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2016年05月22日
第208回 和歌浦
文●ツルシカズヒコ
野枝は大杉に宛てた大阪からの一信に、こう書いた。
叔父(代準介)は午後から旅行するのだと云つて可なり混雑してゐる処でした。
叔父は三時にたつと云つてゐたのですのでけれども九時まで延ばしていろ/\お話をしました。
何か云はうと思ひますけれども、何を云つても駄目なのでいやになつて仕舞ひました。
叔父はアメリカに直ぐに行けと云ふのです。
そして社会主義なんか止めて学者になれと云ふのです。
とにかく二十日ばかり留守にするからそれ迄ゐろと云ひますから、ゐる事にはしましたが、叔母が何も分らないくせに、のべつにぐず/\云ふのを黙つて聞いてゐるのがいやで仕方がありません。
要するにあなたと関係をたてと云ふのですけれども、それをはつきり云はないのです。
神近さんはどうしてゐらつしやいますか。
本当に私はあの方にはお気の毒な気がします。
私は毎日々々電話がかかつて来る度に、辛らくて仕方がありませんでした。
私がどんなに彼(あ)の方の自由を害してゐるかを考へると、本当にいやでした。
そして又、あなたのいろ/\な心遣ひがどんなに私に苦しかつたでせう。
私はかなしいやうな妙な気がして仕方がなかつたのです。
今度も帰りましたら、直ぐに家を探しておちつきたいと思つてゐます。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年七月十五日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p393~394/「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)
『伊藤野枝と代準介』によれば、代準介が二十日間の旅に出ることにしたのは、野枝が二十日間も代の家に滞在すれば、キチの説得により大杉にのぼせている彼女の心も冷静になるだろうという代の策略だった。
野枝はすぐに二信を書いた。
すこし甘へたくなつたから、また手紙をかきたいの。
野枝公もうすつかり悄気(しよげ)てゐるの。
だつて来ると早くからいぢめられてゐるんだもの、可哀さうぢやない?
けれど、もう大阪なんか本当にいやになつちやつた。
野枝公もう帰へりたくなつたの。
もう帰つてもいい?
まだ早い?
叔母なんてあなとの手紙のやりとりだつて、あんまりしちやいけないなんて云ひ出すんですもの。
あたしそんなこと云はれちややりきれないわね。
帰つてもいい?
叔父の帰つて来るまでなんてゐること出来やしない。
叔父でも叔母でも、あなたに誘惑されたのだと思つて、今あなたから離しておきさへすれば、元にもどるのだと信じてゐるのですね。
私はもう断然ここの家とも今度きりで交渉をたつて仕舞はうかと思つてゐます。
……一日中のべつにぐず/\云はれては、唯さへ暑くてうるさいのに大変ですもの。
見せろ/\つて云ふので『生の闘争』を見せました。
堺さんの序文に幸徳さんの後を受けてゐるんだと書いてあつたのと、あの表に無政府主義とあつたのに猶驚いて、大変だと思つたんですね。
叔母はもうどうしても私がもう一ぺん思ひ返してくれなくては困ると云つて、是非さうさせると云ふやうな訳なのです。
野枝公もうすつかり閉口してゐるんです。
私には大阪と云ふ土地は本当に性に合はない処だわ。
矢張りあなたのそばが一等いいわ。
野枝公すつかり計画が外れていやになつちやつたけど仕方がない。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年七月十五日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p395~396/「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』)
『生の闘争』は大杉の最初の論文集で、一九一四年に新潮社から刊行された。
大杉は野枝からの一信と二信に、こう返信した。
きのふ出した手紙が二通ついた。
大ぶ弱つてゐるやうだね。
うんといぢめつけられるがいい。
いい薬だ。
あれほどの悪い事をしてゐるのだから、それ位は当り前の事だ。
そして、ついでの事に、うんと喧嘩でもして早く帰つて来るがいい。
そのご褒美には、どんなにでもして可愛がつてあげる。
そして二人して、力を協せて、四方八方に出来るだけの悪事を働くのだ。
それとも……叔父さんの云ふ通りにアメリカへでも行くか。
そして二年なり三年なり、語学と音楽とをうんと勉強して来るか。
人間の運命はどうなるか分らない。
何が仕合になるのか、不仕合になるのか、どちらとも判断がつかない。
ただ後の方は今の所ではあまりにつらすぎる。
あつけなさすぎる。
まだ/\ふざけ足りない。
僕はもう、野枝子だけには、本当に安心してゐる。
若し行かうと思ふのなら、あと一と月か二た月かかぢりつかしてくれれば、何処へでも喜んで送る。
野枝子が何処へ行つた所で、野枝子の中には僕が生きてゐるんだ。
僕の中にも野枝子が生きてゐるんだ。
そして二人は、お互ひの中のお互ひを、益々生長さす事に努めるのだ。
何んだか、こんな事を書いてゐると、本当に今野枝子が遠くへ行つて了うやうな気がする。
そしてそれを送るの辭でも書いてゐるやうな気がする。
ヒロイクな、しかし又、悲しい気がする。
そして無暗に野枝子の事が恋しくなつて来る。
とにかく、都合が出来たらすぐ帰つて来たらどう?
