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2017年01月31日

云々云々(正月廿八日)



 昨日だったかな、朝仕事に出かけようとしたら、うちのに、安倍総理大臣が何かまた変な日本語を使ったらしいよと教えられた。見せられたのは日本語のニュースではなく英語のニュースで、「テイセイデンデン」と言ったらしいのだけど、そんな言葉はないので、「ウンヌン」を誤読したのではないかと書かれていたようだ。
 国会での答弁だというので、「テイセイ」は「帝政」だろうかと考えたのだが、これに「云々」のつく状況が思いつかなかった。夜になって思い出して調べてみたら「訂正云々」だった。その前後の民なんとか党の人とのやり取りは、日本の国会の議論の不毛さを象徴しているようで、目くそ鼻くその争いをいつまで続けているのだろうとため息をつくしかない。

 それはさておき、「云々」の「云」を「ウン」と音読みするのは、「云」を音符とする形声文字の音読みを考えればわかるだろうと書きかけて、常用漢字の範囲でこれに当てはまるものが「雲」しかないことに気づいた。
 しかし、日本では漢字検定とかいう、何のために受けるのかも、何の意味があるのかも理解できない検定試験が、不祥事が発覚するまでは大流行していたらしいから、「芸」の本来の音読みが「ウン」であることを知っている人も多いだろう。「ゲイ」は、常用漢字で正字「藝」の略字体として採用された結果、「ゲイ」という読みが正しいことになっただけである。
 同じように、「会」の正字は「會」、「転」の正字は「轉」で、「云」は音符としての機能を果たしていないのである。では、「伝」はというと、これも「傳」が正字である。この辺が、丸谷才一氏など、常用漢字の新字体を強く批判し、正字の使用を求める人がいた所以なのだろう。音符と字音の関連性が失われてしまって、漢字の読みの習得を困難にすることになる。ということは、今回安倍首相が言い間違いか、読み間違いかをしてしまったのは、常用漢字のせいだということになる。これ決めたの自民党政権だよね。ってことは自業自得か。

 さて、「云」に踊り字を重ねた「云々」が、「ウンウン」ではなく、「ウンヌン」と読まれるのは、連声と言われる現象である。「反応」が「ハンノウ」、銀杏が「ギンナン」なるように、音読みが子音Nで終わる漢字の後に母音で始まる漢字が付いたときに起こることがある。問題は規則がよくわからないことで、同じ「サン」と読む漢字に「位」がついた言葉でも、「散位」は「サンニ」と読み、「三位」は「サンミ」と読むのである。いや、「三位」にはスポーツの場合の「サンイ」という読み方もあった。
 一般的には、連声は起こりにくくなっているといっていいのだろう。かつては「マンニョウシュウ」と読まれていたはずの『万葉集』は、「マンヨウシュウ」以外の読み方はされなくなっているし、新しく次々に作られる熟語の場合には、連声を起こすことはなさそうだ。ただ、日本人がこの連声と縁を切ることはあるまい。国民統合の象徴たる天皇、その天皇の読み「テンノウ」も、連声の結果生じた読み方なのだから。「皇」は、単独で「コウ」「オウ」とは読まれでも、「ノウ」と読まれることはないのである。

 「云々」に話を戻すと、本来は漢文で誰かの言葉を引用した最後につけてそこで話が終わることを示した表現である。狭い意味での漢文、つまり中国の古典に登場したかどうかは、ちゃんと覚えていないが、日本で書かれた漢文資料には頻出する。それで思い出したことが一つ、文学系の先生や学生は、「云々」を「ウンヌン」と読み、史学系では、「としかじか」と読んでいたことだ。
 韻文であれ、散文であれ、和文を主として研究対象にする文学科の人間が、音読みして済ませているのに、漢文史料を主に扱う史学科の人たちが、訓読みしているのが不思議に思えたものだ。「しか」が「云」の訓読みなのかという疑問に対しては、漢字の読みを和文における意味から当てていったのが訓読みであることを考えれば、訓読みと言ってかまわないだろうと答えておく。

 和製漢文においては、「者」も人の話の引用の末尾に用いられる。これは、書き下し文では「てへり」と書かれ、文語なので「てえり」と読まれる。「といへり」の約まった形なので、意味は「と言った」ということになる。引用の助詞「と」が「て」に形を変えるのは、現代口語だけの話ではないのである。
 その「者」を「てえり」ではなく、歴史的仮名遣いの読み方の原則を無視して文字通り「てへり」と読んでしまう史学科の学生がいるという話を聞いたことがある。これは、日本で国語教育、特に古典に関する教育が軽視されていることの反映であろう。一般の人ならともかく、近代以前の日本史を専攻する人間が、正しく読めないというのはしゃれにならない現実である。
 おそらく、安部総理大臣が、「云々」を知らなかった、もしくは読めなかったというのも、その延長線上にある。戦後の学校教育が英語教育に力を入れるあまり、国語をないがしろにしてきた結果、かつては誰でも知っていた言葉も読めない総理大臣を輩出してしまったのだ。以前も誤読を連発して問題になった総理大臣がいたというが、母語である日本語において間違いを連発することを恥だとは思わないのだろうか。英語ができないことよりもはるかに大きな恥だと思うのだが。

 最近流行っているらしい「美しい日本語」とやらを称揚する動きも関連すると言えば言えるか。あれは、外国語、とくに英語に対するコンプレックスが生み出した徒花としての流行に過ぎない。それに、あの手のものに紹介される日本語が本当に美しいものだとは必ずしも言い切れないし、あれを読んで国語能力が向上するとも思えない。
 国語そのものだけではなく、外国語も含めた他の分野の学習に関しても、世界認識の要である母語、すなわち日本語が確たるものとして確立されていることは重要だと思うのだけど、日本の社会はそっちのほうには向かっていないようである。

1月29日17時。


posted by olomoučan at 06:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 日本語

2017年01月30日

医学部の話、其の二(正月廿七日)



 ふう、やっと追いついた。本来、毎日定期的に、一定の分量、一定の時間、文章を書く癖を付けるために始めた企画だったのに、日によって分量に大きな違いが出てしまっているのは問題である。時間のほうは、あまり変わらないと信じたい。いや、大抵はあまり変わらないのだが、時に遅れている文を取り戻すために、必死に長時間書き続けなければならないことがあるだけだ。ちょうど、足掛け三本目に入った今日のように。

