2017年05月19日
他人との比較と見栄に固執しなければ幸せはやってくる!(その1)
毎日毎日どうして私たちは不安になったり、悲しんだりするのでしょう。
これらがデフレスパイラルのような連鎖を起こすとより大きな自責の念に
駆られることになります。
それが悪化していくと自分が惨めで仕方がないような錯覚にも陥ります。
しかし本当に惨めなのでしょうか?自分が惨めであると決めつけてしまっている
固執というものもあります。
私自身も自分が情けなくてもう消えてしまいたい気持ちに
さいなまれたときは嫌というほどあります。
自分に現世へ存在する価値が見いだせないんですね。
周りをみれば同級生が社会的地位をどんどん上げていっていく…
幸せそうな家族が増え、立派な一戸建てを建て、かっこいい新車を
のりまわす…
ああ、なんて周りの人は幸せそうな生活を送っているのだろう。
という視点でしかみられない心理に迷い込んでしまっているのでしょう。
他人の一部分の生活という断片的な面だけを過剰評価して
自分にはないものだ…自分より優れている…とすねてしまうのです。
人よりも自分は劣った存在であるという感覚が自分のどこかに
植え付けられています。そうです親から受けた精神的な苦痛が
脳にこびりついています。
・〇〇ちゃんはいつも良い子ね。うちの子なんかまったく駄目で…
・あなたは橋の下で拾われてきたんだよ
そんな言葉が子どもの心をむしばんでいきます。
これらは時代的にやむを得ない面というのもありますが、
親の子育てに対するリテラシーがないといわざるを得ません。
そもそも日本はへりくだるということが美徳化されている文化ですので、
日常的に他人の子どもは褒めるけど自分の子どもはへりくだるというのが
多くなってしまうのでしょう。
他人と自分で他人をよいしょするという言葉もありますが、
日本には謙譲語という言葉もあります。自分を相手よりも下げて
相手を敬うような表現です。これは日本独特なものでしょう。
他人の生活と自分の生活を比較してしまうということは誰もが
やってしまいがちなポイントです。時にはこの比較がモチベーション
となって切磋琢磨できたり、前に進むことができたりするので決して
悪いことではありません。
しかしもし良くない点があるとすれば何なのでしょう。
比較をするということは結果的に優劣を付けることになります。
自分が優れていると実感できる場合は安心感が湧き上がるのでしょうが、
往々にして隣の芝生は青くみえがちです。
つまり比較をするということは自分の方が劣っていると
感じやすい心理になりやすいということです。
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駆られることになります。
それが悪化していくと自分が惨めで仕方がないような錯覚にも陥ります。
しかし本当に惨めなのでしょうか?自分が惨めであると決めつけてしまっている
固執というものもあります。
私自身も自分が情けなくてもう消えてしまいたい気持ちに
さいなまれたときは嫌というほどあります。
自分に現世へ存在する価値が見いだせないんですね。
周りをみれば同級生が社会的地位をどんどん上げていっていく…
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ああ、なんて周りの人は幸せそうな生活を送っているのだろう。
という視点でしかみられない心理に迷い込んでしまっているのでしょう。
他人の一部分の生活という断片的な面だけを過剰評価して
自分にはないものだ…自分より優れている…とすねてしまうのです。
人よりも自分は劣った存在であるという感覚が自分のどこかに
植え付けられています。そうです親から受けた精神的な苦痛が
脳にこびりついています。
・〇〇ちゃんはいつも良い子ね。うちの子なんかまったく駄目で…
・あなたは橋の下で拾われてきたんだよ
そんな言葉が子どもの心をむしばんでいきます。
これらは時代的にやむを得ない面というのもありますが、
親の子育てに対するリテラシーがないといわざるを得ません。
そもそも日本はへりくだるということが美徳化されている文化ですので、
日常的に他人の子どもは褒めるけど自分の子どもはへりくだるというのが
多くなってしまうのでしょう。
他人と自分で他人をよいしょするという言葉もありますが、
日本には謙譲語という言葉もあります。自分を相手よりも下げて
相手を敬うような表現です。これは日本独特なものでしょう。
他人の生活と自分の生活を比較してしまうということは誰もが
やってしまいがちなポイントです。時にはこの比較がモチベーション
となって切磋琢磨できたり、前に進むことができたりするので決して
悪いことではありません。
しかしもし良くない点があるとすれば何なのでしょう。
比較をするということは結果的に優劣を付けることになります。
自分が優れていると実感できる場合は安心感が湧き上がるのでしょうが、
往々にして隣の芝生は青くみえがちです。
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コメントありがとうございます!
マロンさんや私に植え付けられた劣等感は同系色なのかもしれませんね。
比較や見栄って本当になくなりません。変に意識して無くそうと思えば
思うほど逆効果になることも間々あります^^
心と体が一致していないような状況で生き抜いてきた感じになるので
どれが本当の自分なのかがわかりにくくなることもあると思います。
効率よく優秀な自分が本当の自分であると思いたい反面、そうではない
ぐうたらで卑劣な自分をかいま見たときなどさまざまな劣等感にさいなまれた
記憶が私にもあります。
他人の不幸を願うというとストレートですが、実際は
自分よりも相手を落として自分がそのままの自分でいいのだ!と
思わせるために自己防衛手段だと思います。
そのままの自分をそのまま評価してほしいという承認欲求でしょう。
このインナーチャイルドは本当に根強いので大変です。
馬鹿馬鹿しくなんてないですよ。他人の不幸だけを願っているのではなく
そのままの自分を受け入れる余裕ができると他人が幸か不幸かもあまり
気にならなくなるときがくるかもしれません。
つい比較してしまうんです。
比較して、自分にプラスになることは何もないと分かってるんですけどね。
私自身も、自分の考えの浅さ、愚かさに気付いているんです。
でも別の私は、自然とそう考えてしまう。
私というものがアンバランスです。
気付いたのは、ごく身近な人と比較していることです。
同級生と自分の生活を比べたり、仕事を比べたり、旦那を比べたり、、、馬鹿馬鹿しいですよね。
いつもその先は、劣等感に苛まれて虚しいだけですから。
困るのは、無意識に身近な人の不幸を願ってしまうことです。
回りが自分より不幸なら、相対的に自分が幸せになりますから。
全くもって馬鹿馬鹿しい話です。