本当に、そんな叔母さんと二人ぎりでゐるのぢや、とてもたまるまい。
僕だつて、可愛いい野枝子をそんないやなところに置くのは、とても堪らない。
帰つておいで。
早く帰つておいで。
一日でも早く帰つておいで。
手紙を開封したやうな形跡があつたら、警察へおしりをまくつてあばれこんでやるがいい。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年七月十六日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p646~647)
野枝子は今何をしてゐるのだらう。
伯母(ママ)さんと向ひあつて、飯でも食ひながら、愚図々々とお小言の御馳走でも戴いてゐるのだらうか。
大阪へ行けば、本当に口に合つたおいしいものが食べれると、よく口癖のやうに云つていたのだが、いつか、かつちやん(小林哥津)の所へ行つたときに、お小言を聞きに大阪へ行つて来る、と冗談に云つてゐたが、本当にそればつかりで行つたやうなものだね。
ここまで書いたら、和気から朝日(大阪朝日)の夕刊を送つて来た。
野枝子の満艦飾を施した頭と云ふのは、どんなものだらうね。
こんど帰つて来る時には、ぜひ其の満艦飾で来てもらひたい。
『吹出もののある可愛らしい顔』はいかにもいい。
最後の『訳の分らぬ事まで述べ立てて引退つた』は、みだしの『大気焔』と云ふのにちつともふさわしくないね。
こんどは、新橋で降りることにして、到着の時間を電報で知らしておくれ。
翻訳だと手がまるで機会的に働いて行くが、こんな手紙のやうなのでも、いざ書くとなるとなか/\骨が折れる。
ほんとに早く帰つて来ておくれ。
ね、いいかえ、野枝子。
今、荒川(義英)と吉川(守邦)とがやつて来たから、これでよして、直ぐ女中に出させる。
吹出もののある可愛らしい顔の野枝子へ。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年七月十七日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p648~649)
『日録・大杉栄伝』と『伊藤野枝と代準介』によれば、七月十七日、キチは野枝の気分転換のために、和歌山の和歌浦浜に電車の旅をして、野枝に得意の海水浴を楽しませた。
ちなみに、当時の水着はこんな感じだったようです。
しかし、キチは野枝を懐柔することはできず、野枝は七月十九日午後の列車で帰京した。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第207回 河原なでしこ
文●ツルシカズヒコ
御宿から帰京した野枝は第一福四万館の大杉の部屋に転がり込んだ。
一九一六(大正五)年七月十三日の夜、野枝は大杉に見送られて東京駅から大阪に向かった。
東京駅は大勢の人でごった返していて、なんだか急かされるような出発だったので、野枝の気持ちは落ちつかなかった。
鶴見あたりになって、ようやく野枝の気持ちは落ちついてきた。
沼津までは車内が混雑していて、体を曲げるのも窮屈だったが、沼津でボーイが席を代えてくれたので少し眠ることができた。
天竜川を渡るときには、車窓からきれいな月が見えた。
野枝はいろんなことを考えながらその月を眺めていた。
車中、野枝は大杉の著作『労働運動の哲学』を熱心に読み続けていた。
センデイカリスト等は、信者の如く行為すると同時に、又懐疑者の如く思索する。
強烈なる生活本能に従つて行為しつつ、其の行為の自己に与ふる結果に就いて、出来るだけの判断に耽る。
多くは直覚より成る彼等の思想は、此の行為と判断との全力的結実の集積である。
(「労働運動と個人主義」/『近代思想』1915年12月号・3巻3号/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第一巻』/日本図書センター『大杉栄全集 第6巻』)
野枝は大杉の言わんとすることが、自分の体の中にしみ込んでいくような快感を覚えた。
すべてのことが、大杉に一歩ずつでも半歩ずつでも近づいているーーそれが嬉しかった。
大垣のあたりで夜が明けた。
