アフィリエイト広告を利用しています
ファン
検索
<< 2021年06月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新記事
写真ギャラリー
最新コメント
夢のつづき by トバ (03/28)
△(三角)の月 by トバ (03/28)
夢のつづき by タコ (03/28)
△(三角)の月 by ちゃちゃ丸 (03/27)
△(三角)の月 by トバ (03/26)
タグクラウド
カテゴリーアーカイブ
プロフィール
toba2016さんの画像
toba2016
安全地帯・玉置浩二の音楽を語るブログ、管理人のトバです。安全地帯・玉置浩二の音楽こそが至高!と信じ続けて四十年くらい経ちました。よくそんなに信じられるものだと、自分でも驚きです。
プロフィール

2021年06月27日

ジョンがくれたGUITAR


安全地帯VIII 太陽』八曲目、「ジョンがくれたGUITAR」です。

元ロック少年号泣必至の名曲!切れ味鋭いリズム隊とアコギで描かれる青春の日々!18のあの夏、ぼくたちはいっぱいの夢と、そして将来への不安を抱え、ギターを片手に仲間たちと、そしてまだ少女だった彼女と……泣けてきます。いや、ウソです(笑)、わたくしそんな健全なロック少年ではありませんでした。わたくし、当時はこんなロックをやっておりました。

【送料無料】 Motley Crue モトリークルー / Live At The Orpheum Theatre, Boston, 1984 King Biscuit Flower 輸入盤 【CD】

価格:2,547円
(2021/6/27 15:17時点)
感想(0件)


【輸入盤CD】Hanoi Rocks / Oriental Beat 【K2016/10/28発売】(ハノイ・ロックス)

価格:2,690円
(2021/6/27 15:18時点)
感想(0件)


こんなんで、将来「大人になった彼女が微笑む」わけねーじゃんかよ!バカにしやがって!ちくしょう!(泣)

そんなわけでして、わたくし個人的にあんまり感情移入できないような気がしていたのですが、よくよく歌詞を読んでみますと、「彼女が微笑む」以外の箇所、つまり「長い髪がかっこよかった」とか「汚れたシャツ」とか、ショーウィンドウにギターがあってそれを見ていたとか、そういうところは見事に思い当たる節があるのです。ただ一点のみ!そこだけが合わない!なんという重大事でしょう、そこが一番肝心なのに(笑)。

モトリーとかハノイとか、そういうロックはもちろん流行っていましたが、それはなんというか、中学とかでうっかりバンドに興味をもち文化祭でボウイとかやってキャーキャー言われてそれで満足して飽きてしまったような人たちでない一隅(ズバリ、アチキです)の間で流行っているのであって、けっして教室中がモトリーの新譜の話題で持ち切りとか、やっぱマイケルモンロー最高にかっこいいわーシビれちゃう!とかいう女の子がたくさんいたとか、そういうことは起こっておりませんでした、全く、はい。それどころか高校内にはメンバーがおらず複数の高校のメンバーでしたもので文化祭に出るとかそういうこともなく、バンドマンであるという認知すらされていなかったと思われます。されたところで、なんかアブない音楽やってるブキミな人、という認識になったことでしょう。ダメだ―、もっと昼休みに校庭の木陰でアコギ弾いてチャゲアス歌うとか、そういうアピールしておくべきだった!チャゲアス一曲も知らないけど!(笑)

ちなみにこのたった数年後、今度は日本でビジュアル系ロックブームが起こり、モトリーとかハノイにちょっと近い(見た目の)ロックが流行りますけども、わたくしすこしも興味がありませんで、「紅」とかのギターをヘルプで弾く程度しかかかわっておりません。もしこのときに将来微笑む「彼女」が傍らにいたら、わたくしあまり詳しくありませんが、それはきっと「バンギャル」という種類の女性であるかと思われます。

バンギャル ア ゴーゴー(1)【電子書籍】[ 雨宮処凛 ]

価格:765円
(2021/6/27 15:41時点)
感想(0件)

暗い!なんだか暗いぞ!どこで間違った俺!たぶん最初だ!(笑)きっとSHOW WINDOWになつかしく眠ってたGUITARもこんな感じのギターでしょう。

FERNANDES YH-JR. HY 2019 W/SC hideモデル スピーカー内蔵ミニエレキギター ハートイエロー 【フェルナンデス】

価格:54,450円
(2021/6/27 16:10時点)
感想(0件)

ジョンは絶対こんなギターくれねえー(笑)。

アホな話はこれくらいにして、とりあえず「ジョン」はレノンですよね。フルシアンテとかペリーとか(それは「ジョー」だ!)ペトルーシとかなわけはありません。つまり、ビートルズのやジョンの活動を幼少期から少年期のころにリアルタイムで経験していて、90年代初期に大人になって彼女と一緒に街歩きをしていたら「おっこのギターは……」と思えるような世代の話であるわけです。わたくし、はじめから全然違うんですね。というか、この曲聴いたときまだ18になってませんでしたし。ですから、大人になったらこんな感じでこのショーウィンドウをみるのかもなーと思っていたものの、全然そうはならなかったわけです。シャツは汚れてましたが。

で、この曲ですが(ようやく本題)、けっこう難しいんですよ、16分でシャッフルというのは、聴くぶんにはノリがよくて心地いいんですけど、演奏するのはけっこうホネでして、それを三分弱とはいえこのペースで完走するのは慣れというか体力と注意力の配分ペースが求められます。ですから、安全地帯はもちろんこのくらいニコニコしながらやったことと思いますけど、少なくとも楽勝ではなかったことと思います。

ドラムは堅めの音で軽く、バッシン!ンシン!バッシン!ンシン!と駆け抜けます。ベースはどうも他の曲に比して音量が低くミックスされているんですが、「ブブー・ブブ・ブブー・ブブ」を基調として進み、サビのところで音程をすこし動かしながら「ブブー・ブブブ・ブブー・ブブブ」にリズムを変えているように思えます。アコギの曲でそうなりやすいんですが、アコギの低音弦の音に紛れてかなり聴き取りに自信がありません。ギターもアコギで「ジャ・ジャー・ジャジャ!ジャ・ジャー・ジャジャ!」を基調としつつ、エレキギターで細かくアオリを入れつつ、サビではアコギの低音弦で音程を少しずつ動かすアオリのトラックを入れているようです。アコギだからただジャカジャカ鳴らしているだけかと最初思ったのですが、どうしてどうして、なかなか再現難易度の高い複雑な編曲になっています。ライブですとこれにコーラスも入るんですから、息も抜けません。

