袋の手提げ袋を提げて」列車から降りた野枝は、『大阪毎日新聞』記者の和気律次郎に出迎えられたので、びっくりした。
和気が出迎えたのは、大杉が電報を打っておいたからだった。
野枝は大阪市北区上福島の代準介・キチ宅で旅装を解き、午後、大阪毎日新聞社を訪れた。
学芸部長の菊池幽芳は小説執筆のため社を休んでいたので、和気と話をして心斎橋まで一緒に行った。
和気は野枝の来阪を『大阪毎日新聞』の記事にした(七月十五日、七月二十日)。
野枝の来阪目的は代準介へのお金の無心だったが、代は野枝を大杉から引き離そうとしていた。
野枝が御宿上野屋旅館滞在中、代は大阪の名物や、夏用の単衣や浴衣などをキチから送らせているが、お金は送らなかった。
とにかく、大阪に引越し、東京からも近いので一度会いに来い、家を見に来い、足を運べの便りを出し続けた。
旅費は代が送った。
大杉という男から、溺れている娘を引き離したかったのだ。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p124)
野枝は大阪に向かう途次、大杉に二通の葉書を書いた。
ひる頃四谷から帰つて見ると、途中からのハガキが二本ついている。
あなたもいよ/\尾行につかれる身分になつたのかな。
御はづかしい次第だらう。
この光栄に報ひる為めにだつて、本当にしつかり勉強しなくちやならないね。
でも、あなたに分るやうな尾行ぢや、よつぽどぼんやりした奴なんだらうね。
本当に、若しうるさい事をしたら、警察へウンと怒鳴りこむがいい。
哲学があつたのはよかつた。
しかし、あんな小さなものでは、一二時間のうちに読み終つて了つたらう。
ゆうべは保子の処に行つた。
四五日前に……四十度あまりの熱が出て、それ以来床に就いてゐるのださうだ。
そんな病気になつても、電話一つかけて来ないのだから、随分見かぎられたものだ。
しかしゆうべは、不思議にも例の狐のキの字も出ないで済んだ。
そしてけさは、僕の財布を見て、黙つて一円札を一枚入れてくれた。
……実はあなたが出発したあとへ、ほんのちよつとと云ふ約束で神近が来たのだ。
そしてつまらぬ事から物云ひが始まつて、やがて床を二つに分けて寝て、又朝になつて前夜のつづきがあつて、とうたう喧嘩別れに別れて了つたのだ。
僕からは、ゆうべ、あたまが静かになつたら遊びにおいでとハガキを出して置いたが、あちらからはまだ何んとも云つて来ない。
どうなる事やら。
けふは丁度正午から始めて、此の半ペラの原稿紙で四十枚書いた。
今から又、寝るまでにもう三十枚ほど書きたいと思つてゐる。
あしたからも此の具合ひで進んでくれるといいのだが。
『文章世界』の七月号に、らいてうが一寸したものを書いてゐる。
あなたに就いてのものだ。
読んでみるがいい。
本当に早く帰つて来るんだよ。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年七月十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p643~645)
★『大杉栄全集 第一巻』(大杉栄全集刊行会・1926年7月13日)
★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第206回 野狐さん
文●ツルシカズヒコ
……永代静雄のやつてゐるイーグルと云ふ月二回かの妙な雑誌があるね。
あれに面白い事が書いてある。
自由恋愛実行団と云ふ題の、ちよつとした六号ものだ。
『大杉は保子を慰め、神近を教育し、而して野枝と寝る』と云ふやうな文句だつた。
平民講演の帰りに、神近や青山と一緒に雑誌店で見たのだが、神近は『本当にさうなんですよ』と云つてゐた。
青山は、あなたが僕に進んで来て以来、僕等の問題に就いては全く口をつぐんで了つた。
先日も『女の世界』を借(ママ)してくれと云ふから、『あなたはもう僕等の問題には興味がない筈であつたが』とひやかしたら、『でも、折角皆さんがお書きになつたのだから』とごまかしてゐた。
『大杉は保子を慰め、神近を教育し、而して野枝と寝る』は一寸面白いだらう。
いつか安成二郎が日向きん子の所へ行つたら、大杉に対して女の反対同盟をつくるといい、憤慨してゐたさうだ。
又、田村俊子は、『女の世界』を見て、さすがに女の人達は可愛らしい、だが大杉だけは本当に憎らしい、と云つてゐたさうだ。
それから徳田秋声は、野枝と云ふ女は本当に恋の天才だ、ほめたんだかどうだか、それは分らない。
とにかく『女の世界』以来、僕の評判は頗るわるいやうだ。
原稿は……きのうふのうちに菊地(幽芳)の名で送つて置いた。
あの中の日比谷での事ね。
あれにも書いてある通り、あの時のあなたのキツスは、随分ツメタかつた。
あなたとのキツスの一番あつかつたのは、僕が御宿を去る日、あなたが泣いてした事があつたね、あの時のキツスだつた。
ああ、もう止さう。
あなたの真似をして馬鹿ばかり書きたくなるから。
栄
野狐さん
狐さんと云ふのは、保子のオリヂナルではなくて、あなたの一名を、嘗つてから野狐と云ふのださうだ。
出所は話さないが、何れ山田からのほかはあるまいし、其の山田の本元もきまりきつてゐる。
あなたにはそんな覚えが少しもないの?