野枝は躍り上がりたいようないい朝だと思った。
関ヶ原のあたりには緑の草に交じって可愛らしい河原なでしこがたくさん咲いていた。
野枝が好きな合歓の花も咲いていた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、野枝の乗った列車が大阪駅に着いたのは、七月十四日の朝八時だった。
「浴衣の上にお納戸鼠の夏羽織を着け、麻袋の手提げ袋を提げて」列車から降りた野枝は、『大阪毎日新聞』記者の和気律次郎に出迎えられたので、びっくりした。
和気が出迎えたのは、大杉が電報を打っておいたからだった。
野枝は大阪市北区上福島の代準介・キチ宅で旅装を解き、午後、大阪毎日新聞社を訪れた。
学芸部長の菊池幽芳は小説執筆のため社を休んでいたので、和気と話をして心斎橋まで一緒に行った。
和気は野枝の来阪を『大阪毎日新聞』の記事にした(七月十五日、七月二十日)。
野枝の来阪目的は代準介へのお金の無心だったが、代は野枝を大杉から引き離そうとしていた。
野枝が御宿上野屋旅館滞在中、代は大阪の名物や、夏用の単衣や浴衣などをキチから送らせているが、お金は送らなかった。
とにかく、大阪に引越し、東京からも近いので一度会いに来い、家を見に来い、足を運べの便りを出し続けた。
旅費は代が送った。
大杉という男から、溺れている娘を引き離したかったのだ。
(矢野寛治『伊藤野枝と代準介』_p124)
野枝は大阪に向かう途次、大杉に二通の葉書を書いた。
ひる頃四谷から帰つて見ると、途中からのハガキが二本ついている。
あなたもいよ/\尾行につかれる身分になつたのかな。
御はづかしい次第だらう。
この光栄に報ひる為めにだつて、本当にしつかり勉強しなくちやならないね。
でも、あなたに分るやうな尾行ぢや、よつぽどぼんやりした奴なんだらうね。
本当に、若しうるさい事をしたら、警察へウンと怒鳴りこむがいい。
哲学があつたのはよかつた。
しかし、あんな小さなものでは、一二時間のうちに読み終つて了つたらう。
ゆうべは保子の処に行つた。
四五日前に……四十度あまりの熱が出て、それ以来床に就いてゐるのださうだ。
そんな病気になつても、電話一つかけて来ないのだから、随分見かぎられたものだ。
しかしゆうべは、不思議にも例の狐のキの字も出ないで済んだ。
そしてけさは、僕の財布を見て、黙つて一円札を一枚入れてくれた。
……実はあなたが出発したあとへ、ほんのちよつとと云ふ約束で神近が来たのだ。
そしてつまらぬ事から物云ひが始まつて、やがて床を二つに分けて寝て、又朝になつて前夜のつづきがあつて、とうたう喧嘩別れに別れて了つたのだ。
僕からは、ゆうべ、あたまが静かになつたら遊びにおいでとハガキを出して置いたが、あちらからはまだ何んとも云つて来ない。
どうなる事やら。
けふは丁度正午から始めて、此の半ペラの原稿紙で四十枚書いた。
今から又、寝るまでにもう三十枚ほど書きたいと思つてゐる。
あしたからも此の具合ひで進んでくれるといいのだが。
『文章世界』の七月号に、らいてうが一寸したものを書いてゐる。
あなたに就いてのものだ。
読んでみるがいい。
本当に早く帰つて来るんだよ。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年七月十五日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p643~645)
★『大杉栄全集 第一巻』(大杉栄全集刊行会・1926年7月13日)
★『大杉栄全集 第6巻』(日本図書センター・1995年1月25日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★矢野寛治『伊藤野枝と代準介』(弦書房・2012年10月30日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第206回 野狐さん
文●ツルシカズヒコ
……永代静雄のやつてゐるイーグルと云ふ月二回かの妙な雑誌があるね。
あれに面白い事が書いてある。
自由恋愛実行団と云ふ題の、ちよつとした六号ものだ。
