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2016年05月28日
第225回 新婚気分
文●ツルシカズヒコ
『神近市子自伝 わが愛わが闘争』には「私が葉山の宿に着いたのは、夜になっていた。大正五年十一月八日のことである」と記されているが、「十一月八日」は十一月七日の誤記である。
日蔭茶屋に着いた神近が、出て来た女中さんに「大杉さんご夫妻はみえていますか?」と訊ねると、出で来た女中さんは無邪気にみえていると答え、そのまま奥二階の部屋に案内した。
廊下の唐紙は開いていた。
「お客さまでございます」
と女中さんは声をかけ、すぐにそこから消えるように廊下を帰っていった。
大杉が神近を見たときの当惑顔で、女中さんはハッとしたようだった。
大杉氏は湯上がりの浴衣姿で、タバコをふかしながらチャブ台の前に坐っていた。
野枝女史も風呂からあがったばかりのようすで、肌脱ぎになって鏡台の前で化粧をしていた。
チラと私のほうを見るなり、露骨にいやな顔をして肩を入れたきり、無言で化粧をつづけた。
気まずい空気だった。
私と大杉氏とは、互いに意味をなさない弁解をしあった。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p158)
三人分の夕食が揃ったが、大杉が箸を取って何か口に入れただけで、野枝は箸を取らなかった。
神近は無理にひと口食べたが、とても咽喉を通らなかった。
野枝がいきなりちゃぶ台を離れ、「あたし帰る」と言って、支度を始めた。
大杉は止めなかった。
神近は勝手にしろと思い、口を挟まなかった。
自動車が来ると、野枝は何も言わずに部屋を出て行った。
大杉と神近、ふたりの食事は味気ないものだった。
つとめてさりげなくあれこれ友達の噂や知人の話をしていても、フッと話が途絶えると、ふたりはお互いの心を探り合っていることを感じた。
神近は一杯のご飯を詰め込むように食べ、大杉はややよく食べた。
形ばかりの食事が終わったころ、女中さんが電話だと言ってきた。
野枝からの電話だった。
大杉が部屋から出ていって、かなりの時間がたち、ようやく部屋に戻った大杉が言った。
「伊藤が東京の部屋の鍵を忘れたというんだ。逗子の駅まで届けてくれと言っている」
神近は口には出さなかったが、それが仕組まれたことだと感じた。
「困ったお嬢さんだよ。ちょっと届けてくるからね。君は先に休んでいらっしゃい」
大杉はドテラのまま自動車を呼んで出て行った。
二人は……一種の新婚気分にひたっていたのだろう。
私は、その気分をわざわざこわしに来た闖入者であることは明らかだった。
野枝女史が突然帰ったのは、私に対する無言の抗議にほかならないことも、これまた明らかだった。
鍵を忘れたというのも、出ていくときすでに彼女の計算にあったことだろう。
野枝女史は、それほど賢いところを持っている人だった。
福四万館にはむろん合鍵というものがあるだろうし、駅に着いたときに思い出したというのも偶然すぎる。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p159~160)
「福四万館」と書いてあるがこれは「菊富士ホテル」の誤記である。
さらに『神近市子自伝 わが愛わが闘争』では、野枝がこの夜(十一月七日)そのまま帰京したふうに記しているが、実際は日蔭茶屋に戻り、翌日(十一月八日)の朝に帰京しているので、これも誤記である。
さらに『神近市子自伝 わが愛わが闘争』では、神近が大杉を刺したのは神近が日蔭茶屋にやって来た日の夜と記述されている。
つまり『神近市子自伝 わが愛わが闘争』は、十一月七日と八日の出来事が混同して記されているのである。
重大な事実誤認をしている同書だが、ともかくその記述に沿って、刃傷沙汰にいたり神近が自首するまでを追ってみたい。
神近はなんとか話し合いで解決したかったが、大杉の反応に唖然とした。
「君の話はわかっているよ。金だろう。金は返すよ、金さえ返せばいいんだろう」
大杉がもう少し人間的な扱いをしてくれると期待していた神近は、全面的に裏切られたと思った。
寝床に入っても、神近は眠れなかった。
このとき、私が大杉氏の寝床にはいろうとしたと伝えられている。
おそらく、それは大杉氏が自分で書いたものから出たのだろうと思うが、それは半睡の状態にあった大杉氏の錯覚だろう。
が、私が大杉氏の手を引っぱって起こしたことは事実だった。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p160~161)
