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2019年08月11日

ザーブジェフ2(八月九日)



 ザーブジェフの駅から街に向かう途中で気になる看板を見つけた。「TDKで一緒に働きませんか」とか何とか書かれていた。シュンペルクに行く途中でTDKの工場らしきものを見かけて驚いたのを思い出した。チェコの日系企業も数が多すぎてどこにどの会社があるのか把握しきれていない。それにしても、TDKがチェコで何を生産しているのだろうか。TDKの製品、最近チェコでは見ないような気がする。シュンペルクの会社がザーブジェフで人材を募集しているというのも、この二つの町の密接な関係を物語っているのだろう。
 ザーブジェフの街も、ウヘルスキー・ブロトほどではないが上り坂の町だった。モラフスカー・サーザバ川がモラビアとボヘミアの境界の山地を抜けてモラバ川沿いの平地に出てくるところにできた街は駅の側から入ると緩やかな上り坂だが、モラフスカー・サーザバ川沿いの谷間からは急斜面を登らなければならない。

 ザーブジェフの領主として最初に知られているのは、トゥンクル家である。トゥンクル家では街の周囲にいくつもの池を作り、漁業を街の産業に育てたらしい。それでトゥンクル家の紋章には魚があしらわれている。その紋章は町の役所になっている城館の中庭への通りぬけになっているところと、博物館に石造りのものが飾られていた。博物館のものには説明として、ブルニーチコのトゥンクル家の紋章と書かれていたので、質問したら、トゥンクル家はザーブジェフ領とともに、近くのブルニーチコの城を手に入れ、ブルニーチコのトゥンクル家と名乗っていたのだという。ブルニーチコはザーブジェフから歩いてもいけなくはないようだけど、城跡しかないということなので炎天下に足を伸ばすのは諦めた。
 トゥンクル家の後にザーブジェフを手に入れたのは、ボスコビツェ家で、このあたりのモラフスカー・サーザバ川沿いの自然を好み、ザーブジェフに滞在することの多かったボスコビツェ家の領主の手によって、城館が整備されたららしい。その後、ザーブジェフはジェロティーン家のベレンに譲られた。

 この人物は、兄弟団を庇護し、コメンスキーを支援したことで知られる親戚の老カレルが、非カトリックでありながら、カトリックとの融和を模索していたのに対抗するように、急進的な反カトリックの立場を取り、モラビアのプロテスタント諸侯を糾合して、ボヘミアにおける貴族の反乱に加わらせた。つまり、ジェロティーン家の没落の原因を作った人物で、ビーラー・ホラの戦いの後、ザーブジェフはブジェツラフなどと同様にリヒテンシュテイン家の手に落ちてしまう。
 国外のプロテスタント諸侯の援助を当てにして、激情に駆られるままに短絡的に勝ち目のない戦いに乗り出したボヘミアやモラビアの非カトリック諸侯の自業自得という面はあるにしても、宗教戦争を利用して濡れ手で粟のようにモラビア各地に所領を獲得したという印象を受けるリヒテンシュテイン家には、好感を持ちにくい。シュンペルクではオロモウツの司教と組んで、ボブリクの魔女裁判で儲けたみたいだし。

 さて、ザーブジェフの小さな博物館では、エスキモー・ウェルツルの展示だけでなく、コメンスキーに関する展示もあるのに驚かされた。何でこんなところでと不思議だったのだが、コメンスキーの最初の奥さんがこの街の出身だというのである。それどころか、博物館の入っている建物で生まれ育ったとか書いてあったような気もする。
 この人、名字がビーゾフスカーなので、ズリーンの奥のスリボビツェで有名なビーゾビツェの人だとばかり思っていた。家の発祥の地がビーゾビツェだったとしても(そんな情報はないけど)、子孫が住み続けているとは限らないのだった。何でも父親がザーブジェフで兄弟団関係の仕事をしていたらしい。ただし、コメンスキーとこのビーゾフスカーが出会ったのは、南モラビアの、これもジェロティーン家の所領だったトシェビーチだということなので、コメンスキーがザーブジェフ訪れたかどうかはわからない。博物館の人に聞いてみればよかった。

 博物館には、二人の結婚に際しての契約の内容についての説明があって、それによると、妻は、夫の所有する本については一切の権利を持たないということになっていたらしい。触らせない読ませないなんてことではなかったのだろうけど、コメンスキーはチェコ語で言うところのクニホモルだったようだ。今の日本語でいうと活字中毒者というところかな。ちょっと親近感がわいてしまう。
 夫の側からだけ条件をつけるというわけにはいかなかったようで、同様に夫は、妻の所有する、「ぺジー」と書かれていたから布団なんかの寝具だろうか、に関しては一切の権利を持たないとされていたらしい。寝心地のいい布団を持っていたということだろうから、裕福な家庭の出だったのだろうか、なんてことを考えてしまった。

 思いがけない場所で、思いがけない人物の足跡に触れるというのも、このご時勢にわざわざ現地に足を運ぶ意味なのだろう。ちなみに昨日のエスキモー・ウェルツルに関しては、自分のことをチェコ人、もしくはモラビア人だとみなしていたという記事を見つけた。ドイツ語もチェコ語も両方とも使えたようである。
2019年8月9日22時。











2019年08月10日

ザーブジェフ・ナ・モラビェ(八月八日)



 ウヘルスキー・ブロトでコメンスキーの故地をおとずれた後、次はジェロティーン家関係にしようということで、シュンペルクとも関係の深いザーブジェフに足を向けた。あまり大きくないとはいえ、旧市街には景観保護地区もあるようだし、何よりもオロモウツから行きやすいというのがいい。これまでは、通過するばかりで、乗り換えのために駅に降りたこともないと思う。

 ところで、このザーブジェフという地名なのだが、本来「h」で終わる硬変化タイプの男性名詞である。しかし、方言なのか、古い形が生き残っているのか、一般の男性名詞不活動体硬変化とは微妙に違った格変化をするらしい。2格が語尾「a」をとって「Zábřeha」になるのは、プロスチェヨフやプシェロフもそうだし、地名でなくても教会を意味する「kostel」も同様なので、特に気にはならないのだが、6格が普通に想定される「Zábřehu」ではなく、「Zábřeze」になるというのにはちょっと戸惑いを感じる。
 プラハの6格が「Praze」になるのと同じ子音交代が起こっただけと言えばその通りではあるが、プラハは女性名詞の硬変化である。それに絶対のルールではないとはいえ、3格と6格が同じになることが多いという男性名詞に限らない名詞の格変化における傾向に反しているのも、何だか落ち着かない。外国人が落ち着かないとか、気に入らないとか言ってもしかたがないのだが、ザーブジェフの町の中でさえ、「v Zábřeze」に混じって、「v Zábřehu」という表記も見かけたから、チェコ人の中にもこの特殊な格変化を受け入れられない人もいるということだろう。日本語も含めて、言葉の複雑さが嫌われて安きに流れる傾向の強い現代だからこそ、こういう特殊性は維持し続けてほしいと思うのだけど、難しそうである。