『大杉は保子を慰め、神近を教育し、而して野枝と寝る』と云ふやうな文句だつた。
平民講演の帰りに、神近や青山と一緒に雑誌店で見たのだが、神近は『本当にさうなんですよ』と云つてゐた。
青山は、あなたが僕に進んで来て以来、僕等の問題に就いては全く口をつぐんで了つた。
先日も『女の世界』を借(ママ)してくれと云ふから、『あなたはもう僕等の問題には興味がない筈であつたが』とひやかしたら、『でも、折角皆さんがお書きになつたのだから』とごまかしてゐた。
『大杉は保子を慰め、神近を教育し、而して野枝と寝る』は一寸面白いだらう。
いつか安成二郎が日向きん子の所へ行つたら、大杉に対して女の反対同盟をつくるといい、憤慨してゐたさうだ。
又、田村俊子は、『女の世界』を見て、さすがに女の人達は可愛らしい、だが大杉だけは本当に憎らしい、と云つてゐたさうだ。
それから徳田秋声は、野枝と云ふ女は本当に恋の天才だ、ほめたんだかどうだか、それは分らない。
とにかく『女の世界』以来、僕の評判は頗るわるいやうだ。
原稿は……きのうふのうちに菊地(幽芳)の名で送つて置いた。
あの中の日比谷での事ね。
あれにも書いてある通り、あの時のあなたのキツスは、随分ツメタかつた。
あなたとのキツスの一番あつかつたのは、僕が御宿を去る日、あなたが泣いてした事があつたね、あの時のキツスだつた。
ああ、もう止さう。
あなたの真似をして馬鹿ばかり書きたくなるから。
栄
野狐さん
狐さんと云ふのは、保子のオリヂナルではなくて、あなたの一名を、嘗つてから野狐と云ふのださうだ。
出所は話さないが、何れ山田からのほかはあるまいし、其の山田の本元もきまりきつてゐる。
あなたにはそんな覚えが少しもないの?
いい名だね。
僕もこれからはさう呼ぶ事にしよう。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月七日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p635~637)
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』に収録されている「書簡 大杉栄宛(一九一六年六月二十二日)」の解題によれば、野枝が流二を里子に出した六月中旬ごろ、大杉が御宿の上野屋旅館にやって来て六月二十一日(推定)まで滞在した。
ゆふべ、また、二階の室(へや)に行つて、ひとりであの広い蚊帳(かや)のなかにすはつて手紙を書き続けようとしましたけれども……ぢつと眼をつぶつて一時頃まで考へてゐました。
四五日すれば会へる事が分つてゐながら、こんなにかなしい思ひをするなんて、どうした事でせう。
これで二た月も会はずにゐられるでせうか。
私はもう何処へも行きたくない。
矢張り東京であなたの傍にゐたい。
かぢりついてゐたい。
それに昨日は、神近さんの手紙をあなたが読んで聞かして下すつてから、余計に気がふさいだんです。
私だつてあの人がどんなに苦しんでゐるかは解りますけれど、ああして他の人に聞いたりすればそれが強く来ますもの。
そして私の一番心配になるのは子供なのです。
あの人(辻潤)が何時でもそのやうでゐれば、本当にあの子が可哀さうなのですもの。
今まで本当に大事にして来たのですから、他家の厄介になんかなつてゐると思ひますと堪(た)まりせん。
私は預けた子供よりも、残して来た子供を思ひ出す度びに気が狂ひさうです。
あの子の為めに、幾夜泣いたでせう。
私の馬鹿を笑つて下さい。
今まで、あんな、これ以上の貧しさはないやうなみぢめな生活に四年も五年もかぢりついてゐたのだつて、皆んなあの子の為めだつたのですもの。
そしてそのみぢめな中から自分だけぬけて、子供をその中に置いて来たのですもの。
こんな無慈悲な母親があるでせうか。
でも、私がどんなにあの子を大事にして来たかを知つてゐるあの人は、私がゐなくなつてからの子供の可哀さうな様子を見たら、少しは考へてくれるだらうと思つたのは、私のいい考へだつたのでせうか。
忘れようとする程あの子の為めには泣かされます。
あなたに、もう前から云はうとして云ひ得ないでゐる事があります。
それはお金の事です。
