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2019年08月13日

チェコの君主たち1(八月十一日)



 今回、あちこちの町を訪れて、地元の歴史について説明を読んだり、聞いたりする中で、ちょっと困ったのが、その話をチェコ史のどこに位置づければいいのかとっさにはわからないことだった。チェコ史上の主要な出来事が何世紀に起こったことなのか、完全には頭に入っていないのである。今後のことも考えると、ここらでもう一度復習して頭の中を整理しておいたほうがよさそうである。
 その第一歩として、ボヘミアとモラビアを支配した君主たちについて、まとめることにする。最初の何人かについては、すでに書いたことがあるので、簡単に。

 現在のチェコの領域に最初に国めいたものを建てたのは、フランク人の商人サーモだと言われる。スラブ人の部族をいくつか糾合したサーモが、ボヘミアを中心とする領域を支配したのは、すでに七世紀のことで、623年ごろから659年ごろのことだというから、日本の飛鳥時代と同時期ということになる。サーモの国は、サーモの死後分裂して国と呼べるものではなくなったようである。

 チェコの歴史における二つ目の国は、モラビア南部を中心に、ボヘミアからスロバキアまで支配領域を広げていた大モラバ国である。創設者モイミール1世の名前を取ってモイミール朝などと呼ぶこともある。君主の爵位としては、クニージェというから侯爵だと考えておく。大モラバ国が成立したのは九世紀の前半のことで、十世紀初めにはマジャール人の侵攻を受けて滅亡している。

 君主を列記すると以下の通り。
  初代 モイミール1世 830ごろ〜846年
  二代 ロスティスラフ 846〜870年
  三代 スバトプルク  870〜894年
  四代 モイミール2世 894〜907年

 それぞれの君主の血縁関係は、ロスティスラフはモイミール1世の甥、スバトプルクもロスティスラフの甥、最期のモイミール2世だけが、前代のスバトプルクの息子ということになっている。
 全盛期を築いたのは前代のロスティスラフを捕らえてフランク王国に売り渡して君主の地位についたとされるスバトプルク。だたしロスティスラフの死の際にスバトプルクはフランクの捕虜になっていたという話もあるようだ。それまでのモラビアとスロバキアの西部いわゆるニトラ領に加えて、ボヘミアやラウジッツ、ハンガリーの一部にまで支配地域を広げている。これらの地域は、モイミール二世の即位後、すぐに大モラバの支配を離れ、ボヘミアではプシェミスル家を君主とする国が成立しつつあったとされる。

 この辺までは、すでに書いたし、プシェミスル家の黎明期の歴史には実在を疑われる王(君主)が何人かいるなんてことも書いたのだが、では、歴史上実在が確認できる最初のプシェミスル家の君主は誰かというと、ボジボイ1世ということになっている。大モラバのスバトプルクが即位したのと同時期の870年ごろに爵位を得たと考えられている。
 ボヘミアのプシェミスル家の君主たちの爵位も最初はクニージェで侯爵なのだが、いまいち当時の爵位のシステムが理解できない。ボヘミアの侯爵の上にいたはずの大モラバの君主の爵位も侯爵だし、その下にはもう一人の侯爵、ニトラの侯爵もいたわけだし、そもそも爵位を誰が、もしくはどの国に認定してもらっていたのかもよくわからないし。大モラバの場合には、フランクとビザンチンの間で行ったり来たりしていたからそのどちらかだろうけど、自称の可能性もないとは言えないような気がする。
 それはともかく、本来のプシェミスル家の拠点であったレビー・フラデツから、プラハに拠点を移したのも、このボジボイで、885年ごろのこととされる。以来、プラハは、ボヘミアの首都であり続けているのである。当時のプラハは、現在のプラハ城の領域を大きく出るようなものではなかったらしいけど。

 ボジボイが889年ごろに亡くなった後、その跡を継いだのは、長男のスティピフニェフスピティフニェフ1世だが、当時、まだ成人していなかったようで、侯爵の地位についたのは、大モラバのスバトプルクが亡くなった894年のこととされる。スティピフニェフスピティフニェフ1世は、大モラバの影響から逃れるために、即位の翌年には東フランクの君主に臣従することを決めている。
 この決定は、単に当時のボヘミアが、大モラバを経由した東ローマ、ビザンチンの文化的、政治的影響下から、東フランクの影響下に移ったというだけの意味しか持たないわけではない。ボヘミア、現在のチェコの領域が、西ローマのキリスト教、つまりカトリックの文化圏に属し、神聖ローマ帝国の一部となったその後の歴史を決定づけたと言っていい。チェコ人の好きな言い方をすれば、このとき、チェコは東を捨てて西に向かったのである。
 言葉の面でも、チェコ語が、大モラバでツィリルの発明したグラゴール文字、ひいてはのちのキリル文字ではなく、ラテン文字、つまりローマ字のアルファベットを使用して筆記されるのも、このときの決定による。以後、チェコが、東の正教、キリル文字の世界に戻ることは、共産主義の時代を除いては、なかったのである。

 スティピフニェフスピティフニェフ1世が915年に亡くなった後は、弟のブラティスラフ1世が君主の座につくが、わずか6年で、921年に亡くなってしまう。888年ごろの生まれとされるから、20代後半で即位し、30代前半で没したことになる。問題は、その後に、スティピフニェフスピティフニェフ1世とブラティスラフ1世の母親であるルドミラと、ブラティスラフ1世の妻であるドラホミーラの間に権力争いが起こったことである。
 ドラホミーラの子供で爵位を継ぐべきバーツラフと弟のボレスラフを、祖母にあたるルドミラが養育していたため、バーツラフが君主に立った後、ルドミラの影響力が増大するのではないかと恐れたドラホミーラがルドミラを暗殺することで、争いに決着がついた。ウクライナのキエフ・ルーシから来た二人のバイキングが手を下したという。ノルマン人の南下の時代に重なるのか。とまれ、これがプシェミスル家の血まみれの歴史の始まりを告げた事件である。

 その後、成人に達したバーツラフがボヘミアの君主の座につくのだが、この、後にチェコの守護聖人とされた人物については、また稿を改める。

  プシェミスル家の君主➀
   初代 ボジボイ(Bořivoj)1世     870ごろ〜889年ごろ
   二代 スピティフニェフ(Spytihněv)1世 894〜915年
   三代 ブラティスラフ(Vratislav)1世  915〜921年

 この二世代、三人の君主の時代は、日本の歴史と比べると平安前期の、藤原北家が朝廷の掌握しつつあった摂関政治の黎明期と同じころになるのか。『古今和歌集』の時代である。
2019年8月11日24時30分。



スピティフニェフ1世の名前を間違えていたので修正。




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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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