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安全地帯・玉置浩二の音楽を語るブログ、管理人のトバです。安全地帯・玉置浩二の音楽こそが至高!と信じ続けて四十年くらい経ちました。よくそんなに信じられるものだと、自分でも驚きです。
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2021年05月29日

いつも君のそばに


安全地帯VIII 太陽』四曲目、「いつも君のそばに」です。先行シングルで、カップリングは「俺はどこか狂っているのかもしれない」でした。

六土さんのベースと、何やらボイス系のシンセを背景にハモニカ的な音でメインテーマが奏でられます。そして一気にドラムとギターが入り、「情熱」のイントロでも用いられたようなキラキラ系のシンセ音がリードを奏でます。いきなりシンセ多用で、シンプル路線を突っ走った前作『夢の都』からやや従来路線に回帰したのかと思わせるサウンドです。「Seaside Go Go」くらいシンプルなのを聴いて驚きさめやらぬ1991年のわたくし(買い遅れて1992年でしたが)、安全地帯はこの先どこまでシンプルになっていくのかと正直心配しておりました。いっぽうこの曲では、「マスカレード」的ギターが細かいフレーズをずっと刻み続けており、安全地帯はこうでなくっちゃなと、従来のリスナーを安心させる「普通の」シングル曲になっていました。

いま思えば、「太陽」のような強烈な曲をこそシングルにすべきだったと、傍からは思えます。ベスト的なものしか聴かない層にとって、この時代の代表曲は『BEST2』に収録されたこの「いつも君のそばに」と「朝の陽ざしに君がいて」でしょう。違うんだ!このころの安全地帯は、『太陽』とか『SEK'K'EN=GO』とかの一種狂気じみたスリリングソングと、「花咲く丘」「黄昏はまだ遠く」とかの信じがたいほどの切ない慟哭ソングが同居する危険地帯なんだよ!「いつも君のそばに」とか「朝の陽ざしに君がいて」みたいな曲を期待してこのアルバム買ったら、中毒者になる二割くらいの人以外はみんな逃げちゃうよ!と思うくらい、この「いつも君のそばに」は普通の曲です。ああ、安全地帯もずいぶん大人になったねえ、わたしたちも年をとったなあ、なんて呑気に酒場でプロ―モーションビデオを観るくらいのものでしょう。

とまあ、印象はこのようにごく「普通」のシングル曲なのですが、さすが円熟期のバンドとしての側面をもつ安全地帯(実態は危険地帯)、よくよく作り込まれた力作になっています。そして、これは一見気づきにくい安全地帯の変化を示すものなのですが、こんなやさしく穏やかなラブソングがかつての安全地帯シングルにあったでしょうか。「じれったい」とか「好きさ」みたいな、もっともっとカモン!的な激しい系か、「碧い瞳のエリス」とか「悲しみにさよなら」的な、ラブラブのくせに何か悲しがってる悲愴系か、「Friend」とか「月に濡れたふたり」みたいなやっちまった終わった系か、とにかく修羅場でないことが珍しいバンドでしたから、こんな穏やかな気持ちで二人で過ごしていこう安心しておくれ的ソングは、のちの玉置さんソロ「太陽になる時が来たんだ」くらいまで思いつかないレベルの穏やかさです。まあ、さかのぼれば「萌黄色のスナップ」とかありますけど。そんな、一見普通ではありますが、安全地帯の歴史上決して普通ではない穏やかソングです。

さて、歌に入り、細かく刻むギター(たぶん武沢さん)と、比較的大きめの音符でアルペジオ的に流すギター(たぶん矢萩さん)のコンビネーションで、うっとりさせてきます。「微笑みに乾杯」のときのような、やるせなさが感じられない、やる気に満ち溢れた黄金コンビ復活といった趣です。

BメロらしきBメロはなく、いわゆるAダッシュメロのままサビに突入するんですが、ここでシンセが追加されただけでなく、「カカカカカンカカ……」と何か打楽器が細かく打たれていますね。ギターの音と溶け込んでいますんで気をつけないと聴き逃すんですけど、気がつくとその音ばかりを追ってしまう、なんだか中毒性のある音です。