いい名だね。
僕もこれからはさう呼ぶ事にしよう。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月七日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p635~637)
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』に収録されている「書簡 大杉栄宛(一九一六年六月二十二日)」の解題によれば、野枝が流二を里子に出した六月中旬ごろ、大杉が御宿の上野屋旅館にやって来て六月二十一日(推定)まで滞在した。
ゆふべ、また、二階の室(へや)に行つて、ひとりであの広い蚊帳(かや)のなかにすはつて手紙を書き続けようとしましたけれども……ぢつと眼をつぶつて一時頃まで考へてゐました。
四五日すれば会へる事が分つてゐながら、こんなにかなしい思ひをするなんて、どうした事でせう。
これで二た月も会はずにゐられるでせうか。
私はもう何処へも行きたくない。
矢張り東京であなたの傍にゐたい。
かぢりついてゐたい。
それに昨日は、神近さんの手紙をあなたが読んで聞かして下すつてから、余計に気がふさいだんです。
私だつてあの人がどんなに苦しんでゐるかは解りますけれど、ああして他の人に聞いたりすればそれが強く来ますもの。
そして私の一番心配になるのは子供なのです。
あの人(辻潤)が何時でもそのやうでゐれば、本当にあの子が可哀さうなのですもの。
今まで本当に大事にして来たのですから、他家の厄介になんかなつてゐると思ひますと堪(た)まりせん。
私は預けた子供よりも、残して来た子供を思ひ出す度びに気が狂ひさうです。
あの子の為めに、幾夜泣いたでせう。
私の馬鹿を笑つて下さい。
今まで、あんな、これ以上の貧しさはないやうなみぢめな生活に四年も五年もかぢりついてゐたのだつて、皆んなあの子の為めだつたのですもの。
そしてそのみぢめな中から自分だけぬけて、子供をその中に置いて来たのですもの。
こんな無慈悲な母親があるでせうか。
でも、私がどんなにあの子を大事にして来たかを知つてゐるあの人は、私がゐなくなつてからの子供の可哀さうな様子を見たら、少しは考へてくれるだらうと思つたのは、私のいい考へだつたのでせうか。
忘れようとする程あの子の為めには泣かされます。
あなたに、もう前から云はうとして云ひ得ないでゐる事があります。
それはお金の事です。
……あなただつて余裕がおありになるのでもないのに、本当にすみません。
何卒々々お許し下さい。
神近さんからまで、ああして下さる事は、本当に申訳けがなくて仕方がありません。
大阪に行きましたら、直ぐ叔父に話してどうかする積りではありますけれど。
神近さんは怒つてらつしやりはしませんでしたか。
もしか、今度会つたら私がおわびします。
(「恋の手紙ーー伊藤から」 /大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九一六年六月二十二日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p391~392)
あれからどうした?
僕は、あなたにあんまり泣かれたものだから、妙に頭痛がして来て、汽車の中でも、いつものやうには眠れないで、例の眼と眼の間の所を左の中指のさきで圧(おさ)へたまま、渋い顔ばかりしてゐた。
途中でこちらへ電報をうつ積りで、頼信紙を一枚用意して来たのだけれど、大原を通つてからは頭痛が益々はげしくなつて、遂に其の気にもなれなかつた。
神近の家へ行つてからも、神近は切りに何や彼やと話ししたがるのだが、済まないとは思ひながらも、それに乗る気持にはなれなかつた。
……そして遂には、大きな声を出して、怒鳴りつけさへもした。
けさ起きてからも、まだ其の頭痛がとれないで、やはり切りに話ししたがるのを圧へつけて、黙つて、寝ころんで本ばかり読んでゐた。
とにかく此処まで帰つて来るのに、本当にいくらあればいいのか。
今こちらでは三十円ほどなら、直にも出来さうな気がする。
そして、日曜日までには、きつと帰るようにしてくれ。
僕はもう、あんな所に、とてもあなた一人を置けない。
(「戀の手紙ー大杉から」/大正五年六月二十二日夜十時/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p638~639)
朝起きて見ても、手紙は来てゐないし、ガツカリして、仕方なしに仕事でも始めようと思つてゐる所へ、来た。
本当にあなたは、何処へも行かずに、東京にゐるのが一番いゝのだ。
僕にも、其の事が、切りに考へられてゐた。
今のあなたと僕とは、とても永い間離れてゐる事は出来ないのだ。
大阪や九州へは、若し是非とも行かなければならぬものであつたら、半月位の間に一切の用を済まして来る事は出来ないものだらうか。
辻(潤)君や子供の事は僕には少しも愚痴だとは思へない。
よし愚痴だとした所で、何んの遠慮もいらない愚痴だと思ふ。
いつかも、上の児の事を話し出してあなたを泣かした事があつたが、そしてそれはあなたばかりの問題ではなく、等しく又僕自身の問題なのだと云つた事があつたが、あの時にも僕はあなたに十分に話して貰ひたかつたのだ。
先日辻君の事を話し出したのも、やはり同じ意味からであつたのだ。
あなたと辻君とは、又あなたと子供とは、他人になつて了ふ必要は少しもない。
あなたは、辻君に対しては、十分にあなたの気持を話して置かなければいけない。
下の児を預けた通知を出す時には、是非ともそれをしなければいけない。
そしてこんど東京に帰つたら、何よりも先きに、辻君とも、又子供とも会つて見るがいい。
少なくとも子供とは、今後も始終会ふようにするがいい。
そして、もし出来れば、あなたの手許に置く方法を講じるのが一番いい。
金の事だつてさうだ。
そんなつまらない遠慮をされてゐてはいやだ。
いつも云ふやうに、僕は決して、自分がいやな無理はしない。
神近だつて、あなたの為めではなく、僕の為めにした事なのだ。