この曲はイントロからとつぜんサビに入ります。泣きのメロディーで、わたくし初聴時からトリコになりました。ここまで「俺はどこか狂っているのかもしれない」「SEK'K'EN=GO」「エネルギー」と、変わり種曲が続いていましたから、やっと安全地帯「らしい」のが来た!と喜びました。もちろん今でもこの曲は好きなのですが、変わり種三曲もずいぶん好きになりましたので、初めのころのような対比感はもうほとんどありません。それがやや寂しくもあります。

構成の面でも事情は似ています。イントロ後「ジャ!」とキメが入り、AメロA'メロ、Bメロ、キメ、サビと、ごくごく普通な感じで構成されています。この後もあまり意外な展開はなく、「僕をしまってほしい」とちょっとフレーズを変えただけでサビを繰り返し、ふつうに終わります。非常にあっさりです。爽やかな曲調もあいまって、あっさり感がかなり高いものになっているのです。かなり技巧を凝らしたソースのコッテリ料理を連続で出されてきたあとのシャーベットのような感覚を味わうことができます。

そしてこの、アコギの澄んだ音といったら!トップは単板でしょとか弦はヘヴィゲージでしょとか、そういう次元でないですね。ギターももちろんいいものなんでしょうけど、なによりストロークの巧さこそがこの音を実現するのだと思います。安全地帯の三人(玉置さん矢萩さん武沢さん)なら、ギターでなくてバンジョーでもこの雰囲気を再現できるんじゃないかってくらいストロークが巧いんです。わたくしアコギも必要に応じて弾きますが、こんな音が出せたためしがありません。もちろん目指してますし、ギター屋さんで試奏して高めのギターで「ジャ!」とやって(「ジョンがくれたGUITAR」のキメ)、おおこの音は!と一瞬興奮するんですけど、それでもやっぱり違うんですよ。こんな澄んだ鋭い音は出ていないのです。そして、「いい音でしょう?いやこれ一本だけ入りましてねえ」とかおっしゃる店員さんに、「すみません修行して出直してきます……」と言いうなだれて帰ってゆくのです。金がなくて高いギターを買えない口実に使っているわけではけっしてありません(笑)。

さて歌詞ですが……「長い髪がかっこよかった」のは、70年代ですかね、みんな髪長かったです。ツェッペリンやパープルはもちろん、ビートルズだって長くしてましたし、西城秀樹さんとかも長かったです。俳優さんも長かったですねえ。これはもう、若者のブームだったのです。80年代になると、ハードロック、ヘヴィメタル界隈を除いてみなさんだんだん短くなっていきます。90年代ではもう絶滅危惧種です(笑)。ですから、「かっこよかった」と過去形になっているわけなんですね。いまはかっこよく思わないのです。

髪を伸ばして、あこがれのロックスターに近づきたかった少年時代、パンタロン履いてティアドロップのサングラスかけて……「彼女」も、福井ミカさんみたいなバンダナとかして、みんなで集まって音楽を楽しんでいた日々(安全地帯の合宿所は女人禁制でしたが)、もうあんな日はこないとわかっているのです。

ですが、あのころ憧れたギターは、まだ同じショーウィンドウに飾ってあった……たんに売れ残った?それとも一回売れて、持ち主が下取りに出した?いずれにしろ、強烈なデジャヴ感があります。ちょっとおっさんになった自分の顔が、あのころショーウィンドウに映っていた18の少年の顔に戻ったかのように、あのギターへのあこがれの表情、それは、そのギターをもつロックスターへのあこがれの表情でもあるのですが、まったく同じだったわけです。「ジョン」のギターといえば、アコギではD28、エレキだとリッケンバッカーかカジノでしょうかね、いずれにしろ18の少年に買えるシロモノではありません。だからこそ、あこがれはますます募ったのです。もちろん、「ジョン」はなにもレノンでなくても、少年にとってのあこがれのロックスターであればだれでもこの体験はできるでしょう。ペイジのレスポール、ブラックモアのストラトキャスター……今でこそ日本メーカーOEMの国内モノどころか、インドネシア産とかのそれらしい形をしたモノが一万円とかで買えてしまいますけど、当時はそんなものありませんでしたので、どんなに安くても当時の値段で五万円くらいの国内コピーモノを使わざるを得ませんでした。いつかはギブソン、いつかはフェンダーと思いつつ。

余談になりますけど、このころの国内コピーモノが「ジャパンヴィンテージ」とかいって妙に高い値段がついているようです。はあ?それってただの中古じゃないの?そんなこというならわたしのギターなんてほとんどジャパンヴィンテージ(のなりかけ)だよ?と訝しく思うのですが、ブームというものは全く不思議なもので、ほんとにわたくしのボロギターたちにもそれなりの値段が付くようです、驚きです(笑)。

18の少年は夢いっぱいで、「ぶつかるものを恐れもしない心」をもっていたのですが、大人になったいま、「ぶつかるもの」がどんなものか知ってしまったので、恐れまくりです。ですがそのギターを前にした今、表情はあの頃の、怖いもの知らずな顔に戻っていた……ああそうか、おれも大人になったんだな……としみじみ思うわけです。

そのギターがくれたときめき、夢は遠い日のものとなりました。玉置さんならその夢を叶えたといえるでしょうけども、多くの人はもう楽器も手放してしまい「ジャパン・ヴィンテージ」市場を賑わすことになっています。玉置さんも、すでに愛機・名機を購入したりエンドースされたりと、いろいろ入手してしまっているのでいまさらなんですが、ショーウィンドウにあったギターの前で、かつての夢やあこがれを一瞬思いだす、いま手に入れたら……もちろん買えるんです、でも、いらないんですよ。だって、あの頃に手に入れるのと、いま手に入れるのとではぜんぜん違うからです。いまだと、コレクションの一本にしかなりません。もしいまあの頃の少年だった自分に戻ってこのギターを手に入れられていたなら、一生モノのギターとなって、きっと別の音楽体験を積み、人生さえいまとは違ったものになっていたんじゃないか……と思えるんです。もしあの頃ハコスカが買えていたら、きっとおれは暴走族でイキリまくって、バイオレンスな人生を送っていたかもしれない……よかった、あの頃金がなくて、とまではいきませんが(笑)、こういうふうに物品との出会いが人生を変えることは起こっているはずなのです。

