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2021年07月16日

性教育 その1

性教育を学校で行うのは難しい。
指導要領上は、いろいろな教科に組み込まれてはいるが、それだけで十分であるとは全く思えない。

本来は、家庭で行うべきものではないか、とも考えるが、思春期の親子関係の中で、性について話ができる家庭は、ごくごく稀だろう。

と言って、学校にお任せも困る。
「自然に覚えるでしょ…」、と放任され、間違ったインターネット情報や、SNSによって犯罪に巻き込まれたりするのも困る。

学校では、ある意味、何をしても批判されるのが「性教育」なのだろう。

プライベートなことなので、本当は個別指導がいい。

私も長く教員生活をやっているが、いろいろな指導は、概ね個別指導であった。
生徒によって発達度合いが違うし、性に対する認識や考え、受け入れ土壌も違う。

もっとも、教師が生徒に教える場合は、かなりの信頼関係が築けていないと、「性」に対する話はできないだろう。
しかも、同性同士でないといけない。

今から二十五年以上前になるが、担任をしていた生徒が、休み時間に教室で射精した。
教室の隅で、何人かの生徒に見せながら、掃除ロッカーに精液を飛ばしたのだ。

私は、あとから他の生徒に聞いたが、学校でもこうしたことは起こる。
もちろん、トイレで処理するのは日常茶飯事である。

中には、授業中にトイレに行くと教室を抜け出し、誰も来ない安心感の中で、マスターベーションをしている生徒もいる。

男子は父親が、女子は母親がきちんと、社会性を教えて欲しいと思うのだが、なかなか上手くいかないようである。

教室で射精した生徒も、父親はいなかった。

通学の学校でもこんな風なのだから、寮生活をしている学校では、さらにさまざまな事が起こる。

寮生活で恐らく一番気をつけるべきは、男女の性行為なのだろう。
保護者からお預かりしている中で、こうした行為を許せば、当然親も納得しないし、いろいろな禍根を残す。

妊娠すれば、心身ともに女性側傷つくことになる。

性欲を抑えることはできないが、コントロールすべく、心を鍛えることはできる。
動物的衝動を理性で抑えることはできるはずだ。

そんな話も、教師と生徒の信頼関係の中でこそできることだ。

2021年06月10日

担任の仕事

欧米には仕事は苦役であるという文化があるという。
おそらくその原点はキリスト教思想なのだろうが、日本人の仕事観とは大分違う。

しかし、昨今は日本人でも、仕事に対して、「無理強いされるもの」という意識が大きくなってしまったようにも思える。

嫌な仕事でもやらなくてはならない。
やる気がなくても、やらなくてはならない。
無理にでも、やらなくてはならない。

しかし、こうした発想のなかで仕事をしている中に、創造性や付加価値は生まれない。
反論する人がいることを覚悟して言うが、本来、仕事は、「楽しく、喜んで」行うべきものだ。

だから、学校の仕事だって、いやいややっているようでは、その思いは必ず生徒や保護者に通じ、いわゆる「いい」仕事にはならないはずだ。

たとえ、その仕事を与えられたことが不本意であったとしても、自らの思いを変えて、ポジティブにその業務にあたろうと、努力しなくてはならないだろう。

ほとんどの場合、「この仕事はやりたくありません」、とは言えないが、少なくとも自分自身の心が吹っ切れていなければ、仕事としては成立しない。恐らくはその仕事ぶりに、同僚や上司は落胆し、時に叱責を受けることになるだろう。

一方、自分自身で、ネガティブ思想からポジティブ思想に変えられないこともある。
何年もそうした状況が続いたり、自身で「違うな」と思うときは、静かにその職場を去るべき時なのだろう。

コロナ禍で、不本意ながら、生活のために別の仕事を就いている方もいるのだろうが、そうした方であっても、その仕事に「生きがい」を感じなければ、おそらく社会的環境が変化したときに、また、その仕事を去らなくてはならない時期がやってくると思われる。