……あなただつて余裕がおありになるのでもないのに、本当にすみません。
何卒々々お許し下さい。
神近さんからまで、ああして下さる事は、本当に申訳けがなくて仕方がありません。
大阪に行きましたら、直ぐ叔父に話してどうかする積りではありますけれど。
神近さんは怒つてらつしやりはしませんでしたか。
もしか、今度会つたら私がおわびします。
(「恋の手紙ーー伊藤から」 /大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九一六年六月二十二日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p391~392)
あれからどうした?
僕は、あなたにあんまり泣かれたものだから、妙に頭痛がして来て、汽車の中でも、いつものやうには眠れないで、例の眼と眼の間の所を左の中指のさきで圧(おさ)へたまま、渋い顔ばかりしてゐた。
途中でこちらへ電報をうつ積りで、頼信紙を一枚用意して来たのだけれど、大原を通つてからは頭痛が益々はげしくなつて、遂に其の気にもなれなかつた。
神近の家へ行つてからも、神近は切りに何や彼やと話ししたがるのだが、済まないとは思ひながらも、それに乗る気持にはなれなかつた。
……そして遂には、大きな声を出して、怒鳴りつけさへもした。
けさ起きてからも、まだ其の頭痛がとれないで、やはり切りに話ししたがるのを圧へつけて、黙つて、寝ころんで本ばかり読んでゐた。
とにかく此処まで帰つて来るのに、本当にいくらあればいいのか。
今こちらでは三十円ほどなら、直にも出来さうな気がする。
そして、日曜日までには、きつと帰るようにしてくれ。
僕はもう、あんな所に、とてもあなた一人を置けない。
(「戀の手紙ー大杉から」/大正五年六月二十二日夜十時/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p638~639)
朝起きて見ても、手紙は来てゐないし、ガツカリして、仕方なしに仕事でも始めようと思つてゐる所へ、来た。
本当にあなたは、何処へも行かずに、東京にゐるのが一番いゝのだ。
僕にも、其の事が、切りに考へられてゐた。
今のあなたと僕とは、とても永い間離れてゐる事は出来ないのだ。
大阪や九州へは、若し是非とも行かなければならぬものであつたら、半月位の間に一切の用を済まして来る事は出来ないものだらうか。
辻(潤)君や子供の事は僕には少しも愚痴だとは思へない。
よし愚痴だとした所で、何んの遠慮もいらない愚痴だと思ふ。
いつかも、上の児の事を話し出してあなたを泣かした事があつたが、そしてそれはあなたばかりの問題ではなく、等しく又僕自身の問題なのだと云つた事があつたが、あの時にも僕はあなたに十分に話して貰ひたかつたのだ。
先日辻君の事を話し出したのも、やはり同じ意味からであつたのだ。
あなたと辻君とは、又あなたと子供とは、他人になつて了ふ必要は少しもない。
あなたは、辻君に対しては、十分にあなたの気持を話して置かなければいけない。
下の児を預けた通知を出す時には、是非ともそれをしなければいけない。
そしてこんど東京に帰つたら、何よりも先きに、辻君とも、又子供とも会つて見るがいい。
少なくとも子供とは、今後も始終会ふようにするがいい。
そして、もし出来れば、あなたの手許に置く方法を講じるのが一番いい。
金の事だつてさうだ。
そんなつまらない遠慮をされてゐてはいやだ。
いつも云ふやうに、僕は決して、自分がいやな無理はしない。
神近だつて、あなたの為めではなく、僕の為めにした事なのだ。
宮田からの辻君の仕事は、ミルの婦人論にきまつたさうだ。
いつまでも/\書いてゐると、仕事の方がおくれるから、いい加減で止さう。
仕事も、すつかりなまけて了つたので、今日からは又夢中になつて始める。
こんどこそは、よしあなたが帰つて来ても、あなたの事は向ひの室に閉ぢこめて置いて、ロクにお相手もしないでコツ/\やつて見せる。
其の覚悟で、金が出来たら直ぐに、本当に早く帰つておいで。
