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2016年05月18日

第190回 上野屋旅館






文●ツルシカズヒコ




 御宿に滞在中の野枝は、一九一六(大正五)年四月三十日、大杉に手紙を書いた。


 かうやつて手紙を書いてゐますと、本当に遠くに離れてゐるのだと云ふ気がします。

 あなたは昨日別れるときに、ふり返りもしないで行つてお仕舞ひになつたのですね。

 ひどいのね。

 早くゐらしやれませんか。

 お仕事の邪魔はしませんから、早くゐらして下さいね。

 四時間汽車でがまんすれば来られるのですもの、本当に来て下さいね。

 五日も六日も私にこんな気持を続けさせる方はーー本当にひどいわ。

 私はひとりぼつちですからね。

 この手紙だつて今日のうちには着かないと思ひますと、いやになつて仕舞ひます。


(「書簡 大杉栄宛」一九一六年四月三十日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p348/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)

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 この日、御宿はひどい嵐で外出もできなかったが、野枝は大杉への手紙(一信)を書いた後、幸福感に浸って暮らした。

 野枝は大杉の著作を持って来ていて、朝からそれを読んでいたのである。

 その書名を野枝自身は明かしていないが、大杉が書いた「一情婦に与えて女房に対する亭主の心情を語る文」(『女の世界』一九一六年六月号・第二巻第七号/安成二郎『無政府地獄ーー大杉栄襍記』新泉社・一九七三年十月)によれば、『生の闘争』と『社会的個人主義』だった。

『生の闘争』の中の「羞恥と貞操」、『社会的個人主義』の中の「男女関係の進化」と「羞恥と貞操と童貞」は、大杉の男女関係に関する論文であり、野枝は大杉の考えを確認するために『生の闘争』と『社会的個人主義』を御宿に持参したと思われる。





 あんなに、あなたのお書きになつたものは貪るやうに読んでゐたくせに、本当はちつとも解つてゐなかつただなんて思ひますと、何んだかあたなに合はせる顔もない気がします。

 今は本当に分つたのですもの。

 そしてまた私には、あなたの愛を得て、本当に分つたと云ふ事はどんなに嬉しい事か分りません。

 これからの道程だつて真実たのしく待たれます。

 一つ一つ頭の中にとけて浸み込んでゆくのが分るやうな気がします。

 何だか一層会ひたくもなつて来ます。

 本当に来て下さいな、後生ですから。


(「書簡 大杉栄宛」一九一六年四月三十日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p349~350/『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー伊藤から」)





 野枝が御宿に滞在中、および金策のために大阪、福岡に滞在中に、野枝と大杉が交わした書簡は「恋の手紙」として大杉栄全集刊行会『大杉栄全集 第四巻』に初収録されたが、編者「はしがき」にはこう書かれている。

 書いたのはおそらく近藤憲二であろう。


 これは嘗つて、謂はゆる葉山事件の裁判の参考として、横浜地方裁判所で押収した事のある手紙だ。

 悉く其の封筒に、「押収第何号」の札が貼られたままになつてゐる。

 其後返されたが、「自叙伝」を書く参考に、大杉君が保存してゐたのである。

 大杉の発信地は東京市麹町区三番町六四第一福四萬館、伊藤の発信地は千葉県夷隅郡御宿上野屋旅館である。

 封筒の中の宛名は、大杉からのには「野枝さん」「可愛いい野枝子へ」「狐さんへ」などと書いてある。

 伊藤からのには「大杉様まゐる」「栄さま」「私のふざけやさんに」などと書いてある。(編者)


(『大杉栄全集 第四巻』「恋の手紙ーー大杉から」)



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:52| 本文

第189回 両国橋駅






文●ツルシカズヒコ




 辻の家を出た野枝は、とりあえず神田区三崎町の玉名館に身を落ちつけた。

 玉名館は荒木滋子、郁子姉妹の母が経営する旅館兼下宿屋である。

 荒木滋子は七年後、甘粕事件で野枝が虐殺された直後にこう回想している。


 いつでしたか、ずつと以前に、私の処へ突然にお出でになつていろ/\T氏との家庭のもた/\をお話しになつたことがありました。

 其節O氏とのいきさつもお話し下すつて一旦自分一人国へ戻らうかとも思ふが、出来ることなら帰国せずに、何処かへ一人静かに潜んで読書したい、と云ふことでしたので私も、野枝さんが、あの若さでーーその頃の野枝さんは、未だほんとにお若かつたし、T氏と御一緒になられた当時は私が始めて野枝さんにお目に懸つた頃なのですが、初々しい表情の豊かな、一寸(ちよつと)西洋人形のやうな感じのあつた方なのでーー世帯(しよたい)の苦労や、一人一人増えて来るお子さんの世話やきやらで、いつぱしの世話女房らしい世間通(とでも云ひますか)に、なつて行(ゆ)かれることが、惜しいやうな気がしてゐましたので、「もし私の位置が、あなたの向上の為めに役立つなら、御利用下すつてよござんす」と、申したことでした。

 私は、その時、旅館を営業してゐた母の家に食客をして居りましたから。

 と、それから四五日程すると、「たうとう御厄介になりに来ましたよ、T氏とは、すつかり了解を得ましたし、当分少し落着かせて下さいね」とのことでした。

 と、後から、たうとうO氏も一緒に住まはれることになつてしまつて、(私としては、O氏が私の家に一緒に住まはれると云ふことは、少し不意だつたので、ちつと面喰ひました)なんでも十日ばかり御一緒に居りました。

 一緒と云つても、野枝さんは二階の向ふの方の部屋、私は階下の反対の方へ向つた一番隅つこの部屋と云ふわけで、一日一ぺん位しか顔も合せず、それも、ほんの十五分位お天気の挨拶でもする位なものでした。

 野枝さんは、ちつとは飲(い)けたでせうが、O氏はちつともお酒を上らず、それに、O氏とは、其時が初対面でもあり、私は大抵自分の部屋に引き込みきりで、時間に倦(あ)きて来れば、一人で少しづゝお酒を呑んだりしてゐましたから、野枝さんの方の動静は、ちつとも分らなかつたわけです。

 と、もう一つ野枝さんの部屋を訪(たづ)ねなかつたわけは、O氏が家へ来られた三日目頃に、憲兵屯所からと云ふて、私のことを大変委しく調べに来たことでした、生憎(あいにく)と私が留守の時で、母が応対しました為めに、母に非常な心配を懸けてしまつたのです。

 母はおろ/\になつて、私の家の所轄署の高等係りに懇意の方がある、その方を母は態々(わざわざ)呼びにやつて、その方から、私のことを、いろ/\陳弁して貰つた、とか云ふことを、私は母から、くど/\聴かせられて了つたのです。

 どうせ話半分に違ひはないのでが、とにかく母の気の痛んだと云ふことは事実でしたので、また其後も、母と私が顔が合ひさへすれば、母はそれを私に責めるので、その度に母子(おやこ)が、苦い言葉争ひになるのが私は面倒くさくなつたので、野枝さんの部屋へも、別に要事もなし、お訪ねするのを母に対して遠慮しました。

 勿論、そんなですから、私と母とは、一日一ぺんも顔を合はさない日すらもありました。


(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p33~34)

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 辻の家を出た翌日、四月二十五日の朝、野枝は野上弥生子の家を訪ねた。


 彼女には一昨日の晩のしほれた、哀れげな様子はもう微塵も残つてゐませんでした。

 血色のいゝ元気そうな顔をして、

「何んだかせい/\したやうな気がしますのよ。」

 と云つて笑つてゐました。

 三年前のあのジプシー・ガールじみた野生美の魅力ーーそれは久しくその顔から薄れたやうに見えたものーーが俄かに顔ぢゆうに溢れて来たかの如くでありました。

 伸子はその著しい変化に驚かされました。

 而して目の前の彼女の自由な、気軽そうな様子とは反対に、自分の気持ちはだん/\重く沈み込んで行くのを感じました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号/『野上弥生子全集 第三巻』_p326~327)





