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2016年05月18日
第192回 蓄音機
文●ツルシカズヒコ
五月二日、野枝は大杉からの二通目の手紙を受け取った。
四月三十日、神近が大杉に会いに来て泊まっていったという。
●……神近が来た。
四五日少しも飯を食わぬさうで、ゲツソリと痩せて、例の大きな眼を益々ギヨロつかせてゐた。
社(東京日日新聞)の松内(則信)にもすつかり事実を打明けたさうだ。
●松内の方では、それが他の新聞雑誌の問題となつて、社内に苦情の出るまでは、一切を沈黙してゐるということであつたさうだ。
●しかし神近の方では、他に仕事の見つかり次第、辞職する決心でゐる。
●もう、あなたからの手紙も、見せてくれとは云はない。また内容を聞きたがりもしない。
●只だ僕がそれを読んでゐる間、だまつて眼をつぶつて何事かを考へてゐるようだつたが、その顔には何の苦悶も見えなかつた。このまま進んでくれればいいが。
●うと/\と眠つてゐる間にも、眼をさますと、何んだか胸のあたりに物足りなさを覚える。
そして、只だひとりゐる、あなたの事ばかり思ひ出す。
神近が来てからも、此の胸の缺カンは、少しも埋められない。
●あなたの手紙は、床の中で一度、起きてから一度、そして神近が帰つてから一度、都合三度読み返したのだが、少しも胸に響いてくる言葉にぶつからない。
早く来い、早く来い、と云ふ言葉にも、少しもあなたの熱情が響いて来ない。
●逢ひたい。
行きたい。
僕の、此の燃えるやうな熱情を、あなたに浴せかけたい。
そして又、あなたの熱情の中にも溶けてみたい。
僕はもう、本当に、あなたに占領されて了つたのだ。
●子供の守を頼むという婆さんは、いい婆さんであればいいがね。
どう?
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月一日夕/『大杉栄全集 第四巻』_p601~604)
野枝は大杉の手紙にあった「早く来い、早く来い、と云ふ言葉にも、少しもあなたの熱情が響いてこない」という文面に、腹を立てている。
●何故あなたはそんな意地悪なのでせう。
●今ここまで書いて、あなたの第二のお手紙が来ました。
宮島(資夫)さんのハガキと一緒に。
●会ひたい会ひたい、と云ふ私の気持がなぜそんなにあなたに響かないでせう。
●昨日も一日、焦(じ)れて焦れて暮しました。
蓄音機をかけて見ても、三味線をひいて見ても、歌つて見ても、何の感興もおこつては来ません。
●さつき郵便局までゆきましたら、東京と通話が出来るんです。
明後日の朝かけますからお宅にゐらして頂だいな。
●神近さんは何んだかお気の毒な気がしますね。
でも、それが彼(あ)の方の為めにいいと云ふのならお気の毒と云ふのは失礼かもしれませんのね。
●其処まで進んでゐらつしやれば、でも、大丈夫でせうね。
あなたと神近さんの為めにお喜びを申しあげます。
●さつき、あんまりいやな気持ですから、ウヰスキイを買はせて飲んでゐるんです。
●あさつてはあなたの声がきけるのね。
何を話しませうね。
でも、つまらないわね、声だけでは。
●婆やは目が少しわるいので困りますが、他には申分ありません。
子供(辻流二)を大事にしてくれますから。
でも、あなたは子供の事を気にして下さるのね、いいおぢさんですこと。
●あなたの手紙は二度とも六銭づつとられましたよ。
でも、うれしいわ、沢山書いて頂けて。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月二日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p353~354/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)
宮嶋資夫からのハガキの文面はどんな内容だったのだろうか。
宮嶋が辻と野枝の中に入り、協議離婚に着地させる労をとっていたのかもしれない。
※大正村
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第191回 狐さん
