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2016年05月20日

第200回 福岡日日新聞






文●ツルシカズヒコ




 一九一六(大正五)年五月二十日、野枝は『福岡日日新聞』に掲載された「この頃の妾」を脱稿した。

 叔父・代準介に宛てた手紙形式の原稿である。

『定本 伊藤野枝全集 第二巻』「この頃の妾」解題によれば、『福岡日日新聞』のはしがきには、こうある。

「新しい女として知られた雑誌『青鞜』伊藤野枝は五年間の結婚生活を弊履の如く棄て其夫辻潤と二人の子を棄てゝいよ/\新しい女に成り澄ましました。

 斯して彼は何が故に大杉栄の許に走つたか左の一文は其行為に関する内的経過を彼の伯父(※叔父の誤記)なる人に彼女自身書き送つた消息である」。

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 お手紙を拝見しますと直に返事を書きたいと思ひながら今日まで失礼いたしました。

 此度の事件の内容は毎日新聞に書きますのに可なり委(くわ)しく書きますが、叔父様には……今迄そのことについて、一口も云つたことはありませんが今夜は少し長く書いて見たいと云ふ気がいたしますから一と通り書きます。

 今更ながら叔父様の寛大なお心に向つては何と云つてよいか分りません。


(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p385)





 野枝はまず、辻との離婚を考え始めたのは今日この頃ではなく、一年以上前からだったと書き始めた。

 辻には天分があり、今日の自分があるのは彼の助力があったからであり、感謝していたからこそ、野枝はいろいろな苦労を忍べたのだった。

 別れた今となっても、天分を発揮して偉くなることを望んでいると辻への心情を述べた。

 世間も上野高女もそう見なかったが、辻とは家出をするまで肉体関係はなかったこと。

 辻の望みは野枝の天分を伸ばすことにあり、野枝自身もそのつもりだったこと。

 義侠心により辻が失職し、野枝が責任を感じたこと。

 そして生活の窮乏に直面したことなど、順を追って書き進めた。


 ……私が青鞜を引き受けて多少の名を出すやうになりますまでの三年間と云ふものは、それは、お話するさへはづかしいやうな、境遇に居りました。

 母を他所にあづけて、私達二人、丁度一(まこと)坊がおなかにゐます頃、芝の或る家の二階を借りて居りました時分など、私が青鞜の編輯をしてとる、十円ばかりの金の他には何の収入もなくなつて僅かな書物まで売りつくして四ケ月と云ふもの、パンで生活したやうな、みぢめなことさえありました。

 けれども、私たちはそれでも決して失望するやうなことはなくて、一生懸命に勉強し励まし合ひました。


(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p386)





 そのうち野枝は徐々に名が知られるようになったが、引っ込みがちの辻にはなかなかその機会がめぐって来なかった。

 世間は野枝を褒める一方で辻を蔑視するようになり、野枝は意気地なしの夫に仕えているという風評が立ち、それは野枝にとっても屈辱であった。

 野枝は夫が失職した原因が自分にあると責任を感じていたし、嫁が働き息子に収入がないという状況は姑にも嫁によけいな気を使わせていた。

 義母は息子に働くことをすすめたが、野枝は辻に不本意な仕事でわずかな金を稼ぐことより、自分をしっかり保ち世に名を出してもらいたかった。

 しかし、辻は野枝のそういう願いを冷たい顔で受けるようになった。

「俺はどうせ駄目なのだ」と言っては、自分の才能を隠し強いて下らない人間のように振る舞うようになった。

 辻の才能が世間に認められさえすれば、野枝の侮辱は雪(そそ)がれるはずだった。

 野枝は辻が嘲笑され軽侮される屈辱に耐え、辻をかばい続けたが、辻は野枝が望むような方向から外れていくばかりだった。

 そのうち家の全生活を野枝が背負わざるを得ないようになった。

 一方で野枝も自分のことも考えねばならない大切な時期でもあった。





 私にとつては今、一番大切な時なので御座います。

 今、お調子にのつてうか/\してゐれば、私はそれでもうお仕舞なのです。

『少し何か出来ると思つたけれどあれつきりなのか』と、見捨てられなければならないのです。

 それを考へますと、私はどうしても三十くらいまではまだ/\人一倍の勉強をしなければならないのです。

 殊に、学校を出たまゝの私には、何の智識もないのです。

 組織的な勉強などは何にもしないのですから、本当に心細いのです。

 私は本当に、何故、こんなにはやく結婚生活にはいつたかと後悔ばかりしました。


(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p387)





 子供ができてから、義母は野枝にいい母であること、いい主婦であることを望んだ。

 子供は可愛かったが、自分を捨てることもできなかった。

 そのうち家事も仕事も中途半端にしかできなくなった。

 野枝は家族のために犠牲にならなければならない状況に追いこまれた。


 私がいまのまゝでゐては、とても、もう働くことも出来なくなつて仕舞ふことは解りきつてゐます。

 何故なら、あの女はもう駄目だ、いゝものは書けないと云ふことになりまりますから。

 本当に考へなければならなかつたのです。

 けれども私は子供の愛や良人の愛に引かされて一刻でもこのことを考へることを避けやうとしてゐました。

 けれども叔父様も既に御承知と存じますが彼の女と、辻の間に妙なことがありましたときは私はすべてをすつかりあきらめて、此度を機会にして一人で生活したいと思ひました。


(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p388)





 野枝が別居の話を辻にすると、辻はどうしてもそれを許そうとはしなかった。

 野枝が流二を妊娠中でもあり、話はそのまま進展しなかったが、以後、野枝と辻のふたりの生活は少しも潤いのあるものではなくなった。

 野枝は二月に大阪に向かったと書いている。

 代準介のところに金策に行ったようだが、このとき野枝は代に辻との別居のことを切り出すことができなかった。


 けれども、私が、大阪で八十円の金をこしらへるのにどの位つらい思ひをしたかと云ふこと、それからまた、あの叔父様に、あんな苦しいお金まで拝借したことを、話しませうと、大急ぎで帰りましたら、叔父様、まあ何と云ふことでせう、辻は私がたちました夜、お友達を誘つてお酒をのんだり、それから私と一緒になつてからは遂に行つたこともない吉原などへ行きましたさうです。

(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p388)





 野枝はそれを咎めはしなかったが、野枝の友達は野枝に泣いて別れるように忠告した。

「あなたのようなお人好しはない、あなたは馬鹿だ」と言って怒った。

 このまま家庭生活を続ければ、自分の持つている天分を殺してしまわねばならないと思った野枝は、家を出る決心をしかけた。


 丁度そのとき、私は大杉栄、と云ふ人ーー一二度位は叔父様にお話したことがあるやうにも思ひますが現在の日本で社会主義者の第一人者です、ーーに会ひました。

 ずつと前からよく知つて始終遊びに来てゐましたが、そのとき丁度会ひました。

 その人には前から尊敬をもつてゐますし、向ふでも、私を大変に認めてくれましたのでいろ/\なことを話し合つてゐました。


(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p389)




