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2019年08月02日

シュムネー・スビタビ(七月卅一日)



 プラハからブルノに向かう電車は、チェスカー・トシェボバーまではオロモウツ行きと同じ路線を走り、そこから南下していく。スビタバ川が作る谷間をこの路線沿いには、ブランスコ、レトビツェなどの町があり、ちょっと東西に幅を広げると、ボスコビツェや、チェルナー・ホラ、クンシュタートなどの一度は足を伸ばしてみたい町がいくつもある。ただ、オロモウツからの鉄道の便がよくないのでこれまでは未踏の地となっていた。
 この辺りまで足を伸ばすには、一度ブルノに出て北上するか、チェスカー・トシェボバーから南下するかしかないのだが、かかる時間から考えると北回りしかありえない。スビタビならチェスカー・トシェボバーの隣と言っていいところにあって、急行なら所要時間が10分しかかからない。それにシュムナー・ムニェスタでも取り上げられていた。ということで、チェスカー・トシェボバーで30分以上の乗り換えの待ち時間はあったけど、10時ごろにスビタビに到着した。

 駅から適当に歩いて到着した旧市街の広場は、恐らくかつての街道沿いに細長く伸びており、オロモウツなどの広場とはちょっと印象が違った。オロモウツにもドルニー広場に一つ二つはあるのだけど、スビタビの広場に面した建物はほぼすべて、これもアーケードでいいのかな、一階が引っ込んでいるというか、二階以上が前に突き出している形の建物で、一階は何かのお店になっている。雨が降ってもぬれずに移動できるし、夏場の日差しを避けることもできるのだけど、建物を見て回るには柱が邪魔で外に出なければならなかった。
 この手の建物が多い広場というと、テルチがそうじゃなかったかと思うのだが、ボヘミアとモラビアの中間に当たるビソチナによく見られる形式なのだろうか。クロムニェジーシュにも多かったかもしれない。とりあえず広場の建物をざっと見て、ひときわきれいに改修された建物の中に入っているインフォメーションセンターで、地図といくつかのパンフレットをもらう。

 地図で場所を確認して向かうのは、旧市街の外側にある公園に設置されたオスカー・シンドラーの記念碑である。映画「シンドラーのリスト」で一躍有名になったこのドイツ人は、実はスビタビの出身なのだ。スビタビは、いわゆるズデーテン地方からは外れるが、周囲のチェコ人居住地帯の中にぽっかりと浮かぶ離れ小島のような形で存在したドイツ人の町だったらしい。おそらく、第二次世界大戦後にはスビタビに住んでいたドイツ系の住民の多くも、国外追放の憂き目を見たはずである。
 興味があったのは、シンドラーその人ではなく、外国人によって再発見されたドイツ系住民の偉業を、現在ではチェコ人の町となったスビタビがどのようにに扱っているのかだった。記念碑は公園の中のシンドラーの生家とされる建物の前に通りを挟んで立てられていたが、生家のほうは何の変哲もない普通の通り沿いの建物で、特にここが生家だとわかるような表示などはなされたいなかった。

 その代わりというわけでもないのだろうが、旧市街から向かった際の公園の入り口のところに、市役所の建物の駐車場を挟んだ反対側に、喫茶店の入っている建物があって、入り口のガラスのドアにシンドラー・インフォメーションセンターなんて書かれていた。しかし、話を聞いてみたらこのインフォメーションセンターはすでに廃止になり、旧市街の中のものに一本化されたらしい。それでも昔のパンフレットが残っているというので、いくつかもらってきた。
 これは、シンドラーを観光の目玉にしようとして、インフォメーションセンターを建てて、集客を図ったものの、目論見どおりに観光客が来なかったということを意味しているのだろうか。シンドラーに関する展示自体は、現在でも町の博物館で続けられているようだし。ドイツ系の偉人に対するチェコ人の感情には複雑なものがあるようだしなあ。チェコ人が「チェコの」偉人だと考えるドイツ系の人って、チェコ出身というだけではなく、現在のチェコの領域で活躍したというのが条件になっているようにも思われる。だからカフカとか、マーラーなんかは、かなり「チェコの」偉人扱いされているのだろう。
 だから、チェコ人の観光客は、あまりシンドラーに対して関心を持たず、外国からの観光客は、シンドラーの生地だというだけの理由で、わざわざスビタビまで来たりはしなかったと考えておこう。シンドラー自身が毀誉褒貶のある人物で、必ずしも万人受けするというわけでもないしなあ。観光するなら、血なまぐささがいまだに感じられる現代史関係よりも、歴史となってしまった近代以前の記念物の方がいいというのもあるか。

 シンドラーのインフォメーションセンターの跡地の喫茶店で、スビタビにエスペラントの博物館があって、コーヒーではなくお茶が中心の喫茶店から中に入れるという話を聞いて、足を向けたところ、喫茶店の営業時間が午後2時からで、中には入れなかった。建物自体もこれもドイツ系のオッテンドルフェル氏が19世紀末に建てた図書館だといのだけど、閲覧可能なのかどうかはわからない。その道の向かいに建っているのが、スビタビの町の博物館で、これも19世紀末にドイツ・ルネサンス様式で建てられたものらしい。

 もう一つ、気になったのが、シンドラーの記念碑に向かう途中のT.G.マサリク通りにあった像で、それ自体はどうでもいいのだけど、その説明に、現在はジグムント・フロイトが滞在した建物の前に立っているたとか何だとか書かれていたことだ。困ったことに、その近くの建物を見ても、どこにもこの建物にフロイトが滞在していたなんてことは書かれておらず、これは誰かに質問してみなければなるまいと思ったのだが、すっかり忘れていた。この手の情報は地元の人じゃないとわからんだろうしなあ。
2019年7月31日24時15分。





救出への道―シンドラーのリスト・真実の歴史







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