文●ツルシカズヒコ
五月一日、野枝は大杉からの手紙を受け取った。
ながい間憧憬してゐたらしい、御宿の、ゆうべの寝心地はいかに。
こちらでは、よる遅くなつてから降り出したが、そちらでも同じ事だつたらうと思ふ。
別れ、旅、雨、などと憂愁のたねばかり重なり合つたのだから、妙にセンチメンタルな気持に誘はれはしなかつたか。
それとも、解放のよろこびにうつとりしたか、或は又苦闘の後のつかれにがつかりしたか、ただぼんやりと眠りに入つて了ひはしなかつたか。
それとも又、……
いや、そんな事は、あしたあたりから来るあなたからの手紙に、詳しく書いてある筈だ。
それよりは、僕はやはり、僕自身の事を書かう。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年四月三十日正午/『大杉栄全集 第四巻』_p597)
野枝を両国橋駅で送った後、大杉は改札口にいた尾行の刑事を大声で馬鹿野郎と怒鳴った。
大杉は下戸だったが、ムシャクシャして酒でも飲みたい気分だったのだろう。
大杉、五十里(いそり)ら三人は両国橋を渡ってレストランに入ったが、安酒の匂いがたまらず、大杉は林檎を一個食べただけだった。
二軒目のレストランでは大杉はソファの上で寝てしまったが、目覚めると急に空腹を覚え四、五皿平らげた。
八時半に二軒目のレストランを出て、連れのふたりと神保町で別れた大杉は第一福四万館に寄ってから、春陽堂の編集者である田中純を本郷に訪問した。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉は田中から近く出版する翻訳書『男女関係の進化』の印税の一部を前借りした。
田中のところに近所に住んでいる本間久雄も来ていたので、二日前の『読売新聞』に載っていた本間の文章「覚めた女の離婚」の話になった。
本間はその文章で野枝が子供を捨てて大杉の許へ走ったことを非難していた。
大杉たちは夜の十二時過ぎまで話し続けた。
大杉は金を持って四谷区南伊賀町の堀保子のところに行き、彼女に金を渡した。
保子に野枝を送ったことを話すと、保子は野枝のことを「あの狐さんはね」と呼び、野枝への皮肉と悪口を並べそうになったので、大杉は手を伸ばして保子の口をおさえたまま眠ってしまった。
大杉のところへ『大阪毎日新聞』記者の和気律次郎から葉書が来ていた。
『大阪朝日新聞』に大杉と野枝が同棲したという記事が出たという。
和気は大杉にその真偽を確かめる取材の申し込みをしている。
この日(四月三十日)は下宿代三十円を支払う日だったが、大杉は一文なしだった。
大杉はこの手紙をこう締めくくった。
めづらしく長い手紙を書いた。
獄中にゐる時をのぞけば、十年以来、これほどの分量の手紙を書くのは、あなたに宛てたいつかののとこれと二つだけだ。
子供(辻潤の子)はおとなしくしているか。
わるい伯父さんのいやな咳もきかないので驚かされずに寝てゐる事ができるだろう。
何だか虫を起してゐるように見えるから、よく気をおつけ。
欲しいものがあつたら何んでも云つておいで。
あしたかあさつてかは、五六圓手に入るは筈だから、雑誌でも送らうかと思つてはゐるが。
(「戀の手紙ー大杉から」大正五年四月三十日正午/『大杉栄全集 第四巻』_p600~601)
「子供」は流二のこと、「伯父さんのいやな咳」は大杉の咳のこと。
野枝はこの手紙にこう返信した。
●女中たちが、旦那様はお出でにならないのですかつて頻(しき)りに聞きますの。今にゐらつしやるよつて云ひましたら、何時です/\つてうるさいんです。皆なが見たがつてゐるんですよ。私も見たいから、早くゐらして下さい。
●中央公論の方、駄目では困りますね。もつと他の書店に、いつぞやあなたが云つてゐらした処に『雑音』をお聞き下さいな。
●大阪朝日に出たのですつて。叔父や叔母たちが定めてびつくりしてゐる事でせう。
●保子さんが私の事を狐ですつて、有がたい名を頂いたのね。私は保子さんには好意を持たない代りに悪意も持つてはゐませんから、何を云はれても何ともありませんわ。ただ、私のあなたと、保子さんのあなたは違ふと云ふことだけを思つてゐます。
