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2016年05月19日
第195回 青鉛筆
文●ツルシカズヒコ
大杉からの五月六日の手紙に、野枝はこう返信した。
停車場を出ると、前の支店でしばらく休んで、それから宿に帰へりました。
帰つてからも室(へや)にゆくのが何んだかいやなので、帳場で話をして、それから室にはいると直ぐあの新聞を読んで、中央公論を読んで仕舞ひました。
思つたほど何んでもなかつたので、すつかりつまらなくなつて室中を見まはしました。
何も彼も出かけた時のままになつてゐます。
座布団が二つ、それからたつた今まであなたが着てゐらしつた浴衣。
それを見てゐると急にさびしくなりました。
枕を引きよせてもう何にも考へまいと思つて横になると、五時頃まで眼りました。
それから起こされてお湯にはいつて、子供を寝かして、御飯をすませて、今煙草を一本のんだところです。
それから菊地(幽芳)さんに手紙を書かうと思つてペンをとりますと、先づやつぱりあなたに書きたいので書き初めたのです。
今時分は四谷(堀保子)のお宅にでもゐらつしやるのでせうね。
あなたが行つてお仕舞ひになると、私の気持もさびしく閉ぢ、天気も曇つて風が出てまゐりました。
潮の遠鳴りが一層聞えます。
でも、大変静かな、落ちついた気持でゐられます。
この分では仕事もずん/\進むでせう。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月七日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p357/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、「あの新聞」とは『東京朝日新聞』の野枝の家出を皮肉った「青鉛筆」というコラムのことである。
▲細君の伊藤野枝と別居した辻潤氏は今迄は「内の野枝が」と呼んで居たが別居以来「野枝女史」と敬称を用ひ出した、男の友人達が気の毒がつて暇さへあれば連出して酒を飲んで居る、当人は野枝に就いては余り語らない、只老母が居るから又職を求めなければなるまいと云つて居る
▲氏は上野高等女学校の英語教師をして居たが野枝が其の学校を卒業すると同時に同棲して細君署名の翻訳は大抵氏が縁の下の力持をして居た
▲野枝女史も赤ン坊を負(おぶ)つて「青鞜」の校正に出かけるなど一時は新しい女にも珍らしいと褒められて居たが古い言葉で云へば魔がさしたんだ
▲イヤ野枝といふ女は大杉氏の前にも木村某と接近したしアレは恋の常習犯だと噂する文学者もある
(「青鉛筆」/『東京朝日新聞』1916年5月5日)
『中央公論』とは中村狐月「伊藤野枝女史を罵る」と西村陽吉「伊藤野枝に与ふ」が掲載された同誌五月号のこと。
野枝がこの手紙を書き投函したのは、この日の午前中だった。
すぐに仕事に取りかかるつもりだったが、仕事が手につかず、この日二通目の大杉宛の手紙を書いた。
……何んだかグルーミーな気持になつて仕舞つて、机の前に座るのがいやで仕方がありませんので、障子を開けてあすこから麦の穂を眺めながら、あなたの事ばかり考へて、五六本煙草を吸つて仕舞ふまで立つてゐました。
ひどい風で、海岸から砂が煙のやうに飛んで来るのが見えるやうなのです。
……早くいらつしやい、こちらに。
お迎へにゆきませうね。
あなたが私と直ぐにゐらつしやるおつもりなら、土曜日の昼頃そちらに着くようにゆきませう。
そして日曜の、あなたのフランス語がすんだら直ぐに五時のでこちらに来るようにしては如何です。
それまでには、私の方でも少しはお金の都合は出来ると思ひます。
保子さんには、もう少し理解が出来るようにはお話しになれませんか。
私は何を云はれてもかまひませんが……。
私には、何んだかもつとあなたがよくお話しになれば、お分りにならない方ではないやうな気がします。
けれど、あなたは保子さんによくお話しをなさる事を、面倒がつてゐらつしやるのではありませんか。
もしさうなら、私は出来るだけもつと丁寧にあなたがお話しになるようにお願ひします。
どうでもいいやと云ふやうな態度はお止しになつた方がよくはありませんか。