曲はまたキラキラのシンセを擁するイントロフレーズに戻り、AメロAダッシュメロサビを繰り返します。そして、こういうのを大サビというのかラスサビというのか、業界用語は難しいですねえ、繰り返しになりますがAメロBメロって言い方自体がおかしい(本人たちのリハーサル譜をみないとAもBもない)ので何の意味もない言及の仕方なんですけども、ともかくここだけのフレーズが挿入されます。

またまたシンプルなイントロフレーズ、そして曲はサビを繰り返して終わります。従来にもごくたまにあったことですが、この曲はアウトロが一分も続き、美しいストリングスのメロディーを流麗なギターコンビネーションの響く中で聴かせてくれます。この、安全地帯にたまにあるやけに長いアウトロの解釈はいろいろありうるんでしょうけども、星さんのストリングスが美しすぎたんでもう少し聴いていたくなるねとメンバーが思ったか、あるいは、ギターのコンビネーションがあまりに心地いいのでもうしばらく続けることにして、そこに星さんが美しいストリングスを重ねたか……「いつも君のそばにいるよ」が、無言のまま「いつまでも君のそばにいるよ」に醸成・変化してゆく効果をねらったか……ありとあらゆる解釈が成立しそうで楽しい箇所でもあります。のちの「ひとりぼっちのエール」もむやみにアウトロが長いのですが、不思議と自然で、いつまでラララやってんねん!とは腹が立たない秘密がここに隠されていそうです。まだまだ研究ですね。

さて歌詞ですが……松井さんが安全地帯に向けて送ったエールであるという仮説はいったん置いておくとして、ここは素直に男女のラブソングとして考えてみましょう。だってこのアルバム、すげえ少ないですよ!普通のラブソング!たまに語ったっていいじゃないですか!もうかつてのテンションで書ける自信がすっかりなくなるくらい遠ざかってますけども。

ある夢をひとりで見ている女性に出逢います。その時点でかなり限定されたシチュエーションですけども。彼女は夢を追い、傷つき、その過程において恋愛的な何かでも失意を味わい、結果として「ひとりで」遠い夢を見ることになってしまうのです。これまた限定的な!もうわたくし自信がなくていけません(笑)。かつてはアメリカでダンサーになるとかわけのわからない妄想を自信たっぷりに書き散らかしていたというのに。

夢はですね、どんな夢かわかりませんけど、ひとりが二人になれば、達成までの道のりは一気に半分になったような気がするものです。ほんとうは全然そんなことはなくて結局は一人で追うことになるんですけども、誰かが伴走してくれているという事実はとても心強いものなのです。いかりや長介がみていた夢は、荒井注という伴走者がいてこそ達成に近づいたのでしょう。ですが、二人がみていた夢は実は違うものでした。結果として荒井は脱退し、いかりやは一人で夢を追うことになったのです。荒井が脱退して代わりに入ったのが志村だったのですが、志村はもっと別な夢を持っていたのでしょう。いかりやの夢は……ああ、いかんいかん、男女のラブソングとして話すんだった(笑)。

その挫折は「さみしい心」として、誰にも話せないまま、彼女は失意に沈んでいます。そういうさみしい心っていうのはなかなか話しづらいことで、話すときはそれこそ「心をあずける」くらいの気持ちで話してくれるんだと思うんです。だから、そういう話をきいたときにはわたくしはけっして他言しませんし、受け取ったものを忘れたふりなどしません。あずけてくれたぶん、ちゃんと守ります。話したそうだったら聴きますし、話しづらいことを聴きたいふりもしません。ただ、聴いて、守ればいいんです。そういう人間だと見込んでくれたのですから、ただ自然に、期待を裏切らなければいいんです。わたくし、矢萩さんの「クジラ笑った」に出てくる「散歩のおじいさん」みたいなものです。

この歌の彼女は、そういうおじいさんでなく、誠実な青年に出逢い、いつもそばにいて、一緒に夢をみます。ちょうどそう、このころの玉置さんや松井さんくらいの、若者の終盤期というか壮年の入り口あたりにいる、分別盛りの青年がいいでしょう。それくらいでなければ、彼女の心はあずかりきれないんですね、重くて。せめて30くらいにならないと自分のことで精一杯、周りのことも見えてないものですから。