さて、そんな人生に、少年のころから伴走してきてくれた「彼女」、でもこの彼女、そんなロマンにはとんと興味がないのかもしれません。ふりむくとそこにいて、「どうしたの?」とニコニコしてる感じです。「あ、いや……」と言葉を濁します。10代のころ、あんなにあこがれたジョンのギターで、きっと当時彼女にも散々語っているはずなんですが、もちろん彼女はそんなことパーフェクトに聴き流していたので覚えているはずもなく(笑)、いまも足を止めた意味がよくわかっていないものと思われます。「うっそお!マジ?これってジョンのギターじゃない?いくら?〇万?買える買える!買っちゃいなよ!」とか一緒に18の笑顔になられたらそれはそれで怖いのでそれでいいんですけども、こういうちょっとした気持ちのすれ違いの「さびしさ」に僕を浸らせてほしいと、唇をかみしめ、しばしショーウィンドウの前にとどまるのです。

さて、後半の歌詞はちょっと謎なのです。大人になったらわかるかなと思っていましたが、1991年当時のメンバーの歳をとうに超えた今でもよくわかりません(笑)。「風のGAME」「消えてゆく幻」とは、普通に考えれば、そのミュージシャンへのあこがれなのだと思います。自分のなかにギリギリ残っていた音楽への情熱、これが完全に消えてしまう前に、さあ、買うんだ!(笑)と一念発起して、買ってしまったんだと思います。だって、そんなギターもう一品物で、逃すと二度と買えません。「あたたかい春の陽ざしがやさしくなるとき」まで、ちょっと山奥のダム工事現場に出稼ぎに行ってくる……だからこのギター、守っていてくれ……くらいの決心が必要な値札が付いていたのかもしれません。もちろん、玉置さんなら数百万の値段がついていてもさらっと買えちゃうんだとは思うんです。だから、ここの箇所はよくわかりませんでした。ですが、かりにこの主人公が玉置さんのような立場の人だったとしたら、きっと少年のころのあこがれのギターを手に入れて、もしかして少年時代のルーツを刺激に新しい創作意欲がバンバン湧いてきて、半年くらい曲作り合宿とかレコーディングとかに入る、ということが起こるのかもしれないなあ、と思えてきました。ですから、現時点では、わたくしのような人間だとダム現場に(笑)、玉置さんのような人だとスタジオに、「彼女」を置いて出かけることになるのかもなあ、とこの歌詞を解釈しています。そこまで大げさでなくても、ちょっとこれから何か月かこのギターに夢中になって、いろいろ昔を思い出して弾いたり語ったりする酔狂な感じになるけど、きっと春頃には覚めるから、それまで、ごめんね、大事な思い出なんだよ、くらいのことかもわかりませんけども。

そんなギターがあるなんてうらやましいなあ、と思います。わたくし、モトリーのギタリストがどんなギター使っていたかよくわかりません(笑)。高崎晃モデルほしいなあとかは思ってましたけど、いまはまったくほしくないので、やはりわたくしには縁のない世界のことだったようです。いいなあ……ギターみてたらふりむく街に大人になった彼女が微笑んでいて……(まだ言ってる)。

安全地帯8〜太陽 [ 安全地帯 ]

価格:1,509円
(2021/6/27 15:12時点)
感想(0件)


Listen on Apple Music

2021年06月26日

エネルギー


安全地帯VIII 太陽』七曲目、「エネルギー」です。

たまーに安全地帯に出てくるボサノバっぽい曲ですね。たまに出てくるだけですので、安全地帯らしいか、らしくないかでいえば、らしくない曲……だと思っておりました。

しかし、よくよく振り返って考えてみますと、『安全地帯V』のころからブルースはやるわジャズはやるわと安全地帯はみずからのイメージを変え続けていたのにもかかわらず、「安全地帯らしい」というイメージが『安全地帯IV』のころで固まってしまっている自分にハッと気づかされるのです。ましてや『ALL I DO』におけるジャンル不明の変な曲、『安全地帯VII 夢の都』におけるオールドスタイルのロックンロール、この『安全地帯VIII 太陽』における民謡・ワールドミュージック等々によって、『安全地帯IV』までのイメージをことごとく自ら壊し進化してきた玉置さん・安全地帯ですから、もはや「安全地帯らしさ」はとっくにリニューアルされており、新しい次元に入っていたとみるべきでしょう。いや、わかる人というか変化に柔軟な人ならとっくの昔に気がついていたのだと思いますが、わたくし、30年も経ってから気づかされたことがいまさら多々あるのです。まるで、ソドムとゴモラの伝説は本当だったのではないか、なぜなら地層をみるとこの時期に死海近辺に硫黄を含んだ巨大隕石が衝突したと思われる痕跡があるからだ!とか、いったい何千年経ってんだよってことを言いだす研究者のような気分です(笑)。あ、いや、あれですよ、西洋では、日本人には計り知れない重要な意義があるんだと思います、そういう研究には。安全地帯マニアを自認するわたくしにとっても『安全地帯V』以降の変化は極めて重大事ですが、安全地帯に興味がある人以外にとっては非常にどうでもいいことであることによく似ています。

さてそんな神の奇蹟的なものを追いかけ続けるわたくし、この曲も、30年前の安全地帯に起こっていた変化をいまから遠く振り返ってその痕跡を……いや、そんなたいしたことはできないので、普段通り気がついたことを書き散らかすだけになるんですけど(笑)。だいたい、リアルタイムで体験していましたからね、わたくし。

曲は、ドラムのいわゆるエイトビートで始められます。歪みの少ないギターがそんなに難しくなさそうな(笑)刻みを主体としたフレーズで絡んでゆき、何やらシンセで出したらしきメインテーマが奏でられます。この裏で、ボン・ボボンと一定のリズムを刻むベース、クリーントーンでアオリ的アルペジオを入れるギター、とフル構成になるんですけども、リズムやメロディーを抜きにすると、なんだか「真夏のマリア」とか「マスカレード」的な、なつかしい安全地帯の黄金パターンであるようにも思えます。