神近が言った。
「私たち、いろいろ話し合ってみたほうがいいと思います」
大杉は無言だった。
「あなたは、私に言うことがあるはずです。たとえば、この状態は自分の予想していなかったことだとか……」
クルッと向こうむきに枕をかえて、大杉が言った。
「我慢がならないなら、好きにするさ。何も言うことはないよ」
神近は洗いざらい憤懣をぶちまけた。
大杉の理論が雲散霧消してしまったこと、その原因の一端は野枝の無責任な態度にあること、大杉の行為は好色な男の行為と一分の違いもないこと。
さらに、神近は野枝の大杉への経済的な依存のために、保子夫人の窮乏が深まっているのに、おめおめと旅行をして歩く良心のなさを詰問した。
大杉は憤った。
そして、高畠素之が口癖のように言いふらしていた「大杉のヘボ理論で日本の革命ができるなら、俺は坊主になってみせる!」という言葉を、神近が引き合いに出したとき、大杉の怒りは頂点に達した。
大杉氏は起きあがった。
「ぼくが金を借りているものだから、君はそれをカサにきて暴言を吐くんだな。さあ、金は返す。これでわれわれは他人だ。あしたは帰ってくれ。帰らないなら、ぼくが帰る!」
そういうなり畳みの上にあり金を叩きつけた。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p162)
「お化を見た話」『引かれものの唄』「豚に投げた真珠」にも、大杉がその場に金を叩きつけたという記述はない。
さらに大杉を刺した後の神近の行動について、こう記されている。
私は短刀を海の中にほうり投げた。
そして海にはいって死のうとした。
が、なまじ水泳ができるものだから、いくら深みにはいって水を飲んでも、ひとつもがくと浮かび上がってしまう。
私は砂浜に上がって、ズブ濡れの着物を絞ると、そにまま逗子の町のほうに向かって歩き出した。
十二時を過ぎていたが、町にはまだ人通りがあった。
通りすがりの人に派出所の場所を聞き、赤いランプを灯した交番をさがしあてた。
扉をあけて巡査が顔を出した。
「殺人をしてきました。検挙してください」
巡査は愕然として身構えるふうだった。
「短刀は持っていないだろうな?」
私が両手を広げて見せると、巡査はやっと中に入れてくれた。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p164)
大杉を刺した後の神近の行動が、『引かれものの唄』「豚に投げた真珠」とはずいぶん違っている。
『引かれものの唄』は日蔭茶屋事件の直後に執筆され、事件の一年後に出版されている。
「豚に投げた真珠」は事件の六年後に執筆されて『改造』に掲載された。
これらに比較して、事件の五十六年後に出版された『神近市子自伝 わが愛わが闘争』に記述されている事実関係の信憑性は低いと判断せざるを得ない。
※明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 下卷
★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第224回 第一福四万館
文●ツルシカズヒコ
『神近市子自伝 わが愛わが闘争』に、こういう下りがある。
ある日、大杉氏が私にいった。
「伊藤野枝君が下宿にはいりこんできて困っている」
「どうしたんです? あの人乳飲み児の子どもさんがあるんでしょう?」
「子どもを千葉県の御宿にあずけるというんだが、金がないんだ」
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p150~151)
野枝が御宿に行く前に大杉の下宿、第一福四万館に出入りしていたころのことであろう。
神近は少しの金を出してあげた。
が、その金は、大杉氏と野枝女史が二人で御宿へ行くために使われた。
流二を御宿の漁師・若松家に里子に出して帰京した野枝は、大杉の下宿・第一福四万館に転がり込んだ。
そのあたりから、『神近市子自伝 わが愛わが闘争』の記述に沿ってみたい。
大杉と野枝はフリーラブのルールを破って同棲しているわけだが、神近がそのことに触れると、大杉は叫んだ。
「うるさいな。僕はあの人が好きなんだ。それに金がないんだ。ぶつくさいわんでくれ!」
神近は引き下がるしかなかった。
野枝がこの世間を騒がせている男女関係を小説に書き、新聞に連載して多くの稿料を得ようとしたが、アテが外れたので、同棲を余儀なくされていると、大杉は言った。
神近は彼らの現実を見る目の甘さに唖然とした。
神近は野枝だけでなく、大杉にまで軽蔑を感じるようになり、それまで散々聞かされてきた大杉の革命理論にも疑いを持ち始めた。