 翌日、四月二十六日、野上弥生子は野枝の使者から手紙を受け取った。

 弥生子は野枝から求められた少しの金と手紙を使者に渡した。

 弥生子が野枝に宛てた手紙には「婦人が或る主張、必要に迫られて家を見捨てた時、門の外一歩には何が一番に待つてゐるかを考ふる事は、その際何より大切な事でなければならない」と書かれていた。

「ノラはあれから何をして生きただろう。悪くすると売春婦になったかもしれない」

 と書いたある米国の婦人評論家の言葉を、弥生子は痛切に考えていたのだった。





 野枝が千葉の御宿に旅立つことになった四月二十九日、野枝の部屋でささやかな送別会が開かれた。

 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、荒木滋子や五十里(いそり)幸太郎などを交えた宴だった。

 滋子はその送別会の様子をこう記している。


 そんなことで、十日ばかり、だら/\と過ぎてしまつたのですが、野枝さんはO氏と千葉県の方へ暫く静養に行(ゆ)かれることになつて、いよ/\旅行仕度と云ふ日でした。

 その日は、私も朝から野枝さんの部屋へ這入(はい)りきりで、皆さんと、いろんな興駄(よた)話をしてゐました。

 その時野枝さんが、名古屋から到来物だと云つて、私に巻絵(まきえ)のお重箱を下さらうとしたのです。

 と、O氏が「この人に、そんなもの上げたつてだめだ、世帯(しよたい)持ぢやあるまいし重箱なんか要るものかね、」と、その『ね』だけは口で云はずに、くり/\とした目で私の方へ向けられたのでした。

 と、「いゝんです。お重箱だつて、模様がよけりや、部屋へ置いて、気持ちが好(い)いわ、ね」と、野枝さんも、その『ね』だけは私の方へ目で話したわけなのです。

 それから、荷づくりと云ふ段取りになつてO氏が、それは、それ、これは、これ、と目見当をつけてゐる間(あいだ)を野枝さんは、赤ちやん(これはT氏との赤ちやんでした。野枝さんは、この赤ちやんを、最初から連れておいででした)に、おつぱいを飲ませながら、横になつて肘枕の上で、呑気さうな顔ににこ/\して居ました。

 と、Oさんが、

「君、縄は、もう用意してあるんでせうな」

「まだ」

「なに?まだ?何故買はせて置かなかつたの、そんなこつちや、君との間も長いこつちやないね、せい/″\一年位続くかな」

 O氏は、少し吃り、吃り、そんな冗談を云つて、笑つてでした。

 野枝さんは、済まして、赤ちやんの方へにこ/\してゐました。


(荒木滋子「あの時の野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号_p34~35)





 滋子は野枝が滞在したのは「十日ばかり」と記しているが、四月二十四日から四月二十九日までの滞在だとすると五泊六日である。

 玉名館で送別会が開かれた日の夕刻、『万朝報』の記者が野枝と大杉に面会に来た。


 野枝に「あなたの態度は若い婦人たちにとっても打撃でしょう」と問うのに、「え、打撃? 私のほうはそうは思いません」と言うや、すぐ大杉が引き取った。

「打撃だってぇ、馬鹿にしてらぁ。打撃どころか眠っている婦人界の目を覚ましてやるんだ。礼を言われてよいはずだよ。ああ、東京はうるさい、うるさい。こんな所にいられないから逃げていくのさ。まあ新婚旅行だよ。」


(大杉豊『日録・大杉栄伝』_p183)





 大杉や五十里(いそり)は野枝を両国橋駅まで見送った。

 当時、総武線は隅田川の西岸と接続しておらず、総武線の西の始発・終着駅は両国橋駅だった。

 両国橋駅が両国駅に改称されるのは一九三一(昭和六)年、路線が隅田川を渡り御茶ノ水駅まで延線開業するのは一九三二(昭和七)年である。

 両国橋駅から総武線に乗った野枝は千葉駅から房総線(現・外房線)に乗り換えた。

 房総線の車両には野枝を含めてふたりの乗客しかいなかった。

 四時間汽車に揺られて深夜、御宿駅に着くと、雨が振り出した。

 風も強く淋しい夜だった。

 野枝が歩いて向かったのは、千葉県夷隅郡御宿の上野屋旅館だった。

 かつて、らいてうが奥村と長逗留した旅館である。

 らいてうから話を聞いた野枝は、一度、行ってみたかったのだろう。

 御宿の停車場のすぐ近くだと聞いていたが、少し離れていた。

 海の近くだった。

 かなり広い旅館で、野枝は一番奥の中二階のような四畳半の部屋に通された。




★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)



上野屋旅館


●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:03| 本文

第188回 白山下






文●ツルシカズヒコ

 野枝はそのころの自分の感情や考えを、青山菊栄にもうまく話せていなかったようだ。

 菊栄はこう書いている。

 其頃(※一九一六年春ごろ)から例の大杉さんを中心に先妻と神近市子氏と野枝さんとが搦(から)み合つた恋の渦巻が捲き起こつたのであるが、私は大杉さんの野枝さんに対する強い愛情は知り抜いてゐたものの、野枝さんの方であゝ難なく応ずるとは思はなかつた。

 そして大杉さんの傍若無人な態度を片腹痛く思つてゐた矢先、野枝さんの方では断じて大杉を拒絶するといつて、大杉さんの悪口をいつた時には、私も大(おほい)に同感して『全く大杉さんは怪しからん』などゝ云つたものであつた。

 ところが『モウ家庭生活には懲り/\した。私は辻とは別れますが一生結婚はしません』といつてゐる野枝さんは、いつの間にか、私の生家の近処の大杉さんの下宿に同棲してしまつた。


(山川菊栄「大杉さんと野枝さん」/『婦人公論』1923年11月・12月合併号・第8巻20号_p15~16)

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 堀保子「大杉と別れるまで」によれば、三月上旬、大杉と野枝の関係が新聞に出て世間が喧しくなったが、野枝はしきりにこの風説を打ち消し弁解しだしたという。


 それで青山菊栄さん(今の山川菊栄さん)でさえ野枝の弁解を信じ、野枝の為めにわざ/\私をお訪ねになつて『世間の風説は全く無根です。どうぞ誤解のないように願いたい』と仰いました。

 ……野枝の弁解は唯世間体を繕ふ一時の言逃れとしか見ることが出来ませんでした。

 ……又野枝は山田わか子さんをお訪ねして次ぎのやうな談話を交換したさうです。

 わか子さん『この頃妙な噂が大分盛んですがあれはどうなんですか』

 野枝『アラうそですよ。世間て本当に随分ね。この間も外でそんな事を聞いて私はビックリしましたわ。本当に私は呑気ですね。世間でそんなに云っているのに御当人の私はちっとも知らずにいたんですもの』

 わか子さん『けれどもあなたが大杉さんにあげた手紙の意味は、確かにお二人の関係を明かにして居ると保子さんは云つてお出でしたよ』

 野枝『……あの谷中村の事件の時に、あの事件に対する私の意見を大杉さんにお話したゞけなんですよ。なんで私が大杉さんに手紙など上げるものですか。それは保子さんの邪推ですよ』


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p13~14)