 さて、パラツキー大学の医学部で勉強する学生の話によると、医学部に入るためには日本で行われる入試に合格しなければならないらしい。毎年一回医学部の先生が日本に出向いて、英語で試験をして、その試験に合格した人だけが、大学で勉強することを許されるのである。希望者が全員、入学できるわけではないので、毎年の日本人の入学者の数は一定ではない。多い時で五、六人、少ないときは、一人か二人ということもあるようだ。
 英語での入試を通り抜けているので、パラツキー大学の医学部で勉強している学生たちは、英語で授業が受けられる程度には英語が堪能である。一期生などは、最初が肝腎ということで、チェコに来る前に、アメリカで一年間の英語の研修を受けた上でチェコに来たほどである。もちろん、試験を受けるためにも、研修を受けるためにも仲介のエージェントにお金を払う必要があるだろうし、チェコ人とは違って勉強するための学費も毎年納める必要があるのだろうが、あれこれすべてあわせても日本の大学の医学部で勉強するよりははるかに安い金額で済むのだという。
 そんな関門を潜り抜けてきた人たちが全員、問題なく進級できているのかというとそうでもなく、志半ばで諦めて日本に帰ってしまう人、試験にどうしても合格できずに放校になってしまう人もいるようだ。やはり、日本語で学んでも難しいことを、外国で外国語で勉強するというのは、生半な覚悟ではできないことだし、覚悟だけでまっとうできるような簡単なものでもないのだろう。一期生も三人か四人いたと思うのだが、現時点で卒業できたのは一人だけだと聞いているし。

 一年目を乗り越えるのが一番大変らしいのだが、その際に一番大きな壁として立ちはだかる科目が、「アナトミエ」とチェコ語で言っていたから、「解剖学」ということになるのかな。『ターヘル・アナトミア』=『解体新書』への類想から、杉田玄白たちと同じような苦労をしているのだろうと、失礼ながら同情してしまう。玄白たちには、オランダ語ができる人もまともな辞書もなかったという苦労があったが、今の医学部生たちが学ぶべきことは、玄白の時代の何倍、何十倍にも及んでいるだろうし。
 試験を乗り越え自費でお金を払ってまで、チェコに医学の勉強をしに来た学生たちは、いったいに勉強に対して非常に熱心である。ほとんど四六時中勉強しているので、先日行われた新年会のような集まりが企画されても、参加する人はほとんどいない。たまたま大切な試験に合格したばかりで、ちょっと休憩が必要だとか、試験には全部合格してしまったとか、そんな事情でもない限り、勉強が忙しいことを理由に、欠席する。これが、学生としての正しい姿である。エラスムスのプログラムでチェコに来ていた留学生たちに爪の垢をせんじて飲ませてやりたいほどである。

 だから、チェコで、いや一般的に外国で医学を勉強しようという人たちは、みんなオロモウツの医学部にいる人たちのような人ばかりなのだろうと思い込んでいた。それが、先日ブルノの知り合いのところに出かけたときに、必ずしもそうではないことを知らされてびっくりしてしまった。最近、ブルのでは日本人の学生らしき人の姿が増えているらしいのだが、それに気づいてあちこち聞いて回ったところ、ブルノのマサリク大学の医学部でも日本人学生の受け入れが何年か前に始まっていたのだが、去年の九月には、何と廿人だか、卅人だかの日本人学生を受け入れたということがわかったのだという。
 その中には、信じられないことに、普通に生活するためのコミュニケーションすら英語でとれない人も交じっているらしい。そんな状態で英語で医学の勉強をするために、大枚はたいてチェコまで来るというのだから、度胸があるというか何というか。医学の勉強を始める前に、英語の勉強をして来いよと思うのは不思議なことではあるまい。この辺りにも、日本でまかり通っている言葉なんてのは現地に行けば何とかなるという無責任きわまる言説が影を落としているのだろう。
 百歩譲ってそれが真実であったとしても、チェコに来たところで英語がどうにかなるとは思えないし、言葉を何とかしながら、その言葉を使って高等教育を受けるのが至難の技どころではすまないというのは、多少の想像力があれば理解できるはずだ。チェコ語のサマースクールでさえ、英語で説明するクラスにいた人の中には、英語での説明が理解しきれずに苦しんでいる人は多かったのだ。いわんや医学をである。

 いや、考えてみれば英語もろくにできない人が来ているということは、オロモウツの医学部とは違って選抜すらしていない可能性がある。希望するものは、すぐに挫折することがわかっていても、誰でも受け入れるというのは、大学と仲介業者に問題がある可能性がある。ブルノに長い知人の話ではマサリク大学はがめつく金儲けしか考えていないというから、数を集めようという大学側に日本の業者が巻き込まれた可能性もあるのかな。
 噂では、親の反対を押し切ってブルノにやってきた子供を連れ戻しに親がやってきたなんて話もあるらしい。その無鉄砲さには拍手をしてもいいけど、ブルノにやってきた医学部の学生たちが、希望を失った後に、ごろつき外国人としてチェコに残ってチェコ社会に迷惑をかけたりしないように祈っておこう。現状では彼らが失敗したとしても自業自得しか言いようのない状態なので、頑張れと言う気にも、応援する気にもなれない。オロモウツの医学部生のように、頑張れなんて言われなくても頑張っているのなら応援する気にもなるが、ブルノからは今のところそんな話は聞こえてこない。

 とまれ、どこで何を勉強するのであれ、勉強というものには大きな覚悟が必要だし、覚悟だけでどうにかなるというものでもないのである。特に外国で勉強しようという場合には。
1月27日23時30分。


posted by olomoučan at 07:26| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2017年01月29日

医学部(正月廿六日)



 オロモウツにあるパラツキー大学では、チェコ人だけではなくスロバキア人もたくさん勉強している。これは、チェコスロバキアが分離した際に、お互いの国民を自国民と同じように扱うという協定を結んだことによるらしい。つまり、チェコでは、チェコ人の学生が学費無料で勉強できるので、スロバキア人も無料で、スロバキアではスロバキア人が学費を払う必要があるので、チェコ人も学費を払わなければならないのである。その結果、チェコで大学教育を受けるスロバキア人の数は多いが逆は少ないということになっている。
 パラツキー大学の外国人学生はスロバキア人だけではなく、世界各地から留学生がやってきている。この手のエラスムスだか何だかいう名称の留学プログラムでやってくる留学生の多くは、特に西ヨーロッパやアメリカから半年の予定で留学してくる連中の多くは、オロモウツで単位を取って帰る必要がなく、バカンス気分で来ているのが問題だとかつて師匠がぼやいていた。本人たちが遊びほうけておばかになっていくのはいいけど、英語を使いたくて仕方がないチェコ人学生がそれに巻き込まれて勉強しなくなるのが困るのだと。そう言えば、日本から来ていた留学生に、留学生との付き合いが忙しくて勉強する暇がないとぼやかれたことがある。そんな連中には、付き合わなければいいだけだろとは、言えたか言えなかったか覚えていない。

 そんないい加減な留学生とは別に、本気で真面目に勉強している人たちもいる。それが、医学部で英語で医学を勉強している人たちである。共産主義の時代から、チェコスロバキアではアフリカやアラブ諸国などの医学教育のまだ発達していなかった地域からの留学生を受け入れていた。医学部の学生を主人公にした人気映画の主要登場人物にチェコ語がぺらぺらのアフリカ人が出てくるぐらいである。