大杉が神近から金銭的な援助を受けていたこと、あるいはアナ・ボル対立の図式の中でボルが優位になりはじめていたことなどを鑑みて、神近はこう書いている。
背に腹は代えられず、大杉氏は私の援助を受けたが、心の中ではさだめし不本意だったことだろう。
誇り高い大杉氏としては、少なからぬ自己嫌悪を感じながら、それを受け取っていたに違いない。
いまならば、他人が私と同じ立場を迎えたら、黙って身を退くように忠告するだろう。
が、当時の私は、大杉氏になんらかの謝罪をさせないかぎりは、身を退くにも退けないと思いつめていた。
外では、無政府主義者の革命論に労働階級が不信を示しはじめている。
彼の持論にはない無産者独裁やソビエト組織への関心が高まってくるので……焦燥の日々を送っていたことだろう。
それに加えて、多角恋愛の始末をつけるために、自己の不明を詫びることを要求されたのだ。
それは同時に自分の革命論の基盤を否定することにも通じている。
みずから革命家を気取り、高い指導者的地位にあることを自負していた大杉氏にとってこれは過酷な要求であった。
私はいまにして、自分が残酷だったことを理解している。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p153)
この発言は戦後、社会党の代議士になった神近の党派的発言の臭いが濃い。
『神近市子自伝 わが愛わが闘争』は、日蔭茶屋事件の五十六年後に出版されている。
当時の関係者はほとんど他界しているから、日蔭茶屋事件に関しては、この本は長生きした神近の後出しジャンケン的記述が多いと考えなければならない。
大杉との関係が終末に来ていることを自覚していた神近だったが、いつまでも彼女がこだわったのは、大杉が嘲笑的に言う、こんな言葉だった。
「あんたには理解がない。伊藤はよく理解している」
この嘲笑は、私には痛かった。
いまなら、あるいはそのときでも、他人のことであったなら、野枝女史の理解というものは、理論ではなく、愛情の上で自分が勝利者であるという自信によるものだといえただろう。
しかし、私にはそのゆとりはなかった。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p153~154)
仲間たちから笑いものにされ、一部の人たちからは同情と憐憫を受けていることを、神近は知っていた。
しかし、神近は同情もほしくなかったし、とくに憐憫にいたっては死んだほうがましだと考えていた。
自殺ができるということで、神近はわずかに自分を慰めていた。
神近が短刀を買ったのは、神田に用事があり神保町から駿河台に出ようとしたときに通りかかった刀剣店だった。
神近は大杉と野枝が下宿している第一福四万館の部屋代を何度か立て替えた。
大杉はダーウィンの『種の起原』の翻訳ができあがったら、その立て替え金を返すと言った。
『種の起原』の原稿料が来ると知らされた翌日、私は午前中に福四万館に電話をかけた。
が、二人は留守だった。
そこに、大杉氏が大金を手に入れて葉山に行ったという話をしにきた人があった。
……私との約束を破り、秘密にして行ってしまったことから、野枝女史がいっしょだということを私はすぐ感じとった。
二、三の人をあたってみると、宿の名もすぐわかった。
私はカーッとして、思わず短刀をとり出していた。
私は混濁した気持ちで、午前中は、机の前で考えつづけた。
午後になって、私はやはり葉山に行くことにした。
そして三人で話をつけようと思った。
私は短刀を鞘におさめて、手提げの中に入れた。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p156~157)
神近は「(第一)福四万館」に電話をかけたと書いているが、この時点では大杉と野枝は菊富士ホテルに移っているので、これは神近の誤記である。
★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第223回 フリーラブ
文●ツルシカズヒコ
以下、『神近市子自伝 わが愛わが闘争』に沿って、日蔭茶屋事件を見てみる。
大杉が初めて麻布区霞町の神近の家に泊まったのは、一九一五(大正四)年の秋だったという。
私は自分の一生の悲劇は、恋愛というものを、本能によらず、頭の上だけでしていたことにあると思う。
頭脳が先走っていて、現実というのものが見えなかった。
いま考えると、私に結婚の意志があることをほのめかした男性たちは、いずれも適当で似合わしい年齢であり、人間でもあった。