……あなたが神近さんに対して、また私に対して、さしのべて下さつたと同じ手を、保子さんにもおのばしになる事を望みます。
私は神近さんに対しては、相当の尊敬も愛も持ち得ると信じます。
同じ親しみを保子さんにも持ちたいと思ひます。
保子さんは私に会つて下さらないでせうか。
私は何んだか頻(しき)りに会ひたい気がします。
私も保子さんを知りませんし、保子さんも多分よく私と云ふものを御存じではないだらうと思ひます。
尤(もつと)も、保子さんが私に持つてゐらつしやるプレジユデイスが可なり根深いものであるかも知れませんけれども、この私のシンセリテイとそれとが、どちらが力強いものであるかを見たい気も致します。
けれどもまた、若しその結果が保子さんに大変な傷を与へるやうな事になるとすれば、これは考へなければならない事であるかも知れません。
あなたのお考へは如何でございますか。
それから……経済上の事は、私は、保子さんにとつては一番不安な事ではないかと思ひます。
私は私だけでどうにかなりますから、あなたの御助力はなるべく受けたくないと思ひます。
ああ云ふ風に思はれてゐることは、私には大変不快ですから。
これも小さな私の意地であるかも知れませんが。
あんな事を云はれて、笑つてすますほどインデイフアレントな気持ではゐられないのです。
あなたはお笑ひになるかも知れませんが。
その事は、私がお八重(野上彌生)さんに話をした時に一番に注意された事でもありました。
お八重さんはその問題に就いては絶対に何の交渉も持つてはいけないと思ふとさへ云ひました。
お八重さんが私に持つた不快の第一は、万朝にあつたあの記事によつて、直にもう私があなたのその助力を受けたと云ふ事を知つたからだと思ひます。
殊に、保子さんの私に対する侮蔑はすべてが其処にあるやうにさへ私には思はれます。
国民の記事にしても、万朝のにしても。
今のところ、私にはそれが一番大きな苦痛です。
私は自分で自分を支える事が出来ない程の弱い者でもないつもりです。
愈々(いよいよ)する事に窮すれば、私は女工になつて働く位は何んでもない事です。
体も丈夫ですし、育ちだつて大して上品でもありませんからね。
まあこれ位の気持でゐれば大丈夫喰ひつぱぐれはなささうです。
何卒さう云つて説明して上げて下さいね。
何んだかいやな事ばかり書きましたね。
御免なさい。
もう一週間すれば会へますね。
今少し嵐が静かになつて来ました。
いくらでも書けさうですけれども、もうおそいやうですから止めませう。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月七日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p358~360/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)
『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、「万朝にあつたあの記事」とは『万朝報』に「新婦人問題ーー伊藤野枝子と大杉栄氏」と題し、五月三、四、五、六、八日の五回にわたって連載された記事のこと。
野枝が「もう一週間すれば会へますね」と書いているが、五月十三日(土曜日)昼頃に野枝が上京し、五月十四日(日曜日)のフランス文学研究会が終わったら、ふたりで御宿に行くという段取りにしたのだろう。
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第194回 電話
文●ツルシカズヒコ
大杉が御宿の上野屋旅館にやって来たのは五月四日だった。
大杉は上野屋旅館に五月六日まで滞在した。
五月五日、この日、野枝と大杉は勝浦に行った可能性が高い。
野枝の手紙(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・一信)に「今日は一緒に勝浦へ行った日を懐(おも)はせるやうないいお天気です」とあるからだ。
帰京した五月六日夜、大杉は野枝に手紙を書いた。
発車すると直に横になつて、眼をさましたのが大原の次ぎの三門(※みかど)。
其処で尾行が代つた。
多分大原から新しいのが乗り込んだのだらう。
又、本千葉まで眼つた。