歌に入り、やはりギターが細かい短音フレーズでボーカルを盛り上げます。これもかつての安全地帯によく見られた手法で……と書こうとして、該当する曲を探したのですが、あれ?どうもピッタリくる曲が見当たりません。しいていえば「眠れない隣人」とか「ブルーに泣いてる」なんですけど……どうも違う?もしかして新しいパターンなのかとも一瞬思いましたが、たぶんわたしが思いだせないだけでしょう。安全地帯「らしい」編曲です、とちょっとドキドキしながら書いておきます(笑)。Aメロのボーカルラインはあんまり泣かせる気はないんだろうな、と思えるようなメロディーですので、ここだけをもってわたくし安全地帯「らしくない」とみなしていたようです。

曲は何らの予感も抱かせずに突如リズムを変え、Bメロ的な展開に入ります。この展開、Bメロに行くためにはちょっとしたキメを入れてからのほうがいいよねとか、そういう余計なことを一切考えずにサラッと移行します。サラッとしすぎていて見事です。見事すぎて当時は頭が追い付きませんでした。えっ水彩画なのに絵具を水で溶かずに塗りつけちゃうの?下塗りは薄い色からとかそういうセオリーは無視ですか、みたいな天才の偉業を見せられたわたくし、早くも大混乱でした。そして武沢トーンの「シャーン!」でキメが入り、曲はまたイントロに戻ります。

AメロBメロときて、ここで武沢トーンの二拍子が「シャシャン!」とキメを入れます。うーむ!なんという美しさ!二拍子を入れる手法自体は「Lazy Daisy」ですでにあったんですけど、ムダに入れた変拍子的な感じはまったくなく、カッコよさキレのよさを抜群に表現しています。

そして曲はサビへ入ります。「愛だけがエネルギー」という、力強くも悲しいメッセージ性あることばが玉置さんによって当時のわたくしがハマった泣きのメロディーで語られます。ほかの部分はなんだか平坦なメロディーに聴こえていたのに、ここだけ「うおっ」と反応しました。いま思えば、おそらく他の箇所との対比でここの部分がとりわけ泣けるメロディに感じられたんだと思うんです。ここの部分を聴きたいがばかりにこの曲を何度もリピートしたものです。曲全体でなく、特定の箇所をお目当てに聴きまくるという不思議な体験でした。

そしてさらに曲は展開し、歌なしのBメロのようなフレーズを経て武沢トーン「シャリーン!」からさらにメロディアスな第二サビとでもいうべき箇所、つづけて「接近戦……ない……」という、もうなんというか、デモテープでは玉置さんがいつもの調子で唸りを入れていただけなんじゃないの?と思えるような音に言葉を当てたかのように思われるにフレーズに突入します。そして、ギターソロを伴う間奏なんですが、これも間奏というべきなのか、むしろ「ない……ない……」の箇所を間奏って言うべきなんじゃないのかと、もう頭の中に持っていた様式はグチャグチャです。そしてさらに武沢トーン「シャリーン!」を合図にしたかのように、「愛だけがエネルギー」、そして第二サビは繰り返さず、「どうせどうか……ない……ない……」と、もうやりたい放題です。まるで予想できません。

曲は唐突にイントロに戻り、玉置さんの「ない……ない……」をボイスチェンジャーで加工したような声と、軽く歪ませたギターのフレーズの区別がつきづらい、不思議な感覚を比較的長めのアウトロとして味わわせて、フェードアウトしていきます。

いやこれ!高度すぎでしょ!メタリカの『メタルジャスティス』だってこんなに複雑じゃないよ!とんでもない凝った構成です。どうやったらこんな構成ができるのか……たぶん、いつものことなんですが、パーツをつくってから構成を考えて組み合わせたんじゃないんでしょうね。玉置さん、たぶん一発とか二発でこれか、これに近いデモを弾き語りで作っちゃったんじゃないかと思います。即興で。そうでないとこんな自然なのに複雑な曲の展開にならないと思うんです。もちろん普通に考えればメンバーはたまったもんじゃないんですが、そこは何せ安全地帯ですから、きっと玉置さんのインプロヴィゼーションをリアルタイムに近く受信しつつ鉄壁のアンサンブルを生み出したに違いないのです。ここにこそ、この時期の安全地帯に顕著にみられる「変化」というか、もともと持っていた安全地帯のポテンシャルが、玉置さんの覚醒にも似たこの弾けっぷりによって引き出された奇蹟があると思われるのです。

さて歌詞ですが……安全地帯のテンション高い編曲・演奏と同じく、松井さんも玉置さんがマジでこう言ってるんじゃないかっていうリアルなことばを、抜群のリズム感覚で音に乗せてきます。

一番は男、理屈っぽい男になって禁欲……わかるようなわからないような!玉置さんだからリアルなのであって、わたくしちょっと経験が足りなすぎるようです(笑)。だいぶムリして語るとですね、マジで愛ってわかりっこないんですよ。気分のことなの?それとも行為のことなの?それともそういう「もの」とか「こと」でなくって、それらを形容することばなの?もしそうなら、「もの・こと」でないのだから、「ある」「ない」で語ることは初めからナンセンスで、気分なり行為なりの様態をそう形容するのにふさわしいかふさわしくないかってだけなんじゃないか……やや、もっとわかりっこないことになってしまいました!