そういうことのできるお年頃に達しているからこそ、「昨日までの思い出」も忘れるのでなく隠すのでもなく、分かち合うのです。もちろんそんな話は、往々にして余計な火種を持ち込むだけですから、慎重に持ち出さなければなりません(笑)。ああ、きっとこの人もいろいろあったんだろうけど、いま聴いても受け止めきれないな……という段階に、それを受け止められるほど愛したい、そういう「愛」が欲しいと思う瞬間があるものです。

「まぶしい風」につつまれる感覚は、キラキラのお年頃と、過去のいろいろなことを受け止めきれるお年頃の、ちょうど移行期に出逢ったふたりに特有の、気分の盛り上がりなのでしょう。ふたりはこれから、時を重ねて少しずつお互いのことを受け止め、不確かな未来を誓うのです。いつも君のそばにいるよと。これは、環状線で待ちぼうけになったりすり減ったリップスティックから誰かのKissを思いだすの?とか嫉妬したりしていた段階からは卒業し、明らかに大人になった男女のこれからを生きる歌なのです。だからこそ、「生きてゆく勇気を胸に抱いて」、刹那の感情に身を任せていた時期とは違い、数年、数十年とも知れない未来へ共に進む決意を示せるのです。

「ひろがる夢」は、大人になりつつある過程で、広がりつつもかなり現実的なものへと姿を変えてゆきます。だからきっと、ちょっとだけ叶うんです。叶えてあげられたという感覚が少しあるくらいには叶えられるんです。小さな小さな奇跡として、ふたりの人生に共通の痕跡を残します。それが今後ずっといつもそばにいることを確定させるものでは必ずしもないんですけども、人生というのは何も起こらない日々がメインですし、そのメインをこそ大事にしなければならないのはよくわかっていながらも、小さな奇跡が胸の奥でかすかな光を放っていて、たまにそれをちょっとのぞき見できるくらいにはしたいじゃないですか。

それにしても、90年代は胸の奥の思い出としてでしたけど、現代の男女は動画とかでスマートフォンに保存しておくんですかね。その感覚はちょっとついていけないなあ。そんなのうっかりネット上に流出とかしたら失踪モノですから(笑)、自分がVHSとかの時代でよかったなあとしみじみ思うのです。

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2021年05月22日

花咲く丘


安全地帯VIII 太陽』三曲目「花咲く丘」です。

「はなー」といきなりボーカルが始まり、「なー」に併せて深めのシンセ、そしてベース、アルペジオのアコースティックギターが始まります。これは、サビでアコースティックギターがストロークになること、そしてピアノ的な鍵盤が加わり、間奏以後にはドラムが加わる以外には大きな変化なく曲が終わるまでこの構成で進みます。このほかには、わたしの耳がある程度たしかならの話ですが、ギターはだんだんアルペジオの音数を増やしていますし、音もだんだん大きくなるようにミックスされていると思います。

このように、あっさり書いてしまいますけども、これ、大型のスピーカー、そう、最低でも300Wとかですね、そういうコンサート用のやつで聴いてみたら驚くほど臨場感が感じられるんですけども、ゾクゾクゾクッとくるんですよ。だんだんギターが大きくなってくるところに、このストリングスのシンセ、ズシーン!バシャーン!というドラムが絡んでくるのですが、そこに玉置さんの残響音たっぷりのボーカルが思い切り前に出てくるようにミックスされているんですが、思わず失禁しそうになります(笑)。これはわたくし安全地帯のコンサートでこの曲を聴いたときに、なんだこの感覚は!と驚いたんですが、それを再現したくて機材をフル活用してやってみたわけです。そうそうそう、こんな感じだった(かも!)と、悦に入ってピクピクしているんですね。傍からみるとどうみても変態です。

志田歩さんは「どうしようもない寂しさを感じさせる」(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)とこの曲を評しています。わたくし、ピクピクと寂しさに酔っていたことになるわけですが……

なにせ花咲く丘も、小さな鳥も、静かな森も、手を振る君も、みんな「My Dream」なのです。でも「夢じゃない」「わかってる」のですから、それらはあるといえばあるのです。ですが、「こんなに遠くにいる」のですから、簡単には手の届かないくらい距離やら時間やらが離れているわけです。