要は、「あなたがいなくてはこの仕事が成り立たない」、と言われるくらいの熱意で、仕事に当たらなくてはいけないということだ。

担任も同じだ。

私立学校では、「この人には担任は任せられない」というレッテルを貼られた人は、ずっと担任にはなれないこともある。

学校現場だろうが、会社だろうが、結局は、仕事に対するマインドの問題。

一日の三分の一以上を占める仕事に、意味を見いだせないのであれば、それはそれで、人生がつまらないものに感じられないだろうか…。




2021年06月02日

生き筋を見つける

年に二回、目標設定シートのようなものがあり、その中に、希望する職種というものがある。

数年前までの私は、その欄に、「一生子どもたちと関わり合いたい」と記した。
つまり、「ずっと担任をやり続けたい」という意思表示をしたのだ。
教頭や校長との面談でも、そのように言った覚えがある。

だが、今は違う。
今の私には、担任や学年主任をやるような、気力も体力もない。
いつからこんな自堕落になったのだろうか。

人は、ひとたび落ちてしまうと、なかなか元のようはできないものだ、とつくづく感じる。

一方で、以前の私は無理をしすぎていたのかも知れない。
確かに、他の人を見て、「もっと出来るのに…」などと思っていた私自身がいた。

今は、逆に私がそのように思われているのだろうと思う。

新入社員が一流企業のトップないし、役員を目指してがむしゃらに働いていたが、結局出世コースから脱落して、目標を失う。ただただ定年まで大人しく務めればいいと思うようになる。こんな風に、人は挫折すると、なかなか元には戻れないものだ。

その代わり、別の目標を見つけ、その道を歩むようにもなる場合もあり、一概に善し悪しは決められない。

生徒も、希望溢れて入学してきたが、様々な面で、挫折し、別の生き筋を見つけることになる人もいるのだ。

きっと人生というものはそういうものなのだろう。

SNSに、「もう限界です。休職することにしました」という投稿があった
多分、卒業生だと思われる。

少し休み、頭を整理し、将来のことを考えたらいい…。

人には必ずどこかに生きるべき道がある。

それを発見していくのが、人生の歩み…。




2021年03月01日

生徒と離れた生活

これまで三十年以上教員生活を過ごしてきた。
公立学校だったら、定年退職までカウントダウンの歳だ。

私の人生は、いつでも生徒と関わる中で毎日だった。
だから生徒と離れた中での生活など、もはや考えられない。

しかしこの先、私は生徒と離れた生活を過ごすことになるのだろう。
それがいつから始まるのかは分からないが、いずれは野に下り、田舎暮らしになる。

この時期、『愛別離苦』に悩まされる。

学校現場では、この世を去ってしまうような別れはほとんどないが、それでも日常かr阿深く関わりのある生徒や先生と別れるのは、断腸の思いだ。

このところ、私の心の中は「寂しいな…」という思いしか湧いてこない。

離れてしばらくすれば、お互い疎遠になって、慣れてしまうのだろうけれど、やはりこの感情は御しがたい。世の先生方は、どのようにして切り抜けているのだろう…。

どうやら私の場合、生徒との関わりの中で、エネルギーをもらい生きているようなのだ。
彼らにしてあげられることなどたかが知れている。
もちろん、「私がしてあげた」などという思いも湧かない。
だが、ふと振り返ると、結局は、私自身が生徒に助けられているのだ。
私が救われているのだ。
彼らが私を生かしてくれているのだ。