ところが、それがそのころの私には平凡で、考えてみるにも値しなかった。
しかし、私は大杉氏によって、まったく未知の激しい流れの中に身を躍らせてしまったのである。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p145)
堀保子という妻がありながら神近との関係を維持しようとする大杉に、神近は何度か絶交を求めたが、大杉を説得することはできなかった。
神近はふたりだけの愛によって結ばれるか、キッパリ別れるか、どちらかの道を選択したかった。
しかし、大杉は「フリーラヴ(自由恋愛)」の理論を述べるだけで、神近の追及をはぐらかした。
大杉が逗子の桜山に引っ越してからは、上京するたびに神近の部屋に泊まっていくようになった。
翌大正五年二月、伊藤野枝女史とも恋愛関係にはいった大杉氏は、それをあっさり私に告白した。
驚きもし、悲しみもしたことは事実だが、大杉をこうまで無軌道な行為におとしたのは、自分の幼稚な感傷ではなかったかという反省もした。
……大杉氏とのことはなにも一生を貫く関係と考えていたわけではなかった。
……異性間の友情と好意とが、自然に性愛を感じさせただけだった。
自分が男性の単なる好色的な目で見られていたのを、恋愛の感情と即断したのが重大な過ちであった。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p145~146)
神近はすぐ身を引く決心を固めた。
新聞記者としてよい職場を持っていたし、仕事に打ち込むことで失恋の痛手を忘れようとした。
大杉氏は、私があまりアッサリ身を退いたことによって、なにか誇りを傷つけられたような気がしたらしかった。
同志たちの手前、単なる放蕩だとみられたくない気持ちもあったのだろろう。
「俺は多角恋愛の実験を試みているんだ。君がついていけないのは、思想的未熟のゆえだ」
と論難して、私を困らせた。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p146)
大杉との議論に負けた神近の決心はもろくも覆され、多角恋愛の一員として留まることになった。
「新聞は公共の仕事ですから、恋愛なんかが問題になります」という、小野賢一郎の言葉に異議を唱えることができなかった神近は、東京日日新聞社をクビになった。
失職した神近は小野の紹介で、結城礼一郎の私設秘書の仕事をすることになった。
私と伊藤野枝女史は、ほとんど対蹠(たいしょ)的な過去と性格を持っていた。
早熟で才気ばしっていて、小さな身体に似ず、思いがけない大胆さを発揮できるのが野枝女史であり、年上で身体も大きいのに、臆病で魯鈍で神経質なのが私だった。
その二人が困難な関係につながれ、無理なポーズを見せ合わなくてはならないのだから、敵意はたがいに強く、調和できないのが当然だった。
(『神近市子自伝 わが愛わが闘争』_p149)
神近は問題を解決したい一心で、四谷区南伊賀町の大杉と保子が住む家を訪れ、保子と面会をした。
保子は一杯の茶も出さず、「お前たちが起こしたことは、お前たちで解決をつけろ」と言った。
神近はすごすごと帰るしかなかった。
大杉はフリーラブの主張を繰り返すばかりだった。
●おたがいに経済上独立すること
●同棲しないで別居の生活を送ること
●お互いの自由(性的すらも)を尊重すること
しかし、病身の保子に経済的な独立を求めることは鼻っから無理であり、乳飲み子の流二を連れて辻の家を出た野枝にも金策の目処がなかなか立たなかった。
★『神近市子自伝 わが愛わが闘い』(講談社・1972年3月24日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第222回 豚に投げた真珠
文●ツルシカズヒコ
思い迷っていた神近は一度、蒲団から起き出し、大杉を起こして自分の頭に往来している気持ちを話し、その上で自分と別れてくれないかと頼んでみようかと考えた。
しかし、大杉の思い上がった他人を侮蔑した態度、それに長い間苦しめられてきた神近の心がこう叫んだ。
「まだおまえはあの男の悪意を見定め足りないのか!」
黙しながら蓄えてきた彼女の怨恨が、そのとき一度に爆発した。
彼女は一度、寝床に帰って来た。
その方が凶行を行ないやすいように思ったからだ。
実際に刺した瞬間だけ私は失神してゐたやうで、前後から記憶が絶たれて了つてゐるが、仰向けに寝てゐる彼は唯一突きであつた。
……逆手に突いた為めに充分に力が入らなくて気管にも動脈にも致命的な傷を与へるには、今五分ほど傷口が足りなかつた。