 我がチェコ語の師匠はかつて医学部で外国人学生のためにチェコ語を基礎から教える仕事をしていたので、この外国人向けのコースについて、いろいろ楽しい話を聞かせてもらったのだが、最も衝撃的で、最も共感できた話は、アフリカの熱帯地方から、九月にチェコにやってきて勉強を始めた学生の話である。
 その学生は少しずつ寒くなっていくチェコの冬になれた頃に、クリスマス休暇でアフリカに一時帰国してしまった。ちょうどその年は、年内はそれほど雪が降らず、年が明けて急に冷え込んで大雪に襲われた年だったらしい。その学生が戻ってくる予定の日に、師匠のところに電話がかかってきた。
「先生、駄目です。私には耐えられそうにありません。国に帰ります」
 アフリカの暑さに慣れた体でチェコの雪が降り積もり気温も氷点下から出てこない飛行場に到着した瞬間に、ここでは生きていけないと、こんな寒い国では生きていけないと確信してしまったらしい。それで、お世話になった師匠に電話をかけ、航空券を手配してそのままアフリカに帰ってしまったのだと、師匠はちょっとさびしそうに語ってくれた。例によって我がチェコ語のできの悪さによる補正が入っているかもしれないが、当時は厳しい冬が多かっただけに、心の底からこのアフリカの医学部生に共感してしまったのだった。今にして一年目の冬に日本に一時帰国しなくてよかったと思う。多分そこが頑張れるかどうかの分水嶺なのだ。チェコの嫌なところに慣れ始めた状態で母国の快適さを知ってしまうと、チェコに戻ってこられなくなる。いや、この断定はちょっと無理があるかな。

 とまれ、この外国人向けの医学教育は現在も続いており、最近はアフリカよりもアジアから来る人が増えているようで、マレーシアだったか、シンガポールだったかでは、チェコの大学の医学部を卒業して医師免許を取れば、それがそのまま国内でも使える医師免許になるのだという。国内の医師免許に書き換えができるだったかもしれない。
 シンガポール人やマレーシア人、中国人とはいっても台湾の人かな、に混じって日本人が勉強し始めたのは、すでに十年近く前のことになる。もともとはハンガリーの地方都市の大学と提携して、さまざまな理由で日本では医学部に通えなかった医師志望の学生たちにハンガリーで医学を学ぶ機会を与えていたエージェントがあって、そこがチェコにも学生を送り出すことにしようと決めて、選ばれたのがパラツキー大学だったと聞いている。

 オロモウツで日本人の学生が医学の勉強を始めた当時、ハンガリーでは一期生がもうすぐ卒業という時期だったようだ。ハンガリーの医学部を卒業して医師資格を取った後、日本で医師になるために何をする必要があるのかがまだ明確になっていなかったらしく、チェコの大学を卒業して本当に日本で医者になれるのか不安だったと一期生から聞いたことがある。
 その後、ハンガリーの大学の卒業者からは、無事に日本で医師になった人が出、パラツキー大学でもすでに二人卒業して、こちらの医師資格を取った人がいるらしい。ただ、日本で医師になるためには、改めて日本で国家医師試験に合格する必要があるのだという。
 チェコで医師の資格を持っていれば、原則としてEU内であれば、問題なく医師として仕事ができるはずである。それが、チェコの医療制度の現状に飽き足らない若手医師たちが、こちらも医師不足らしいドイツに流出している理由の一つである。

 そこで、疑問が一つ、そんな奇特な人がいるのかどうかは知らない。知らないけれども、仮にドイツや、イギリス、アメリカなどの日本では先進国だと思われている国のお医者さんが、日本で医師として働きたいと言い出した場合に、日本で国家試験を受けて医師免許を取ることを求めるのだろうか。もし、外国人医師には求めないというのであれば、外国で医学を修め医師となった日本人に対して、改めて医師試験を求めるのはどうなのだろうという気がしてしまう。他人の命を預かる仕事だけに、できるだけ慎重に、丁寧にというのは分かるのだけど。

 またまた、枕にするつもりの部分が長くなりすぎて、ほとんど枕だけで終ってしまった。
1月27日16時30分。


posted by olomoučan at 07:48| Comment(0) | TrackBack(0) | チェコ

2017年01月28日

雪といえば2(正月廿五日)



 東京に出た高校時代の先輩が言っていた。東京に出て初めて雪が降るのに出会ったときには、歩道橋の上に立って、行き交う車のヘッドライトに照らされながら落ちていく雪が幻想的で、いつまでも見続けていたんだと。「雪国」の人にとっては、飽き飽きするような光景でも、南国育ちにとっては、未知のものに対する憧憬をかき立てるのだ。件の先輩は、夜中に雪を長時間見続けた結果、風邪を引いて寝込んだという落ちがつく。

 雪がそんなにいいものではないという現実に気づいたのは、二回目の冬だっただろうか。朝起きたら雪がちらつき見たこともないほどの雪が積もっていた。とはいっても、せいぜい数センチだとは思うけど、寒さに震えながらも、その瞬間は喜んでしまったのだ。そして大学に行こうと外に出て現実を知った。
 冬靴なんてものの存在も知らなかったし、足首まで覆うような靴も持っていなかったので、普通の靴を履いて出たら、雪が靴の中に入ってきて不快だった。雪の上を歩かなければいいのだろうと、雪の薄い部分を歩こうとすると滑りそうで歩きにくい。黒いアスファルトが見えているから雪がないだろうと、足を踏み入れたら、雪が融けてできた水溜りで、靴と靴下はもちろんズボンの裾まで冷たい水に濡れてしまうことになった。
 一度戻って着替える余裕などなく、濡れた靴で大学に向かったのだが、雪のせいで鉄道のダイヤに大きな乱れが出ており、これなら一度帰っておけばよかったと後悔した。たしかこのときである。東北地方出身の同級生が、「へえ、この程度の雪で電車止まるんだ」とさもバカにしたような口調でもらしたのは。それを聞いて、むやみに腹が立って、夏の大雨で「へえこの程度の雨で洪水になるんだ」とか、いつか言ってやる馬鹿なことまで考えてしまった。
 しかし、チェコに来て春の雪解けの水でも洪水が起こりうることを知って、東北で洪水が起こるような雨なら九州でも起こる程度には、洪水対策がされているはずだということにも気付いてしまった。余計なことを口にしなくてよかった。