『安全地帯V』までノリノリだった安全地帯が(玉置さんは石原さんのことでそれどころじゃなかった時期がありますけども)、一旦休憩してソロ活動等を行い、リフレッシュしたところで再集結、元気いっぱいの『安全地帯VII 夢の都』をリリース、余勢をかってリリースしたこのアルバムですが、その頃にはバブル崩壊により世の中のムードが暗転、激減する仕事、設立したマネジメント事務所ミュージカル・ファーマーズも空転、玉置さんの嫌いな打ち込み音楽の時代が到来と、「とにかく変わり目だった」と玉置さんが述べるように(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)、音楽性を変える要素がありまくりの状況が安全地帯を襲います。「故郷に帰りたくなった」「本当のこと」(音楽)「をやっていきたくなった」等々といった玉置さんの願望は願望のまま、安全地帯は崩壊への階段を駆け上がらざるを得ない状況に追い込まれてゆきます。

この数年後にリリースされた玉置さんのソロアルバムに含まれていた「花咲く土手」「カリント工場」「ダンボール」「蜜柑箱」といったイメージは、きっと、遠くにあったMy Dreamなのでしょう。傷つき、倒れ、立ち直る過程でやっと形にしたMy Dreamはあれほどまでに素朴で寂しいものだったのだと何年も後に知って誰もが涙をこぼすという、結果的にそういうとんでもない仕掛けになったわけだったのでした……。そりゃ、これは安全地帯ではできない……少なくとも、「じれったい」からわずか三年とかの安全地帯にはムリだ……と、あれから三十年も経った現代でさえわかるのに、当時はだれも想像もできないことだったのです。ただ一人、玉置さんの心情を察し続けてきた松井さんを除いては。その松井さんだって、さすがにハッキリとは見えてなかったと思いますけども。

「あふれる涙」は頬をつたっていないため見えません。でも泣いているのです。「伝える声」は空気を振動させていないため伝わりません。でも発しているのです。まだ形にならないMy Dreamたちを思い、そして表現したくて、玉置さんの心は震えっぱなしだったのでしょう。そして残念ながら当然のように、安全地帯は徐々に機能不全を起こしていきます。

「何処まで行くの」……きっと崩壊まで……「どうして行くの」……わからない、でも行くしかないだろう?ほかに道なんてないんだ。「あきらめないで」……大丈夫だよ、きっと、なんとかなるさ……「生命を守りたい」……そうだね……すべてが終わったあときっと君は、花咲く丘で手を振るんだ。そしてぼくはそんな君をみて微笑むんだ、だから約束だよ、あきらめないで!

なんでしょう、わたくし、渾身のエモ文章を書いてネタにしようと企んでいたのですが、書いていて自分で少し泣けてきましたよ(笑)。

するとこのMy Dreamは、玉置さんのやりたい音楽という意味と、松井さんが思っていた安全地帯・玉置さんの将来像という意味の、二つの意味があったんじゃないかと思えてきました。松井さんにとっては、いったんバラバラになった安全地帯がまた復活し、こうしてまた一緒に活動をしていて、これは夢なんじゃないかと思えるくらいうれしいことなんだけども、何か違う、何かが遠い、ギリギリの綱渡りをしているような緊張感が現場を支配していて、これはいずれ破綻する……と暗い予感ばかりなわけです。だからこそ、玉置さんがほんとうにやりたかったけれどもできない音楽と、松井さんが焦がれるナイスな活動、それはどこにあるのかわからないくらい当時の安全地帯からは遠いものだったわけですが、それをMy Dreamと呼んだのではないかと思えるのです。

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2021年05月16日

太陽


安全地帯VIII 太陽』二曲目、タイトルナンバー「太陽」です。すみません、更新期間が空きました。この曲難しいんですよ。そんなこと言ったらこのアルバムぜんぶ難しいんですけども。

