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2016年05月16日

第184回 拳々服膺(けんけんふくよう)






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『中央公論』三月号と四月号に「妾の会つた男」五人の人物評を書いたわけだが、『中央公論』五月号は「伊藤野枝の批評に対して」と題された欄を設け、中村狐月と西村陽吉の反論を掲載した。

 おそらく、狐月と西村が『中央公論』編集部に反論の掲載を要求したのだろう。

 ふたりの反論文は小さな六号活字で組まれているので、そのあたりに編集部が仕方なくスペースを割いたふうな状況も感じ取れる。

 狐月の文章には「伊藤野枝女史を罵る」という喧嘩ごしのタイトルがついているが、その内容は、野枝オタクである狐月らしく、野枝の勇み足を諌めるといった論調で書かれている。

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 中央公論の三月号に書かれた時に、私は貴女(あなた)に直接に、あゝいふものを書くことはつまらないことだと言ひました。

 浅いものならば貴女を待つ必要はないのだから、あゝいふものの代りにもつと価値の有るものを書くやうに為(し)た方がいゝと言つたのでした。

 中央公論の四月号は、創作の批評を為(や)るために読まなくてはならないので、貴女から借りる約束をして、まだ貴女がろくに眼を通さない中(うち)に借りて来て、創作を読む前に貴女の文を読んで見ると、草平氏や泡鳴氏まで書かれてありました。

 ……徒らに口汚い言葉を使つて、言先きで強く書いてあるが、其根底の薄いことです。





 平塚氏と草平氏の彼(か)の事件についても、公平に言つて、半分は平塚氏の方が怜悧であつたと考へて居るであらうし、後の半分の人々は、草平氏の方が却つて怜悧であると考へて居るかもしれません。

 貴女が、単に見たゞけで、直ぐに草平氏を間抜けた己惚れ家としたのは、聡明であると考へて居られる貴女にも似合はないことだと思はれます。

 貴女は草平氏が想像と違つて居たと書かれましたが、如何(どう)して其(そ)う考へられたのですか。

 人傳に聞いて其う思つたのならば、人の言葉を聞く時に善く注意して、其人の如何(どう)いふ人であるかを判断し得なくてはなりません。

 要するに余りに根底がなさ過ぎます。

 貴女としてはもう少し慎重に書かなくてはなりません、考へなくてはなりません。

 人間は決して一と眼見たゞけでは、或は単に少(ちよつ)と考へたゞけで其真の底まで解るものでは有りません。

 泡鳴氏は小胆な正直者でありますと言ふあたりは、僅かのことから直ちにコンクリュウジョンに飛んで居て、十五六の少女(こむすめ)ならば、愛嬌にもなりますが、貴女も若くても既(も)う二人の児のお母さんです。

 餘り悪戯をして嬉しがる如(ごとく)なことを為(し)ないで、充分真面目に深く考へて貴女の価値の有るところを知らしめるように為(し)なくてはなりません。


(中村狐月「伊藤野枝女史を罵る」/『中央公論』1916年5月号_p40~43)





 西村はこう反論している。


 女の浅墓とか女の猿智恵とかいふ言葉がありますが、(日本女性の最も堅実なタイプを代表するあなたに対つてこんなことを言ふのは失礼千万ですが)あれをよんだ時にやつぱり女だな、殊に田舎の女だな、と思ひました。

 あなたに頻繁に会ったのはやはりあの青鞜を私の店でやつてゐた時分ですね。

 その時分あなたは親のきめた結婚とかを嫌つて、田舎から飛出してきたばかりの時で、ほんとに粗野な、厳丈な、田舎田舎した娘さんでした。

 あの平塚さんの円窓の室で会つたときの印象を、私は今でもはつきり覚えて居ります。

 あの時はたぶん紅吉も歌津ちやんもゐたと覚えて居ます。

 みんなが手の話をはじめたので、私はみんなの様々に異つた手を見ながら、非常にそれを面白く思つたのです。

 あなたは肉付のいいガツシリした手を出して、これで畠も耕したとか、二里の所を競泳したとかいふ話をしました。

 あなたの顔の色も手も一番黒かった。

 そして平塚さんの手が一番白くつて小さかつた。





 あなたは私が「石橋を叩いて渡る人」といふ称号を青鞜社の同人から貰つてゐると仰せられましたが、さういふ異数な事業を私が始めたと同時にその事業に蹉跌しまいとする私の注意が、私を特別に臆病にしたと思ひます。

 しかし私は出来るだけ周密にやらうといつも注意してゐました。

「石橋を叩いて渡る人」の称号は謹んで頂戴いたします。

『一しきりは大分、江戸ツ子を気取つてゐましたが、私はまだ氏の江戸ツ子らしい所を見たことがない。』

 野枝さん。

 借問しますが、江戸ツ子らしいといふのはどういふことが江戸ツ子らしいのですか。

『物事に淡白でない、執念深くて、あきらめが悪い』とあなたはその次に言つてゐますが……。

『宵越しの銭は持たねえ』と威張つたのは昔の江戸ツ子の事です。

 ……私は窃かに私の血の中に流れてゐる、あきらめ易い淡白な、執着の薄い、江戸ツ子の、都会人の性情を怖れました、そしてもつと執念ぶかく、もつと野暮にならなければいけないと私は一生懸命に決心しました。