二番は女、皮肉っぽい女になって愛欲はもういい……すみません、ぜんぜんわかりません!こちらは経験ゼロです!ですから、めちゃめちゃムリして想像するとですね、「夢」も愛に似て、あるとかないとかじゃないんですよ、様態なんです。だから心に描いていたような「気がする」様態にジャストフィットかそれに近いってことはほぼ起こらないわけなんです。「気がする」だけであって、描いてなどいないんです。だって、「もの・こと」でないものは具体像がありませんから、描きようがありません。ですが、「これじゃない」ことだけはわかるんですね。悲しいことに「どうもこうもない」のです。だから噓だってわかっているんですけど、それらしい幸せに浸ることにしなければならないのです。

だからKISSなんかせまってみたりルナティック(狂気)なふりをしたりと、いろいろやってみるんですが、ちっとも愛や夢で満たされた気分はしないわけです。相手がちゃんとそこにいるのに!そこにいる相手と、瞳と瞳で通じ合ってみたり敢えて肌にふれることを避けてみたりと、なんというか、隔靴掻痒な営みも愛やそれによって実現する夢の形であるには違いないのに、試さずにはいられないのです。そうしたって「これ」じゃないんじゃないか?という、どうにもならない疑念にさいなまれているからです。……ちくしょうラブラブじゃねえかよ、ふつうの愛にはもう飽きたってか?贅沢な!(笑)

なぜそんなに疑っているのか?なぜそんなに信じられないのか?きっと、「愛だけがエネルギー」だと、これだけはわかっているからなのでしょう。だからこそ、肌を合わせなくてもそこに「ある」のが愛だとすれば、きっとふたりは生きてゆけると、信じたからなのです。そう、「愛」がそこに「ある」ならば、「からみつく運命」だって問題ではないのです。それを解決するエネルギーは常に確保されるのです。

「接近戦」「延長戦」「感情戦」は単なる言葉遊びなんじゃないかと少し疑いたくなりますけど(笑)、これもふたりの距離感や交流がいかなる形態をとろうとも、「愛」がエネルギーをくれることを実感することさえできれば、これが愛なのだと信じられるような気がする、という、一種の検査、アセスメント方法なのでしょう。繰り返される「どう」「こう」「そう」「ない」は、どうあっても大丈夫だ、きっと大丈夫だ、だってそれは愛で、そこに「ある」んだから、ほら、エネルギーはどんどん生まれてくるよ……という、おいおい大丈夫かよ愛をそんなに弄ぶもんじゃないよ、と傍からは思わず心配になってしまうほどの切ない愛を描いているように思われるのです。だめだ、そんな愛、高度すぎて理解できねえー(笑)。ふつうに恋人は大事にしたほうがいいんじゃないかなー、と思います!

そんなわけで、わたくしの妄想がぜんぜん追いつく気配すらないほどのアクロバティックな恋愛を描いている歌でした。いや、完敗です。最近ラブソングが少なくて恋愛妄想が書けねえなー腕がなまっちまうぜとかいい気になっておりましたが、どうしてどうして、修行が足りません。

安全地帯8〜太陽 [ 安全地帯 ]

価格:1,509円
(2021/6/26 10:59時点)
感想(0件)


Listen on Apple Music

2021年06月19日

SEK'K'EN=GO


安全地帯VIII 太陽』六曲目「SEK'K'EN=GO」です。

タイトルだけだと"LOVE セッカン DO IT"と同じくらい意味が分からないですね。「世間GO?」「席巻GO?」「石鹸GO?」歌詞カードをみるとすぐに「世間GO」だとわかるんですけども、「せけんごー」でなくて、「せっけんごー」って歌ってますよね。だから、タイトルはそれに近い表音にしたということなのでしょう。

ほとんど終始繰り返される全体のテーマともいえるギターの八分フレーズ(たぶん矢萩さん)、そして間奏での十六分の細かいシンセフレーズ、「WE ARE WE ARE」という祭礼での唱和のような暗いうなり、チャカポコチャカポコ鳴らされるなんらかの打楽器が、この曲全体のイメージを作っています。それに玉置さんの短いフレーズをどんどん重ねてゆくボーカル、武沢さんのサビでのカッティング、小節のシッポからアタマにかけて「ボキボキッ!……ボキボキッ!……」とアクセントを入れる六土さんのベース、響きの少ない乾いた音でそれらすべてを指揮者のように複雑にリードする田中さん(多分この人がいちばん苦労したと思います)が非常にロックっぽい幹を曲の真ん中に通している感じの、まさに意欲作というか、こんな曲世界中みてもなかったんじゃないのと思われる先進的な楽曲です。このアルバムにおけるもうひとつの「太陽」といってもいいでしょう。それくらい存在感のある曲です。

いきなり当時の所感ですが、お子ちゃまだったわたくし、そしてなにより80年代の耳と頭しかもっていないに等しかったわたくし、この曲の魅力はほんとにわかりませんでした。耳も頭もないんだからこの曲が響くわけがありません。アルバムをはじめて通して聴いているときなどは、もうこのへんで「またこういう曲か!そろそろ勘弁してくれ!どうしちゃったんだよ安全地帯!」と頭を抱えていたように思います。安全地帯の進化に追いつけなかったんです。子どもとはいえそれまでの音源はほぼ余さず聴いていたのですから、いっぱしの安全地帯マスターのような気分でいただけに挫折感は大きかったです。な、なんだこれついていけねえ……が正直な感想でした。年単位で聴き込むことで慣れて、そのうち快感に変わってくるという過程を経なければならなかったのです。もちろん今となっては「もう一つの太陽」と思うくらいですから、これでもこの曲の凄さと良さはわかっているつもりではあるのですが、まだまだこれからわかってくる過程にあるかもしれず、油断はできません。

さて、この曲は五分近い大曲ですし、歌詞の量も他曲の二倍くらいあります。どこからどう語るべきか、ちょっと悩みますね。さしあたり「TVショー」とか「慌ててひねる」ってちょっともう現代の感覚でないですから、その辺から搦め手で参りましょうか(笑)。