 野枝と大杉はお互いの家庭のことも話題にした。

 大杉は近いうちに妻と別居することになるだろうと言った。

 そして、妻が自分の仕事に理解のないことなど不満を並べた。

 野枝も自分の家庭のことを少し話した。


 さうして勉強したいと云ふことも云ひました。

 氏は私のこの頃の生活に不安をもつて見てゐること等も話してくれました。

 そうして、私はどうしても大杉氏に引きよせられてゆくことを感じ出しました。

 これからはこの人を頼つて勉強するよりいゝことはないとおもひました。

 大杉氏が、私の将来にかけてゐる望みと、私が大杉氏の事業に向つて持つてゐる渇仰(かつぎょう)と同情が当然今のやうな関係にならなければならないと云ふことは、大杉さん及び私を知つてゐる人達は早くから云つてゐたことださうです。

 私丈けはそれに気がつかずにゐました。


(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p389)





 野枝は大杉とそういう妙な関係になった時点で、辻とは別れる決心がついたが、大杉との関係ができたから辻と手を切ったという世間の誤解を避けるために、一旦、大杉との関係を絶ち、まずは辻との別居を決行しようとした。

 野枝は大杉に対する自分の感情を辻に話し、さらに野枝、辻、大杉の三人で話したこともあった。

 大杉は野枝が自分の思想や事業のパートナーになってくれることを長い間望んでいたとも言った。

 野枝は苦しんだ。

 大杉との関係にはひとまず距離を置き、自分の感情を冷静に判断する時間を持ちたいと考えていたからだ。

 大杉も野枝が苦しんでいるのを見て、野枝への愛を諦めようとして苦しんでいた。

 野枝は大杉のその苦しむ顔を見て、ついに大杉の愛を断ることができなくなったという。





 さうして私はこれから、大杉氏の伴侶として、勉強することを決心しました。

 さうして、私はそれを直(すぐ)に辻に話して、直ぐにその次の日に家を出ましたのです。

 私の思つたとほりに世間ではいろ/\なことを云ひ出しました。

 誰れ一人として本当のことを云つてゐる人はありません。

 大杉氏は卅二(さんじゅうに)、外国語学校仏語科出身、夫人は四十堀保子と云ふ方です。

 もう一人の女の人は津田英学塾出身神近市子、この間まで東京日々の記者をしてゐました、私が大杉氏に就いて持つ心持は単なる愛と云ふものよりはもう少し違つた指導者と云ふやうなことを考へさせられて居ります。

 私は勿論もう、結婚生活と云ふものゝ中にはいることは出来まいとおもつて居ります。

 これから本当に一生懸命に勉強をしたいとおもひます。


(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p390)






 子供については、どこか預けられるところを探していると野枝は書いた。


 ……こちらで駄目のやうだつたら九州にに連れてゆかうとおもつてゐます。

 叔父様にはぜひお目に懸りたいとおもひます。

 近いうちに、大阪の方へもゆくことにいたします。

 何しろ、子供の事がどうにかならないうちは誠に困りますので一寸(ちょっと)動けません。

 叔母上様にもよろしく、早岐(はいき)の皆さまおさはり(※ママ)は御座いませんか嘉代子様さぞお可愛ゆくおなりのことゝと存じます。

(五月二十日夜記す)


(「この頃の妾」/『福岡日日新聞』1916年6月4日・6月6日・6月9日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p390)


 嘉代子(一九一四年生)は代千代子の長女である。



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 20:07| 本文

第199回 私達の関係






文●ツルシカズヒコ




 一九一六(大正五)年五月九日。

 麹町区三番町の下宿、第一福四万館で夕飯をすませた大杉に、堀保子からすぐ来てくれという電話がかかってきた。

 大杉が四谷区南伊賀町の保子の家に行くと、何か用事があるわけではなかった。

 保子は涙ぐんでいた。

 大杉は野枝の生い立ち、気風、嗜好などいろいろ保子に語った。

 保子に野枝に対する親しみを持たせたかったからだ。

 大杉はすぐ帰るつもりだったが、泊まった。

 翌朝起きてからも、ふたりはしんみりといろいろ話した。

 大杉は保子について野枝にこんなふうなことを書いている。

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 保子は無学な女だ。

 しかし、生じつか学問のある女よりは、余程よく物の分る女だ。

 しかし、保子の今の地位は、僕やあなたや神近の事に就いてとなると、保子をして殆ど一切の事に盲目ならしめてゐる。

 あれ程しつかりした女が、只だ自分のゐる地位のために、こんなにまで眩まされようとは、一寸思ひがけなかつた。

 あなたが保子と会つて十分話しして見たいと云ふのは、あなたの心持に於ては、甚だ結構な事だ。

 けれども僕にはまだ、其の結果が恐い。


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月九日夕/『大杉栄全集 第四巻』_p614~616)





 五月十日、昼すぎに保子の家を出た大杉は、馬場孤蝶のところに寄り、夜の十一時までおしゃべりをした。

 深夜、下宿に帰ると野枝からの二通の手紙が来ていた。

 二通とも六銭ずつの料金不足だった。

 神近からの手紙も来ていた。

 神近は五月いっぱいで東京日日新聞社を退社するという。





 五月中旬、大杉は再び野枝に会うために御宿に行き、五月二十七日まで滞在した。

 大杉が上野屋旅館に来たとき、野枝は安成から依頼された原稿を執筆中だった。

『女の世界』六月号に掲載された「申訳丈けに」である。

 大杉との関係について「申訳丈けに」の末尾で、野枝はこう書いている。





 大杉さんとの愛の生活が始まりました日から、私の前に持つてゐた心持がだん/\に変つて来るのが、はつきり分りました。

 前に云ひましたような傲慢な心持で、保子さんなり、神近さんのことを考へてゐました私は二人の方のことを少しも頭におかずに大杉さんと対していることに平気でした。

 さうして私がその自分の気持に不審の眼を向けましたときに、また更に違つた気持を見出しました。

「独占」と云ふ事は私にはもう何の魅力も持たないやうになりました。

 吸収する丈けのものを吸収し、与えるものを与へてそれで、お互ひの生活を豊富にすることがすべてだとおもひましたときに、私は始めて私達の関係がはつきりしました。

 例へ大杉さんに幾人の愛人が同時にあらうとも、私は私丈けの物を与へて、欲しい丈けのものをとり得て、それで自分の生活が拡がつてゆけば、それでずん/\進んでゆければ私にはそれで満足して自分の行く可き道にいそしんでゐられるのだと思ひます。


(「申訳丈けに」/『女の世界』1916年6月号・第2巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p380/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p111~112 ※「申訳丈けに」は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』では、冒頭と末尾の安成二郎宛ての手紙分の部分をカットし「『別居』に就いて」と改題し収録されている)



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 19:54| 本文

第198回 金盞花 (きんせんか)







文●ツルシカズヒコ



 五月八日、野枝は午前中に十枚ほど原稿を書いた。

 午後は流二のお守りをして過ごした。

 前日の嵐がひどかったので、別荘の掃除が大変だと言って、婆やが午後から暇をもらったからである。

 この日の御宿の夕方は風がなく、野枝が御宿に来て初めての静かな夕方だった。

 妙に憂鬱になった野枝は支店のおかみさんを呼んで、女中たちと一緒にお酒を飲んで騒いでみたけれど、少しも酔えず、気がめいるばかりだった。

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 今もう一時近くですが……あなたの事ばかりが思はれて仕方がないのです。