 私はいまでもまだ私の身の中に流れて居る執念の薄い血を怖れてをります。

『云ふ事は洗練された江戸ツ子の皮肉でなくて』とあなたは仰いますが私は軽口を言つて喜んでゐる、類型的な江戸ツ子なんかには忘れてもなりたくないと思つて居ります。





 野枝さん。

『この頃ではまあご苦労様な社会主義者顔! 生活々々と「生活と芸術」で悧巧ぶつて大変な労働でもしてゐるやうな顔がをかしい。』

 とあなたはお書きになりましたが、なるべく口は注意しておききなさい。

『大変な労働』をしなければ社会主義者にはなれないのですか。

 また生活を口にすることができないのですか。

 私が自分自身遊んで労働者階級に属さないといふならばそれは別に申條があります。

『他人の労作をもとでに商売をしてもうけながら、その上に恩を着せたがるこの若い商人が社会主義者面!』とあなたは仰せられますが、野枝さん、私は商人ですから商売で儲ける外に路はありません。

 そしてあなたの御労作になる『婦人解放の悲劇』は千部印刷した本が三年後の今日まだ半数売れ残つて居ります。

 これでは恩に着せる位で澄ましこんではゐられないではありませんか。

 御飯が食べられませんもの、恩を着せなくても、社会主義者面をしなくつてもいいから、もう少しお金を儲けたいものだと常に思つてゐます。





 昔、私は平塚さんのところへ、『本屋は私の仮面だ、私の素志はもつと外の所にある』……とかいふやうなことを書いてあげたことがあります。

 さうしたら本屋が仮面でなく、本当の本屋になることを望みますといふ意味の返事が平塚さんから来ました。

 そして私は商人ですと言ひ切れなかつた私の子供らしさを恥しく思ひました。

 私はなんと言つても平塚さんは豪いと思つてをります。

 社会主義者面をしてお上からニラマレたり、世間から変に警戒されたりするのは商人として損なことです。

 ……まアあなたの言ふ通りこれは『どう考へても』『茶にしてゐる』のでせうかね。





 野枝さん。

 ちよつと訂正して頂くところがあります、私は『金持』ではありません、『金持』だなんてウツカリ言ふと、貧乏人どもが借りに来てうるさいから。

『心に巧をもつてゐる人程落ちつきはらつてゐます。』ーー野枝さん、拳々服膺(けんけんふくよう)してあなたの御評言に沿ふやうにしたいと思ひます。

 それから末筆ながら大阪毎日の『雑音』ですね、誰よりもの熱心をもつて愛読してをります。

 私はあなたに塵ほどの悪意も持つてゐないことを言明いたしますから、何卒御手柔かにお願ひいたします。

 草々。 

 四月七日夜。


(西村陽吉「伊藤野枝に与ふ」/『中央公論』1916年5月号_p43~46)


長嶋亜希子


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:30| 本文

第183回 新富座






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『中央公論』一九一六年四月号に「妾の会つた男の人人」寄稿し、森田草平西村陽吉、岩野泡鳴について言及している。

 同誌前号に野枝が寄稿した「妾の会つた男の人々」(野依秀一、中村孤月印象録)の続編なのだろう。

 一九一三(大正二)年の二月四日から三月六日まで、新富座鴈治郎の『椀久』の公演があった。

 野枝は哥津と保持と一緒に見に行った。

 野枝と保持は先に新富座に着き、哥津が来るのが待ったが、哥津はなかなか来ない。

 哥津が来たときには満席になっていて、三人の座る席がなくなっていた。

 なんとか出方あつかいで三人は二階の帳場に席を得た。

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 幕間に保持の座っている前にヌーッと立った男が、保持に訊いた。

「酒を飲む所は何処です」

「知りません」

 ひどくぶっきらぼうにそう答えた保持が、ハッとしたように顔を真っ赤にした。

 野枝が廊下に出て行くその男の後ろ姿をぼんやり見ていると、保持が野枝の方を向いて言った。

「ちょっと、あの人、森田さんよ」

「森田さんって誰よ?」

「ほら、草平って人よ、平塚さんのーー」

「へえ、あの人が、まあ」

 野枝はびっくりして廊下の方を見たときには、すでに森田の姿はなかった。

 野枝がびっくりしたのは、想像していた森田と実物の森田があまりに違っていたからだ。

 このときの印象をもとに、野枝は森田について書いた。





 何処から何処までキチンとして、何処をつついてもピンとした手ごたへのありさうに思はれる、しつかりした態度、あの意志を十分に現はした額、深い眼、ーーを持つた平塚さんの対照としては、あまりに意想外でした。

 ボワツとしたしまりのない大きな体軀、しまりのない唇、それ丈けでも、充分に、平塚さんに侮蔑される価値はあります。

 何処から見ても……低能の人にしか見えません。

 何時か生田先生がお話なすつたやうに、芝居気を最初に出したのはあの間抜けた草平氏で己惚(うぬぼれ)にちがひないし、面白がつて、一緒に踊つたのは平塚さんのいたづらつ気と、ものずきで、幕切れのぶざま加減は草平氏の臆病と平塚さんの悧巧にちがひない。

 これは平塚さんよりもずつとお人よしだと云ふことであります。

 同時にまた、いくら好奇でも、あの人の何処が平塚さんを引きつけたのだらうと不思議な気がしました。

「平塚さんは唇の紅い人がすきなのですよ。御覧なさい、草平氏、陽吉氏、博氏、皆鮮かな色をした唇をもつた人達ばかりですよ」

 これはたしか紅吉(?)の口から何時か聞いた言葉だと思ひますが、それにしても草平氏の紅い唇はあのボワツとした顔を一層だらけた、とり処のないものにする丈けのやうな気がします。


(「妾の会つた男の人人」/『中央公論』1916年4月号・第31年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p342~343)