 さて、ザーブジェフで一番最初に感心したのは、駅のトイレである。特別に清掃が行き届いていてきれいだったとか、サービスがよかったとか言うのではなくて、サービスがよかったと言えなくのないのだけど、何と領収証みたいなものをくれたのである。お金を払ってトイレに入ろうとしたら、呼び止められて、手渡されたのが料金7コルナと管理している会社の名前などが印刷された小さな紙片だった。領収書なんて受け取らなかったり、その場でゴミ箱に放り込んだりすることが多いのだが、思わず受け取ってオロモウツまで持って帰ってしまった。そして未だに捨てられていない。
 これまで、あちこちで駅や街中の有料のトイレを利用してきたが、こんなのをもらったのは初めてのことである。料金の7コルナというのも珍しいか。普通は一枚の硬貨で済むように5コルナか10コルナに料金を設定しているところが多い。8コルナというのも時々見かける。以前は大と小で料金が違うところもあったが最近はどこも統一されているようである。

 駅前には、言葉を飾ると恰幅のいい、ちょっと太目のおっさんが片手を挙げている像が建っている。最初に見たときには誰なのかわからなかったが、ザーブジェフ出身の探検家、もしくは旅行家のヤン・ウェルツル(ベルツルのほうが発音が近いかも)の像らしい。この人、特に北アメリカの北極圏のイヌイットの住んでいる地域での活動で知られ、どこかで酋長に選ばれたのかな、それで、ヤン・エスキモー・ウェルツルとも呼ばれていたようだ。
 このウェウルツは、チェコの生んだ万能の人、天才ヤーラ・ツィムルマンと同時代の人で、実際に19世紀の終わりにザーブジェフで会ったことがあるという。場所は現在では町の役所になっているザーブジェフの城館の中庭で、その会見から125年を記念して、2018年に記念碑が設置されている。向かい合う形で立った二人の足跡の形、正確には履いていた靴の跡をかたどったもので、大小二組の足跡のうち、どちらがどちらのものなのかは説明にも書かれていなかった(と思う)。

 もちろん、ツィムルマンは創作上の人物だから、ウェルツルと会うなんてことができたわけはないのだけど、ツィムルマン作の(という設定になっている)演劇「北極」でチェコ人のグループが北極探検に出かけたり、ツィムルマン作の演劇を映画化した「ロスプシュテニー・ビプシュテニー」で、チェコが舞台であるにもかかわらず「エスキモー」が登場するのは、前提としてウェルツルのようなチェコ人冒険家の存在があるのだろう。
 また、ザーブジェフにツィムルマン関係の「記念碑」が置かれているのは、熱心なファンのグループが存在するということなのだろう。役所の入っている建物の中庭に置かれているということは、町の要職についていた人が主導したということもありえそうである。このような冗談を真面目に具体化してしまうのもチェコ人の特性のひとつと言ってもいいのかもしれない。

 ウェルツルについては、町の小さな博物館でも、かなりのスペースを割いて展示が行われていた。駅から町に向かう途中の飲み屋の壁にもウェルツルの名前が大きく書かれていたが、これはビールの名前だった。博物館の人の話では、今ではザーブジェフの一部となっているクルンパフという村で生産されているという。そんなに遠くないよとは言われたけど、ビールの醸造所しかないようなところまで何キロも歩く気には慣れなかった。
 毎年ウェルツルに関するイベントが行われていたり、旅行者ウェルツルにちなんで、旅行用のトランクを持った人を広場に集めて、その数でチェコ記録を樹立したりと、名字からもドイツ系だったのではないかと思われるのだが、郷土の偉人として愛されているようだ。

 ところで、表題にした「ザーブジェフ・ナ・モラビェ」というのは、鉄道の駅の名前で町の名前としては、単なるザーブジェフというのが正しいらしい。でも、今回の話は、駅のトイレと駅前のエスキモー・ウェルツルの像が中心だからこれでいいはずである。
2019年8月8日21時30分。











2019年08月09日

コメンスキーのウヘルスキー・ブロト(八月七日)



 ウヘルスキー・ブロト駅前のコメンスキー博物館の看板の脇を抜けて階段を上り、かつて街を囲む城壁があったと思われるところを越えると、右手に立派な建物が建っていた。これがコメンスキー博物館かと入り口に向かったら、コメンスキーはコメンスキーでも、J. A. コメンスキー・ギムナジウムだった。かつてここに兄弟団の学校があり、コメンスキーが通っていたらしい。チェコの学校には特に縁があるわけでもないのに偉人の名前をつけているところが多いが、この学校にはコメンスキーの名をになうだけの十分な理由があると言うことになる。
 やはり、まずは情報が必要だと言うことで、インフォメーションセンターに向かうことにする。案内の表示にしたがって上っていたら、一番下の広場、マサリク広場に面した家の壁に、コメンスキーのレリーフがついていた。コメンスキーが生まれたと言われる家の一つらしい。他にも近くのニブニツェと、コメンスキーの名字の基になったと言われるコムニャにも生家と言われる家があるようだ。ウヘルスキー・ブロトのこの家は、生家ではないとしても、ここで幼年時代を過ごしたのは確かだという。

 インフォメーションセンターは真ん中のマリア広場の上面の、劇場の現代的な建物に入っていた。街の地図をもらって、街の写真とコメンスキーの絵があしらわれた小さなお土産を買った後、気になっていたものについて質問した。どこのインフォメーションセンターでも、名刺サイズの紙に観光名所の写真と簡単な説明が印刷された「トゥリスティツカー・ビジトカ」という「名所の名刺」と訳したくなるものが売られていて、買っている人がいたのだ。
 こんなの集めてどうするんだろうと思って質問したら、専用のノートがあって購入した名刺を貼り付けられるようになっていると言って見せてくれた。名刺を貼るスペースの横には罫線が引かれていて、あれこれコメントを書き込んで、簡単に写真付き旅日記のようなものが作れるようになっているようだ。こういう文章を書いている以上、旅日記もどきには興味はないが、専用のノートに収集したものを貼り付けるというのには、コレクター魂に火をつけかねないものがあって、初日に質問しなくてよかった。

 コメンスキーの博物館は、旧市街の一番奥、坂を上り詰めた先にある。その前の広場は「フラドニー」と名づけられているから、かつてはこの場所に城砦があったのだろう。現在のコメンスキー博物館が入っている建物は、セズナムの地図ではザーメクと書かれていたはずだから、城砦が城館に改築されたのかと考えて、博物館の人に聞いたら、「ザーメク」とは言うけど、完全な城館が存在したことはないと言う答えが返ってきた。
 ウヘルスキー・ブロトの領主だったコウニツェ家(=カウニッツ家)が城館を建設しようとしたのは確かだけど、最初の部分、現存する大広間を建設しただけところで工事が中断して再開されることはなかったのだと言う。博物館は、その大広間と周囲の街を囲む城壁、出入り口となっていた城門の建物などをつなげて利用しているらしい。コウニツェ家の城館もすでに存在する城壁などを再利用して建設しようとしていたのかもしれない。