 野枝にとってはまず辻との別居ありきなのであるが、世間はそうは見ない。

 大杉との恋愛が生じたゆえの別居と受け取られることに対する、野枝のそれなりの手練手管だったのかもしれない。

「書簡 大杉栄宛」(一九一六年四月三十日・一信)の解題(『定本 伊藤野枝全集 第二巻』)によれば、『萬朝報』に辻の談話が掲載されたが、辻の同意を得て野枝が流二を連れて辻の家を出たのは四月二十四日の午後だった。

 辻はその日のことをこう回想している。


 別れるまで殆どケンカ口論のやうなことをやつたこともなかつた。

 がしかし、唯だ一度、酒の瓶を彼女の額に投げつけたことがあつた。

 更に僕は別れる一週間程前に僕を明白に欺いた事実を知つて、彼女を足蹴りにして擲(なぐ)つた。

 前後、唯だ二回である。

 別れる当日は御互(おたがひ)に静かにして幸福を祈りながら別れた。

 野枝さんはさすが女で、眼に一杯涙をうかめ(ママ)てゐた。

 時にまこと君三歳。


(「ふもれすく」/『婦人公論』1924年2月号_p14/五月書房『辻潤全集 第一巻』)





 この辻家のゴタゴタの渦中に、宮嶋資夫は白山下の辻の家を訪れている。


 玄関を明ければとつつきの部屋である。

 案内を乞ふ必要もなく、ガラリと障子を明けると、辻は右手の机に背をもたせて胡座をかいて、野枝がその前に坐り、野枝の後ろには、辻の母親が赤子を抱いて坐つてゐた。

 丁度野枝をはさんで、何か話し合つてゐた所であらう。

 うつ向いた野枝の左の眼のふちは紫色にはれ上つてゐた。

 辻は私の顔を見るといきなり、

「もう駄目だよ、もう俺んとこもすつかり駄目だ、今日でこの家も解散だ」と怒鳴るやうに云つた。事態はもうそこ迄進んでゐるのかと思つたが、

「一体どうしたんだ」とほかに云ふこともないから、そんな事を云ひながら坐つた。

「なあに此奴は、キスしたゞけなんて云やがるけれどキスしたゞけかどうか判るもんか、俺はもういやだ」と彼が言ふあとについて母親は、「えゝ、もう本当に、こんな事を繰り返してたつてしやうがござんせんからね、この子はこの子でほかに預けて、このうちを一旦たゝまうと思つてゐるんですの、その方がよつぽど清々しますわ」と鋭い目で、野枝の方をキラリと睨んだ。

「それであんたはどうするんですか」と何のつもりだか私は野枝に訊いた。

「わたしは、気持のきまるまで当分一人で暮しますわ、わたしだつて辻が好きなんですけど仕方がありません」と云つて顔を蔽つた。


(宮嶋資夫「日本自由恋愛史の一頁〈遺稿〉大杉栄をめぐる三人の女性」/『文学界』1951年5月号_p144)





 この日、辻の家には一(まこと)は不在だった。

「あんな話をしてゐる際に家に置くのは好くないと思つて近所に預けてゐたやうであつた」と宮嶋は推測している。

 翌日も宮嶋は辻の家を訪れた。

 天気がよく、自分の子供とほぼ同年齢の一(まこと)をいっしょに植物園にでも連れて行って、一(まこと)を一日朗らかにしてやりたいと思った宮嶋は、菓子などを用意して子供を乳母車に乗せて辻の家を訪ねた。


 が、彼の家は全く昨日解散されてゐた。

 玄関は堅く閉ぢられてゐた。

 裏口へ廻つて見るとすゝけた障子の穴から中の様子がよく見えた。

 昨日私が来た時におかれてあつた、ネーブルの食ひからし(ママ)の皿はもとのまゝ、辻の坐つてゐた前にあつた。

 座布団も何も彼も昨日と寸分ちがつてゐなかつた。

 そして黄色くすゝけた障子に、朝の陽があたつてゐたのであつたが、部屋の中は夕暮のやうなお(ママ)どんだ色をしてゐた。

 私は急いで踵を返して、乳母車を押して、植物園には行かずに家に帰つた。


(宮嶋資夫「日本自由恋愛史の一頁〈遺稿〉大杉栄をめぐる三人の女性」/『文学界』1951年5月号_p144~145)



★『辻潤全集 第一巻』(五月書房・1982年4月15日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 13:59| 本文

2016年05月17日

第187回 桜川






文●ツルシカズヒコ




 そして、弥生子はふとあることを思い出した。

 それはつい二、三日前、弥生子の耳に入った野枝が大杉と親密な関係だという噂だった。

 そんなことはありえないと考えていた弥生子は、冗談のつもりで言った。


「あなたはM(※大杉)さんと大層仲のいゝお友達だつてことを聞いてよ。本統ですか。」

「何を云つてるのですかね。下らないこと。」

 一言の許に斯う笑ひ捨てられるのを予期しながら。

 ーーすると結果は意外でありました。

 彼女の青く疲れた顔が瞬時にぱつと赤く染まつて、まごついたような目ばたきをしました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p321)

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 野枝は弥生子に経緯を話し始めた。

 大杉から愛を告白されたのはひと月ほど前だったが、自分の中にも大杉を愛する芽が育っているのは否定できないと、野枝は語った。

 弥生子はこの別居問題が重大な一事件であることを知り非常に驚き、そして友達の秘密に対する秘かな好奇心も湧いてきた。

 弥生子の目は、先刻、膝の上の子供を見たときのような涙目ではなかった。

 まだ隠されていることがあるーーそれを探ろうとするように、弥生子は野枝の青い顔を見つめ、はきはきした声で聞けるだけのことを聞いた。


「ぢゃ、今度の別居問題はもと/\それに関係して起つた話なのですね。」

「決してそうぢゃありませんの。」


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p322)





 野枝は強く否定し、大杉には長く同棲している妻の保子もあり、神近とも親密であるから、容易(たやす)く彼に「許す」ようなことも決してしていないと答えた。

 弥生子は別居のことは仕方ないとしても、大杉とのことはもっと慎重であるべきだと言った。

 大杉に対する野枝の感情が本物かどうか冷静に判断できるまでには、二年ぐらいの時間が必要だと思った。





「私に忌憚なく批評さして頂けば、あなたの第一の結婚はそんな意味から考へて随分無反省なものだつたと思ひますよ。

 ーー初恋と云ふものはまあ誰もそんなものでせうけれど。ーー

 でも、今のあなたはもうその時の十八ぢゃありませんし、殊に、そんな点には普通の婦人以上に自覚した新しい婦人として立つてゐられるのですからね。

 だいいちあなたの別居だつて、誰のために計画した事でせう。

 皆んなあなた自身の成長のために、もうちつと、しつかりした根柢を造りたいために、面倒な家庭的葛藤を離れるといふのが目的だつたぢやありませんか。

 ね、然うでせう。

 それに恋なんかしてゐる隙があつて?」

 伸子は思ふ通りのことを遠慮なしに云つて笑ひました。

「子供までも一人は犠牲にしやうとしてゐるのぢゃありませんか。

 本統にしつかりしなくちやいけませんよ。

 この際思ひきつてエゴイストにおなんなさい。

 自分自身の成長のために。

 Mさんだつて誰だつて、あなた自身よりも大切なものがあなたにありまして?」

「どうぞ心配しないで下さい。私だつてその事は十分考へてゐのですから。」

 彼女はしほらしい程沈んでゐました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p312~323)





 弥生子は大杉の性格や学識については何も知らなかったが、彼が社会主義者の勇敢な戦士であることを思うと、野枝が惹かれたのは彼のその部分であると判断せざるを得なかった。

 そして、それは野枝が辻からは決して得ることのできないものであることも、弥生子は熟知していた。

 弥生子の胸中には三年前の野枝と木村荘太とのラブアフェアのことも浮かんできたーーあのとき野枝が妊娠中でなかったら、どうなっていただろうか?

