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2016年05月31日
第230回 葦原
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年十二月九日、夏目漱石が四十九歳十ケ月の生涯を閉じた。
翌十二月十日、野枝と大杉は栃木県下都賀郡藤岡町(現・栃木市)の旧谷中村を訪れた。
野枝はこの旧谷中村訪問を「転機」(『文明批評』一九一八年一月号・二月号/『定本 伊藤野枝全集 第一巻』)という創作にした。
旧谷中村を訪れる四、五日前のことだった。
村の残留民がこの十二月十日限りで強制的に立ち退かされるという十行ばかりの新聞記事を読んだ野枝は、二年ほど前に渡辺政太郎(まさたろう)に聞いた話を思い出した。
「もういよいよ、これが最後だろう」
という大杉の言葉につけても、ぜひ行ってみたいという野枝の望みは、どうしても捨てがたいものになった。
とうとうその十日が今日という日、野枝は大杉を促して一緒に旧谷中村を訪れることにしたのである。
不案内な道を教えられるままに歩いて古河(こが)の町外れまで来ると、通りは思いがけなく、まだ新らしい高い堤防で遮られている。
道端で子供を遊ばせている老婆に野枝が、谷中村に行く道を尋ねた。
「なんでもその堤防を越して、河を渡って行くんだとか言いますけれどねえ、私もよくは知りませんから」
老婆は野枝と大杉の容姿に目を留めながら、はっきりしない答えをした。
当惑している野枝たちが気の毒になったのか、老婆は他の人にも聞いてくれたが、やはり答えは同じだった。
しかし、とにかくその堤防を越して行くのだということだけはわかったので、ふたりはその町の人家の屋根よりはるかに高いくらいな堤防に上がった。
堤防の上からふたりの眼前に現われた景色は、ふたりにとって想像もつかないものだった。
ふたりが立っている堤防は黄褐色の単調な色をもって、右へ左へと遠く延びていって、ついにはどこまで延びているのか見定めもつかない。
しかも堤防外のすべてのものは、それによって遮(さえぎ)りつくされて一、二ヶ所木の茂みが低く暗緑の頭を出しているばかりである。
堤防の内は一面に黄色な枯れ葦に領された広大な窪地であった。
ふたりの正面は五、六町を隔てたところに横たわっている古い堤防に遮られているが、右手の方に拡がったその窪地の面積は数理的観念には極めて遠い野枝の頭では、ちょっとどのくらいというような見当はつかないけれど、とにかく驚くべき広大な地域を占めていた。
高い堤防の上からの広い眼界は、ただもう一面に黄色な窪地と空だけでいっぱいになっている。
その思いがけない景色を前にして、野枝はこれが長い間、本当にそれは長い間だった、一度聞いてからはついに忘れることのできなかった村の跡なのだろうと思った。
「ちょっとお伺いいたしますが、谷中村へ行くのには、この道を行くのでしょうか?」
ちょうどその窪地の中の道から、土手に上がってきた男を待って、野枝が聞いた。
その男もまた、不思議そうにふたりを見上げ見下ろしながら、谷中村はもう十年も前から廃止になり沼になっているが、残っている家が少々はないこともないけれど、とても行ったところでわかるまいと言いながら、それでもそこはこの土手のもう一つ向こうになるのだから、土手の蔭の橋のそばで聞けと教えてくれた。
窪地の中の道の左右は、まばらに葦が生えてはいるが、それが普通の耕地であったことはひと目でわかる。
細い畔道や田の間の小溝がありしままの姿で残っている。
しかし、この新らしい高い堤防が役立つときには、それも新らしい一大貯水池の水底に葬り去られてしまうのであろう。
人々はそんな関わりのないことは考えてもみないというような顔をして、坦々と踏みならされた道を歩いて行く。
土手の蔭は、教えられたとおりに河になっていて舟橋が架けられてあった。
橋の手前に壊れかかったというよりは、拾い集めた板切れで建てたような小屋があった。
腐りかけたような蜜柑やみじめな駄菓子などを並べたその店先きで、野枝はまた尋ねた。
小屋の中には、七十にあまるかと思われるような目も鼻も口も、その夥だしい皺の中に畳み込まれてしまったようなひからびた老婆と、四十くらいの小造りな、貧しい姿をした女とふたりいた。
野枝はかねがね谷中の居残った人たちが、だんだんに生計に苦しめられて、手当り次第な仕事につかまって暮らしているというようなことも聞いていたので、このふたりがひょっとしてそうなのではあるまいかという想像と一緒に、何となくその襤褸(ぼろ)にくるまって、煮しめたような手拭いに頭を包んだふたりの姿を哀れに見ながら、それならば、たぶん尋ねる道筋は、親切に教えて貰えるものだと期待した。