●本当に私は、あなたに、この強情な盲目な私をこんな処にまで引つぱつて来て頂いた事を何んと感謝(いやな言葉ですけれども)していいか分りません。そして、これから書く、私の本当の意味での処女作を、あなたにデヂケエトしようと思つてゐます。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p351~352/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)
野枝は「雑音」の単行本化を目論んでいて、大杉を通じて中央公論社などの出版社にかけ合ってもらっていたが、結局、単行本にはならなかった。
当時、代準介夫妻は大阪に住んでいたので、ふたりが『大阪朝日新聞』の記事を見て驚いているだろうと野枝は書いているのである。
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第190回 上野屋旅館
文●ツルシカズヒコ
御宿に滞在中の野枝は、一九一六(大正五)年四月三十日、大杉に手紙を書いた。
かうやつて手紙を書いてゐますと、本当に遠くに離れてゐるのだと云ふ気がします。
あなたは昨日別れるときに、ふり返りもしないで行つてお仕舞ひになつたのですね。
ひどいのね。
早くゐらしやれませんか。
お仕事の邪魔はしませんから、早くゐらして下さいね。
四時間汽車でがまんすれば来られるのですもの、本当に来て下さいね。
五日も六日も私にこんな気持を続けさせる方はーー本当にひどいわ。
私はひとりぼつちですからね。
この手紙だつて今日のうちには着かないと思ひますと、いやになつて仕舞ひます。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年四月三十日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p348/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)
この日、御宿はひどい嵐で外出もできなかったが、野枝は大杉への手紙(一信)を書いた後、幸福感に浸って暮らした。
野枝は大杉の著作を持って来ていて、朝からそれを読んでいたのである。
その書名を野枝自身は明かしていないが、大杉が書いた「一情婦に与えて女房に対する亭主の心情を語る文」(『女の世界』一九一六年六月号・第二巻第七号/安成二郎『無政府地獄ーー大杉栄襍記』新泉社・一九七三年十月)によれば、『生の闘争』と『社会的個人主義』だった。
『生の闘争』の中の「羞恥と貞操」、『社会的個人主義』の中の「男女関係の進化」と「羞恥と貞操と童貞」は、大杉の男女関係に関する論文であり、野枝は大杉の考えを確認するために『生の闘争』と『社会的個人主義』を御宿に持参したと思われる。
あんなに、あなたのお書きになつたものは貪るやうに読んでゐたくせに、本当はちつとも解つてゐなかつただなんて思ひますと、何んだかあたなに合はせる顔もない気がします。
今は本当に分つたのですもの。
そしてまた私には、あなたの愛を得て、本当に分つたと云ふ事はどんなに嬉しい事か分りません。
これからの道程だつて真実たのしく待たれます。
一つ一つ頭の中にとけて浸み込んでゆくのが分るやうな気がします。
何だか一層会ひたくもなつて来ます。
本当に来て下さいな、後生ですから。
(「書簡 大杉栄宛」一九一六年四月三十日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p349~350/『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)
野枝が御宿に滞在中、および金策のために大阪、福岡に滞在中に、野枝と大杉が交わした書簡は「恋の手紙」として大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』に初収録されたが、編者「はしがき」にはこう書かれている。