宮田からの辻君の仕事は、ミルの婦人論にきまつたさうだ。
いつまでも/\書いてゐると、仕事の方がおくれるから、いい加減で止さう。
仕事も、すつかりなまけて了つたので、今日からは又夢中になつて始める。
こんどこそは、よしあなたが帰つて来ても、あなたの事は向ひの室に閉ぢこめて置いて、ロクにお相手もしないでコツ/\やつて見せる。
其の覚悟で、金が出来たら直ぐに、本当に早く帰つておいで。
(『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号/「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月二十三日朝/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p639~642)
この大杉から野枝への手紙の初出は『女性改造』一九二三年十一月号だが、その日付けは「六月二十五日朝」になっている。
四月二十九日から御宿の上野屋旅館に滞在していた野枝が、帰京したのは六月末から七月の初めのころだった。
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第205回 スリバン
文●ツルシカズヒコ
女の世界もとうたうやられましたか。
すると、もう私達は何も云ふ事が出来なくなつた訳でせうか。
しかし、他の人に云へる事が何故私達が云つてはいけないのでせうね。
着物の心配までして下さつてありがとう。
もうお天気の今日には暑くてセルを着られませんから、直ぐと単衣(ひとえ)でゐられます。
従妹から湯上りに着るのを二反送つてくれました。
それを仕立てて着てゐればよろしうございますから。
それと、羽織を、私は東京にあると思つてゐましたら、田舎に置いてあるさうですから、それを送つて貰ひます。
子供は預かつてくれさうです。
上野屋の親類の人で、鉄道院へ出てゐた人の細君で、子供二人をかかへてゐる、まだ若い人です。
その人は預りたがつてゐます。
ただ親戚の同意がありさへすればいいのです。
主人はなくなつたのださうです。
思ひ出させるようになんて、私があなたを思はないでゐる時があると、あなたは思つてゐらつしやるの。
今日は本当にいいお天気ですよ。
東京もさうでせうか。
あなたがゐらつしやらなくなつてから仕事が出来たのは、あなたの事を思ひ出すたびに、苦しまぎれに仕事にかぢりついたからです。
邪魔だつたのぢやありませんよ。
麦がもうすつかり刈られて仕舞ひました。
毎晩お星さまが綺麗ですね。
私は相変らず、あすこに出ては歌つてゐます。
(「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九一六年六月一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p381~382)
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、流二は六月中旬、千葉県夷隅郡大原町根方(ねかた)の若松家に里子に出され、結局「里流れ」になり若松姓を名乗ることになる。
きのふから仕事を始めるつもりでゐたところが、朝は青山女史(山川菊栄)が遊びに来る。
午後は朝鮮の同志が暫く目で訪ねて来る、夕飯後に漸く原稿をひろげる事が出来たが、何んだか少しも気が乗らず、あなたへの手紙をとも思つてお八重(野上彌生)さんの事を書きかけても見たが、それもあまりに馬鹿らしく、とうたう十時近くなつてから宮島(資夫)の所へ出掛けた。
お八重さんが、いつか、それは自然の事でせう、と云つたと云ふ言葉は、その後どこへ行つて了つたのだらう。
其時には一人と一人と思つてゐたのが、謂はゆるモルモン宗であつたので、急に前の言葉を取消すようになつたのぢやあるまいか。
強い力、なるほどあなたは、それにあこがれてゐたかも知れない。
しかし、僕との接近は、単にそればかりぢやあるまい。
お八重さんだつて、自然の事でせうと云つた時には、其の謂はゆる強い力以外の何物かを考へてゐたに違ひあるまい。
きのふ僕は、此の『何物か』に就いて、僕の思ふ所を書いて見ようと思つた。
そして又、僕があなたに求めて行つた事の、僕にとつては、如何に必然的であつたと云ふ事に就いても、少しく詳細に書いて見ようと思つた。
しかし、もうそんな事は、僕等二人の間には、少しも問題にならない。
二人で、それに就いてのまとまつた話はした事はないが、少なくとも僕の方では、断片的にはちよい/\と話してある。
そして其際に、よしあなたが何んにも云はなかつたとしても、あなたの返事は僕には分つてゐた。
又、二人とも少しもそんな事を話さなかつたとしても、あんな事になる以前から、既に久しく互ひの黙契は出来てゐたのだ。
今じぶんになつて、事新しく二人の前で論じる必要はない。
ね、さうだろう。
こんな風に思つたので……とうたう手紙を書くのをよして了つた訳だ。
しかしお八重さんのお陰で、又あたまの中で始めからのいろんな事のおさらへが出来た。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月二日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p626~628)
……十二時になり、とまれ(※筆者注/宮嶋の家に)とすすめられるままに床に入ったが、一時頃にスリバンで驚かされて、二人で見物に出かけた。
巣鴨の終点の、車庫の向うの、何んとか小学校のすぐそばだつた。
四五軒も焼けただらうか。
お八重さんや岩野の家はあの辺なのだらう。
岩野の家でも焼けたんだと、本当に面白かつたのだがね。
けさ、帰らうとしてゐると、幻滅居士の狐月が来た。
宮島と二人で、お八重さんの所へでも行く約束があつたらしい。
もう白地の、と云ふよりは厳密には醤油地とでも云ふのだらう、単衣をきて、元気よく盛んにハシヤイでゐた。
『野枝さんが切りに怨んでゐるから、せめてはハガキの一本も出して見たらどうだ』とひやかしても見たが、一向にこたへないやうな顔付をして笑つてゐた。