しかし、谷中村と聞くと、ふたりは顔を見合わせたが、思いがけない嘲りを含んだ態度を見せて、野枝の問いに答えた。
「谷中村かね、はあ、あるにはあるけんど、沼の中だでね、道も何もねえし、いる人も、いくらもねいだよ」
あんな沼の中にとても行けるものかというように、てんから道など教えそうにもない。
それでも最後に橋番に聞けという。
舟橋を渡るとすぐ番小屋があった。
三、四人の男が呑気な顔をして往来する人の橋銭をとっている。
野枝は橋銭を払ってからまた聞いた。
「ここを右に行きますと堤防の上に出ます。その向こうが谷中ですよ。ここも、谷中村の内にはなるんですがね」
ひとりの男がそう言って教えてくれると、すぐ他の男が追っかけるように言った。
「その堤防の上に出ると、すっかり見晴らせまさあ。だが、遊びに行ったって、何にもありませんぜ」
彼らは一度に顔見合わせて笑った。
一丁とは行かないうちに、道の片側にはきれいに耕された広い畑が続いていて、麦が播いてあったり、見事な菜園になっていたりする。
畑のまわりには低い雑木が生えていたり、小さな藪になっていたりして、今、橋のそばで見てきた景色とは、かなりかけ離れた、近くに人の住むらしい、やや温かな気配があった。
片側は、道に添うて河の流れになっているが、河の向こう岸は丈の高い葦が、丈を揃えてひしひしと生えている。
その葦原もまたどこまで拡がっているのかわからない。
「おかしいわね、堤防なんてないじゃありませんか。どうしたんでしょう?」
「変だねえ、もうだいぶ来たんだが」
「先刻の橋番の男は堤防に上るとすっかり見晴らせますなんて言ってたけれど、そんな高い堤防があるんでしょうか?」
野枝と大杉がそう言って立ち止まったときには、小高くなった畑地はどこか後の方に残されて、道は両側とも高い葦に迫られていた。
行く手も、両側も、後も、森(しん)として人の気配らしいものもしない。
「橋のとこからここまで、ずっと一本道なんだからな、間違えるはずはないが、まあもう少し行ってみよう」
大杉がそう言って歩き出した。
野枝は通りすごしてきた畑が、何か気になって、あの藪あたりに家があるのではないかと思ったりした。
★『定本 伊藤野枝全集 第一巻』(學藝書林・2000年3月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第229回 センチメンタリズム
文●ツルシカズヒコ
大杉が逗子の千葉病院を退院したのは、一九一六(大正五)年十一月二十一日だった。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、看病をした野枝と、近くに宿泊して見舞いに通った村木が付き添い、夕刻の電車で本郷区菊坂町の菊富士ホテルに帰った。
『東京朝日新聞』(十一月二十二日)によれば、大杉たちは「午後六時四十三分逗子駅発列車」で帰京した。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』によれば、菊富士ホテルの玄関に通じる細い露地を、頭から肩にかけて痛々しい包帯姿で杖をついて大杉が、野枝の肩にすがり歩いて来るのを、ホテルの人たちが総出で出迎えた。
『東京朝日新聞』(十一月二十七に日)によれば、菊富士ホテルに戻った後、神近からの二通の書簡が届き、大杉は慰謝の返事を書いた。
近藤富枝『本郷菊富士ホテル』によれば、大杉と野枝のカップルは野枝の帯まで質入れするほど窮乏していてが、野枝は療養中の大杉の体を気づかって、
「牛乳をほしい」
「今晩は牛肉を買ってきてちょうだい」
と遠慮なく女中に注文した。
牛乳も牛肉もホテルの立て替え払いなので、大杉も野枝も気楽に構えているのだった。
佐藤春夫は日蔭茶屋事件後、大杉と野枝が滞在していた菊富士ホテルに二度訪れてふたりに面会している。
一度目は冬の夕方、荒川義英と一緒だった。
荒川は菊富士ホテルの応接間を覗きこみながら呟いた。
「尾行の奴が退屈してやがらあ!」
ふたりの尾行が応接間にいることによって、大杉の在宅を知った荒川は案内も乞わずに三階に上がり、ふたりは階段のとっつきの部屋に入った。
野枝はふたりを歓迎の言葉で迎えた。
佐藤の記憶によれば「野枝は針仕事か何かをしてゐたような気がする」。
碁盤を前に座っていた大杉は、例のように吃って言った。
「やろう」
佐藤が大杉に会うのは一年か一年半ぶりぐらいだった。
……大杉の私に対する様子はまるで昨日も逢った人間に対するもののやうにわだかまりがなかつた。