(『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号/「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月二十三日朝/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p639~642)
この大杉から野枝への手紙の初出は『女性改造』一九二三年十一月号だが、その日付けは「六月二十五日朝」になっている。
四月二十九日から御宿の上野屋旅館に滞在していた野枝が、帰京したのは六月末から七月の初めのころだった。
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第205回 スリバン
文●ツルシカズヒコ
女の世界もとうたうやられましたか。
すると、もう私達は何も云ふ事が出来なくなつた訳でせうか。
しかし、他の人に云へる事が何故私達が云つてはいけないのでせうね。
着物の心配までして下さつてありがとう。
もうお天気の今日には暑くてセルを着られませんから、直ぐと単衣(ひとえ)でゐられます。
従妹から湯上りに着るのを二反送つてくれました。
それを仕立てて着てゐればよろしうございますから。
それと、羽織を、私は東京にあると思つてゐましたら、田舎に置いてあるさうですから、それを送つて貰ひます。
子供は預かつてくれさうです。
上野屋の親類の人で、鉄道院へ出てゐた人の細君で、子供二人をかかへてゐる、まだ若い人です。
その人は預りたがつてゐます。
ただ親戚の同意がありさへすればいいのです。
主人はなくなつたのださうです。
思ひ出させるようになんて、私があなたを思はないでゐる時があると、あなたは思つてゐらつしやるの。
今日は本当にいいお天気ですよ。
東京もさうでせうか。
あなたがゐらつしやらなくなつてから仕事が出来たのは、あなたの事を思ひ出すたびに、苦しまぎれに仕事にかぢりついたからです。
邪魔だつたのぢやありませんよ。
麦がもうすつかり刈られて仕舞ひました。
毎晩お星さまが綺麗ですね。
私は相変らず、あすこに出ては歌つてゐます。
(「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九一六年六月一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p381~382)
「伊藤野枝年譜」(『定本 伊藤野枝全集 第四巻』)によれば、流二は六月中旬、千葉県夷隅郡大原町根方(ねかた)の若松家に里子に出され、結局「里流れ」になり若松姓を名乗ることになる。
きのふから仕事を始めるつもりでゐたところが、朝は青山女史(山川菊栄)が遊びに来る。
午後は朝鮮の同志が暫く目で訪ねて来る、夕飯後に漸く原稿をひろげる事が出来たが、何んだか少しも気が乗らず、あなたへの手紙をとも思つてお八重(野上彌生)さんの事を書きかけても見たが、それもあまりに馬鹿らしく、とうたう十時近くなつてから宮島(資夫)の所へ出掛けた。
お八重さんが、いつか、それは自然の事でせう、と云つたと云ふ言葉は、その後どこへ行つて了つたのだらう。
其時には一人と一人と思つてゐたのが、謂はゆるモルモン宗であつたので、急に前の言葉を取消すようになつたのぢやあるまいか。
強い力、なるほどあなたは、それにあこがれてゐたかも知れない。
しかし、僕との接近は、単にそればかりぢやあるまい。
お八重さんだつて、自然の事でせうと云つた時には、其の謂はゆる強い力以外の何物かを考へてゐたに違ひあるまい。
きのふ僕は、此の『何物か』に就いて、僕の思ふ所を書いて見ようと思つた。
そして又、僕があなたに求めて行つた事の、僕にとつては、如何に必然的であつたと云ふ事に就いても、少しく詳細に書いて見ようと思つた。
しかし、もうそんな事は、僕等二人の間には、少しも問題にならない。
二人で、それに就いてのまとまつた話はした事はないが、少なくとも僕の方では、断片的にはちよい/\と話してある。
そして其際に、よしあなたが何んにも云はなかつたとしても、あなたの返事は僕には分つてゐた。
又、二人とも少しもそんな事を話さなかつたとしても、あんな事になる以前から、既に久しく互ひの黙契は出来てゐたのだ。
今じぶんになつて、事新しく二人の前で論じる必要はない。