 翌日だったか、翌々日だったかには、一度融けた雪が朝の寒さで凍結して、つるつる滑ってまともに歩けなかった。いや、珍しく朝一の授業を入れていた日で、遅刻しそうになって駅まで走っていたら、ものの見事に転倒してしまった。幸い交通量の少ない細い道で、車に惹かれたりはしなかったのだけど、ちょうど幼稚園のまん前で、親に連れられて幼稚園に着いたところの子供たちに、指を指されて笑われてしまったのだった。
 これで、雪というものの厄介さを十分以上に思い知らされ、雪は見るべきもので、触れるべきものではないと言うのが雪に対する態度となる。つまり、ただでさえ寒い冬に、さらにくそ寒いところに出かけて、雪の上を転がりまわるなんて正気の人間のすることではないということである。だから、チェコに来てからも、スキーなんてしたことないし、しようとも思わない。

 それから数年後、九十年代の後半に入っていただろうか、東京が何十年ぶりかの大雪に襲われたときには、昼の仕事と夜の仕事を掛け持ちしていた。都心での昼の仕事を五時ごろに終らせて、郊外の夜の仕事に向かったときには、まだ雪は降っていなかったと記憶する。地下鉄を降りて郊外に向かう私鉄に乗り換えた頃に、雪がちらつき始め、さらにJRに乗り換えて降りた時には、雪が激しくなり積もり始めていた。
 十時過ぎに仕事を終らせて帰ろうとしたときには、歩道は完全に雪に覆われ、車道も雪が残って車の進行を妨げていた。JRはすでに運行の復旧を諦め自宅に帰れなくなった人のために、駅に止めた電車の中で夜を過ごせるように、明かりと暖房を付けたままにしてあるという情報が入っていた。公営のバスは動いていたが、自宅の方に向かうものはなく、タクシーは呼んでも来てくれないというので、結局二駅分歩いてうちまで帰ったのだった。途中でタクシーを見かけて止めようとしても止まってくれなかったのは、タクシーの運転手も雪の中走りたくなかったということなのだろう。
 傘をさしても意味のない大雪の中、足元に気をつけながら一時間以上の時間をかけて家までたどり着いたときには、疲れてへたり込みそうだった。何とか風呂を沸かして入り人心地つくと、近くの踏み切りの遮断機の音が止まらなくなっているのに気づいた。駅までたどり着けなかった電車を、踏み切りのところに停車させていたらしい。うるさくて眠れないかなと思ったのに、あっさりと眠ってしまったのは、疲れすぎていたからに違いない。

 この日のことが印象に強すぎて、翌日以降のことが全く思い出せない。あれだけの大雪だったので、公共交通機関が翌日の朝から通常の運行に戻ったとも思えないのだが、ちゃんと朝から仕事に行けたのか、もしくは休日だったのか、そのあたりの記憶は完全に抜け落ちてしまっている。ただ、遅延は出したとはいえ、京王線だけが雪の中運行を続けていたという話は覚えている。山手線から西に出る私鉄の中で、東急、小田急に比べると、常に下に見られていた京王線だけが運行を続けていたというのは意外だったし、このことで京王の評価が高まったのではなかったか。

 後日、冬場に高尾山に出かける機会があり、これが京王線が雪に強い理由だったのかと思ったのだが、このときの話はまた別稿で。いやここ二日、回想シリーズ、しかも説明不足ということで、読んで面白いのかねという疑念もないわけではないが、書いてしまったので載せてしまう。
1月27日14時。



2017年01月27日

雪といえば1(正月廿四日)



 一応南国である九州の、海岸沿いの平野部の人間にとって、雪というものは理解できないものである。年に一回、二年に一回ぐらいは、白い冷たいものが空から舞い落ちてくることはあったけれども、積もることは滅多になく、雪というものは手のひらの上で融けてしまうはかないものであった。だから、「雪やこんこん、あられやこんこん」という子どものころに歌わされた歌は、何のことだか理解できないままに歌っていた。
 それに、川端康成の名文の誉れ高い『雪国』の「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」という書き出しも、正直な話、「雪国」でどんな情景を思い浮かべればいいのか、何を暗示しているのか、理解できなかったし、多分、今でも理解できない。これが、「国境のトンネルを抜けると、暴風の真っ只中だった」とかだったら、よくわかるのだけど、文学にはならんわな。

 実際に体験できないから、雪そのもの、もしくは雪を使って何かをしたり、作ったりするのにはあこがれた。雪だるまとか雪合戦とか。雪合戦なんて、雪だまの中に石を入れる反則技も含めてやって見たいと思ったもんなあ。さすがに雪だるまは無理だったけど、雪合戦に関しては、代用品を見つけ出した。
 霜では投げられる形にできないので、霜柱を使おうと言い出した奴がいた。子供の発想というのは、何と言うか、かんと言うか。集団登校のための集合場所だった近所の公園で、気温が氷点下まで下がった寒さの厳しい朝、手が痛いのを我慢しながら土交じりの霜柱を掘り起こして、投げつけあったのだ。結果はご想像の通り、痛い冷たい汚いで、学校に行く前に泥まみれになってしまうという惨憺たる結末を迎えた。着替えに一度うちに戻って親におこられたんだったか、泥まみれで学校に向かって先生に怒られたんだったか、いずれにしても二度と手を出すまいと思った。

 近所の幼稚園で九州山地の山の中からトラックで雪を運んできて近所の子供たちにも遊ばせたことがあった。その雪は雪というよりは既にシャーベット条になっていて、雪だるまは丸い形に雪を固めることができず、雪合戦は雪球がほとんど氷玉になって、当たるとめちゃくちゃ痛くて泣き出すこともまで出てしまった。そして雪合戦もどきは禁止されてしまった。
 九州に住んでいた十八年間で、雪が積もったのを明確に覚えているのは二回だけである。一回目はまだ幼稚園に通っていたころのことで、朝起きたら庭の芝生に白いものが転々と残っていたのを覚えている。思い返すと積雪というにはささやか過ぎて、雪だるまにも雪合戦にも使えないような代物だったが、長らく唯一の雪の思い出となった。

 二回目は大学受験のときである。昭和天皇が崩御され、元号が平成に変わった年の正月の下旬に行われた最後の共通一次試験は、高校のあった町から試験会場の大学までかなり離れていたので、受験する学生はみんな一緒に前日にバスで大学近くの町のホテルに入った。ホテルの周囲はまだ白くなっていなかったが、ちょっと内陸の高台の上にあった会場に近づくにつれて、地面が白くなっている部分が増え、大学の周囲は一面の白色だった。と言いたいところだが、出入りする車のわだちや、行き来する人の足跡で、茶色と白の入り混じったような景色になっていた。
 せいぜい、一センチか二センチしか積もっていなかったのだろうが、南国人の目には大雪に見えた。受験の当日に目の前に積もった雪があるからと言って、雪だるまを作ったり、雪合戦を始めたりする余裕のあるものはおらず、みなバスを降りて、慣れない寒さと冷たさの中試験会場まで歩いたのだった。