その自然な調子につり込まれて私も、碁盤の前へ座つたなり五目並べを三四へんやつた。
大杉が上手とも格別下手とも覚えないところを見ると、きつと私同様に下手だつたのであらう。
荒川は野枝と何かと話題に耽つてゐた。
(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』1923年11月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』_p313)
その晩、大杉はひどく愉快そうに興に乗って獄中の話などをした。
「新しく同棲するやうになった野枝が傍にゐたので、大杉は楽しかつたに違ひない」と佐藤は書いている。
四人は夜の十二時まで話しこんだ。
「こんなお客は尾行泣かせだな。どーれ、いよいよ帰ろう」
荒川が最後にそう言って立ち上がった。
気がつくと、部屋は煙草の煙でいっぱいになっていた。
玄関の脇の部屋にいたふたりの尾行は居眠りをしていたらしく、荒川は半ば揶揄するように、
「や! ご苦労さん」
と大声で呼びかけた。
「君……」
佐藤は下駄をはきながら荒川に囁いた。
「尾行というものは、いったい何時まで番をしているのだい?」
「必要あればいつまででもさ。奴さんたち、僕らが帰るのを待ちくたびれていたのだぜ。署へ帰って、大杉はもう寝ましたとも報告はできずさ。この寒いのにーーまったくご苦労さまなことだよ」
荒川はそんなことを言った。
佐藤が二度目に菊富士ホテルを訪れたのは、佐藤も同ホテルに下宿しようかと思い、大杉にいろいろ相談するためだった。
すると大杉は「それじゃ、この部屋に来ちゃどうだ」と言った。
下宿代を支払わず、食事が不味いと言って自炊する大杉と野枝は、菊富士ホテルからすると早く厄介払いしたい対象になっていたからである。
大杉の宿料は一度も支払われないまま、二ヶ月、三ヶ月と経った。
我慢出来ず主の(羽根田)幸之助がさいそくに行った。
「大杉さんのような社会主義者が私たちのような小商人を苦しめるなんておかしいじゃありませんか」
となじると、
「いや、決してそんなつもりではありません。必ず支払うから待って下さい」
と大杉は苦味走った顔に、いよいよ当惑の色をうかべて返辞する。
そして「いついつまでに必ず支払う」という誓約書を書いて幸之助に渡す。
(近藤富枝『本郷菊富士ホテル』_p71)
そのころ大杉の部屋の筋向こうには印度人の青年が住んでいたが、その部屋は西洋間だったので、大杉はその部屋に佐藤を連れて行き見学させてくれたりした。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、シャストリーというその印度人の青年は「無政府主義者との評のある者にして早稲田大学哲学講師」である。
佐藤は結局、当時の自分の経済状態では住めそうにないと思ったが、大杉の部屋で話しているうちに、ふたりの会話は文壇の話題になった。
当時、新進作家といわれる者が輩出していた。
佐藤は大杉に誰か気に入った作家がいるかと尋ねてみた。
大杉は只一口につまらないと言つたが、「武者小路だけはちよつと面白いよーー機会があつたら論じて見てもいいと思つてゐる」と言つた。
志を得ないでゐた私は誰のことでも、感心したくはなかつた。
それで私は大杉に「だつて武者小路の人道主義は要するにセンチメンタリズムぢやないか」と言った。
その時の大杉の答を私は面白いものに思つて忘れないでゐる。
大杉は答へたーー
「さうさ。センチメンタリストだよ。まさしく。だけどすべての正義といひ人道といふものは皆センチメンタリズムだよ、その根底は。そこに学理を建てても主張を置いても科学を据ゑても決して覆へらない種類のセンチメンタリズムなのだよ」
「佐藤さん。人の悪口などばかりおつしやらずに、あなたも早く何かなさいよ」
野枝がそばから私にそんなことを言つたりした。
(「吾が回想する大杉栄」/『中央公論』1923年11月号/『佐藤春夫全集 第十一巻』_p316)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★近藤富枝『本郷菊富士ホテル』(中公文庫・1983年4月10日)
★『佐藤春夫全集 第十一巻』(講談社・1969年5月30日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第228回 塩瀬の最中
文●ツルシカズヒコ
日蔭茶屋事件が起きる直前、大杉と野枝の訪問を受けていたらいてうは驚いた。
神近が『青鞜』から離れて以降、らいてうは彼女と疎遠になっていたが、彼女が大杉が主宰するフランス語教室やフランス文学研究会に参加しているらしいという噂話はどこからともなく聞いていた。