ディレイの効いたギターが遠くから、その旋律を絡めながら近づいてきます。そして「ア〜イ〜」という声にならない声が、そして和太鼓を思わせるリズムが「シャリーン!パララ〜」という定番の武沢クリーンのギターとともに「ズンタタッタッタ……ズンタタッタッタ……」と始まります。おおよそロックバンドの操るリズムではないですので何事かと驚かれた人もいることでしょう。わたくしですか?もちろんひっくり返りましたとも、三十年も前に。

当時、珍しくこのアルバムを貸してくれという級友がいたので貸してみたところ、「二曲めがなんか、アフリカの民族音楽っぽくていいね」という感想を寄せられて、こいつはなんと適応が早いんだ!と驚いたのを覚えています。安全地帯のアルバムを貸してなんていう人は、「悲しみにさよなら」とか「Friend」みたいなのを期待しているライトリスナーに決まっているだろと決めつけていたわたくし、反省しきりでした。そうか、これはそういう楽しみ方をするアルバムだったのか、とそこで気づかされたのです。

そして抑揚の大きくはないボーカルとコーラス、緊張感あふれるリフを刻むアコギ、節目節目に「ボキボキッ」と合いの手を入れるかのようなベース、そして通常のキットでこの音は出せないんじゃないと思われる音を忙しく鳴らすドラム、どれもこれも従来の安全地帯からは予想できないサウンドなんですが、かといって安全地帯以外にこの音を出せるバンドがほかに思いつかないという、唯一無二の安全地帯サウンドを展開します。

Bメロに入り、高音のシンセが足され、玉置さんのボーカルの抑揚が大きくなります。いま聴くとなんというメロディアスさでしょうか!「燃え上がる〜」も「子どもたち〜」も、ここしかないというラインをウリウリと攻めてきます。もうサディスティックなんだから!このどS!と顔を赤らめたくなるほどの徹底ぶりです。

「ジャ!サジッ!」とリズムを切って、曲はいきなりサビに入ります。コーラスを伴う、なんじゃこりゃ!というボーカルラインです。これ、一緒に歌おうと思ったこともなかったのですが、わたくし記事を書こうと思い立ってはじめてCDにあわせて歌ってみることを決意いたしました。ムリでした(笑)。舌がよじれてカタ結びになるんじゃないかと思うくらい試みましたが、どういう舌の動きしてんだ!と驚くばかりなのです。

「アーアア・アアアアア・イー」なんじゃないかと思うんですが……仮にこれで聴きとりが正しいとして、「アアアアア」の五連符がムリです。後半は「アーアア・アアアアアア・アーア・アーアア・アアアアア・アーアアア」だと思いますが、六連符はさらにムリです。ゆっくりでもできませんでした。そういや『幸せになるために生まれてきたんだから』で玉置さんの御祖母堂がたいへん歌のうまい秋田民謡の人で、玉置さんはそれを幼少のころから近くで聴いてマネしていたと書いてあったと思うのですが、それが「太陽」サビのもとになった……というのは、同本にはみつけられなかったのでなにかTVでご本人が話しているのを聞いたんだと思うんですけど、民謡の節回しなんですね、ようは。彼が「民族音楽みたい」といったのは、まさに当たっていたわけです。アフリカではないですけど。それをいうならわたくしのバアちゃんだって江差追分の先生だったのですが、わたしには少しも受け継がれていないのは、ひとえに才能の差というやつなのでしょう(笑)。

歌は二番に入り、アレンジには一番と違ったところは見当たらないんですが、サビの後で聴くAメロBメロは深刻さ切実さが違いますね。「涙さえ枯れるほど心から祈る」とか、マジで太陽に祈っている雨乞の儀式を思わせます。

怒涛の「アアアアア」が終わり、静寂の間奏……リズムと、アコギのストローク、エレキギターのハーモニクス、うすいコーラスだけの、音数としては決して多くないスッキリした音なんですが、とんでもない含蓄がありそうで息をのみます。神楽の幕間なんじゃないか、鬼が熱湯の入った柄杓もって飛び出てくるんじゃないか、といった緊張感にあふれる「無用の用」を音で表現してしまった間奏になっています。ジョン・ケージ?いや、あれはちょっと違う……お好きな方、楽譜もありますので、どうぞ!