 西村陽吉についてはこう書いた。


「石橋を叩いて渡る人」と云ふ称号を青鞜社の同人から貰つてゐることを御本人は御承知かどうか知りませんが、非常に用心深いことはその物越で直ぐ分りません。

 何時でも平で、何時でも何かもくろんで深く包んでおくと云ふ風に見えますけれどもこの人の聡明は直ぐと他人に感づかれる聡明です。

 併し「若い人には珍らしい」と必ず老人には喜ばれる聡明です。

 利害の念を離れては何もない人と思はれます。

 一しきりは大分、江戸ツ子を気取つてゐましたが私はまだ氏の江戸ツ子らしい処を見たことがない。

 江戸ツ子よばはりして江戸ツ子らしからぬ処は岩野清子氏と同じです。

 物事に淡白でない、執念深くて、あきらめが悪いーー物を云つても煮えきらず、江戸ツ子のやうにデキパキと白い黒いがつかぬ所が第一、最もこれは商人にとつては一番大事な事と思はれますが、一向煮えきらぬことを云ひ/\相手を焦(じ)らすことに妙を得てゐます。

 云ひたいことを皆云つて仕舞ふことが出来ない。

 まつすぐに口がきけない。

 そのあげくに云ふ事は洗練された江戸ツ子の皮肉でなくて、むつとする嫌味です。

 何処をどうさがしても江戸ツ子らしいスツキリしたところがない。

 どうしても商売上手な勘定高くて他の気持にさぐりを入れて話をする上方(かみがた)者です。

 この頃ではまあご苦労様な社会主義者顔!

 生活々々と「生活と芸術」で悧巧ぶつて大変な労働でもしてゐるやうな顔がをかしい。

 他人の労作をもとでに商売をしてもうけながら、その上に恩を着せたがるこの若い商人が社会主義者面!はどう考へてもあんまり他人を茶にしてゐるとしか思へません。

「俺は金持でもこう云ふ風に貧乏人の心持も、それから同情することも知つてゐるぞ、おまけに立派な理窟までちやんと知つてゐる。世間の金持のやうに無智ではないぞ」

 と云ふ意味があるのではないでせうか?

 心に巧をもつてゐる人程落ちつきはらつてゐます。


(妾の会つた男の人人」/『中央公論』1916年4月号・第31年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p343~344)


 西村は一九一二年九月から一九一三年十月まで『青鞜』の発売所を引き受けた東雲堂書店の若主人。

生活と芸術』は一九一三年九月、西村が発行名義人になり土岐哀果の責任編集で東雲堂書店から創刊され、一九一六年六月まで続いた。





 岩野泡鳴は当時、新しい恋人蒲原房枝との恋愛、同棲により岩野清子と別居したことが世間の注目を集めていた。


 赤黒い人テカ/\光る顔、話がおもしろくなつて来ると大きな鼻の穴を一層ひろげて、出来る丈け口を開けて四辺(あたり)の人を呑んでしまうやうな声を出して笑ふ泡鳴氏は小胆な正直者であります。

「そとづらの悪い人」と「うちづらの悪い人」とがあります。

 泡鳴氏は「そとづら」の悪い人の部類に属する人です。

 従つて「うちづら」は誠に神妙な人であるやうに見かけます。

 私たちが折々岩野さんのお宅に伺つて一番心を引かれたことは泡鳴氏が清子さんに対しては如何にもをとなしい、優しい旦那様であつたと云ふことでです。

 泡鳴氏の感化らしいものを清子さんに見出すのはむづかしい事でありましても、清子さんの感化だとすぐ気がつくことが泡鳴氏の方には可なりありました。

 家の中では泡鳴氏よりも清子さんの権力の方が勝を占めてゐるやうでした。

 併し外に向つてはあくまで強情我慢を云ひ出したことはどんな屁理屈であらうとも一歩も後には引かぬと云つたやうな泡鳴氏の半面、さう云ふ点があり得ると云ふことは不思議な事でなくてはなりません。

 泡鳴氏は大変人を後輩あつかひにしたがる人です。

 併し如何なる場合にも清子さんを丁寧に扱ふことだけは決して忘れはなさらなかつた事丈けは事実です。

 この点では清子さんは非常に幸福な人ではなかつたでせうか。

 外に向つて岩野泡鳴氏を推したてると同時に岩野清子氏を推賞しました。

 他人はこれを笑ひました。

 けれども泡鳴氏には毫もこれは笑事ではありませんでした。

 非常に真面目な事なのでありました。

 それでこそ今だに清子さんには、二目(もく)も三目も置いてゐるのです。

 世間へ出ては出来る丈け大きな顔をしてえらがりたい泡鳴氏が清子さんにからおどしをされたり、腕をまくられたりしながらどうする事も出来ないのはそのせいです。

 泡鳴氏はたゞ単純な、えらがり屋であります。

 何時でも具足に身をかためて真向から人を睨(ね)めつけてゐます。

 処が具足をとれば何でもないたゞの人よりは余程よはい木つ葉武者なのです。


(妾の会つた男の人人」/『中央公論』1916年4月号・第31年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p344~345)


★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 17:12| 本文

第182回 福岡の女






文●ツルシカズヒコ



『中央公論』一九一六年三月号(第三十一年三号)に、野枝は「妾の会つた男の人々(野依秀一中村狐月印象録)」を書いた。

 野依は当時「秀一」であり、後に「秀市」と改名した。

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 野枝の上野女学校時代の恩師、西原和治が創刊した『地上』第一巻第二号(一九一六年三月二十日)に、野枝は「西原先生と私の学校生活」を寄稿したが、野枝がこの原稿を脱稿したのは二月二十三日だった。

 フリーラブ問題が起きたころに執筆したのである。

 この原稿の中にこんな一文がある。


 創刊号に何か書かして頂く筈になつて居りましたけれども、それは私自身の勝手な都合の為めに遂に先生の御厚意にそむかなければなりませんでした、で此度は思ひ出すまゝに此処に書いて見ようと思ひます。