 野枝に対してそれまで抱いたことのなかったある険しい感情が、弥生子の心中に生じたが、目の前にいる子供を抱いていかにも母親らしい野枝の姿を見ると、弥生子の感情はまたたちまち一転した。

 弥生子はまだ野枝を信じていた。

 野枝になんの罪があろうか。

 まだ若いのだ。

 やっと二十一だ。

 その一事によって許されてもいいはずだ。

 そのとき、座敷から弥生子にお呼びがかかった。

桜川」のシテを務めるはずだった人が不参加になったので、代わりに謡ってほしいという。

 弥生子が迷っていると、野枝も謡うことを勧めた。





「待つてゐますから謡つてゐらつしやいよ。」

 伸子は座敷へ行きました。

 人買ひに身を売つた我子を尋ねて、日向の国からはる/″\迷ひ出た昔の狂女の物語が、今一人の子供を残し、一人の子供を抱いて家を出やうとしてゐる母親のかなしい心持ちに思ひ比べられました。

 同時にそれ程の大事を相談するためにわざ/\尋ねて来た友達を部屋へ置きつ放しにして、大きな声を出して謡など謡ふ気になつた自分が如何にも軽薄のやうに顧みられました。

 待つている彼女に対してすまない気がしました。

 伸子は役をすますと早々に座敷を辷(すべ)り出て元の部屋へ帰りました。

 が、其処に見出した彼女の顔の表情には、その瞬間の伸子の心持とはそぐはない或物がありました。

 彼女は伸子とさし向ひに座つていた先刻よりもずつと晴れ/″\しい様子をして、夕飯代りに出した「重箱」の弁当を甘そうに食べてゐました。

 而して伸子が部屋へ這入つて来るのを見ると、

「あなたの声は本統にいゝ声ね。」

 と誇張した調子で褒めました。

 伸子は厭な気がしました。

 而して思ひました。

「今の大事の場合にこの人は何故あんなお世辞見たいな事を空々しく云へるのだらう。」

 と。

 そう云へば牛込の方へ行つてからの彼女には、世間的にくだけた態度が見えて、調子のいゝ話をしたりする場合のあるのが思ひ合はされました。

 すべてが生活上の弱味から生じた事だらうと思ふと、それも矢張り咎められない気もしました。


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p324~325)





 野枝が帰るとき、弥生子は一緒に門を出て小半丁先の植木屋の角まで見送った。

 星の暗い朧夜(おぼろよ)だった。

 夜の冷えを思って弥生子が赤ん坊の上からかけてやった大きなねんねこにくるまって、停車場の方へとぼとぼ歩いてい行く野枝の後ろ姿を、弥生子は立ち留まって見送った。

 弥生子は友達が臨んでいる大事な転機、これから出逢うだろう険しい道を想い、彼女を愛する心とよき運命を祈る心でいっぱいになった。



★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 21:44| 本文

第186回 謡い会






文●ツルシカズヒコ




 野上弥生子「彼女」によれば、野枝が突然、弥生子に会いに来たのは一九一六(大正五)年の四月下旬のある日だった。

『女性改造』一九二三年十一月号に掲載された、野上弥生子の口述筆記「野枝さんのこと」では、野枝が訪れたこの日を弥生子は「大正五年の三月」(p158)と語っているが、ひとまずここではこの「彼女」の記述に沿ってみたい。

「彼女」の記述から推定すると、この日は四月二十三日と思われる。

 そのころ、野枝と弥生子は以前に比べればだいぶ疎遠になっていたが、友情のこもった手紙の交換は続けていた。

 野枝と辻の夫婦仲が芳しくないという噂は弥生子の耳にも入っていた。

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 その日は弥生子の夫、野上豊一郎の友人が野上宅に集まり、謡い会を催すことになっていた。

 井出文子『「青鞜」の女たち』によれば、この日、野上家に集まったのは安倍能成木曜会の常連たちだった。

 日の暮れ方、座敷にメンバーが揃い、初番は豊一郎をシテとした「西王母」だった。

 地頭(じがしら)として家元が来ていたので、堂々たる謡になっていた。

 ちょうどそのとき、野枝が訪れた。


「御免下さい。」

 と云ふ聞き馴れた高い太い声が玄関に聞こえました。

 心待ちにしてゐたので伸子(※弥生子)は自分で出で行きました。

 久しぶりの彼女が格子戸の外に立ってゐました。

「お客様でせう。」

 彼女は大勢の謡ひ声と、明るい部屋々々の灯で、自分が折悪く来た事を感じたらしくありました。

「構ひませんの。……」


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p317)





 野枝が背中におぶっていた生後五ヶ月の流二を下ろし、弥生子が流二を抱きかかえて先に立った。

 下の部屋はみなふさがっていたので、弥生子は二階の自分の書斎で話そうかと思ったが、ちょいちょい用事で呼び立てられるたびに降りて行くのも億劫だったので、野枝を六畳の子供部屋に案内した。

 小型な子供机、お伽噺の本の詰まった書棚。

 壁には飛行機、鉄砲、背嚢、ラケットの類いが雑然と配列された部屋にふたりは座った。


「もういよ/\学校へゐらつしやるのねぇ。」

 本棚の横に、月曜=算術、手工、国語、遊戯と云ふ風に書いて貼り付けられてある小学一年生の長男の時間割を彼女は物珍らしげに眺めて云ひました。

 けれどもそんな呑気な子供の話なぞをし合ふために、今日わざ/\来たのでない事はその顔色が語つてゐました。

 彼女はびっくりする程、やつれ疲れて見えました。

 而して非常に沈んでゐました。

「決心していよ/\別れやうと思ふのですよ。」

 彼女はとう/\持って来た胸の中のかたまりを話し出しました。

「子供はどうする積りなの。」


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p318)





 お婆ちゃんに懐いている一(まこと)は家に置いて、流二を連れて行くつもりだと野枝は答えた。

 先のことを考えればふたりとも連れて行きたいが、そうすると子供の世話で手いっぱいになり自分の勉強どころではなくなるからだ。


「O(※辻)さんはそれでもう承諾なすつたのですか。」

「承諾はしました。でもね、又色んな事を云つて私の決心を止めさせやうとしてゐるのです。でもそんな事はもうこれまで何度繰り返したか知れないのですもの。今となつてどんなことを云つたつて、OはOの道しか行かない事は分つてゐますわ。今思ひきり別れて了ふのはOのためにもいゝのです。」


(「彼女」/『中央公論』1917年2月号・第32年第2号/『野上弥生子全集 第三巻』_p319)





 江戸文化の頽廃した血を受け継ぎ、スチルネルあたりの自堕落なデカダンスの影響を受けた厭世家、かつ精神病者であったという父方の遺伝……。

 辻が己の道を変えないだろうということには弥生子も同意ができた。

 弥生子は辻の吹く尺八の音色を思い浮かべた。

 それはいつも悠々と響いていた。

 家賃が滞って家を立ち退かなければならなくなったときでも、明日のパンを心配しなければならない夕方でも。

 一途に強いもの、美しいものを讃美したがる南国生まれの女の知的に伸びようとする欲望と、辻の厭世的傾向に距離が出てきたのは仕方がないことだとも、弥生子は思った。

 弥生子は辻が起こした「無反省な恋愛事件」も野枝から聞いていた。

 今までよく許し堪えてきたーー弥生子の同情は野枝の上にしかなかった。

 不幸なことだけれども仕方がないーーけれども、野枝の膝の上にすやすやと眠っている赤ん坊を見ると、弥生子は悲しく気の毒に思う心でいっぱいになった。

 弥生子は経済上の援助のこともふくめ、できるだけのことをしてあげたかった。


※「西王母2」※野上弥生子の成城の家


★井出文子『「青鞜」の女たち』(海燕書房・1975年10月1日)