ね、さうだろう。
こんな風に思つたので……とうたう手紙を書くのをよして了つた訳だ。
しかしお八重さんのお陰で、又あたまの中で始めからのいろんな事のおさらへが出来た。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月二日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p626~628)
……十二時になり、とまれ(※筆者注/宮嶋の家に)とすすめられるままに床に入ったが、一時頃にスリバンで驚かされて、二人で見物に出かけた。
巣鴨の終点の、車庫の向うの、何んとか小学校のすぐそばだつた。
四五軒も焼けただらうか。
お八重さんや岩野の家はあの辺なのだらう。
岩野の家でも焼けたんだと、本当に面白かつたのだがね。
けさ、帰らうとしてゐると、幻滅居士の狐月が来た。
宮島と二人で、お八重さんの所へでも行く約束があつたらしい。
もう白地の、と云ふよりは厳密には醤油地とでも云ふのだらう、単衣をきて、元気よく盛んにハシヤイでゐた。
『野枝さんが切りに怨んでゐるから、せめてはハガキの一本も出して見たらどうだ』とひやかしても見たが、一向にこたへないやうな顔付をして笑つてゐた。
バアやが又来てくれたのはいいね。
あなたのやうな人は、お守りが上手も下手もあつたものぢやない。
少し子供がぐづり出すと、そばへうつちやり放しにして、脹れ面をして三味線なんかいぢり廻してゐるのだもの。
本当に僕は、自分の子ででもあれば、すぐさま三味線をとり上げて、あなたを滅多打ちに打ちのめしたのだらうと思ふ。
子供をあづからうと云ふ人は、あなたは会つて見たの。
向うの親類の人とかが承知するか否かの前に、一度会つて見たらどう。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月二日/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p628~629)
四谷へ行つたら、『中央公論』と『新潮』が買つてあつたので、さつき送つた。
何れも、随分つまらぬものばかりだ。
攻撃するならするで、本当に、ウンとやつつけてくれる奴がないものかな。
本当を云ふと、僕は、僕に対するあなたの悪口を一番きいて見たかつたのだ。
……一つ一つ詳細に聞いて見たかつたのだ。
そして僕も亦、あなたに対して今まで思つてゐた事を、すべてあなたに打ちあけて見たかつたのだ。
お互ひのそれ位の交渉は、もう余程以前から、無ければならない筈であつたのだ。
そして、お互ひに余りに好き合つてゐたと云ふ事と、従つて比較的によく理解し合つてゐたと云ふ事と、及びお互ひに余り接近する事の出来なかつた事との為めに、遂に、其の交渉を十分に経ないで恋愛関係に陥つて了つたのだ。
慎重の態度を欠いたと言へば言へもしよう。
しかし又、一方から見れば、お互ひの可なり永い間の沈黙の内的交渉は、今更に慎重な態度をとると云ふ程の必要を認めないまでに進んでゐたのだ。
けれども僕等は、二人の間の此の必然的な恋愛にはいつて了つた上は、更に此の交渉を出来るだけ厳密に深入りさせて行かなければならない。
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野枝さん。
随分御無沙汰をした。
又怒つてゐるのだらうね。
あなたからの手紙と原稿が来てゐる。
大いそぎで読んだ。
なか/\よく書けてゐる。
感心もした。
しかし、まだ余程物足りないものがある。
もう少し長く書かなければいけなかつたのだね。
狐月との三人の会話のところは大ぶダレてゐた。
あそこは一寸カイつまんで書いて、もつとほかの所へあれだけのペエジを費した方がよかつたのだらう。
あの夜の二人、殊に狐月に対するあなたの反感が、あそこをあんなにまづく書かしたのだね。
原稿は直ぐ送つて置いた。
けれども……会ふと矢張り、今更話す必要もないと思つて、僕の方でも随分黙つて了ふ。
そして無駄話しや、恋のたはむれにばかりに陥つて了ふ。
あなたにだつて、あなたの謂はゆる悪い癖のほかに、やはりそんな気持が大ぶあつたのだらう。
