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安全地帯・玉置浩二の音楽を語るブログ、管理人のトバです。安全地帯・玉置浩二の音楽こそが至高!と信じ続けて四十年くらい経ちました。よくそんなに信じられるものだと、自分でも驚きです。
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2021年06月06日

俺はどこか狂っているのかもしれない


安全地帯VIII 太陽』五曲目、「俺はどこか狂っているのかもしれない」です。

内容も文字数も衝撃的なタイトルです。これがシングルのカップリングとして曲名がシングル盤のジャケットに印刷されていたんですから、かなり攻めてるんですけども、攻めたから売れるとは限らない……何ィ!あの安全地帯が「俺はどこか狂っているのかもしれない」だとォ?いったいどんな曲なんだ?これは聴かねば!とはなりそうもありませんから、もちろん売れるための仕掛けではなかったことでしょう。わたくしの友人などは「最近玉置は陽水病にかかってるな」などと言っていましたが、陽水さんにもここまで攻めたスタイルの曲はなかったと思います。ちなみに1991年当時、その陽水さんは「少年時代」で大ヒットを飛ばしています。

安全地帯の必殺技、遠くから響いてきて粘っこく絡みついてくる矢萩さんのギターで始まり、武沢さんの「ジャッ!ジャキーン!ジャッ!ジャキーン!」というカミソリストロークで空間を切り刻みます。六土さんの歪みを押さえたベースがそのリズムを下支えし、田中さんのドラムが、早め早めのスネアで、しかし決して先走らず絶妙のスピード感を維持します。こりゃまさに安全地帯の王道アンサンブル手法です。曲調がぜんぜん従来の王道安全地帯のそれではないだけです。ほかに、イントロ等で聴かれるシンセが「ココココーン(ココーンココーンココーン、とディレイ)…」と入ってますね。とても印象的です。

そしてこの曲は、以前どこかの記事で書いたのですが、安全地帯が当時(1992年でしょうね)お正月特番か何かに出たときに、三曲ばかりライブやったんですよ。この曲はその一曲でした。よりによってこの曲を?と不思議に思った記憶があります。うすーい記憶ですが、そのとき武沢さんが使っていたギターがいつものターナーでなくてストラトだったのが驚きであるとともにちょっとうれしかったです。わたくしストラト使いですから。

武沢さんがターナー以外で演奏するのも異常事態といえば異常事態だったわけですが、なにより異常だったのはこの曲調です。なにしろメロディーが泣かせに来る気ゼロ!「すげぇ」とか言ってるし!「デリカシー」の攻撃的・先鋭的な個所だけ強調して恋愛要素を完全に廃したかのような、もはや安全地帯に人々が求めるものをワザと外したんじゃないかと思われる演奏と歌詞の内容です。そもそも、安全地帯がとんでもない腕の立つロックバンドだということはまだまだ認知を得ていませんでした。多くの人々にとっては、玉置さんが渋くて、やたらめったらロマンチックな曲をやるバンド、という立ち位置だったのです。ですから、この曲の魅力がすぐに理解されることはかなり難しかったといっていいでしょう。当時このアルバムを買った人16万人強と、その人たちから借りて聴いた人や店でレンタルした人がどのくらいいたかわかりませんが、まあ数百万人ってところでしょうかね、その人たちのうちでこの魅力に気づく人たちだけに訴えかけるという戦略になってしまっています。まあ安全地帯は、セールス的にはもう頂点極めたことがありますから、セールスはある程度どうでもよくて新しい方向に進もう、自分たちの好きな音楽をやりたいようにやろうという意図が多少なりともあったのかもしれません。