 試験の当日に南国にはまれな大雪もどきが降ったのは何かを暗示していたのに違いない。バスを降りて会場に向かうときには、会場の大学の真っ白く雪に覆われたグラウンドのまぶしさが、希望を示しているように見えたし、初日の試験を終えてバスに戻るときには、建設途中で舗装の終わっていなかった駐車場の雪が融け始めてどろどろになった地面に現実に引きもどされるような思いがした。ようは試験に失敗して、思ったほどの成績ではなかったということなのだけどね。
 初日にあったのを覚えているのは理科の試験で、文系のクラスだったので受験したのはみんな生物だった。その生物の試験が異常に難しく、ホテルに戻るバスの中の雰囲気は最悪だった。後で理系の連中に話を聞くと物理も同様だったらしい。反対に化学がやさしすぎ、平均点で二倍以上三倍近い差がついてしまったために、最終的には救済措置として「かさ上げ」なるものが行なわれたのだが、この時点では予想もつかず、女の子の中には泣いている連中もいた。

 衝撃を受けたのは生物の先生も同じだったらしく、ホテルでの夕食の席にも姿を見せなかった。次の日の朝食に現れた先生は、明らかに寝不足の表情で、髪の毛が真っ白になっていた。小説なんかで、恐怖のあまり一夜のうちに白髪になってしまうなんて話は読んだことがあったので、生物の試験が難しすぎて我々の点数が悪かった責任を感じてショックのあまり白髪になってしまったのかと罪悪感を感じてしまった。
 そもそも、この先生は新種の植物をいくつも発見するなど、生物学者としても優秀な人でうちの高校で教えているのが間違いのような先生だったのだ。そんな先生を、受験戦争に巻き込んで白髪にしてしまった現実に思わず憤ってしまったのだけど……。
 実は、先生、一晩で白髪になったのではなくて、自棄酒飲んで二日酔いになって、白髪染めを使う気力がなかったのだという。つまり先生はもともと白髪だったのだ。試験の自己採点のために登校したときに、そう打ち明けられて、感動を、じゃないか、俺の怒りを返せと思ってしまった。まあ、先生の白髪の衝撃で、前日のできの悪さを二日目まで引きずらなかったと考えられなくもないのかな。

 九州のど田舎に住んでいた十八年間の雪にまつわる思い出は、これだけなのである。東京に出てからのお話は、また明日、っていうか今日今から書くんだけど、昨日の分で。
1月26日22時。


 なんかよたってるなあ。まあえせだから。1月26日追記。

2017年01月26日

悪夢(正月廿三日)



 最近、夢見がよくない。しょっちゅう見るわけではないけど、見るときには、いや夢を覚えているときにはろくでもない夢であることが多い。いわば悪夢なのだが、悪夢という言葉から想像される生理的な恐怖を感じさせる夢ではなく、言葉を飾れば生活に密着した悪夢、率直に言えば情けない夢、具体的には寝過ごして遅刻する夢を見るのである。ひどいときには、寝過ごして所用に間に合わない夢を見る夢を見てしまう。

 つい二、三日前にも、午前中に予定されていた仕事に、どうやっても間に合わないような時間に目が覚めた夢を見た。やばいと思って目が覚めればいいのだけど、この時には、夢の中で気がついたら午後になっていて、遅刻したことを忘れていて、午前中にすっぽかした相手に、どうしてくれるんだと責められてしまう夢だった。
 先月だったかに、朝七時の電車でブルノに行かなければならなかったときには、夢の中でちゃんと時間通りに起きたのに、なぜかテレビをつけてしまい、テレビに見入っていたら、七時を過ぎてしまっていて、うぎゃ、どうしようと思った瞬間に目が覚めた。最悪だったのが、目が覚めてもまだ夢の中だったことで、オロモウツの駅について電車が出るはずのホームに向かうのだが、いくら歩いてもホームにたどり着かないのである。電車に乗れないことが確定した時点で今度は目が覚め、飛び起きて時計を見たら、まだ五時前だった。本当はもう少し寝たかったのだが、この夢の後ではさすがに、もう一度寝る気にはなれなかった。

 昔のマンガだと、夢の中で小便をする夢を見て、朝起きたらおねしょをしていたなんてのがよく出てきたけれども、トイレ、もしくは小便できる場所を探してあちこち動き回る夢も見ることがある。やっと見つけた夢の中のトイレで小便をしてしまうこともあるが、それでおねしょをしてしまうほど若くはない。多分、この手の夢は、寝ているときにトイレに行きたくなったときに、寝ていることも無意識にわかっているから、小便をしてはいけないという意識が働いた結果、見てしまうのだろう。
 そうすると、寝過ごしたり、遅刻したりする夢はどうして見てしまうのだろうか。寝過ごしてはいけないという意識が強すぎるのかもしれない。そして、寝過ごしてはいけないという意識が強すぎる原因を考えてみると、実生活の中で寝過ごしてえらい目にあったことがあるからではないかと考えられそうである。
 高校時代までは親と同居していたから、早起きが必要なときは、大抵は親にたたき起こされていたから、寝過ごすということはほとんどなかったはずである。せいぜい、オリンピックやサッカーのワールドカップを見るために早起きしようとして失敗したとかそのぐらいだろう。この手の勝もない理由で親に起こしてもらうのは申し訳なくて、自力でおきようとしたはずだし。

 となると、大学に入って一人暮らしを始めてからである。ちょっと思い返したら、すぐに答えに突き当たってしまった。忘れもしない大学一年の一番最初の前期の試験の日に、とはいっても授業時試験で、六月の最後の授業でのテストだったが、大寝坊をしてしまって、一限目はもちろん、二限目のテストも始まっている時間に目を覚ましたのだった。
 第二外国語のドイツ語の試験はどうでもよかったけど、真面目に取り組んでいた「漢文概説」のテストが受けられなかったのは痛恨の極みであった。ショックのあまり、茫然自失である。幸いにも通年の科目だったので、後期の試験で挽回して、最終的にはBをもらえたが、前期の試験を受けていたらAがもらえたかもしれないと思うと、喜びも半分だった。前期のテストを受けていないのに合格して喜びも一入だなんていうようなタマではないのである。

 この科目の試験は、B4一枚分、漢文が白文で印刷されていて、それに返り点、送り仮名などの訓点を施していくというものだった。採点方法は満点の百点からの減点法で、訓点の間違い一ヶ所につき一点ずつ引いていって、零点になった時点で採点をやめるというものだった。「みんな、三行ぐらいで零点になるんだよ、もっと勉強しなさい」なんて前期のテストの結果を受けて、後期の最初の授業で先生が言ってたっけ。合格者が確か、五十人中八人で、前期の試験をすっぽかしたのに何でお前が合格するんだと、同級生に責められた。まあ、こんなのは合格したものが勝ちなのである。
 このとき以来、どうしても朝早く起きなければならない用事があるときには、目覚まし時計を三つセットして、枕元においておくと無意識に止めて寝続けてしまうので、布団から出ないと停められない場所に置くようになった。ステレオのだんだん音が大きくなるという目覚まし機能は重宝したなあ。ラベルの「ボレロ」なんか入れておくと効果は倍増だった。