 ここでコウニツェ家の名前が出てきたので、「ブルノの近くのドルニー・コウニツェの?」と聞いたら城館を建てようとしたのは、コウニツェはコウニツェでもボヘミア流のコウニツェ家だったと思うという答えが返ってきた。記憶を掘り返して、ウヘルスキー・ブロトをコウニツェ家が購入したというのと、モラビア流のコウニツェ家が断絶したあと、その所領はボヘミア流のコウニツェ家が相続したというのを、このブログでコウニツェ家を取り上げたときに書いたのを思い出した。
 そして、博物館を出て街を歩いていたら、とある建物に、「この家でコウニツェ家の最後の一人、バーツラフが亡くなった」というようなことが書かれたレリーフが設置されているのを発見して、すべてがつながったような気がした。ドルニー・コウニツェで誕生したこの貴族家は、ボヘミアを経てモラビアに戻り、ブルノで高等教育の発展に貢献した後、ここウヘルスキー・ブロトで終焉を迎えたのである。コメンスキーを目当てに出かけたウヘルスキー・ブロトでコウニツェ家の最期の地を見つけるとは、予想もしていなかった。

 さて、目当てのコメンスキー関係の展示については、具体的なことを書いても仕方があるまい。ただ透明のアクリル板に文字が記されているのに、その後から光が当てられて読むのが辛いところが多かったという苦情は記しておかなければなるまい。もう一つは、いろいろな国の言葉に訳されたコメンスキーの著作を集めた図書室に日本語の本が二冊あったこと。一冊がハードカバーの『世界図絵』だったのはいいにしても、もう一冊が幼児教育関係の本だったのはどういうことなのだろう。著者がコメンスキーの研究者だったのだろうか。
 ウヘルスキー・ブロトの歴史についても簡単に紹介されていて、もともとプシェミスル家がハンガリー(当時ウヘルと呼ばれた)に対する防御のために建設した砦から発展したのがこの街で、国王都市だったのだが、借金のために王の手を離れて領主のものになったとか何とか書かれていた。王の借金だったのか、街の借金だったのかはわからないが、王妃の都市となったフラデツやポリチカといい都市の歴史というものもなかなかややこしいものである。
2019年8月7日22時45分。













2019年08月08日

ウヘルスキー・ブロト行(八月六日)



 ボヘミア遠征が何日か続いたので、そろそろモラビアに戻らずばなるまい。「シュムナー・ムニェスタ」巡りを続けるのなら、プロスチェヨフ、ズリーン、クロムニェジーシュなどオロモウツから行きやすい街がいくつかある。ただ、行きやすいだけに、すでに何度か足を運んだことがあって、目新しさがない。まだ行ったことがないところでぜひ行ってみたいところとしては、ジェロティーン家の所領だったらしいノビー・イチーンがあるのだけど、鉄道の便があまりよくない上に途中で路線の改修工事が行われていて、代替バスに乗らなければならない。それなら、最初からレギオジェットのバスを使ったほうがましである。今回のチェコ鉄道縛りにはそぐわない。
 ということで、「シュムナー・ムニェスタ」にこだわらないことにした。よく考えたらコメンスキーが滞在したフルネクに行ってみようなんてことも考えていたのだ。しかしここも鉄道の便が悪く二回も乗換えが必要で待ち時間も長い。結局南に向かってウヘルスキー・ブロトに行くことにした。むかしルハチョビツェに出かけたときに通ったことがあるはずなのだが、どんな駅だったかも含めてまったく覚えていない。

 ルハチョビツェに向かうスロバーツキー・エキスプレスを使えば、乗り換えなしでいけるのだが、時間がちょっと合わないので、スタレー・ムニェストでウヘルスキー・ブロト行きに乗り換えることにした。直通でも電化区間から非電化区間に入るためにスタレー・ムニェストでかなりの時間停車することになるし、乗り換えの待ち時間もほとんどないので、かかる時間は直通の場合と大差ない。
 チェコの鉄道の幹線から枝分かれするローカル線は、ローカル線の始発になる幹線の駅に急行、特急が停車するのにあわせて到着、出発するようなダイヤになっていることが多い。上りと下りのどちらにあわせるかという問題があるので、どの駅でも幹線の特急を降りたらすぐにローカル線に乗れるというわけではないけれども。

 ポリチカへ向かうのに使ったスビタビの駅は、ポリチカ方面からの列車が到着した直後に、ブルノからの急行と、チェスカー・トシェボバーからの急行が到着し、二本の急行が発車したすぐ後に、ポリチカに向かって出発するという理想的な接続を実現させていたけれども、ここまで時間が合うのはむしろ例外的である。
 スタレー・ムニェストからウヘルスキー・ブロトに向かう途中にいくつか大モラバの遺跡があるらしいので、車窓からそれらしきものが見えないかと目を凝らしていたのだが、背の高い建造物ではない、地面に開いた穴である発掘の跡地は見つけることができなかった。いずれまた時間を作ってこちらに足を伸ばすしかない。気温が上がらなかったら、ウヘルスケー・フラディシュテ周辺の遺跡巡りも候補に入れたのだが、さすがに炎天下に、日差しをさえぎるものもなさそうな遺跡を巡る気にはなれなかった。

 民俗的な装飾が美しい駅としては、ウヘルスケー・フラディシュテが知られているが、ウヘルスキー・ブロトの駅も同様にスロバーツコ地方の民俗的な装飾で飾られていた。ただし、この駅に到着して一番驚いたのはそれではなかった。各駅停車のディーゼル車が到着したホームの反対側の乗り場が、バスの乗り場になっていたのだ。鉄道の駅とバスのターミナルが隣接していて乗り換えが便利な町はいくらでもあるけど、ここまで鉄道とバスが直結しているのははじめて見た。接続によっては下車したら、そのまま対面に待っているバスや列車に乗り込めるのである。
 それほど大きくないとはいえ、バスターミナル自体もきれいに整備されていたし、駅前から旧市街に向かう斜面と駅の裏側に向けて伸びる歩道橋も設置されているなど、言い方は悪けれども、鄙にもまれなというか、ど田舎の町の駅とは思えないぐらい便利に整備された駅だった。駅を出て正面の旧市街に向けて登っていく階段のところには、コメンスキー博物館の看板も出ていたしって、これはあまり関係ないか。