(堀切利高『野枝さんをさがして』_p24)


『野枝さんをさがして』によれば、『地上』創刊号は一九一六年二月二十五日発行なので、原稿の締め切りは一月末ごろだろう。

 このころ、野枝は『青鞜』二月号(終刊号)の編集をやり、『大阪毎日新聞』では「雑音」の連載を抱え、かつ二歳と生後二ヶ月のふたりの幼児の母でもあった。

 西原の厚意に応えたい気持ちはあっても、『地上』の原稿にまで手が回らなかったのだろう。





『廿世紀』四月号に「福岡県評論」と題する記事が載り、野枝も白河鯉洋(しらかわ・りよう)、頭山満、堺利彦、宮崎湖処子(みやざき・こしょし)などに交じり「福岡の女」を寄稿した。


●福岡県の女は佐賀県や、熊本県の同性のやうに、海外に密航して浅ましい生活するのは少いやうですが、小学校や、女学校を出た後、米国などへ行つて人の妻となり、健全な家庭を作つてゐるのは、少くはないやうです、殊に私の生れた糸島郡などは、此の米国行きの婦人は大変なものです。

●今は其の地にゐるかどうか知りませんが、以前浦塩お徳といつて、洗濯屋か何かをして、ウラジヲストツクで成功した婦人があります、此の人がやはり福岡県の人なのです。

●福岡県といつても豊前、筑前、筑後、皆其の性格が違い、其の区別が著しいやうに思はれます、豊前は上方の気風を受け、筑前は多血質、筑後は粘着質とでもいゝましやうか。

●豊前や筑後は好く存じませんが、筑前殊に福岡は鷹揚な人が多い、久留米などのこせ/\した気性に比ぶれば余程男らしい処があります。博多は芸人の多い処で三味線のうまい魚屋とか、踊のうまい酒屋とかいふのはザラにあります。

●其処で大阪の役者などは博多で芝居をするのは非常に骨が折れるさうで、博多の人は眼が肥えてゐるから、役者のアラはすぐ見破ることが出来るのです、一たいで博多は大阪の感化を受けるのは非常なものですが、人は快活で、潤達で、東京人に類似して大阪人と反対です。


(「福岡の女」/『廿世紀』1916年4月号・第3巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p347)





 野枝は『一大帝国』一九一六年四月一日号には「英雄と婦人」を書いた。


 日常の些細なことにも婦人の行為に対する不満は数かぎりなくありますが、殊に従来英雄偉人と云はれる人と生活を頒つた婦人に対しては更に深い不満を私は持ちます。

 これは婦人の物を考へる力が非常に外面的であつて其の上に綿密でないからだと思ひます。


(「英雄と婦人」/『一大帝国』1916年4月1日・第1巻第2号/堀切利高『野枝さんをさがして』_p46)


 筆者名は「青鞜社 伊藤野枝」と記されている。

『青鞜』はすでに終刊しているのに、肩書きに「青鞜社」とあるのはなぜか?

『青鞜』は一九一六(大正五)年二月号(第六巻第二号)で終刊したが、終刊宣言をしたわけではなく、いわゆる野垂れ死に終わったので、青鞜社の終焉がまだ衆知されていなかったからではないかと、「英雄と婦人」の解題は憶測している。

『一大帝国』は一大帝国社発行、その発行兼編輯人兼印刷人は橋本徹馬



★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:33| 本文

第181回 厚顔無恥






文●ツルシカズヒコ



 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉、神近、野枝の三人が会ったのは二月中旬ころだった。

 大杉の書いた「お化を見た話」によれば、大杉は神近から絶縁状を受け取った。

「もし本当に私を思っていてくれるのなら、今後もうお互いに顔を合わせないようにしてくれ。では、永遠にさよなら」というような、内容だった。

 大杉はすぐに逗子から上京し、神近の家を訪れた。

 彼女は大杉の顔を見るや、泣いてただ「帰れ、帰れ」と叫ぶのみで、大杉は話のしようもなかった。

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 大杉はすぐ神近が懇意にしている宮嶋資夫、麗子(うらこ)夫妻の家に行った。

 前夜、神近が来て酔っぱらい、あばれ、大杉のことを「だました! だました!」と罵ったという。

 そこへ、しばらくして、神近がやって来た。

 大杉が会ったときとは別人のように落ち着いた様子の彼女が、大杉に勝利者のような態度で言った。

「私、あなたを殺すことに決心しましたから」

 大杉は神近に敵意が湧いて来るのを感じたが、受け流した。

「せめてひと息で死ぬように殺してくれ」

「その時になって卑怯なまねをしないようにね」

 そんな言葉を交わしているうちに、ふたりの顔には微笑がもれ、仲直りをした。

 宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」(『新社会』一九一七年一月号・第三巻第五号/『宮嶋資夫著作集 第六巻』)によれば、大杉が宮嶋の家に来た日、大杉は宮嶋の家に泊まった。