書いたのはおそらく近藤憲二であろう。
これは嘗つて、謂はゆる葉山事件の裁判の参考として、横浜地方裁判所で押収した事のある手紙だ。
悉く其の封筒に、「押収第何号」の札が貼られたままになつてゐる。
其後返されたが、「自叙伝」を書く参考に、大杉君が保存してゐたのである。
大杉の発信地は東京市麹町区三番町六四第一福四萬館、伊藤の発信地は千葉県夷隅郡御宿上野屋旅館である。
封筒の中の宛名は、大杉からのには「野枝さん」「可愛いい野枝子へ」「狐さんへ」などと書いてある。
伊藤からのには「大杉様まゐる」「栄さま」「私のふざけやさんに」などと書いてある。(編者)
(『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー大杉から」)
★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)
★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)
★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第189回 両国橋駅
文●ツルシカズヒコ
辻の家を出た野枝は、とりあえず神田区三崎町の玉名館に身を落ちつけた。
玉名館は荒木滋子、郁子姉妹の母が経営する旅館兼下宿屋である。
荒木滋子は七年後、甘粕事件で野枝が虐殺された直後にこう回想している。
いつでしたか、ずつと以前に、私の処へ突然にお出でになつていろ/\T氏との家庭のもた/\をお話しになつたことがありました。
其節O氏とのいきさつもお話し下すつて一旦自分一人国へ戻らうかとも思ふが、出来ることなら帰国せずに、何処かへ一人静かに潜んで読書したい、と云ふことでしたので私も、野枝さんが、あの若さでーーその頃の野枝さんは、未だほんとにお若かつたし、T氏と御一緒になられた当時は私が始めて野枝さんにお目に懸つた頃なのですが、初々しい表情の豊かな、一寸(ちよつと)西洋人形のやうな感じのあつた方なのでーー世帯(しよたい)の苦労や、一人一人増えて来るお子さんの世話やきやらで、いつぱしの世話女房らしい世間通(とでも云ひますか)に、なつて行(ゆ)かれることが、惜しいやうな気がしてゐましたので、「もし私の位置が、あなたの向上の為めに役立つなら、御利用下すつてよござんす」と、申したことでした。
私は、その時、旅館を営業してゐた母の家に食客をして居りましたから。
と、それから四五日程すると、「たうとう御厄介になりに来ましたよ、T氏とは、すつかり了解を得ましたし、当分少し落着かせて下さいね」とのことでした。
と、後から、たうとうO氏も一緒に住まはれることになつてしまつて、(私としては、O氏が私の家に一緒に住まはれると云ふことは、少し不意だつたので、ちつと面喰ひました)なんでも十日ばかり御一緒に居りました。
一緒と云つても、野枝さんは二階の向ふの方の部屋、私は階下の反対の方へ向つた一番隅つこの部屋と云ふわけで、一日一ぺん位しか顔も合せず、それも、ほんの十五分位お天気の挨拶でもする位なものでした。
野枝さんは、ちつとは飲(い)けたでせうが、O氏はちつともお酒を上らず、それに、O氏とは、其時が初対面でもあり、私は大抵自分の部屋に引き込みきりで、時間に倦(あ)きて来れば、一人で少しづゝお酒を呑んだりしてゐましたから、野枝さんの方の動静は、ちつとも分らなかつたわけです。
と、もう一つ野枝さんの部屋を訪(たづ)ねなかつたわけは、O氏が家へ来られた三日目頃に、憲兵屯所からと云ふて、私のことを大変委しく調べに来たことでした、生憎(あいにく)と私が留守の時で、母が応対しました為めに、母に非常な心配を懸けてしまつたのです。
母はおろ/\になつて、私の家の所轄署の高等係りに懇意の方がある、その方を母は態々(わざわざ)呼びにやつて、その方から、私のことを、いろ/\陳弁して貰つた、とか云ふことを、私は母から、くど/\聴かせられて了つたのです。