バアやが又来てくれたのはいいね。
あなたのやうな人は、お守りが上手も下手もあつたものぢやない。
少し子供がぐづり出すと、そばへうつちやり放しにして、脹れ面をして三味線なんかいぢり廻してゐるのだもの。
本当に僕は、自分の子ででもあれば、すぐさま三味線をとり上げて、あなたを滅多打ちに打ちのめしたのだらうと思ふ。
子供をあづからうと云ふ人は、あなたは会つて見たの。
向うの親類の人とかが承知するか否かの前に、一度会つて見たらどう。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月二日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p628~629)
四谷へ行つたら、『中央公論』と『新潮』が買つてあつたので、さつき送つた。
何れも、随分つまらぬものばかりだ。
攻撃するならするで、本当に、ウンとやつつけてくれる奴がないものかな。
本当を云ふと、僕は、僕に対するあなたの悪口を一番きいて見たかつたのだ。
……一つ一つ詳細に聞いて見たかつたのだ。
そして僕も亦、あなたに対して今まで思つてゐた事を、すべてあなたに打ちあけて見たかつたのだ。
お互ひのそれ位の交渉は、もう余程以前から、無ければならない筈であつたのだ。
そして、お互ひに余りに好き合つてゐたと云ふ事と、従つて比較的によく理解し合つてゐたと云ふ事と、及びお互ひに余り接近する事の出来なかつた事との為めに、遂に、其の交渉を十分に経ないで恋愛関係に陥つて了つたのだ。
慎重の態度を欠いたと言へば言へもしよう。
しかし又、一方から見れば、お互ひの可なり永い間の沈黙の内的交渉は、今更に慎重な態度をとると云ふ程の必要を認めないまでに進んでゐたのだ。
けれども僕等は、二人の間の此の必然的な恋愛にはいつて了つた上は、更に此の交渉を出来るだけ厳密に深入りさせて行かなければならない。
ーーーーーーーーーー
野枝さん。
随分御無沙汰をした。
又怒つてゐるのだらうね。
あなたからの手紙と原稿が来てゐる。
大いそぎで読んだ。
なか/\よく書けてゐる。
感心もした。
しかし、まだ余程物足りないものがある。
もう少し長く書かなければいけなかつたのだね。
狐月との三人の会話のところは大ぶダレてゐた。
あそこは一寸カイつまんで書いて、もつとほかの所へあれだけのペエジを費した方がよかつたのだらう。
あの夜の二人、殊に狐月に対するあなたの反感が、あそこをあんなにまづく書かしたのだね。
原稿は直ぐ送つて置いた。
けれども……会ふと矢張り、今更話す必要もないと思つて、僕の方でも随分黙つて了ふ。
そして無駄話しや、恋のたはむれにばかりに陥つて了ふ。
あなたにだつて、あなたの謂はゆる悪い癖のほかに、やはりそんな気持が大ぶあつたのだらう。
僕等二人の、今までの悪い事の大部分は、前にも云つたやうに、二人があまり好き合つてゐた事と、其の大すきな事を本当に云ひ現はす機会がなかつた事に帰する。
兎に角、大阪の原稿が済んでよかつた。
あとは『女の世界』のきりだね。
此の手紙が着く頃には、もう『女の世界』の方の原稿もすんでゐるだらう。
一寸電話をかけてくれないか。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月六日夜/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p630~634)
大杉が野枝に送ったのは『中央公論』六月号と『新潮』六月号である。
『中央公論』には高島米峰の青鞜社、野枝批判が掲載された。
……「新しい女」の集団たる青鞜社の勇将猛卒が、殆ど悉くその主義主張を抛(なげうつ)て、見苦しい戦死を遂げる中に、最も年少にして、且つ、最も繫累多き伊藤野枝君が、たゞ一人踏みとゞまつて、孤城落日の中……薄ノロの僕の眼には、兎に角、見上げたものだと、感心したものだと映じて居たのである。
然るに……姦通の公行。
かくして遂に、青鞜社は全く落城してしまつた。
「新しい女」は悉く滅亡して仕舞つた。
婦人界覚醒の新運動(?)も遺憾なく滅亡して仕舞つた。
こゝに於て、思想界の衛生掛は、ホツと一息つくところである。
(高島米峰「新しい女の末路を弔す」/『中央公論』』1916年6月号・第31年第6号)
『新潮』には赤木桁平の大杉と野枝批判、さらに同誌「不同調」欄に中村狐月の野枝批判が掲載された。
要するに予は大杉栄氏と伊藤野枝なる一女性との間に醸生された這般(しゃはん)の事件に対し、最も熾烈なる嫌悪と唾棄との感を抱いてゐるものであると共に、這般の事件を異常なる思想的意義を有する重大事として見るべきとに非ずといふことを一般社会に告げんと欲するものである。
(赤木桁平「市井の一瑣事のみーー伊藤野枝、大杉栄問題を論ず」/『新潮』1916年6月号年6月号・第24巻6号)
野枝は『中央公論』』と『新潮』を読んだ感想を、こう書いている。
雑誌ありがたう御座いました。
今皆よんで見ました。
この位方々でやつつけられゝばいいゝ気持になります。
よくも/\口をそろへて下らないことを云つたものですね、すつかり痛快になつてしまひます。
随分私は憎まれ者ですね。
恋をすれば何時も石を投げられるにはきまつてゐますがね、少し烈しすぎますね、あなたに余程可愛がつて頂かないぢやこのうめ合せはつきませんよ、本当にあんまり可愛相ぢやありませんか……。
今頃は原稿が届いたでせうね、狐月には少し遠慮してやりましたが、あんなことを言つてゐる人だと知つたら、あのくだらなさ加減をもつとありのまゝにさらしてやればよかつたと思ひます。
本当に馬鹿ですね。
大阪からは早く来るやうにと幾度もさいそくがきます。
でも今度ゆけばまた暫くあなたに会へないのですね、それを考へると、いやになつてしまひます。
今度東京にかへりましたら、米峰のところへと、西川夫人の処へ二人でゆきませんか、山田先生のところへも一寸からかひに行きたい気がします。
お八重さんのところへも。