 翌朝、神近が宮嶋の家を訪れ、大杉と顔を合わせた彼女は大杉に怒りをぶつけたが、言葉を交わしているうちにふたりの仲は融和された。





 宮嶋の家で朝食をすませた大杉と神近は、ふたりでどこかへ出かけるという。

 宮嶋は電車の駅までふたりを見送りに行った。

 大杉、神近、宮嶋が駅で電車を待っていると、向こう側の電車が止まり、野枝が電車から降りて来た。

 大杉、神近、野枝の三人が話し合いをするために、一行は再び宮嶋の家に行った。

 そこで大杉が持ち出したのが「自由恋愛の三条件」だった。

 神近も野枝もそれに納得したわけではなかったが、異議は唱えなかった。

 神近は大杉との恋愛が戻ることへの計算が働き、野枝は逆に大杉との距離を保つ方途としての計算が働いたようだ。

 野枝は「数日前に日比谷で接吻をした事はほんの出来心だつたからと云ふので、大杉君に断つて貰ひたいと思つて」宮嶋の家を訪れたという。





 そのころの大杉について、堀保子はこう書いている。


 ……二月の初めになつた頃、或日大杉は私に向つて斯んな事を言ひだしました。

『僕はマダ/\ひどい事をしてゐる。何れ問題になつて三月か四月の新聞や雑誌に書かれるかも知れない』といふのです。

 すると二三日経つて、大杉に宛てゝ無名の郵便が来ました。

 大杉は其を読了つてから『今から一寸東京へやつて頂けますまいか、明日は必らず午前中に帰る……』と紙切に書いて……出かけました。

(今考へると……神近が大杉と野枝の関係を知つて、刺すとか撃つとかいつて騒いでゐた時です。そして無名の手紙は神近のだつたと私は思ひます。)


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p9~10)





 大杉は翌日帰宅したが、保子は大杉の尾行巡査から、大杉が前日辻の家、つまり野枝のところに行ったと聞き、彼女の胸は急に躍った。

 保子はなぜ辻の家を訪ねたのかと大杉に問いただした。


 ……大杉は初め曖昧な返事をして居ましたが、私がすぐそれに続いて、『先日あなたはまだ/\酷い事があると云つたが、それぢや今度は野枝ですね』追究(ママ)したので、大杉も初めて野枝との関係を白状しました。

 私は神近の時の驚きよりも幾層倍の強き驚きを感じましたが、驚きが過ぎて只呆れたと云つた方がもつと適切かも知れません。

『野枝さんは良人のある女です。二人の子さへある人の妻です。未婚の伊藤野枝でなく既婚の辻野枝です。あなたは姦通をしてゐるのです。法律の罪は別としてあなたは自分の心に恥ぢないか』と、私は頭から捲(まく)し立てゝやりました。

 すると、神近の時には涙を流して罪を謝した大杉が、今度はどうでせう、少しも恥ぢた色がないのみならず、『ウム急転直下自分で自分の心が判らぬ』といつたきり、例の癖の楽書に『厚顔無恥』『厚顔無恥』と続けさまに書いたりして、サモ平気でゐるのでした。


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p10~11)





 保子はとりあえず大杉と別居することにして、三月三日、四谷区南伊賀町四十二の借家に転居した。

 山田嘉吉・わか夫妻の東隣り、茅ケ崎に転居したらいてうが二月まで住んでいた家である。

 らいてうがこの家から茅ケ崎に引っ越したのは、二月十一日だった。

 前年九月に奥村が肺結核を発病し、南湖院に入院中だったので、奥村のそばで生活するための移転だった。

 この年(一九一六年)の夏が終わるころ、奥村の自宅療養の許可が出たので奥村は南湖院を退院、らいてう一家は茅ケ崎の「人参湯」という湯屋の廊下続きの離れ座敷を借りて住むことになる。

 三月五日、弁護士の山崎今朝弥の家で関係者が大杉と保子の離婚協議をした。

 大杉が別居だけを望んだこともあり、保子もそれを承認した。

 大杉が麹町区三番町六十四(現・千代田区九段北四・二・一)の下宿、第一福四萬館に転居したのは、三月九日だった。

 第一福四萬館には大杉の友人、福富菁児(ふくとみ・せいじ)が下宿していたことがあり、大杉はその存在を知っていたのである。

 しばらくは保子がやって来て、衣類や洗濯物など身の回りの世話をした。

 大杉はほとんど収入の道がなくなり、窮乏を極めていた。

 ときどき来る神近に借金をしていたが、下宿代も払えなくなった。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)


★『宮嶋資夫著作集 第六巻』



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:22| 本文

第180回 チリンチリン






文●ツルシカズヒコ




 大杉が神近の下宿を訪れたこの日、神近は不意に原稿料が手に入ったので、夕方、東京日日新聞社を出ると銀座に出かけた。

 神近は木村屋に行って、 パン類を一円余り買い礼子に送った。

 礼子は神近と高木信威(たかぎ・のぶたけ)との間にできた女の子で、神近の郷里(長崎県)の姉のところに里子に出されていた。

 高木が妻子持ちの身だったからである。

 なお、礼子は一九一七(大正六)年に夭折している。

 神近と高木が恋愛関係になったのは、神近が青森県立弘前高等女学校を辞めて上京したころだったという。





 ……教師をやめて上京してゐる中に、やまと新聞の主筆をしてゐた、高木信威と恋愛してその子を宿してしまった。

 そのために彼女はしばらく故里に帰つてゐたが、凡てを清算して、出直して来たのである。


(宮嶋資夫「日本自由恋愛史の一頁〈遺稿〉 大杉栄をめぐる三人の女性」/『文学界』1951年5月号_p138)





 神近は木村屋で自分のためにも食パンを一斤買い、そして別の店で紅茶やバターのたぐいを買い、そのほかに小さな器具を大杉のために買った。

 二月の寒い夜だった。

 深い木立の中の離れ家の下宿に帰宅した神近は、書斎の小さな机の前に座り、手垢のついた赤い表紙の薄い書物を読んでいた。

 大家一家が住む母屋から聞こえていた子供たちの話し声も消え、宵が静かに冷たく更けていた。

 締め切った書斎に置かれた火鉢の山盛りの炭が勢いよく燃え、銅壷(どうこ)と鉄瓶の湯を懸命に煮立たせていた。

 狂乱したように騒ぎ立てる鉄瓶の音と、すがすがしく響く時計の音だけが、離れと母屋をつなぐ長い廊下に響いていた。

 神近はふと礼子のことを思った。





『小包が着くたびに、手を拍(う)つて踊り廻るのであります。そして「R子さま、誰から来ましたとな」と尋ねると「おばんから」と云はれます。時々見える伯母様のお土産とばかり考へて居られます』