しかし、らいてうは神近と大杉が傷害事件に発展するような深い間柄であることは、まったく知らなかった。
こんないたましい破局に、神近さんが、しかも野枝さんの介入によって追いこまれたことを、心から悲しみながら、そのなかでおのずから心に浮かぶのは、初対面のときから強くわたくしの印象に残っている神近さんのあの妖しく光る、神経質なやや血ばしっているような大きな眼でした。
人相からいえばなんというのだろうなどとそのときからちょっと気になっていたものでしたが、あそこまでやらねばならなかった神近さんの性格をあの眼がすでに物語っていたように思えてならないのでした。
神近さんとしてはああするよりほかなく、ああしなければ気持の転換はできなかったのでしょうから、神近さんの行為ばかりをむやみに非難しようとは思いません。
それよりもわたくしは恋愛の自由ということを踏みはずしたあの多角恋愛の破綻が、古い封建道徳に反対し、新しい性道徳を打ちたてようと努力するものの行く手の大きな支障となることを、おそれずにはいられませんでした。
……自己革命だけに終始していた「青鞜」の婦人たちも、ようやくいままでの個人的な立場から、目を社会に転じなければならないようになってきました。
多くの錯雑した、容易に解決しがたい問題がーー少なくとも個人の力ではどうすることもできないような多くの問題が、目の前にむらがってきました。
こうして、わたくしたちは、大きな壁の前につき当たったのです。
ここで、わたくしたちの「青鞜」は終わりました。
そして「日蔭茶屋事件」が、好むと好まざるとにかかわらず、わたくしたちの「青鞜」の挽歌であったことも、いなみ得ないことです。
同時に、わたくし自身の青春も、このへんで終わったのではないかと思います。
(『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p608~611)
自由恋愛によって引き起こされた日蔭茶屋事件に関し、らいてうは大杉と野枝を批判した。
一体恋愛の自由といふことは、氏等が意味するやうな、一種の一夫多妻主義(或時は多夫一婦人ともなり、多夫多妻ともなる)委しく言へば、相愛の男女は別居して、各自独立の生活を営み、また若し是等の男女にして他の男女に恋愛を感ずれば、其等とも同時に、しかも遠慮なしに結合することが出来るのみならず、愛が醒めれば、子供の有無に拘らず、いつでも勝手に別れることが出来るといふやうな無責任な、無制限な、従つて共同生活に対する願望も、その永続の意志をも、欠いた性的関係でありませうか。
これは恋愛の自由の甚しき乱用でなくて何でせう。
然るにその新婦人と呼ばれる者の中から真の恋愛の自由は……永久の共同生活に対する願望と、未来の子供に対する責任感との伴った恋愛のみにある事を忘れ、自分の愛人の間違った恋愛観を、深き反省も批判もなく受け容れ、それを実行させるやうな婦人を出したといふことは、しかもその果は殺傷沙汰まで引き起したといふことは、どう考へても残念なことでした。
(「所謂自由恋愛と其制限 大杉・野枝事件に対する批評」/『大阪毎日新聞』1917年1月4日/『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』_p610より引用)
「オウスギカミチカニササル」という電報を受け取った安成二郎が、逗子の千葉病院に見舞いに行ったのは十一月十二日だった。
新聞に生命に別状なしとあったので、ゆっくり構えていたのである。
行って見ると「創(きず)の経過思ひの外よしとて、昼飯の馳走になり、三時間も話した。山崎今朝弥弁護士来り、神近君の弁護の件につき、大杉君が単独で話してゐた。(原因、前夜肉的関係なし)という句がチラと見えた。それは検事の訊問に答へた要領の一つであつた」とその日の私の日記にある。
それは神近君の弁護をする山崎氏と大杉君が神近君の刑を少しでも軽減するための打合せをしてゐるのであつた。
私の日記はそれだけで、もつと細かに書いておくべきだつたと今にして思はれる。
大杉君への見舞に「塩瀬にて栗のきんとんのもなかを買つて行く」とも書いている。
(安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』_p53)
「塩瀬」の最中は甘党の大杉の好物だった。
★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)
★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index