とき/″\かう云ふふざけたことを考へてはひとりでよろこんでゐるのですよ、罪がないでせう。
今度かへつたら本当にまた長く別れてゐなければならないのですから、恩にきせたりなんかしないで私のおつき合ひをして下さいね。
だらしのない手紙ばかりね、もう止しますわ、
はいちやい のえ
六月六日
大杉さま
(『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号_p162~163/「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九一六年六月六日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p383)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
2016年05月21日
第204回 ミネルヴア
文●ツルシカズヒコ
野枝のところに「お八重さん」こと野上弥生子から、長い長い手紙が届いた。
野枝は弥生子の手紙の文面を引用しながら、大杉に手紙を書き、弥生子への反論をしている。
……私の今度の事に就いて可なりはつきりと意見を述べてくれました。
しかし私は、もう到底理解を望む事は出来ないと断念しかかつてゐます。
……彼(あ)の人には、恋愛と云ふ事が何んであるか解つてゐないのです。
あの人の恋愛観は、皆書物の上のそれです。
外のいろ/\の理窟は分るとしても、その心持が本当に解らない人には説明のしようはないと思ひます。
しかし、私は出来るだけ説明してみるつもりではありますけれど。
私の一番親しい友達が、私をどのやうに見てゐたかを、少しお知らせしませうか。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p370/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
『あなたの心霊がこの二三年、無意識にも有意識にもあこがれを感じ、渇きを覚えてゐる強い力ーー殊に異性の雄々しい圧力ーーこれを提(さ)げてあなたに迫るものがあつたとしたら、それは必ず大杉氏であつた事を要しない。
誰でもよかつたのではありませんか。
寧(むし)ろ、それほど必然的な危機があなたの周囲に生じてゐたと云ふ事を示すのです。
それほど重大なワナがあなたに投げかけられてゐたのです。
ですから、その強い魅力のある圧力の具体化として大杉氏が現はれたとき、どこまでも慎重にならなければならなかつたのです。
それが本統に自分の要する力か、自分に適した力か、純粋のものかをぢつと/\凝視する時間を、多く持つ程がいいのだつたと思ひます。』
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p370/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
本当に、私はあなたでなくてもよかつたでせうか。
私はさうは思ひません。
私が、どんなに長くあなたを拒まうとして苦しんだかを、お八重さんは知らないのです。
私は慎重でなかつたのでせうか。
慎重でなかつたかも知れませんね。
けれども、私達は始めからそのやうな処を超えてゐたのではないでせうか。
慎重と云ふやうな言葉の必要を感ずるよりも、もつとずつと近い所にゐたのだと云ふ気がします。
ですから、お八重さんが『かう苦しまねばならない』と想像してゐるのと、私が苦しんだ事との間には、可なりの距離があるやうに思ひます。
そして又お八重さんは、私が第二の恋愛にはいつたのは、第一の牢から第二の牢にはいるのと同じだと云ひます。
私が今日まで謂(い)はゆる第一の牢で何に苦しんだのでせう。
同じ苦しみをした同じ処にはいつて行くほどの、私は馬鹿ではないと信じます。
第二の牢と第一の牢とが同じものならば、第二とか第一とか呼ぶ必要はない。
同じ処に帰つてゆくのだと云へばよろしい。
私は同じ処に二度はいつて、違つた処にはいつてゐると云ふ程の盲ではないつもりです。
同じ処に何時までもちぢこまつて、出たりはいつたりするものを嘲笑(あざわら)つてゐる不精者や利口者よりは、もう少し実際にはいろんなものを持つ事ができるのではないでせうか。
私は、出来るだけ躊躇なく出たり入つたりしたい。
いろ/\な処でいろ/\な事を知りたい。
どうせ現在の私達の生活は牢獄の生活ではないでせうか。
何処に本当の自由な天地があるのでせう。
お八重さんは、自分を本当に自由な処にゐるのだと思つてゐるのでせうか。
又、私が辻と別居してあなたとの恋愛に走つた事はミネルヴアの殿堂に行くつもりで又もとのヴイナスの像の前にひざまづくものだと云ひます。
かうなると、私はもう何にを云ふのも厭やになります。
ミネルヴアとヴイナスと一緒に信仰する事は出来ないと云ふ事があるのでせうか。
私達の恋愛がどのやうなものであるかと云ふ事が、少しも分らないのでせうね。
矢張り、私はだまつて私達の道を歩いて行きさへすればいいのですね。
他人が分らうと分るまいとそんな事にはもうこだはつてゐる気になりません。
そして最後にお八重さんは云ひます。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p370~371/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
『あなたはまだお若いから困りますね。
もつと聡明に恋をして下さい。
でないと、あなたのしようとしてゐる事が、何にも出来ないで駄目になりますよ。
今までの苦心も水の泡になりますよ。
しつかりなさい。
モルモン宗に改宗したり、恋の勝利者なんて浮れてる時ぢやありませんよ。』
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p371/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
お分りになりました?