 ウヘルスキー・ブロトの街は、丘の南側の斜面に建設されたもので、駅は丘を下りきったところにある。フラデツ・クラーロベーでも旧市街に入るためには、急な坂道を上らなければならなかったが、街の反対側まで行けば下り坂になった。それに対してウヘルスキー・ブロトの街は、駅から街に向かう方向を縦とするなら、縦の道は、途中にある広場も含めてひたすら上り坂で、横の道はほぼ傾斜がない。
 駅前にあれば便利なインフォメーションセンターに行くにも、旧市街の一番奥にあるコメンスキー博物館に行くにも、ひたすら坂を上らなければならなかった。その分帰りは、下りで楽は楽だったのだけど、途中で見落とした建物があることに気付いても戻ろうという気にはなれなかった。この町で宿泊しようと思ったら、駅前の平地に宿を取らないと、重い荷物を抱えて坂を上ることになるから大変そうだ。

 帰りはルハチョビツェ発のスロバーツキー・エキスプレスに乗るつもりだった。駅に着いたのは発車時間よりも15分ほど前だったのだが、構内放送でプラハ行きのスロバーツキー・エキスプレスが運行上の理由でいつもとは違う車両を使用することになったということと、すでにホームに停車していて発車の準備ができているというようなことを告げていた。しかし、どのホームを見てもそれらしき列車は止まっていない。ただ朝スタレー・ムニェストから乗ってきたのと同じディーゼル車が三両つながったものが止まっていた。
 まさかこれがプラハまで行くことはあるまいと、しばらく待ったのだがルハチョビツェからの列車が入ってくる気配はない。それで念のために運転士と話をしている車掌のところに行って、これどこまで行くのと聞いたら、笑いをこらえているような表情で、「ド・プラヒ」。思わず「ティ・ボレ」と言いそうになったこちらの表情がおかしかったのか、その気持ちはわかるぞというような顔で笑われてしまった。
 チェコ語で言うディーゼル車のモトラーク、もしくはモトラーチェクでプラハまで行くというのは、おそらくめちゃくちゃ遅れるだろうけど、話の種になりそうでちょっと惹かれるものがある。時間のことを考えてどうしようか悩んでいたら、車掌がスタレー・ムニェストで本来の車両に乗り換えだと告げて回った。ちょと残念に思いながら、素直に乗り換えてオロモウツで下車したのだった。

 ということで、ウヘルスキー・ブロトで何を見聞きしたかについては、また次回。
2019年8月6日22時10分。













2019年08月07日

名もなきプラハの掃除人(八月五日)



 正確な日付は覚えていないのだが、確か先週のことだったと思う。ドイツからやってきた迷惑観光客が、プラハのカレル橋のたもとの部分に、緑と黒のスプレーで落書きをして帰りやがった。ドイツに限らず、旧にし側のヨーロッパの国から、若者ならぬ馬鹿者が集団でやってきて、旅の恥はかき捨てとばかりに、本国ではできない馬鹿騒ぎをしたり、犯罪すれすれの行為を繰りかえしたりして、プラハの人たちと観光客に大迷惑をかけて帰っていくというのが問題になっている。
 今回の一件もそんな馬鹿者たちの愚行の一つなのだろうが、問題はこの連中が、経済的な優位、つまり金を持っていることをかさにきて、政治的に立場の弱いチェコでならば何をしてもかまわないと考えているところにある。こういうのを見ると、EUの誇る移動の自由というものが、仮に違法難民の存在がなかったとしても、決して薔薇色のものではないことがわかる。犯罪者とその予備軍にまで移動の自由が与えられるのだから。スロバキアにイタリアのマフィアが食い込んで社会問題になっているのもその一例である。

 さて、話を戻そう。最初のニュースはカレル橋の落書きをどうやって消すかというのを問題にしていた。文化財保護局か、そこから仕事を請け負った会社の人が出てきて、化学洗剤とたわしを使って、どの洗剤が一番石材に害を与えずに、スプレーを消せるかというのを確認した上で、本格的な洗浄の作業に入るとか語っていた。このとき試しに洗浄を行ったと思しき部分は完全に色が消えていないようにも見えた。

 それが、その次の日のニュースでは、落書きがほぼ完全に消えていた。時間がかかりそうだったのにと不思議に思ったのだが、更に不思議なことにニュースでは誰がやったことなのかわからないと言っていた。そして、この誰かもわからない実行者について、犯罪的行為だとして非難する声が、文化財保護局のほうから、もしかしたら仕事をしていた会社のほうからかも知れんけど、聞こえてきた。橋を構成する石の状態を専門家が確認しない状態で、洗浄をするのは文化財の破壊につながりかねないのだとか。
 誰がどのような方法で洗浄したかもわかっていない状態で、こんなことを断言するのは、自分たちが手間と時間がかかると主張していた作業を、わずかな時間でなされて、面子をつぶされたからではないかと思われた。洗浄を請け負った会社には、それなりのお金が流れているはずだし、警察沙汰にするようなことを言って大騒ぎしていたのもアリバイ作りっぽかったし。

 そうしたら、更に次の日のニュースでは、警察に自分がやったといって出頭した人物が登場して、自動車の洗車の際にもつかう高圧の水流をぶつけて汚れを洗い流すという、自分が使った洗浄の方法を紹介していた。建築物の表面にはたいていほこりや汚れが膜を作っているから、スプレーなどで色を付けても素材の中まではしみこまない。だから高圧の水流をぶつけて膜ごと押し流してやれば、建築物に傷を付けずにきれいにできるという。汚れが一種の保護膜のような役割を果たしているというのだから皮肉である。
 この人は、これまでにも、いくつものスプレー似非芸術家の被害を受けた建物の洗浄を担当したことがあるというから、文化財保護局の言う文化財の専門家ではなくても、スプレーに汚染された文化財の洗浄に関しては経験豊富な専門家だとは言えそうだ。文化財保護局の専門家の調査でも、カレル橋の石材が何らかの形で損傷を受けたという事実は発見されなかったようだし。

 その次の日には、ええかっこしいのプラハ市長が横からくちばしを挟んできて、表彰するとか言い出したのを、この人が拒否したというニュースが流れた。本人は、「自分は人殺しで、裁判を受けて服役したとはいえ、それで人の命を奪ったという罪が消えたわけではない。罪を償うためには、自分の仕事を全うする以外に、他人に対する善行を積み上げていかなければならない。このことで表彰されたり謝礼を受け取ったりするのは自分の本意ではない」というようなことを語っていた。
 だから、人に知られないようにひそかに洗浄を行った後に、予想以上の大騒ぎになって名乗り出ざるを得なくなったこと自体が本意ではなかったはずだ。もしかしたら、これまでも同じようなことを人知れずやってきたのかもしれない。ということで、ニュースでは名前が出ていたけれども、このブログでは本人の意向をくんで名前は出さないことにする。