 それからもう一つ。大学の二年生だったか、三年生だったか、先輩に誘われてどこかの美術館で行なわれた『源氏物語』関係の展示を見に行くことになった。そんなに朝早くから出かけたわけでもないのに、時間通りに起きることができず、目覚まし三つセットしていたはずなのに、目が覚めたら無情にも、先輩が留守番電話にメッセージを吹き込み終わろうとしていた。慌てて受話器をとったものの間に合わず、慌てて着替えてそのまま待ち合わせ場所に向かったのだった。
 あのころは、携帯電話なんて、自動車電話はあったから存在はしただろうけれども、一般の人間が手にできるようなものではなかったから、公衆電話を使うしかなかったのだ。それでも、電話を引いていただけましだったのだ。あれで電話がなかったら、待たせてしまった一時間ではなく、二時間以上待たせて、吹っかけられた無理難題もはるかに大きくなっていたに違いないのだから。

 これが、しょうもない悪夢と、悪夢を見てしまうしょうもない理由である。もう少しひねって、きれいない落ちを付けたかったのだけど、時間もないのでこれでおしまい。
1月24日23時。



2017年01月25日

診察料、あるいはポピュリズムの権化(正月廿二日)



 チェコの健康保険制度は、原則的に診察料の加入者負担がないので、月々一定の保険料を払っていれば、何回病院に行ってもお金を払う必要はない。この手の手厚い医療制度は、共産主義時代の名残なのだろうか。その結果、健康保険のシステムは、国の支援、税金の投入なしには存続できないような状態になっており、病院の経営も悪化し、開業医は過労にあえいでいた。

 そのかなり壊滅的だった状況を打開する最初の一歩として登場したのが、数年前の診察料の導入だった。基本的に市民民主党はまったく支持する気にはなれないのだが(他の政党がまともかと言われれば、目くそ鼻くそと答えるしかないのだけど)、このチェコには珍しい高く評価できる政策を国会で成立させたのは、市民民主党の党首が首班の政府であったと記憶する。
 診察料といっても、日本のように二割負担とか三割負担というものではなく、医者にかかったときに、一律で三十コルナの支払いを求められるようになっただけだ。ただ、医者に行っても払う必要があるときとないときがあって、ある問題で最初に医者にかかったときには求められ、同じ問題で二回目の場合には払わなくてもいいという制度だっただろうか。他にも、救急車で運ばれた場合、つまり急患の場合には九十コルナ、入院の場合には一晩百コルナというものもあった。急患と入院は額が逆かもしれない。

 一人当たりわずか三十コルナとはいえ、それまで保険会社に支払いを請求して支払われるのを待たなければいけなかったのが、診察直後に入って来るお金ができたことで、病院の経営の健全化に寄与し始めていた。また、診察料のおかげで、それまで大したことのない病気で、診察のためというよりは、半分世間話のために医者を訪れていた患者が、一気に減ったことで、一般の開業医に押し寄せる患者の数が減り、医者の仕事が多少楽になるとともに、保険会社が医者に支払う診療報酬も減り、赤字の削減にもつながったらしい。
 保険無しで歯医者にかかって全額支払っても、日本で保険に入っていて支払う金額よりも安かったので、三十コルナの診察料を払うのには全く抵抗はなかった。逆にこんなに安くていいのかと言いたくなるぐらいだった。ただ、医者にかかるのにお金を払わないことに慣れたチェコ人には不評で、社会民主党や、共産党の国会議員たちが、撤廃を求めて法案を国会に提出したり、憲法裁判所に提訴したりするという不毛なことをしていた。

 以前、腎臓結石で救急車で運ばれて、二泊ほど入院したときには、すでにこの診察料が導入されていたので、支払うことになった。支払う段になって、病院の人が信じられないことを言い出した。入院した病院のある南モラビア地方では、救急車で運ばれた分や入院の分も合わせて、この手の診察料は地方政府に負担を求めることができるというのだ。正直、何じゃそりゃである。
 しかも、地方政府が負担する場合には、地方政府からの寄付を受け取るという書類にサインする必要があるという。書類手続きが発生するということは、その書類を処理する仕事が発生するということである。病院側でもお金を受け取って記録するだけだったのが、自分で支払った人、地方政府の寄付を受け入れた人と別々に処理し、寄付を受け取った人に関しては、いちいちサインを求め、サインされた書類を、地方政府の担当部署に送る必要があったはずである。地方政府の側でも、提出された書類をバインダーに挟んでおしまいというわけにはいかなかっただろう。地方政府の負担は、診察料だけではなかったのである。
 これは、南モラビアや中央ボヘミアなどの、社会民主党の政治家が知事を務めていた一部の地方で導入された制度なのだが、社会民主党ではこれを地方議会の選挙で勝つための公約として掲げていたんじゃなかったか。選挙で訴えていたのは診察料を有名無実にするための別の方法で、選挙後それが法律上不可能だということがわかって、この制度になったのかもしれない。とまれ個人が払うべき診察料を地方政府が予算の中から負担するというのは、問題なかったのかね。

 社会民主党の政治家たちが、財務大臣のバビシュを、ポピュリストだと批判するとき、いつもこの診察料のことを思い出して、お前らの言えることじゃねえだろうと考えてしまう。選挙に勝つために、せっかく健康保険がいい方向に回り始めていたのに、その原因となった制度を骨抜きにしようというのだから、これを人気取り政策と言わずして、何を言うのだろうか。バビシュが提言した生ビールの消費税率を下げようというのよりも悪辣で露骨なポピュリズムの発露である。
 そして、社会民主党が中心となった連立政権が成立すると、真っ先にこの診察料の廃止が決められた。急患と入院時のどちらかは、今でも残っているかもしれないが、チェコの医療制度の状況が元の木阿弥に戻ってしまったことは否めない。
 チェコの政党は、バビシュのANOはもちろん、共産党も含め、なべて選挙が近づくと有権者に媚び始めるポピュリズムに犯されているのである。政党間にあるのは程度と方向の差であって、それはもう五十歩百歩としか言いようがない。選挙という制度が、一種の人気投票である以上、人気取りに走ってしまうのは、仕方がない面はあるのだろうけど、だからこそ、選挙に負けた側が相手をポピュリズムという言葉で批判することの滑稽さが増幅されるような気がする。