 今頃はいい気持に眠つてゐらつしやるでせうね。

 私がかうやつてあなたの事を思つてゐるのも知らないで、憎くらしい人!(八日夜)


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p361/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)





 五月九日、この日の御宿は野枝と大杉が勝浦へ行った日(五月五日の可能性が高い)のような、いいお天気だった。

 野枝は午前中、大杉宛ての手紙を書いた。


 私達のことが福岡日日新聞へも九州日報へも出たさうですよ。

 板場の話しではにも出たさうです。

 大ぶ騒がれますね。

 何んだか、何を聞いてももう痛くも痒くもありませんね。

 隅から隅まで知れた方がよござんすね、面白くつて。

 辻と二人の間こそ少しは自由でもあり、可なり意識的に考へる事も出来ましたけれど、其他の私の五年間の生活は……本当にいやになつて仕舞ひます。

 自覚どころの騒ぎではなかつたんです。

 まあ本当にどうしてあれでいい気になつてゐたかと思ふのです。

 あなたは私のさうした暗愚を見せつけられながら、どうして嫌やにおなりにならなかつたのでせう。

 私はそれが不思議で仕方がありません。

 本当に私はあなたによつて救ひ出されたのです。

 そして、まだこれからだつて一枚々々皮をはいで頂かなくてはなりません。

 これからは真直ぐに歩けさうな気がします。


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p361~362/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)


『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、『九州日報』(五月一日)には「伊藤野枝の家出ーー新しい恋人の許へ」という記事が掲載された。





 手紙を書き終えた野枝は、浜に出てみた。

 浜には人が大勢出ていて、一昨日(五月七日)の嵐で浜に打ち上げられたカジメなどを、みんなで獲っていた。


 皆な裸で海の中に飛び込んであげているのですよ。

 女も男も夢中になつて。

 それから帰つて、あんまりいいお天気ですから、ひとりで夕影の松の所に行つて見ました。

 そして、帰りに下のお寺金盞花(きんせんか)が綺麗に咲いてゐましたので、それを買つて来てさしてゐましたら、安成さんがゐらしたのです。


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p364/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)





 安成はこの日(五月九日)、両国橋駅発午前八時の汽車に乗り、御宿駅に着いたのは十一時二十分だった(安成二郎「御宿行」/『女の世界』1916年6月号/堀切利高『野枝さんをさがして』_p54)。

 上野屋旅館に着いた安成は女中に名刺を渡し、野枝に取り次いでくれるように言った。

 安成の名刺を見た野枝は当惑した。

 野枝は当初、取材に応じることも原稿を書くことも断るつもりだったが、安成の原稿依頼に応じた。

 野枝は「申訳丈けに」の冒頭で、原稿依頼に応じた理由を安成へ宛てた手紙文の形式でこう書いている。


 ……それでもあんな、いやな汽車に四時間も揺られながら、わざ/\お出になつたと云ふこと丈(だ)けでも、何だか、お断はりすることが、大変むづかしいやうに思はれました。

 さうして少しお話をしてゐます間(うち)に、『仕事で来た』とお断りになつた程、あなたは記者商売の人達のもつ熱心さと執拗さを少しもお見せにならないで、どうでもよくはない癖に、どうでもいゝやうな顔をしてすまして、お出になるのが、単純な意地つ張りの私には、大変うれしかつたのです。

 それでとう/\書くことを承知致しました。


(「申訳丈けに」/『女の世界』1916年6月号・第2巻第7号/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p373/安成二郎『無政府地獄 - 大杉栄襍記』_p102 ※「申訳丈けに」は『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』では、冒頭と末尾の安成二郎宛ての手紙分の部分をカットし「『別居』に就いて」と改題し収録されている)





 安成は三時の汽車で帰った。

 安成が帰ってから、野枝はこの日二通目の大杉宛ての手紙を書いた。


 今、安成(二郎)さんがお帰りになつたところです。

 あなたのけんかの話を伺いました。

 どうしてそんな乱暴なことを事をなさつたの。

 堺さんまでひどい目にお合はせになつたのですつてね。

 虫の居所でも悪かつたのですか。

 野依さんは何を云つたのですか。

 何だか気になりますわ。

 私の名も出たんですつてね。

 何んだかお目にかかつてお聞きしたいやうな事が沢山ありますわ。


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p363/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)





 安成に会ったことにより、野枝の堀保子に対する考え方に変化が生じた。


 ……保子さんのことを昨日の手紙に書きましたが、あれは取消しませう。

 今日、安成さんから少しばかりお話を伺ひました。

 私の想像してゐる方とは大ぶ違うやうですから。

 もしさうでしたら、会ふだけ無駄だと思ひますから。

 本当に平凡な理窟ですけれど、神近さんと云ひ保子さんと云ひ私と云ひ、ただあなたを通じての交渉ですから、あなたに向つての各自の要求がお互いにぶつかりさへしなければ(何だか他に云ひ方があるやうな気がしますが)皆なインデイフアレントでゐられる筈だと思ひます。

 けれども、私はまだ恐れています。

 今、私があなたの愛を一番多く持つてゐると云ふ事に、自分の安心があるのではないかと云ふ事を。

 絶えずさう思つて注意してゐますけれど、今のところでは、別にそんな感情を少しも混つてゐないやうですけれど、その反省だけは怠らずに続けてゐます。

 あの松の木の下ではもつと/\種々(いろいろ)な事を沢山考へてゐたのですけれど、思ひ出せなくなりました。

 また思ひ出した時に書きませう。

 さびしいからお手紙だけは書いて下さいね、毎日。

 お願ひします。

 では左様なら。


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p363~365/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)

★『大杉栄全集別冊 伊藤野枝全集』(大杉栄全集刊行会・1925年12月8日)

★堀切利高編著『野枝さんをさがして 定本 伊藤野枝全集 補遺・資料・解説』(學藝書林・2013年5月29日)




●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 16:17| 本文

第197回 カンシヤク玉






文●ツルシカズヒコ


 五月八日の夕方、読売新聞社を訪れた大杉だったが、荒川義英も同社に来ていたので、大杉、土岐、安成、荒川の四人は一緒に社を出た。

 すると一行は道で荒畑寒村に遭遇した。

 ともかくみんなでカフェ・ヴィアナに入った。

 いろんな話のついでに、野依秀一の話になり、彼を呼ぼうということになった。

 当時の野依は二年前に起こした愛国生命保険恐喝事件の保釈(仮出獄)中の身だったが、不謹慎活動により禁固4年の実刑が確定し豊多摩刑務所に入る直前だった。

 大杉と野依は一年ほど前から絶交状態だった。

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 野依が仮出獄で出獄し、更に新しい事件が始まった時、荒畑や僕などと交際してゐては、裁判官の心証を悪くするからと云ふので、僕等二人に自分の社への出入をことわつて来た。