 数日前、かうした手紙を私は受取つてゐた。

 二年余り前の苦しい思ひ出が、今は心置なく追憶に呼び迎へられた。


(神近市子『引かれものゝ唄』/『叢書「青鞜」の女たち 第8巻 引かれものの唄』/『神近市子著作集 第一巻』)





 チリンチリン。

 木戸の潜(くぐ)り戸を開けるけたたましい音が夜の沈黙を破った。

 なぜか嘆息が唇から漏れた神近は、赤い表紙の薄い書物を机の上に置いて閉じた。

 
 そしてそれと共に、幸福と多くの夢と若さとが、永遠に私の前に閉ぢられる音を聞いた。

 それは、何と云ふ恐しい破滅と破壊とであつたゞらう。

 その夜、お前はお前が新しく落ちやうとしてゐる恋の事を私に告げた。

 私は悪謔(わざ※ママ/「ふざ」であろう)けながらそれを聞いた。

 静かに深くそれを聞くことは、私には余りに堪へられないことであつたのであらう。

 お前はその晩髪を刈つて来てゐた。

 刈り立ての頭は、前の髪が短かく両方に分れて、襟足の引つつた揉み上げのつまつた、借物のやうな印象をお前に与へるのであつたが、その時もさうであつた。

『けれどあなたに対する私の愛には変りはない、お互いに尊敬し合ひ扶(たす)け合つて行つてくれなくちや』

 何かの思ひ出に、今にも唇が綻びるやうとするのを堪へて、かう云ふのが大変空虚に響いた。

 出来の悪い、解りの鈍い私の頭は、又不消化に出逢つて了つた。

『何を一体尊敬するのだらう、何故尊敬するのだらう』

 ほんとに、私は何を尊敬するのか知らなかつた。


(神近市子『引かれものゝ唄』/『叢書「青鞜」の女たち 第8巻 引かれものの唄』/『神近市子著作集 第一巻』)



★『引かれものゝ唄』(法木書店・1917年10月25日)

★神近市子『引かれものの唄 叢書「青鞜」の女たち 第8巻』(不二出版・1986年2月15日 /『引かれものゝ唄』の復刻版)

★『神近市子著作集 第一巻』(日本図書センター・2008年)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index




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第179回 日比谷公園






文●ツルシカズヒコ


 一九一六(大正五)年二月上旬、大杉と野枝はふたりだけのデートをし、夜の日比谷公園でキスをした。


 二月のいつであつたか(僕は忘れもしない何月何日と云ふやうな事は滅多にない)三年越しの交際の間に始めて自由な二人きりになつて、ふとした出来心めいた、不良少年少女めいた妙な事が日比谷であつて以来、「尚よく考へてご覧なさい」と云つて別れて以来、それから其の数日後に偶然神近と三人で会つて、僕の所謂三条件たる「お互いに経済上独立する事、同棲しないで別居の生活を送る事、お互いの自由(性的のすらも)を尊重する事」の説明があつた以来君は全く僕を離れて了つた形になつた。

(「一情婦に与へて女房に対する亭主の心情を語る文」/『女の世界』1916年6月号/安成二郎『無政府地獄 大杉栄襍記』_p64~65/日本図書センター『大杉栄全集 第3巻』)

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 ……あの時のあなたのキツスは、随分ツメタかつた。

『どうしてこんなに冷たいんだ』とも云つて見たやうにも覚えてゐるが。

 本当にあなたは、随分いたづら者なのだね。

 そして反対に僕の事を、あなたをカラカツタのだなぞと、あとで思つてゐたのだね。

 虫のいい、おバカさん。


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月七日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p636/海燕書房・一九七四年十二月十五日発行・大杉栄研究会編『大杉栄書簡集』九六)





 大杉は野枝と別れたこの夜、その足で麻布区霞町の神近の下宿に行った。


『けふはきつとあなた、どこかでいい事があつたのね。顔ぢうがほんとうに喜びで光つてゐるわ。野枝さんとでも会つて?』

 或晩遅く彼女を訪ねた時、顔を見ると直ぐ彼女は云つた。

 僕は……さう云はれて始めて、彼女の言葉通りに顔ぢうが喜びで光つてゐるやうな気がした。

 そして実際……今伊藤と会つて来たばかりだつたのだ。

 しかもいつも亭主が一緒なのだが、其日は始めて二人きりで会つて、始めて二人で手を握り合つて歩いて、始めて甘いキスに酔ふて来たのだつた。

 僕は正直に其の通りを彼女に話した。

『さう、それやよかつたわね、私も一緒になつてお喜びしてあげるわ。』


(「お化を見た話」/『改造』1922年9月号/※大杉の死後、1923年11月に刊行された単行本『自叙伝』には「葉山事件」と改題されて収録、大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第三巻』にも「葉山事件」として収録されている。日本図書センター『大杉栄全集 第12巻』には「お化を見た話」で収録されている)





 大杉は神近が自分と野枝の関係を認めていて、恋愛についての持論に対しても同調していると思い込んでいた。


 ……僕は非常に伊藤を愛してゐる、今かうして相抱き合つてゐる彼女よりも以上に愛してゐる。

 僕は、この事実を偽る事は出来ないと云つた。

 彼女はそれを承認した。

 しかも、ちつともいやな顔は見せないで、笑ひながら承認した。

『たとへば、僕にはいろんな男の友達がゐる。……甲の友人に対するのと乙の友人に対するのと、其の人物の評価は違ふ。又尊敬や親愛の度も違ふ。しかし、それが僕の友人たるに於ては同一だ。そして皆んなは、各自自分の与へられた尊敬と親愛との度で満足してゐなけれbならない。俺は乙よりも尊敬されないから、あいつの友人になるのはいやだ、などと云ふ馬鹿な甲はゐない。』