 さらに今日のニュースでは、あきらめきれないプラハ市長が、「この人は犯罪を犯したとはいえ、服役して罪を償ったのだ。表彰される権利がある。それは犯罪を犯した人の服役後の社会復帰が問題になっている現在重要なことだ」とか何とか語っていた。正論ではあるのだろうけど、他人に認めてもらうためにやったんじゃないという本人の言葉のほうがはるかに重みを感じる。悪行に関しては、責任を取るべきだし報いを受けなければならないけれども、善行を行ったからといって、特に今回は自分の技能を生かして汚れを落としただけなのだから、責任を負う必要はなかろう。

 それにしても、チェコには稀な控えめな人物のいい話だったのが、周囲が大騒ぎをしたせいで喜劇になりつつあるのが、何ともチェコ的である。
2019年8月5日23時10分。














タグ:プラハ
posted by olomoučan at 06:38| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2019年08月06日

シュムナー・トシェボバー・チェスカー(八月四日)



 ボヘミアとモラビアの境界付近の山間部に、トシェボバーという町が二つ存在する。現在ではどちらもパルドビツェ地方に属しているが、ボヘミア側のチェスカー・トシェボバーとモラビア側のモラフスカー・トシェボバーである。鉄道交通の要衝であるチェスカー・トシェボバーへはオロモウツから急行、特急で一時間以内に到着するが、モラフスカーにはそこからさらにローカル線に乗り換えて、30分ほど揺られる必要がある。モラフスカーは物理的に行きにくいところにあるが、チェスカーも通過するだけ場所、乗り換えするだけの場所になっていて、街を見たことはなかった。
 それで、「シュムナー・ムニェスタ」と同様に、両方のトシェボバーをまとめて、一日で観光することを思いついた。思いついたのだけど実行はしなかった。それは、ポリチカからの帰りに、チェスカー・トシェボバーでの接続が悪く、チェコ鉄道のオロモウツに向かう電車まで、待ち時間がかなりあったので、街に出て見ることにしたのだ。旧市街はそれほど大きくなく、一回りするのにそれほど時間はかからなかったし、これが「シュムナー・ムニェスタ」に出てきたという建物も思い出せなかったのだが、一つものすごく気になるものがあった。

 それは、チェスカー・トシェボバーの町の紋章で、赤地になぜか人間の頭のついた黒いニワトリがあしらわれているのである。その人間の頭が、ちょっとアラブっぽく見えなくもないので、領主が十字軍で活躍したなんて話があるのかとも思ったのだが、自分で考えていても答えが出るわけがないので、博物館に入っているインフォメーションセンターで尋ねてみた。
 受付の人に聞いたら、紋章に関する伝説があって、その伝説について解説した子供向けの小冊子があるんだけどと勧められた。ポリチカで購入したようなものだったら迷わず買ったのだけど、伝説を解説する絵本であると同時に塗り絵でもあったので、すぐに買おうとは決めかねた。どうしようと、うなっていたら、もう一人の人が出てきて、以下のような伝説を見事に語ってくれた。

 昔々、チェスカー・トシェボバーの街には街の印章を管理している書記官がいた。当時の書記官は印章を預かるに際して自らの首を担保にしていた。それは、印章を失った場合には首を失う、つまり死刑に処されるということだった。
 あるとき、書記官は印章をなくしてしまい、どこを探しても見つけることができなかった。街としては決まりの通りに書記官を死刑にするしかなく、書記官を収監し処刑の期日を決めた。書記官の妻は、それでもあきらめきれずに、印章を探し続けていた。

 処刑の日がやってきて、会場には処刑を娯楽として見物しようと街の人々が続々と集まってくる。自宅で印章を探していた書記官の妻は、庭のゴミ捨て場でニワトリが何かを掘り出そうとしているのに気付いた。ニワトリの足元を掘ってみるとなくした印章が出てきた。
 妻は印象を持って処刑場に駆けつけ、ぎりぎりで夫の命を救うことができた。ニワトリのおかげで書記官の首がつながったことから、人間の頭、書記官を象徴する帽子をかぶった人間の頭をつけたニワトリが街の紋章になったのだという。

 博物館の人の話では、この紋章は、すでに16世紀にはチェスカー・トシェボバーの紋章として使われていた証拠が残っているという。そんなことを「シュムナー・ムニェスタ」でも言っていたかなあなどと感心していたら、さすがチェコ、話はこれで終わらず、更なるオチがついた。
 去年だったかに、チェコ出身でアメリカで活動している音楽家がチェスカー・トシェボバーに来たときに、この話を聞かせたら、それは違うといわれたらしい。音楽家によると、実際は書記官の妻が印章を発見したことを知らせたのは処刑の翌日で、その後若い愛人と一緒になったはずだという。さらには、印章はなくなったのではなくて、夫を何とかしたかった妻が隠した可能性もあるなんてことも言っていたらしい。

 ちょっといい話だったのが、なんとも救いのない話になってしまった。冗談だったのか、本気だったのかはともかく、チェコらしい、チェコ人らしいというか何と言うかである。街のあちこちで見かける奇妙な街の紋章を見るだけでも、何かのついでにチェスカー・トシェボバーに立ち寄るかいはあると言っておこう。
2019年8月4日23時20分。











2019年08月05日

シュムナー・ポリチカ2(八月三日)



承前
 ガイドさんは、モデルの町が四方を水濠に囲まれているのを指摘して、現在は南側しか残っておらず、その濠の外側には、いくつか近代建築の作品が残っていると付け加えた。そうしたらチェコ人の男性が、「この辺にある病院だね」と指差して場所を示す。ガイドが「病院はこっち」と別の場所を示して「そこにあるのは実は学校なんです」という。男性があれーっというように首をひねると、笑いながら「その学校を遠くから見て病院だと誤解する人が多いのは認めなければならないんですけど」と説明を加えた。
 博物館でポリチカの近代建築物についての小冊子が買えるというので、見学が終わったら博物館に戻ることにする。何でもロンドクビズム、つまりはチェコ風アールデコの建築物もあるというから、遠目からでも見ておく必要もある。実際に見たら黄色と赤のちょっとユルコビッチを思い起こさせる色合いの建物で、町の所有する賃貸住宅ということなのだけど、住みたいかといわれると躊躇してしまいそうである。
 市庁舎を出ると、広場にある聖母マリアの碑の説明があった。オロモウツもそうだが、この手のマリアの碑は、ペストの流行が終了したことを祝い、聖母マリアに感謝するために建てられたもので、ペストの碑とも呼ばれるのだが、ポリチカのものは、流行が終結したことではなく、ポリチカでペストの流行が発生しなかったことを感謝して建てられたものだという。