 其時の向うの出かたが少々シヤクにさはつたので、その後、堺(利彦)を介して二度ばかり和解を申込んでも来たが、こちらでは不承知でゐた。


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月九日夕/『大杉栄全集 第四巻』_p611)


 野依が入獄するまで十日ほどしかなかったので、大杉は野依と直接会って話をつけようと思ったのである。

 安成が野依に電話すると、野依は木挽町の待合・野澤家を指定してきたので、土岐を除いてみんなでそこに行った。

 野澤家では松本悟郎、堺利彦も加わり会食、懇談した。

 この席で大杉が荒れた。





 だが、とうたうしまひに、僕のカンシヤク玉を破裂さす言葉が、野依の口から出た。

 あいつ、人を侮辱する事を平気でやれる人間なのだ。

 殴つて、蹴つて、うんと罵倒して、それで謝らして漸く少々の腹いせが出来た。

 皆んなはアツケラカンとして、只だ黙つて見てゐた。

 所が、再び叉、僕のカンシヤク玉を破裂さす事にぶつかつた。

 それは例の堺(堺氏をそこへ呼んだのだ)の冷笑だ。

 いきなりコツプを額にぶつけた。

 向うでも徳利をほうつた。

 皿が飛ぶ、ぼんが飛ぶ。

 遂に二人は起ちあがつたが、其の間に座つてゐた二三人に抱きとめられて了つた。

 芸者共も女中共も、ビツクリして逃げ出した。

 堺はすぐ帰つた。

 堺と僕とのイキサツは、『生の闘争』の中にある「正気の狂人」以来の、叉いつもあの意味の事なのだ。

 いつかも、矢張り同じやうな事で、平民講演で口論した。

 それが遂に、此処までに進んで来たのだ。


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月九日夕/『大杉栄全集 第四巻』_p611~612)






 夜も更け、午前一時近かった。

 他の皆は帰ったが、大杉と野依は野澤家に泊まった。

 大杉にとって、待合に上がるのはこれが初体験であった。

 野依秀市『人物は踊る』によれば、大杉と野依が喧嘩になったのは、野枝のことが原因だった。





 ……野枝が或る日私の社に訪ねて来て、原稿を買つてくれないかと云ふ話なのである。

 ……まあ考へておきませうが多分駄目でせうと云ひ、そのついでに大杉といゝ仲になつてゐるので多少ひやかしの気分も交へて……何か多少話した。

 その話の中に野枝にとつて面白く思はれないことがあつたと見え、それを大杉に野枝が話したものと思はれる。

 そこで大杉が自分のイロ女をひやかされたといふやうなことで含むところがあつたので……そこで原稿一枚一圓五拾銭位としても七八十圓になるやうな計算になるので、そこで大杉が、君は野枝が行つた時にからかつておき乍ら大事な原稿は買はないぢやないか、だから七八十圓出せというやうな言ひ掛りを言つて、私がそれを拒絶したので腕をふり上げたといふことになつたのである。

 つまり大杉としてはイロ女に対して、色男の強さをわれ/\の前で見せつけたかつたのであらう。


(野依秀市『人物は踊る』_p)


『人物は踊る』によれば、野沢家に泊まったのは大杉、荒畑、野依の三人で、大杉と野依は握手をしてその夜のことは水に流したという。



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★野依秀市『人物は踊る』(秀文閣書房・1937年1月)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 14:24| 本文

第196回 豆えん筆






文●ツルシカズヒコ



 大杉栄、堀保子、神近市子、伊藤野枝ーー当事者たちに会って、今回の騒動の真相を知りたいと考えたジャーナリストがいた。

『女の世界』編集長の安成二郎である。

 安成の視点は新聞記事から一歩踏み込んだ、雑誌ジャーナリズムの視点だった。

 安成は大杉が保子という正妻がありながら、神近という愛人を持ったことにはジャーナリストとしての関心はほとんどなかったが、野枝の出現にもかかわらず大杉と神近との関係が途絶えていないあたりに、なにかこの事件の「核心」を嗅ぎつけたのだった。

 そして、辻潤の妻であり二児の母である野枝が、夫と子供を捨てて正妻がいてかつ愛人もいる大杉の許に走ったという事実。


 ……其の家出はノラの家出よりも或る点に於て重大な意味の存在する事を思はざるを得なかった。

 此の考が僕の職業に対する考と結びついたのである。


(「大杉栄君の恋愛事件/『女の世界』1916年6月号/安成二郎『無政府地獄ーー大杉栄襍記』_p58)

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 一九一六(大正五)年五月七日、安成は久しく会っていなかった大杉に電話をかけた。

 この日は平民講演会があるというので、安成も行ってみることにした。

 夜七時から牛込区横寺町の芸術倶楽部の洋貸室で平民講演会が催されたが、大杉の準備不足のために雑談になった。

 大杉の準備不足は、御宿に行き野枝と会っていたからだった。

 大杉に会いに来た安成は、保子に対する大杉の気持ちを『女の世界』に書いてほしいと用件を伝えたが、大杉は断った。

 それはともかく、会場に神近が来ていることに安成は驚いた。

 会は夜十時に閉会になった。

 安成は大杉、神近と大杉が下宿している麹町区三番町の第一福四萬館に行き、ふたりから話を聞いた。





 翌五月八日、安成は東京日日新聞社を訪れ、神近から二時間ばかり詳しい話を聞いた。

 五月八日正午ごろ、中村狐月が大杉を訪ねた。

 大杉と狐月の間にひと悶着起きていたからである。

 五月五日、五月六日の『読売新聞』「読売文壇」欄に、中村狐月が「幻影を失つた時」を書き、個人名は出していないが、糟糠の妻を捨てた大杉と妻に愛着のある夫を捨てた野枝を真っ向から非難した。


 ……一人の男が、他の一人の男と共同生活を為(し)ている女を伴(つ)れて行く場合に、其女と男との同意を得なくして伴れて行く時には、全然掠奪者の行為である。

 同じ如(やう)に女が愛着の有る男と生活して居る場合に、他の女が其男を伴れて行くことも惨忍である。

 其れにもかゝはらず新しく恋の成り立つように見える男と女が、其等の愛着して居る人間に、苦悶と悲痛とを負はしめて去るならば、明かに其等の人間は、道徳的でも、共生的でも、人情的でもなく、多数の人間の許す可らざる敵である。


(中村狐月「幻影を失つた時」/1916年5月6日『読売新聞』「読売文壇」)


 大杉が野枝に宛てた「大正五年五月六日午後九時の手紙」の末尾に書いてある「狐月は『幻影を失つた』のだね。余計な幻影などをつくつたから悪いのだ。あきれ返つた馬鹿な奴だ」というのは、この一件のことである。