どうせ話半分に違ひはないのでが、とにかく母の気の痛んだと云ふことは事実でしたので、また其後も、母と私が顔が合ひさへすれば、母はそれを私に責めるので、その度に母子(おやこ)が、苦い言葉争ひになるのが私は面倒くさくなつたので、野枝さんの部屋へも、別に要事もなし、お訪ねするのを母に対して遠慮しました。
勿論、そんなですから、私と母とは、一日一ぺんも顔を合はさない日すらもありました。
(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p33~34)
辻の家を出た翌日、四月二十五日の朝、野枝は野上弥生子の家を訪ねた。
彼女には一昨日の晩のしほれた、哀れげな様子はもう微塵も残つてゐませんでした。
血色のいゝ元気そうな顔をして、
「何んだかせい/\したやうな気がしますのよ。」
と云つて笑つてゐました。
三年前のあのジプシー・ガールじみた野生美の魅力ーーそれは久しくその顔から薄れたやうに見えたものーーが俄かに顔ぢゆうに溢れて来たかの如くでありました。
伸子はその著しい変化に驚かされました。
而して目の前の彼女の自由な、気軽そうな様子とは反対に、自分の気持ちはだん/\重く沈み込んで行くのを感じました。
(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p326~327)
翌日、四月二十六日、野上弥生子は野枝の使者から手紙を受け取った。
弥生子は野枝から求められた少しの金と手紙を使者に渡した。
弥生子が野枝に宛てた手紙には「婦人が或る主張、必要に迫られて家を見捨てた時、門の外一歩には何が一番に待つてゐるかを考ふる事は、その際何より大切な事でなければならない」と書かれていた。
「ノラはあれから何をして生きただろう。悪くすると売春婦になったかもしれない」
と書いたある米国の婦人評論家の言葉を、弥生子は痛切に考えていたのだった。
野枝が千葉の御宿に旅立つことになった四月二十九日、野枝の部屋でささやかな送別会が開かれた。
大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、荒木滋子や五十里(いそり)幸太郎などを交えた宴だった。
滋子はその送別会の様子をこう記している。
そんなことで、十日ばかり、だら/\と過ぎてしまつたのですが、野枝さんはO氏と千葉県の方へ暫く静養に行(ゆ)かれることになつて、いよ/\旅行仕度と云ふ日でした。
その日は、私も朝から野枝さんの部屋へ這入(はい)りきりで、皆さんと、いろんな興駄(よた)話をしてゐました。
その時野枝さんが、名古屋から到来物だと云つて、私に巻絵(まきえ)のお重箱を下さらうとしたのです。
と、O氏が「この人に、そんなもの上げたつてだめだ、世帯(しよたい)持ぢやあるまいし重箱なんか要るものかね、」と、その『ね』だけは口で云はずに、くり/\とした目で私の方へ向けられたのでした。
と、「いゝんです。お重箱だつて、模様がよけりや、部屋へ置いて、気持ちが好(い)いわ、ね」と、野枝さんも、その『ね』だけは私の方へ目で話したわけなのです。
それから、荷づくりと云ふ段取りになつてO氏が、それは、それ、これは、これ、と目見当をつけてゐる間(あいだ)を野枝さんは、赤ちやん(これはT氏との赤ちやんでした。野枝さんは、この赤ちやんを、最初から連れておいででした)に、おつぱいを飲ませながら、横になつて肘枕の上で、呑気さうな顔ににこ/\して居ました。
と、Oさんが、
「君、縄は、もう用意してあるんでせうな」
「まだ」
「なに?まだ?何故買はせて置かなかつたの、そんなこつちや、君との間も長いこつちやないね、せい/″\一年位続くかな」
O氏は、少し吃り、吃り、そんな冗談を云つて、笑つてでした。
野枝さんは、済まして、赤ちやんの方へにこ/\してゐました。
(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p34~35)
滋子は野枝が滞在したのは「十日ばかり」と記しているが、四月二十四日から四月二十九日までの滞在だとすると五泊六日である。
玉名館で送別会が開かれた日の夕刻、『万朝報』の記者が野枝と大杉に面会に来た。