大人とうまく関われない私は、生徒たちとの生活の中で、その不足分を補っているのだろう。

この先、退職したら、私はどうなってしまうのだろうか…。

私は、生きていけるのだろうか。
新たな、エネルギー供給はどうしたらいいのだろうか。

それでも何か、子供たちと関わる方法を見つけるのだろうか。
大人になった卒業生たちのネットワークを構築するのだろうか。

私のこの先の人生そのものを、ふと、考えてみる。

先は見えないが、歩き続けるしかないのだろう…。




2021年01月25日

傷つき、傷つけ合う

たった一言の言葉が、心に刺さって、なかなか抜けず、いつまでも引きずってしまうことがある。

言葉を、「岩に刻むように聞くか、砂の上に書くように聞くか、川の水の上に書くように聞くか」という三通りの「聞き方」があるそうだが、なかなか川の水の上に書くように聞くことは難しいことだ。

結局、「心に刺さってしまう言葉」は、自分が気にしていることであり、劣等感を感じていることであり、修正しようともなかなか変わっていけない部分であり、触れては欲しくない部分であったりするわけだ。

私たち教師であっても、同僚や友人から言われた言葉で傷つくこともある。
ましてや、生徒たちは、友人のみならず、私たち教師たちの言葉で傷つくことだってある。

人間はこの世で不器用に暮らしている
いろいろな考え方、立場の人がいて、その中で、それこそ芋を洗うようにお互い刺激し合いながら生きている。
お互い傷つけ合って、かばい合って、悲しみや苦しみを感じながら生きている。

間違った言葉を出してしまうことだってあるだろう。
その言葉に傷つくこともあるだろう。

言葉に出してしまって、「しまった」と思うことだってあるだろう。
誤りたくても、謝れない場合もあるだろう。

その言葉に失望して、命を絶ってしまうことだってあるかも知れない。

大切なのは、まずは、「人を傷つける言葉がある」ことを知るべきだろう。

私は、数多くの人を傷つけてきた。
自分も傷ついたと思うことがあるのだから、おそらくその何倍も、何十倍も、他の人を傷つけてしまったと思う。

人には『忘れる』という才能がある。

嫌なことは忘れよう。
間違ったことは、相手に詫びよう。
直接詫びられないのなら、心の中でお詫びしよう。

今まで申し訳ありませんでした…。



2021年01月19日

中学入試を終えて

中学入試が終わった。この後、書類の発送、入学説明会などが新年度までに続くが、三学期の大きな山の一つを乗り越えた感じだ。2月には高校入試も行われる。

いずれにせよ入試は、学校にとって受験生の人生がかかった大きな行事である。

毎年この入学試験をめぐって様々なドラマがある。
私はここ何年も受験生の前に出ることはないが、多くの先生方は直接子供たちと接し、そのドラマを共有し、追体験することになる。

地元の公立中学に行けば、学費はかからないが、私立中学校は学費がただではない。
それでもなお、「入学したい」、「入学させたい」と思うには、学校に魅力があり、公立校にない付加価値を見いだしているからだ。

そして、その付加価値のために、金銭的な負担は膨大になる。

先日、地元のスポーツ店の担当者と話をしてたとき、その方のご子息が来年大学を卒業されるとのことで、「いよいよ学資ローンの返済が始まるんです」、と話をされていた。

誰もローン審査が通るわけではないし、中学からローンを組んでしまうと、その先がさらに苦しくなる。
学校独自の奨学金制度もあるが、いずれにせよお金がかかることは変わらない。

そんな子供たちは私たちはお預かりし
て、教育活動を行っている。

父親の反対、母親の反対、祖父母の反対を乗り越えてなお、受験に臨み、合格して、金銭面の障害をクリアしてなお、入学してくるのである。

我々教師たちは、つねにそうした思いで生徒や保護者と関わらねばならないのである。

教育は、未来に羽ばたく人材のための投資である。

それを成し遂げるのは、親の献身的な愛情と、本人のたゆまぬ努力であろう。

そんな思いを、我々もそして、在校生である生徒たちにも思い出してもらいたい季節である。




2020年11月16日

柚の収穫

庭木の柚(ゆず)を収穫した。

以前住んでいた方が植えたのか、それとも、それ以前から植えられているのかはわからないが、かなりの大木になっている。
その上、手入れもせずに放置されているので、柚の実はかなり高いところになってしまう。
当然、手に届く範囲ではなく、私は植木梯子に上ったり、二階の屋根から手を伸ばしたりして、ようやく数十個の柚を採った。
ものの数十分ではあったが、それでも傷だらけになった。