 大杉はこの一件について野枝宛て書簡にこう書いている。


 狐月と強制妥協して、次ぎの如きハガキを読売へ送るつもりで書いた。

 ●中村狐月氏、去る五、六日、本紙所載『幻影を失った時』中の、某氏及び某女子にあてつけた項は、全く感違ひにつき、其の全部を取消すと。

 しかしまだ読売抄の締切前らしいので、土岐(善麿)へ其の旨電話したら、自分の領分の社会部で取扱はうと云ふ返事だ。

 いたづら者だね。

 又今、二郎が来て、とうたう書くことにした。

 あしたの朝八時の汽車で行くさうだから、此の手紙は持つて行つて貰ふことにした。


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月八日午後二時/『大杉栄全集 第四巻』_p609~610)


 この日、五月八日の夕方、大杉は安成と一緒に読売新聞社に行き、土岐の取材に応じてこの件は落着した。


 五月九日の読売新聞社会面(五面)「豆えん筆」欄に、こんなゴシップ記事が掲載されている。


 ……大杉栄君、『幻影を失った時』を読んで大いに抗議を申込み遂にあの文章の中『大杉伊藤両者にアテつけた項だけは全く感違ひに付全部を取消す』といふことにさせたといふが……

 その恋の勝利者大杉栄君もしかし保子夫人に対しては何やら気がすまぬところもあると見えて、安成二郎君が五月の『世界人』に載せた『妻よ、物も言はずにそんなに俺の顔を睨(にら)めて呉れるな、恐い』というウタにひどく共鳴してゐるさうな。


(1916年5月9日『読売新聞』「豆えん筆」)


 狐月は不満があったようで、「豆えん筆」は五月十日には狐月の話を入れて続報している。




★安成二郎『無政府地獄- 大杉栄襍記』(新泉社・1973年10月1日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)



 
●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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2016年05月19日

第195回 青鉛筆






文●ツルシカズヒコ



 大杉からの五月六日の手紙に、野枝はこう返信した。


 停車場を出ると、前の支店でしばらく休んで、それから宿に帰へりました。

 帰つてからも室(へや)にゆくのが何んだかいやなので、帳場で話をして、それから室にはいると直ぐあの新聞を読んで、中央公論を読んで仕舞ひました。

 思つたほど何んでもなかつたので、すつかりつまらなくなつて室中を見まはしました。

 何も彼も出かけた時のままになつてゐます。

 座布団が二つ、それからたつた今まであなたが着てゐらしつた浴衣。

 それを見てゐると急にさびしくなりました。

 枕を引きよせてもう何にも考へまいと思つて横になると、五時頃まで眼りました。

 それから起こされてお湯にはいつて、子供を寝かして、御飯をすませて、今煙草を一本のんだところです。

 それから菊地(幽芳)さんに手紙を書かうと思つてペンをとりますと、先づやつぱりあなたに書きたいので書き初めたのです。

 今時分は四谷(堀保子)のお宅にでもゐらつしやるのでせうね。

 あなたが行つてお仕舞ひになると、私の気持もさびしく閉ぢ、天気も曇つて風が出てまゐりました。

 潮の遠鳴りが一層聞えます。

 でも、大変静かな、落ちついた気持でゐられます。

 この分では仕事もずん/\進むでせう。


(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月七日・一信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p357/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)

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『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、「あの新聞」とは『東京朝日新聞』の野枝の家出を皮肉った「青鉛筆」というコラムのことである。


▲細君の伊藤野枝と別居した辻潤氏は今迄は「内の野枝が」と呼んで居たが別居以来「野枝女史」と敬称を用ひ出した、男の友人達が気の毒がつて暇さへあれば連出して酒を飲んで居る、当人は野枝に就いては余り語らない、只老母が居るから又職を求めなければなるまいと云つて居る

▲氏は上野高等女学校の英語教師をして居たが野枝が其の学校を卒業すると同時に同棲して細君署名の翻訳は大抵氏が縁の下の力持をして居た

▲野枝女史も赤ン坊を負(おぶ)つて「青鞜」の校正に出かけるなど一時は新しい女にも珍らしいと褒められて居たが古い言葉で云へば魔がさしたんだ

▲イヤ野枝といふ女は大杉氏の前にも木村某と接近したしアレは恋の常習犯だと噂する文学者もある


(「青鉛筆」/『東京朝日新聞』1916年5月5日)


『中央公論』とは中村狐月「伊藤野枝女史を罵る」と西村陽吉「伊藤野枝に与ふ」が掲載された同誌五月号のこと。





 野枝がこの手紙を書き投函したのは、この日の午前中だった。

 すぐに仕事に取りかかるつもりだったが、仕事が手につかず、この日二通目の大杉宛の手紙を書いた。



 ……何んだかグルーミーな気持になつて仕舞つて、机の前に座るのがいやで仕方がありませんので、障子を開けてあすこから麦の穂を眺めながら、あなたの事ばかり考へて、五六本煙草を吸つて仕舞ふまで立つてゐました。

 ひどい風で、海岸から砂が煙のやうに飛んで来るのが見えるやうなのです。

 ……早くいらつしやい、こちらに。

 お迎へにゆきませうね。

 あなたが私と直ぐにゐらつしやるおつもりなら、土曜日の昼頃そちらに着くようにゆきませう。

 そして日曜の、あなたのフランス語がすんだら直ぐに五時のでこちらに来るようにしては如何です。

 それまでには、私の方でも少しはお金の都合は出来ると思ひます。

 保子さんには、もう少し理解が出来るようにはお話しになれませんか。

 私は何を云はれてもかまひませんが……。

 私には、何んだかもつとあなたがよくお話しになれば、お分りにならない方ではないやうな気がします。

 けれど、あなたは保子さんによくお話しをなさる事を、面倒がつてゐらつしやるのではありませんか。

 もしさうなら、私は出来るだけもつと丁寧にあなたがお話しになるようにお願ひします。

 どうでもいいやと云ふやうな態度はお止しになつた方がよくはありませんか。

 ……あなたが神近さんに対して、また私に対して、さしのべて下さつたと同じ手を、保子さんにもおのばしになる事を望みます。

 私は神近さんに対しては、相当の尊敬も愛も持ち得ると信じます。

 同じ親しみを保子さんにも持ちたいと思ひます。

 保子さんは私に会つて下さらないでせうか。

 私は何んだか頻(しき)りに会ひたい気がします。

 私も保子さんを知りませんし、保子さんも多分よく私と云ふものを御存じではないだらうと思ひます。

 尤(もつと)も、保子さんが私に持つてゐらつしやるプレジユデイスが可なり根深いものであるかも知れませんけれども、この私のシンセリテイとそれとが、どちらが力強いものであるかを見たい気も致します。