★『野上彌生子全集 第三巻』(岩波書店・1980年10月6日)




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第185回 別居について






文●ツルシカズヒコ



 一九一六(大正五)年二月から四月にかけての野枝の心境はどうだったのか。

 野枝が辻の家を出て別居を決行するのは四月末であるが、野枝はそこに到るまでの自分の心中を「申訳丈けに」に書いている。

 五年間の結婚生活は自分に無理を強いるものだったと、まず野枝は書いている。

 辻とふたりだけの生活ではなく、姑と小姑が同居している家庭は、たとえ彼女たちが寛大な人間であっても、野枝にとって忍従を強いるものだった。

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 野枝にとって唯一の避難場所は辻であり、辻は信頼のおける避難場所たりえた。

 しかし、一年ほど前に例の不倫事件が起きた。

 一度失くしてしまった信頼を回復することはできなかった。

 野枝は別居を申し出たが、遂行することができなかった。

 ひとつは、種々の情実のため。

 そして自分自身の中に辻との生活に未練があったから。

 苦悩が始まった。





 過去への未練、現在の生活にからみついた情実、肉体に対する執着ーーかつてふたりが軽蔑した、男女関係に自分たちが陥ってしまっていることへの困惑。

 子供の問題もあった。

 自分の経験からして、子供は実の親のもとで育てることだけが幸福だとは言えないが、母親としての本能的な愛もやはりある。

 ともかく野枝は「どうにかしなければならない」という思いが募るばかりだったが、それは絶望ではなく焦慮だった。

 野枝の焦慮は実生活における家庭問題の解決に留まらず、自分にしっくりくる思考を追求していた。





 そこに大杉との接触が生じた。

 大杉との接触を通じて、それまで大杉との関係はフレンドシップ以外の何物でもないと思っていたが、そう言い切ることができない自分の感情があることに気づいた。

 そして、野枝は辻に対する自分の愛に疑いを持ち始め、辻とは別れてもいいという決心をするまでになった。

 しかし、その時点では大杉との関係もあくまでフレンドシップで通すつもりだったので、それを大杉に伝えに行くと、神近もいたので三者で話し合うことになった。

 宮嶋の家での三者会談で、野枝は自分はこの問題についてはしばらく持ち越すつもりだと言った。

 野枝はまず辻との別居を実行し、それから大杉に対する自分の態度を決めたいと考えていた。

 しかし、世間はそう見ないだろう。

 大杉との恋愛が生じたから、辻と別れたーーそう見られるのが必至であることが、野枝は口惜しかった。





 辻との別居は一年も前から考えに考え抜いた末の決断なのだと、辻や彼の家族に理解してもらうためにも、あるいは世間の無責任な風評を封じるためにも、今は大杉の自分への愛を拒み、自分の大杉への愛を封じることしかないと野枝は考えた。

 野枝はその決意を大杉に直接会って伝えることは伝えた。

 しかし、ますます大杉に対する愛は否定できなくなった。

 だが、大杉には堀保子もいる、神近市子もいる。

 野枝は保子と神近がいる以上、大杉との恋愛において自分は前に進めないということも大杉に伝えた。

 夫と子供を棄てた女、そして大杉の妻と恋人から大杉を奪った女ーーやはり、野枝も世間からの圧迫はできうるかぎり避けたかった。





 で私は、打(ぶ)つかる処まで行つて見る気になりましたのです。

 その時の私の気持は私がもう少し力強く進んで行けばその力で二人の人を退け得ると云ふ自惚が充分にありました。

 さうしてさう自分で決心がつきますと非常に自由な気持ちになりました。

 私の苦悶はそれで終りました。

 さうして辻の同意を得てその翌日家を出て仕舞ひました。


(「申訳丈けに」/『女の世界』1916年6月号・第2巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p379 ※初収録された大杉栄全集刊行会版『伊藤野枝全集』では、前後の安成二郎宛ての手紙部分を除き「『別居』に就いて」と改題して収録されている)
 

 ともかく野枝は世間からどう非難されようとかまわないと腹をくくり、つまり世間に対する虚栄心などきれいさっぱり捨て去り、自分が進むべきところに向かって行く決意をしたのである。



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2016年05月16日

第184回 拳々服膺(けんけんふくよう)






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『中央公論』三月号と四月号に「妾の会つた男」五人の人物評を書いたわけだが、『中央公論』五月号は「伊藤野枝の批評に対して」と題された欄を設け、中村狐月と西村陽吉の反論を掲載した。

 おそらく、狐月と西村が『中央公論』編集部に反論の掲載を要求したのだろう。

 ふたりの反論文は小さな六号活字で組まれているので、そのあたりに編集部が仕方なくスペースを割いたふうな状況も感じ取れる。

 狐月の文章には「伊藤野枝女史を罵る」という喧嘩ごしのタイトルがついているが、その内容は、野枝オタクである狐月らしく、野枝の勇み足を諌めるといった論調で書かれている。

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 中央公論の三月号に書かれた時に、私は貴女(あなた)に直接に、あゝいふものを書くことはつまらないことだと言ひました。

 浅いものならば貴女を待つ必要はないのだから、あゝいふものの代りにもつと価値の有るものを書くやうに為(し)た方がいゝと言つたのでした。

 中央公論の四月号は、創作の批評を為(や)るために読まなくてはならないので、貴女から借りる約束をして、まだ貴女がろくに眼を通さない中(うち)に借りて来て、創作を読む前に貴女の文を読んで見ると、草平氏や泡鳴氏まで書かれてありました。

 ……徒らに口汚い言葉を使つて、言先きで強く書いてあるが、其根底の薄いことです。





 平塚氏と草平氏の彼(か)の事件についても、公平に言つて、半分は平塚氏の方が怜悧であつたと考へて居るであらうし、後の半分の人々は、草平氏の方が却つて怜悧であると考へて居るかもしれません。

 貴女が、単に見たゞけで、直ぐに草平氏を間抜けた己惚れ家としたのは、聡明であると考へて居られる貴女にも似合はないことだと思はれます。

 貴女は草平氏が想像と違つて居たと書かれましたが、如何(どう)して其(そ)う考へられたのですか。

 人傳に聞いて其う思つたのならば、人の言葉を聞く時に善く注意して、其人の如何(どう)いふ人であるかを判断し得なくてはなりません。

 要するに余りに根底がなさ過ぎます。

 貴女としてはもう少し慎重に書かなくてはなりません、考へなくてはなりません。

 人間は決して一と眼見たゞけでは、或は単に少(ちよつ)と考へたゞけで其真の底まで解るものでは有りません。

 泡鳴氏は小胆な正直者でありますと言ふあたりは、僅かのことから直ちにコンクリュウジョンに飛んで居て、十五六の少女(こむすめ)ならば、愛嬌にもなりますが、貴女も若くても既(も)う二人の児のお母さんです。

 餘り悪戯をして嬉しがる如(ごとく)なことを為(し)ないで、充分真面目に深く考へて貴女の価値の有るところを知らしめるように為(し)なくてはなりません。


(中村狐月「伊藤野枝女史を罵る」/『中央公論』1916年5月号_p40~43)





 西村はこう反論している。


 女の浅墓とか女の猿智恵とかいふ言葉がありますが、(日本女性の最も堅実なタイプを代表するあなたに対つてこんなことを言ふのは失礼千万ですが)あれをよんだ時にやつぱり女だな、殊に田舎の女だな、と思ひました。