それにしても「俺はどこか狂っているのかもしれない」なんて!玉置さん何言ってんの?ですよね。『幸せになるために生まれてきたんだから』では、志田さんが当時の玉置さんの、ほんとうに狂わんばかりの苦悩を推し量っていろいろお書きになっているんですけども、すごく要約すると、好きな音楽をやりたい、でもそうすると売れない、そもそもバブルが崩壊して世の中全体に低調だから仕事があんまりない、売れなくて仕事がないとギスギスしてくる、その直前期に売れ過ぎたことで心身の疲労が蓄積しすぎていたという要素が絡んで仕事のリズムが狂う、といったようなことなんです。これは、バブルとその崩壊を経験した世代で、さらにその影響をモロに受けたことのある人でないと想像しにくいかもしれません。わたしも当時学生でしたから、知っているといや知ってるけど、厳密にはちょっと年上の人たちの話ですね。ですから、その辛さは本当にはわからないのです。金なんてなければないでどうにかなるじゃん、どうなったってバンドはできるじゃん、と、どこかで思ってしまいます。でも、それはデフレ時代の省エネな生き方を若いころから強いられてきた世代の考え方で、それでは到底実現できない活動のスケールというものを想像する器量と、その中にいた人たちの実存というものへのリスペクトが決定的に欠けているわけです。高校生が来月から月100円の小遣いでなんとかしろって言われるようなもので、ジュースも買えねえよ!彼女とマックにもいけねえじゃねえか!え?公園で散歩して水飲めばいいって?あ、あのなあ……と思うに決まってるじゃないですか。うーむ、どうもたとえまでスケールが小さくていけません(笑)。省エネ世代ですから、わたくし。

何はともあれ、狂ってるんじゃないのかと自分で心配になるほどの苦悩を抱えていた玉置さんと、その心情を推し量って歌詞を書いた松井さんですが、その見事な表現力で当時の世相と人間の悲しさを浮き彫りにしてくれています。「財テク」なんてことばいま通じるんですかね。「イタリアもの」がカッコいいって感覚ももう今はもうないんじゃないでしょうか。イタリア料理は「イタメシ」といってオシャレフード扱いでしたし、F1ではフェラーリがしばらく最高の成績を残し続けます。「なんとかーノ」とか「なんとかンチ」みたいなブランドが服飾の世界にはあふれていました。わたしがコナカとかで買ってたツルシの背広ですら「なんとかンチ」で、「イタリアものじゃない?これ」とか言っていました。外車はさすがにランボルギーニとかフェラーリに乗っている人はほとんどいませんでしたが、BMWをレンタカーで借りて恋人を迎えに行くくらいのことはしてたご時世です。人間関係つっぱるんですよ。いまだと「バブル世代はこれだからイヤだねえ」という評価が相場ってものでしょう。SPEED早すぎていまどころか過去もよく見えてませんでした。ランニングと縞パンツのまま朝飯で飯食った茶碗にお湯入れて沢庵とかボリボリやってる生活なのに、そのあとなんとかンチに着替えて花束買って外車借りて恋人を迎えに行くんですからそのギャップの凄まじさといったら、SPEEDが早すぎるどころか時空を超えたかのようです。

そんな、いまからみるとある種滑稽な光景の中ででしたが、それでも真剣だったんですよ。「君は」誰かを傷つけてたかもしれない……「君は」本気で恋をしてたかもしれない……「君は」誠実だと思われてたかもしれない……あれ、よくみると「君は」ばっかりじゃん!「俺」はどこに行ったんだよタイトル詐欺だ!いやいやいや、たぶんそうではなくてですね、俺も君も、狂ってるんじゃないかと思えるくらい、世の中ぜんぶがちぐはぐに見えたってことなんです。何が正しいとか何をしておけば安心とか何が標準的だとか、そういうことが異様に気になるようになったんですよ。たまたまわたくしがその時期多感な発達段階でそういうことを気にするようになっただっただけという可能性もなくはないですが、松本ちえこさんの「恋人試験」みたいな歌詞が刺さる時代なんです。あれ、それは70年代だったかも(自爆)。

狂気と正気というものはきっちり線が引けるものでは本来なくて同じ線上にあって、いくつかの線の上をみんな段階的に移行しています。そしてまあおおむねこのへんを正気、このへんから先を狂気ってことにしましょうと、なんとなく世間的に了解しています。アメリカ精神医学会によるDSM(診断マニュアルの一種)をちらっとでも覗いてみるとその内容に驚かされることでしょう。こんなことまで!という「症例」がてんこもりで、この世にこれらに一つも当てはまらない人なんていないんじゃないの?と思うほどです。わたしもあなたも、「俺」も「君」も、どこか狂っているのかもしれないし、どこも狂ってないのかもしれない……などと、わけのわからないことを考えさせられます。ミシェル・フーコーの『狂気の歴史』のように、狂気と正気の境界はあいまいなのに、その扱いを片方に属するほう(とされるほう)が一方的にキッパリと決めるというこの社会が、とてもあやういものであることに気がつかされます……。