 けれどもまた、若しその結果が保子さんに大変な傷を与へるやうな事になるとすれば、これは考へなければならない事であるかも知れません。

 あなたのお考へは如何でございますか。





 それから……経済上の事は、私は、保子さんにとつては一番不安な事ではないかと思ひます。

 私は私だけでどうにかなりますから、あなたの御助力はなるべく受けたくないと思ひます。

 ああ云ふ風に思はれてゐることは、私には大変不快ですから。

 これも小さな私の意地であるかも知れませんが。

 あんな事を云はれて、笑つてすますほどインデイフアレントな気持ではゐられないのです。

 あなたはお笑ひになるかも知れませんが。

 その事は、私がお八重(野上彌生)さんに話をした時に一番に注意された事でもありました。

 お八重さんはその問題に就いては絶対に何の交渉も持つてはいけないと思ふとさへ云ひました。

 お八重さんが私に持つた不快の第一は、万朝にあつたあの記事によつて、直にもう私があなたのその助力を受けたと云ふ事を知つたからだと思ひます。

 殊に、保子さんの私に対する侮蔑はすべてが其処にあるやうにさへ私には思はれます。

 国民の記事にしても、万朝のにしても。

 今のところ、私にはそれが一番大きな苦痛です。

 私は自分で自分を支える事が出来ない程の弱い者でもないつもりです。

 愈々(いよいよ)する事に窮すれば、私は女工になつて働く位は何んでもない事です。

 体も丈夫ですし、育ちだつて大して上品でもありませんからね。

 まあこれ位の気持でゐれば大丈夫喰ひつぱぐれはなささうです。

 何卒さう云つて説明して上げて下さいね。

 何んだかいやな事ばかり書きましたね。

 御免なさい。

 もう一週間すれば会へますね。

 今少し嵐が静かになつて来ました。

 いくらでも書けさうですけれども、もうおそいやうですから止めませう。


(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月七日・二信/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p358~360/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)


『定本 伊藤野枝全集 第二巻』の解題によれば、「万朝にあつたあの記事」とは『万朝報』に「新婦人問題ーー伊藤野枝子と大杉栄氏」と題し、五月三、四、五、六、八日の五回にわたって連載された記事のこと。

 野枝が「もう一週間すれば会へますね」と書いているが、五月十三日(土曜日)昼頃に野枝が上京し、五月十四日(日曜日)のフランス文学研究会が終わったら、ふたりで御宿に行くという段取りにしたのだろう。



★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)

★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)



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第194回 電話






文●ツルシカズヒコ





 大杉が御宿の上野屋旅館にやって来たのは五月四日だった。

 大杉は上野屋旅館に五月六日まで滞在した。

 五月五日、この日、野枝と大杉は勝浦に行った可能性が高い。

 野枝の手紙(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月九日・一信)に「今日は一緒に勝浦へ行った日を懐(おも)はせるやうないいお天気です」とあるからだ。

 帰京した五月六日夜、大杉は野枝に手紙を書いた。

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 発車すると直に横になつて、眼をさましたのが大原の次ぎの三門(※みかど)。

 其処で尾行が代つた。

 多分大原から新しいのが乗り込んだのだらう。

 又、本千葉まで眼つた。

 其処でも新しい奴が乗り込んで、千葉で交代になつた。

 最後に又亀戸で代つた。

 都合三度、四人の男が代つた訳だ。

 御苦労様の至り也。

 電報と手紙が一通づつ来てゐる。

 今其の手紙を読んで見て、あんなに電話をかけるのをたのしみにしてゐたのを、本当にすまなかつたと云ふ気が、今更ながらに切りにする。

 どんなに怒られても、どんなに怨まれても、只もう、ひた謝りに謝るつもりで出掛けたのであつたが、会つて見ると、それも何んだか改まり過ぎるやうで出来なかつた。

 しかし本当に済まなかつたね。

 もう一つ済まなかったのは、ゆうべとけさ。

 病気のからだをね。

 あんな事をしていぢめて。

 あとで又、からだに障らなければいいがと心配してゐる。

 けれども本当にうれしかつた。

 本千葉で眼をさまして、おめざめにあの手紙を出して読んで、それからは、たのしかつた三日間のいろ/\な追想の中に、夢のやうに両国に着いた。

 今でもまだ其の快よい夢のやうな気持が続いてゐる。

 東京朝日(けさ宿でかしてくれたあの新聞にも、此の記事があつたのぢやあるまいか。ツイうつかりしてゐたが)と万朝と読売との切抜を送る。

 けふの万朝には何も出てゐない。

 もう終つたのだらうか。

 狐月は『幻影を失つた』のだね。

 余計な幻影などをつくつたから悪いのだ。

 あきれ返つた馬鹿な奴だ。


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月六日午後九時/『大杉栄全集 第四巻』_p608~609)





 大杉が五月四日に御宿にやって来た経緯を推理してみたい。

 野枝が大杉に宛てた「五月二日の手紙」に「さつき郵便局までゆきましたら、東京と通話が出来るんです。明後日の朝かけますからお宅にゐらして頂だいな」とある。

 つまり、五月四日の朝に、野枝が大杉の下宿先である第一福四萬館に電話をかけることになっていたのである。

 野枝が大杉に宛てた「五月三日の手紙」のラストには「今から電話をかけに行きます。かけてお留守だと、本当にいやになつて仕舞ひますね。何卒ゐて下さいますやうに。何にを話していいのか分りません」とあるが、この手紙は五月三日の夜に書き、翌日の五月四日朝に投函するつもりだったのだろう。

 あるいは、五月三日の夜から五月四日の朝にかけて書いたのかもしれない。





 ともかく「今から電話をかけに行きます」というのは、五月四日朝、郵便局にこの手紙を出しに行き、そして野枝は約束していたとおり大杉に電話をかける段取りだったのだ。

 御宿から帰京した五月六日夜、大杉が野枝に宛てた手紙に「電報と手紙が一通づつ来てゐる」とあるが、これは五月四日の朝に野枝が郵便局から出し「五月三日の手紙」、そして電話をしたが大杉が不在だった(もしくは何らかの理由で電話にでることができなかった)ことに対する、野枝の怒りの電報であろう。

 野枝から電話があったことを知らされた大杉は、「しまった!」と思ったにちがいない。

 ともかく、至急、御宿に出向いて謝るしかないという思いで、大杉が御宿に駆けつけたという推察ができそうだ。



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)