柚のとげは鋭い。
それをよけつつ、刺さらないように、気をつけながらの収穫である。

採りたてで香りもいいからと、メルカリに出品したが売れなかった。
余れば、はちみつ柚や、ゆず湯にも使えるだろう…。

「もう少し背の低い柚の木がいいな…。」
大きな実がなれば、結構高値になるし、何よりその香りは幸せな気持ちにしてくれる。

「桃栗三年、柿八年」とはよく聞くことわざだが、その後に、「柚の大馬鹿十八年」などと続くという。

そう簡単に柚の実はつかない、ということだろう。

教育の世界でも、そうそう成果が出るものではない。
生徒たちの一生に影響を与えてしまう、重要な関わりだ。
その後、どういう人生を歩んでいるかすら、知るよしもない。

それでも我々教師は、彼らを指導si続ける…。
保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、専門学校などなど、どの期間の教師たちも、果実を見ることなく、仕事をしているのだ。

柚のとげに相当することも数多い。
傷つきながらも格闘しているのが、我々教師の仕事なのかもしれない。

「柚の大馬鹿十八年、人間の生徒湯にもそのくらいの年月が必要なんだよな…。

2020年10月22日

心の平静

最近ピアノを弾いていない。
そういえば、自然の写真を撮ることもできていない。

私自身にとって、これらができていないというのは、心の平静が保たれていないことを意味する。

確かに、いろいろな行事が次々とあり、ほっとする間もないくらいなのだが、そうした忙しい時期であればあるほど、心の平静を保つ必要がある。

心の平静は、自らの心を平らかにすることである。
自分の心の中の湖面を波立たせないことである。
バリバリ仕事をしていても、β波状態ではないことである。
忙しく動き回ってはいても、心を整え、時にα波の状態を意図的に作り出すことである。

心がわさわさしていると、私はピアノを弾く気持ちになれない。
たとえ頑張って鍵盤の前に座っていても、ほんの少しの時間でやめてしまう。

自然の写真についても、心が安定していないと、自然にひそむ美しさを発見できないのだ。
だから、「撮るべき写真がない」のではなく、「写真を撮るような心の状態を作れていない」ということだ。撮った写真は、私の心の状態を映しているのだ。

これは日常の教師としての仕事にも関わるものだ。
毎日の生活の中では、心が乱れることだってある。
いろいろな問題が噴出する学校現場の中で、いかに心の平静を保ちながら仕事を進められるかが大切だ。

教員たる者、生徒に、「今日の先生は機嫌悪いな」などと言わせて行けないし、思わせていけない。

なるほど、このところの自分は、心がすさんでいるのだろう。

ただ自らの心の状態に気づくことができたのは幸いである。

心を整えよう。
簡単に心を乱さないようにしよう。
努めて心を整え、平らかにしよう。

そのためには仕事に余裕を持つこと大事だ。
心を乱さず淡々と、仕事をこなしていくことが大事だ。
健康生活も大事だろうし、運動や睡眠時間の確保も必要だ。

いつもニコニコ爽やかな先生は、生徒や保護者からも頼りがいがあるだろう。
苦虫を噛み潰したような顔で、教壇に立っても、生徒は面白くない。

生徒たちは、一番身近な大人として教師を見る。
その姿は、ある意味大人の理想であるべきなのだろう。

努めて心の平静を保たねば…。

2020年09月07日

コロナに負けるな

近隣の中学校の前を通ったら、『コロナに負けるな』という横断幕が張り出されていた。

普段なら、部活の大会結果を宣伝しているのだが、このところ大会もほとんどないので、スペースが空いていただが、その一番上に、『コロナに負けるな』、があった。

生徒の活動してる写真もあり、「学校は元気にやっていますよ。子供たちもげんきですよ」、とアピールしているようにも見える。

マスコミ報道で、コロナに対する恐怖心を煽っているようで、人々は思うような活動ができない。
もちろん、感染良い棒のための対策は必要かと思うが、過度な反応や恐怖心、人間不信は、かえって免疫力を低下させる。