 えっ? 入院したときの診察料、どうしたかって? もちろん自腹で払ったに決まっている。高々三百コルナ、税金で面倒見てもらうほど落ちぶれた覚えはねえや。オロモウツ地方在住で、南モラビア地方の財政には全く貢献していないはずの人間が、もらっていいものでもなかろうということも考えたけどね。
1月23日23時30分。


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2017年01月24日

ダビット・ラート、あるいはチェコの政治家の一典型2 (正月廿日)



承前
 チェコの国会議員も、日本の議員と同じで、在任中は起訴されないという特権を持っている。ただし、国会で審議して可決されれば、捜査が継続し起訴されその間は収監されることになる。以前は庇い合いで起訴を免れている間に高飛びするような輩もいたようだが、近年は国会の特別委員会で起訴が認められることが多い。
 ラート氏の場合に、特徴的だったのは特別委員会で自らを起訴の対象として国会議員としての特権を剥奪することを求めたことで、一聞潔いと評価したくなったのだが、数時間にも及ぶ自己弁護の演説の果てのことだと聞いてその気は失せた。この一見関係ないことまで取り込んで、すべてを引き伸ばすというのがその後のラート氏の戦略となる。裁判で被告になった政治家や実業家の常套手段だといえばその通りであるけれども。
 理解できないのは、保釈が認められるまでの収監されていた期間、国会議員としての仕事はまったくしていなかったにもかかわらず、議員としての給料以外に、政治家としての活動に使うことが前提になっているはずの歳費の支払いを求めて大騒ぎしていたことだ。逮捕などで政治活動をしていない国会議員に歳費を支給するかどうかは、明確に定められておらず、ラート氏の件がきっかけとなって収監中、服役中の分に関しては、支給されないというルールが作られたんじゃなかったかな。

 裁判が始まるとラート氏は、さまざまな口実で裁判の引き伸ばしを始めた。サイクリング中に自転車から落ちたとか、多少の怪我があるようには見えたが、裁判に出られないほどではないようだったし、医者がそんな仮病を使っていいのかと言いたくなるほどだった。
 弁護士が自分の求める仕事をしないと言って解任したり、解任した弁護士が自分の求める仕事をしないと裁判に訴えたり、最初に一瞬見せた潔さは何だったんだと言いたくなるような悪あがきを続けた。そのあがきもむなしく2015年に第一審の判決が下りて、懲役八年で刑務所に入ることになった。これで終わってしまったらラート氏ではないわけで、当然第二審に控訴して、さらに何年か裁判が続くことが確定した。

 刑務所の中でもおとなしくしているわけがなく、囚人の生活環境が悪く、人権侵害だと大騒ぎをしていて、懲りない人だなあと思っていたら、やっていたのはそれだけではなかったようで、控訴審でラート氏の控訴が棄却された後、突然、ラート氏の裁判で検察側の主張の根幹部分の一つとなっていた携帯電話の盗聴の記録が、彰子として認められないという判決が下りた。どういう裁判で、どんな文脈の中で出てきた決定なのかはよくわからないのだが、検察側は、今後盗聴を証拠とせずにラート氏の有罪を立証しなければならなくなったようだ。
 司法関係のことは日本語である程度噛み砕いて説明されてもよくわからないので、チェコ語でなんてちゃんと理解できるはずもないのだけど、わかった範囲で言えば、どうも盗聴の際、もしくは盗聴の結果を証拠として提出する際の手続きに不備があったということのようだ。法務省や検察の人々は不備などあるはずがないと、判決に対して不満の声を上げていたけれども、このまま行くとラート氏が無罪放免ということになる可能性もないわけではないようだ。それどころか、本人の主張どおりに冤罪ということで、国から多額の賠償金をむしりとれる可能性も出てくる。

 チェコの裁判所には、司法マフィアとも言われるような存在があって、特に経済事件なんかの判決や決定の際に、一方的な判断が下されたと批判されることもあるのだが、この件でもその手の裁判官が絡んでいるのだろうか。何年か前にどこかの地方で、裁判官が何人も摘発される事件があったような気がするけど、氷山の一角なんだろうなあ。
 ラート氏は、この事件は、ラート氏を陥れたがっていた勢力と検察の中の一派が手を組んででっち上げた事件だと主張している。それに、チェコの警察は、意外と頑張っていて、政治家の汚職を摘発することが多いのだが、昨年の夏まで警察内にあった二つの組織が、お互いに張り合うように捜査をして、相手側の人間を摘発の対象にすることがあったらしい。ただし、二つの組織の運営に問題はなかったのを、政治家の摘発が続くことにうんざりした政治家たちが、強引に一つの組織に統合してしまったという話もある。検察、警察という組織にも問題があるということか。裁判所の件も含めて、外国人にはうかがい知れぬチェコの司法の闇なのである。

 最終的に、無罪になるにせよ有罪になるにせよ、ラート氏には、最初にワインだと称した大金の出所と使用目的を明らかにする義務があるだろう。百万(ミリオン)の俗語として使われるスイカ(メロウン)とでも答えていれば、冗談にできたのだろうけど。日本でもロッキード事件だったかな、のときに受け取った賄賂のことをピーナッツと称したとかいう話があったなあ。世の東西を問わず、政治家なんてこんなものってところか。
1月23日14時。



 所要でブルノに出かけ、行き帰りの電車の中で書いていたのだが、完成直前で、タッチパネルに変な接触をしたらしく、突然ワードが終了してしまい、最後の部分が消えてしまった。思い出し思い出し再現したのだけど、何かがまただ里ないような気がしていけない。1月23日追記。

2017年01月23日

ダビット・ラート、あるいはチェコの政治家の一典型1(正月廿日)



 この元厚生大臣は、政治家としての登場のしかた、退場のしかた、それにその後の悪あがきまで含めて、チェコの政治家のあまりよくない意味での一典型である。
 もう十年以上前になるだろうか。当時ラート氏は、医師会だったか、何だったか正確には覚えていないが、医師の団体の会長だった。つまりは本業は医者だったのである。厚生省の政策に対して医師としてあれこれ反対の意見を述べていたのが、この人物がメディアに登場し、一般のチェコ人にまで知られるようになったきっかけだったと記憶する。

 それが、当時の総理大臣、確か社会民主党のパロウベク氏と、なぜか意気投合して、厚生大臣に就任することになった。ただし、党内の反対が大きかったのか、手続き上ラート氏に大臣に就任する資格がなかったのかよくわからないが、大臣は無理だということになり、政治家の役職である大臣を除いた省内のトップ、日本の事務次官のような役職に就任してしまった。
 本業が医師の国会議員が、厚生大臣になるのはチェコではよくあることなので、大臣にしようというのはまだ納得できたのだが、それまで厚生省でまったく仕事をしたことのない人物が、事務次官のようなものになるのには、疑念が起こるのを禁じえなかった。友人にいいのかと聞いたら、チェコだからという答えしか返ってこなかった。
 しかも、ラート氏は社会民主党のノミネートで厚生省の役人になったのだ。ということは、チェコには、官僚に不党不偏を求めることはないということなのか。いや、むしろ各省庁の上のほうにいる役人を任命するのは、大臣、つまり政権与党の権利だと考えられているふしもある。日本だって、不偏不党の建前はあっても、官僚の中には特定の政党のシンパはいるわけだから、特定の政党に属していたり、支持したりしていることを公言するかどうかの違いに過ぎないのだろう。