 その後、細い通りを抜けて聖ヤクプ教会である。改修工事中で中には入れなかったのだが、みんなで大火事のあとネオゴシック様式で再建された教会の塔を見上げる。塔の上、鐘の下にマルティヌーの生家があるのである。再び大火事で街が壊滅的な被害を受けるのを防ぐために、再建された塔を、日本の江戸時代の火の見やぐらのようなものとして、監視役を常駐させることにしたらしい。そのやり方は、交替で務めるというのではなく、塔の上に人が住めるような部屋を作って、担当者を住まわせるというものだった。
 その仕事を得たのがマルティヌーの父親で、マルティヌーは塔の上の部屋で生まれ、幼年期を過ごしたのだ。子どものころは世界から切り離されていたなんて言い方をしていたから、滅多に塔から降りてくることはなかったようだ。その後、教会のすぐ近くにあった音楽学校に通うようになってからは、毎日192段もの階段を上り下りしていたという。
 このとき、気になったのがガイドさんがマルティヌーのことを「ナーシュ・ボホウシュ」と言っていたことで、「ナーシュ」については、郷土の偉人を「我らが」と言っているわけで理解できるけど、「ボホウシュ」と呼ぶには驚きを隠せなかった。ボフスラフの愛称が「ボホウシュ」だと言われれば、それはその通りなのだけど、「ボホウシュ」という名前を聞くと、どうしてもクリスマスの時期に放送される「ボホウシュ」というセントバーナード犬が、俳優メンシークと大食い意競争をするという白黒のテレビ番組を思い出してしまう。誇らしげに「ナーシュ・ボホウシュ」というガイドさんにそんなことは言えなかったけど。

 最後にお待ちかねの城壁に登るのだが、入り口は普通の家の玄関だった。城壁沿いの民家の庭に見張りの塔に登るための階段が設置されているのだ。これは後から設置された金属製のもので、本来ははしごをかけて登っていたのだという。この城壁の内側に、場合によっては外側にも、へばりつくように一般の人の家や庭があるのが、城壁に自由に登れないようになっている理由らしい。プライバシーもくそもあったもんじゃなくなるしね。そうなるとこのガイドつきの見学の将来が心配になる。階段のある家も博物館のものではなく、最近一般の人が買い取って改修工事を始めたと言っていたし。
 旧市街を囲む城壁の全長は1200メートルほどで高さは10メートル。19の見張りの塔が置かれ、門のあった四箇所で途切れている。ガイドさんの話では、改修はされたものの、完全にもとの姿を復元したものではないらしい。見張りの塔の中にも、比較的元の姿に忠実に改修されたもののあれば、とりあえずコンクリートで固めちまえ的ないい加減な改修が行われものもあった。実際に入ることができた三つの見張りの塔のうち二つは比較的ましで、三つ目はガイドさん曰く失敗作だった。

 不思議なのは、見張りの塔が完全な円形ではなく、城壁の内側のラインで断ち切られた半円形に近い形をしていたことだ。最初に見たときには外側からの見た目だけを考えて改修したのかと思ったのだが、実際は最初からこんな形だったらしい。考えてみれば外側に半円形で突き出しているのは、見張りや敵に矢を射かけるのに役に立つけれども、内側に突き出した部分があっても何の役にも立たなさそうだ。
 街の反対側の最初に見かけた見張りの塔とその周囲の城壁には行かなかったけれども、ガイドさんの話では、内側と外側の民家の様子を除けば、建築物自体には特に大きな違いはないという。恐らく本来の見学コースは、市庁舎から教会の塔の上の「ナーシュ・ボホウシュ」の家を見て、城壁に向かうというものなのだろう。となると、小さいとはいえ街の反対側までいっている時間はない。

 見学を終えて博物館でポリチカの近代建築に関する冊子を購入した後、城壁の外側に出た。街の南の池の向こうの丘の上に、賃貸住宅、小学校、教会と並んでいるのはなかなか壮観だった。ポリチカの近代建築をリードしたのはシュミートという建築家で、名前は確かボフスラフ。この人も、また「ナーシュ・ボホウシュ」なのだろうか。
2019年8月3日24時45分。












2019年08月04日

シュムナー・ポリチカ(八月二日)



 ポリチカにはスビタビから出かける。スビタビから山の合間を縫ってうねうねとパルドビツェのほうに伸びているローカル線に乗って30分ほど、ディーゼルの車両には「レギオ・スター」と誇らしげに書かれているけれども、パルドルビツェ地方の出している補助金で運行されている赤字ローカル線である。行き先は名前も聞いたことのないプスター・カメニツェ。
 ポリチカは、名前の通り平らな台地の真ん中にぽつんと存在する街だった。列車が山森を抜けて畑作地帯に入ると遠くに教会の塔らしきものを中心に広がる街が見えてきた。スビタビより大きそうに見えるのは、平地で見晴らしがいいからだろうか。駅は何の変哲もない田舎の小さな駅だった。急行なんてものの走らないローカル線だから、ちゃんとしたホームもなかったし駅舎も小さかった。

 さて、ポリチカまで足を伸ばしたのは、一つは作曲家のマルティヌーの生地として知られているからだが、もう一つは中世以来の旧市街を囲む城壁がほぼ完全に残っているのを見たかったからだ。残念ながらポリチカに通じていた四本の街道に対応して置かれていて四つの城門は破壊されてしまっているようだけど、一部ではなくほぼ一周城壁が残っている街は、まだ見たことがない。

 旧市街の中心の広場に向かう途中で、交差点の通りの先に城壁や見張りの塔のようなものが見えたけれども、情報収集が先ということで、ここでもインフォメーションセンターに向かう。実は、先日の「フラデツ再考」の記事で書いた王妃に属した町の存在を知ったのは、このインフォメーションセンターでのことなのだ。絵葉書やパンフレットの中に並んで、子供向けの絵が中心になった小冊子が二つ置いてあって、そのうちの一冊がポリチカを初めとする「王妃都市」についてのものだった。
 白状しておくと、この時点では形容詞を「věrná」と誤読していたので、ポリチカなんかは王妃に対して忠誠を誓った都市だったのだろうと思い込んでいた。実態は「věnná」でも「věrná」でもあまり変わらないのだろうが恥ずかしい限りである。ここでこの冊子を購入していれば直ぐに誤解も解けたのだが、ポリチカの歴史についての冊子しか買わなかった。いや子供向けの冊子を二冊も買うのは抵抗があったのだよ。読んでみるまでそこまで有用だとは思っていなかったしさ。

 案内所をでてとりあえず城壁のところに向かう。見張りの塔に設置された階段は封鎖されていて登れなかった。登るためには、もう一つの案内所、ボフスラフ・マルティヌー・センターが行なっているガイド付きの見学に参加しなければならないと書かれている。どうせそちらにも行くつもりだったので、町の博物館でもあるマルティヌー・センターに足を向けた。
 博物館ではヤーラ・ツィムルマンの50周年記念の展示も行なわれているようで、ちょっと惹かれたのだが、案内つきの城壁ツアーが10分後に始まるというので待つことにする。この時点で、もう一つの目的だったマルティヌーの生家が改修工事のために見学できないことも知らされた。イグラーチェクという共産党政権の時代の子供の玩具、具体的にはプラスチックの小さな組み立て人形の展示や、リホジュロウトという靴下のお化けの展示など夏休みに子供を集めるための展示が行なわれているようで、博物館も大変だなあと思わされた。