ねえ、私のお友達は本当に聡明ですね。
私の本当の事を知つてゐて下さるのは、あなただけね。
どうせ、私はもうあのサアクル(青鞜社)におさまつてはゐられないのですもの。
私は血のめぐりの悪い、殿堂におさまつた冷いミネルヴアはいやです。
私が、これからどのやうな道を歩かうとしてゐるのか、それもあの人には分つてゐないのです。
私は本当に勉強します。
五年先きか十年先きになれば、屹度(きつと)半分位は分るかも知れませんね。
私が恋に眩惑されてゐるのかさうでないかが。
眩惑されてゐるとしても、その恋がどんなものであるかが。
何んだか、私はまるであなたに怒りつけてゐるやうね。
御免なさい。
でも、なんだかあなたに話をして見たかつたんですもの。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p372/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第203回 二人とも馬鹿
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年五月末、『女の世界』六月号を読んだ野枝は、大杉にこう書いている。
あなたは本当にひどいんですね。
あんな余計な処まで抜き書きをしなくつたつていいぢやありませんか。
本当にひどい。
でも、あなたが怒る/\つて云つてらしたほど怒りはしませんけれどね。
大好きなあなたがお書きになつたのですものね。
三人のあれを読んで分らない人は到底救はれない人達ですね。
私は何よりも、あのあなたのお手紙によつて、保子さんがあなたの気持をおたしかめになる事が出来るだらうと云ふ事を考へてゐます。
神近さんのを拝見して、非常によくあの方の気持が解つた事を嬉しく思ひました。
ただ、あなたと神近さんの最初の事が彼処に書いてありましたのね。
あれを読んで、あなたに少し厭やな感じを持ちました。
何故だか分るでせう?
私は昨日一日その厭やな感じを払い退ける事が出来ないでゐました。
今はもうそれ程ではありません。
国の父からは怒つて来ました。
子供なんか連れて来てはいけない、一人でも当分来てはいけない、と云つて来ました。
叔母からも従妹からもまだ何んとも云つては来ません。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三十日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p369/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
大杉はこう返信している。
安成からは、きのふそちらへ金を送つた筈だが、ついたか知ら。
子供の事も、一昨日頼んで置いたが、もうやがて返事が来る事と思ふ。
あなたのお詫びは、わざ/\されなくつても、僕にはよく分つてゐる。
しかし、あなたばかりが悪いのぢやない、僕の方でも、矢張り同じ事をあなたにお詫びしなければならぬのだ。
二人とも馬鹿なのだ。
其の馬鹿は、二人ともお互ひによく分つてゐるのだから、今さらもうくど/\しく云ふ必要もあるまい。
『女の世界』のは、ああして三人のが並んで見ると、甚だ不十分ながらも、ともかく大体の気持だけは分るやうだ。
書きぬきに対する御立腹は、最初から覚悟してゐた。
神近の書いたものを読んだ時にも、あなたがそれを読む時の不快は、想像してゐた。
立腹と不快とは、あなたのおハコなんだからね。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月三十日正午/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p620~621)
しかし、『女の世界』六月号は五月三十日に発売禁止になった。
その余波で同誌七月号に掲載予定だった野枝の「果して人類の不幸か」も掲載が見送られた。
同誌七月号の「編輯だより」によれば、「本号に掲載する予定の伊藤野枝氏の評論は又々氏今回の事件に関連して母と子を論じた、現代の道徳を脅かす患(うれ)ひあるものでしたから之も見合せました」(堀切利高編著『野枝さんをさがして』_p55)。
『女の世界』六月号発禁の余波は『大阪毎日新聞』にまで及び、同紙に掲載予定だった野枝の原稿も不掲載になった。
送り返されてきた原稿には同紙文芸部長・菊地幽芳の非常な賛辞がついていたという(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「書簡 大杉栄・一九一六年六月六日」解題)。
けれども、ともかく向うからの注文で書いたのだから、原稿を送れば金を出さないと云ふ事も出来まい。
どうなるかね。
『女の世界』の発売禁止は、向うでも随分の損害だらうが、僕等にとつても、少なからず影響がある。
第一には、世間の奴等は僕等を何んと罵倒しようが勝手だが、僕等にはそれに対して一言半句も云ふ権利がなくなつた訳だ。
実は『中央公論』で例の高島米峯の奴が、『新しい女を弔ふ』とか何とか云ふ題で、大ぶ馬鹿を云つてゐるし、『新潮』でもケタ平(赤木桁平)の奴が妙な事を云つてゐるし……『それがどうしたと云ふのだ』とウンと威張つてやりたかつたのだが、それも出来さうにない。
又、『実業之世界』から少々の借金をするつもりでもゐたのだが、今日行つて見ての弱り方を見ると、それも云ひ出せなかつた。
それで止むを得ず、漸くの事で春陽堂から前借りして来た二十円だけを、電報為替で送つて置いた。
しかも其の為替料は、安成に出して貰つたのであつた。
宿屋にゐて、金もロクに払へないのは、つらからうが、これも仕方がない。
……今神近が奔走してゐてくれる。
斯う暑くなつちや、着物にも困るだらう。
安成の所では、子供の事に就いて、まだ返事が来てゐないさうだ。
そちらの方での話はうまく行きさうなのか。
『女の世界』を見てからの保子は、僕に対しては、もう何んのいやみも皮肉も云はないようになつた。