野枝に「あなたの態度は若い婦人たちにとっても打撃でしょう」と問うのに、「え、打撃? 私のほうはそうは思いません」と言うや、すぐ大杉が引き取った。
「打撃だってぇ、馬鹿にしてらぁ。打撃どころか眠っている婦人界の目を覚ましてやるんだ。礼を言われてよいはずだよ。ああ、東京はうるさい、うるさい。こんな所にいられないから逃げていくのさ。まあ新婚旅行だよ。」
(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p183)
大杉や五十里(いそり)は野枝を両国橋駅まで見送った。
当時、総武線は隅田川の西岸と接続しておらず、総武線の西の始発・終着駅は両国橋駅だった。
両国橋駅が両国駅に改称されるのは一九三一(昭和六)年、路線が隅田川を渡り御茶ノ水駅まで延線開業するのは一九三二(昭和七)年である。
両国橋駅から総武線に乗った野枝は千葉駅から房総線(現・外房線)に乗り換えた。
房総線の車両には野枝を含めてふたりの乗客しかいなかった。
四時間汽車に揺られて深夜、御宿駅に着くと、雨が振り出した。
風も強く淋しい夜だった。
野枝が歩いて向かったのは、千葉県夷隅郡御宿の上野屋旅館だった。
かつて、らいてうが奥村と長逗留した旅館である。
らいてうから話を聞いた野枝は、一度、行ってみたかったのだろう。
御宿の停車場のすぐ近くだと聞いていたが、少し離れていた。
海の近くだった。
かなり広い旅館で、野枝は一番奥の中二階のような四畳半の部屋に通された。
★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)
★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)
※上野屋旅館
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index
第188回 白山下
文●ツルシカズヒコ
野枝はそのころの自分の感情や考えを、青山菊栄にもうまく話せていなかったようだ。
菊栄はこう書いている。
其頃(※一九一六年春ごろ)から例の大杉さんを中心に先妻と神近市子氏と野枝さんとが搦(から)み合つた恋の渦巻が捲き起こつたのであるが、私は大杉さんの野枝さんに対する強い愛情は知り抜いてゐたものの、野枝さんの方であゝ難なく応ずるとは思はなかつた。
そして大杉さんの傍若無人な態度を片腹痛く思つてゐた矢先、野枝さんの方では断じて大杉を拒絶するといつて、大杉さんの悪口をいつた時には、私も大(おほい)に同感して『全く大杉さんは怪しからん』などゝ云つたものであつた。
ところが『モウ家庭生活には懲り/\した。私は辻とは別れますが一生結婚はしません』といつてゐる野枝さんは、いつの間にか、私の生家の近処の大杉さんの下宿に同棲してしまつた。
(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号・第8巻20号_p15~16)
堀保子「大杉と別れるまで」によれば、三月上旬、大杉と野枝の関係が新聞に出て世間が喧しくなったが、野枝はしきりにこの風説を打ち消し弁解しだしたという。
それで青山菊栄さん(今の山川菊栄さん)でさえ野枝の弁解を信じ、野枝の為めにわざ/\私をお訪ねになつて『世間の風説は全く無根です。どうぞ誤解のないように願いたい』と仰いました。
……野枝の弁解は唯世間体を繕ふ一時の言逃れとしか見ることが出来ませんでした。
……又野枝は山田わか子さんをお訪ねして次ぎのやうな談話を交換したさうです。
わか子さん『この頃妙な噂が大分盛んですがあれはどうなんですか』
野枝『アラうそですよ。世間て本当に随分ね。この間も外でそんな事を聞いて私はビックリしましたわ。本当に私は呑気ですね。世間でそんなに云っているのに御当人の私はちっとも知らずにいたんですもの』
わか子さん『けれどもあなたが大杉さんにあげた手紙の意味は、確かにお二人の関係を明かにして居ると保子さんは云つてお出でしたよ』
野枝『……あの谷中村の事件の時に、あの事件に対する私の意見を大杉さんにお話したゞけなんですよ。なんで私が大杉さんに手紙など上げるものですか。それは保子さんの邪推ですよ』