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第193回 パツシヨネエト






文●ツルシカズヒコ




 一九一六(大正五)年五月三日、野枝は大杉から三通目の手紙を受け取った。


 ……三十日と一日の二通のお手紙が来ている。

 本当にいい気持になつて了つた。

 僕はまだ、あなたに、僕の持つてゐる理窟なり気持なりを、殆ど話した事がない。

 それでも、あなたには、それがすつかり分つて了つたのだ。

 二ケ月と云ふものは、非常な苦しさを無理に圧へつつ、全く沈黙してあなたの苦悶をよそながら眺めてゐたのも、決して無駄ではなかつたのだ。

 しかし、一時は僕も、全く絶望してゐた。

 そして僕は、せめては僕の気持もあなたに話し、又あなたの気持も聞いて、それで綺麗にあなたの事はあきらめて了はうと決心してゐた。

 あなたの事ばかりではない。

 女と云ふものには全く望みをかけまいとすら決心してゐた。

 そして、それと同時に、僕自身の力にもほとんど自信を失つてゐた。

 あなたは、僕に引寄せられた事を感謝すると云ふ。

 けれども、僕にとつては、あなたの進んで来た事が、一種の救ひであつたのだ。

 それによつて僕は、僕自身の見失はれた力をも見出し、又それの幾倍にも強大するのを感得する事が出来たのだ。

 けふの、あの二通の手紙は、まだ多少危ぶんでいた僕を、全く確実なものにしてくれた。

 本当に僕はあなたに感謝する。

 あなたの力強い進み方、僕はそれを見てゐるだけでも、同時に又僕の力強い進み方を感じるのだ。

 本当に僕は、非常にいい気持になつて、例の仕事にとりかかつた。

 昼飯までの、二時間ばかりの間、走るやうに筆が進んで、いつもの二倍ほども書きあげた。

 御宿の浜と云ふのは、僕の大好きな浜らしい。

 僕には、浜辺が広くつて、其処に砂丘がうねうねしてゐないと、どうも本当の浜らしい気持がしないのだ。 

 僕の育つた越後の浜と云ふのがそれであつた。

 あなたの、早く来てくれという言葉も、何んの不快もなしに、といふよりは寧ろ、非常に快く聞く事が出来た。

 本当に行きたい。

 一刻でも早く行きたい。

 今にでも、すぐ、飛び出して行きたい位だ。

 あたなの本の話は駄目だつた。

 文章世界は、そんな話は全く駄目。

 狐月(中村狐月)は少しも顔を見せない。

 兎に角、往復の旅費さへ出来たら、せめては一晩泊りのつもりで行く。

 そして第二土曜日にあなたが上京した際には、必ず何んとか都合して、一緒に御宿へ行けるようにする。

 あなたが大きな声で歌ふと云ふ其の歌ひ声を聞きたい。


(『女性改造』1923年11月号・第2巻第11号_p160~163/「戀の手紙ーー大杉から」大正五年五月二日午後五時/『大杉栄全集 第四巻』_p604~607)

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 野枝はこう返信した。


 ●あなたの手紙を拝見して、私も大変いい気持になりました。

 本当に今私は幸福です。

 そして、あした電話をかける事を楽しみにして。

 ●今日は午後からはじめてのいい天気でしたので、板場と女中を一人連れて山へ行きました。

 ●海が真つ青で、静かで、本当にいい景色でした。

 暫(しばら)く山の上にゐて、それから又ゆつくり歩いて帰つて来ました。

 ●あなたの事を考へるとおちつきを失つてしまひますので困ります。

 此処の女中たちはヒステリイ患者だと思つてゐるらしいのです。

 ●今日はもう夕食をすまして眠らうと思ひましたけれど、眠れないので三味線をいぢつて見ましたけれど、面白くも可笑(おか)しくもないのでやめて、あなたのお手紙を順々に読んで、何んだか物足りなくてこれを書き出したのです。

 ●ゆうべウヰスキイを飲んだ上にまた日本酒を一本あけましたので、急に体に変調が来たらしいのです。

 ●父の処に一昨日から手紙を書きかけて、まだ書けないでゐるのです。

 ●狐月氏が、此間私のことをパツシヨネエトだつて悪く云ひましたけれど、私は今度はそんなにパツシヨネエトではないと自分で思つてゐましたのに、矢張りさうなのですね。

 ●かうしてぢつと目をつぶりますと、あなたの熱い息が吹きかかつてゐるやうに感じます。

 ●あしたはあなたのお声が聞けると思ひますと、本当にうれしく胸がドキ/\します。

 ●静かな夜に潮の遠鳴りが聞えて来ます。

 さびしい夜です。

 あの音が聞えますと何んだか泣きたくなつて来ます。

 ●丁度、何時かの夜、あなたがーーさう/\芝居にゐらしたといふ夜、お訪ねしてお逢ひする事が出来ないで、青山(菊栄)さんの処で話をして、あの土手から向ふを見た時のやうな、あんな情けない悲しい気がします。

 ●あんなにも無理な口実を構へてでもあなたに会はなければゐられない程に、あなたを忘れられない癖に、どうしてもハツキリした事が云へないでは、自分も苦しみあなたをも苦しめたのですね。

 ●何んと云ふ馬鹿な事だつたのせう。

 それも、矢張り私の意地つぱりですね。

 ●でも私は、あの夜訪ねてお留守だつた時には、あすこの入口のところで泣きさうになりましたの。

 ●青山さんと土手で話しながら市ケ谷見附(いちがやみつけ)まで歩きましたけれど、私は何を話したのか分りませんでしたの。

 ●今から電話をかけに行きます。

 かけてお留守だと、本当にいやになつて仕舞ひますね。

 何卒ゐて下さいますやうに。

 何にを話していいのか分りません。


「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月三日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p355~356/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)




★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)




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2016年05月18日

第192回 蓄音機






文●ツルシカズヒコ




 五月二日、野枝は大杉からの二通目の手紙を受け取った。

 四月三十日、神近が大杉に会いに来て泊まっていったという。


 ●……神近が来た。

 四五日少しも飯を食わぬさうで、ゲツソリと痩せて、例の大きな眼を益々ギヨロつかせてゐた。

 社(東京日日新聞)の松内(則信)にもすつかり事実を打明けたさうだ。

 ●松内の方では、それが他の新聞雑誌の問題となつて、社内に苦情の出るまでは、一切を沈黙してゐるということであつたさうだ。

 ●しかし神近の方では、他に仕事の見つかり次第、辞職する決心でゐる。

 ●もう、あなたからの手紙も、見せてくれとは云はない。また内容を聞きたがりもしない。

 ●只だ僕がそれを読んでゐる間、だまつて眼をつぶつて何事かを考へてゐるようだつたが、その顔には何の苦悶も見えなかつた。このまま進んでくれればいいが。

 ●うと/\と眠つてゐる間にも、眼をさますと、何んだか胸のあたりに物足りなさを覚える。

 そして、只だひとりゐる、あなたの事ばかり思ひ出す。

 神近が来てからも、此の胸の缺カンは、少しも埋められない。

 ●あなたの手紙は、床の中で一度、起きてから一度、そして神近が帰つてから一度、都合三度読み返したのだが、少しも胸に響いてくる言葉にぶつからない。

 早く来い、早く来い、と云ふ言葉にも、少しもあなたの熱情が響いて来ない。

 ●逢ひたい。

 行きたい。

 僕の、此の燃えるやうな熱情を、あなたに浴せかけたい。

 そして又、あなたの熱情の中にも溶けてみたい。

 僕はもう、本当に、あなたに占領されて了つたのだ。

 ●子供の守を頼むという婆さんは、いい婆さんであればいいがね。

 どう?