 今回の案内つき見学は、客が一人ということはなく、歴史に詳しそうなチェコ人の夫婦と一緒になった。ガイドしてくれたのはポリチカの出身で普段は音楽学校で勉強しているとか行っていた若い女性。ポリチカ流なのかガイド用の話をするときのチェコ語の抑揚がなんとも独特だった。こちらの質問に答えるときは普通の話ぶりだったけど。
 街を囲む城壁の見学は、市庁舎の二階から始まった。昔のポリチカの様子を復元した模型があり、その前で簡単に町の歴史の歴史について話してくれた。それによると、ポリチカを、13世紀の半ばに国王都市として建設したのはボヘミア王プシェミスル・オタカル二世だった。市庁舎にはその肖像画がかけられていたが、プシェミスル三世と記されている。これは伝説の始祖プシェミスル・オラーチを、一世としてプシェミスルという名前の三人目の君主という意味なのだとか。

 当初は広場の周りに木造の家が並んでいるだけだったが、14世紀に入ってルクセンブルク朝の王、特にカレル四世の治世下に発展を遂げ、石造りの街になるとともに街の周囲を囲む石造りの城壁も建設された。1307年にハプスブルク家のルドルフによって王妃に捧げられて以来、ポリチカはボヘミア王妃の御料地となった。当初は他のボヘミアの国王都市と同様、住民の大半はドイツ人だったが、火災や戦災などで人口が減少するたびにチェコ人の割合が増え、隣町のスビタビとは違い、完全にチェコ人の町になったらしい。
 15世紀のフス派戦争の時代には、当初カトリックの町としてフス派には反対する立場にあったが、ヤン・ジシカ率いるフス派の軍によって陥落させられて以後はフス派の中でもプラハの穏健派にしたがう街になった。ただし、ヤン・ジシカが陥落させたというのには異説もあって、じつはポリチカの住民が自主的にフス派の軍に降って門を開いて迎え入れたという説もあるらしい。
 ポリチカの町は、何度か大きな火事に襲われていて、中でも1845年の大火事では、町はほぼ全滅と言っていい状態で、焼け残った建物は4軒に過ぎなかったという。広場の中心にある市庁舎も、町のシンボルである聖ヤクプ教会も例外ではなく、教会は幸いなことに基礎は無事だったので、同じ場所に同じ大きさで、比較的直ぐに再建されたが、市庁舎が完全に再建されたのは20世紀に入ってからだったらしい。
 以下次号。
2019年8月2日24時。












2019年08月03日

またまた鉄道事故(八月一日)



 この件に関しては、最初は書くつもりはなかったのだけど、日本のヤフーでこんな映像記事を見つけて、久しぶりにチェコのニュースだと思ったらこれかよと思ったのと、例によって情報が微妙に正しくないのが気になったので、チェコテレビのニュースで把握できたことを書いておく。

 映像についている記事には、「脱線事故の現場は、ドイツとの国境から12キロの温泉保養地として有名なマリアーンスケー・ラーズニェとポドバー・プラナーの間で、石灰石を輸送中の貨物列車が先頭から13両脱線した」とあるのだが、ドイツ語でマリエンバードと呼ばれることもあるマリアーンスケー・ラーズニェが正しく表記されているのはいいとしても、もう一つの町の名前がちょっと違う。正しくは「ポドバー・プラナー」ではなく、「ホドバー」である。
 このホドバーという形容詞は、もう少し南に行ったドマジュリツェを中心とするホツコ地方と関係がある。このホドバー・プラナーの辺りは、厳密な意味でのホツコ地方には含まれないのだが、ホツコ地方と同様に、かつて国境警備を担ったホットと呼ばれる人たちが住んでいたところらしい。そのホット人を意味する言葉からできたのが、ホドビーという形容詞で、後に来るプラナーが形容詞型の女性名詞であることから、ホドバーとなっている。あえて訳せばホット人たちのプラナーということになろうか。だから僅かな違いだけど、「ポドバー」では意味を成さないのである。
 無理に小さな地名を使わないで、マリアーンスケー・ラーズニェ付近とか、マリアーンスケー・ラーズニェからプルゼニュに向かう鉄道でなんて書けばよかったのに。翻訳記事のようだから、英語版が間違えていたという可能性もあるのか。ちなみにホツコ地方にある地名の場合には「ホツキー」という形容詞がつく。

 それから「先頭から13両脱線した」というのは正しいが、本当の先頭についていた機関車二両は脱線していないし、貨物車両も5両は脱線せずに線路上に留まったらしい。機関車を運転していた運転士は当然無事だったが、危うく犠牲になりそうだった人たちは存在する。
 実はこの区間、マリアーンスケー・ラーズニェの街を迂回するためのバイパス道路の建設工事が行われており、脱線現場付近で働いていた人がぎりぎりで逃げ切る様子が写っているたまたまその場にいた人が撮影したビデオがニュースで流された。道路と鉄道が交差するところでの事故というと、モラビアのストゥデーンカで起こった事故を思い出すが、今回も下手をすれば同じような大惨事になりかねなかったようだ。

 それで、「問題の貨物列車は現場付近を規定の制限速度の3倍を超えるスピードで走行していた」というのも、工事のために特別に30キロに落とされた制限速度の3倍ということになる。30キロに落とされているのは、工事のためにもともとのほぼまっすぐの路線が、暫定的な蛇行する路線につけ変えられているからで、もともとはこの区間時速100キロで走っていたらしい。つまりもともとの制限速度で走ったら、現在の制限速度の3倍になったという可能性もある。
 運転士が制限速度をオーバーしたのが、事故の直接の原因であるのは間違いないが、現在問題にされているのが、制限速度が30キロに落とされたという情報が十分に伝えられていたかということで、路線管理会社では十分だと主張しているけれども、事故が起こる以前から運転士の側から、今のままでは重大な事故が起こりかねないという指摘がされていたともいう。

 そもそも時速100キロで走っている18両もの貨物列車が、しかも石灰石を満載した列車が、そんなに簡単にスピードを落とせるのだろうか。定期的にこの区間を走らせている人であれば、事前にわかっているから問題なくスピードを落とせるのだろうが、貨物列車の運転士が定期的に同じルートを走っているとも思えない。その場合、線路脇の30キロにスピードを落とせという表示を見落とす可能性は高いし、表示を見てからでは十分にスピードを落としきれない可能性もある。
 この区間を旅客列車を走らせている運転士の中には、自分も30キロという制限速度を越えて走らせたことがあると匿名で語っている人もいた。重い貨物列車ではなかったので事故にはならなかったのだろうが、乗客を乗せた特急で事故が起こっていたらと思うとぞっとする。問題は運転士のスピード違反というだけには留まらないのである。問題があっても事故が起こるまでは放置して、事故が起こってから対策することの多いチェコだから、この工事区間に関しても何らかの対策はとられることになるだろう。