私はこれは後で聞いた。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p93~94)
神近は目的を達し、長いこと彼女の身体を包んでいた鬱憤を晴らしたと思った。
彼女はその短刀で自殺しようと思って、少し離れて大杉が死ぬ様子を見ていた。
すると大杉がフトと目を覚ました。
大杉は「ウウ」と言って蒲団の中から手を出して傷口にあてていた。
そしてその手を電気の光に透かして見て、それが血であることに気付くと「ウワッ」と魂の底から絞り出すような驚愕と悲しみの声を上げ、大声で泣き出した。
大杉氏の記事ではこゝが稍々(やや)新派の芝居がゝりで、『待てーーー』と叫んだことになつてゐるが、事実は反対に彼は大声に泣いてゐた。
そしてこの瞬間に私はもうこれで好ひと考へた。
この男は、今こそ自分でやつたことが何を(ママ)値してゐたかを知つたのだ。
私は彼の全心が私に加へた欺瞞に対して詫びてゐることを知つた。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p94~95)
神近は大杉に短刀をたたきつけ、廊下に出ると、大杉が彼女の後を追ってきた。
神近が新築の建物の二階の明るい電気の光でもう一度大杉の顔を見ると、死の恐怖と絶望のためにその顔は醜くゆがんでいた。
白い寝衣の上には血がだらだら落ちてかかった。
……彼の全心が私に加へた欺瞞を後悔して詫びてゐると考へた後私は急に悲しく感じ出した。
彼を、殺して了つたことを済まなく考へ出した。
私が『許してください』と云つたと彼は書いてゐるが、私には少しもその記憶のないところを見れば、この時に無意識に云つたものでゝもあらうか。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p95)
さらに前の座敷の方へ引き返したとき、神近は便所に倒れてしまった。
彼女がフト気がつくと、大杉が泣きじゃくりながら玄関の廊下を曲がって行くところだった。
神近は便所の前を一直線に風呂場に出て、そこの北口の戸が造作なく開いたので、戸外に出た。
秋の雨が音もなく静に降っていた。
庭に出た彼女は門を開け、街道に出た。
街道を一直線に右の方へ走った。
ある家の垣根のようなところに突き当たった神近は、そこに倒れてしまった。
半分意識を失ったまま彼女は、そこに小一時間ほどいた。
気がつくと、垣根の枝から雨だれがポトポト顔にかかっていた。
急に何事かを思い出し、宿の方に駆け出したが、大杉が死んでしまったことを思い出し、すぐに逗子の方に取って返した。
そのときにはもう、海に投じてもよいとほどの自殺の決心は強くはなかった。
神近は未決監にいたとき、弁護士の勧めで事件の当夜に交わされた会話など当時のことを手記していたという。
……今それをとり出して一枚々々繰つて見ても『お化を見た話』に書いてあるやうな淫蕩な笑ふべき会話や卑屈な恥づべき会話を口にしてはゐない。
そしてまたそれを敢へてしたと云ふ記憶も私にはない。
私が肉を求めたという事は虚妄も甚しい。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p97)
以上が「豚に投げた真珠」を通して見た日蔭茶屋事件である。
大杉が書いた「お化を見た話」とは、事件の見え方がだいぶ違っている。
が、しかし、同じ神近が書いたものでも、一九一七年に書いた『引かれものの唄』と一九二二年に書いた「豚に投げた真珠」では微妙に事実関係が違う。
さらに、日蔭茶屋事件から五十六年後の一九七二年に出版された『神近市子自伝 わが愛わが闘争』にも、『引かれものの唄』と「豚に投げた真珠」と違う記述がされている。
★『神近市子文集1』(武州工房・1986年11月3日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第221回 短刀
文●ツルシカズヒコ
大杉が書いた「お化を見た話」が掲載されたのは『改造』一九二二年九月号だったが、この「お化を見た話」の反論という形で神近が書いたのが「豚に投げた真珠」で、同誌の次号(一九二二年十月号)に掲載された。
「豚に投げた真珠」に沿って日蔭茶屋事件を追ってみたい。
「豚に投げた真珠」によれば、神近は十一月七日、午後三時くらいの汽車で葉山に向かった。
裁判では神近は野枝が日蔭茶屋に来ていることは知らなかったということで通したが、実は大杉が野枝と一緒に来ていることも、大杉に金が入ったことも知っていた。
一九一六(大正五)年五月以降、神近は大杉に八十円の金を都合している。