 あなたに頻繁に会ったのはやはりあの青鞜を私の店でやつてゐた時分ですね。

 その時分あなたは親のきめた結婚とかを嫌つて、田舎から飛出してきたばかりの時で、ほんとに粗野な、厳丈な、田舎田舎した娘さんでした。

 あの平塚さんの円窓の室で会つたときの印象を、私は今でもはつきり覚えて居ります。

 あの時はたぶん紅吉も歌津ちやんもゐたと覚えて居ます。

 みんなが手の話をはじめたので、私はみんなの様々に異つた手を見ながら、非常にそれを面白く思つたのです。

 あなたは肉付のいいガツシリした手を出して、これで畠も耕したとか、二里の所を競泳したとかいふ話をしました。

 あなたの顔の色も手も一番黒かった。

 そして平塚さんの手が一番白くつて小さかつた。





 あなたは私が「石橋を叩いて渡る人」といふ称号を青鞜社の同人から貰つてゐると仰せられましたが、さういふ異数な事業を私が始めたと同時にその事業に蹉跌しまいとする私の注意が、私を特別に臆病にしたと思ひます。

 しかし私は出来るだけ周密にやらうといつも注意してゐました。

「石橋を叩いて渡る人」の称号は謹んで頂戴いたします。

『一しきりは大分、江戸ツ子を気取つてゐましたが、私はまだ氏の江戸ツ子らしい所を見たことがない。』

 野枝さん。

 借問しますが、江戸ツ子らしいといふのはどういふことが江戸ツ子らしいのですか。

『物事に淡白でない、執念深くて、あきらめが悪い』とあなたはその次に言つてゐますが……。

『宵越しの銭は持たねえ』と威張つたのは昔の江戸ツ子の事です。

 ……私は窃かに私の血の中に流れてゐる、あきらめ易い淡白な、執着の薄い、江戸ツ子の、都会人の性情を怖れました、そしてもつと執念ぶかく、もつと野暮にならなければいけないと私は一生懸命に決心しました。

 私はいまでもまだ私の身の中に流れて居る執念の薄い血を怖れてをります。

『云ふ事は洗練された江戸ツ子の皮肉でなくて』とあなたは仰いますが私は軽口を言つて喜んでゐる、類型的な江戸ツ子なんかには忘れてもなりたくないと思つて居ります。





 野枝さん。

『この頃ではまあご苦労様な社会主義者顔! 生活々々と「生活と芸術」で悧巧ぶつて大変な労働でもしてゐるやうな顔がをかしい。』

 とあなたはお書きになりましたが、なるべく口は注意しておききなさい。

『大変な労働』をしなければ社会主義者にはなれないのですか。

 また生活を口にすることができないのですか。

 私が自分自身遊んで労働者階級に属さないといふならばそれは別に申條があります。

『他人の労作をもとでに商売をしてもうけながら、その上に恩を着せたがるこの若い商人が社会主義者面!』とあなたは仰せられますが、野枝さん、私は商人ですから商売で儲ける外に路はありません。

 そしてあなたの御労作になる『婦人解放の悲劇』は千部印刷した本が三年後の今日まだ半数売れ残つて居ります。

 これでは恩に着せる位で澄ましこんではゐられないではありませんか。

 御飯が食べられませんもの、恩を着せなくても、社会主義者面をしなくつてもいいから、もう少しお金を儲けたいものだと常に思つてゐます。





 昔、私は平塚さんのところへ、『本屋は私の仮面だ、私の素志はもつと外の所にある』……とかいふやうなことを書いてあげたことがあります。

 さうしたら本屋が仮面でなく、本当の本屋になることを望みますといふ意味の返事が平塚さんから来ました。

 そして私は商人ですと言ひ切れなかつた私の子供らしさを恥しく思ひました。

 私はなんと言つても平塚さんは豪いと思つてをります。

 社会主義者面をしてお上からニラマレたり、世間から変に警戒されたりするのは商人として損なことです。

 ……まアあなたの言ふ通りこれは『どう考へても』『茶にしてゐる』のでせうかね。





 野枝さん。

 ちよつと訂正して頂くところがあります、私は『金持』ではありません、『金持』だなんてウツカリ言ふと、貧乏人どもが借りに来てうるさいから。

『心に巧をもつてゐる人程落ちつきはらつてゐます。』ーー野枝さん、拳々服膺(けんけんふくよう)してあなたの御評言に沿ふやうにしたいと思ひます。

 それから末筆ながら大阪毎日の『雑音』ですね、誰よりもの熱心をもつて愛読してをります。

 私はあなたに塵ほどの悪意も持つてゐないことを言明いたしますから、何卒御手柔かにお願ひいたします。

 草々。 

 四月七日夜。


(西村陽吉「伊藤野枝に与ふ」/『中央公論』1916年5月号_p43~46)


長嶋亜希子


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第183回 新富座






文●ツルシカズヒコ



 野枝は『中央公論』一九一六年四月号に「妾の会つた男の人人」寄稿し、森田草平西村陽吉、岩野泡鳴について言及している。

 同誌前号に野枝が寄稿した「妾の会つた男の人々」(野依秀一、中村孤月印象録)の続編なのだろう。

 一九一三(大正二)年の二月四日から三月六日まで、新富座鴈治郎の『椀久』の公演があった。

 野枝は哥津と保持と一緒に見に行った。

 野枝と保持は先に新富座に着き、哥津が来るのが待ったが、哥津はなかなか来ない。

 哥津が来たときには満席になっていて、三人の座る席がなくなっていた。

 なんとか出方あつかいで三人は二階の帳場に席を得た。

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 幕間に保持の座っている前にヌーッと立った男が、保持に訊いた。

「酒を飲む所は何処です」

「知りません」

 ひどくぶっきらぼうにそう答えた保持が、ハッとしたように顔を真っ赤にした。

 野枝が廊下に出て行くその男の後ろ姿をぼんやり見ていると、保持が野枝の方を向いて言った。

「ちょっと、あの人、森田さんよ」

「森田さんって誰よ?」

「ほら、草平って人よ、平塚さんのーー」

「へえ、あの人が、まあ」

 野枝はびっくりして廊下の方を見たときには、すでに森田の姿はなかった。

 野枝がびっくりしたのは、想像していた森田と実物の森田があまりに違っていたからだ。

 このときの印象をもとに、野枝は森田について書いた。





 何処から何処までキチンとして、何処をつついてもピンとした手ごたへのありさうに思はれる、しつかりした態度、あの意志を十分に現はした額、深い眼、ーーを持つた平塚さんの対照としては、あまりに意想外でした。

 ボワツとしたしまりのない大きな体軀、しまりのない唇、それ丈けでも、充分に、平塚さんに侮蔑される価値はあります。

 何処から見ても……低能の人にしか見えません。

 何時か生田先生がお話なすつたやうに、芝居気を最初に出したのはあの間抜けた草平氏で己惚(うぬぼれ)にちがひないし、面白がつて、一緒に踊つたのは平塚さんのいたづらつ気と、ものずきで、幕切れのぶざま加減は草平氏の臆病と平塚さんの悧巧にちがひない。

 これは平塚さんよりもずつとお人よしだと云ふことであります。

 同時にまた、いくら好奇でも、あの人の何処が平塚さんを引きつけたのだらうと不思議な気がしました。

「平塚さんは唇の紅い人がすきなのですよ。御覧なさい、草平氏、陽吉氏、博氏、皆鮮かな色をした唇をもつた人達ばかりですよ」

 これはたしか紅吉(?)の口から何時か聞いた言葉だと思ひますが、それにしても草平氏の紅い唇はあのボワツとした顔を一層だらけた、とり処のないものにする丈けのやうな気がします。


(「妾の会つた男の人人」/『中央公論』1916年4月号・第31年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p342~343)