世界が「困ったモザイク」なのは現代でも同じなんですが、ようするに世界ではモザイク模様のようにあちこちでいろいろなことが、その熱量も濃淡さまざまに同時進行で起こっているわけです。「ひょうきん族」に勝って土曜八時戦争を制した「加トちゃんケンちゃん」もまた視聴率低下に苦しんでいたとかそういうどうでもいいことが日本のTVで起こっているかと思えば、北アフリカでは軍事政権のリーダーが威勢のいいことを言って大国を刺激しているとか、アラブではとある産油国が隣国に侵攻しているとか、ソビエト連邦でクーデターが起こったとかそれで日本に来たばっかりだったゴルバチョフが軟禁されたとか、そういうアチアチの事態も起こりました。そうかと思えば「ターミネーター2」が公開されて、劇場を出てくる人がみんな世界の平和を守るんだ的な顔をしていたりとかフレディー・マーキュリーが亡くなったと聞いて頭の中を「The Show must Go on」がグルグル流れたりとか、そういう文化的というか芸能ごとの世界でも、ちょっと一年で起こるには盛りだくさん過ぎるんじゃないのと思えるようなことが次々に起こりました。そうそう、長野五輪の開催が決定したのもこの年でしたね。ついつい、マジかよ?と思って夕刊を開いたり、まだボタン式でなく「つまみ」式の残っていたテレビのスイッチを入れたりして(つまみをひねって、そしてチャンネルを変えるためにもスイッチをひねり回して)情勢を確認したくなるようなことが起こったのです。いまだったらとりあえずGoogle Newsを開くような場面かもしれませんが当時はそんなものなかったので、ニュースが一番速いのはTVだったわけなのです。ニュースのロボットなのは当時も今もかもわかりませんが、そのニュースを速報でリリースするのが主にTVでした。

「世間」というものは実体がありませんので、その幻の像を作るのはマスコミとその視聴者という非常に単純な構図でした。TVが何かを流す、それを観ていた視聴者が周囲の人と共有する、その過程で印象や感想が多少の差こそあれなんとなく統一されてくる、みたいな感覚が当時あったのです。もちろん、これはインターネットを介してソースがいくつかに増えて構造が多少複雑になった現代でも、根本的な事情は変わりません。人間は影響され、そして幻の集団、「世間」をつくるのです。

世間はGOします。GOGOです。そして賛成も称賛もGOGO、非難もGOGOです(笑うところ)。そんなつまらないことに「GAMEの気分」ですし「朝から晩まで夢中」です。そして「どこからどこまでほんとかわからない」のも昔と変わりません。「トレンド」「ゴシップ」「コメント」という非常に自堕落で非生産的なものが、何かいいものであるかのように思われてくる情報社会なのです、いまも昔も。

ところで、これを覚えている人は間違いなく40代以上だと思いますが、湾岸戦争で多国籍軍に日本はもちろん参加せず(できず)、「お金を払えば済む」みたいな態度をとったと非難されたことがありました。バカ言ってんじゃないよ、おカネ稼ぐの大変なんだぞ、命を削って稼いでるんだぞ、その貴重な金を出したのに文句言われるってなんなんだよともちろん今なら思うんですけど、ギリギリバブル崩壊前だった日本は金持ち国だという認識が世界的にありましたから、金持ちが小金を出して日和ったみたいなイメージを持たれてしまったという報道がありました。その後バブルは崩壊しますし、ふんだりけったりです。

このように、松井さんのこの歌詞は、基本的な枠組みは現代でも通じるとは思うのですが、当時を知る人でなければ細部がよくわからないことになると思います。「真剣(勝負)をかわして」マジになるのカッコ悪いよねという態度をとることや、「学歴の差」?そんなの関係ねえーよ!という虚勢をはるのは現代でも似てますかね?当時の若者だったわたくし、たぶん現代の若者よりは学歴の差を気にする世代な気がしますし、現代の若者よりは真剣勝負を好む世代でもあると思いますから、「かわして」「めげない」が単なるポーズであるという本音がよりリアルに感じられるように思います。いまの若い人からみた私たちの世代(氷河期世代)って、その上下の世代に比べて学歴を気にしなかったり、真剣勝負にシラケているように見えますでしょうか?きっとたぶんそうじゃないですよね。当時は若かったですから、そういうポーズをとっていたにすぎないのになんとなく本気でそう思い込んでいたというだけのことです。ですから、松井さんに見透かされて、玉置さんのボーカルで喝破されてしまったというわけです。

曲はAメロBメロ、WE ARE WE ARE、またAメロBメロときて、サビに行きます。「破裂NIGHT」のところです。ここの、おそらく武沢さんのカッティング、猛烈にかっこいいですね。いや、もちろんロックでは標準的なカッティングなんですけども、武沢さんがやるとそのトーンとタイミングの切れについ耳がいくんです。玉置さんのボーカルが珍しく「NIGHT」「CRAZY DANCE」なんて英単語を使っていてもその従来との違和感などどうでもよくなるくらい武沢さんの音を追うのです。こうなるともう重度の武沢病といってもいいでしょう。

そしてシンセ16分フレーズの間奏が入ります。このとき、非常に地味なんですが、後半で武沢さんのカッティングワークが入ります。もっと音大きく入れればいいのに!そしてまたAメロBメロ、サビで、間奏に入ります。例の16分シンセフレーズがまた始まり、今度は音量充分で矢萩さんソロが、武沢さんカッティングとともに響きます。このふたつの間奏がけっこうなボリュームがあって、この後の落ちサビ、そしてWE ARE WE ARE〜DANCE DANCEで終わる曲と一体化してゆく様は見事な構成美を見せられた!と感動させられます。

これだけ皮肉の効いた歌詞に、この見事な演奏と曲の構成、これはまさに当時の安全地帯でなければ成し得ない曲であって、そして当時のモザイク世相があってはじめて曲全体のイメージが成立するという、いってみれば世界全体を舞台とした劇場……いや、当時の安全地帯が石原さんとの恋愛物語であって日本全国のうわさやゴシップまで含んだ壮大な劇場装置だという話はだいぶ前に書いた気がしますが、この時代の安全地帯は、恋愛に限らぬさまざまな人間模様を世界スケールで表現する劇場装置へと変わっていったとでもいうべきでしょうか、ともかく、恋愛劇場に取り残されていた当時のわたしには理解できるものではなかったように思われるのです。

安全地帯8〜太陽 [ 安全地帯 ]

価格:1,571円
(2022/1/26 15:28時点)
感想(0件)


Listen on Apple Music

2021年06月06日

俺はどこか狂っているのかもしれない


安全地帯VIII 太陽』五曲目、「俺はどこか狂っているのかもしれない」です。

内容も文字数も衝撃的なタイトルです。これがシングルのカップリングとして曲名がシングル盤のジャケットに印刷されていたんですから、かなり攻めてるんですけども、攻めたから売れるとは限らない……何ィ!あの安全地帯が「俺はどこか狂っているのかもしれない」だとォ?いったいどんな曲なんだ?これは聴かねば!とはなりそうもありませんから、もちろん売れるための仕掛けではなかったことでしょう。わたくしの友人などは「最近玉置は陽水病にかかってるな」などと言っていましたが、陽水さんにもここまで攻めたスタイルの曲はなかったと思います。ちなみに1991年当時、その陽水さんは「少年時代」で大ヒットを飛ばしています。