しかし、自分の事はもう何んにも書かないでくれ、と云ふ注文だ。
あなたや神近に対しては、まだ、少しも好意のある顔付を見せない。
ひとりボツチでゐるのは、まだ矢張り、静かでいい気持かい。
少しは僕を思ひ出させるやうに、若しあしたの朝うまく金がはいつたら、お望みのハムと何か御菓子を送らうと思つてゐる。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月三十一日午後九時/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p622~626)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第202回 いやな写真
文●ツルシカズヒコ
堀切利高編著『野枝さんをさがして』によれば、野枝は五月二十九日(推定)付けの手紙を安成二郎に宛てて書いている。
多恵春光著『新しき婦人の手紙』(日本評論社出版部・一九一九年九月)の第九章「文例 知名婦人の手紙」に「執筆の約束と周旋を頼む」という仮題で収録されているもので、この書簡は『定本 伊藤野枝全集』(全四巻)には収録されていない。
○○(※1)ありがたくたしかに落手いたしました。
雑誌(※2)も昨日頂きました。
大分頁をとりましたやうで御座いますね。
禁止になりさうで御座いますかしら、どうかそのやうなことのないやうにしたいもので御座いますね、それから、原稿(※3)はもう大抵腹案が出来て居ります。
昨日○○(野依※4)氏の拝見してゐる内に。
題丈け申あげて置きます。
「果して人類の不幸か」と云ふつもりです。
大方の非難が私が子供(※5)を捨てたと云ふことにあるらしいので少しそれについて書いて見やうと思つて居ります。
もう一週間したら此処を引き上げて九州(※6)の方へ行かうかと思つて居ります。
それから子供(※7)の世話を頼むやうな処に伝手をお持ちになるやうな話を○○(大杉※8)さんから聞きましたがもし心当たりが御座いますなら聞いて頂けますまいか、こちらでもなかなか一寸ありませんので弱つて居ります。
○○(大杉※9)さんが来てゐた間なまけましたので二十日迄の約束の大阪(※10)の方がまだ出来ないでゐます。
今一生懸命になつてゐる処です、もう二三日のうちにお仕舞にしたいと思つてゐます。
それが片附きしだいに直ぐにあたなの方の原稿にかゝります。
○○(野依※11)氏はもうおはいりになりましたか、少々長いやうですから随分お辛いでせう○○(社長)がお留守になつてあなたの方もお骨ですね、こちらは毎日曇つたいやなお天気です、この頃はどうかすると東京の郊外が恋しくなります。
海にはもう倦き/\して仕舞ひました。
○○(雑誌)をもう一部頂けませんでせうか、実は送つてやりたい処がありますのでもし頂ければ、きれいな方を送りたいと思ひまして。
私のいやな写真(※12)が出ましたね、あの顔にはほんとうに恐れ入ります。
今度東京に出ましたらせいぜい綺麗な顔に写してお送りいたしませうか、あの顔はもうとりけしにしたいものです。
(堀切利高編著『野枝さんをさがして』_p52~53)
○○は『新しき婦人の手紙』掲載の原文のままだが、『野枝さんをさがして』の注解を参考に、以下補足。
※1
○○は不明だが送金か為替か稿料。
※2
『女の世界』一九一六年六月号(第二巻第七号)。
※3
原稿とは『女の世界』六月号に「次号巻頭論文 伊藤野枝」の予告がある同誌七月号の原稿。
※4
○○氏を野依としたのは、野依が『女の世界』六月号に書いた「野枝サンと大杉君との事件」の文中に「野枝と人類の不幸」という章題があり、「いたいけな四歳の子を棄てたのは人類の利益幸福と衝突する」と非難しているので、「果して人類の不幸か」という野枝の題もそこから来ている。
※5
子供は辻との間に生まれた長男・一(まこと)のこと。
※6
野枝の故郷、福岡県糸島郡今宿村(現・福岡市西区今宿)。
※7
辻との間に生まれた次男・流二のこと。
※8 ※9
当然、大杉。
※10
野枝が今回の大杉との恋愛について書き進めている『大阪毎日新聞』に掲載予定の原稿。
同紙には『近代思想』に寄稿していた和気(わけ)律次郎がいたので、和気の線からの売り込みと推測できる。
※11
野依としたのは、野依秀一が愛国生命攻撃事件で懲役四年の判決を受け、五月二十六日に豊多摩監獄に入獄したから。
野依は東京電燈会社事件に次ぐ二度目の入獄だった。
※12
安成二郎「大杉君の恋愛事件」の最初のページに載っている野枝の写真のことで、堀切利高によれば『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の口絵写真(『新潮』一九一五年七月号より転載)と少し似ているという。
★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)
★多恵春光著『新しき婦人の手紙』(日本評論社出版部・1919年9月)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第201回 ララビアータ
文●ツルシカズヒコ
大杉が御宿から帰京したのは、一九一六(大正五)年五月二十七日だった。
今日は私はあなたがおたちになる前に、二三日前からの私の我儘(わがまま)をお詫びして許して頂かうと思ひましたの。
それで、幾度もあなたの処へ行くのですけれど、何んだか自然であなたに話しかける事がどうしても出来ませんでしたの。
さうして、とうたう叉あなたの方から口をお切りになりましたのね。
さうして、私があなたに向つて云はうとする事を、あなたが私に仰云(おつしや)つたのですもの、
私本当に自分の小さな片意地がいやになつて、あなたに申訳けがなくて、それで泣きましたの。
私が、昨日だか一昨日だか、パウル・ハイゼのラ・ビヤタの話を持ち出しました時……私の片意地をお話しようと思ひました。