 と云ふのが僕の友人観、兼恋愛観だつた。

 が、理屈はまあどうでもいいとして、とにかく彼女は、僕の心の中での彼女と伊藤との優劣を認めたのだ。

 と同時にまた、其の尊敬や親愛の対象となるものの質の違つてゐる事も認めたのだ。


(同上)





 そのころ大杉は行き詰まっていた。

 前年十月に復刊した『近代思想』(第二次)だったが、十一月号、十二月号、一月号と連続して発禁になった。

 発禁にならぬものを出そうと主張する同志と大杉との確執が深まった。

 大杉と荒畑との隔絶が決定的になり、『近代思想』(第二次)は結局、一月号が終刊号になった。


 二度目の『近代思想』を止すと同時に、僕は一種の自暴自棄に陥っていた。

 ……もう何もかも失ったような僕が、その時に恋を見出したのだ。

 恋と同時に、その熱情に燃えた同志を見出したのだ。

 そして僕はこの新しい熱情を得ようとして、ほとんどいっさいを棄ててこの恋の中に突入して行った。

 その恋の対象がこの神近と伊藤だったのだ。


(同上)



★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記(ざっき)』(新泉社・1973年10月1日)

★『大杉栄全集 第3巻』(日本図書センター・1995年1月25日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『大杉栄全集 第三巻』(大杉栄全集刊行会・1925年7月15日)

★『大杉栄全集 第12巻』(日本図書センター・1995年1月25日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第178回 欧州戦争






文●ツルシカズヒコ




『青鞜』一九一六年二月号に野枝は「白山下より」を書いた。

 地方在住の『青鞜』の読者が家出をして青鞜社社員の家に転がり込むケースがあったと、平塚らいてうも『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(p572)に書いているが、「白山下より」によれば、野枝もそういうケースに遭遇していたことがわかる。

 前年の秋ごろまで原田皐月を頼って家出をした女性がいた。

 いろいろあって、その女性は皐月の家を出た。

 今宿の実家に長期滞在することになった野枝は、辻の妹夫婦に留守宅のことを頼んだが、皐月の家を出た女性が野枝が断ったにもかかわらず、その留守宅に転がり込んできた。

 野枝たちは前年十二月初旬に帰京したが、その女性はしばらく野枝たち一家と同居していた。

 自身が出奔し辻の家に保護されたという体験があるので、野枝はそういう女性にできるだけ力になってやりたいとは思っていたが、他人の家を頼り「自分の標榜している生活と合はない」となると、引き受け先の家を出るといった彼女たちの安易さに釘を刺している。

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 私達はでもその人たちが多少物の道理の分つた人たちだと思ひますので出来る丈け寛大に遠慮しながら用事も頼み、一つの食物もわけて食べる位にしてゐるのです。

 処がその人たちは、非常な傲慢なのです。

 ……少し用事が重なつたりすると直ぐに自分の自由を束縛されると云ふやうな不快な顔をして仕舞ひます……。

 私はつく/″\さう云ふ人を置く事にこりました。


(「白山下より」/『青鞜』1916年2月号・第6巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p316)