安全地帯の必殺技、遠くから響いてきて粘っこく絡みついてくる矢萩さんのギターで始まり、武沢さんの「ジャッ!ジャキーン!ジャッ!ジャキーン!」というカミソリストロークで空間を切り刻みます。六土さんの歪みを押さえたベースがそのリズムを下支えし、田中さんのドラムが、早め早めのスネアで、しかし決して先走らず絶妙のスピード感を維持します。こりゃまさに安全地帯の王道アンサンブル手法です。曲調がぜんぜん従来の王道安全地帯のそれではないだけです。ほかに、イントロ等で聴かれるシンセが「ココココーン(ココーンココーンココーン、とディレイ)…」と入ってますね。とても印象的です。

そしてこの曲は、以前どこかの記事で書いたのですが、安全地帯が当時(1992年でしょうね)お正月特番か何かに出たときに、三曲ばかりライブやったんですよ。この曲はその一曲でした。よりによってこの曲を?と不思議に思った記憶があります。うすーい記憶ですが、そのとき武沢さんが使っていたギターがいつものターナーでなくてストラトだったのが驚きであるとともにちょっとうれしかったです。わたくしストラト使いですから。

武沢さんがターナー以外で演奏するのも異常事態といえば異常事態だったわけですが、なにより異常だったのはこの曲調です。なにしろメロディーが泣かせに来る気ゼロ!「すげぇ」とか言ってるし!「デリカシー」の攻撃的・先鋭的な個所だけ強調して恋愛要素を完全に廃したかのような、もはや安全地帯に人々が求めるものをワザと外したんじゃないかと思われる演奏と歌詞の内容です。そもそも、安全地帯がとんでもない腕の立つロックバンドだということはまだまだ認知を得ていませんでした。多くの人々にとっては、玉置さんが渋くて、やたらめったらロマンチックな曲をやるバンド、という立ち位置だったのです。ですから、この曲の魅力がすぐに理解されることはかなり難しかったといっていいでしょう。当時このアルバムを買った人16万人強と、その人たちから借りて聴いた人や店でレンタルした人がどのくらいいたかわかりませんが、まあ数百万人ってところでしょうかね、その人たちのうちでこの魅力に気づく人たちだけに訴えかけるという戦略になってしまっています。まあ安全地帯は、セールス的にはもう頂点極めたことがありますから、セールスはある程度どうでもよくて新しい方向に進もう、自分たちの好きな音楽をやりたいようにやろうという意図が多少なりともあったのかもしれません。

それにしても「俺はどこか狂っているのかもしれない」なんて!玉置さん何言ってんの?ですよね。『幸せになるために生まれてきたんだから』では、志田さんが当時の玉置さんの、ほんとうに狂わんばかりの苦悩を推し量っていろいろお書きになっているんですけども、すごく要約すると、好きな音楽をやりたい、でもそうすると売れない、そもそもバブルが崩壊して世の中全体に低調だから仕事があんまりない、売れなくて仕事がないとギスギスしてくる、その直前期に売れ過ぎたことで心身の疲労が蓄積しすぎていたという要素が絡んで仕事のリズムが狂う、といったようなことなんです。これは、バブルとその崩壊を経験した世代で、さらにその影響をモロに受けたことのある人でないと想像しにくいかもしれません。わたしも当時学生でしたから、知っているといや知ってるけど、厳密にはちょっと年上の人たちの話ですね。ですから、その辛さは本当にはわからないのです。金なんてなければないでどうにかなるじゃん、どうなったってバンドはできるじゃん、と、どこかで思ってしまいます。でも、それはデフレ時代の省エネな生き方を若いころから強いられてきた世代の考え方で、それでは到底実現できない活動のスケールというものを想像する器量と、その中にいた人たちの実存というものへのリスペクトが決定的に欠けているわけです。高校生が来月から月100円の小遣いでなんとかしろって言われるようなもので、ジュースも買えねえよ!彼女とマックにもいけねえじゃねえか!え?公園で散歩して水飲めばいいって?あ、あのなあ……と思うに決まってるじゃないですか。うーむ、どうもたとえまでスケールが小さくていけません(笑)。省エネ世代ですから、わたくし。

何はともあれ、狂ってるんじゃないのかと自分で心配になるほどの苦悩を抱えていた玉置さんと、その心情を推し量って歌詞を書いた松井さんですが、その見事な表現力で当時の世相と人間の悲しさを浮き彫りにしてくれています。「財テク」なんてことばいま通じるんですかね。「イタリアもの」がカッコいいって感覚ももう今はもうないんじゃないでしょうか。イタリア料理は「イタメシ」といってオシャレフード扱いでしたし、F1ではフェラーリがしばらく最高の成績を残し続けます。「なんとかーノ」とか「なんとかンチ」みたいなブランドが服飾の世界にはあふれていました。わたしがコナカとかで買ってたツルシの背広ですら「なんとかンチ」で、「イタリアものじゃない?これ」とか言っていました。外車はさすがにランボルギーニとかフェラーリに乗っている人はほとんどいませんでしたが、BMWをレンタカーで借りて恋人を迎えに行くくらいのことはしてたご時世です。人間関係つっぱるんですよ。いまだと「バブル世代はこれだからイヤだねえ」という評価が相場ってものでしょう。SPEED早すぎていまどころか過去もよく見えてませんでした。ランニングと縞パンツのまま朝飯で飯食った茶碗にお湯入れて沢庵とかボリボリやってる生活なのに、そのあとなんとかンチに着替えて花束買って外車借りて恋人を迎えに行くんですからそのギャップの凄まじさといったら、SPEEDが早すぎるどころか時空を超えたかのようです。