僕等二人の、今までの悪い事の大部分は、前にも云つたやうに、二人があまり好き合つてゐた事と、其の大すきな事を本当に云ひ現はす機会がなかつた事に帰する。
兎に角、大阪の原稿が済んでよかつた。
あとは『女の世界』のきりだね。
此の手紙が着く頃には、もう『女の世界』の方の原稿もすんでゐるだらう。
一寸電話をかけてくれないか。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年六月六日夜/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』_p630~634)
大杉が野枝に送ったのは『中央公論』六月号と『新潮』六月号である。
『中央公論』には高島米峰の青鞜社、野枝批判が掲載された。
……「新しい女」の集団たる青鞜社の勇将猛卒が、殆ど悉くその主義主張を抛(なげうつ)て、見苦しい戦死を遂げる中に、最も年少にして、且つ、最も繫累多き伊藤野枝君が、たゞ一人踏みとゞまつて、孤城落日の中……薄ノロの僕の眼には、兎に角、見上げたものだと、感心したものだと映じて居たのである。
然るに……姦通の公行。
かくして遂に、青鞜社は全く落城してしまつた。
「新しい女」は悉く滅亡して仕舞つた。
婦人界覚醒の新運動(?)も遺憾なく滅亡して仕舞つた。
こゝに於て、思想界の衛生掛は、ホツと一息つくところである。
(高島米峰「新しい女の末路を弔す」/『中央公論』』1916年6月号・第31年第6号)
『新潮』には赤木桁平の大杉と野枝批判、さらに同誌「不同調」欄に中村狐月の野枝批判が掲載された。
要するに予は大杉栄氏と伊藤野枝なる一女性との間に醸生された這般(しゃはん)の事件に対し、最も熾烈なる嫌悪と唾棄との感を抱いてゐるものであると共に、這般の事件を異常なる思想的意義を有する重大事として見るべきとに非ずといふことを一般社会に告げんと欲するものである。
(赤木桁平「市井の一瑣事のみーー伊藤野枝、大杉栄問題を論ず」/『新潮』1916年6月号年6月号・第24巻6号)
野枝は『中央公論』』と『新潮』を読んだ感想を、こう書いている。
雑誌ありがたう御座いました。
今皆よんで見ました。
この位方々でやつつけられゝばいいゝ気持になります。
よくも/\口をそろへて下らないことを云つたものですね、すつかり痛快になつてしまひます。
随分私は憎まれ者ですね。
恋をすれば何時も石を投げられるにはきまつてゐますがね、少し烈しすぎますね、あなたに余程可愛がつて頂かないぢやこのうめ合せはつきませんよ、本当にあんまり可愛相ぢやありませんか……。
今頃は原稿が届いたでせうね、狐月には少し遠慮してやりましたが、あんなことを言つてゐる人だと知つたら、あのくだらなさ加減をもつとありのまゝにさらしてやればよかつたと思ひます。
本当に馬鹿ですね。
大阪からは早く来るやうにと幾度もさいそくがきます。
でも今度ゆけばまた暫くあなたに会へないのですね、それを考へると、いやになつてしまひます。
今度東京にかへりましたら、米峰のところへと、西川夫人の処へ二人でゆきませんか、山田先生のところへも一寸からかひに行きたい気がします。
お八重さんのところへも。
とき/″\かう云ふふざけたことを考へてはひとりでよろこんでゐるのですよ、罪がないでせう。
今度かへつたら本当にまた長く別れてゐなければならないのですから、恩にきせたりなんかしないで私のおつき合ひをして下さいね。
だらしのない手紙ばかりね、もう止しますわ、
はいちやい のえ
六月六日
大杉さま
(『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号_p162~163/「恋の手紙ーー伊藤から」/大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』/「書簡 大杉栄宛」一九一六年六月六日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p383)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index