(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p13~14)
野枝にとってはまず辻との別居ありきなのであるが、世間はそうは見ない。
大杉との恋愛が生じたゆえの別居と受け取られることに対する、野枝のそれなりの手練手管だったのかもしれない。
「書簡 大杉栄宛」(一九一六年四月三十日・一信)の解題(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)によれば、『萬朝報』に辻の談話が掲載されたが、辻の同意を得て野枝が流二を連れて辻の家を出たのは四月二十四日の午後だった。
辻はその日のことをこう回想している。
別れるまで殆どケンカ口論のやうなことをやつたこともなかつた。
がしかし、唯だ一度、酒の瓶を彼女の額に投げつけたことがあつた。
更に僕は別れる一週間程前に僕を明白に欺いた事実を知つて、彼女を足蹴りにして擲(なぐ)つた。
前後、唯だ二回である。
別れる当日は御互(おたがひ)に静かにして幸福を祈りながら別れた。
野枝さんはさすが女で、眼に一杯涙をうかめ(ママ)てゐた。
時にまこと君三歳。
(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p14/五月書房『辻潤全集 第一巻』)
この辻家のゴタゴタの渦中に、宮嶋資夫は白山下の辻の家を訪れている。
玄関を明ければとつつきの部屋である。
案内を乞ふ必要もなく、ガラリと障子を明けると、辻は右手の机に背をもたせて胡座をかいて、野枝がその前に坐り、野枝の後ろには、辻の母親が赤子を抱いて坐つてゐた。
丁度野枝をはさんで、何か話し合つてゐた所であらう。
うつ向いた野枝の左の眼のふちは紫色にはれ上つてゐた。
辻は私の顔を見るといきなり、
「もう駄目だよ、もう俺んとこもすつかり駄目だ、今日でこの家も解散だ」と怒鳴るやうに云つた。事態はもうそこ迄進んでゐるのかと思つたが、
「一体どうしたんだ」とほかに云ふこともないから、そんな事を云ひながら坐つた。
「なあに此奴は、キスしたゞけなんて云やがるけれどキスしたゞけかどうか判るもんか、俺はもういやだ」と彼が言ふあとについて母親は、「えゝ、もう本当に、こんな事を繰り返してたつてしやうがござんせんからね、この子はこの子でほかに預けて、このうちを一旦たゝまうと思つてゐるんですの、その方がよつぽど清々しますわ」と鋭い目で、野枝の方をキラリと睨んだ。
「それであんたはどうするんですか」と何のつもりだか私は野枝に訊いた。
「わたしは、気持のきまるまで当分一人で暮しますわ、わたしだつて辻が好きなんですけど仕方がありません」と云つて顔を蔽つた。
(宮嶋資夫「日本自由恋愛史の一頁〈遺稿〉大杉栄をめぐる三人の女性」/『文学界』1951年5月号_p144)
この日、辻の家には一(まこと)は不在だった。
「あんな話をしてゐる際に家に置くのは好くないと思つて近所に預けてゐたやうであつた」と宮嶋は推測している。
翌日も宮嶋は辻の家を訪れた。
天気がよく、自分の子供とほぼ同年齢の一(まこと)をいっしょに植物園にでも連れて行って、一(まこと)を一日朗らかにしてやりたいと思った宮嶋は、菓子などを用意して子供を乳母車に乗せて辻の家を訪ねた。
が、彼の家は全く昨日解散されてゐた。
玄関は堅く閉ぢられてゐた。
裏口へ廻つて見るとすゝけた障子の穴から中の様子がよく見えた。
昨日私が来た時におかれてあつた、ネーブルの食ひからし(ママ)の皿はもとのまゝ、辻の坐つてゐた前にあつた。
座布団も何も彼も昨日と寸分ちがつてゐなかつた。
そして黄色くすゝけた障子に、朝の陽があたつてゐたのであつたが、部屋の中は夕暮のやうなお(ママ)どんだ色をしてゐた。
私は急いで踵を返して、乳母車を押して、植物園には行かずに家に帰つた。
(宮嶋資夫「日本自由恋愛史の一頁〈遺稿〉大杉栄をめぐる三人の女性」/『文学界』1951年5月号_p144~145)
★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index