 事故が起こったのが日曜日、脱線した貨物列車の残骸と、零れ落ちた積荷の回収と路線の改修には数日の時間がかかると予想され、この区間の鉄道の運行が再開されるのは金曜日に予定されている。その間は、普通列車も特急もバスで代替輸送ということになるのだが、代替バスは遅れることが多いし、ぎゅうぎゅうづめにもなりやすいんだよなあ。今年の夏は、各地で鉄道の改修工事が行われていて、全体的に鉄道の遅れが多くはあるのだけど。それでも、2000年前後の送れて当然の時代に比べたら格段によくなっている。そう考えると、批判されることの多かった代々の運輸大臣結構がんばっているのである。
2019年8月1日24時40分。



この区間の運行再開予定は8月20日以降に延期された。8月2日追記。



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2019年08月02日

シュムネー・スビタビ(七月卅一日)



 プラハからブルノに向かう電車は、チェスカー・トシェボバーまではオロモウツ行きと同じ路線を走り、そこから南下していく。スビタバ川が作る谷間をこの路線沿いには、ブランスコ、レトビツェなどの町があり、ちょっと東西に幅を広げると、ボスコビツェや、チェルナー・ホラ、クンシュタートなどの一度は足を伸ばしてみたい町がいくつもある。ただ、オロモウツからの鉄道の便がよくないのでこれまでは未踏の地となっていた。
 この辺りまで足を伸ばすには、一度ブルノに出て北上するか、チェスカー・トシェボバーから南下するかしかないのだが、かかる時間から考えると北回りしかありえない。スビタビならチェスカー・トシェボバーの隣と言っていいところにあって、急行なら所要時間が10分しかかからない。それにシュムナー・ムニェスタでも取り上げられていた。ということで、チェスカー・トシェボバーで30分以上の乗り換えの待ち時間はあったけど、10時ごろにスビタビに到着した。

 駅から適当に歩いて到着した旧市街の広場は、恐らくかつての街道沿いに細長く伸びており、オロモウツなどの広場とはちょっと印象が違った。オロモウツにもドルニー広場に一つ二つはあるのだけど、スビタビの広場に面した建物はほぼすべて、これもアーケードでいいのかな、一階が引っ込んでいるというか、二階以上が前に突き出している形の建物で、一階は何かのお店になっている。雨が降ってもぬれずに移動できるし、夏場の日差しを避けることもできるのだけど、建物を見て回るには柱が邪魔で外に出なければならなかった。
 この手の建物が多い広場というと、テルチがそうじゃなかったかと思うのだが、ボヘミアとモラビアの中間に当たるビソチナによく見られる形式なのだろうか。クロムニェジーシュにも多かったかもしれない。とりあえず広場の建物をざっと見て、ひときわきれいに改修された建物の中に入っているインフォメーションセンターで、地図といくつかのパンフレットをもらう。

 地図で場所を確認して向かうのは、旧市街の外側にある公園に設置されたオスカー・シンドラーの記念碑である。映画「シンドラーのリスト」で一躍有名になったこのドイツ人は、実はスビタビの出身なのだ。スビタビは、いわゆるズデーテン地方からは外れるが、周囲のチェコ人居住地帯の中にぽっかりと浮かぶ離れ小島のような形で存在したドイツ人の町だったらしい。おそらく、第二次世界大戦後にはスビタビに住んでいたドイツ系の住民の多くも、国外追放の憂き目を見たはずである。
 興味があったのは、シンドラーその人ではなく、外国人によって再発見されたドイツ系住民の偉業を、現在ではチェコ人の町となったスビタビがどのようにに扱っているのかだった。記念碑は公園の中のシンドラーの生家とされる建物の前に通りを挟んで立てられていたが、生家のほうは何の変哲もない普通の通り沿いの建物で、特にここが生家だとわかるような表示などはなされたいなかった。

 その代わりというわけでもないのだろうが、旧市街から向かった際の公園の入り口のところに、市役所の建物の駐車場を挟んだ反対側に、喫茶店の入っている建物があって、入り口のガラスのドアにシンドラー・インフォメーションセンターなんて書かれていた。しかし、話を聞いてみたらこのインフォメーションセンターはすでに廃止になり、旧市街の中のものに一本化されたらしい。それでも昔のパンフレットが残っているというので、いくつかもらってきた。
 これは、シンドラーを観光の目玉にしようとして、インフォメーションセンターを建てて、集客を図ったものの、目論見どおりに観光客が来なかったということを意味しているのだろうか。シンドラーに関する展示自体は、現在でも町の博物館で続けられているようだし。ドイツ系の偉人に対するチェコ人の感情には複雑なものがあるようだしなあ。チェコ人が「チェコの」偉人だと考えるドイツ系の人って、チェコ出身というだけではなく、現在のチェコの領域で活躍したというのが条件になっているようにも思われる。だからカフカとか、マーラーなんかは、かなり「チェコの」偉人扱いされているのだろう。
 だから、チェコ人の観光客は、あまりシンドラーに対して関心を持たず、外国からの観光客は、シンドラーの生地だというだけの理由で、わざわざスビタビまで来たりはしなかったと考えておこう。シンドラー自身が毀誉褒貶のある人物で、必ずしも万人受けするというわけでもないしなあ。観光するなら、血なまぐささがいまだに感じられる現代史関係よりも、歴史となってしまった近代以前の記念物の方がいいというのもあるか。

 シンドラーのインフォメーションセンターの跡地の喫茶店で、スビタビにエスペラントの博物館があって、コーヒーではなくお茶が中心の喫茶店から中に入れるという話を聞いて、足を向けたところ、喫茶店の営業時間が午後2時からで、中には入れなかった。建物自体もこれもドイツ系のオッテンドルフェル氏が19世紀末に建てた図書館だといのだけど、閲覧可能なのかどうかはわからない。その道の向かいに建っているのが、スビタビの町の博物館で、これも19世紀末にドイツ・ルネサンス様式で建てられたものらしい。

 もう一つ、気になったのが、シンドラーの記念碑に向かう途中のT.G.マサリク通りにあった像で、それ自体はどうでもいいのだけど、その説明に、現在はジグムント・フロイトが滞在した建物の前に立っているたとか何だとか書かれていたことだ。困ったことに、その近くの建物を見ても、どこにもこの建物にフロイトが滞在していたなんてことは書かれておらず、これは誰かに質問してみなければなるまいと思ったのだが、すっかり忘れていた。この手の情報は地元の人じゃないとわからんだろうしなあ。
2019年7月31日24時15分。





救出への道―シンドラーのリスト・真実の歴史







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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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