 西村陽吉についてはこう書いた。


「石橋を叩いて渡る人」と云ふ称号を青鞜社の同人から貰つてゐることを御本人は御承知かどうか知りませんが、非常に用心深いことはその物越で直ぐ分りません。

 何時でも平で、何時でも何かもくろんで深く包んでおくと云ふ風に見えますけれどもこの人の聡明は直ぐと他人に感づかれる聡明です。

 併し「若い人には珍らしい」と必ず老人には喜ばれる聡明です。

 利害の念を離れては何もない人と思はれます。

 一しきりは大分、江戸ツ子を気取つてゐましたが私はまだ氏の江戸ツ子らしい処を見たことがない。

 江戸ツ子よばはりして江戸ツ子らしからぬ処は岩野清子氏と同じです。

 物事に淡白でない、執念深くて、あきらめが悪いーー物を云つても煮えきらず、江戸ツ子のやうにデキパキと白い黒いがつかぬ所が第一、最もこれは商人にとつては一番大事な事と思はれますが、一向煮えきらぬことを云ひ/\相手を焦(じ)らすことに妙を得てゐます。

 云ひたいことを皆云つて仕舞ふことが出来ない。

 まつすぐに口がきけない。

 そのあげくに云ふ事は洗練された江戸ツ子の皮肉でなくて、むつとする嫌味です。

 何処をどうさがしても江戸ツ子らしいスツキリしたところがない。

 どうしても商売上手な勘定高くて他の気持にさぐりを入れて話をする上方(かみがた)者です。

 この頃ではまあご苦労様な社会主義者顔!

 生活々々と「生活と芸術」で悧巧ぶつて大変な労働でもしてゐるやうな顔がをかしい。

 他人の労作をもとでに商売をしてもうけながら、その上に恩を着せたがるこの若い商人が社会主義者面!はどう考へてもあんまり他人を茶にしてゐるとしか思へません。

「俺は金持でもこう云ふ風に貧乏人の心持も、それから同情することも知つてゐるぞ、おまけに立派な理窟までちやんと知つてゐる。世間の金持のやうに無智ではないぞ」

 と云ふ意味があるのではないでせうか?

 心に巧をもつてゐる人程落ちつきはらつてゐます。


(妾の会つた男の人人」/『中央公論』1916年4月号・第31年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p343~344)


 西村は一九一二年九月から一九一三年十月まで『青鞜』の発売所を引き受けた東雲堂書店の若主人。

生活と芸術』は一九一三年九月、西村が発行名義人になり土岐哀果の責任編集で東雲堂書店から創刊され、一九一六年六月まで続いた。





 岩野泡鳴は当時、新しい恋人蒲原房枝との恋愛、同棲により岩野清子と別居したことが世間の注目を集めていた。


 赤黒い人テカ/\光る顔、話がおもしろくなつて来ると大きな鼻の穴を一層ひろげて、出来る丈け口を開けて四辺(あたり)の人を呑んでしまうやうな声を出して笑ふ泡鳴氏は小胆な正直者であります。

「そとづらの悪い人」と「うちづらの悪い人」とがあります。

 泡鳴氏は「そとづら」の悪い人の部類に属する人です。

 従つて「うちづら」は誠に神妙な人であるやうに見かけます。

 私たちが折々岩野さんのお宅に伺つて一番心を引かれたことは泡鳴氏が清子さんに対しては如何にもをとなしい、優しい旦那様であつたと云ふことでです。

 泡鳴氏の感化らしいものを清子さんに見出すのはむづかしい事でありましても、清子さんの感化だとすぐ気がつくことが泡鳴氏の方には可なりありました。

 家の中では泡鳴氏よりも清子さんの権力の方が勝を占めてゐるやうでした。

 併し外に向つてはあくまで強情我慢を云ひ出したことはどんな屁理屈であらうとも一歩も後には引かぬと云つたやうな泡鳴氏の半面、さう云ふ点があり得ると云ふことは不思議な事でなくてはなりません。

 泡鳴氏は大変人を後輩あつかひにしたがる人です。

 併し如何なる場合にも清子さんを丁寧に扱ふことだけは決して忘れはなさらなかつた事丈けは事実です。

 この点では清子さんは非常に幸福な人ではなかつたでせうか。

 外に向つて岩野泡鳴氏を推したてると同時に岩野清子氏を推賞しました。

 他人はこれを笑ひました。

 けれども泡鳴氏には毫もこれは笑事ではありませんでした。

 非常に真面目な事なのでありました。

 それでこそ今だに清子さんには、二目(もく)も三目も置いてゐるのです。

 世間へ出ては出来る丈け大きな顔をしてえらがりたい泡鳴氏が清子さんにからおどしをされたり、腕をまくられたりしながらどうする事も出来ないのはそのせいです。

 泡鳴氏はたゞ単純な、えらがり屋であります。

 何時でも具足に身をかためて真向から人を睨(ね)めつけてゐます。

 処が具足をとれば何でもないたゞの人よりは余程よはい木つ葉武者なのです。


(妾の会つた男の人人」/『中央公論』1916年4月号・第31年第4号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p344~345)


★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



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第182回 福岡の女






文●ツルシカズヒコ



『中央公論』一九一六年三月号(第三十一年三号)に、野枝は「妾の会つた男の人々(野依秀一中村狐月印象録)」を書いた。

 野依は当時「秀一」であり、後に「秀市」と改名した。

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 野枝の上野女学校時代の恩師、西原和治が創刊した『地上』第一巻第二号(一九一六年三月二十日)に、野枝は「西原先生と私の学校生活」を寄稿したが、野枝がこの原稿を脱稿したのは二月二十三日だった。

 フリーラブ問題が起きたころに執筆したのである。

 この原稿の中にこんな一文がある。


 創刊号に何か書かして頂く筈になつて居りましたけれども、それは私自身の勝手な都合の為めに遂に先生の御厚意にそむかなければなりませんでした、で此度は思ひ出すまゝに此処に書いて見ようと思ひます。

(堀切利高『野枝さんをさがして』_p24)


『野枝さんをさがして』によれば、『地上』創刊号は一九一六年二月二十五日発行なので、原稿の締め切りは一月末ごろだろう。

 このころ、野枝は『青鞜』二月号(終刊号)の編集をやり、『大阪毎日新聞』では「雑音」の連載を抱え、かつ二歳と生後二ヶ月のふたりの幼児の母でもあった。

 西原の厚意に応えたい気持ちはあっても、『地上』の原稿にまで手が回らなかったのだろう。





『廿世紀』四月号に「福岡県評論」と題する記事が載り、野枝も白河鯉洋(しらかわ・りよう)、頭山満、堺利彦、宮崎湖処子(みやざき・こしょし)などに交じり「福岡の女」を寄稿した。


●福岡県の女は佐賀県や、熊本県の同性のやうに、海外に密航して浅ましい生活するのは少いやうですが、小学校や、女学校を出た後、米国などへ行つて人の妻となり、健全な家庭を作つてゐるのは、少くはないやうです、殊に私の生れた糸島郡などは、此の米国行きの婦人は大変なものです。

●今は其の地にゐるかどうか知りませんが、以前浦塩お徳といつて、洗濯屋か何かをして、ウラジヲストツクで成功した婦人があります、此の人がやはり福岡県の人なのです。

●福岡県といつても豊前、筑前、筑後、皆其の性格が違い、其の区別が著しいやうに思はれます、豊前は上方の気風を受け、筑前は多血質、筑後は粘着質とでもいゝましやうか。

●豊前や筑後は好く存じませんが、筑前殊に福岡は鷹揚な人が多い、久留米などのこせ/\した気性に比ぶれば余程男らしい処があります。博多は芸人の多い処で三味線のうまい魚屋とか、踊のうまい酒屋とかいふのはザラにあります。

●其処で大阪の役者などは博多で芝居をするのは非常に骨が折れるさうで、博多の人は眼が肥えてゐるから、役者のアラはすぐ見破ることが出来るのです、一たいで博多は大阪の感化を受けるのは非常なものですが、人は快活で、潤達で、東京人に類似して大阪人と反対です。


(「福岡の女」/『廿世紀』1916年4月号・第3巻第2号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p347)





 野枝は『一大帝国』一九一六年四月一日号には「英雄と婦人」を書いた。


 日常の些細なことにも婦人の行為に対する不満は数かぎりなくありますが、殊に従来英雄偉人と云はれる人と生活を頒つた婦人に対しては更に深い不満を私は持ちます。

 これは婦人の物を考へる力が非常に外面的であつて其の上に綿密でないからだと思ひます。


(「英雄と婦人」/『一大帝国』1916年4月1日・第1巻第2号/堀切利高『野枝さんをさがして』_p46)


 筆者名は「青鞜社 伊藤野枝」と記されている。

『青鞜』はすでに終刊しているのに、肩書きに「青鞜社」とあるのはなぜか?