感染症対策のもと、できるだけかつての平常時の生活に戻さないと、経済活動も停滞し、日本や世界は転落の一途をたどってしまう。

私は、「なかなか粋な横断幕だな」、その横断幕見た人に、元気を与え、勇気を鼓舞し、「よし、頑張ろう」という思いを抱かせる。

子供たちの活動は、ある意味コロナ時代の希望の光だ。

「これからの社会を担っている子供たちは、元気で活動していますよ。皆さんもがんばりましょう」
というメッセージである。

私の学校でも、子供たちは元気に生活している。
たいていのことは、普段通りに行っている。

時々やってくる来校者は、彼ら子供たちの姿を見て、エネルギーをもらって帰って行くのだ。

初めは夜の町、次に病院や職場、今では感染ルートは家庭だ、などと言う。
一切の接触を断ち、社会生活を停止すれば、感染はなくなるのだろうが、それでは人間社会は成り立たない。

少し気分が滅入った時は、学校に行って、子供たちの元気な姿を見ればいい。
彼らの元気な挨拶を聞けばいい。
生徒たちの純粋な思いを、素直に受け止めたらいい;

そうした中に、コロナ社会を生き抜くヒントがあると思う。

私の学校でも、文化祭が近づいている。
さすがに外部の方は、お控えいただいたが、たくさんの保護者が来校することになっている。

「親たちも。きっと元気になる。」

私はそう信じている…。

2020年04月21日

母の愛

早朝、ときおり母から電話が来る。
取り立てて用事があるわけではないのだが、最近は週一程度は、私のスマホが鳴る。

今朝も母から電話があった。
「10万円出たら、冷蔵庫、買ってあげるね。」
と、母。
私は、「そんなことはいいから、いざというときのために貯金しなさい」、と答える。
「だって、お前に何もしてあげられていないんだもの…。」

齢55を超えた私にとっては、母から受けた『愛』は計り知れない。
「大丈夫だよ。それ以上に、今までお世話になっているから…。」
と、言おうとしたが、照れくさいので話題を変えた。

何歳になろうと、私は母の息子であり、母の分身でもあるのだ。

そう考えると、お預かりしている生徒たちの母親の思いも理解できる。
たとえ、「すべてをお任せする」、と言っても、心配は心配なのである。
中には親元を離れている生徒もおり、それこそ、「元気でいるか」、「学校には慣れたか」、「友達できたか」、ということになる。
ましてや、子供たちが学齢期とあっては、その思いはひとしきりであろう。

我々教師たちは、時に理不尽と思われる要求を保護者から受けるが、それも母の『愛』ゆえのこと。

そうした無理難題にも、誠実に対処してこそ、プロの教師なのだろう。

「全部閉まっちゃって、もう、行けるところなくなったわ…。」
一人で東京に住む母は、最低限の買い物以外、家を出ないようだ。

「そっちに行けば、広い庭や畑でやることいっぱいあるのにね…。県外に出ちゃ行けないっていうから…。」

確かに私の隠れ家は、一人では手入れができないほどの広さがある。
この前は、雑草が次々と繁茂し、手が付けられない状態になるのは、目に見えている…。

母は、言いたいことだけを言って、「じゃあね…」、と電話を切った。

何気ない会話の中に、母の『愛』を感じた。

こうした母の思いを知ってこその、教師として生徒に愛を与える仕事なのだろう。

人は、一人で大きくなったのではない。
たくさんの人のお世話になって、一人前になっていく。

私も全力で、生徒たちと関わっていきたい、と改めて思う。
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