けれども……素直に口にする事が嫌やになつて、そのまま黙つて仕舞ひましたのです。
そんな風で、昨日山を一人で歩いてゐます時にも、その事ばかり考へてゐましたの。
暫(しばら)くは私はあの池の岸で考へてゐました。
さうして仕舞ひには泣きさうになりました。
それから……山に登り始めましたの。
そして急な道を一足々々用心しい/\登つてゐるうちに……頂上の平らな道に出ました時には、ぼんやりしてゐましたの。
そして少ししやがんでゐるうちに、急に叉あなたの事を思ひ出して、あなたがまたいやな顔をして本を読んでゐらつしやるのだらうと思ひますと、直ぐ大急ぎで歩き出しましたの。
今度こそ本当にすつかり私のいけない事をお話しなければならないと思つて息を切らして帰つて来ると直ぐに二階に上つて見ましたら、あなたはお留守なのですもの。
本当に私かなしくなつて仕舞ひました。
それから暫くしてあなたがお帰りになつた時には、もうすつかり先きのやうな無邪気な心持は失くしてゐました。
……この二三日の私の我儘から、あなたに不快な日を送らせて、それをお詫びしようと思ひながら、反対にあなたからお詫びを云はれて、まだ自分では何にも云へなかつた事を考へますと、私は自分にいくら怒つても足りないのです。
あなたが俥(くるま)に乗つてお仕舞ひになつた時、私はまた涙が出さうになりました。
さつき、あなたのお乗りになつた汽車の発車するのを聞きながら、小熱いお湯の中にひとりで浸つてゐる内に、私はすつかり落ちつきました。
今頃はあなたはもう東京の明るい町を歩いてゐらつしやるでせうね。
此処は今、私がかうやつて書いてゐるペンの音だけしかしません。
雨もやんだやうです。
あなたがこちらにゐらつしやる間に神近さんからの手紙が来て、あなたがそれを読んでゐらつしやる時、私は本当に淋しくなつて仕舞ふのです。
ゼラシイぢやないんです。
本当にただ淋しいんです。
……何時でも自分ひとりでゐる時のやうに、用心深く自分を見てゐないからだと云ふことがよく分ります。
うつかり、あなたと一緒にゐるといい気になつて仕舞ふのです。
さうして、さう云ふ場合になつて、自分のその弱味を見る事が、私には口惜しくて仕方がないんです。
ひとりでゐますと、総ての事が非常にはつきりしますから、すきを持たずにゐられます。
ですから、あなたが神近さんの傍にゐらしても保子さんの処にゐらしても、何んのさびしさも不安も感じません。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月二十七日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p366~368/「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』解題によれば、「パウル・ハイゼのラ・ビヤタの話」とは、パウル・ハイゼの『ララビアータ(片意地娘)』のこと。
『ララビアータ(片意地娘)』は、佐藤政次郎編集『実験教育指針』(一九〇八年十、十一月号)に、辻が「せいび」のペンネームで「らゝびやた」として訳載していたという。
『女の世界』六月号に伊藤野枝「申訳丈けに」、大杉栄「一情婦に与へて女房に対する亭主の心情を語る文」、神近市子「三つの事だけ」が掲載された。
「申訳丈けに」解題(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)によれば、『女の世界』六月号「編輯だより」には「岩野泡鳴氏の離婚事件を取扱つた本誌は、今度の大杉氏の事件をより大きい且つ多様な意味を含む問題として厳重な批評を社会に要求する責任を感じ」、この事件にページを割いたとあり、野依秀一「野枝サンと大杉君との事件」、安成二郎「大杉君の恋愛事件」なども合わせて掲載された。
大杉の「一情婦に与へて女房に対する亭主の心情を語る文」は、野枝に宛てた手紙形式で書かれていて、野枝から大杉に宛てた手紙の文面もふんだんに引用し、「男女関係の進化」を実践している自分と野枝の現状リポートとも言える。
神近の「三つの事だけ」は、大杉と恋愛関係に至るまでの経緯、自分の恋愛観や結婚観、現在の心境について言及している。
神近が大杉を恋愛の対象と意識するようにななったのは前年(一九一五年)の暮れごろだった。
神近は大杉と恋愛に陥る前に、妻子持ちの男と恋に落ちていたという告白をしている。
神近市子『叢書「青鞜」の女たち 第8巻 引かれものの唄』の解説で瀬戸内晴美も記しているが、その男は高木信威(たかぎ・のぶたけ)で、神近は高木との間に礼子という女の子を産み、郷里に預けていた(一九一七年病死)。
神近は妻子持ちの高木との恋愛を経験していたので、妻帯者である大杉にも違和感なく恋愛感情を抱くことができたという。
そもそも神近は結婚生活というものが、決して男女の幸福を永続させるものではないという考えの持ち主だった。
それは自分の周りの既婚者を見れば一目瞭然であり、そういう考えを神近に決定的にさせたのは、相思相愛で結婚したはずの富本一枝の結婚生活に失望したことだった。
京都での御大礼の取材の後、神近が奈良在住の一枝を訪れたのは、一枝の結婚生活を自分の目で確かめたかったからだった。
大杉さんに対する気持は、今は非常に静かです。
あの人に逢つて居れば、私は少しの不安も動揺も感じません。
今はあの人を見て居れば、私は自分の成長と穫取とをさへ心掛けて居れば好い様です。
(神近市子「三つの事だけ」/『女の世界』1916年6月号・第2巻第7号/安成二郎『無政府地獄ーー大杉栄襍記』_p98)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 ※『引かれものゝ唄』・法木書店の復刻版)
★神近市子『引かれものゝ唄』(法木書店・1917年10月25日)
★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index