其処でも新しい奴が乗り込んで、千葉で交代になつた。
最後に又亀戸で代つた。
都合三度、四人の男が代つた訳だ。
御苦労様の至り也。
電報と手紙が一通づつ来てゐる。
今其の手紙を読んで見て、あんなに電話をかけるのをたのしみにしてゐたのを、本当にすまなかつたと云ふ気が、今更ながらに切りにする。
どんなに怒られても、どんなに怨まれても、只もう、ひた謝りに謝るつもりで出掛けたのであつたが、会つて見ると、それも何んだか改まり過ぎるやうで出来なかつた。
しかし本当に済まなかつたね。
もう一つ済まなかったのは、ゆうべとけさ。
病気のからだをね。
あんな事をしていぢめて。
あとで又、からだに障らなければいいがと心配してゐる。
けれども本当にうれしかつた。
本千葉で眼をさまして、おめざめにあの手紙を出して読んで、それからは、たのしかつた三日間のいろ/\な追想の中に、夢のやうに両国に着いた。
今でもまだ其の快よい夢のやうな気持が続いてゐる。
東京朝日(けさ宿でかしてくれたあの新聞にも、此の記事があつたのぢやあるまいか。ツイうつかりしてゐたが)と万朝と読売との切抜を送る。
けふの万朝には何も出てゐない。
もう終つたのだらうか。
狐月は『幻影を失つた』のだね。
余計な幻影などをつくつたから悪いのだ。
あきれ返つた馬鹿な奴だ。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月六日午後九時/『大杉栄全集 第四巻』_p608~609)
大杉が五月四日に御宿にやって来た経緯を推理してみたい。
野枝が大杉に宛てた「五月二日の手紙」に「さつき郵便局までゆきましたら、東京と通話が出来るんです。明後日の朝かけますからお宅にゐらして頂だいな」とある。
つまり、五月四日の朝に、野枝が大杉の下宿先である第一福四萬館に電話をかけることになっていたのである。
野枝が大杉に宛てた「五月三日の手紙」のラストには「今から電話をかけに行きます。かけてお留守だと、本当にいやになつて仕舞ひますね。何卒ゐて下さいますやうに。何にを話していいのか分りません」とあるが、この手紙は五月三日の夜に書き、翌日の五月四日朝に投函するつもりだったのだろう。
あるいは、五月三日の夜から五月四日の朝にかけて書いたのかもしれない。
ともかく「今から電話をかけに行きます」というのは、五月四日朝、郵便局にこの手紙を出しに行き、そして野枝は約束していたとおり大杉に電話をかける段取りだったのだ。
御宿から帰京した五月六日夜、大杉が野枝に宛てた手紙に「電報と手紙が一通づつ来てゐる」とあるが、これは五月四日の朝に野枝が郵便局から出し「五月三日の手紙」、そして電話をしたが大杉が不在だった(もしくは何らかの理由で電話にでることができなかった)ことに対する、野枝の怒りの電報であろう。
野枝から電話があったことを知らされた大杉は、「しまった!」と思ったにちがいない。
ともかく、至急、御宿に出向いて謝るしかないという思いで、大杉が御宿に駆けつけたという推察ができそうだ。
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第193回 パツシヨネエト
文●ツルシカズヒコ
一九一六(大正五)年五月三日、野枝は大杉から三通目の手紙を受け取った。
……三十日と一日の二通のお手紙が来ている。
本当にいい気持になつて了つた。
僕はまだ、あなたに、僕の持つてゐる理窟なり気持なりを、殆ど話した事がない。
それでも、あなたには、それがすつかり分つて了つたのだ。
二ケ月と云ふものは、非常な苦しさを無理に圧へつつ、全く沈黙してあなたの苦悶をよそながら眺めてゐたのも、決して無駄ではなかつたのだ。
しかし、一時は僕も、全く絶望してゐた。
そして僕は、せめては僕の気持もあなたに話し、又あなたの気持も聞いて、それで綺麗にあなたの事はあきらめて了はうと決心してゐた。
あなたの事ばかりではない。
女と云ふものには全く望みをかけまいとすら決心してゐた。
そして、それと同時に、僕自身の力にもほとんど自信を失つてゐた。
あなたは、僕に引寄せられた事を感謝すると云ふ。
けれども、僕にとつては、あなたの進んで来た事が、一種の救ひであつたのだ。
それによつて僕は、僕自身の見失はれた力をも見出し、又それの幾倍にも強大するのを感得する事が出来たのだ。
