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2019年08月30日
チェコの君主たち6(八月廿八日)
12世紀も半ばになると、チェコの国家に対する神聖ローマ帝国、つまりドイツからの影響、もしくは干渉は、ますます大きくなっていく。ソビェスラフ1世没後、跡を継いだのは甥のブラディスラフ2世だが、皇帝フリードリヒ1世との関係に苦労することになる。バルバロッサとか赤髭王などと呼ばれることもあるこの皇帝は十字軍の遠征を主導し、遠征中に命を落とすのだが、各地で積極的な軍事行動を起こす。そのうちの一つの北部イタリアの遠征に従軍し、功績を挙げたことで、ブラディスラフ2世は、ブラティスラフ2世に次いで、二人目のチェコ王、もしくはボヘミア王となる。
チェコの軍勢も参加した北イタリア遠征は、1158年に行われ、ブラディスラフの戴冠式は、ミラノの街を包囲している中で行われたらしい。ただし、この王位、王冠も、ブラディスラフ2世(王としては1世)個人に与えられたもので、チェコの君主が王位を代々受け継ぐという権利は与えられなかったようである。
神聖ローマ帝国との関係を安定させたブラディスラフ2世の治世下、チェコは大きな発展を遂げる。プラハ城は大きく改築され、ブルタバ川には石の橋がかけられ、プラハのストラホフなどには修道院が設立された。そして晩年のブラディスラフは、息子のベドジフに位を譲り、自らは出家してストラホフの修道院に入ってしまうのである。これが1172年のことで、ブラディスラフが没するのは1174年である。
安定した政権を築いたブラディスラフの引退は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世にとっては、チェコの君主の継承に直接干渉して、政治的な立場を弱めるための機会だった。フリードリヒはベドジフによる継承を認めず、ソビェスラフ1世の息子のオルドジフを君主の座につけようとする。オルドジフは継承を辞退し、兄のソビェスラフに権利を譲ってしまう。ソビェスラフは、ブラディスラフ2世が、第二回十字軍に参加して国を空けていた1148年に反乱を起こそうとして失敗し、プシムダの城に幽閉されていたのを、皇帝の命令で解放されたばかりだったという。
君主となったソビェスラフ2世は、評判が悪く、皇帝フリードリヒ1世も持てあますところがあったようである。貴族たちを信じることができず、周りに身分の低い者たちばかりを集めていたため「農民侯爵」などとあだ名され、モラビアに置かれたプシェミスル家の一族やローマ教皇までもが、ソビェスラフの反対派に回った。教会に入ったプシェミスル家の中には、ローマに出て教皇に仕えた者もいるのである。
フリードリヒは、1178年に、一度は君主の座から追い落したベドジフに、チェコを領邦として与えることを決める。しかしベドジフは自ら軍を起こし権力を握るために戦わなければならなかった。チェコの諸侯を味方につけてソビェスラフ2世をプラハから追い落とした後も、ソビェスラフ2世が権力奪回を狙って、モラビアのプシェミスル家の支援を得て戦いを続けたため、最終的に国外に追放できたのは、1179年になってからのことである。
ベドジフはその後も、モラビアのプシェミスル家のコンラート・オタとの権力争いを強いられることになる。1182年に一度はチェコの諸侯がコンラートを君主の座につけたとも言われるのだが、最終的には、皇帝フリードリヒ1世が仲介することで、争いは決着する。その方法は、ボヘミアの侯爵位はベドジフに与え、モラビアは独立した辺境伯領として、コンラート・オタを辺境伯に任じるというものだった。このとき、ボヘミアの侯爵とは別にモラビアの辺境伯が神聖ローマ皇帝に仕えるという形式が成立した。両者を兼任する君主が多かったのは確かだけれども、いろいろな事情でボヘミア王とモラビア辺境伯が対立することもあったのである。
ベドジフが1189年に亡くなった跡を襲ったのは、モラビア辺境伯のコンラート2世(オタをどこにつければいいのかわからない)だった。コンラート2世はブジェティスラフ1世の子のコンラート1世の曾孫にあたるからかなり遠い親戚である。とまれ、これによって、ボヘミア侯爵領とモラビア辺境伯領は同じ君主を戴く形に戻ったのだが、コンラート2世の治世は長く続かなかった。
1190年にチェコに強い影響力を持っていた皇帝フリードリヒ1世が、第三次十字軍で出征中に小アジアで亡くなったのだが、コンラート2世はその跡を継いだハインリヒ6世の戴冠式のためのイタリア遠征に従軍し、その際、1191年にナポリを包囲中に伝染病に罹患して陣中で亡くなってしまうのである。
コンラート2世の訃報が、1191年の終わりにプラハ城に届いたとき、手際よく後継者の座を手にしたのは、ソビェスラフ1世の末子のバーツラフだった。このバーツラフの統治期間が、3か月と短く、翌年早々にはブラディスラフ2世の子のプシェミスル・オタカル1世によって侯爵位を奪われてしまうのである。この短さのせいか、ウィキペディアには、バーツラフ2世で立項されているが、子供向けの絵入りの本には単にバーツラフとしか書かれていない。
バーツラフはその後もあきらめることなく、プシェミスル・オタカル1世との戦いを継続するのだが、その争いは、プラハ司教のインドジフ・ブジェティスラフの要請で皇帝ハインリヒ6世が介入することで決着がつく。皇帝はプシェミスル・オタカルにチェコの君主の地位を認めたのである。バーツラフはドイツに逃亡し、最後はマイセン辺境伯領で捕らえられ獄死したと伝えられている。
長くなったので、プシェミスル・オタカル1世の話から次回ということにしよう。
プシェミスル家の君主E
19代 ブラディスラフ(Vladislav)2世 1140〜1172年
20代 ベドジフ(Bedřich) 1172〜1173年
21代 ソビェスラフ(Soběslav)2世 1173〜1178年
−− ベドジフ(Bedřich) 1178〜1189年
22代 コンラート(Konrád)2世 1189〜1191年
23代 バーツラフ(Václav) 1191〜1192年
コンラート2世が1182年に一度君主の在についたとも言われるが、煩雑さを避けて省略した。
神聖ローマ帝国だけでなく、西ローマのキリスト教の狂信の発露である十字軍までがチェコの君主たちの動向に影響を与え始めている。かくて教会の腐敗は進み、宗教改革でフスが登場する土壌ができつつあったというと先走りにすぎるだろうか。
日本では平安時代の終わり、院政期後半の末法の世である。鎌倉幕府が成立したころに、チェコが王位の継承権を得ることになるのかと考えると覚えやすい。とはいえそれはまた次回のお話である。
2019年8月28日24時30分。