2015年12月14日
自分を褒めること、相手を褒めること、我が子を褒めることが苦手なAC夫。(その2)
⇒自分を褒めること、相手を褒めること、我が子を褒めることが苦手なAC夫。(その1)のつづき。
■褒める言葉を発するときに、なにか条件を絡めてしまう癖。
いわゆる条件付きの愛情で育ってしまった私。愛情は愛情でも、条件付きの愛情
での表現ということがどうしても無意識に多くなってしまうのです。
子どもが、すごくよくできたとき、いつもよりがんばったとき、毎日元気でいてくれているとき、
などなど、色んな褒めるチャンスはありますが、こちらが言葉を発するときに、余計な思考の
おかげでいらないプラスアルファをして褒め言葉を台無しにしていることがかなりあります。
子どもが自分で片付けをできたことを褒めるのであれば、
「よく片付けできたね!」とだけいってあげればいいところを、
「やればできるじゃない」「次からは、今日みたいにしっかりやりなさい」
「こういう風に綺麗になっているのが普通なんだからね」
などなど、そんな言葉が第一声として出てきてしまいます。
これは、とっさに出た私の中では、「褒め言葉」として相手をねぎらっているつもり
なのですが、受け手はどうでしょう。ちっとも褒められているとは思えませんよね。
おかしな話ですが、いまでも平気でこういう言葉がとっさにでてしまうんです。
どこかでこれが褒め言葉であると思っている自分が無意識下にいるんですね。
取り方によっては、褒め言葉にもなるかもしれませんが、相手を肯定するという
言葉が入っていないんです。そして、褒めているようで同時に叱咤や相手を詰めるような言葉を
織り交ぜてしまっていることが多いんです。
この褒め方をどんなにしていても、子どもはうれしくないということを理解しないと、
第一歩が踏み出せないのでしょう。
■発破をかけているつもりが、緊張感を与えてしまっているというミスマッチ。
私自身、大きくなってから自分の幼少期の話を直接母親から何度も聞く機会があったことは
今思えば幸運なことです。親が死んでいたり、憎しみで話もしたくないような関係であれば、
自分自身で、幼少期の未解決部分を掘り下げていかなければいけないのですから。
どういう感じで当時、私の母親が子育てに向き合っていたのかなど、心境なども含めて
聞いたことがありました。私自身は「たぶんもっと褒めて欲しかった気がする」ということを
母親に伝えたとき、一瞬母親は自責の念に駆られたように、沈黙しましたが、ゆっくりとこう言いました。
「母さんなりに、結構褒めたつもりなんだけどね」と。
本人は発破をかけているつもりでも、結果的に受け止める方は、緊張感しか
受けないのであれば、それは安心できる場所にはなりません。
親は褒めたと思っている。子どもは褒められたと思っていない。
一番不健全な関係です。
しかし面白いことに、私の記憶には褒められたことよりも、叱られたり、けなされたりした屈辱の方が
たくさん残っていて、ほとんど記憶にないというのだから、結果的には親の独りよがりだったと言わざるを
得ません。とはいっても、母親になんでもっと褒めなかったんだよ!とか責めたりはしませんでした。
その問題は、私の中では解決済みで、当時のことをいくら責めたとしても、今が変わるわけではないことは、
わかっているし、私の理想とは異なれど、当時の母親も母親なりに精一杯子育てをしてくれたことは、
変わりようのない事実だという受け止め方ができたからであろうと思います。
母親も私たち兄弟を褒めていたのかもしれませんが、全く私と同じようなことを口に出していたのです。
というか、私が母親に自然と教えてもらった褒め方でしか、自分の子どもを褒めてないと気づいた
といった方が良いでしょうね。
つづく
始めよう。瞑想:15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
■褒める言葉を発するときに、なにか条件を絡めてしまう癖。
いわゆる条件付きの愛情で育ってしまった私。愛情は愛情でも、条件付きの愛情
での表現ということがどうしても無意識に多くなってしまうのです。
子どもが、すごくよくできたとき、いつもよりがんばったとき、毎日元気でいてくれているとき、
などなど、色んな褒めるチャンスはありますが、こちらが言葉を発するときに、余計な思考の
おかげでいらないプラスアルファをして褒め言葉を台無しにしていることがかなりあります。
子どもが自分で片付けをできたことを褒めるのであれば、
「よく片付けできたね!」とだけいってあげればいいところを、
「やればできるじゃない」「次からは、今日みたいにしっかりやりなさい」
「こういう風に綺麗になっているのが普通なんだからね」
などなど、そんな言葉が第一声として出てきてしまいます。
これは、とっさに出た私の中では、「褒め言葉」として相手をねぎらっているつもり
なのですが、受け手はどうでしょう。ちっとも褒められているとは思えませんよね。
おかしな話ですが、いまでも平気でこういう言葉がとっさにでてしまうんです。
どこかでこれが褒め言葉であると思っている自分が無意識下にいるんですね。
取り方によっては、褒め言葉にもなるかもしれませんが、相手を肯定するという
言葉が入っていないんです。そして、褒めているようで同時に叱咤や相手を詰めるような言葉を
織り交ぜてしまっていることが多いんです。
この褒め方をどんなにしていても、子どもはうれしくないということを理解しないと、
第一歩が踏み出せないのでしょう。
■発破をかけているつもりが、緊張感を与えてしまっているというミスマッチ。
私自身、大きくなってから自分の幼少期の話を直接母親から何度も聞く機会があったことは
今思えば幸運なことです。親が死んでいたり、憎しみで話もしたくないような関係であれば、
自分自身で、幼少期の未解決部分を掘り下げていかなければいけないのですから。
どういう感じで当時、私の母親が子育てに向き合っていたのかなど、心境なども含めて
聞いたことがありました。私自身は「たぶんもっと褒めて欲しかった気がする」ということを
母親に伝えたとき、一瞬母親は自責の念に駆られたように、沈黙しましたが、ゆっくりとこう言いました。
「母さんなりに、結構褒めたつもりなんだけどね」と。
本人は発破をかけているつもりでも、結果的に受け止める方は、緊張感しか
受けないのであれば、それは安心できる場所にはなりません。
親は褒めたと思っている。子どもは褒められたと思っていない。
一番不健全な関係です。
しかし面白いことに、私の記憶には褒められたことよりも、叱られたり、けなされたりした屈辱の方が
たくさん残っていて、ほとんど記憶にないというのだから、結果的には親の独りよがりだったと言わざるを
得ません。とはいっても、母親になんでもっと褒めなかったんだよ!とか責めたりはしませんでした。
その問題は、私の中では解決済みで、当時のことをいくら責めたとしても、今が変わるわけではないことは、
わかっているし、私の理想とは異なれど、当時の母親も母親なりに精一杯子育てをしてくれたことは、
変わりようのない事実だという受け止め方ができたからであろうと思います。
母親も私たち兄弟を褒めていたのかもしれませんが、全く私と同じようなことを口に出していたのです。
というか、私が母親に自然と教えてもらった褒め方でしか、自分の子どもを褒めてないと気づいた
といった方が良いでしょうね。
つづく
始めよう。瞑想:15分でできるココロとアタマのストレッチ (光文社知恵の森文庫)
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