「だんだん本当のことをやっていきたくなった」という玉置さんの叫び(『幸せになるために生まれてきたんだから』より)は、「独裁者にだけはなれそうもない」というやさしさと、「見果てぬ夢しか憧れられない」という激しさの間に埋没していきます。ですから、この曲でさえ、ほんとうは玉置さんの「ほんとうのこと」よりはメンバーに配慮したもの、リスナーに寄せたものであるのかもしれません。その「ほんとうのこと」は、もしかしてわたしたちが狂気と呼ぶ域にあるのかもしれませんが、玉置さんはそれをよく自覚していて、「ほんとうのこと」ができていないと感じるギリギリの作品を生み出していきます。そんな中途半端な状況に置かれた玉置さんの辛さがにじみ出た曲と、それを代弁する松井さんの詞、それを支えるしかないメンバーたちの演奏が織りなす苦悩の渦は、いかばかり深かったことかと、想像するだに胸が苦しくなります。

仕事がそんな調子であるだけでなく、プライベートでも息苦しい思いは消えません。「君が好き」で、抱きしめても、正気と狂気に二分しようとする世間、それが「飾り物のウソ」と「ほんとうのこと」とを隔てる壁のように機能し、まるで曇りガラスの向こうにいる相手と歯切れの悪いことばで会話しているような嘘くささしか感じられず「真実味」がない……。「笑わせて」とお願いして何か気の利いたことを言ってもらっても、もうぜんぜん面白くない、自分の感性が狂気と見まごうような域に達してヒリヒリしているときには、ごくごくつまらないダジャレのような陳腐さしか感じられない……。これでは薬師丸さんも苦労されたんだなあと思えてきました。

曲は、一本調子に思えて、じつは結構バリエーションに満ちていて、約三分程度であるこの短めの曲を駆け抜けます。「さみしさに 惑わされて」と、お?Bメロに入るのかと思いきや、また「ジャッ!ジャキーン!ジャッ!ジャキーン!」と武沢さんのカミソリが炸裂し、あれまだAメロなのかなと思わせ、「ギュイーン!」とブレイクを置きます。なんというスピード感!同じパターンで「君に詫びるも」と始まり、ああはい、また「ギューン」とブレイク入れてAメロでしょと思っていたら曲は一気にスローダウンして「オーオオーオーオーオ」と朗々と玉置さんが歌うパートに入ります。まるで先を予想させる気がありません。

二番でも「君が好きでも」と始まり、ハイハイまた「オーオー」ねと思っていたら一気にテンポアップ、「街はにぎやかな蜃気楼〜つっぱろう〜SAY HELLO〜」と韻を踏みまくりのサビに突入します。キャッチーでありつつ、おそろしく攻撃的で、「ほほえんでさよなら〜」的なサビを望む人たちを拒絶するかのような、強いメッセージをグイグイと示してきます。そしてまたスローダウン、アルペジオで間奏に入ります。これは卑怯です。まだこっちは「最後に勝ちたいそうだろう」を消化できてないのにまた曲想が変わったよ!残像が残りすぎて曲想の変化についていけないよ!と思っていたら、またAメロのスピーディーなリフが始まります。「いまはいまだと逃げちまうしかない」と、永遠の真実を求めつつもそれの叶わぬ有限なる身を嘆く……というより達観したかのような諦念を吐き捨てて、曲は次のBメロ的な個所で突然に終わるのです。うーむ!最初から最後まで展開を予想できませんでした。いや、いまなら覚えてますからできますけど、それは予想したって言いませんよね。初聴ではまずムリです。当時ももちろんできていなかったと思います。

これはひとえに、あまり金のない学生だったから一回買ったCDは超ヘビーローテーションだったことと、このアルバムが10年もの間最新アルバムであったことによります。覚えてしまったんですね、体で。もはや一つひとつのフレーズが口をついて出てくるほどに染みついています。ここまで聴いたのでなければ、この曲を語る気になれるところまで好きになれたか……ちょっと自信ありません。ですが今となっては大好きな曲ですから、このブログを立ち上げてからというものこのアルバムが一番好きだとおっしゃる方や、このアルバムが最高傑作だと思うとおっしゃる方たちの存在を知ることができて、ほんとうにうれしく思ったものです。ここまで玉置さんが、そして安全地帯が苦しんで生み出したアルバムの、その一つの象徴であるこうした曲の路線が、「狂っているのかもしれない」という苦悩を受け止めることのできる人々のもとに時を超えて届いていたのだ、そしていまこうして、その感動を分かち合えるんだと、知ることができたのです。

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