けふの、あの二通の手紙は、まだ多少危ぶんでいた僕を、全く確実なものにしてくれた。
本当に僕はあなたに感謝する。
あなたの力強い進み方、僕はそれを見てゐるだけでも、同時に又僕の力強い進み方を感じるのだ。
本当に僕は、非常にいい気持になつて、例の仕事にとりかかつた。
昼飯までの、二時間ばかりの間、走るやうに筆が進んで、いつもの二倍ほども書きあげた。
御宿の浜と云ふのは、僕の大好きな浜らしい。
僕には、浜辺が広くつて、其処に砂丘がうねうねしてゐないと、どうも本当の浜らしい気持がしないのだ。
僕の育つた越後の浜と云ふのがそれであつた。
あなたの、早く来てくれという言葉も、何んの不快もなしに、といふよりは寧ろ、非常に快く聞く事が出来た。
本当に行きたい。
一刻でも早く行きたい。
今にでも、すぐ、飛び出して行きたい位だ。
あたなの本の話は駄目だつた。
文章世界は、そんな話は全く駄目。
狐月(中村狐月)は少しも顔を見せない。
兎に角、往復の旅費さへ出来たら、せめては一晩泊りのつもりで行く。
そして第二土曜日にあなたが上京した際には、必ず何んとか都合して、一緒に御宿へ行けるようにする。
あなたが大きな声で歌ふと云ふ其の歌ひ声を聞きたい。
(『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号_p160~163/「戀の手紙ーー大杉から」大正五年五月二日午後五時/『大杉栄全集 第四巻』_p604~607)
野枝はこう返信した。
●あなたの手紙を拝見して、私も大変いい気持になりました。
本当に今私は幸福です。
そして、あした電話をかける事を楽しみにして。
●今日は午後からはじめてのいい天気でしたので、板場と女中を一人連れて山へ行きました。
●海が真つ青で、静かで、本当にいい景色でした。
暫(しばら)く山の上にゐて、それから又ゆつくり歩いて帰つて来ました。
●あなたの事を考へるとおちつきを失つてしまひますので困ります。
此処の女中たちはヒステリイ患者だと思つてゐるらしいのです。
●今日はもう夕食をすまして眠らうと思ひましたけれど、眠れないので三味線をいぢつて見ましたけれど、面白くも可笑(おか)しくもないのでやめて、あなたのお手紙を順々に読んで、何んだか物足りなくてこれを書き出したのです。
●ゆうべウヰスキイを飲んだ上にまた日本酒を一本あけましたので、急に体に変調が来たらしいのです。
●父の処に一昨日から手紙を書きかけて、まだ書けないでゐるのです。
●狐月氏が、此間私のことをパツシヨネエトだつて悪く云ひましたけれど、私は今度はそんなにパツシヨネエトではないと自分で思つてゐましたのに、矢張りさうなのですね。
●かうしてぢつと目をつぶりますと、あなたの熱い息が吹きかかつてゐるやうに感じます。
●あしたはあなたのお声が聞けると思ひますと、本当にうれしく胸がドキ/\します。
●静かな夜に潮の遠鳴りが聞えて来ます。
さびしい夜です。
あの音が聞えますと何んだか泣きたくなつて来ます。
●丁度、何時かの夜、あなたがーーさう/\芝居にゐらしたといふ夜、お訪ねしてお逢ひする事が出来ないで、青山(菊栄)さんの処で話をして、あの土手から向ふを見た時のやうな、あんな情けない悲しい気がします。
●あんなにも無理な口実を構へてでもあなたに会はなければゐられない程に、あなたを忘れられない癖に、どうしてもハツキリした事が云へないでは、自分も苦しみあなたをも苦しめたのですね。
●何んと云ふ馬鹿な事だつたのせう。
それも、矢張り私の意地つぱりですね。
●でも私は、あの夜訪ねてお留守だつた時には、あすこの入口のところで泣きさうになりましたの。
●青山さんと土手で話しながら市ケ谷見附(いちがやみつけ)まで歩きましたけれど、私は何を話したのか分りませんでしたの。
●今から電話をかけに行きます。
かけてお留守だと、本当にいやになつて仕舞ひますね。
何卒ゐて下さいますやうに。
何にを話していいのか分りません。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p355~356/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index