そんな、いまからみるとある種滑稽な光景の中ででしたが、それでも真剣だったんですよ。「君は」誰かを傷つけてたかもしれない……「君は」本気で恋をしてたかもしれない……「君は」誠実だと思われてたかもしれない……あれ、よくみると「君は」ばっかりじゃん!「俺」はどこに行ったんだよタイトル詐欺だ!いやいやいや、たぶんそうではなくてですね、俺も君も、狂ってるんじゃないかと思えるくらい、世の中ぜんぶがちぐはぐに見えたってことなんです。何が正しいとか何をしておけば安心とか何が標準的だとか、そういうことが異様に気になるようになったんですよ。たまたまわたくしがその時期多感な発達段階でそういうことを気にするようになっただっただけという可能性もなくはないですが、松本ちえこさんの「恋人試験」みたいな歌詞が刺さる時代なんです。あれ、それは70年代だったかも(自爆)。

狂気と正気というものはきっちり線が引けるものでは本来なくて同じ線上にあって、いくつかの線の上をみんな段階的に移行しています。そしてまあおおむねこのへんを正気、このへんから先を狂気ってことにしましょうと、なんとなく世間的に了解しています。アメリカ精神医学会によるDSM(診断マニュアルの一種)をちらっとでも覗いてみるとその内容に驚かされることでしょう。こんなことまで!という「症例」がてんこもりで、この世にこれらに一つも当てはまらない人なんていないんじゃないの?と思うほどです。わたしもあなたも、「俺」も「君」も、どこか狂っているのかもしれないし、どこも狂ってないのかもしれない……などと、わけのわからないことを考えさせられます。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』のように、狂気と正気の境界はあいまいなのに、その扱いを片方に属するほう(とされるほう)が一方的にキッパリと決めるというこの社会が、とてもあやういものであることに気がつかされます……。

「だんだん本当のことをやっていきたくなった」という玉置さんの叫び(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)は、「独裁者にだけはなれそうもない」というやさしさと、「見果てぬ夢しか憧れられない」という激しさの間に埋没していきます。ですから、この曲でさえ、ほんとうは玉置さんの「ほんとうのこと」よりはメンバーに配慮したもの、リスナーに寄せたものであるのかもしれません。その「ほんとうのこと」は、もしかしてわたしたちが狂気と呼ぶ域にあるのかもしれませんが、玉置さんはそれをよく自覚していて、「ほんとうのこと」ができていないと感じるギリギリの作品を生み出していきます。そんな中途半端な状況に置かれた玉置さんの辛さがにじみ出た曲と、それを代弁する松井さんの詞、それを支えるしかないメンバーたちの演奏が織りなす苦悩の渦は、いかばかり深かったことかと、想像するだに胸が苦しくなります。

仕事がそんな調子であるだけでなく、プライベートでも息苦しい思いは消えません。「君が好き」で、抱きしめても、正気と狂気に二分しようとする世間、それが「飾り物のウソ」と「ほんとうのこと」とを隔てる壁のように機能し、まるで曇りガラスの向こうにいる相手と歯切れの悪いことばで会話しているような嘘くささしか感じられず「真実味」がない……。「笑わせて」とお願いして何か気の利いたことを言ってもらっても、もうぜんぜん面白くない、自分の感性が狂気と見まごうような域に達してヒリヒリしているときには、ごくごくつまらないダジャレのような陳腐さしか感じられない……。これでは薬師丸さんも苦労されたんだなあと思えてきました。

曲は、一本調子に思えて、じつは結構バリエーションに満ちていて、約三分程度であるこの短めの曲を駆け抜けます。「さみしさに 惑わされて」と、お?Bメロに入るのかと思いきや、また「ジャッ!ジャキーン!ジャッ!ジャキーン!」と武沢さんのカミソリが炸裂し、あれまだAメロなのかなと思わせ、「ギュイーン!」とブレイクを置きます。なんというスピード感!同じパターンで「君に詫びるも」と始まり、ああはい、また「ギューン」とブレイク入れてAメロでしょと思っていたら曲は一気にスローダウンして「オーオオーオーオーオ」と朗々と玉置さんが歌うパートに入ります。まるで先を予想させる気がありません。

二番でも「君が好きでも」と始まり、ハイハイまた「オーオー」ねと思っていたら一気にテンポアップ、「街はにぎやかな蜃気楼〜つっぱろう〜SAY HELLO〜」と韻を踏みまくりのサビに突入します。キャッチーでありつつ、おそろしく攻撃的で、「ほほえんでさよなら〜」的なサビを望む人たちを拒絶するかのような、強いメッセージをグイグイと示してきます。そしてまたスローダウン、アルペジオで間奏に入ります。これは卑怯です。まだこっちは「最後に勝ちたいそうだろう」を消化できてないのにまた曲想が変わったよ!残像が残りすぎて曲想の変化についていけないよ!と思っていたら、またAメロのスピーディーなリフが始まります。「いまはいまだと逃げちまうしかない」と、永遠の真実を求めつつもそれの叶わぬ有限なる身を嘆く……というより達観したかのような諦念を吐き捨てて、曲は次のBメロ的な個所で突然に終わるのです。うーむ!最初から最後まで展開を予想できませんでした。いや、いまなら覚えてますからできますけど、それは予想したって言いませんよね。初聴ではまずムリです。当時ももちろんできていなかったと思います。

これはひとえに、あまり金のない学生だったから一回買ったCDは超ヘビーローテーションだったことと、このアルバムが10年もの間最新アルバムであったことによります。覚えてしまったんですね、体で。もはや一つひとつのフレーズが口をついて出てくるほどに染みついています。ここまで聴いたのでなければ、この曲を語る気になれるところまで好きになれたか……ちょっと自信ありません。ですが今となっては大好きな曲ですから、このブログを立ち上げてからというものこのアルバムが一番好きだとおっしゃる方や、このアルバムが最高傑作だと思うとおっしゃる方たちの存在を知ることができて、ほんとうにうれしく思ったものです。ここまで玉置さんが、そして安全地帯が苦しんで生み出したアルバムの、その一つの象徴であるこうした曲の路線が、「狂っているのかもしれない」という苦悩を受け止めることのできる人々のもとに時を超えて届いていたのだ、そしていまこうして、その感動を分かち合えるんだと、知ることができたのです。

安全地帯8〜太陽 [ 安全地帯 ]

価格:1,545円
(2021/6/6 10:48時点)
感想(0件)


Listen on Apple Music