そして曲はメロディアスなBメロと「アアアアア」のサビを繰り返し、フェードアウトしていきます。いつもいつも同じ話で恐縮なんですがわたくしフェードアウトは原則嫌いです。ですが、これは夜通し続く祈りの場から、自分がそっと立ち去った感覚があるため、あそこではいつも祈りが行われているんだという空間の感覚さえ与えられるように思えて、フェードアウトこそが最善の選択だと思えるのです。

手塚治虫の『火の鳥 太陽編』を読んだのが、ちょうど30年ほど前で、このアルバムを聴いていた時期にあたります。『太陽編』は古代と近未来の宗教戦争の話がクロスしながら話が進む構成になっているのですが、壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子が太陽神を信じることにしたというくだりがあるのです。土着の神々の支持を得て、仏教を推し進めてきた政権側の、心ならずも代表になってしまった大友皇子を倒したという宗教戦争の勝者になったにもかかわらず、あっさり土着の神々でなく太陽神(大日如来?)に帰依するのですから、これでは土着の神々も信仰の自由を安堵はされたものの、何か複雑な面が残ったことでしょう。

「燃え上がる太陽」は、まさに唯一神とすら呼べるレベルの存在感をもっていますが、わたしたちが逢いたいのは「幸せにしてくれる神様」なんです。太陽は別に意志なんて持ってなさそうに思えますから、わたしたちの幸不幸にはまるきりニュートラルでしょう。それに対して、仏は(『太陽編』では)信賞必罰的な態度で服従を強いてきますので、まあ、場合によっては幸せにしてくれそうです。土着の神々も、人を不幸にする気はあんまりなさそうに描かれていますから、まあ、どちらかといえば私たちを幸せにしてくれる側でもあるでしょう。ですが、いずれも太陽神のパワーと存在感には圧倒されます。わたしたちは、圧倒的なパワーと存在感には憧れますし畏怖の感情をもちますが、それでも「信仰する」わけではありません。「ひとりでは生きられない」からこそ、人間味のある交わりと精神的作用をもたらす神を求めます。ですから「太陽に手をのば」したって、求める相手が違うのです。ですが、それでもわたしたちは太陽を信じるのです。

「なつかしい母の歌」は、もう聴くことができません。まだ年若く娘さんのようだった母は、ピアノを弾いて歌ってくれたものです。あれならまた聴きたいものだなと一瞬思わなくもないのですが、それはもはやいまの母には不可能でしょうし、べつに再現してくれとも思いません。あれは思い出の中にあるだけでいいのです。

「消えてゆく物語」は、記憶がありませんが、自分が親になってわかりました。子どもは、たわいもないお話を求めるのです。ですから、その場で思いついたような即席のお話がいくつも生み出されます。即席ですのでかなり浅くてどうでもいい話が大半ですから、話した本人も聴いた子どもも端から忘れていきます。それは「母の歌」と同じくらい儚く、脆いものだったのです。

「母の歌」も「消えてゆく物語」も、そして幼少のころに森羅万象の中に潜んでいるように思えた八百万の神々も、わたしたちが大人になるにつれて、その存在感を薄め、やがて意識の中から消えていきます。ですが、「太陽はどんなときも輝いて」(これは別の歌ですが)、幼少のころと変わらぬ、「いつまでも変わらない愛」のような存在感を保ちつづけるのです。さすが大海人皇子が骨肉の権力闘争と宗教戦争の果てに帰依しただけのことはあります(笑)。

わたしたちが「日本古来の」と感じるものの多くは、おそらくは江戸期に形成されたもので、比較的近年のものが大半でしょう。玉置さんの御祖母堂が歌っておられた民謡も、この曲が連想させる和太鼓のようなリズムも、おそらくは江戸期の産物なのであって、そんな壬申とか仏教がどうとかの時期からの文化ではないのでしょう。ですが、「母の歌」が遥かな昔のものであるかのように思えるのと同様に、この曲も太古の昔から受け継がれてきたエトスのようなものを感じさせるのです。そしてその太古の昔から、太陽はわたしたちを同じように照らしそこに在りつづけてきたのだと、とんでもないスケールで悠久のストーリーを感じさせるわけです。安全地帯史上最高のエポックメイキングな傑作といっていいでしょう。

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