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年五月一日夕/『大杉栄全集 第四巻』_p601~604)

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 野枝は大杉の手紙にあった「早く来い、早く来い、と云ふ言葉にも、少しもあなたの熱情が響いてこない」という文面に、腹を立てている。


 ●何故あなたはそんな意地悪なのでせう。

 ●今ここまで書いて、あなたの第二のお手紙が来ました。

 宮島(資夫)さんのハガキと一緒に。

 ●会ひたい会ひたい、と云ふ私の気持がなぜそんなにあなたに響かないでせう。

 ●昨日も一日、焦(じ)れて焦れて暮しました。

 蓄音機をかけて見ても、三味線をひいて見ても、歌つて見ても、何の感興もおこつては来ません。

 ●さつき郵便局までゆきましたら、東京と通話が出来るんです。

 明後日の朝かけますからお宅にゐらして頂だいな。

 ●神近さんは何んだかお気の毒な気がしますね。

 でも、それが彼(あ)の方の為めにいいと云ふのならお気の毒と云ふのは失礼かもしれませんのね。

 ●其処まで進んでゐらつしやれば、でも、大丈夫でせうね。

 あなたと神近さんの為めにお喜びを申しあげます。

 ●さつき、あんまりいやな気持ですから、ウヰスキイを買はせて飲んでゐるんです。

 ●あさつてはあなたの声がきけるのね。

 何を話しませうね。

 でも、つまらないわね、声だけでは。

 ●婆やは目が少しわるいので困りますが、他には申分ありません。

 子供(辻流二)を大事にしてくれますから。

 でも、あなたは子供の事を気にして下さるのね、いいおぢさんですこと。

 ●あなたの手紙は二度とも六銭づつとられましたよ。

 でも、うれしいわ、沢山書いて頂けて。


(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月二日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p353~354/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)


 宮嶋資夫からのハガキの文面はどんな内容だったのだろうか。

 宮嶋が辻と野枝の中に入り、協議離婚に着地させる労をとっていたのかもしれない。



大正村


★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)



●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



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第191回 狐さん






文●ツルシカズヒコ



 五月一日、野枝は大杉からの手紙を受け取った。


 ながい間憧憬してゐたらしい、御宿の、ゆうべの寝心地はいかに。

 こちらでは、よる遅くなつてから降り出したが、そちらでも同じ事だつたらうと思ふ。

 別れ、旅、雨、などと憂愁のたねばかり重なり合つたのだから、妙にセンチメンタルな気持に誘はれはしなかつたか。

 それとも、解放のよろこびにうつとりしたか、或は又苦闘の後のつかれにがつかりしたか、ただぼんやりと眠りに入つて了ひはしなかつたか。

 それとも又、……

 いや、そんな事は、あしたあたりから来るあなたからの手紙に、詳しく書いてある筈だ。

 それよりは、僕はやはり、僕自身の事を書かう。


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年四月三十日正午/『大杉栄全集 第四巻』_p597)

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 野枝を両国橋駅で送った後、大杉は改札口にいた尾行の刑事を大声で馬鹿野郎と怒鳴った。

 大杉は下戸だったが、ムシャクシャして酒でも飲みたい気分だったのだろう。

 大杉、五十里(いそり)ら三人は両国橋を渡ってレストランに入ったが、安酒の匂いがたまらず、大杉は林檎を一個食べただけだった。

 二軒目のレストランでは大杉はソファの上で寝てしまったが、目覚めると急に空腹を覚え四、五皿平らげた。

 八時半に二軒目のレストランを出て、連れのふたりと神保町で別れた大杉は第一福四万館に寄ってから、春陽堂の編集者である田中純を本郷に訪問した。





 大杉豊『日録・大杉栄伝』によれば、大杉は田中から近く出版する翻訳書『男女関係の進化』の印税の一部を前借りした。

 田中のところに近所に住んでいる本間久雄も来ていたので、二日前の『読売新聞』に載っていた本間の文章「覚めた女の離婚」の話になった。

 本間はその文章で野枝が子供を捨てて大杉の許へ走ったことを非難していた。

 大杉たちは夜の十二時過ぎまで話し続けた。

 大杉は金を持って四谷区南伊賀町の堀保子のところに行き、彼女に金を渡した。

 保子に野枝を送ったことを話すと、保子は野枝のことを「あの狐さんはね」と呼び、野枝への皮肉と悪口を並べそうになったので、大杉は手を伸ばして保子の口をおさえたまま眠ってしまった。





 大杉のところへ『大阪毎日新聞』記者の和気律次郎から葉書が来ていた。

『大阪朝日新聞』に大杉と野枝が同棲したという記事が出たという。

 和気は大杉にその真偽を確かめる取材の申し込みをしている。

 この日(四月三十日)は下宿代三十円を支払う日だったが、大杉は一文なしだった。

 大杉はこの手紙をこう締めくくった。


 めづらしく長い手紙を書いた。

 獄中にゐる時をのぞけば、十年以来、これほどの分量の手紙を書くのは、あなたに宛てたいつかののとこれと二つだけだ。

 子供(辻潤の子)はおとなしくしているか。

 わるい伯父さんのいやな咳もきかないので驚かされずに寝てゐる事ができるだろう。

 何だか虫を起してゐるように見えるから、よく気をおつけ。

 欲しいものがあつたら何んでも云つておいで。

 あしたかあさつてかは、五六圓手に入るは筈だから、雑誌でも送らうかと思つてはゐるが。


(「戀の手紙ー大杉から」大正五年四月三十日正午/『大杉栄全集 第四巻』_p600~601)


「子供」は流二のこと、「伯父さんのいやな咳」は大杉の咳のこと。





 野枝はこの手紙にこう返信した。


 ●女中たちが、旦那様はお出でにならないのですかつて頻(しき)りに聞きますの。今にゐらつしやるよつて云ひましたら、何時です/\つてうるさいんです。皆なが見たがつてゐるんですよ。私も見たいから、早くゐらして下さい。

 ●中央公論の方、駄目では困りますね。もつと他の書店に、いつぞやあなたが云つてゐらした処に『雑音』をお聞き下さいな。

 ●大阪朝日に出たのですつて。叔父や叔母たちが定めてびつくりしてゐる事でせう。

 ●保子さんが私の事を狐ですつて、有がたい名を頂いたのね。私は保子さんには好意を持たない代りに悪意も持つてはゐませんから、何を云はれても何ともありませんわ。ただ、私のあなたと、保子さんのあなたは違ふと云ふことだけを思つてゐます。

 ●本当に私は、あなたに、この強情な盲目な私をこんな処にまで引つぱつて来て頂いた事を何んと感謝(いやな言葉ですけれども)していいか分りません。そして、これから書く、私の本当の意味での処女作を、あなたにデヂケエトしようと思つてゐます。


(「書簡 大杉栄宛」一九一六年五月一日/『定本 伊藤野枝全集 第二巻』_p351~352/「恋の手紙ーー伊藤から」/『大杉栄全集 第四巻』)





 野枝は「雑音」の単行本化を目論んでいて、大杉を通じて中央公論社などの出版社にかけ合ってもらっていたが、結局、単行本にはならなかった。

 当時、代準介夫妻は大阪に住んでいたので、ふたりが『大阪朝日新聞』の記事を見て驚いているだろうと野枝は書いているのである。



★『大杉栄全集 第四巻』(大杉栄全集刊行会・1926年9月8日)

★大杉豊『日録・大杉栄伝』(社会評論社・2009年9月16日)

★『定本 伊藤野枝全集 第二巻』(學藝書林・2000年5月31日)





●あきらめない生き方 詳伝・伊藤野枝 index



posted by kazuhikotsurushi2 at 18:55| 本文
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1955年生まれ。早稲田大学法学部卒業。『週刊SPA!』などの編集をへてフリーランスに。著書は『「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版)『秩父事件再発見』(新日本出版社)など。
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