 医師会の総会か何かで、対立する人物と演説を通して罵詈雑言の投げ合いをやったのもこのころだっただろうか。お互いに、相手を「弱虫」「臆病者」という言葉をキーワードに罵倒し、最後は腹に据えかねたラート氏が、「俺は臆病者じゃないから」とか言いながら、演台に立って演説中の相手の頭を、後ろから引っぱたいたんだったか、その逆だったか。とまれ、このときのビデオは、世界中に広まり、クラウス大統領の署名のペン窃盗事件のビデオが世に出るまでは、チェコの政治家が関係するニュースとしては、世界でもっとも有名だったはずである。
 その後、ラート氏は社会民主党から国会議員の選挙に出馬し、当選、晴れて厚生大臣になったんじゃなかったか。この辺の時系列が正確には思い出せない。その次の下院の選挙で社会民主党が大敗し、下野したときもラート氏は、国会議員であり続けた。そして、国会議員でありながら、党の地方選挙にも力を入れるという戦略に基づいて中央ボヘミア地方の議会選挙で、社会民主党を勝利に導き、そのまま中央ボヘミア地方の知事に就任してしまった。このときには、南ボヘミア地方や南モラビア地方でも、国会議員と兼任の知事が誕生し、批判の対象になっていた。ただそこまで批判の声が大きくならなかったので、議員と知事、どちらかを選べということにはならなかった。

 順風満帆にみえたラート氏の政治家としてのキャリアが暗転したのは、2012年のことだった。翌年に下院議員の選挙を控えて、言動が活発化していたラート氏が突如警察に逮捕されたのだ。中央ボヘミア地方の管轄する病院の改築に関して、建設業者から賄賂を受け取っていたというのである。ほかにも補助金関係での疑惑もあったかな。賄賂自体には驚かなかったが、現職の国会議員が逮捕されたのには驚いた。
 逮捕の状況は、後に一緒に起訴された関係者宅から、箱をもって出てきたところに警察がいて、中身を問われて、「ワインだ」と答え、警察に「じゃあ開けてみましょう」と言われて開けたら札束だったことらしい。手に持った箱ではなくて、車のトランクに積んだ箱だったかもしれない。裸で持ち歩くには、少々どころではなく大きすぎるそのお金が、業者から受け取った賄賂で、関係者に分配しているところだったのだろうか。警察では、かなり前から内定を進め、携帯電話の盗聴などで証拠を集めて逮捕に踏み切ったらしい。

 ラート氏は当初から冤罪を主張し裁判ですべてを明らかにするとか言っていたがこの件がどう解釈すれば冤罪になるのか、さっぱり理解できなかった。むしろ、疑惑は社会民主党が党ぐるみで翌年の下院選挙に向けてなりふり構わず資金集めをしているのではないかというところにあった。ラート氏を切り捨てることで、その疑惑の打ち消しに成功したのか、下院選挙で社会民主党は第一党に返り咲くことになる。この結果は、社会民主党が勝ったというよりは、市民民主党のネチャス首相が政権を放り出し支持を失った結果と言ったほうがいいかもしれない。

 予定より長くなったので、切りはあまりよくないけど、ここで一休みして、以下明日である。
1月21日22時。


2017年01月22日

ミー・チテナージ(正月十九日)


 最近自転車操業である。つまり各記事の題名の後の名目上の日付と、末尾の一応の完成を見た日時がずれていることからもわかるように、書き上げるのが遅れ気味である。いや、正確には書き始めるのが遅れているのである。それは、前の分が遅れているからおせおせで次も遅れるという面もあるけれども、何について書くか決めかねているうちに、書き始められないまま寝床に向かってしまうのも大きな原因である。そして、翌日にえいやで、どんなことが書けるかもあまり考えないまま見切り発車で書き始めるのも、書くのに時間がかかりすぎる原因である。
 書けることは、多分まだまだある。ただそれを思い出せないのが問題である。昨日の「スラブ叙事詩」の話だって、書きながらなんで今まで書いていなかったんだろうかと不思議に思ってしまったぐらいだ。ここで書いた理由は、アジアツアーをめぐって裁判が起こされたことがニュースになったからである。ピルスナー・ウルクエルのコマーシャルについて書いたときに、どうしてモチーフの一つとなっているムハと「スラブ叙事詩」について書かなかったのか、自分でも首をひねるしかない。

 以前、チェコ語の発音について、これでわかってもらえるのだろうかと疑念を持ちながらも、延々と描き続けたのは、自分のアイデアではなかった。当時サマースクールでチェコ語を勉強していた知人に、発音について書いてほしいと言われて、書き始めたら収拾がつかなくなったのだった。二月の末にこの方に、ブログの存在を教えて以来、十人内外の方々に教えてきたけど、内容についてリクエストされたのはこのときだけである。
 そうか、自分でテーマを思いつけなければ、人に考えてもらえばいいのだ。三人寄れば文殊の知恵ともいうわけだし。定期的に読みに来てくれている人が、どれだけいるのかはわからないけど、モーツァルトがプラハ市民に呼びかけたように、「読者?」の方々に呼びかけてみよう。真似するのは呼びかけの部分だけね


ミー・チテナージ(我が読者の皆様)

 もし、チェコ関係、チェコ語関係で、こんなことを知りたいとか、ここがわからないとか、こんな話を読みたいという要望があれば、コメント欄に書き残していただけないでしょうか。もちろん、要望を寄せられても、能力的に書けないというものも出てくるかもしれませんが、できる限り調べてでも書きますので。我が正体をご存知の方はメールでお伝えくださってもかまいません。伏してご協力、お願い申し上げます。
平成丁酉正月廿日
筆者識


 うーん、ごた混ぜだな、こりゃ。いつもの文章もあれこれ混ってるっちゃあ混ざってるけど。
 とまれ、この計画が発動したからといって、要望が出てくるとは限らないし、出てくるにしても時間はかかるだろうから、しばらくは、自転車操業が続くのだろう。それだけでなく、この記事のように、何とか頑張ってA4一枚分埋めようと、無理やり引き延ばした記事も増えてしまいそうだ。
 さて、明日の分は、いや今日の分は何にしようか。
1月20日17時。
posted by olomoučan at 07:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ
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チェコとスロヴァキアを知るための56章第2版 [ 薩摩秀登 ]



マサリクとチェコの精神 [ 石川達夫 ]





















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