野枝が御宿の上野屋旅館を引き上げることができず、当惑していたときに、その四十円の金も神近がこしらえた。
野枝の二度の大阪行きの旅費をこしらえたのも、神近だった。
野枝と下宿にゴロゴロしていた大杉の身の回りと小遣いの一切を用立てていたのも、神近だった。
葉山に出かけるとき、神近はすでに自殺を覚悟していた。
大杉氏の嘲笑をうけるやうになつたことは、私には全く意外であつた。
私は彼に同情と思ひやりをこそ予期すれ、彼によつて嘲笑を加へられやうとは覚悟してゐなかつた。
私はこの怨念を長く黙して魂の奥深く蓄へてゐた。
死を決した時、私は心がカラツとして此上もなく愉快であつた。
只残つている問題は彼を殺して置いて、自首するか一人で死ぬかその問題だけであつた。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p86~87)
神近は当初、兇器としてピストルを使用するつもりだったという。
ピストルを入手してくれたのは甥(従姉の子)だった。
甥は私に発射の仕方を教へる為めに、ある晩私を程近くの青山の墓地に連れ出した。
そして墓地の奥で私は大地に向かつて発射した。
けれどあの仰山な音響がタツタ一度で私の神経を極度に興奮させて了つた。
私は手が震えて二度と発射することが出来なかつた。
(「豚に投げた真珠」/『改造』1922年10月号/『神近市子文集1』_p87)
神近が犯行に使用した短刀は「生毛屋」のものだった。
十一月八日の午後、神近は日蔭茶屋の裏山に登って、手許が狂わぬように大型のハンカチを短刀の柄に結びつけた。
神近はその日、これが最後の夜と考えて湯に入った。
清潔な下着に着替え、入浴前に身につけていた下着は日が暮れてから海に捨てた。
床につこうとすると、大杉は神近に戯れようとするほど機嫌がよかった。
神近が発している殺気を緩和するための方便のように、彼女は感じた。
軽い愉快な気持ちにはなれない神近が黙って寝床に入ると、大杉も続いて床についた。
神近は蒲団の中で懐ろの短刀の鞘を払って、そっと敷き布団の間に入れた。
そして、大杉に訊ねた。
「あなたは私に何か話をしたいことはありませんか」
彼女はこのころずっと続いていた大杉の不誠実さの説明を、本人の口から聞きたかったのだ。
「あなたの方から何か話してくれることはないかという請求がある以上、何かあなたの方に聞きたいことがあるというのだろう」
「ありますとも。あなたは一人の男を挟んで、二人の女が昨日からのような気持ちで暮らすことは、浅ましくいやなことだとは思いませんか」
「浅ましいと思うよ」
良心に触れられた大杉は、開き直って傲慢を装った。
「浅ましいと本当に思うなら、浅ましくないようにすれば出来るのではありませんか」
神近はさらに、大杉の急所を突いてきた。
「私があなたに出した金があるからって、私の言うことを誤解なさっては困りますよ。どんな気持ちで、私が金を出したかそれはあなたも忘れはなさらぬでしょう。あなたはこれまで野枝さんと一緒にいるのは二人とも金がないからで、金さえ出来ればその日のうちにでも別になるのだと長いこと私にいっておいでになった。その金は一週間前に出来ているのに、あなたはそんなことは夢にもいったことはないような風をしていらっしゃる……」
疲労と興奮のためにウトウトした神近が目をあけると、大杉は雑誌を読んでいた。
神近にはもうひとこと言うべきことがあった。
「あなたは仲直りをしようとはいわないでしょうね」
「そうさ、自分が勝手なことを言って他人を怒らしておいて、仲直りしようとは思わないかもないもんだ。もうあなたとの恋愛はおしまいだ」
「私の言ったことは、あなたにそんなに勝手なことに聞こえましたかね。けれどどうしてそんなに怒ってしまったんです」
「なぜ怒るって。君が金がどうした、とか言ったろう。僕の金の貸しがあるからそう言うのだろう」
「それは違います。私は、ただ金がないときに、金があればああするこうすると言っていらしたことを、金ができてもあなたにはする考えがないでしょうと、あなたに確かめたかったのです……」
神近の言葉を遮るように、おっかぶせるように、大杉が言った。
「何にしても金の話まで出ればたくさんだ。金は明日返す」
いよいよ最後が来たことを知った神近は、敷き布団の下の短刀を探っていた。
短刀を握ったまま、彼女は三時まで待った。
大杉はスヤスヤとよく眠っていた。
★『神近市子文集1』(武州工房・1986年11月3日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index