 実例を挙げて書いたのは、彼女個人の批判というより、野枝を頼って家出をし上京したいという手紙を野枝が多く受け取っていたので、そういう家出志願者への回答である。





『青鞜』同号に掲載された青山菊栄「更に論旨を明かにす」は、『青鞜』前号の野枝の「青山菊栄様へ」の反論である。

『青鞜』同号で野枝も「再び青山氏へ」を書き「更に論旨を明かにす」に反論した。

 権力階級が造った社会制度は長い時を費やして今に到っているので、その革命もそれと同じ長さの努力の歴史なくしては成功しないと、野枝は書いた。

 野枝は「時」を問題にしている。





 私の「時」と云ひ、また運命と云ふのは恐らくあなたの考へてお出になるよりもつと広い意味であるらしく思はれます。

 私の運命と云ふのは、人間のすべての営みと云ふものも皆ずつと高い或る意力によつて動かされてゐるのであるとしか思へません。

 人間生活のすべての基調となつてゐる、真とか、美とか云ふ観念も実は私達に知れない目的の為めに働いてゐるより高い意力の働きではないかと私には思はれるのです。

 私は与へられた「生」を与へられた意力によつて出来る丈け歩みつづけさせやうと思ひます。

 であなたは私の運命論を徹底させれば努力が無意義になり意志と云ふものが無いも等しいのだと仰云います。

 つまりはさうなります。

 人間が或意思をもつてゐることは確かですが、更に高い意力がそれを支配してゐると云へば無いも同然です。

 すると私は何の為めに生きてゐるかゞ分らなくなります。

 かうやつて、そんな事を考へる事でさへ矢張りその支配下にあるのです。

 それで私は不可抗力と云ひました。

 私はそれを絶対と云ひます。

 それで人間の意志と云ふやうなものを全然独立した働きだと見てそれですべてをしやうとしてこの考へにぶつかれば一度は信念と云ふものもぐらつきます。

 併し都合のいゝ事には、人間は始終そんな根本問題ばかりに頭をなやましてゐる事が出来ないやうな生活状態にあります。

 此処に、私とあなたとの考え方の根本の差異があります。

 私は何時でもその絶対と云ふ力を後に自分の生活を出来るだけよくして行きたい思ふのです。

 ですから、私は先づ自分の意力を出来る丈け自分の為めにのみ駆使したいと思ひます。

 そうして……若し……自分の生活が自然に他人のそれを啓発することが出来れば私にはこれは立派な一つのよろこびであります。

 私が自分の感想をーー貧しい、下らないーーでも発表すると云ふのは、その意に他ならないのであります。

 私は現在の社会制度に対しては、あなたと同様に不平と不満と憤激をもつてゐます。

 或はあなた以上にもつと反抗心を持つてゐるかもしれません。

 幸か不幸か、私は人間の親になりました。

 私は子供を出来る丈け、幸福に、立派に育てたいと云ふ本能の為めに、先づ自分と云ふものから省みて行かなければならなくなりました。

 けれども私の頭の中から、全然その不平や不満が逃げた訳でなく……子供達の為めにまた社会制度にぶつからねばならないのです。


(「再び青山氏へ」/『青鞜』1916年2月号・第6巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p319~321)





『青鞜』同号の「新刊紹介」で野枝がピックアップした本は以下。

 ●大杉栄『社会的個人主義』

 ●福田正夫詩集『農民の言葉』

 ●吉江狐雁『神秘主義者の思想と生活』

 ●『女性中心説』(レスター・ウォード著/堺利彦解説)

 ●山崎俊夫童貞

 ●厨川白村(くりやがわ・はくそん)『狂犬』





『青鞜』同号「編輯室より」から野枝の言葉を拾ってみる。


 ●欧州戦争の為めに洋紙の価が非常に高くなりまして此の頃では以前の倍高くなりましたので情ない私の経済状態では思ふやうな紙も使ひきれなくなりましたので今月からはずつと質をおとしましたけれども、その価の点では以上(ママ)のいゝ紙よりまだ高い位です。

 ●大阪毎日新聞へ「雑音」として今書いてゐますのは私としては非常に自分でもいやでたまらないものです。

 もつともつと書けるつもりで居りましたのですが十分の一もかけません。

 ●野上さんがこれから本号にお出し下すつた題で続けていろ/\なものを書いて下さるさうで御座います。

 来月号は哥津ちやんも久しぶりで書いて下さることになつてゐます。


(「編輯室より」/『青鞜』1916年2月号・第6巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p322~323)


 と、野枝は「編輯室より」に書いたが、『青鞜』はこの一九一六年二月号(第六巻二号)をもって終刊になった。

 終刊号は一九一一年九月創刊号から通算して五十二冊目の『青鞜』だった。





『青鞜』の終刊と入れ替わるように『婦人公論』が一月に創刊された。

 野枝は『婦人公論』二月号に「男性に対する主張と要求」を書いた。

「今後の婦人問題」について書いてほしいという原稿依頼だったようだ。

 野枝はこんなふうな論旨の原稿を書いた。

 男の奴隷にされてしまった女が、男と同等の地位や自由を得るために行動を起こしたのが『青鞜』であり、「婦人問題」の始まりである。

 そこに既得権を侵されるのではないかという危機を抱いた男側からの反動が生じた。

 さらに「男と同等の地位や自由を得る」をはき違えた女が出現したために、新聞がそれを面白可笑しく報道するなどして、男側からの反動がさらに強くなった。

 男の機嫌をとって生きるのが一番と考える女たちからは、『青鞜』を仇敵視されることにもなった。

 今まで女は男に依存し男の言いなりに従って生きてきたので、今の女の不自由は必然なのです。

 男が女を支配するために駆使する理屈の最終兵器が「習俗因習」です。

 女がそれに反すると周りに多大な不利を生じさせ、結局は本人が不幸になるという理屈です。

 しかし、そもそも人は自分の都合しか考えないものです。

 釈迦もキリストもそうです。

「習俗因習」に従えという人は、それに従うことが自分にとって都合がいいからにすぎません。




 自分の境遇に不満があっても、世間を敵に回す苦痛よりも、悧巧な人は現在の生活の安穏を選択する、それが日本の婦人の多数派です。

 中には不満が募りそれが反抗心になり、家出をする女もいます。

 しかし、たいていは自分の力を盲信していて、現実認識が不足していて、挫折を味わい、家出する前よりも苦痛が増します。

 世間からは嘲笑され、「習俗因習」に従って生きた方がよいという例証になるだけです。

 解放を叫んだ私たちが結婚をして子供を産んだことにより、世間は私たちが平凡は女に返ったと冷笑していますが、私たちは一歩一歩進むべき道を歩いて来たのです。

 私たちは結婚や出産を忌避するというような表面的な解放を主張していたのではありません。

 男や「習俗因習」の支配する結婚や出産や育児や家事を忌避し、自分の考えや意志でそれらをする当然の権利を要求したのです。

「今後」についてですが、私は未来予想などしてもあまり意味がないと思います。

 過去の経過、現状を分析して、先はこうなると断言できるほど、世の中はロジカルではないと思います。

 私は現在の生活の隅々にまで考えをめぐらせ、目前の問題をひとつひとつ解決していく中で、自然に新しい発見をしていきたいと思います。

 固定した理論を持って誇っている人には不埒に見えるかもしれませんが、真実な歩み方、生き方をしょうとすれば当然のことです。





 さて今後はどうなるかと云ふ問題ですが……。

 私は未来に就いて深く考える事はしませんからこの位の処にしておきます。

 何時でも未来に憧れる頭を現在にぢつとおちつける事は何の場合にも必要だと云ふことを繰り返して筆を擱(お)きます。

(五、一、一二)


(「男性に対する主張と要求」/『婦人公論』1916年2月号・第1年第2号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p336)



★『元始、女性は太陽であった 平塚らいてう自伝(下巻)』(大月書店・1971年9月6日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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