『青鞜』は一九一六(大正五)年二月号(第六巻第二号)で終刊したが、終刊宣言をしたわけではなく、いわゆる野垂れ死に終わったので、青鞜社の終焉がまだ衆知されていなかったからではないかと、「英雄と婦人」の解題は憶測している。

『一大帝国』は一大帝国社発行、その発行兼編輯人兼印刷人は橋本徹馬



★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



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第181回 厚顔無恥






文●ツルシカズヒコ



 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉、神近、野枝の三人が会ったのは二月中旬ころだった。

 大杉の書いた「お化を見た話」によれば、大杉は神近から絶縁状を受け取った。

「もし本当に私を思っていてくれるのなら、今後もうお互いに顔を合わせないようにしてくれ。では、永遠にさよなら」というような、内容だった。

 大杉はすぐに逗子から上京し、神近の家を訪れた。

 彼女は大杉の顔を見るや、泣いてただ「帰れ、帰れ」と叫ぶのみで、大杉は話のしようもなかった。

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 大杉はすぐ神近が懇意にしている宮嶋資夫、麗子(うらこ)夫妻の家に行った。

 前夜、神近が来て酔っぱらい、あばれ、大杉のことを「だました! だました!」と罵ったという。

 そこへ、しばらくして、神近がやって来た。

 大杉が会ったときとは別人のように落ち着いた様子の彼女が、大杉に勝利者のような態度で言った。

「私、あなたを殺すことに決心しましたから」

 大杉は神近に敵意が湧いて来るのを感じたが、受け流した。

「せめてひと息で死ぬように殺してくれ」

「その時になって卑怯なまねをしないようにね」

 そんな言葉を交わしているうちに、ふたりの顔には微笑がもれ、仲直りをした。

 宮嶋資夫「予の観たる大杉事件の真相」(『新社会』一九一七年一月号・第三巻第五号/『宮嶋資夫著作集 第六巻』)によれば、大杉が宮嶋の家に来た日、大杉は宮嶋の家に泊まった。

 翌朝、神近が宮嶋の家を訪れ、大杉と顔を合わせた彼女は大杉に怒りをぶつけたが、言葉を交わしているうちにふたりの仲は融和された。





 宮嶋の家で朝食をすませた大杉と神近は、ふたりでどこかへ出かけるという。

 宮嶋は電車の駅までふたりを見送りに行った。

 大杉、神近、宮嶋が駅で電車を待っていると、向こう側の電車が止まり、野枝が電車から降りて来た。

 大杉、神近、野枝の三人が話し合いをするために、一行は再び宮嶋の家に行った。

 そこで大杉が持ち出したのが「自由恋愛の三条件」だった。

 神近も野枝もそれに納得したわけではなかったが、異議は唱えなかった。

 神近は大杉との恋愛が戻ることへの計算が働き、野枝は逆に大杉との距離を保つ方途としての計算が働いたようだ。

 野枝は「数日前に日比谷で接吻をした事はほんの出来心だつたからと云ふので、大杉君に断つて貰ひたいと思つて」宮嶋の家を訪れたという。





 そのころの大杉について、堀保子はこう書いている。


 ……二月の初めになつた頃、或日大杉は私に向つて斯んな事を言ひだしました。

『僕はマダ/\ひどい事をしてゐる。何れ問題になつて三月か四月の新聞や雑誌に書かれるかも知れない』といふのです。

 すると二三日経つて、大杉に宛てゝ無名の郵便が来ました。

 大杉は其を読了つてから『今から一寸東京へやつて頂けますまいか、明日は必らず午前中に帰る……』と紙切に書いて……出かけました。

(今考へると……神近が大杉と野枝の関係を知つて、刺すとか撃つとかいつて騒いでゐた時です。そして無名の手紙は神近のだつたと私は思ひます。)


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p9~10)





 大杉は翌日帰宅したが、保子は大杉の尾行巡査から、大杉が前日辻の家、つまり野枝のところに行ったと聞き、彼女の胸は急に躍った。

 保子はなぜ辻の家を訪ねたのかと大杉に問いただした。


 ……大杉は初め曖昧な返事をして居ましたが、私がすぐそれに続いて、『先日あなたはまだ/\酷い事があると云つたが、それぢや今度は野枝ですね』追究(ママ)したので、大杉も初めて野枝との関係を白状しました。

 私は神近の時の驚きよりも幾層倍の強き驚きを感じましたが、驚きが過ぎて只呆れたと云つた方がもつと適切かも知れません。

『野枝さんは良人のある女です。二人の子さへある人の妻です。未婚の伊藤野枝でなく既婚の辻野枝です。あなたは姦通をしてゐるのです。法律の罪は別としてあなたは自分の心に恥ぢないか』と、私は頭から捲(まく)し立てゝやりました。

 すると、神近の時には涙を流して罪を謝した大杉が、今度はどうでせう、少しも恥ぢた色がないのみならず、『ウム急転直下自分で自分の心が判らぬ』といつたきり、例の癖の楽書に『厚顔無恥』『厚顔無恥』と続けさまに書いたりして、サモ平気でゐるのでした。


(堀保子「大杉と別れるまで」/『中央公論』1917年3月号_p10~11)





 保子はとりあえず大杉と別居することにして、三月三日、四谷区南伊賀町四十二の借家に転居した。

 山田嘉吉・わか夫妻の東隣り、茅ケ崎に転居したらいてうが二月まで住んでいた家である。

 らいてうがこの家から茅ケ崎に引っ越したのは、二月十一日だった。

 前年九月に奥村が肺結核を発病し、南湖院に入院中だったので、奥村のそばで生活するための移転だった。

 この年(一九一六年)の夏が終わるころ、奥村の自宅療養の許可が出たので奥村は南湖院を退院、らいてう一家は茅ケ崎の「人参湯」という湯屋の廊下続きの離れ座敷を借りて住むことになる。

 三月五日、弁護士の山崎今朝弥の家で関係者が大杉と保子の離婚協議をした。

 大杉が別居だけを望んだこともあり、保子もそれを承認した。

 大杉が麹町区三番町六十四(現・千代田区九段北四・二・一)の下宿、第一福四萬館に転居したのは、三月九日だった。

 第一福四萬館には大杉の友人、福富菁児(ふくとみ・せいじ)が下宿していたことがあり、大杉はその存在を知っていたのである。

 しばらくは保子がやって来て、衣類や洗濯物など身の回りの世話をした。

 大杉はほとんど収入の道がなくなり、窮乏を極めていた。

 ときどき来る神近に借金をしていたが、下宿代も払えなくなった。



★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)


★『宮嶋資夫著作集 第六巻』



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:22| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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